原作アニメ比較 3

鬼蜘蛛から奈落へ
アニメスペシャル2001年4月9日
「奈落の真実に迫る桔梗の魂」前半

原作少年サンデー1998年4月15日(20号)第69話「気配」
原作少年サンデー1998年4月22日(21,22合併号)第70話「再会」
原作少年サンデー1998年5月6日(23号)第71話「奈落」
原作少年サンデー1998年5月13日(24号)第72話「目印」 
   
       ☆          ☆          ☆

今回のアニメは1時間スペシャルだが、上記のアニメタイトルを2つに分けると、ちょうどアニメも前半後半に分かれるので、今日は「奈落の真実に迫る」の部分を書いてみたい。
奈落の真実に迫るのは、実は桔梗ではなく犬夜叉達なので、このタイトルはおかしい。

またアニメでは、いきなりかごめが夏服で登場する。
かごめは時代は違えど、同じ所を行ったり来たりしているのだから、原作どおりで良かったのではないかと思う。
現代が舞台となるアニメ12話「タタリモッケ」を考慮したのかもしれないが、あれは「タタリモッケ」の方が特殊な設定なのだから。

北条君とのやり取りで、アニメ版かごめは「どうしたの?おっかない顔して。」と言われている。
原作では「どうしたの?ボ〜ッとして。」である。
ここで、アニメ版かごめがどのように設定されているかがわかり、物悲しい気持ちになった。

この後かごめの「胸が苦しくなってきた。」から、「日暮、速いな・・・。」の部分の大幅カットは非常に残念。
北条君の本領発揮!といったいい感じのエピソードだったのに。
一方、狼野干との戦いに苦しんでいる犬夜叉達。
犬夜叉は、殺生丸に受けた傷が癒えていない上に、たしかにかごめがいないことも影響しているのだが、そこで楓がまたまた解説「かごめがいないと犬夜叉は本来の力を発揮できないようだ。」

かごめが帰って来て、俄然強くなる犬夜叉を見たときの感激が薄れる一言、楓らしからぬ言動が続く。
弥勒の「仲良くなっているのです。」もあっさりカット。
ついでに、後で奈落と弥勒の「じいさんに似て女好きそうな顔しているな。」「私の顔のことなどどうでもよい。」の応酬もカット。

高橋先生ならではの言葉のセンスを消して、別の言葉を付け足すのはなぜだろう。
話がちょっと前後した。
かごめが戻り、狼野干を倒して初めて奈落が登場する。

奈落が語る鬼蜘蛛から奈落が生まれたいきさつ、鬼蜘蛛は家中宏さんが務める。
原作よりややこしいなあと思って聞いていたら、(なにしろ「幼稚な情欲」などと言う)奈落がいきなり犬夜叉にとんでもない正論を叩きつけた。
想い合っていたはずなのに、まんまと奈落の策略に乗り、信じ切れずに「お互いを殺そうとする怒りのみが真実。」と。

殺す云々はともかくとして、奈落の言葉は正しい。
ただしその後、桔梗の四魂の玉の対処のところから、原作に戻ってしまったので残念だった。
これでは桔梗は大きな矛盾を抱え込んだまま死んでいったことになってしまう。

アニメではここで犬夜叉は「四魂のかけら」にこだわる。
しかし、この時の犬夜叉の怒りは桔梗のための、もっと純粋な怒りだったのではないだろうか。
また、これは原作もそうだが、弥勒が四魂のかけらを見つけることができなくなっていることに疑問が残った。

それでも犬夜叉vs奈落の戦闘は迫力満点。
ところが最後にかごめがいったん現代に戻ろうとするのを、犬夜叉が引き止めるシーンがカットされてしまった。
裏陶戦の帰り道での会話もそうだが、犬夜叉がかごめを大切な存在として認め始める大事な台詞、「桔梗のことは忘れちゃいけねえ・・・ でも・・・ やっぱり・・・かごめにそばにいてほしい・・・」それがない。

これでは犬夜叉は桔梗しか見ていないことになる。
それがアニメ版の意図することなのか、どうしてそうなったのか。
犬夜叉をめぐる桔梗とかごめの関係は「犬夜叉」の大きなテーマのひとつである。

低年齢層の視聴者には、3人の微妙な関係は理解できないとでも思ったのか。
アニメは別物との自信があるから、あえて新しい設定にこだわったのか。
しかしこの後のアニメを見ていくと、原作を知らずに見ていても、首をかしげる展開になっていくのもまた事実。

「文句ばかり言ってるくらいなら見なきゃいいのに。」と思われるかもしれないが、それでも毎週月曜日夜7時を待ち望む気持ちに変わりはない。
私は原作もアニメも大好きなのである。
その気持ちをわかっていただけるだろうか・・・、ちょっと不安になってきた。

ところで今回かごめの神社の鳥居が大きく描かれていた。
前に何かで鳥居を見れば、その神社がどういう神社かわかる、というのを読んだことがある。
また、何を祀っているのかも是非知りたい。

