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かごめの優しさ 〜地念児 |
アニメ第31回放送2001年6月18日 「心優しき哀愁の地念児」 原作少年サンデー1999年3月10日(15号)第112話「地念児」 原作少年サンデー1999年3月17日(16号)第113話「襲撃」 原作少年サンデー1999年3月24日(17号)第114話「半妖の思い」 原作少年サンデー1999年3月31日(18号)第115話「居場所」 ☆ ☆ ☆ 奈落との戦いで、毒にやられた雲母のために、犬夜叉とかごめは地念児に会いに行く。 監督やスタッフも好きなエピソードなのだろう。 素直に作れば素直に見れるという見本のような作品となった。 なんと言っても印象的なのが、地念児と「おっかあ」の声。 後に銀骨で再登場する地念児役の江川央生さん、「サクラ大戦」の「白銀の羅刹」を演じている方。 ゲーム「真・三国無双」シリーズの曹仁でもお馴染みの声優さん。 おっかあ役の藤夏子さんと共に、役名をそのままクレジットしたいくらいぴったりの役どころ。 さらにかごめにやっと原作の自然な優しさが感じられるようになった。 犬夜叉の台詞にもメリハリがあって良かったと思う。 最後の犬夜叉とかごめが心を開いて語り合うシーン、またしてもカットされるのではないかと心配していたが、意外にも?そのまますんなり入っていってかえってびっくり。 ただ、一番大事な一言「おれの居場所だ」はないし、かごめが犬夜叉のそばにとどまっていず、とっとと先にいってしまうのがアニメのかごめらしいといえばいえるが。 これをいい機会に、犬夜叉がかごめに少しずつ惹かれていく過程を丁寧に描いていって欲しいと思う。 ところで地念児、原作ではまぶたがない。 だから人型をして輝いてはいても、父親の本性は爬虫類系の妖怪ではないかと思っていたが、アニメではまぶたがあって、目を閉じるシーンが何度も出てくる。 これはどうしてだろうか。 また、最初にタンポポが咲いているシーンが見られるが、いきなり春の設定なのか。 原作では菊の花のように見えるのだが・・・。 今回の映画に合わせて、またスペシャルブックを出すのなら、ぜひ設定資料もたっぷり載せていただきたいと思う。 監督やスタッフの「犬夜叉」に対する想いを、私は知りたいと思っている。 何度も書いているように、アニメでは、犬夜叉のかごめに対する気持ちの変化は、ほとんどカットされている。 桔梗の内面を掘り下げ、弥勒と珊瑚は最初からカップルとして位置付け、奈落と殺生丸はある意味狂言回しの役どころを担っている。 雲母と七宝は可愛さを強調し、邪見はお笑い専用、とまで書くのは余計だが、とにかく原作よりキャラの位置付けがはっきりしている。 インタビューなどを読むと、それがよくわかる。 「アニメ全書」では、50話までの分しか取り上げられていないので、その後、特にオリジナルの部分、どう書かれていくか楽しみにしている。 (2002年12月22日の日記)
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奈落と桔梗 |
アニメ第32回放送2001年6月25日 「邪気に落ちた桔梗と犬夜叉」 原作少年サンデー1999年4月7日(19号)第116話「邪気の穴」 原作少年サンデー1999年4月14日(20号)第117話「満願」 原作少年サンデー1999年4月21日(21号)第118話「蠱毒」 原作少年サンデー1999年4月28日(22,23合併号)第119話「桔梗の矢」 原作少年サンデー1999年5月12日(24号)第120話「蠱毒の行方」 ☆ ☆ ☆ かごめの矢により体を砕かれた奈落は、「巫蠱の術」を使う。 巫蠱の術は、これまでも何度か書いてきたが、一つの器の中に毒虫やトカゲを入れて殺し合わせ、最後に生き残った1匹が「蠱毒」になる呪術。 地獄の獄卒も使うし、陰陽師も使うことは有名だが、奈落の巫蠱の術はスケールが違う。 巨大な洞穴で妖怪同士を殺し合わせるのである。 奈落が敗走してから一ヶ月たった満願の日、桔梗と奈落が出会う。 いや、桔梗と鬼蜘蛛が再会したというべきか。 桔梗は奈落の姿に異常を感じるが、まだ相手の正体に気付いてはいない。 そして奈落、自ら体を喰らわせ、妖怪として生きる道を選ぶほど狂おしく想い焦がれた桔梗。 今、死んだと思っていた相手に出会い、驚く心は奈落のものか、鬼蜘蛛か。 閉じ込められていた鬼蜘蛛の心がこの時から、少しずつ奈落の心に染み出していったに違いない。 一方洞穴に入り込み、妖怪達と戦いに巻き込まれてしまった犬夜叉。 勝っても負けても犬夜叉の体は、蠱毒と化してしまう。 奈落の城から出てきた桔梗も死魂を奪われ、洞穴の中に落ち込む。 助けに行くかごめ。 犬夜叉は完全に己を失うが、巫蠱の術の封印を解いたのは桔梗の矢。 桔梗が犬夜叉を助けたければ、妖怪を射抜けばよい。 しかし、桔梗はそうせず、封印を解くことで、結局奈落に新しい体を与える結果となった。 その理由は次回に語られる。 奈落と桔梗の愛憎劇の、凄絶なプロローグである。 今回は、登場人物が多く、現代(かごめの先生)からとんぼ返りの西前忠久さんが鬼妖怪、八衛門狸の中嶋聡彦さんが庄屋で出演。 