(風の万里 黎明の空)

大木鈴。
こちらの国に生まれ育ち、向こうへ流された海客。


男に促されて鈴は頷いた。家族に別れは言わなかった。喋ると涙が零れそうだったからだ。しっかり目を開けて、瞬きを堪えた。その目で家族を見渡して、きちんと顔を覚えなおした。

家族との別れを前に泣き喚くわけでもなく、親に縋り付くわけでもない、ただ耐えるだけの少女、鈴。
当然訪れるであろう試練の前に、その想いはどこまでも内に向かい、暗い炎となって鈴を苛むのだろう。
そんな風に思わせるように、鈴の性格が一気に書き切られている。
王になるべくして生まれた陽子、王の娘だった祥瓊、彼らに比べて鈴はこの国に生まれ、この国で育ったどこまでも普通の少女。
読者としては一番身近な立場にいるヒロインとなる。


まろやかな形の山々、そこにいた家族。温かな会話、あまりにも多くの失ったもの。
彼女がそこから流されてきたのは、もう百年も前のことだ。人買いに連れられて峠道を越える途中に崖から落ちた。落ちたそこが虚海だった。


十二国記の世界に流された鈴は四年の月日を旅芸人の一座で過ごす。
「たくさん話しかけられて、たくさん話をした」と鈴なりに努力したのだが、言葉の通じない鈴は孤立していく。
そんな中で出会ったのが梨耀。
仙である梨耀は鈴と言葉を交わすことができた。
それがたまらなく嬉しかった鈴は、梨耀に頼み込んで仙にしてもらう。
しかし救い主であったはずの梨耀の仕打ちは鈴にとって辛いものだった。


鈴は梨耀の嘲笑と罵詈を想像して、小さく震えた。たとえ百年といえども、他者から嘲られることに傷つく痛みが絶えるわけではない。

たしかに鈴は陽子や祥瓊に比べて命に関わるような危険に巻き込まれてはいない。
けれど百年。望んだこととはいえ梨耀のそばで耐える辛さは陽子や祥瓊に劣るものではなかっただろう。
確かに鈴がここまで卑屈な態度でなければ、梨耀の接し方は違っていたかもしれない。
でも言葉の通じない辛さを知り尽くした少女に何ができただろうと思う。


―景王。 鈴は床を拭いながら涙ぐんだ。
同じ蓬莱の者が登極したと聞いて、鈴は心底嬉しかった。いつかどこかで会えるだろうか。会えたらどんなに嬉しいだろう。その時を想像するのは楽しいが、夢想から醒めるとこんなにもみじめだ。
―景王、あたしを助けて。


景王に会いさえすればあたしは救われる、そんな鈴の夢想は愚かだ。
事実景王に会いに行く道すがら、鈴は自分の夢想がいかに愚かなものだったかを思い知らされることになる。
それでもその愚かな夢想にすがり、鈴は遂に行動を起こす。


ただ流され、忍従だけで生き延びてきた鈴の、最初に行った闘争は、赤虎を御することだった。赤虎は鈴を振り落とそうと身をもがき、やがて諦めたように一路北東を目指して風の中を駆け始めた。琶山の北東、才国の首都、揖寧を目指して。

この時鈴が人間として成長したわけではないが、少なくとも鈴は読者の誰もが求めていたであろう行動を起こした。
そんなに嫌なら言い返してやったらいい、出て行ったらいい、できないだろう、じゃあ文句を言わずに言われたとおりにするしかないじゃない。
我慢するしかないじゃない、またそんなに怯えて。だから梨耀が苛めたくなるんだよ。
ああその姿はまるで私だ・・・。
それだけにまだ間違っているにしろ、行動を起こした鈴には嬉しかった。
鈴が精神的に大きく変わるのは清秀や夕暉に出会ってからだが、私は鈴が天の配剤に巻き込まれたのはこの瞬間だと思っている。