桔梗の頃からあったから、まさか犬夜叉を祀っているわけではあるまい。
どういう系統の神社かがわかれば、日暮神社のモデルを探しやすくなると思うのだが、今のところこれはと言った資料を見つけていないのでどうしようもない。

あきらめないで探してみるつもりではあるが、いっそどこかの神社に直接聞きに行ってみようかしら・・・?
(2002年12月8日の日記)
桔梗の闇
アニメスペシャル2001年4月9日
「奈落の真実に迫る桔梗の魂」後半

原作少年サンデー1998年5月20日(25号)第73話「死魂」
原作少年サンデー1998年5月27日(26)第74話「救われぬ魂」
原作少年サンデー1998年6月3日(27号)第75話「桔梗の結界」
        
       ☆          ☆          ☆

アニメスペシャル後半「桔梗の魂」の部分。
弥勒、七宝、姫の掛け合い漫才など、笑わせどころはあるが、話自体は桔梗をメインに静かに進んでいく。

ある村にたどり着き、そこで暮らす桔梗。
子供たちに囲まれ、生前に戻ったかのような穏やかな生活。
だが旅の僧侶、晴海に死人(しびと)であることを見破られてしまう。
晴海に背を向け、歩み去る桔梗だが、原作の沈黙が桔梗の独白に変わっている。

死人である自分の体のぬくもり、それは怨念の炎、と犬夜叉への愛憎の気持ちを口にする。

このまま犬夜叉に会わなければ、桔梗はこの村で静かに暮らすことができるのか。
そうではないことは、誰よりも桔梗が知っている。

原作の「もう少し(小夜と)一緒にいてやりたかったけれど・・・潮時か・・・」という桔梗のつぶやきは、永住の場所などないことを知っているからこそ出てきた言葉だろう。
晴海に正体を知られたからではない、桔梗が死人だからである。

桔梗が物を食べるシーンはないが、もし死人の体が食べ物を受け付けなければ、もし怪我をしてもそこから血が出てこなければ、何よりもいつまでたっても年をとらなければ、人は桔梗を怪しみ、その正体に気付くだろう。
そうなる前に、そこを離れる。
それが桔梗に定められた生活なのである。

そして今の桔梗は犬夜叉と共に死ぬためだけに生きている。
死魂虫を操り、死んだ娘たちの魂で生き長らえている桔梗は美しいが、もしこれが現実ならばやはり桔梗自身の言うとおり、おぞましい姿として目に映るだろう。

晴海の「おぬしの魂救ってしんぜる。」との言葉に怒りを爆発させ、桔梗は晴海を殺す。
しかし桔梗が「おまえごとき」と軽んじた晴海は、桔梗を憐れみながら死んでいった。
「生きている者たちは、新しい時を刻んでいる、しかし死人のおぬしの時は止まっている・・・。
決してまじわることはできぬというのに、憐れな・・・。」
晴海の言葉は桔梗の心を深くえぐる。

桔梗の闇は深い。
波も立たない、底知れぬ沼。
その中でかすかに輝いていた小夜でさえも、桔梗の正体に怯える。
傷ついたのは桔梗だろう。

晴海を怒りにかられて殺してはいるが、今回の桔梗の物語は、あくまでも暗く、重い。
桔梗の激情が本当に爆発するのは、次の回である。
桔梗が生きている事を知った犬夜叉が桔梗を追う。
そして死魂虫に導かれたかごめもまた、後を追う。

今回のアニメスペシャル、前半に比べて後半は本当に素晴らしかったと思う。
弥勒達のお笑いシーンなど、手を加えているのに原作以上に笑えたし、和気あいあいで楽しく過ごす犬夜叉達との対比が、桔梗の闇をより濃いものにしていた。

だが犬夜叉、かごめはこれから桔梗と会うことになる。
もう犬夜叉もかごめも、仲良くかけら探しをしているだけではすまなくなってくる。
これからアニメを見るうえで大切なこと。
前回書いたが、アニメでは犬夜叉がかごめを大切な存在として意識するシーンは、ことごとくカットされている。
そこがどのように作られていくかが大きな課題となってくる。

原作どおりに作って欲しいと願う私にしてみれば、そこに大きな不安が残る。
しかし今回のアニメを見る限り、そんな不安は杞憂に過ぎなかったかもしれないと、少し安心した。

そう、本当に安心していたのである。
次回のアニメを実際に見るまでは・・・。
(2002年12月9日の日記)
犬夜叉、かごめ、そして桔梗
アニメ第23回放送2001年4月16日
「かごめの声と桔梗のくちづけ」

原作少年サンデー1998年6月10日(28号)第76話「死の匂い」
原作少年サンデー1998年6月17日(29号)第77話「かごめの声」
原作少年サンデー1998年6月24日(30号)第78話「やさしい匂い」

