「梅安初時雨」より神保屋敷 〜千代田区一番町 |
梅安シリーズの主役の一人、小杉十五郎は牛堀九万之助の門弟だったが、九万之助が死去する際、道場を譲られる。 それが気に食わず、十五郎の暗殺を謀る門弟の一人が「表二番町」に屋敷のある五百石の旗本、神保亀右衛門の次男、弥市郎。 「表二番町」とは現在の「一番町」にあたり、古地図の番町大絵図を見ると「表二番町通」の文字が見える。 江戸、つまり昔の東京と現在の地図を照らし合わせると道筋が全然変わってないので見当はつけやすい。 ただ現在の番町は一番町から六番町まであり、 五 六四三 二一 という感じで並んでいるので、迷う人が多いらしく、歩いているとよく道を聞かれる。 マンションが多い割には人も少なく、店も少ない非常に生活感のない街だが、反面緑は豊かで時代小説や時代劇に出てくる地名も多い。 JR市ヶ谷駅を出て靖国通りを進み、靖国神社のちょっと手前で右折すると「東郷元帥記念公園に」出る。 「東郷坂」と名づけられた坂を下り、四番町図書館を右手に見ながら「行人坂」を上って行くと(この辺はほんと上ったり下りたりのくり返しだ)、今度は「南法眼坂」を上る。 「いきいきプラザ一番町」に曲がる角にある某製紙会社の社員寮。 写真を撮れるような史跡もなければ雰囲気もない普通の住宅街なので、今回はカメラの出番はなし。 古地図を見るとそこには以前川村對馬守屋敷があったらしい。 名前も読めないし、検索かけてもこの人物に関する情報はなかったが、一番驚いたのはこの場所に住んでいたと設定された神保弥市郎。 九万之助の道場は浅草元鳥越町。 浅草のどの辺にあるかはまだわからないが、最寄り駅を浅草とすると、そこに行くには九段下か市ヶ谷駅から大体乗り換えして30〜40分。 電車の距離にして5.5kmになる。 計算して歩いたことはないけれど、2時間くらい? いえ道なりに歩いたらもっと遠いだろう。 神保弥市郎はこの距離を歩いて牛堀九万之助の道場に通っていたのだろうか。 考えただけでも気が遠くなる。 もちろん池波氏は神保弥市郎のような若き剣客が稽古に通うのに適切な距離と判断されたのだろうが、それにしてもすごい。 もちろん歩き回ってて気づいてみたら5,6時間たってたということはあるけれど、最初から市ヶ谷から浅草まで歩いてみようなどとはとても思わない。 これまでも鬼平や梅安や秋山小兵衛の歩いた道をたどったが、そのほとんどが本を読むだけでは想像できないほどの長距離で、いつも疲れ果てて帰っている。 (生まれついての方向音痴ゆえ、迷うせいもあるのだが。) 同時にこの距離は池波氏のエッセイなど読むと、実際に池波氏が歩いた馴染みのある距離であり、確かめた距離である。 ご自身の小説に出てくる登場人物に負けない健脚ぶりが髣髴とされる。 ここに住んでた弥市郎、どうしようもない青年だが、ここから浅草の剣術道場に通っていたというだけでもたいしたものである。 ところでこの近辺は「番町」の名前でもわかるとおり、「番町皿屋敷」の舞台にもなった所。 もう少し駅の方に近づいていくと、お菊が髪を振り乱し、帯を引きずって逃げたと言われる帯坂があるし、以前ジムでその話が出た時、「お菊さんが殺された屋敷はこの近くのマンションなのだが、どこだかわかるとそのマンションが売れなくなるから秘密にしている。」などというまことしやかな噂を聞いた。 神奈川県平塚市にはお菊のお墓があるということだし、いつか行ってみたいと思っている。 そんなことをぼんやり考えながら歩いていたら、「シェ・カザマ」の前に出た。 日テレがまだ番町にあった頃、ここは日テレ御用達のパン屋さんで、「出没!アド街ック天国」に出演した永井美奈子アナが絶賛していた。 ちょっと高いイメージがあるのでなかなか寄れないが(笑)、ここのサンドイッチは大好き。 でもこの界隈が昔武家屋敷がずらっと立ち並んでいたというのは想像力の乏しい私にはイメージできなくて、どうしても時代劇や映画のセットを思い出すしかないのが情けない。 (2006年10月16日の日記)