兵士役の田中一成さんも、しょっちゅう名前の出る方である。 おもしろいところでは、松尾まつおさん、甥っ子が夢中になっている「ラクガキ王国」にキウ”ァという役で出演している。 ちょうど私がビデオを見返していたときに、甥っ子がうちに来て「ラクガキ王国」で遊んでいたから、余計おもしろかった。 あと本筋には関係ないが、やはり洞穴に吸い込まれそうになる雲母のしっぽをつかんで懐に入れる弥勒、オリジナルならではのおもしろさで楽しめた。 蠱毒の体を取り込んだ奈落は、原作ではさっさと体を覆うのに、アニメではフルヌード出演。 見ていて恥らうこともないかごめと桔梗。 そんな余裕のあるシーンでもないが、見ているこっちが赤面状態。 後に出てくる鬼蜘蛛もそうだが、アニメの奈落はどうも露出度が高い。 そんなことはどうでもいい。 これから一番注目すべきは桔梗である。 これまでは、桔梗の行動は、共感できるかどうかはともかくとして、一応理解できた。 これから桔梗の行動がどう変わっていくのか、実は予想しづらくなり、おもしろくなっていく。 アニメの桔梗は、さらに予測不可能な一貫性のない行動を取るようになる。 考察日記を書くようになって思ったこと、桔梗の出てくるエピソードは書きやすい。 これまで桔梗の方が、愛や憎しみなど、生々しい人間としての感情があるので、私なりに共感したり、反発したりすることができるから。 かごめにはそれがない。 アニメと原作の比較論ならいくらでも書けるが、かごめ自身は内面的な抑揚があまりないので、書くことがないのだ。 アニメ版かごめのキャラ設定には、こんな思惑もあるのだろうか。 性格にメリハリがある方が、好かれるにしろ、嫌われるにしろ印象が強い。 アニメのヒロインはそうでなくてはならないのだろうか。 (2002年12月22日の日記)
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桔梗豹変 |
アニメ第33回放送2001年7月2日 「囚われた桔梗と奈落」 原作少年サンデー1999年5月19日(25号)第121話「囚われた桔梗」 原作少年サンデー1999年5月26日(26号)第122話「幻影殺」 原作少年サンデー1999年6月2日(27号)第123話「殺意」 原作少年サンデー1999年6月9日(28号)第124話「奈落の正体」 ☆ ☆ ☆ アニメタイトル、桔梗と奈落は一体誰に囚われたの?まず思った。 囚われたのは桔梗で、捕えたのは奈落、もちろんそんなことはわかっている。 わかっているならいいだろうと言うものではないだろう。 奈落の城に連れて行かれた桔梗、死魂虫が入って来れないために、体を動かすことができないように見える。 それにしてもアニメ版戦国時代の武蔵の国は死魂の数がずいぶん多い。 桔梗と奈楽の会話、桔梗は無表情な原作に比べ、表情や話し方に人間臭さが感じられる。 ここで桔梗が妖怪を倒さずに、巫蠱の術の封印を解いた理由が明らかになる。 「蠱毒の逃げる先に何があるのかあるのか確かめたかった」 この台詞を言うのは、なぜか奈落。 奈落はアニメで四魂のかけらを埋め込んだ死魂を桔梗に与え、かごめを殺させようとする。 一方犬夜叉達は桔梗の出現に、今までにはなかったギクシャクしたムードが漂う。 ただしここでもかごめの「あたしに変な遠慮してるならやめてね」はしっかりカット。 まあアニメの犬夜叉は、桔梗を助けに行くのにかごめに遠慮する必要などないのだから仕方がない。 ところがいつもと異なり、雲母の背中に乗るかごめの脳天気な独り言にはため息が出てしまった。 アニメでも、かごめは犬夜叉に恋しているものだと思っていたのに。 やがて幻影殺に捕われてしまった犬夜叉達。 七宝は原作では、どんな悪夢につかまったのかわからなかったが、アニメで描いてくれたのは嬉しかった。 原作では悟心鬼にも無視されるかわいそうな?キャラ。 しかし、服を残して消える設定、なんだか変。 カードでは「もぬけのから」になっていたが、ひとつ間違えば「すっぽんぽん」になってしまうのでは? かごめだけは幻影殺が効かないのはアニメも同じ、はずだった。 原作で奈落は「陰の気どころか魂にもさわることができない」と言っているが、アニメでは、かごめに幻影殺が効かないのは四魂のかけらのせいにされている。 だから桔梗にかけらを奪われて後、かごめは幻影殺にかかってしまう。 ここでもかごめは普通の女の子、犬夜叉の夢の中でも、「今はもうひとりじゃないんだから」の名台詞カットで、スポットライトを浴びて脳天気な笑顔。 だが今回の「豹変の女王」は桔梗である。 アニメではまず奈落の傀儡を壊し、自らの矢で地面を真っ二つにする。 かごめが落ちるのはそのせい、もちろん桔梗は奈落に操られてなどいない。 ただしかごめの体を一応引き上げている、かごめが怯えるのは幻影殺のせいであって、桔梗は関係ない。 原作では「奈落にとっても、かごめ、お前が一番邪魔らしいな。」 の「奈落にとっても」の「も」の一語、「おまえは私だ・・・ この世に在るのはひとりだけでいい・・・」 の言葉により、桔梗の悪意が感じられる。 犬夜叉が来なければ、かごめは殺されていたかもしれないと思わせる。 (実際に殺すつもりであったかどうかは別として。) ところがアニメで犬夜叉が駆けつけてからの桔梗の高笑いと「殺すつもりだった。」はいかにも憎々しい。 原作の哀しげな表情の桔梗と同一人物とはとても思えない。 私はそれま、池田アニメは桔梗と犬夜叉の恋を強調したいがために、かごめと犬夜叉の心が通じ合う部分をカットしているのかと思っていた。 ところが今回の桔梗はまるっきり悪役扱いである。 奈落の城に向かい、「半妖奈落」と言い放ち、やっと桔梗はいつもの桔梗に戻る。 凛々しく誇り高い孤高の巫女である。 「愛することも 憎むことも 私の魂はあの頃よりずっと自由だ。」と言い切り、「この私がきさま(奈落)を地獄に送る。」と心に誓う桔梗。 少なくとも原作では奈落に対する「私怨」はもうないと思う。 恨まれ、憎まれていた方が奈落にとっては幸せだろう。 四魂の玉を守りきれなかったために、奈落をこの世に生み出してしまったのは桔梗。 なぜそうなったか、犬夜叉を愛したからである。 ならば桔梗の使命は四魂の玉と共に奈落を滅ぼすこと、覚悟を決めた桔梗の清々しさが感じられる。 あまりにも過酷な使命だが、桔梗は立ち向かおうとしている。 同時に、犬夜叉への愛も解き放たれた。 これから桔梗は様々な形で犬夜叉やかごめに関わっていく。 しかしかごめに露骨な嫉妬や殺意を剥き出しにすることは、もうない。 桔梗もまた、運命の幻影殺に捕われ、解放されたのだと思いたい。 今回いろいろな変更をした分、桔梗が二重人格者のようになってしまった感がある。 そしてお約束のように、犬夜叉とかごめの「俺を信じて」に繋がるシーンはカット。 アニメの流れで中途半端に入れたらかえっておかしなことになりかねないが、やっぱり寂しい。 アニメと原作、2人のかごめ、2人の桔梗が入れ代わり立ち代わり舞台の上に登場する。 本筋からも、何本ものストーリーが出ては戻り、出ては消える。 今回のエピソード、料亭に行って懐石料理を注文したら、餃子やハンバーグのごった煮が出てきたような気分になった。 同時にこれまでで一番難しい考察日記となってしまったような気がする 。 (2002年12月27日の日記)
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刀々斎登場 〜天生牙 |
アニメ第34回放送2001年7月9日 「鉄砕牙と天生牙」 原作少年サンデー1999年6月16日(29号)第125話「刀々斎」 原作少年サンデー1999年6月23日(30号)第126話「天生牙」 原作少年サンデー1999年6月30日(31号)第127話「風の傷」 ☆ ☆ ☆ 前回奈落特製愛憎たっぷり濃厚シチューの後の一服の清涼剤、というよりは、見てくれは悪いがおいしい羊羹とお抹茶みたいに登場してきたのが刀々斎そして猛々。 刀々斎を演じる八奈見乗児さん、私の頭の中の声優名鑑、八奈見さんの所にはしっかり刀々斎の写真が貼ってある。 きっと八奈見さんは刀々斎みたいな人なんだろうと思う。 飄々としていてつかみどころがなくて、それでいて頭の良い人。 顔も刀々斎そっくりだったら大変だが。 今回は殺生丸も登場するが、メインはあくまで刀々斎。 スタッフも現場も楽しんだことだろう、そんな雰囲気が画面を通じて伝わってくる。 見ているほうも楽しかった。 さらに新たに登場したのが殺生丸の双頭の愛馬?阿吽。 阿吽とは古代インドで使われたサンスクリット語の最初の発音「ア(a)」と最後の発音「フーン(hum)」を合わせたところから発生したと言われている。 アと口を開け、ウン(フーン)と口を閉じる。 これを仏教では物事の始めと終わり、森羅万象を象徴的に表す言葉と捉えた。 そのために神社でよく見る狛犬などは、片方は口を開け、片方は閉じて「阿吽」一対をなしているのだそうだ。 「犬夜叉」に登場する阿吽も同様ではないかと思われるが、いつも口の部分が覆われているのでわからない。 刀々斎と冥加のベテラン同士のやり取りもおもしろかったが、実は私がアニメオリジナルとして、ひそかに期待していたのが、刀々斎vs邪見のお笑い対決。 原作ではすれ違ってしまうが、最初殺生丸が邪見を連れて来るので、そこで何かやらかしてくれるのではと思っていた。 ところがアニメでは邪見は置いてこられたらしい。 「引越シマシタ」と天生牙の試し切り?のシーンは期待通りでおもしろかったのでまあいいとしよう。 今回は、もうひとつ重要なアイテムが登場する。 一振りで百人の命を救うこともできる癒しの刀、天生牙である。 鉄砕牙と共に父親の牙から打ち起こされた名刀、父親の遺言により殺生丸に贈られた。 殺生丸は天生牙を「なまくら刀」呼ばわりしているが、後にその価値を知ることになる。 原作になかった「竜の腕」入手シーンの挿入は良かったと思う。 アニメ版では主役キャラより、なんだか準主役級キャラのほうが上手に作られているようである。 まあ複雑なしがらみがない分、作るほうも楽なのだろうが。 邪見、刀々斎などはその典型だろう。 これからの活躍に期待したい。 ☆ ☆ ☆ 弥勒の名の由来。 お寺の燈籠などで、四面に仏が掘り込まれているのを見たことがおありだろうか。 