鈴は息を吐いた。長い間―本当に長い間、鈴を脅かしてきた脅威から漸く解放されたことを知った。
「ありがとうございます。―本当にありがとうございます」
ずるずると椅子から落ち、鈴はそのままそこに平伏する。
これでもう、いっさいのことに怯える必要はなくなったのだ。


耐えてばかりだった鈴が遂に戦い始める。
けれど鈴の戦いの結果は鈴が望んだものにはならなかった。
けれど鈴はまだ気がつけない、気がつけない。
鈴の何が足りないのか。
少なくとも私はここで鈴は普通に救われると思った。


―確かに、そうだ。鈴が行った幸せになるための闘い、その結果少なくとも梨耀から解放されて、景王に会いにいくことができる。
「ええ、あたし、どんな逆境にも負けません」
鈴は言って笑った。
「だって、苦労は慣れてますもん。辛抱強いのには自信があるんです」
どうしてだか、黄姑は僅かに憂いを帯びた表情で目を伏せた。

黄姑、采麟、そして梨耀にも鈴の知らない過去がある。
けれど鈴に推し量れと言うのは無理だろう。
鈴に対する黄姑や采麟の言い方があまりに抽象的過ぎて、私はむしろ鈴を気の毒に感じた。
梨耀に関しては梨耀の項で書くつもりだが、梨耀に同情するなら鈴にも同情する部分はあるはずだし、鈴を責めるなら梨耀を責める部分もあるはずだと私は思う。

黄姑は鈴を梨耀の元から救い出したが、真の意味で鈴を目覚めさせたのは清秀だった。


「海客じゃなくてもさ。国が荒れて、家が焼けて、帰れなくなったやつだっているんだし」
「そんなの、あたしの言う帰れないとは違うわ!もといた場所に帰れるんじゃない。家なんか焼けたって建てれば済むことでしょう。懐かしい場所にもう二度と帰れないって意味分かる?分かって言ってる?」


海客だからと言うとそんなことはないと鈴は言われる。
けれどこちらの世界で当たり前に受け入れられる事柄が、違う世界から来た者には当たり前に映らない、その部分はハンディとして認めてやってもいいように思う。
ただ、梨耀の元にいて苦労していた鈴には応援する気持ちもあったが、黄姑の元を出てからの本当に自分のことしか見えていない鈴はやはり苦しかった。
そんな鈴の醜い部分をむき出しにさせたのは清秀、そして浄化したのも清秀だった。

陽子や祥瓊が楽俊に出会ったように、鈴は清秀との出会いを通して天の配剤に巻き込まれてく。
陽子や祥瓊はまだわかる。
陽子は胎果で王だった。
祥瓊は王の娘だった。

では鈴は何故?
ずっと疑問に思っていたけど、やはり鈴のような存在も必要だったのだとここでわかった。
そういえばアニメでも似たような存在杉本が十二国記の世界と深く関わっていたが、やはり鈴の方がいるべくしていた、という存在感を感じる。
さすが原作は重みが違う。


「だったら、話は簡単だろ。ねえちゃん、死ぬ気になるほど辛くなかったんだよ。気持ちよく不幸に浸ってるやつに、同情するやつなんかいないよ。だったみんな自分が生きるのに一生懸命なんだから。自分だって辛いのに、横から同情してくれ、なんて言ってくるやつがいたら、嫌になるよ。―当たり前だろ?」
―それで、なのだろうか。それで誰もかれも、鈴に辛くあたったのだろうか。

ひたすら自分を哀れみ、他人に自分を認めるように要求し続けたことを責められる鈴。
正論だけど、幼くして売られ、異国に流されて理不尽な主の元で苦労したことを考えると、鈴に課せられた試練は過酷だと思う。
けれどそれを乗り越えるからこそ大きな感動があり、同時に取り残された寂しさも感じるのだろう。