       ☆          ☆          ☆

犬夜叉、かごめ、桔梗が初めて顔を合わせる大事なエピソード。
(裏陶の回でも一緒になっているが、その時は、かごめか桔梗かどちらかが意識のない状態だった。)
当然、最初から最後まで、ほとんどこの3人で通すし、顔のアップも多い。
なのに、始まってすぐ愕然とした。顔が違う、まるで別人。

これでは感情移入などできないし、顔が気になって話はどうでもよくなってくる。
それでも我慢して見た。はっきり書くが、我慢して見たのである。
最初に桔梗の元にたどり着いたのはかごめ。
桔梗の死魂虫で木に縛りつけられ、身動きできなくなる。

同時に、後からやってくる犬夜叉にはかごめの姿が見えなくなる。
桔梗は「(犬夜叉は)お前を助けにではない。私に会いに来るのだ。」と言い放つ。(原作通り)
だがよく考えてみると、犬夜叉は、かごめが桔梗に囚われている事など知るはずがない。
来たところでかごめがそこにいるとわからないのだから、助けるも何もない。
ずいぶん勝手な言い分である。自己中心的な感じがする。

原作では同じような恨み言を並べていても、桔梗の表情はどこか哀しい。
だがアニメでかごめに向き合う桔梗からは憎しみしか感じられない。
やがてやってきた犬夜叉と桔梗が相対する。
「おれは一日だっておまえを忘れたことはなかった!」犬夜叉の叫び。
一瞬たじろいだ桔梗が犬夜叉に寄り添い、触れ、くちづけし、抱きしめる。

そして意識のなくなっ犬夜叉を、桔梗は地獄にいざなおうとする。
恨みを晴らすためではない、地獄で共に生きるためである。
ゆがんだ形ではあるが、桔梗なりの愛の表現。
ここでかごめに「犬夜叉を取られちゃった。」などと言わせているが、犬夜叉がかごめを意識するシーンをことごとくカットしておいてそれはないだろう。

アニメでのかごめは、犬夜叉と桔梗の恋の障害ですらない。
結局かごめの魂が、再び桔梗の魂を上回り、犬夜叉は意識を取り戻す。
ここで犬夜叉にかごめの声が届くのは、犬夜叉の中にかごめへの想いもあるからだとずっと思っていた。
しかしこの展開では、単にかごめの魂の方が強かっただけと解釈するより他はあるまい。

桔梗の「その女の方が・・・大切なのか・・・」の言葉に2人して顔を赤らめるシーンの挿入など、愚の骨頂である。
そして桔梗は去り、アニメではかごめも現代に戻ってしまう。
ここからが大事な場面なのだが、原作ではかごめは現代に帰らない。
かごめ自身が犬夜叉に、犬夜叉の気持ちを問いただす。
そして犬夜叉の気持ち、「桔梗もかごめも別人として、しかし両方とも同じくらい想っている」を受け入れる。
いわゆる二股ではあるが、かごめは犬夜叉の苦しい気持ちを理解している。

犬夜叉の背中にもたれ、かごめが眠り込んだのも知らず、犬夜叉は心につぶやく。
「やさしい匂いがする・・・」
そして話し続ける。
「かごめ、おれ・・・おまえの笑顔が好きだ。
なんか・・・お前と一緒にいると、ホッとするってゆーか・・・」
私の大好きな場面である。
犬夜叉も、かごめも1カットごとの表情が、泣きたくなるほど優しい。

一方アニメでは弥勒と七宝にかごめと桔梗のどちらを取るか、選択を迫られた犬夜叉が、やはり「両方」と答え、「荷物が気になって」戻ってきたかごめの「おすわり」を喰らう。
こちらの二股は、桔梗は愛のため、かごめはかけら探しの必要性のため。
この時のかごめに「やさしい匂い」など感じられない。
ここで「池田アニメ」の方向性を確認できたような気がした。
監督自身が桔梗というキャラに思い入れが深いようなので、桔梗の描写に重点が置かれるだろうとは思っていたが、この3人の位置関係をここまで変えてしまうとは、夢にも思っていなかった。

池田アニメにおいては桔梗は犬夜叉にとって恋人であり、かごめは同志、パートナーなのだ。
しかしこの時点ではそれも通用するかもしれないが、このままではどんどん原作から遠ざかってしまう。
これからどう修正していくのか、ある意味見どころではあるのだが・・・。
(2002年12月10日の日記)
妖怪退治屋珊瑚登場
アニメ第24回放送2001年4月23日
「妖怪退治屋珊瑚登場!」

原作少年サンデー1998年8月19日(38号)第85話「犬夜叉の心」
原作少年サンデー1998年8月26日(39号)第86話「退治屋」
原作少年サンデー1998年9月2日(40号)第87話「罠」
原作少年サンデー1998年9月9日(41号)第88話「砦の中」
        
       ☆          ☆          ☆

犬夜叉、かごめ、弥勒、七宝に続き、妖怪退治屋珊瑚がいよいよ登場。
本当はその前に、「桃果人」のエピソードが入るのだが、後回しになった。
早く珊瑚を出したいのかと思っていたが、桃果人があまりにもグロテスクなシーンが多く、テレビアニメとして消化しきれていなかったのかもしれない。
結局桃果人はずっと後になって前後編のスペシャルとして放送された。