「四方仏」と言い、1体は東方世界の教主で、過去からこの世に人間を送り出す 役目の薬師で、手にした薬壺からこの世で生き抜くための薬を与えてくれると言う。 2体目は苦悩のない来世に迎えてくれる阿弥陀で、来世、彼岸を意味する西側に 置かれる。 釈迦は南に位置し、北に置かれるのが弥勒如来である。 弥勒は釈迦滅後56億7千万年の遠い将来、出現されると信じられている未来の仏、 現在は須弥山(しゅみせん)という所にある摩尼宝殿 (まにほうでん)の中で修行 をしながら、兜率天(とそつてん)に降り立つ日を待っていると言われている。 助平法師などと言ってはいけない、釈迦の後継者なのだ。 弥勒は修行中の姿として、若者の姿で描かれることが多いというが、中国ではなんと布袋様が弥勒として祀られているのだそうだ。 そう、七福神の1人、耳たぶの大きなあの神様である。 まさか弥勒が年をとるとああなるわけではないだろうが・・・。 (2002年12月28日の日記)
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天生牙の力 〜りん登場 |
アニメ第35回放送2001年7月16日 「名刀が選ぶ真の使い手」 原作少年サンデー1999年7月7日(32号)第128話「見えない軌道」 原作少年サンデー1999年7月14日(33号)第129話「真の使い手」 原作少年サンデー1999年7月21日(34号)第130話「狼」 原作少年サンデー1999年7月28日(35号)第131話「少女の命」 ☆ ☆ ☆ 殺生丸の2回目の鉄砕牙使いこなし教室、殺生丸により盲目状態にされた犬夜叉がついに「風の傷」を嗅ぎあて、殺生丸を撃退する。 同時に殺生丸に虐げられていたはずの天生牙が、鉄砕牙の剣圧から殺生丸を守るのである。 その光、アニメの普通の女の子バージョンのかごめには見えていないらしい。 なぜ天生牙は殺生丸を守ったのか、不思議とされているが、私は単純に父の愛だと思う。 殺生丸のために作られた刀なのだから、殺生丸を守って当然。 虐げていたと言っても父の形見である、丁寧に扱っていただろうし、いつも持ち歩いている。 こんなことからも私は殺生丸は「実はいい人」といったイメージを受ける。 なんとなく入っている変更が、本筋に大きな影響は与えていないものの、不満が残る。 アニメでは殺生丸は、鉄砕牙を壊しに来たことになっているが、そんな殺生丸、いかにも器が小さい。 また、刀々斎の言葉にも矛盾を感じる。 刀々斎は、原作で「かわいそうだがあの犬夜叉・・殺生丸に殺されるぞ。」と心に思いながら、鉄砕牙の極意を犬夜叉に教えようとはしない。 教えることなどできはしない、使いこなせなければ死ぬしかない、その厳しさである。 そんな刀々斎の内面の厳しさ、ある意味での冷酷さが感じられない。 余談だが、邪見の花占いは笑った。 殺生丸に2度も石をぶつけられているが、どうせなら石を投げる殺生丸の姿も見せて欲しかった。 またあの中途半端な怖い笑みを浮かべていたのだろうか。 犬夜叉を鉄砕牙の使い手としてひとまず認めた刀々斎は去り、傷ついた殺生丸は森の中で自分を救おうとする少女、りんと出会う。 りん役は能登麻美子さん。 目の前で家族を野党に殺された衝撃から言葉を失った少女。 殺生丸に水をかけたり、ネズミやイモリ?を持ってくるなど、原作ではあまり人間扱いしていないが、アニメではかわいくツクシを持ってきた。 りんの看病自体は殺生丸の回復に関係ないが、殺生丸の精神に与えた影響は大きい。 回復して後、狼に殺されたりんを殺生丸は天生牙で救う。 巷では殺生丸とりん恋愛説が主流のようだが、私は殺生丸の恩返し、というより保護欲の表れだと思っている。 殺生丸は、母のことがあったから人間嫌いになったが、人間を愛した父親の血を引いているし、基本的には人間に対し友好的な種族の一員なのだと思う。 そうでなければとりあえずりんの命を(義理で)助けたとしても、その後連れ歩いたりはしないだろう。 ただしりんは人間、すぐに殺生丸に追いつくだろう。 その時2人の関係がどうなるか、それは今論じても仕方のないこと。 話が前後したが狼に殺されたりん、となれば当然鋼牙が登場する。 後半犬夜叉達と出会っているが、鋼牙については次回に書きたいと思っている。 (2002年12月29日の日記)
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鋼牙登場 |
アニメ第36回放送2001年7月23日 「かごめ略奪!超速の妖狼 鋼牙」 原作少年サンデー1999年8月4日(36,37合併号)第132話「鋼牙」 原作少年サンデー1999年8月18日(38号)第133話「生け捕り」 ☆ ☆ ☆ 妖狼族の若頭鋼牙が本格的に登場する。 右腕と両足に四魂のかけらを埋め込んだ超速の狼妖怪。 一言で言えば犬夜叉のオオカミ版。 この鋼牙、1話限りのキャラかと思っていたら、高橋先生にもアニメスタッフにも気に入られているようで、その後原作、オリジナルと共に何度も登場し、準レギュラーの地位を獲得。 (後で「らんま1/2」を見たら、全く同じ立場の「良牙」がいたから、最初から準レギュラーであることがわかった。) 鋼牙ファンとしては嬉しい限りである。 