男の背から降ろされて、清秀はその山野を見渡した。鈴はその手を握る。
尭天に行こう。きっと景王が助けてくれるから。


景王と傷を舐め合いたい、そんな自分勝手な、自己中心的な願いに凝り固まっていた鈴が少しずつ変わり始める。
清秀のために、他人のために生きようとし始める。
鈴にとっては赤虎を御した時に匹敵する大きな一歩だ。


清秀は溜息をつく。
「なんか・・・・・・かわいそうだなぁ・・・・・・」
「大変だったのよ、本当に」
「ねえちゃんじゃないよ。ねえちゃんは好きでいたんだもん。―そうじゃなくて梨耀ってひと」
鈴は恨めしい気分で清秀をねめつけた。
「あんたはあたしじゃなくて、梨耀さまを哀れむの?」

たとえ終わりのない生に飽いていても、終わりを願い出ることは梨耀の矜持が許さなかった。
それが辛くて洞府の者に辛く当たって、梨耀は皆に嫌われ、恐れられていた。
自分の辛さを周りに振りまく鈴も、自分の辛さを抱え込んで代わりに下の者に当り散らす梨耀も、私には同情するにも批判するにも同じに見えた。

そこで本音で梨耀に立ち向かって「あげた」人がおらず、梨耀は自身を気の遠くなるほど長い間持て余していた、その辛さに対する同情。
実はそれこそ梨耀の一番嫌うものではなかったか。
哀れまれるくらいなら憎まれた方が良かっただろう。

鈴がしてのけたことは形の上では梨耀に対する復讐となったかもしれないが、もしも梨耀の生に終わりが来るなら、それはある意味梨耀を救ったことにはならないか。
たとえ仙籍を剥奪されたとしても、梨耀は「鈴、あの娘にしてやられたわ」と傲然と笑って潔く死に赴くだろう。
鈴に対する恨みや憎しみはもとよりなく。
梨耀に対する同情よりも、自分の十分に愚かを知って、矜持のままに生き抜いた梨耀のその部分に私は惹かれる。

だからこうした場面で鈴が自分のこれまでを打ち明けると、同情が梨耀に向いてしまうのには鈴が可哀そうに思った。
実際黄姑も鈴本人にこそ語らなかったものの、梨耀に対しては鈴に同情し、梨耀を諫める言葉を口にしている。
本当は鈴はそのまま王宮にいてもいいのだと思う。
長い年月の間に、鈴の勘違いを諭す機会もあるだろう。

鈴が十分満足し、心に余裕ができたら黄姑や采麟の助言も素直に受け入れるだろう。
ところがそうはしないところが「十二国記」の凄さ。
獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすごとく、自らの力で気づくように、さらに高みに上るように仕向けられる。
陽子しかり祥瓊しかり、そして鈴しかり。

そして皆立派に応えてのけるところが凄く、その過程の描写の迫力が凄い。
鈴がいつかこの国の、黄姑や采麟の辿った道を知ることはあるのだろうか。


「もしもあなたが鈴というのなら、泣かないでほしい、とこの子が言っていた」
言って彼―それとも彼女だろうか―は目を伏せる。
「・・・・・・たぶん、そういう意味だと思う」
「嘘よ・・・・・・」
鈴はその身体に触れた。指の先に、まだ温かい。
「清秀―」

梨耀や黄姑から離れ、清秀に出会って鈴はようやく自分のどこがいたらなかったかを知る。
下界で生きる目的がひとつできた、その矢先に惨い形で殺された清秀。
こんな形で死に臨んでなお、鈴を想う清秀の愛しさ、そして哀しさ。
ここでこんな形で鈴と陽子が出会うとは。

「・・・・・・あんたには分からないわ。さっさと行って」
少年の返答はない。ほんの少し後ろで、じっと鈴を見ている。
「誰にも分からないわ!あたしの気持ちなんか!」
叫んだ鈴に、少年は静かに言う。
「自分を哀れんで泣いているんじゃ、死んだ子に失礼だよ」
はっと鈴は目を見開いた。

