原作アニメ比較 5

珊瑚の恋 〜神無登場
アニメ第41回放送2001年8月27日
「神楽の舞いと神無の鏡」

原作少年サンデー1999年12月1日(1号)第147話「小春」
原作少年サンデー1999年12月6日(2,3合併号)第148話「神無」
原作少年サンデー1999年12月22日(4,5合併号)第149話「人間の盾」

          ☆          ☆          ☆

神楽より先、奈落により生み出された分身「神無」。
神楽が「風」なら神無は「無」。
演じるのはゆかなさん。
もう1人弥勒に恋する女の子、小春を演じるのは岩坪理恵さん。

犬夜叉パーティーに入れるのは、特殊能力、高い戦闘能力を持った人間だけなんだな、とつくづく思う。
どんなに不幸な境遇にあっても、弥勒を想っていても「普通の人間」は連れて行ってはもらえない。
夢がかなって戦国時代に行けたとしても、何も持たない私もどこかの村に置いていかれるだけだろう。
そんな「普通の人間」の代表が小春である。

つい先日(かごめが犬夜叉と喧嘩して現代に戻っていた時までは、弥勒が女の子に囲まれていても、あきれるだけだった珊瑚。
何日たったのか、ここで突然弥勒への恋に目覚める。
まだ自覚していないようなのが、珊瑚らしくてほほえましい。

行く当てのなかった小春を引き取ってくれる村が見つかり、ホッとする犬夜叉達だが、突然村人達に襲われる。
人間だけに殺すわけにもいかず、苦戦する犬夜叉と弥勒。
一方神無を見つけた珊瑚は、自らの放った飛来骨をはね返されてしまう。

飛来骨が激突し、珊瑚は気絶するが、妖怪をも分断する飛来骨、よくもこの程度ですんだものである。
はね返したのは神無の鏡。
あらゆる攻撃をはね返し、人間の魂を吸い込む魔鏡。
神無は鏡をかごめに向ける。
魂を奪われていくかごめ、そして小春を助けた弥勒に突きつけられる小春の包丁。
1人残った犬夜叉は神楽に向かい、鉄砕牙を抜き払う。

次回犬夜叉達は絶体絶命の大ピンチを迎える。
今回は、ほとんど原作通りに淡々と話が進む。

それにしても、神楽と神無、あんなに人間そっくりなのに、1匹2匹と数えられてしまうのはなんだかかわいそう。
奈落もよくもまあこんなきれいな分身と可愛い分身を生み出したものだ。
謀略を駆使して狙うのも、きれいな女の子、そしてかっこいい男の子。
ナルシストの極地を行く奈落、標的を選ぶ美意識もたいしたものである。

          ☆          ☆          ☆

「11月9日 現代への帰還 〜逆髪の結羅」追記

ひいらぎさんから、「逆髪の結羅」の「逆髪」は能から取ったのではないかという情報をいただいた。
さっそく調べてみると、たしかに「逆髪」という名前の女性が存在した。
ただし「さかがみ」と読む。

延喜帝の娘で、あの有名な「蝉丸」のお姉さんである。
蝉丸は、百人一首にも、
 「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも あふさかの関」
で取り上げられている有名な歌人であり、琵琶法師でもある。

「陰陽師」にも出てくるので、ご存知の方も多いのではないだろうか。
帝の子でありながら、生まれつき盲目だったため、逢坂山に捨てられてしまう。
姉は悲しみのあまり、髪の毛が全て逆立ち、狂女となってさまよい歩く。
「逆髪」の名はここから来る。

偶然の再会と悲しみの別れ。
その物語が能の世界で表現される。
「逆髪」のお面は、ちょうど前に出てきた「肉づきの面」のような顔をしている。
もう少し伏目がちにして悲しみを強調し、気品があって美しいと書いたら、「肉づきの面」が怒るだろうか。
しかし「肉づきの面」自体、本当は鬼の顔だから問題ないだろう。
それにしても高橋先生の頭の中は一体どうなっているのか・・・。
これほどの知識をどこで身につけられたのだろうか。

ところで、「逆髪」について調べていて面白いものを見つけた。
私は鋼牙も好きだが、鋼牙の声を演じる松野太紀さんの大ファンでもあることは前にも書いた。

松野さんの声が聞きたくて、スカパーなどで出演作品を何本か見たが、その中に「るろうに剣心」がある。
松野さんは「べし見(み)」という名前で登場する。
醜い風貌ながら忠義心の厚い、いい役どころ。
この「べし見」をなんと、能のお面に見つけたのだ。

「べし見」は、口をしっかりと結ぶ「へシム」という言葉からきているとのこと。
天狗として使われているお面で、恐ろしさの中にも、滑稽感が漂っていて、「るろうに剣心」の「べし見」そのものだった。
漫画自体は、その後見ていないが、こういう発見、なんだか嬉しい。

ひいらぎさん、ありがとうございました。
(2003年1月6日の日記)
主役は弥勒
アニメ第42回放送2001年9月3日
「破られた風の傷」
原作少年サンデー2000年1月4日(6号)第150話「反転」
原作少年サンデー2000年1月12日(7号)第151話「四魂の光」
原作少年サンデー2000年1月1日(8号)第152話「放たれた矢」