鋼牙を演じるのは、「金田一少年の事件簿」金田一一(はじめ)役の松野太紀さん、アニメで名前を与えられた銀太は吉野裕行さん、八角は岸尾大輔さん。 西前忠久さんも、今度は妖狼族として登場する。 たしかに鋼牙は使いやすくてお得なキャラだと思う。 次回でかごめに恋をするが、誰が見ても、かごめの心が犬夜叉にあるのはわかり切っている。 そこで身を引くような、あきらめるような性格なら、そのエピソード限りで消えていくだろう。 単純明快、脳天気な性格が幸いしているし、奈落ともほどほどに関わりがあるから、話のつなぎにちょうどいい。 本筋に深く関わっているキャラは使いまわしがしづらいが、このほどほど感が愛されているのか、アニメのオリジナルでも、登場回数が多い。 ただし鋼牙には、ファンの私でさえ「待ってましたの鋼牙登場!」などと浮かれてはいられない大きな問題が2つある。 いや、正確には「避けては通られない大きな問題が1つ」と、「どうでもいいような小さな問題が1つ」と言うべきか。 私にとってはどちらも同じくらい大きな問題ではあるが。 まず、どうでもいいような小さな問題。 初めて鋼牙に会った時、珊瑚が妖狼族について、「人の姿に化けちゃいるけど」と言っていること。 つまり鋼牙にも殺生丸のように、本性を出す瞬間があるのだろうかと思ったのだ。 ただしどう見ても殺生丸より格下の妖怪なので、B級ホラー映画に出てくるような、顔中毛だらけの狼男になったり、茶色のハチマキが目印のただのオオカミになったりしたら哀しいな、としばらく心配していた。 まあ瀕死の状態になっても人型をしているので、この後も本性を表すことはないと思うが。 もうひとつの問題は、妖狼族が人喰いであること。 おかしな言い方かもしれないが、妖狼族が、単なる人喰い種ならそれは仕方がないことだと思う。 弱肉強食の生存競争の中で、妖狼族が生きていくために人喰いをするならば、である。 ところが原作では、人間はただ殺されているだけであった。 高橋先生が人喰い種として設定しておきながら、殺すだけにとどめたことで、妖狼族に免罪符を与えたつもりなら、それは逆である。 本当の肉食獣はそんなことはしない、妖狼族はそれ以下の存在になってしまった。 しかもその後、犬夜叉達と鋼牙達は、親しくなっていくが、その中で妖狼族の人喰い問題は(意識的に)忘れられている。 この辺アニメではさりげなくかわしているが、やはり洞窟に連れて行かれたかごめに対し、「うまそうだな。」と言わせている。 鋼牙と仲間が犬夜叉達と知り合ったことにより、人喰いをやめたのなら、そのことをはっきり打ち出すべきだろう。 そうでなくては犬夜叉、かごめ、鋼牙の三角関係など成立するはずがない。 実はワンダースワンでは、鋼牙に「俺はかごめに会ってから人間を襲ったことはねえ。」と言わせている。 この一言、原作でこそ必要だったろう。 アニメもそのまま作っているから、たとえばオリジナルキャラで人気のあった菖蒲(妖狼族の女の子)も人喰いになってしまう。 最初に妖狼族を人喰い種に設定してしまったのは、高橋先生の大きなミスだと思う。 仮に、後で鋼牙にワンダースワンのような台詞を言わせたとしても、なんのために人喰いにしたのか、という疑問は残る。 かごめや弥勒、珊瑚など人間の立場から言えば、鋼牙達が人型妖怪だけに、嫌悪感がより勝るのではないだろうか。 なぜ妖狼族を人喰い種に設定したのか、私はその答えを知りたいと思う。 ともかく、四魂のかけらを見ることができるかごめの能力に気付いた鋼牙がかごめをさらい、追った犬夜叉達は極楽鳥に出くわす。 今回はとりえずここまで。 人喰い問題をのぞけば墓作り、弥勒の独白、犬夜叉の練習風景など、オリジナルを上手にはさみこんだ丁寧な作品だと思った。 おもしろかったのが、珊瑚と桔梗の雲母への2人乗り。 弥勒は珊瑚の体に触れないように、錫杖を使っているが、前からそうだったのか、その時、どんなやり取りがあったのか、なんだか興味が湧いてきた。 (2002年12月30日の日記)
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鋼牙撤退 〜極楽鳥 |
アニメ第37回放送2001年7月30日 「かごめに惚れたあいつ」 原作少年サンデー1999年8月25日(39号)第134話「狼の洞窟」 原作少年サンデー1999年9月1日(40号)第135話「極楽鳥」 原作少年サンデー1999年9月8日(41号)第136話「三つ巴の戦い」 原作少年サンデー1999年9月14日(42号)第137話「強い男」 原作少年サンデー1999年9月22日(43号)第138話「逃がした理由(わけ)」 ☆ ☆ ☆ 前回に引き続き登場した妖狼族の若頭鋼牙。 かごめに堂々の恋愛宣言。 よく聞いていると「よく見るとかわいい顔してるな。」「いい女だ。」がカットされているせいか、原作よりも打算的な感じを受ける。 犬夜叉達に対しても、大見えを切るという感じではなく、さらっと言っているため、極楽鳥の前にすっかりかすんでしまった。 極楽鳥にさらわれるふりなどあまりにも緊張感のないオリジナルのマイナス点はあったものの、極楽鳥を切り払って登場する犬夜叉にも完全に貫禄負け。 