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田中屋久兵衛請負宿 〜神田橋 |
営団地下鉄千代田線B7出口を出てまっすぐ進むと、高速道路が走るその下に神田橋が見えてくる。 「仕掛人・藤枝梅安」シリーズ1巻「殺しの四人」の中の「梅安晦日蕎麦」に登場する田中屋久兵衛の請負宿のあったあたり。 日本橋の頭上にかけられた高速道路を嘆いておられた池波氏、神田橋の上を走る首都高速に何を思われているだろうか。 けれど始めて見た時からの私に馴染んだ風景は、高速道路の下の日本橋や神田橋。 高速のない日本橋や神田橋を思い浮かべようとすれば、テレビや映画で見たセットの風景が浮かんでくる。 田中屋久兵衛は「殺(や)ってもいいような奴」として石川友五郎の殺しを彦次郎に依頼したが、石川友五郎は「殺ってもいいような奴」ではなかった。 久兵衛に仕掛けの仲介を依頼した側こそが「殺ってもいいような奴」だった。 それを知った梅安と彦次郎は依頼人嶋田大学と共に、この田中屋久兵衛も「仕掛ける」のである。 久兵衛は別に彦次郎に悪意があったわけでもないのだが、石川友五郎を救うためには事情を知る久兵衛の口を閉ざす必要があった。 同時に仕掛ける相手が本当に「殺ってもいいような奴」であるかどうか、見極めようともしなかった久兵衛を仕掛人として許せなかったのだろう。 そんなストーリーを思い出しながら、神田橋に向かって歩いて行くと、前方に白い桜の花が見えてきた。 この時期に通ったことがないから気づかなかったが、薄曇りの白い空に寂しく融ける白い桜。 足を止めて携帯を構えるサラリーマンや、写真の撮りっこをする老夫婦も、曇り空では花も目立たず、がっかりしたように写真を見ている。 きれいな青空になったらまた写真を撮りに来ることにして、ここは素通り。 ところでこの桜と神田橋の間に摩訶不思議な像がある。 金色のちょっと太目の「考える人」。 どう見てもコガネムシだよなあと思ってみたら、ほんとにコガネムシの擬人化だった。 像の下の説明書きには「千代田区の区民の暮らしと発展する街の様子を表現したもの」とあったけど、成金みたいでなんだかめげる。 待ち合わせしてるような顔して橋にもたれ、川を見下ろすと、濃い緑の澱んだ水がもったりと溜まっている。 寒々とした空の下、冷たい風に身をすくませていると絶え間ない車の流れや人の往来もそんなに気にならなくなってくる。 池波氏がなぜこの場所を田中屋久兵衛の請負宿に選んだか、ぼんやり考えた。 昔の住所で言うなら三川町一丁目(梅安では三河町一丁目)、細い道路を挟んで反対側には勘定奉行都筑駿河守や本多豊前守屋敷がある。 これらの屋敷で雇い入れる中間たちを周旋するのが田中屋のような請負宿だった。 そう思って見渡すと、立ち並ぶビルも大名屋敷に見えて・・・はこないか(笑)。 この場所から田中屋久兵衛は浅草今戸の「玉屋」という料亭に彦次郎に会いに行くのだが、私の感覚では浅草の方角も距離感もとんとわからない。 ここが東京に生まれ、東京で育ち、東京を歩き回った池波氏の頭の中では生きた地図としてしまい込まれていたんだろうなあと思う。 私も60歳、70歳になってまだサイトを作っているかどうかはわからないけれど、その頃までは「江戸」の町をどんどん歩いて、少しでもこの地図を自分のものにしていきたいと思う。 