          ☆          ☆          ☆

久しぶりのアニメ編。
小春登場の前後編、特に後編の主役はかごめだと思っていたのだが、またまた(今度は弥勒に)主役の座を奪われてしまった。
これはアニメにきちんとした意図があってのことなので、かごめはかわいそうだが仕方ないだろう。
奈落との対決に至るまで弥勒、鋼牙、神楽、桔梗と回想シーンを次々に挿入し、全体的にもたつく展開。
犬夜叉が自らの放った風の傷を返されて、瀕死の状態になるところからは、時間がなくてあせりが出てきたのか、台詞を言うキャラが、原作とは次々に変わっていく。
奈落の桔梗に関する言葉もひとまとめ。

神無の鏡に入りきらないかごめの魂の大きさは原作通り。
(そうでなくては話が続かないが。)
しかしかごめが四魂のかけらの大きさに気づく前に、奈落がかけらが大きくなったことを言ってしまっている。
ここでもかごめは普通の女の子を強調されている。

さらに瀕死の犬夜叉に寄り添うかごめが、犬夜叉の桔梗への気持ちまでおしはかっている。
ここではかごめの片想いを強調。
アニメ版はどこまでもかごめの片想いで推し進めるつもりのようだ。
原作では犬夜叉を卑怯な手口で傷つけた奈落への、もっと純粋な怒りである。
あれこれ余計なことを考えない。
その怒りが「あんたの話って・・・いつ聞いても気分悪い。」につながっている。

アニメの方は中途半端な気がするの私だけだろうか。
とにかくかごめの放った破魔の矢が神無の鏡に打ち勝ち、弥勒の風穴の前に奈落一行は退散する。
のんびり歩いていくところを見ると、奈落には実は風穴は効かないのかと思われる(もちろんアニメのみ)。

ここで小春が意識を取り戻し、弥勒が実際に風穴を開くシーンを見たのは、いい演出だったと思う。
前半では小春は弥勒の話に半信半疑でいるからである。
私も弥勒が震えているのは、実はおさわりしたいのを我慢しているせいではないか、などと疑っていたので、小春と一緒に納得してしまった。

今回弥勒が主役になって話を引っぱり、孤独や風穴への不安を語っていくのは今までにないアニメの作り方で、成功している。
願わくば、かごめをもっと大切にして欲しい。
特に最後の犬夜叉「おれの桔梗・・・」(アニメのみ)発言で引っくり返りそうになった。
かごめは完全に蚊帳の外、犬夜叉の眼中にないようである。
(2003年1月12日の日記)
桔梗の謎 〜悟心鬼
アニメ第43回放送2001年9月10日
「 ついに折れた鉄砕牙!」

原作少年サンデー2000年1月26日(9号)第153話「桔梗の真意」
原作少年サンデー2000年2月2日(10号)第154話「三匹目の妖怪」
原作少年サンデー2000年2月9日(11号)第155話「悟心鬼」
原作少年サンデー2000年2月16日(12号)第156話「妖怪の血」

          ☆          ☆          ☆

今回のアニメは桔梗がらみのエピソードと、悟心鬼登場から犬夜叉の妖怪化にいたるまでのエピソードの2つが語られる。
まず桔梗、犬夜叉の大怪我を知り、犬夜叉に会いに来る。
犬夜叉に会う時の桔梗は元結をほどいて巫女から女に戻る。

台詞も原作どおりで、桔梗はあくまで美しく素晴らしい。
なのになぜか桔梗は木の上、犬夜叉に触れることさえしない。
この妙な距離感はなんだろうか。
原作では生きていることを確かめているかのように犬夜叉を抱きしめ、「よかった。」と安堵するのである。

この奇妙な演出、理解に苦しむ。
ただ原作でも、四魂のかけらを奈落に渡すこと自体が、桔梗の理解に苦しむ行動となっている。

映画のところでも書いたが私たちは犬夜叉は主役だから、絶対死なないことを知っている。
だが桔梗は知らない。
もしかけらを渡したために、強くなった奈落に犬夜叉が殺されでもしたら、どうするのだろう。
この「よかった。」の台詞からも、桔梗が犬夜叉は絶対死なないと信じているとはとても言えまい。

仮説をひとつ、立ててみた。
今の桔梗に奈落を葬ることはたやすいこと。
しかしこのままでは、奈落は滅びても四魂の玉は残り、玉の因果は繰り返される。
桔梗は奈落と共に、四魂の玉をも消し去り、玉の因果を断ち切りたいのではないか。
ただそれにしては、桔梗は自らかけらを探すわけでもない。
あくまでも犬夜叉に、奈落に任せっぱなしである。
そこが不思議なところなのだ。

もうひとつ突拍子もないことかもしれないが、翠子と共に木乃伊になっていた男、あの男もまた巡り巡って、奈落(鬼蜘蛛)として蘇っていたとしたらどうだろう。
翠子の生まれかわりであった(と仮定)桔梗、もしくはかごめ、奈落が翠子の洞窟に集まり、完全なる四魂の玉を、翠子の胸の穴に戻した瞬間、何かが起こりはしないだろうか。
まあ予想するのは自由だから、恥をしのんで書いてみた。

桔梗と別れて戻った犬夜叉。
大怪我をしていなければここでアニメ版かごめの「おすわり」をくらうところだろうが、さすがにここでは遠慮がち。
この時のかごめが原作に近くて、私は好きである。