もともと、3つもかけらを得ているものの、かけらの威力は速さばかりで、強さの方にはあまりいっていないようである。 まあ主役の犬夜叉より強くては困るわけで、仕方がないが。 それにしても、かごめの気持ちなどおかまいなしに、犬夜叉を殺せばかごめは自分のものになるという感覚、完全に野生の肉食動物のものであり、鋼牙が特別なわけではないだろう。 同時に仲間意識の強さから、たとえばかごめが自分の仲間の恋人ならば、殺してまで奪おうとせずに受け入れるのではないかと思う。 極楽鳥の親玉に向かっていく時こそ、幻の武器、妖狼牙の出番なのにこの時も使用せず、結局は犬夜叉に救われている。 前回も書いたが、ここで気になるのが、かごめの突然の「鋼牙はいい人」宣言。 人喰い問題はどこへ行った?である。 特に原作、人間を「生きるために必要だから殺した」のではなく、「殺戮のための殺戮」をする者たちである。 アニメで墓を作るシーンがあるが、琥珀に殺された人々、隠れ里で死んだ人々のために墓を作ったときとはえらい違いである。 弥勒達も、特別そのことに対する怒りはないように見える。 もうひとつ、これはアニメ限定だが、犬夜叉の(ヤキモチからくる)怒り。 アニメでは、犬夜叉は、鋼牙というライバルの出現により、突然かごめへの愛に目覚めたようである。 弥勒の「子作り宣言」のときもそうだったが、かごめに対する愛が目覚めたと言うよりは、まだ自分のおもちゃに対する独占欲のような、その時限りの激情なので、精神的にはまだまだ幼い。 それでも鋼牙は哀しい「愛のキューピット」。 その事実に全く気付かず、犬夜叉と対等に張り合っている鋼牙がいっそういとおしい。 私情が入ってしまった。 私情ついでに付け加えると、初期の鋼牙、現在に比べてずいぶん華奢な印象を受ける。 松野さんのしゃべり方もまだ遠慮がちで、犬鋼漫才には程遠い状態。 見ていて懐かしかった。 極楽鳥、アニメでつかまっている犬夜叉を見たとき、子供の頃読んだ「船乗りシンドバッドの冒険」を思い出した。 谷底に落ちたシンドバッドが、ロック鳥につかまって助かる話。 実は私、犬夜叉妖怪の中では、後で出てくる桃果人と、この極楽鳥が一番苦手で ある。 いつも気になる西前さん、前回は妖狼族だったのに、一転して今度は極楽鳥。 つくづく身の軽い方である。 田中さん、中嶋さんも妖狼族で登場。 もう1人、かごめのママ役の百々麻子さんと共に、出てると嬉しい、いないと寂しいおなじみさんである。 とりあえず手負いの鋼牙は撤退し(させられ?)、「犬夜叉、かごめ、桔梗」、「犬夜叉、桔梗、奈落」に続く3つめの三角関係がめでたく成立。 現在にいたるまで、原作で人喰い問題について触れていない以上、読者の方も、この問題はなかったものとして、目をつぶるしかないのだろうか。 修正するにしても時すでに遅し、ではあるが。 (2003年1月1日の日記)
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仲直り |
アニメ第38回放送2001年8月6日 「はなれて通うふたりの気持ち」 原作少年サンデー1999年9月29日(44号)第139話「ふたりの気持ち」 原作少年サンデー1999年10月6日(45号)第140話「井戸の向こう」 ☆ ☆ ☆ 新たなる三角関係にこじれた犬夜叉とかごめの仲。 怒ったかごめは現代に戻って家族に八つ当たり。 アニメのかごめは、家族に対して本当にきつい。 表情がはっきり出るせいなのかもしれないが。 カードの御供「かごめ」の性格は「純情」に設定されているが、アニメ版かごめは「単純」の方が似合いそうなキャラである。 入浴シーンのあたりから、ストレスも消えたのか、やっと柔らかい表情、口調が戻ってくる。 犬夜叉もなんだか馬鹿にされているような作られ方で、見ていて気の毒になってきた。 原作だけで十分単純かつ鈍い性格なのだからそれ以上デフォルメしなくてもと思う。 こんな犬夜叉&かごめが一般受けしているのだろうか。 他のキャラ、特に七宝の「賢いながらも余計な一言」、弥勒は「ほどほどの助平加減と読みの深さ、押さえ切れない好奇心」はやり過ぎない程度にうまく誇張されていたと思う。 楓も秀逸。 珊瑚は、まだ弥勒に対して恋心を抱いていないし、原作、アニメ共に普段の珊瑚像をつかみ切れていないようだ。 下手な小細工をせず、無難にまとめている。(アニメ最後をのぞいて)その分目立たないが、かえって良かったと思う。 犬夜叉の「女以外の生物(せーぶつ)」発言が聞かれなかったのは残念だったが、七宝の紙芝居は、お笑い関係では今までで最高のオリジナル。 犬夜叉とかごめが井戸のこちらと向こうで覗き込んでいるシーンも、アニメならではで良かったし、相変わらずの北条君は、傷つくことを知らない、ある意味「犬夜叉」最強のキャラだと思う。 結局折れたかごめが戦国時代に戻り、「目覚し時計」にかこつけて仲直りするまでは良かったが、そこからまたまた素敵なシーンのカットで幻滅。 「そばにいてあげるわよ。」は2人の関係を象徴する大切な台詞だったと思う。 だが、実はアニメ版今回のエピソード、かごめは犬夜叉と付き合っている気持ちでいるし(いつの間に?)、犬夜叉の気持ちもこれまでの経緯があるだけにつかみづらい。 