池波氏や池波氏世代の読者は失われた風景を嘆かれる。 私の世代は今の風景から古き良き時代を探し出そうとする。 それは池波氏の時代を共に生きてこなかった私たち世代の特権だ。 そしてそれは案外楽しいことだ、そう思う。 さてこの神田橋、私の大好きな本屋さん「時代屋」からも近い。 2階のお茶屋さんに入って熱いほうじ茶でこごえた体を温めながら、本を読むのがとても楽しい。 みたらし団子も奮発しようかな?と思ったけれど、せっかくいっぱい歩いたんだもの、今日はダイエット日にしておこう。 「梅安晦日蕎麦」はほのぼのした終わり方のとても好きな作品。 梅安が救った女性のお礼にと、お寺の老僕と僧が蕎麦を打ってくれ、彦次郎とのんびり蕎麦を食べる梅安、心穏やかな一夜となる。 ★今日の一枚。 車と高速、神田橋。 一応桜も咲いているのですが。→「こちら」 (2007年2月12日の日記)
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柳原土手 |
JR秋葉原の駅前からワシントンホテルのある方に向かうと、「ふれあい橋」の小さな看板が見えてくる。 万世橋と和泉橋に挟まれた、車は通行不可の、こじんまりした橋。 東北・上越両新幹線東京駅乗り入れ工事に伴うJR鉄橋工事用の橋が地元の要望でそのまま残されたものだそうで、小さいながらも不思議な風情がある。 ふれあい橋の中央に立ち、柳原土手を眺める。 夕暮れの秋葉原を吹き抜ける風は気持ちいいけれど、同時に神田川の澱んだ水面から生臭い匂いも運んでくるのには辟易する。 牛堀道場の相続争いに巻き込まれた小杉十五郎は決着をつけるべく、追っ手をここにおびき寄せた。 北原亞以子著「蜩」の中の「権三回想記」では 「土手下の柳原ってえものは、昼のうちこそ古着屋などの床店が出ていて人通りもあるが、日暮れになると、この床店がばたばたっと片付けられちまう。 あとに残るのは、迂闊に手をつけると祟りがあるってえ清水山、ぼうぼうと生い茂って死骸の一つや二つは飲み込んでいそうな草叢と、それを照らすお月様だけって寸法でね。 柳原名物の夜鷹は、餓鬼の頃から見ておりやした。」 と語られる凄まじい場所だが、現在は神田川のぎりぎりまで建物が立ち並び、当時を思い出させるよすがはない。 けれど、電気街とは反対側は古い家が立ち並ぶ、どこかくすんだ風景が続く。 それを懐かしいと感じるか、寂しいと感じるかは、訪れた人の年齢や心情によるんだろうなあと思う。 橋を渡ってすぐ左手にあるのは柳森神社。 こちらもこじんまりした神社だが、由来書によると、江戸城主・太田持資(道灌)が城の鬼門除けとして植樹した柳の森の鎮守として、長禄三年(1459年)に祀られたものだそうだ。 なんとも愛嬌のある狸の像が「おたぬきさま」と呼ばれ、「他抜き」とかけて、立身出世のご利益があるとされているそうだ。 お稲荷さんの狐の代わりに狸の置物が置いてあったりして境内は狸だらけ、とにかく可愛い。 ちょうど少ないけれど紫陽花が見頃で、ガイドブックやカメラを手にしたカップルやグループをたくさん見かける。 以前はこうして神社巡りをしていても、退職して老後の楽しみに歩いてますみたいな世代の方たちが多かった。 でも最近は古地図ブームの影響か、いろんな世代の人たちが楽しそうに歩いていて、声をかけ合ったりしている姿も時々見かける。 柳森神社に真正面から向き合うと、鳥居と後にそびえるワシントンホテルが不思議な対象をなしており、おもしろい。 