まるで清秀が少年の口を借りて鈴に告げたような、その言葉。
けれどそうして自分の中にこもり、自分の辛さを周りに振りまいてばかりの鈴にも思いやる人はいる。
清秀や黄姑やこの少年夕暉。
鈴が自分の殻に引きこもっていたから気づかなかっただけだ。

だから私は鈴が劣っているんじゃなく、鈴はむしろ普通で周りが凄すぎるんだと思う事にしているのだが。
「十二国記」の世界に暮らす人々は全て、そんな凄いことを意識せず、当然のこととして生きているように見えてくる。
(実はそうではないのだが・・・。)


景王は鈴の希望だった。憧れの全てであり、鈴の支えそのものだった。会いたい、と何度呟いたろう。―その己の愚かさ。
「許さないわ。―昇紘も・・・・・・景王も」

清秀に出会ってひとつ前に踏み出した鈴だったが、清秀の死により、またひとつ間違った方向に歪んでしまう。
なんて自分勝手な、なんてひとりよがりな、そしてなんて哀しいその怒り。
勝手に景王を理想の形に祀り上げて、勝手に憎んで勝手に貶める。
景王にとっても迷惑な話で、けれど景王はそういった想いの全てを受け入れる心を持った、いえ持とうと努力する王であることを、後に鈴は知ることとなる。


へえ、と男は目を丸くした。鈴も内心、驚いていた。我ながら、海客だと訴えることになんの感情も動かなかった。振り返ってみれば、海客だと言うたびに鈴は何かを期待し続けていた気がする。

間違った恨みは抱いてはいても、成長した部分は確かにある。
海客だと伝え、同情されて、流浪の苦しみなど小さいことだと思える鈴になった。


「おねえさんは、自分が憎いんだね」
突然言われて、鈴は夕暉を振り返った。鈴の横の椅子に座って、夕暉は鈴を見つめている。
「昇紘が憎いというより、自分が憎いんだ。昇紘を罰したいというより、自分を罰してしまいたいんだね」
鈴は瞬いた。
「・・・・・・そうよ」
瞬きの数だけ涙が零れて落ちていく。

夕暉との会話を通して、鈴の筋違いの恨みが涙と一緒に溶け出していく。
ここで鈴が恨みの代わりに得たのは怒り。
鈴は虎嘯や夕暉と共に昇紘を罰することを決意する。


「あたし、本当に恵まれてたの。いろいろ辛いことはあったけど、ただ我慢だけしてればよかったもの。その程度のことだった。昇紘みたいな奴がいて、たくさんの人が苦しんでいるなんて、想像したこともなかった。・・・・・・今、自分がとても嫌い」
言って鈴は小さく笑う。
「実は八つ当たり。自分を憎む代わりに、昇紘を憎んでいたいのかもしれない。夕暉に言われたとおりなの。それで、自分がもっと嫌いになった・・・・・・」
でも、と鈴は視線を上げた。
「昇紘をこのままにしておいたら、いけないわ。・・・・・・違う?」

鈴が本当に恵まれていたとは思わない。
けれど耐えに耐えて、時には戦って鈴は鈴なりに運命を変えてきた。
自分への哀れみも憎しみも、他人への恨みも羨みも、今の鈴になるためには必要なものだったのだろう。
そしてやはり3人の少女たちの中で、鈴の辛さ醜さが一番身近に感じられる。
「昇紘を殺してやりたい」から「昇紘をこのままにしておいたらいけないわ」に鈴の想いが変わった時、鈴は大きく成長した。


「本当に景王は何をしているのかと思うわ。自分の国がどんな状態だか知らないのかしら・・・・・・」
「傀儡なんだ」
陽子がぽつりと言って、鈴は首を傾けた。
「―え?」
「無能で、官吏の信頼もないから、なにもできないし、させてもらえない。黙って言いなりになっているしかない・・・・・・」