そして奈落の3匹目の分身、悟心鬼が登場する。
奈落は神楽、神無はあれだけ美しく丁寧に作っておきながら、悟心鬼は、まるで手抜きしたとしか思えないような姿にしてしまった。
実は私、神楽初登場時に、神楽の着物や扇子の柄を、あれこれ悩む奈落の姿を想像して楽しんだりしたので、手抜きの悟心鬼にはがっかりだった。

悟心鬼のモデルが「サトリ」であろうことは、容易に想像がつく。
実際、「らんま1/2」では、「サトリ」が男の子の姿で登場している。
民話に出てくるサトリの特徴は、馬のような顔をしていて毛深く、人の思うことを次々に言い当て、思うことがなくなると食べてしまう妖怪とされている。
胴が短く、手足が長く、裸でいることが多いとも。

薪割りをしていた猟師の手元が狂って、割れた薪の片方がサトリめがけて飛んでいったのに驚いて、「こいつの心は読めん。」と退散したという話もあちこちに残っているようだ。
また、なぜか黄金が苦手で、黄金の玉、弾丸などを見ただけで逃げ出すという話も多い。
ぜひ犬夜叉達に聞かせておきたかった情報である。

悟心鬼は残酷なわりに愛嬌のあるキャラで、鉄砕牙を噛み砕くが、妖怪と化した犬夜叉に一撃で倒される。
悟心鬼役は佐藤正治さん。
「いつもの」西前さんは、今回は悟心鬼にぺろりと食べられてしまった。
アニメでカラーでよく見たら、悟心鬼と最猛勝、けっこう似ていたりする(特に目のあたり)。
さすが奈落の手づくり妖怪である。

犬夜叉の妖怪化に関しては次回に書くつもりだが、妖怪犬夜叉の攻撃シーン、勿体つけすぎでちょっと興醒め。
かごめが犬夜叉の変化を解くシーンは原作どおりで良かったが、ここでも2人して顔見合わせて恥らうシーンなど、余計な添え物。

真摯な場面は真摯に作って欲しい。
犬夜叉とかごめの心を近づけるべき場所は、もっと前にいくつもあったはずである。
(2003年1月13日の日記)
闘鬼神 〜灰刀坊
アニメ第44回放送2001年9月17日 
「灰刃坊の邪悪な剣 」

原作少年サンデー2000年2月23日(13号)第157話「本能」
原作少年サンデー2000年3月1日(14号)第158話「鬼の剣」
原作少年サンデー2000年3月8日(15号)第159話「闘鬼神」
原作少年サンデー2000年3月15日(16号)第160話「蘇る鉄砕牙」

          ☆          ☆          ☆

折れた鉄砕牙は刀々斎に修理に出され、殺生丸は灰刀坊に、悟心鬼の骸を使って新たなる刀「闘鬼神」を作らせる。
鉄砕牙は犬夜叉の父が残した「敵から身を守る」守り刀であると共に、「犬夜叉の妖怪の血を封じ込める」ための刀であったことが明らかにされる。
妖怪の血は犬夜叉には強すぎ、変化を繰り返すことにより、犬夜叉自身が破滅に追い込まれる。
犬夜叉自身はまだ事の重大さに気づかぬままに朔の夜を迎え、闘鬼神にとりつかれた灰刀坊と対決することになる。

この間の犬夜叉の台詞、かごめの心配に対して「たったひとりの女の命も」が「かごめやみんな」になり、「かごめのこと忘れるわけねーだろっ。」が「かごめや弥勒達」になっている。
仲間思いが過ぎるのか、かごめは眼中にないのか、相も変わらず寂しいかごめ。
ただしその部分以外は、原作そのままに、丁寧に作られていたと思う。

灰刀坊は青野武さん、アニメ界の大御所。
私が初めて灰刀坊の声を聞いたとき、青野さんのことは知らなかったが聞き覚えのある声だなと思った。
しかしなかなか思い出せず、ずっと気になっていた。
今回考察日記を書くにあたって、突然思い出した。
「霊幻道士」の林正英(ラム・チェンイン)の声だった。

と書いてもご存じない方も多いだろうが、「キョンシー」映画である。
一時期日本で大流行したらしい。
私は3年ほど前にたまたまテレビで観て、林正英演じる道士にすっかりはまってしまった。

普段は映画は吹き替えでは観ないのだが、テレビということで青野さんの声を聞いたのである。
とにかく役にぴったりで、笑って笑って笑い尽くした。
映画に期待してはいけない。
けっこう作りはいい加減だし、ホラーと言っても怖くはない。
だがおもしろい。
とにかくその青野さんの灰刀坊だったのだ。
適役と言うしかあるまい。

ところで小春の時の奈落も、黒い瘴気の竜巻の中から登場したが、灰刀坊も強い邪気に支配されているとはいえ、なんだか仰々しい登場シーン。
好みの問題だろうが、私はちょっと引いてしまった。

「犬夜叉」では本筋には関係ないが、「匂い」が大きなキーワードになっている。
特に犬夜叉、鋼牙、殺生丸に関しては、むかつく?「犬の匂い」「狼の匂い」、「やさしい匂い」「哀しい匂い」「妖怪の匂い」「奈落の匂い」「戦いの匂い」など、さまざまな匂いが語られる。

動物系はなんとなく想像がつくが、奈落はどんな匂いを発しているのだろうか。
奈落の美意識に反して、あまりいい匂いではないような気がするが・・・。
不思議な香でもたきしめていそうな感じがする。