桃果人を倒した直後に、犬夜叉と弥勒が桃果人戦を踏まえて「四魂の玉の妖力」について話し合うが、そのシーンが挿入された他は、ほぼ原作通り。
珊瑚の初登場シーンも和田氏の音楽に乗せて、女性でも惚れ惚れするようなかっこ良さ。
今だから白状するが、初めて珊瑚役の桑島法子さんの声を聞いたとき「ずいぶん落ち着いた声の人だな。」と違和感を覚えた。
無意識のうちに、もっと気の強い感じの声を予想していたのだと思う。

しかし後になって犬夜叉一行に合流した時、ようやくわかった。
犬夜叉、かごめ、七宝がけっこうにぎやか系なので、弥勒と珊瑚が落ち着いた低めの声で、ちょうどバランスが取れるのである。
これが珊瑚までキャピキャピしていたら、正直うるさかったかもしれない。
実際、珊瑚の凛々しさ、精悍さの中に隠れた女らしさ、純情ぶりなどが、桑島さんの声でほどよく表現されていると思う。

私の中で鋼牙に次いで、アニメで魅力度がアップしたキャラである。
(見たのは珊瑚の方が先だが)。
悲運の弟、琥珀役は逆髪の結羅に続いて2度目の登場の矢島晶子さん。
今回はとりあえず死んだことになっている。
そしていよいよ奈落と人見蔭刀が交代する。
珊瑚の大事なパートナー、猫又の雲母も登場するが、雲母に関してはまた別の日に書きたいと思っている。
(2002年12月12日の日記)
手負いの珊瑚
アニメ第25回放送2001年5月7日
「奈落の謀略をうち破れ!」

原作少年サンデー1998年9月16日(42号)第89話「木乃伊」
原作少年サンデー1998年9月22日(43号)第90話「仇」
原作少年サンデー1998年9月30日(44号)第91話「疑惑」
原作少年サンデー1998年10月7日(45号)第92話「謀略」 
原作少年サンデー1998年10月14日(46号)第93話「傀儡」 

       ☆          ☆          ☆

手負いの珊瑚は奈落に騙され、仲間の仇と犬夜叉を襲う。
珊瑚の回想や夢のシーンを細かく入れた丁寧な作り。

「木乃伊」の部分は次回に回されたが、今回は原作に真っ向から挑んだ感じがする。
真っ向過ぎて、犬夜叉が弥勒が死んだと勘違いするところまで大まじめに作ってしまったのはちょっと残念だったが。

「木乃伊」は当て字らしい、「ミルラ」という没薬が語源とされる。
珊瑚の誤解は解け、奈落こそが共通の敵であることが判明するが、奈落はかごめと珊瑚の四魂のかけらを奪い取り、逃げ出す。
追う弥勒、雲母、そして犬夜叉、かごめ、珊瑚。
迎える奈落は突然巨大化する。

巨大化と言っても、なんと説明したらいいのか、甥っ子などは「たこ奈落」と呼んでいたが、たしかにたくさんの触手を伸ばし、斬っても斬っても再生して襲いかかってくる。

これhs傀儡の術といい、奈落は離れた所にいて分身を操っていたのである。
「傀儡」は、中国に古くから伝わる人形劇「傀儡戯」からとったものだろう。
上から糸を使って人形を動かす、日本でいう「操り人形」である。

「かいらい」と読めば陰の黒幕に操られ、舞台(あるいは政治)の表面で踊らされる人間(あるいは政治家)を指す。
なんとか偽の奈落を撃退した犬夜叉達であるが、四魂のかけらを取られた珊瑚は激痛に耐え切れず倒れ込む。
珊瑚を退治屋の里に連れ帰って後、木乃伊の話が始まるのだが、それは次回のこととなる。

もうひとつ、この回では奈落がついに人見蔭刀と入れ替わる。
アニメでのみ蔭刀本人が登場したわけだが、病弱ながら父が妖怪化していることを見破り、一刀のもとに切り捨てる剛毅さ、珊瑚を気遣う優しさなど、印象深いキャラだけに、「知らないうちに」入れ替わってしまったのが残念でならない。
アニメでその辺をもう少し描き込んでくれるかと期待していたのだが・・・。
蔭刀の魂もまた、無明の闇をさまよっているのだろうか。
(2002年12月13日の日記)
四魂の玉
アニメ第26回放送2001年5月14日
「 ついに明かされた四魂の秘密」

原作少年サンデー1998年10月21日(47号)第94話「玉の誕生」

          ☆          ☆          ☆

退治屋の里で珊瑚の回復を待っていた犬夜叉達が、初めて鍾乳洞に入り、翠子の木乃伊(ミイラ)と対面する。
そこで四魂の玉の由来が語られるが、オリジナルを加えた分、非常に難解なストーリーになった。
まず四魂 の意味が説明され、弥勒が「神道(しんとう)のひとつ」と言っているが、これは「古神道」の考え方。