さて、元鳥越町の牛堀道場を出た小杉十五郎は隅田川と神田川の合流点で浅草御門(現浅草橋)を通り、今度は神田川に沿って今で言うなら総武線沿線を浅草橋駅から秋葉原駅に向かって歩き続ける。 私たちも浅草六区を起点に挑戦してみたけれど、買ったばかりのスニーカーがいまいち合わず、浅草橋にて断念。 それでも寄り道しながら1時間半も歩いただろうか。 実際に登場人物の歩いた道をたどってみると、ほんと彼らの、つまり池波氏の健脚ぶりに驚かされる。 こっちはもうへろへろだ(笑)。 帰りに両国の小さなお店でちゃんこ鍋を食べてこの日は終了。 こんな日は、日本酒の苦手な自分が恨めしい。 ★今日の一枚。 ふれあい橋から見た柳原土手。 右手端に柳森神社、左手にはJRと電気街に続く道。→「こちら」。 ★追記(2008年2月29日) 今年の1月に国立劇場で行われた歌舞伎「小町村芝居正月」を見て来た。 平安時代の前期、異母兄弟の惟喬(これたか)親王と惟仁(これひと)親王の「御位(みくらい)争い」を背景にして、歌人として名高い大伴黒主や小野小町、小町を慕う深草の少将などにまつわる、さまざまな伝承を巧みに脚色した作品だが、その中で四幕目「柳原けだもの店(たな)の場」での尾上菊之助さん演じる小女郎狐の柳原土手(柳森神社も登場)での立ち回りが去年見に行ったばかりだったので、特に楽しかった。 秋葉原のワシントンホテルのあるあたり、電気街と少々匂う神田川に挟まれたあの場所がこれほど豪華絢爛、美しく楽しく描かれるとは。 柳森神社も室町時代、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社だが、境内に鎮座している大きな狸を思い出し、菊之助さんの優雅な狐芝居とつい思い比べて笑ってしまった。 歌舞伎もたくさん見たいとは思うけど、実際に見てみると難しくてよくわからず、眠くなってしまうこともあるという情けなさなのだが、こうした知識が少しでもあれば、それだけ楽しめるものなんだなあとつくづく思った。 (2007年6月22日の日記)
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雉子神社 〜藤枝梅安の家 |
JR五反田駅で山手線を降り、桜田通りの坂を上ると右手の方に雉子神社の鳥居が見えてくる。 品川は私は滅多に来ることのない場所で、五反田駅も初めて。 けれど立ち並ぶビルに車両の列、行きかうOLやサラリーマンと、これまで訪れた幾多の駅前とさほど変わらない風景が続く。 梅安の家に関しては池波氏の「江戸切り絵図散歩」でも詳しく書かれているので楽しみにしていたのだが、鳥居をくぐって見上げた瞬間、あっけに取られてしまった。 大きなビルがあってその吹き抜けのような薄暗い場所にそれらしき本殿がある。 「雉子神社」と書かれた提灯がぶら下がった社務所があるので雉子神社であることは間違いないのだが、あまりに殺風景な風景に足が止まってしまったのだった。 社務所で頂いた由来によると「国道放射一号線(桜田通り)」の改修擴幅(幅を広げる)が3回行われ、現在のような姿になったのだそうだ。 ちなみに以前は普通に鳥居があってその奥に本殿がある神社だったが、平成7年3月から現在の姿になった。 池波氏は平成2年に亡くなっているので、この姿は見ることなかったのだろう。 水色の袴が可愛い巫女さんに聞いてみたら、鳥居の位置は変わってないとのことだったので、一安心。 丸くて太い柱に囲まれた本殿の向かって左側の屋根にはこの神社の由来である雉が一羽。 