陽子との再会。
鈴の無邪気な、でもストレートな指摘が陽子の心を抉る。
ここでは鈴に陽子の苦労や苦しみを知って欲しくて本当にもどかしかった。
同時にこの会話が後の大きな伏線となる。


「頷いた少女を鈴はまじまじと見た。顔かたちの綺麗な少女だ。年の頃は本当に同じくらい。労に促されて陶製の椅子に座った少女は、ほんの少し鈴を見つめ、すぐに三騅に視線を移した。
「三騅ね・・・・・・」

鈴と祥瓊の出会い。
すでに成長した鈴と祥瓊が出会って、2人は景王や清秀について語り合う。
成長する前の鈴と祥瓊が出会っていたら、と考えるとちょっとおもしろい。
2人の間にはどんな会話が交わされただろうか。
どちらが今までにより不幸だったか、とか競い合っていただろうか。


祥瓊は鈴の目を覗きこむ。その大きな目にみるみる溢れるものがあって、思わずしんとそれを見守ってしまった。
「・・・・・・景王って・・・・・・いい人かしら・・・・・・?」
「だと・・・・・・私は勝手に思っているけど・・・・・・。―そんなふうに言われるのが、嫌だった?」
ううん、と鈴は首を振る。
「・・・・・・だったら、嬉しい・・・・・・」

出会ったばかりの楽俊と陽子が神に頼ることについて話し合っていたが、楽俊のように強い存在でなければ、やはり神に頼る人間はこちらの世界にもいると思う。
そしてこちらの世界では神=王なのだろう。
神の責任を求められる王、けれど王になるのもまた普通の人間。
それだけに時に身勝手な、時には全身全霊で、時には命をかけて頼られることへの重圧はどんなものだろうと思う。


鈴は花庁の片隅で微かに身体を震わせた。その男の声は、言い聞かせようとしているように聞こえた。隣に立つ夕暉を見れば、同じく何かを堪える顔をしている。
鈴は漠然と、虎嘯ならば大丈夫なのだと思っていた。少しも大丈夫ではないのだと、虎嘯も他の者もそう思っているとは知らなかった。

虎嘯の豪放磊落な性格のせいか、私もけっこう安心感を持って読んでいたと思う。けれど昇紘の恐ろしさを知り尽くしてなお立つ者たちに恐怖がないわけがない。
それでも虎嘯たちは立とうとしている。
そして虎嘯たちの恐怖を知った鈴もまた降りることなく加わることを決意する。むしろ虎嘯たちより強さが際立つ気がする。


「・・・・・・助けて・・・・・・くれたの」
半分だけ、と陽子の声は低く透る。
「半分は三騅が蹴り倒した。―その騎獣は利広だな」

最初は鈴にどうでもいいような扱いをされていた三騅だったが、決起に必要だから、だけではなく鈴との間に絆も生まれていたのだろう、描かれてはいないが。
鈴のみを主と認めている三騅、可愛くないわけがない。
けれど原作ではこの後傷つけられてそのままわからなくなってしまった。
その分アニメで生きているカットがあり、嬉しかった。


「・・・・・・あんたは、拓峰で子供を殺した」
昇紘は跳ねるように震え上がった。
鈴は拳を握って踵を返す。
「―あたしは、それを絶対に忘れないわ」

よくぞここまで、と思う。
憎くないわけがない、殺したくないわけがない。
けれど今の鈴は「義憤」の意味を知っている。


祥瓊が手を振って下降していく。建物の陰を縫うようにして、北へと飛んでいった。見送る鈴の脇に立つ人影があって振り仰ぐと、吉量から飛び降りてきた男だった。
「あんたが、鈴か?」
「ええ。―あなたは・・・・・・」
男はやんわりと笑む。
「俺は桓魋という。祥瓊の仲間だと言えば分かるか?」

祥瓊、そして桓魋が合流する。
この時点ではたぶん、陽子以外は死を覚悟して決起した者たちだったろう。
それでも駆けつけた祥瓊、やんわりと笑む桓魋、彼らは本当に魅力的だ。