四魂、つまり4つの魂は、誰もが持っているものである。
そのうち荒魂(あらみたま)は、良い方に進むと「勇」になり、悪い方に進むと「争」になる。
簡単に言うと、良い方に進むと勇猛果敢な気質になるが、悪い方に進むと、争いや揉め事を起こしやすい気質となる、とでもいったところだろうか。
和魂(にぎみたま)は、「智」であり、その逆は「悪」である。
奇魂(くしみたま)は、「親」であり、その逆は「狂」。
幸魂(さきみたま)は「愛」であり、その逆は「逆」となる。

この四魂をまとめる役目を持っているのが「一霊」と呼ばれる。
弥勒の言う「直霊(なおひ)、曲霊(まがつひ)」は、この一霊の状態をさす。

勇、智、親、愛に近い安定した状態ならば「直霊」であり、何らかの影響で争、悪、狂、逆に近づいていけば、魂は不安定な状態となり、「曲霊」になる。
そして「魔」に魅入られやすくなる。

しかし普通の人間は、四魂が争、悪、狂、逆に近づいていったとしても、完全に自我を失い、破壊行動に走ったりはしないという。
なぜなら人間は「理性」を持っているからである。
魂が限りなく曲霊に近づいていったところで、必ず少しは直霊の影響が残り、崩壊を食い止める。
ならば妖怪が巨大化するためのつなぎとして使われた(翠子に懸想した)男、そして桔梗を得るために、自ら妖怪を呼び寄せ、体を喰らわせた鬼蜘蛛こそが、曲霊そのものだったのだろう。

ただ、鬼蜘蛛(奈落)が自ら体を差し出したのに比べ、「翠子をひそかに慕っていた」だけで妖怪たちに取りつかれてしまったもう一人の男、ある意味哀れな存在である。
「邪心を持った人間」で片付けられているところがいっそう哀れを誘う。
ところが、アニメでは、このつなぎとされた男のことが削除されている。
必然的に犬夜叉、かごめが奈落と桔梗の運命に思いをめぐらせ、犬夜叉が四魂の玉の因果を断ち切ると宣言するところもカット。

ここは「犬夜叉」の根本的なテーマではなかっただろうか?
しかもその後、わざわざ四魂のかけらを持った冥加が雲母と共に、翠子の元を訪れる。
ミイラ化した妖怪達の魂が蘇り、雲母と冥加に襲いかかる。
苦しむ雲母、そこで冥加は幻覚を見る。

翠子の魂までが蘇り、妖怪を一刀両断して雲母を助けるが、翠子と思っていたその姿は実は犬夜叉だった。
言いたいことは何なのだろう。
実は犬夜叉こそが翠子の生まれ変わりだった?そうではあるまい。
まさか雲母(またはその先祖)が昔、翠子の家来だったと言うことが言いたくて、こんなに力を入れたシーンを挿入したわけでもないだろう。

と言うのは翠子の実体化は、原作では描かれていない。
高橋先生が翠子の下絵を描いておられるから、翠子の実体化を認めてはいらっしゃったのだろう。
だが高橋先生が、原作で翠子を登場させていない以上、アニメでも翠子をこれ以上細工できないことは明白である。
もし翠子が原作で再登場するとすれば、それは「犬夜叉」も終盤、結末に向けて一気に加速する時だろう。

その時今回のアニメの謎も解けるかもしれない。
雲母の翠子家来説にも問題がある。
巫法札合戦の「猫又の炎」でも、雲母の先祖が翠子に従ったと書いてある。
だが犬夜叉達が去ったあとの、雲母の様子を見れば、雲母本人(本猫?)であったことは疑いの余地がない。

ここで、別の疑問が生じる。
翠子→桔梗→かごめ、あるいは翠子→かごめの生まれ変わり説。
もしかごめが翠子の生まれ変わりならば、雲母にはわかったはず。
猫がそこまで霊感が強いとされるからこそ猫又(化け猫)伝説も生まれた。

しかしかごめに対する最初の反応を見れば、雲母とかごめは結びついてなどいないことがすぐにわかる。
いつの日かのオリジナルの伏線のつもりならば、もう少し考えて設定していただきたいと思う。
生まれ変わりと言えばもうひとつ、翠子はなぜここにいるのか?
遠い昔の退治屋たちがここに運んできたわけではないらしい。

ここに翠子の死体があり、雲母(あるいはその先祖?)が墓を守っていただろう。
そこに住み着いた人々が退治屋になった。
翠子が戦った場所、むしろ桔梗の村にあったほうが自然ではないかと思った。
なぜ人里離れた山奥で、翠子がわざわざ戦ったのか。