徳川三大将軍家光公がこの地に鷹狩りに来られた時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に詣でられ、まことに奇端であると、「以後雉の宮」と称すべし」とのお言葉があって現在に至るとのこと。 昔は神社の西南方は広々t開けて青田が続き、池が散在し、芦や萩が生い茂っていたという。 そんな中に梅安の家はあったのだろう。 鳥居を背に桜田通りを眺めると反対側のあたりが梅安の家となるのだろうか。 あまりに殺風景な風景にちょっとがっかりしてしまったが、本殿の裏手が小高い丘になっていて、そこからむき出しの地面や岩がのぞいているのがむしろ新鮮だった。 そこからは上れないが、位置的に丘の上にあたる部分にやはり「殺しの四人(梅安シリーズ1巻)」梅安宅紹介部分に登場する宝塔寺の墓地がある。 天気のいいその日はお墓の販売会を行っていて、お寺の正面からではなく墓地から入ってしまった私たちを満面の笑みで迎えてくれたのには困ってしまった。 いったん桜田通りに戻り、五反田駅に少し戻ってから宝塔寺の正門に向かう。 こじんまりしたお寺だが、綺麗に手入れされた植木が抜けるような青空に映えて鮮やかだ。 突然の訪問者を迎えてくれたのは白と茶と黒の毛並みの猫。 のんびりしたしぐさで歩き回ったり座り込んであくびをしたり、人なれしていて近づいても逃げる様子もない。 さすがに撫でるところまではいかなかったが、「ここに池波さん来たのかなあ。」と話しかけると「にゃあ」と鳴いた。 「うん、来たよ。」って答えているように聞こえたのは気のせいか(笑)。 今回「雉子の宮」の絵を探して何冊かの「江戸名所図会」解説本を読んだが、残念ながら見つけることができなかった。 本来の雉子神社と梅安の位置関係はもう少し調べてみたい。 ★今日の写真。 宝塔寺で出会った猫。→ 「こちら」 (2008年1月24日の日記)
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料亭井筒 〜橋場不動院 |
橋場不動院のある界隈は、今梅安の料亭井筒があってもおかしくない雰囲気を持った土地柄である。 以前石浜神社(真崎稲荷)を探して南千住に降りた時はけやき通りを通ったが、今回は反対側、泪橋経由で行ってみることにした。 泪橋からまっすぐ隅田川に出るまで歩いて白鬚橋に着いたら左に曲がれば石浜神社、右に曲がれば不動院があるはずだった、がお約束のように道がわからなくなった。 ところがうろうろ歩いているうちに、いきなり目の前に「小塚原回向院」の看板が。 ここがあの・・・?と一瞬どきりとしたが、陽もまだ明るいし(笑)、とおずおず足を踏み入れた。 ところがお墓が一般のお墓がある場所と処刑された罪人のお墓がある場所が塀で区切られていたのに間違って一般のお墓が並んでいる方に入ってしまった。 うわあ、たくさんあるなあとあたりをゆっくり見回し、何組かのお参りの方がいらしたので写真を撮ることもなく出てきた。 そこで間違ったことに気づいたわけ。 で、今度はちゃんと入り直したわけだが、予想したようなおどろおどろしい雰囲気などあるわけもなく、ただ橋本左内、吉田松陰、高橋お伝、鼠小僧次郎吉などのお墓がどれかを示す案内だけがここが処刑場後であることを示している。 こちらも一通り見てから道に戻り、歩き出したのだが、何気なく右を見た途端、ぶわっと鳥肌立った。 首切り地蔵。 燦々たる日の光を受けながら、逆に日光を背負った姿は暗くて見えない、ただ黒くて大きな怖い者が鎮座している。 一瞬だけどとても怖かった。 ちょっと振り返ればそこはひっきりなしの車や電車の喧騒、人の賑わい。 なのにそこだけがまるで異質な空間。 