余談だが、この頃はオープニングに「I am」が使われている。
曲も好きだが、この中の犬夜叉vs鋼牙のアクションシーンが大好きで、このオープニングだけでビデオを1本作ったことを思い出した。
(2003年1月15日の日記)
不思議な変更
アニメ第45回放送2001年10月8日
「殺生丸、闘鬼神を振るう」

原作少年サンデー2000年3月22日(17号)第161話「闘鬼神の使い手」
原作少年サンデー2000年3月29日(18号)第162話「血の匂い」
原作少年サンデー2000年4月5日(19号)第163話「本当の強さ」

          ☆          ☆          ☆

今回のアニメ、タイトルからして不思議だが内容にも不思議な変更がなされている。
話の流れに沿って追っていくと、まず灰刀坊が死ぬまでは当然原作通りだが、その後の刀々斎。
原作では闘鬼神に対し、「こんなもん、この世から消し去るしかあるまい。」と言い捨てている。
どんなに邪気にまみれていても、所詮は弟子の打った剣、刀々斎に扱えぬはずがない。
しかもその前に「おのれの鍛えた剣にとり憑かれおって、未熟者めが・・・」と言っている。
刀々斎なら闘鬼神の始末ができると思って当然ではないだろうか。

ところがアニメでは、刀々斎自身が闘鬼神の邪気を持て余している様子。
些細なことだが、いつも馬鹿ばかりしていても(前にも書いたが)冷酷と言ってよいほどの厳しさ、刀鍛冶としての誇り、気概といった部分は、きちんと筋を通して欲しい。
刀々斎はただのお笑いキャラではない。

ここからは原作3話の中の3つのエピソードの順番が、なぜか入れ替わる。
原作では灰刀坊が死んですぐに殺生丸が現れ、犬夜叉との戦闘に入る。
妖犬化した犬夜叉を連れて逃げるところまでが1つめ。

刀々斎が犬夜叉に妖犬化の秘密を告げ、本当の強さについて諭す2つめ。
(私の大好きなエピソード。)
3つめが犬夜叉戦から帰ってきた殺生丸が、神楽と会うところである。

アニメでは一番先に殺生丸と神楽の出会いがある。
もちろん殺生丸は、この時、闘鬼神を入手してはいない。
というより闘鬼神(灰刀坊)を見失ったという設定になっている。
そこで神楽が闘鬼神の場所を教えに来るのである。
風の匂いで悟心鬼と犬夜叉の戦闘を知り、犬夜叉の血の匂いが変わったことまで読んでいた殺生丸。
闘鬼神の在り処くらい、自分で見つけるだろうに。

そして次に、刀々斎が犬夜叉に強さについて諭す場面が入る。
ここで犬夜叉なりに鉄砕牙の重みを理解し、納得する。
ところが殺生丸戦がこの後に回されたために、納得してもなお鉄砕牙を捨て、結局妖犬化してしまう。
かわいそうなのは犬夜叉である。
刀々斎の話を聞いた後の犬夜叉なら、正気の時に鉄砕牙を捨てたりしないだろう。
これらの変更は、何のためのものだったのだろうか・・・。

ところで犬夜叉の妖犬化、刀々斎の炎攻撃に対して殺生丸が驚く場面、アニメでは殺生丸はかごめの「おすわり」に対して一番強く反応している。これには笑った。
言霊の念珠をつけさえすれば案外かごめの「おすわり」、殺生丸にも効くかもしれない。
猫の鈴と同じで誰がつけに行くのかが問題だが・・・。

最後に神楽の「あんたならもしかすると・・・ 奈落を殺せるかもしれないね。」は殺生丸に直接言って欲しかった。
この頃から、神楽は殺生丸にほのかな関心を寄せ始めたのかもしれない、という大事な台詞だったと思う。
 (2003年1月20日の日記)
監督交代
アニメ第46回放送2001年10月15日
「獣郎丸と影郎丸」

原作少年サンデー2000年4月12日(20号)第164話「四匹め」
原作少年サンデー2000年4月19日(21号)第165話「獣郎丸」
原作少年サンデー2000年4月26日(22,23合併号)第166話「解かれた封印」
原作少年サンデー2000年5月10日(24号)第167話「影郎丸」
原作少年サンデー2000年5月17日(25号)第168話「二対二」
原作少年サンデー2000年5月24日(26号)第169話「土中の敵」
原作少年サンデー2000年5月31日(27号)第170話「粉砕」

          ☆          ☆          ☆

きのう書かなかったが、実は45話「殺生丸、闘鬼神を振るう)」分から監督が池田成氏から青木康直氏に代わっている。
これが初めから決まっていたことなのか、なんらかの事情で代わったのかはわからないが、きのうの闘鬼神のエピソードが青木監督の第1作となる。
(ただし36話「かごめ略奪!超速の妖狼 鋼牙」で演出を担当、正確にはこれが1作目。)

池田監督はインタビューなどを読んでいても、桔梗に対する思い入れの深い監督と思っていたが(後半おかしくなってきたが)、青木監督はこれからどんなアニメ「犬夜叉」を見せてくれるのだろうか。
完全オリジナルストーリーもこれからどんどん出てくるし、犬夜叉とかごめの関係などどのように軌道修正していくのか、楽しみに思っていた(この時点では)。
ところがきのうのエピソードは、安易に?順番が変えられていて、おかしな流れになっていた。
ただきのうの分は、灰刀坊がらみの後半、途中からの演出なので、前半の演出をそのまま引き継いだのかもしれないと思った。

本腰を入れて観たのはこの回からである。
獣郎丸と影郎丸の7話を1話にまとめてしまったのには驚いたが、実は台詞も展開も、原作に非常に忠実に作り上げられている。
カットしたのは、冒頭部分、相変わらずの出不精奈落のシーンだけではないだろうか。
そのため犬夜叉、鋼牙vs影郎丸、獣郎丸の戦闘シーンも大急ぎ、それでいて全ての台詞をなぞっているのでなんとなくもたついた印象・・・?

