汕子(風の海 迷宮の岸)
泰麒の女怪。
蓬莱に流された泰麒を十年間待ち続ける。
目覚めたとき、彼女は白い枝の下にいて、頭の中にはたひとつのった言葉しかなかった。
―泰麒。
汕子の誕生。 異形の者でありながら、その容姿は愛らしい。 挿絵を担当された山田章博氏もお気に入りなのか、ホワイトハート文庫の表紙も含め、10枚のイラストのうち、4枚に登場する。
涙は初めて外気に触れた瞳を守ろうとする反射にすぎなかったが、彼女はその熱いほど暖かいものがすべり落ちていく感触を、たったひとつの言葉が身内をすべり落ちていく感触だと信じた。
泰麒、泰麒と呼ばわりながら、涙がこぼれる。
「風の海 迷宮の岸」から読み始めたため、普通人?の生活を描写したプロローグの後、いきなり登場した汕子に驚いた。 一瞬汕子が麒麟?と勘違いしたほど(笑)。
もうひとつ、金色の果実から生まれたのにも驚いたが、これは汕子が特別だからだろうと思っていた。 私たちと同じこちらの世界の人間として生きてきた陽子の目で捉えた「月の影 影の海」を先に読んでいたらもっとすんなり入っていけただろうが、この「風の海―」を先に読んでしまったために、「十二国記」がよりファンタジー色の強い作品に思えた。
陽光が乾ききらぬ鋭敏な肌を刺すのを感じながら、彼女はその実を両手で包んで頬に当てた。
涙が止まらない。
「泰麒・・・」
汕子はこの世に生を受けたのだ。
泰麒を育て、守り、仕えるべく生まれた汕子だが、泰麒の母のようにも思える。 他にも女怪は登場するが、汕子の激しさは特筆すべきだろう。 生まれる前の泰麒と引き裂かれて辛い十年間を過ごし、やっと王を選んだと思ったら再び蓬莱に流される。 泰麒自身の性格とは裏腹の惨い運命に、汕子自身も翻弄され、狂わされていく。
金の実はその姿を歪みの中に沈めて消えた。
この世に生まれ、泰麒と呼んだ、そのほかに発した初めての声は悲鳴だった。
虚しいばかりの叫びだったのである。
汕子の悲痛な描写に胸がかきむしられるような気がする。 しかもその後十年間待たされる汕子。 結果的に泰麒に会うことができたとはいえ、その年月はあまりに長いものだった。
布で爪先をくるむようにしてやると、汕子は真円の目を閉じる。
首を珍珠花の茂みにかるくもたせかけるようにして、その重みで雪のように花が散った。
「珍珠花(ゆきやなぎ)」。
「十二国記」の造語だと思っていたら、当て字だけれどあるらしい。
女の手を握る指に力をこめ、上体を伸ばし、手探りをし、冷たい空気をかきわけ果実をさし招くようにすると、果実のほうから汕子のの手に届くあたりへ漂ってきた。
―どれほどこの瞬間を夢見ただろう。
汕子は指先に触れたその果実をしっかりとつかまえた。
プロローグの高里要少年が泰麒になる瞬間。
「泰麒」
彼女の柔らかな手が髪をなでて、同時に丸い目から澄んだ涙がこぼれた。
初対面なのにすでに心が通い合っていた泰麒と汕子。 廉麟と泰麒、廉麟と汕子の関わりももう少しだけ書いてくれたらもっと嬉しかったかも。
「・・・・・・どうしたの?」
泰麒が問うた瞬間だった。
汕子の姿が細い亀裂に吸いこまれるようにして消えた。
「汕子?」
「そこをお動きになりませんよう」
勘違いで王になるべく泰麒を捕まえに来た男、醐孫を襲撃。 芥瑚や沃飛だったらここまでの激しさは見せないような気がする。 後で「魔性の子」を読み、汕子の暴走に恐怖を覚えた。
「―泰麒」
「だめ!逃げない!!」
汕子は思わず泰麒の身体にかけようとした手を引く。
なぜかその声に逆らえなかった。
―どうしたこと。
汕子を驚かせたのは驍宗を守ろうとする泰麒の覇気。 その前には汕子と言えども従うしかない。
驍宗が王だったのなら、なぜ泰麒が驍宗に対しあれほど怯えたのか、なぜいまにいたるまで驍宗が王であることがわからなかったのか、釈然としないことは残るが、泰麒に追いついてしまえばもうどうでもいいことに思われた。
けっきょくのところ、汕子には泰麒以上に重大なことなどありはしないのだ。
「魔性の子」の恐ろしさは泰麒を取り巻く汕子と傲濫の暴走にある。 傲濫は元々伝説の妖魔と言われた饕餮だからそれほど違和感を感じなかったが、盲目的な、狂信的な愛情から泰麒を追い詰めていく汕子に畏怖というより恐怖を覚えた。 そしてこちらの世界を目茶目茶にして去って行き、それでおしまいとなった物語が一番恐ろしかった。
これはやはり発刊順に読むべきだった、未だに後悔している。 「十二国記」はこの後再び蓬莱に流された泰麒が王や麒麟たちの協力で連れ戻されるが、泰麒から引き離された汕子、傲濫や戴に向かった泰麒や李斎のその後は明かされていない。
|