かごめの部屋に入って「かごめのいい匂いでいっぱいだ。」が、ただ「かごめの匂いでいっぱいだ。」に変わっている。 これでは単なる感想である。 極端な話、相手がかごめでなくても、とりあえず犬夜叉の仲間なら犬夜叉は同じ反応をするだろうと思わせる。 現に弥勒の「壺使い」事件の時も、心配な気持ちはあるのに、素直に表現できていなかった。 それと同じである。 アニメ版、犬夜叉とかごめの大切なシーンをことごとくカットしてきた「つけ」が、桔梗の出現で一挙に押し寄せてきたような気がする。 原作に従えば、犬夜叉と桔梗の仲を発展させることはできないし、今までの流れで犬夜叉とかごめをいきなり結びつけることもできない。 アニメスタッフはそのジレンマに陥っているのではないか。 原作では、犬夜叉とかごめはいくつかのステップを経て、少しずつ、お互いまだ意識していない程度に、惹かれあってきている。 アニメでは犬夜叉とかごめを「仲間」としながら、原作通りに作っていかなくてはならない。 これからさらに大事なシーンのカットが増えていくだろうか。 ところで今回のアニメ、1年程前の話である。 ずっとアニメを見ている人はご存知と思うが、今の犬夜叉とかごめ、「らぶらぶ」である。 実は私、この言葉が大嫌いなのだが、実際そう見えるから仕方がない。 ついでにハートの5つもつけたいくらいである。 それまで、どんな流れでそうなったのか、あるいはある日突然そうなったのか、それはおいおい書いていくことになると思う。 考察日記が続いていればの話であるが・・・。 (2003年1月3日の日記)
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風使い神楽登場 |
アニメ第39回放送2001年8月13日 「仕組まれた死闘」 原作少年サンデー1999年10月20日(47号)第141話「追跡」 原作少年サンデー1999年10月27日(48号)第142話「屍舞」 ☆ ☆ ☆ 早くも鋼牙が再登場。 ファンとしては嬉しい限りだが、奈落の罠に陥り、仲間を殺され、毒と瘴気の結晶を腕に仕込まれ、犬夜叉と本気の殺し合いを始める悲惨な展開。 奈落の手先として神楽が初登場。 根っからの悪役(今のところ)だが、「神楽」とは、もともと神に奉納する歌や舞いのことを言う。 古くは弟である素差男命(すさのおのみこと)の乱暴な振る舞いに怒り、天岩戸に籠った天照大神(あまてらすおおみかみ)の心をほぐすために天宇受売命(あめのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞ったことが始まりと言われている。 こちらの神楽は扇を使って風を操り、死体を操り、生身の体を切り刻む。 にもかかわらず、女性の目から見ても鳥肌が立つほどのいい女。 大神いずみさんの声で、その妖艶な色気がさらにパワーアップした。 しかし、犬夜叉と鋼牙を相手に「あたしの趣味じゃない。」と言い切るとは何たる贅沢。(アニメのみ) アニメでは後に、神楽と殺生丸の関係にいやにこだわるようになる。 この台詞はその伏線のつもりだろうか。 今回の見せ場は大迫力&スピーディーなアクションシーン。 ストーリーやキャラ設定に余計な手を加えていないので、おもしろく観た。 アニメの奈落はなかなかの出不精で、今回も出てこない。 いつも不思議に思っているのだが、奈落と最猛勝の会話、鋼牙とオオカミの会話はどのようにして成り立っているのだろうか。 いつも最猛勝やオオカミが一方的に唸ったり吠えたり羽を鳴らしたり。 それで奈落や鋼牙には通じているみたいだが、奈落や鋼牙が吠えたり唸ったりする シーンはない。 最猛勝はともかくオオカミが人の言葉を理解しているとは思えないから、一度鋼牙に もオオカミ語を披露してもらいたいものである。 次回、犬夜叉が傷つき倒れ、鋼牙が真相を知る。 神楽のためか、鋼牙のためか(もちろん前者)、前後編式の贅沢な作り。 アニメスタッフの方々に感謝、である。 (2003年1月4日の日記)
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三つ巴 〜神楽と神久夜(映画の感想) |
アニメ第40回放送2001年8月20日 「風使いの神楽の妖艶なる罠」 原作少年サンデー1999年11月3日(49号)第143話「神楽」 原作少年サンデー1999年11月10日(50号)第144話「風使い」 原作少年サンデー1999年11月17日(51号)第145話「背中の蜘蛛」 原作少年サンデー1999年11月24日(52号)第146話「神楽の謎」 ☆ ☆ ☆ 弥勒と珊瑚は奈落の傀儡との戦闘開始、犬夜叉は鋼牙の怒りの前に攻めきれず、深手を負って倒れこむ。 ここで鋼牙の前に神楽が登場。 屍舞で死体を操り、鋼牙に真相を明かす。 瘴気の毒が効ききはじめた鋼牙はなすすべもなく、神楽の舞いに翻弄される。 犬夜叉vs鋼牙のスピーディーな戦いの後は、神楽に一方的にいじめられる鋼牙の図。 鋼牙の出番たっぷりは嬉しいが、どうにも痛々しい。 かごめの矢に続き犬夜叉も蘇るが、かごめがなぜか安全圏?(屋根の上)にいるので、鋼牙を助けようとするかごめと鋼牙のやりとり、きっとにらむ犬夜叉のシーンはすっぱりカット、哀しい・・・。 