地念児のような起伏の少ない話なら原作どおりでいいのに、戦闘中に細かく弥勒のシーンやかごめの台詞などが入ると、プツプツ途切れた感じになるのはなぜだろう。
原作を読んでいる時には全然気にならなかったのに・・・。
これが静止画(原作)と動画(アニメ)の差だろうか。

実は今、「病気になったあの邪見」を再見しながら、この文を書いている。
比べてみると今のアニメ(邪見)が失ってしまった勢いが、この頃のアニメ(影郎丸)には、確かにある。
それだけに、無駄なくまとめ切れなかった影郎丸のエピソードにも文句はない。
原作の会話をもっと省略し、戦闘のスピード感をじっくり見せて欲しかったと、本当は書くつもりでいたのだが・・・。

もうひとつ、今回は鋼牙の出番が多く、ファンとしては楽しめた。
いつも思うことだが、鋼牙は他の主役級キャラに比べて原作との差違が少ない。
犬夜叉一行の戦力を補い、それでいていつも一緒にいるわけでもないので、話が複雑にならない。
前にも書いたが、このほどほど感が使われやすい一因であろう。
まだ鋼牙のテーマ曲が作られておらず、弥勒のテーマで代用しているのが、今見るとおかしい。

ところで「Xファイル」第2シーズン(NO.220 HUMBUG サーカス) にも似たようなキャラが登場する。
こちらの方は生存本能が求めるままの殺戮ではあったが、それだけに恐ろしくも哀れな存在だった。
こちらの影郎丸、体が小さいだけにもっと甲高い金切り声を予想していたので声を聞いたとき、ちょっと驚いた。

奈落顔だけにあの声になったのだろうか・・・。
「犬夜叉」で声に違和感のあるキャラは今までいなかったが、影郎丸だけは再見してもなじめない。
あくまでも好みの問題ではあるが・・・。
(2003年1月21日の日記)
二人の桔梗
アニメ第47回放送2001年10月22日
「奈落に残る鬼蜘蛛の心」

原作少年サンデー2000年6月7日(28号)第171話「桔梗の危機」
原作少年サンデー2000年6月14日(29号)第172話「鬼蜘蛛の心」
原作少年サンデー2000年6月21日(30号)第173話「嫉妬」

          ☆          ☆          ☆

私は以前、こう書いた。
「アニメと原作、2人のかごめ、2人の桔梗が入れ代わり立ち代わり舞台の上に登場する。」。
1人目はもちろん原作の桔梗。
復活当初は運命の幻影殺に囚われるも解放され、犬夜叉を真摯に愛し続ける孤高の巫女である。

アニメの中でも奈落に対して「半妖奈落」と言い放ち、「愛することも 憎むことも 私の魂はあの頃よりずっと自由だ。」と言い切り、重傷を負った犬夜叉を呼び出して気遣う存在として時折姿を現す。
少なくとも私怨はもうなく、奈落、そして四魂の玉の封印が使命と覚悟を決めた巫女であり、犬夜叉への愛を率直に表現する1人の女性である。

2人目の桔梗。
私怨に囚われ、奈落を蔑み、高飛車な態度を崩さず、犬夜叉に対しても理解に苦しむ行動をとる桔梗である。
今回は、忍ばせた懐剣で犬夜叉を襲ったりする。

今回と次回のアニメ、犬夜叉、かごめ、桔梗、奈落の想いが交錯する、大切なエピソード。
まず鋼牙問題からケンカになり、かごめが「犬夜叉を懲らしめるため」に、現代に戻るところから始まる。
ここで引き止めようと七宝が「(前略)それもかごめに惚れていればこそ・・・」と言っているのに対し、原作のかごめは「・・・わかってるわよ。」と答えているが、アニメでは「ありがとう。」である。
かごめ自身が片想いを自覚している設定。
いつものことではあるが、なんだか寂しい。

一方桔梗、奈落が自分の様子をうかがいに来ている(と言えば聞こえはいいが)ことに気づき、会いに行く。
おもしろいのは、奈落にはこの時桔梗をどうこうしようという気持ちはないことである。
ただ気になって様子を見に来ただけ、好きだから会いたい、会うのは無理でも一目見たい、純情奈落の真骨頂。

原作での桔梗は、奈落に残る「鬼蜘蛛の想い」を冷静に指摘する。
ある種の哀れみさえ感じさせる、このことが奈落の誇りを傷つけた。
前にも書いたが、奈落にしてみれば桔梗が奈落を憎み、恨んでくれた方が嬉しいだろう。
それだけ奈落に対し、強い感情があるということである。
この場面の桔梗にそんな感情は感じられない。