でもね、と鈴は女墻に手をついて身体を起こす。
「あたし、なんとなく分かるんだ」
「街の人の気分が?」
「うん。―あたし。慶に来る前、ある人のところに務めてて、その人がとっても使用人に辛く当たる人だった。今から考えると、どうしてそことするんだ、ってんな文句を言えば良かったと思う。でも、ご主人さまの機嫌をそこねると、ひどいことを言われたり、辛い仕事を命じられるから、それが怖くて黙ってた。黙って我慢してて、そうしている間にね、どんどん怖くなるんだよね」

どんなにがんばってもできないことはある。
梨耀の元で鈴がどんなに戦っても、その迷惑が他の使用人たちに降りかかっていったかも知れない。
鈴だけが孤立してしまっていたかもしれない。
けれど今の鈴なら、使用人たちをまとめ上げて、単なる反抗ではなく、梨耀を諫めるために立ち向かう、そんな強さ大きさを持っていると思う。
鈴がとてもとても苦労して得た本当の強さだ。


「どんな人だか知らないで、勝手に期待して失望して。陽子になにか期待してたんじゃないわ。王さまって偉い人に期待してただけなのに。―本当に、莫迦みたい」
困惑したように鈴を見つめる陽子に、鈴は切なく笑ってみせる。
「でも、王さまってそんなものね。みんな勝手に期待して、陽子自身のことなんか考えてもみないで、勝手の失望していくの。・・・・・・違う?」

梨耀の元にいた時の鈴、清秀を殺されたときの鈴は本当にそうだった。
陽子が救ってくれると勝手に期待して、陽子が清秀を助けてくれると思ってたのにそれがかなわず勝手に憎む。
でもそれは鈴だけではなく、誰もがそうなのだろう。
気づける人は果たしてどれだけいるのだろうか。
「切なく笑う」鈴の想いが伝わってくる。


鈴が夕暉の肩を叩いた。
「私憤で人を襲ったらだめ、でしょ?ここで街の人を見捨てたら、あたしたちのしたこと全部、私憤になってしまうわ。義憤を語る資格、なくなっちゃう」

ある意味夕暉を超えた鈴の言葉は正しい。
混乱と恐怖の中にいてさえ、鈴は冷静に状況を、そしてやるべきことを見極めている。


「―いい加減にしなさいよ!」
革午らはもちろん、虎嘯や桓魋までが目を見開く。
「あんたたちは、昇紘が憎くなかったの?昇紘のやり方でいいとそう思ってたの!?」
「娘、お前は黙ってろ」
「黙ってあげないわ!―昇紘を許してたんなら、あんたたちは昇紘の仲間よ。つべこべ言われる筋合いじゃないわ。いますぐここで昇紘と同じように縄を掛けてやるから!」

この後鈴と祥瓊の最高の見せ場になるが、私はむしろこの場面が好きだ。
この時の鈴の脳裏に景王陽子の姿もなく、才国御名御璽のついた旅券もなかったろう。
ただ自分の思いだけで革午たちに立ち向かう。
たとえその場に陽子がいなくても、たとえ鈴が旅券を持っていなくても、今の鈴なら同じ言葉を迸らせたことだろう。


「考えてなかったの。―でも、とにかく一度、才に戻らないと。采王にお礼を言わないといけないから」

全てが終わり、陽子にその後の事を聞かれての言葉。
采王采麟がどんなに喜ぶことだろう。
もしかしたら梨耀も皮肉な笑みを浮かべながら認めてくれるかもしれない、鈴の成長を。
才国を訪れた鈴の物語も是非読みたい。
そして祥瓊、虎嘯、桓魋たちと陽子の元に戻って仕えて李斎が陽子に出会うまでの日々も読みたい。
李斎の目から見た慶ではなく、慶の内部にいて暮らす彼らの日々を、もっともっと読みたい。



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