片腕だけの「風の傷」は致命傷にはならず、嬉しいことに神楽は無事逃げ出すことができた。 鋼牙のかけらを「矢」により浄化することに気付いたのは七宝で、ここでもかごめの「普通の女の子」度アップ。 極めつけは、自ら去っていくはずの鋼牙がなぜか1人で置いてきぼり。 弥勒が「自尊心が強いから放っておいた方がいい。」とフォローにもならない一言。 こんな扱いされたら普通なら百年の恋も冷めるだろう。 鋼牙は冷めるわけにはいかないが。 犬夜叉とかごめはもちろんだが、鋼牙とかごめの関係も、あっさり流されていくのだろうか。 時間が余ったのかここでも回想シーンの挿入。 当然と言えば当然だが、毎週発売されるサンデー、回想シーンなどほとんどない。 「あらすじ」はあるが、そこを読むか読まないかは読み手の都合で決められる。 テレビは違う。 「なぜここで?」「なぜまたこのシーン?」と思いながらも、流れている限りは見なければならない。 前に書いた珊瑚の回想シーンなどは、物語に深みを与える意味で良かったと思う。 しかし、ただでさえ番組冒頭に必ず前回のアニメのシーンを解説付きで流しているのに、本編の中でも流しすぎるのはどうかと思う。 今回、逃げる神楽の背中にも鬼蜘蛛の形の痣があるのを発見。 犬夜叉達は神楽と奈落の関係に思いをはせる。 ここでおもしろいこと、前から思っていたのだが、「鬼蜘蛛」は「奈落」になる前の人間だった頃の呼び名である。 もともと背中に鬼蜘蛛の形の火傷があったから「鬼蜘蛛」と呼ばれていたのかと思っていたが、考えてみると鬼蜘蛛が火傷を負うのは、桔梗に会う直前のことである。 もちろんこの時は、全身焼け爛れていたから、きれいに鬼蜘蛛の形になどなってはいなかっただろう。 そう考えると、鬼蜘蛛は、火傷には関係ない、もともとの呼び名だったのだろう。 その名前が呪いとなって奈落の背中の痣となり、人間であることを、桔梗への断ち難い想いを主張し続ける。 ところが今日観てきた映画、奈落自身が鬼蜘蛛となる。 奈落にとって「鬼蜘蛛」はおぞましい存在、いらない存在ではなかったか。 なぜにわざわざ鬼蜘蛛に化けるのか、この辺の解釈はどうなっているのだろうか。 さてアニメに戻り、逃げた神楽は城に戻って奈落に食ってかかるが、残念「怒りの神楽」はここで「必死な大神さん」に戻ってしまった。 ただ、こうして初期の大神さんの神楽を聞いた後だったので、今日の映画は余計に楽しめた。 今回、映画に「神久夜」の役で女優の原田美枝子さんが出演。 原田さんが唱える呪文の部分や、最初の部分は神久夜の神秘性が出ていてとても素敵だったが、変化してからは完全に森川奈落、大神神楽との一騎打ちで貫禄負け。 変化してからはいっそ全く違った声にして、ちゃんとした声優さんを当てて欲しかったと思う。 辻谷耕史さん(弥勒役)がやはり御自身のHPで、声優以外の出演について次のように書かれている。 タレント、俳優はそれぞれ違ったバックボーンを持っている。 役やキャラというより、違った空気を感じさせてもらえることの方が勉強になると思っている。 ということで、個人的には歓迎されているとのこと。 また、こうも書かれている。 技術的な部分はフォローすればよい。 井の中の蛙になる方が問題である、と。 たしかに、大神さんをシリーズキャラとして育てたような取り入れ方なら私も大賛成である。 しかし、話題になるから、イメージに合うからという理由だけで、1回限りの出演ならば、私はして欲しくない。 原田さん、声のイメージや、落ち着いている時の話し方は神久夜にぴったりである。 しかし、感情が高ぶるにつれて、どんどん声が1本調子になって聞こえてきた。 そこが声優としての訓練を受けていない原田さんの限界だったろう。 声優以外の人の出演として、大神神楽と原田神久夜を聞き比べたら一目瞭然である。 映画としては、絵にも慣れたし私は1作目よりずっとおもしろかった。 特にかごめの描き方、素直に泣けた。 珊瑚と琥珀のテレビでは見られないシーンの挿入も素晴らしかったと思う。 ただ、戦闘中の弥勒のおさわり、お約束の?かごめの「おすわり」などはウケねらいみたいで正直しらけた。 まわりで見ていた子供たちが弥勒のおさわり、かごめの「おすわり」、七宝の変化、雲母のしぐさ、ひとつひとつに素直に喜び、感動しているのを見ることができたのは大きな収穫だった。 子供は余計なことを考えない。 弥勒のおさわりが出れば(書き方が悪いが)嬉しいし、犬夜叉とかごめの口づけに歓声を上げる。 スタッフのねらいなど、持って回った見方をしない、うらやましいと思った。 映画が終わり、ロビーで、中学生の女の子の会話を耳をそば立てて聞いてしまった。 「やっぱり犬かごよね。」「あたしは弥勒と珊瑚!」「きれいだったね、神久夜。」 素直な感想。 ついでに小学生の女の子のグループにに感想を聞いてみた。 驚いたことに、みんな1作目のほうが面白かったという。 内容に深みが出た分、難しかったのだろうか。 映画を作ることの困難さを改めて実感した。 (2003年1月5日の日記)
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