それともかつてはそこにも村があり、神社があり、人々が翠子に守られて住み暮らしていたのか。
疑問は膨らみ、想いは尽きない。
ちょうど今週のアニメで、本物の四魂のかけらを作るために、犬夜叉達の魂が必要となっていた。
犬夜叉達は5人いるのに、魂は4つ。
振り分けに苦労した様子がうかがえたが、この翠子のエピソードでもまた別の分け方をしている。
その週ごとのアニメを作るのに精一杯で、昔の作品を振り返る余裕がないのだろうか。
できたものをあれこれ批評するのは簡単だが、作る立場を思いやる気持ちも必要だと思う。
私も肝に銘じておかなければ。
(2002年12月14日の日記)
犬夜叉超特別編 〜水神伝説
アニメ第27回放送2001年5月21日
「水神が支配する闇の湖」

原作少年サンデー1998年10月28日(48号)第95話「水神」
原作少年サンデー1998年11月4日(49号)第96話「神器」
原作少年サンデー1998年11月11日(50号)第97話「神の正体」
原作少年サンデー1998年11月18日(51号)第98話「本物の水神」
原作少年サンデー1998年11月25日(52号)第99話「竜巻」
原作少年サンデー1998年12月2日(1号)第100話「大蛇成敗」

「大蛇成敗」が記念すべき100番目となる作品。

          ☆          ☆          ☆

まず、超特別編。
それまでのアニメのダイジェスト版で、目新しいところはないが、冥加役の緒方賢一さんの、期末テストに関するしょうもない?ギャグと、日暮神社を上から見た図が印象に残る。
今回は資料と違い、堅魚木が5本で、またまた男神に逆戻り。
蔵や御手洗の場所がわかったのはもうけもの。

そして水神、ニセ水神の物語。
モデルかどうかはわからないが、宮城県に金蛇水神社というのがある。
平安時代中期頃、京都の刀鍛冶が天皇の刀を作るための水を求めて、全国を渡り歩いていた。
そしてこの場の水神宮の水の清らかさに感動し、その水を使って刀を作ることができた。

刀鍛冶は感謝を込めて「雌雄一体の巳(ヘビ)の姿を献納してから京都に帰ったという。
以来これを御神体とし、名前も「金蛇水神社」と改めたというのである。
「犬夜叉」のニセ水神は、一応水神の眷属(血筋の繋がった一族、あるいは家来の意)ではあるが、男性女性という風に考えると、まさに雌雄一体、ここからヒントを得たのかもしれない。

ニセ水神は後で蛇の姿に変わっているが、もしかしたら、本物の水神も、本体は蛇かもしれない。
だとしたら、知らずに去った弥勒は幸せ者である。
ただし実在の神社は、湖にあるわけではなく、水神の着物も全く違うので、確定はできない。
ちなみにこの神社、金運にご利益があるので有名で、「金運の巳なる財布」なるものがあるとのこと。

また1,300株の牡丹園や、藤、ツツジ、サツキ、アジサイなども有名で5月には花祭りも開催されるそうである。

ニセ水神は大林隆介さん、なんと「らんま」であかねので父親役を演じた方。
乱馬(犬夜叉役の山口勝平さん)と久々の再会、盛り上がったことだろう。
桔梗と冥加の出番がなくて、本当に残念。
乱馬親子とあかね親子の同窓会ができたのに。

水神役の勝生真沙子さんは、「セーラームーン」のセーラーネプチューン役。
太郎丸のくまいもとこさんは、昔はまった「アメリカンゴシック」で、不気味な子供ケイレブを演じたルーカス・ブラックの吹き替えをした方。
私は字幕版で観たのでくまいさんの声は聞かなかったが、あの子の声をあてるとすれば、かなりの実力派と思われる。
末吉役、野田順子さんは、「名探偵コナン」の工藤新一&毛利蘭コンビと、「Sheeep」で豪華競演中。
何ともとぼけたヒツジ役。

今回のエピソードは、犬夜叉と珊瑚の確執と和解、弥勒と珊瑚の接近?に重点を置いているようだ。
かごめと末吉の「面」に関するやり取り、犬夜叉のせいで七宝たちがこぶを作る場面、すぐ寝る水神など、ちょっとした場面なのだが、笑えるシーンのカットは残念。

その分、犬夜叉&珊瑚の必殺連携は最高の仕上がり。
我慢した甲斐があった。
(2002年12月16日の日記)
風穴
アニメ第28回放送2001年5月28日
「過酷な罠にかかった弥勒」

原作少年サンデー1998年12月8日(2,3合併号)第101話「風穴の傷」
原作少年サンデー1998年12月22日(4号)第102話「夢心の寺」
原作少年サンデー1999年1月4日(5,6合併号)第103話「弥勒救出」
原作少年サンデー1999年1月13日(7号)第104話「蠱壺虫」
原作少年サンデー1999年1月20日(8号)第105話「弥勒の寿命」

          ☆          ☆          ☆

今回の主役は弥勒、風穴を切られ、ピンチに陥る。     
最猛勝は出てくるが、奈落はなぜか姿を見せない。
その分、第2の主役としていい味を出していたのが八衛門狸。
弥勒の父の墓に手を合わせるシーンなど、八衛門の律儀な性格を、原作以上に掘り下げていた。