でもこの鳥肌は、この地に残る罪びとの怨念でもなんでもなく、ただこの地がどういう場所かを知っている私の「知識」が立てたものだろう。 宮部みゆきさんの「平成お徒歩日記」でもこの首切り地蔵のことが書かれていたが、日中とは言え近寄ったり写真撮ったりする度胸はなかった。 意外と私、臆病者だ。 そんな寄り道してからやっとたどり着いた不動院。 前に石浜神社社史を読みに行った石浜図書館のすぐそばだったことに行ってから気づく(笑)。 天台宗橋不動院。 ひなびた感じの建物に色鮮やかな幟、そして冴える緑。 戦災を逃れて生き続けてきた場所はどこかセピア色をしていて、それでいてたくましい。 最近は新築されたお寺や改築された神社を見ることが多かったせいか、ただそこにいるだけで和んでしまいそうな、そんな愛らしい雰囲気だった。 寂昇上人が開創されたというこの不動院、石浜神社と並んで浅草七福神のひとつなのだそうだ。 石浜神社は寿老人で橋場不動院は布袋尊。 今年は浅草七福神巡りをしてみようかな?と思いながら帰途に着いた。 帰りは隅田川に沿ってけやき通りまで歩いてみる。 ススキの向こうに首都高が見える。 何かあったのか渋滞中。 墨堤から見下ろす一般道路もせわしなく車が行き来している。 その間を川と一緒にのんびりのんびり歩いていく、気持ちいい。 左手に石浜神社(真崎稲荷)が見えてくる、後に大きな東京ガスの丸いタンクを従えて。 「先日はお世話様でした」 遠くから軽く会釈してみたりする。 なんだか気持ち良くて、とてつもなく気持ち良くて、このまま隅田川に沿ってどこまでもどこまでも歩いて行きたくなった。 このまま言問橋を越えて両国橋も越えて吾妻橋も厩橋も越えて神田川と合流して、さらに歩いて勝鬨橋まで行けるかな? 海まで歩いて行けるかな? そんなことを考えながら足はきっちりけやき通りで左折して、迷いなく南千住の駅に向かうのだった。 そんな自分が情けない(笑)。 ★橋場不動院 東京都台東区橋場2丁目14−19 ★今日の写真。 「色鮮やかな橋場不動院の風景」。 (2008年12月4日の日記) |
おもんの実家 〜東本願寺 |
梅安の恋人おもんは阿部川町(現元浅草3丁目)の実家に子供を預け、橋場の料亭井筒で働いている。 古地図で見ると、阿部川町は東本願寺の近く。 井筒は先日行った橋場不動院のとこ。 それなら今回はおもんになったつもりで橋場不動院から浅草東本願寺まで歩いてみようと思いたった。 例によって南千住駅から大川(隅田川)に向かって歩き始める。 以前梅安シリーズの彦次郎の家を探す時に、地図上で「汐入土手」がわからなくて苦労したが、実際に来てみると消防が「汐入出張所」になっていたり「汐入中央通り」があったりして「汐入」の言葉が残っているのに驚いたんだっけ。 空はどんより曇っているけど、暑からず寒からずのちょうどいい天気(ちょっと湿気が多いけど)。 すっかりお馴染みになった石浜神社(真崎稲荷神社=大治郎の家のあったとこ)や石浜図書館に寄り道しながらのんびり歩く。 千住大橋を渡れば本所があって白鬚神社があって、あっちに行けば鐘ヶ淵とこれまでピンポイントで訪れていた場所が線となってつながり、やがて私の頭の中に私だけの地図ができていくのが嬉しい。 川からちょっと離れ、橋場不動院にお参りしていよいよスタート。 久々のお休みに早く実家に帰りたかろうし、子供に会いたかろうしというわけで、ここからはぶらぶら歩きをやめてまじめに歩く。 できればずっと川に沿って歩きたかったのだが、道がないのかな?川に通じる道路が見当たらない。 桜橋のところでやっと川のところ(いわゆる隅田川テラス)に戻ることができた。 この桜橋がX字形のとても広くてきれいな橋なのだが、歩行者専用。 