ところがアニメの桔梗、憎々しげな笑いと共に奈落を挑発、怒った奈落は去っていく。
原作で桔梗を前に「なぜ殺す気にならん?」「鬼蜘蛛の心だと?これがー!?」と思わず素の部分を見せてしまう奈落がけっこう好きだったので、まずこれでがっかりしてしまった。

そして城に戻った奈落は、桔梗を滅ぼすために巨大死魂虫を放つ。
奈落は桔梗を殺せないが、奈落が放った妖怪ならば殺せるという理屈、おもしろい。
ところが原作で、桔梗は矛盾することを言っている。

「奈落は私を殺しきれない。
鬼蜘蛛の心が(中略)残っている限り・・・」

そして

「(前略)力尽きながら、ひとりで終わっていくのかと思った。」

では、もしも犬夜叉が現れなかったらどうなっていただろう。
死にかけた桔梗を救っていたのは、奈落だったのだろうか?

いずれにしろ、原作の桔梗は犬夜叉の腕の中で、自分の素直な想いを吐露する。
特に「犬夜叉、おまえがいてくれた・・・」から「おまえ以外の男には、髪の毛一筋も触れさせはしない。」の部分、犬夜叉が愛した桔梗がそこにいる。
ところがアニメ、いかにも遠慮がちな犬夜叉に対し、まるで奈落の想いを伝えて犬夜叉の(奈落に対する)憎しみを煽るような言い方をする。

だがそれに対して、犬夜叉の言い分がまたおかしい。
「桔梗、おれは変わったか(変わってはいない。)」と言い切る姿、アニメならではであろう。
アニメの犬夜叉は桔梗一筋である、はっきり言ってかごめは眼中にない。
アニメの犬夜叉はたしかに変わってはいない。

原作で犬夜叉の二股を立証していた「おまえの命はおれのものだ!」という言葉も、アニメで妙な説得力を持って響いてくるのが何か哀しい。
そして原作にも出てくる台詞だが、ため息が出てしまうのが「嫉妬って・・・ そんなくだらねえことで・・・」の言葉、さっきまでの鋼牙騒ぎは一体なんだったのだろう。
嫉妬以下ヤキモチ以上、(アニメで)かごめに恋してもいないくせに振り回される犬夜叉が言えた台詞ではないだろうに・・・。
さらに奈落の桔梗への想いにさえ嫉妬している自分に、犬夜叉は気づいていない。

極め付けが冒頭にも書いた、桔梗が懐剣で犬夜叉を襲う部分。
「一度絡んでしまった運命の糸は、もう直せはしない・・・。」だからどうしたと言いたい桔梗の台詞。
ただここまで観た時、ふとこんな考えが頭に浮かんだ。

アニメの桔梗は「全てを超えて、犬夜叉に対しても奈落に対しても悪役に徹する覚悟を決めている」という設定。
これなら桔梗の高笑いも、懐剣攻撃もある程度説明がつく。
だがこれは月曜7時の低年齢層をターゲットにしたアニメ番組。
素直に作ればいい物を、あえて難解にした理由が見つからない。

原作での4人の関係。
犬夜叉は「真剣な」という但し書きつきの二股、桔梗、かごめは犬夜叉一筋、奈落も桔梗一筋直情型、ゆえに「恋しさ余って憎さ百倍」のパターン。
アニメでは犬夜叉、奈落は桔梗一筋、かごめは犬夜叉に片想い、桔梗は二重人格理解不能。
こう振り分けてみると一番かわいそうなのはかごめであり、等身大に描かれている幸せ者は奈落ということになりはしないか。

それでも次回、かごめは犬夜叉の元に帰ってくる、私の大好きな場面。
かごめのひたむきさ、一途さ、哀しさ、優しさが紙面からあふれ出てくるような素晴らしい絵であり、台詞が続く。
そんな部分が、アニメでどう描かれるか、楽しみでもあり、怖くもある。

最後にひとつ気になったこと、今回は犬夜叉の真正面からのどアップがやたらと多い、しかも顔が違う。
桔梗の目に映る犬夜叉ということかもなのかもしれないが、なんだか違和感を感じてしまった。

それからかごめの祖父が、松尾銀三さんが亡くなったことにより、鈴木勝美さんに変わっている。
意識して似せているのかもしれないが、後でクレジットを見るまで気づかなかったほどの名演技だった。
松尾銀三さんのご冥福をお祈りしたい。
(2003年1月23日の日記)
かごめの心
アニメ第48回放送2001年10月29日
「出会った場所に帰りたい!」

原作少年サンデー2000年6月28日(31号)第174話「土の結界」
原作少年サンデー2000年7月5日(32号)第175話「出会った場所」
原作少年サンデー2000年7月12日(33号)第176話「かごめの心」

          ☆          ☆          ☆

こんなアニメが作れるのなら、こんなかごめが描けるのなら、こんな風にかごめを演じることができるのなら、どうして今まで・・・、そんな想いだけが頭に浮かぶ。
冒頭の桔梗と奈落の部分や、八衛門が奈落の城の消失を伝えに来た部分はすっぱり切り取り、犬夜叉とかごめを中心に、あくまでも原作通りに気負うことなく話は進んでいく。
片想いであろうが二股であろうが、好きな人のあんな姿を見るのは辛い、だれでもそうだろう。
私も初めて原作を読んだ時は涙が止まらなかったし、アニメでさえ気づいてみたら、涙がぼろぼろこぼれていた。