子供時代の弥勒も可愛かったが、後に神楽役で登場する大神いずみさんが大蟷螂として小手調べ。
ちょっと緊張感のある大蟷螂だったが、艶のあるセクシーボイスは健在だった。
犬夜叉は、原作に比べ、ずいぶん喜怒哀楽が激しい。
むやみに好戦的かと思えば、実は犬夜叉の計算によるもの、としてみたりちぐはぐな感じがする。
弥勒に関しても、弥勒の心配よりかけら探しが大切との言葉は、あまり好感が持てない。

「明日の目覚めが悪いだろうが!」の名台詞で汚名挽回だったが、原作のイメージをあまりデフォルメ化するのはちょっと、である。
それにしても弥勒のテーマ、弥勒の攻撃態勢の時以上に、弥勒の絶体絶命のピンチに似合う曲。
蠱壺虫の壺使いはかわいそうなほど扱いが悪く、ほとんど活躍の場もなく真っ二つにされてしまった。

話の流れはほとんど原作どおりでまさに、「弥勒の、弥勒による 弥勒のためのエピソード」。
弥勒の負う過酷な運命が率直に表現されていたと思う。
今回のサンデーで、ついに弥勒が珊瑚にプロポーズしたが、それまでは風穴の呪いのために、人を愛することを自分に許さなかった弥勒、その強さと孤独はいかほどのものだったろうと思う。

それでもついに愛を打ち明けた相手は限りなく強く、そして優しい女性だった。
弥勒にふさわしいのはやはり共に闘うことのできる女性、弥勒に守られることを潔しとしない強さを持った珊瑚だけだろう。
そして珊瑚の純情ゆえの不器用さを優しく包み込んでやれるのもまた弥勒しかいないと思う。
 (2002年12月17日の日記)
生きていた琥珀
アニメ第29回放送2001年6月4日
「珊瑚の苦悩と琥珀の命」

原作少年サンデー1999年1月27日(9号)第106話「琥珀」
原作少年サンデー1999年2月3日(10号)第107話「琥珀の命」

          ☆          ☆          ☆

先日、鳥居について調べてから、アニメに鳥居が出てくるたびに気になって仕方がない。
今回のアニメで、いきなり鳥居と拝殿のアップが出てきたが、きちんと島木付きの明神体、堅魚木は再び6本で女神になっていた。
毎回違う鳥居を作る方も作る方だが、いちいちチェックを入れる私もしつこい。

最初に現代で草太(弟)にいろいろ世話になるかごめの姿がオリジナルで描かれる。
これは、後で出てくる珊瑚と琥珀のエピソードの伏線となっているのは容易に想像がつく。
しかし奈落によって、四魂のかけらを埋め込まれ、奈落によって操られる傀儡と化した琥珀に会った後の、かごめの弟談義には、その無神経さに腹が立った。
かごめに腹が立ったのではない、かごめにそんな台詞を言わせるアニメスタッフに腹が立ったのである。

私が「犬夜叉」で一番好きな女性キャラは、日暮かごめである。
だからこそ、アニメでこんな無神経な台詞を平気で言うようなキャラにはして欲しくなかった。
原作とアニメで一番性格を変えられたのが、かごめだと思う。

もっとも、初登場時は、殺生丸にも平気でくってかかったり、気の強さに大差はない。
だが原作のかごめは、少しずつ人間的な深みを増していっている。
犬夜叉の性格や行動の裏の感情を理解し、後に無個性と言われるほど、自分を押さえ、ひかえめに振舞っている。
だからこそ、いざというときの霊力の発動、感情の爆発には感嘆させられるし、
桔梗や翠子のような「選ばれた存在」としての存在感を感じさせる。

アニメのかごめはどうだろう。
初登場時の、気の強い、普通の女の子のまま、変化がない。
だからいつになっても犬夜叉と対等に喧嘩し、気軽に「おすわり」を連発し、悪のりしてひんしゅくを買うことも多い。
アニメのかごめは、普通の女の子が、たまたま霊力を持ってしまっただけのように見える。

ただし私はかごめ役の雪乃五月さんにどうこう言うつもりはない。
桔梗役の日高のり子さんや、珊瑚役の桑島法子さんが女性的な深みを感じさせる声なら、雪乃さんのそれは透明感溢れるクリスタルボイスだと思っている。
現に「サイボーグ009」の003=フランソワーズ役では大人の女性の優しさ、過酷な運命にさらされる者としての哀しみが無理なく表現されている。
ただ声に深みのない分、アニメのかごめのようなキャラクターに声を合わせれば、よけいきつい印象になってしまうのは、致し方ないことだろう。

原作のかごめが、目立たなくても必要不可欠な扇の要ならば、アニメのかごめはグループの1人としての存在感しか感じられない。
だが本当は、アニメのかごめの方が、より現実的な、身近な存在なのかもしれないと思う。
見る者に共感を感じさせるのは、生々しい現実感を持ったアニメのかごめなのかもしれない。