しかしここであまりにも素直に描いたために、今までのアニメ路線の矛盾も一気に吹き出てしまったことは否定できない。
アニメでは犬夜叉が好きなのは桔梗だけだし、かごめはあくまで片想いのまま。
片想いを自覚しながら、犬夜叉の桔梗への想いを受け入れるアニメのかごめ。
アニメを見直すと、同じシーンがいっそう切ない。

原作ではこの時の2人の会話、いつもは自分のことを「あたし」と言うかごめが「私」になっていることにお気づきだろうか(アニメでは「あたし」のまま)。
後でまた「あたし」に戻るのだが、この時ひとつ大きく成長し、前に踏み出したかごめの姿が、この言葉に表現されていたと思う。

今回アニメではかごめの母も大きくクローズアップされている。
原作では現代では友だちとの絡みはあるが、意外に家族は必要最低限?しか出てこない。
草太が「肉づきの面」「小さな悪霊」事件に巻き込まれた時と、家での日常会話程度であろうか。
その時も、むしろ祖父の方がかごめに関わるシーンが多いのではないかと思う。

かごめは父親不在だが、家庭的にはなにひとつ不満のない、安定した生活を今まで送ってきたことが、その性格からもうかがえる。
そんな自然体な性格が、犬夜叉のかたくなだった心をほぐしていくのは衆知の事実。
高橋先生としては、現代でのかごめはそれで十分と考えておられるような気がする。
たぶん、これからも原作で(アニメのような)犬夜叉が現代に「関わる」エピソードは出てこないと思うし、かごめの家族が深みを増してくることはないと思う。

言い方は悪いが、原作では家族でさえも現代生活の背景の一部にしか過ぎないような気がする。
それだけ戦国時代を重視しているとも言える。
アニメでは、その点をもっと突っ込んで描いている。
たしかに原作通りではどうしても時間が余ってしまうし、オリジナルのシーンを挿入するとすれば、今回の母と娘の会話などは良かったのではないかと思う。

実は先日、ある人から「えむさんは、かごめちゃんが嫌いなのですか?」というメールをいただいた。
とんでもない、私が一番好きなキャラは日暮かごめである。
(鋼牙はどうした、と言われそうだが、あちらは完全なミーハ−で、思い入れの部分ではかごめが一番)
好きだからこそアニメで別人にして欲しくない、そんな想いがあるからこそ、考察日記で批判的な書き方をしてしまう。
日暮かごめが嫌いと思われてしまったのは、私の筆力の足らないところであり、もし気を悪くされたかごめファンがいらしたら、申し訳ありませんと謝る他はない。
それでも今回のような、いつもこんな柔らかい雰囲気の日暮かごめでいてくれたら、と思っているのは私だけではないだろうと思っている。
(2003年1月24日の日記)
琥珀の記憶
アニメ第49回放送2001年11月5日
「失われた琥珀の記憶」

原作少年サンデー2000年7月19日(34号)第177話「城の跡」
原作少年サンデー2000年7月26日(35号)第178話「琥珀の記憶」
原作少年サンデー2000年8月2日(36号)第179話「疑い」
原作少年サンデー2000年8月9日(37,38合併号)第180話「消された心」

          ☆          ☆          ☆

めずらしく冒頭のナレーション付き回想シーンがないなあ、これも監督交代効果のひとつかなあなどと、喜びながら観ていたが、なんだか違和感。
桔梗が鬼蜘蛛の洞穴に行って土を身につけ、奈落に会いに行くシーンがない。
気づいてみれば城はないし、気づいてみればいったん桔梗に殺された6匹目の分身?(琥珀を襲うカマキリもどき)がもう現れ、さっさと退治されてるし、それではこのシーンは、後で奈落の回想となって出てくるのだろうか?

鬼蜘蛛の心が桔梗を守る「土の結界」、これは桔梗と奈落にとって大切なシーンだと思っていたのだが・・・。
ただ桔梗自身、前から奈落は自分を殺せないと言っているので、「土の結界などなくても、桔梗は大丈夫だから。」と解釈したのか、理解に苦しむところ。
それでも前半部分は、原作通りに丁寧に作られている。
琥珀がらみの回想シーンが多く、まさに「琥珀ダイジェストスペシャル」とでも言ったところか。
映画「鏡の中の夢幻城」の姉弟シーンと想いを重ねながら観ていくぶんには、邪魔にはならなかったと思う。

後半に入り、あれっ?と思ったのが、犬夜叉の扱い。
おまえらが言えないのなら俺が、と珊瑚に対し、直接琥珀への不信を露わにする犬夜叉。
これは珊瑚に出会った頃の犬夜叉と、全然変わっていない。
あの時(水神話の頃)でさえ、アニメ版は犬夜叉の無神経さをデフォルメして表現していたが、原作に見られる犬夜叉の成長、特に思いやり、優しさといった部分が抜け落ちている。

いつまでもアニメになった頃の犬夜叉ではない、一度キャラ設定を修正していただきたいと思う。
かごめの時にも書いたことだが、特にこの2人にとって「心の成長」は大きなテーマだと思う。
犬夜叉の不信感は結局ぬぐわれず、原作の選択の余地のない状況だったとはいえ、琥珀を信じてかごめを託す場面はすっぱりカット。
今回のかごめは、立派な戦士として描かれている。
珊瑚を引っぱり、琥珀を守る、弓の三連射にもびっくりしてしまった。
かごめというキャラはいざという時の強さ、霊力はあるが普段は受身、守られるためのキャラである。