できることなら、一度やってみたいアンケートがある。
中学生から高校生くらいまでの、そう、「これからかごめ」「今かごめ」「今までかごめ」世代の女の子を対象に、原作とアニメのかごめのどちらが好きか聞いてみたい。

案外現実にはいそうもない完璧な原作のかごめより、アニメのかごめの方が人気があるかもしれない。
アニメがまさにその世代、さらにそれ以下の年齢の視聴者を対象にしているならば、私がここで四の五の言うのはおかしいことになる。
原作にこだわりすぎる私こそ、深く反省しなければならないかもしれない。

本題からはずれてしまったが、今回は琥珀が奈落により生かされていることを伝えるだけでいいとしよう。
本当のドラマは、次回から始まる。

かえって鉄砕牙や錫杖がいやに長くなっていたり、四魂のかけらが入浴中に突然現れたり、珊瑚とかごめが、犬夜叉と弥勒にセミヌードを見られるところで、アニメでは珊瑚だけがタオル?を巻いていて助かっている、などどうでもいいようなことがおもしろかった。

それにしても西前忠久さん、村人だ、野盗だ、仏弟子だ、妖怪だと放映1回目から大活躍していたが、今回はなんと、現代にいらしてかごめの先生になっていた。
主役級キャラを演じる声優さんもいいが、私はこういう声優さんが大好きである。
西前さんだけではない、「犬夜叉」には、辻谷耕史さん言うところの「番組レギュラー」といわれる声優さんが何人か出演している。
いつかこの声優さんたちについて書いてみたいと思っている。
(2002年12月18日の日記)
奈落の城
アニメ第30回放送2001年6月11日
「盗まれた鉄砕牙 対決 奈落の城!」

原作少年サンデー1999年2月10日(11号)第108話「珊瑚の裏切り」
原作少年サンデー1999年2月17日(12号)第109話「奈落の城」
原作少年サンデー1999年2月24日(13号)第110話「瘴気」
原作少年サンデー1999年3月3日(14号)第111話「浄化」

          ☆          ☆          ☆

「琥珀を生かしておきたくば、鉄砕牙を奪って来い。」
珊瑚は、葛藤のうちに奈落の要求を呑む。
犬夜叉の鉄砕牙を奪い、奈落の城で、珊瑚は奈落が入れ替わった元の人見城主蔭刀に 再会する。
今回は、珊瑚と琥珀の兄弟愛に重点を置いたようである。

原作では傷ついた珊瑚が琥珀に抱きつく短いカット、一瞬にして珊瑚の想いが読む者の胸に押し寄せてくる。
アニメでは、珊瑚の想いを言葉で、行動で、逐一説明する。
防毒面まで出してくると、私などやり過ぎだと思うのだが、どうだろうか。

アニメ化する上で大切なのは、原作を知らない人にも理解できるように作ることだろう。
だから原作を読んだ上でアニメを見ると、くどい、説明が多いといった印象を受ける。
特に「奈落の講義」は、毎回毎回「よくもご親切に。」と頭のひとつも下げたくなるほど丁寧である。
「犬夜叉」が特にくどいのかどうか、他のアニメをあまり知らないのでわからないが、この辺のバランスが、製作側の苦労するところだろう。

犬夜叉に負けない弥勒の走りっぷり、飛来骨の扱いなど、妙なところで笑いが入るが、珊瑚に関しては丁寧に作られたと思う。
おかげで割を食ったのはかごめだろう。
このエピソードは追いつめられ、苦しむ犬夜叉達を守ろうとするかごめの心、卑劣な奈落に対する怒りにより、かごめの霊力が最大限に高まり、奈落の体を打ち砕く。
ところが瘴気に苦しむ犬夜叉達、死を覚悟して風穴を開こうとする弥勒、「でき損ないの半妖」と犬夜叉を揶揄する奈落の言葉、全てがカットされたために、かごめの凄味が消えてしまった。

犬夜叉達をもっと苦しめろと言うのではないが、かごめとて、いつもこれほどの霊力を発動できるわけではない。
特に後の「あいつ(奈落)・・・犬夜叉のこと馬鹿にして・・・」につながるかごめの想いが全くと言っていいほど伝わってこない。
かごめは珊瑚や桔梗に対する気持ちももちろんだが、奈落が犬夜叉を貶めた時に、怒りを爆発させる。
もしかしたら、かごめ自身が気付いていない、かごめの犬夜叉に対する気持ちを原作を読んだ時、私はたしかに感じ取った。
そして照れる犬夜叉に、2人の気持ちはここでまたひとつ近づいたと思った。

こういったプロセスを大事にせず、気付いてみたら犬夜叉とかごめは「ラブラブだった」などといった展開はごめんである。
アニメのかごめの怒りは珊瑚のためだけにある。
かごめの最高の見せ場だっただけに、こうあっさりと進まれると拍子抜けしてしまう。
前半部分、珊瑚を丁寧に描いて見ごたえがあっただけに、後半の失速は残念だった。
(2002年12月21日の日記)

過去の日記目次へ

ホームへもどる