あちこちの掲示板を回ってみると、ヒロインとして個性がない、かごめも守られるだけでなく、それなりの活躍をして欲しいといった書き込みを一時期よく見かけた。
HPを立ち上げてからは、他の人が書き込んだ意見を自分の意見と錯覚し、真似することのないように、あまりサイトを回らないようにしている。
だから現在の状況はわからないが、そんなファンの方ならば今回のかごめには満足されたろう。

私は・・・やっぱり違和感を覚えてしまう。
どこか無理があるように思えてならない。
これが新監督のかごめの設定なのかどうかは、この時点ではわからなかったが、ある意味興味深い。

今回の人見領主の回想シーンで思い出したのだが、この時も奈落が化けて?作って?いる妖怪は鬼蜘蛛である。
奈落にとって鬼蜘蛛とは一体どんな存在なのだろう。
人間の心、桔梗への想いの象徴であると同時に、奈落の謀略の象徴でもあるのだろうか。
犬夜叉達もこれから奈落がらみで妖怪鬼蜘蛛が出てきたら、それは奈落の罠だ、と気づいたろうか。

どうやら気づいていないようだ。
日暮神社の所在地さえわかれば、かごめに宛てた手紙を届けることができるのだが。
どうやらかごめの存在する現在も、私たちとは違う別の次元のようである。
(2003年1月27日の日記)
哀しみ、怒り、決意と想い
アニメ第50回放送2001年11月12日
「あの顔が心から消えない」

原作少年サンデー2000年8月23日(39号)第181話「珊瑚の決意」
原作少年サンデー2000年8月30日(40号)第182話「消えない顔」

          ☆          ☆          ☆

奈落の策略でかごめと二人きりになった琥珀が、突然かごめを襲う。
今回のアニメは目と目の間が離れているせいか、キャラがなんだか不思議な顔をしている。
私は作画監督に対してあまり好き嫌いはないが(2,3の例外を除いて)、今回は少し違和感を感じた。
例によって出不精奈落は出演拒否?で、冒頭部分犬夜叉との対面はすっぱりカット。
そのために大きなミスが出てくる。
それは後回しにして、まず原作と変わったのは犬夜叉と弥勒のみが神楽と戦い、珊瑚1人が別行動になったこと。

おかげで弥勒はいつまでも神楽のたくらみ(自分たちの方が足止めされていること)に気づかず、というか気づけず、ダラダラと戦いが続く。
神楽の「今頃気づきやがったか。」の一言が、原作以上に説得力あり。
弥勒の命がけの風穴披露も、珊瑚は見ていない。
今回のメインキャラを珊瑚に絞ったとしても、ちょっと残念。

珊瑚のシーンは見どころたっぷり。
珊瑚のテーマも美しい旋律なのに迫力満点、和田先生に大きな拍手!
無表情を強調しすぎた琥珀の顔はいただけなかったが、珊瑚が琥珀を手にかける寸前、犬夜叉が止めに入る。
原作を読んでいても、やはりこのシーンはドキドキし、犬夜叉登場に胸をなでおろす。
アニメでの珊瑚は原作に負けないくらい魅力的に描かれているような気がする。

原作通り奈落のたくらみについての台詞を言い放つ犬夜叉、前回アニメに比べて突然いい人。
前回アニメであんなにつっかかるようなことを言わせていなければ、もっと素直に聞けるのだが・・・。

ここで最初に書いたミス。
犬夜叉が奈落に会うシーンをカットしたため、そこで奈落が言った台詞は、珊瑚vs琥珀戦の後、神楽が代弁する。
そこで「命令どおり、琥珀はかごめを殺す。」
とっくに闘いは終わっているし、かごめは(雲母と一緒にやって来て)目の前で生きてるし(怪我はしているが)、神楽は琥珀を連れて退散するところなのである。

もうひとつこの場面の犬夜叉、いやに切れ者である。
原作では奈落自身から奈楽の意図するところを聞いているから、珊瑚にあれだけかっこいい台詞も吐けるが、アニメでは何も聞いていないはずなのだ。
アニメの変更がここでも裏目に出ている。
変更するのならそれで筋が通るように台詞、設定も変えなければならないだろう。
それができないのなら、原作通りに作って欲しい。

最後の奈落と琥珀のシーンは出てくるが、神楽退却後の弥勒のおさわり、犬夜叉とかごめの心温まるシーンはカット。
アニメ的にはこれはよかったと思う。
ここで下手に弥勒のシーンなど出したら、かえって興醒めである。
こういった転換劇が見事に決まるのは、やはり高橋先生のセンスがあるから。
アニメでは哀しみと決意と怒りと想い、それらが混じり合ってフェイドアウトしていく。

ところで、今日のエピソード、アニメの記念すべき50番目の作品である。
私の考察日記犬夜叉アニメ編も50回に到達したことになる。
1話ごとに、何回観たことだろう。
批判ばかりしているが犬夜叉アニメ、観ていて飽きることがない。

犬夜叉が好きだから、アニメも原作も(ゲームもカードも)全てひっくるめて好きだから。
現在のアニメは先日の桔梗&かごめ編で98回目。
考察日記、まだまだ先は長い・・・。
 (2003年1月29日の日記)

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