ここは是非橋を渡ってみたかったが、今はおもんの歩いた道筋を、ということで我慢する。 今度来た時渡ってみようっと。 次の橋が有名な言問橋。 でもきれいな名前のわりには普通の橋でちょっとがっかり。 さらに進むとお馴染みアサヒビールのオブジェと吾妻橋が見えてくる。 ここから街中に入っても良かったのだけれど、もう少し川沿いを歩いてみたかったのでそのまま駒形橋まで行き、右折して東本願寺に向かう。 驚いたことに途中で池波氏の眠る西光寺に行き当たった。 お墓参りをしていきたかったが、墓地に入るにはいったん中に入ってお寺の方にお願いしないといけないので今回はお休み。 そしてやって目指す東本願寺。 何度か前を通ったことがあるものの、中に入るのは初めて。 東本願寺は浄土真宗の寺院で、 1591年に神田明神下に開創されたという。 1657年の「明暦の大火」により焼失し、後浅草の東本願寺と築地本願寺に分かれて現在に至るという。 その後も何度か火災にあったとのことで建物が大きく、新しい。 それだけによそよそしい感じがするのも致し方がないことで、がらんとした本堂もどこか居心地が悪く、参拝だけして早々に出て来てしまった。 橋場不動院から45分弱。 ちょっと遠回りをしたからで、吾妻橋から街中に入れば40分以内で来れたのではないか。 おもんも毎日の仕事で疲れてるだろうに、ほとんど走るようにしてこの道を歩いたんだろうなと思った。 架空の人物なのにここまで思いをはせることができるのは、やはり池波氏の描写の力なのだろう。 おもんは自販でお茶など買えなかったから、コンビニで一休みできなかったから、と黙々と歩いてきたけど、ここでおもんもおしまい。 せっかく浅草まで来たんだからもんじゃだ舟和だ梅園だ、と例によって食べまくりの買いまくり。 ダイエットの効果もどこへやら、の哀しい結末。 どうせだったらそのまま合羽橋へ抜けて上野まで歩いちゃおうということでこの日はとにかくがんばった。 上野に向かう時、ふと振り向くと少し離れて商店街の奥に小さくなった(わけではないが)東本願寺が見えた。 さっきまで近寄りがたい雰囲気を漂わせていた東本願寺がここから見るとなんか親しげで浅草の街に溶け込んだ感じが良かった。 この後池袋に用事があって、これはさすがに電車に乗ったが、都議選の折、江東区、墨田区、台東区、豊島区、そして自宅のある区と5つの区の都議選ポスター巡りもまた楽しかった。 ★今日の写真。 「浅草の街に溶け込んだ東本願寺」。 (2009年7月24日の日記) |
赤大黒の市兵衛の家〜日枝神社 |
赤大黒の市兵衛は「藤枝梅安」シリーズの記念すべき第1話で最初に梅安に仕掛けを依頼する登場する人物。 初めて「仕掛け人・藤枝梅安 殺しの四人」を手にした時、内容に関する知識はほとんどなく、時代劇によく出てくる悪代官と越後屋(「お主もワルよのう」みたいな会話を交わしている、笑)のイメージしか持っていなかった私だった。 今思えば池波正太郎ともあろう作家がそんなありふれた小説を書くわけがないのだが。 ただ主役の梅安と共に、仕掛けを依頼する市兵衛も、殺しを頼み、請け負う人間同士なのに悪党の匂いが感じられず、不思議に思ったことを覚えている。 その市兵衛の家は現代でいうところの港区赤坂2丁目とある。 それだけでもうお金持ちだなあ、港区かあなどとため息の一つもつきたくなってくる俗人だ、私は。 なにしろ数年前の家探しで夢は大きく、などと言いつつも港区界隈は高すぎて最初から放棄していた場所なのだ。 古地図で見ると1丁目に日枝神社がある、今回はここに決めた。 年に何度か所用で虎ノ門に行くが、帰りはいつも溜池山王まで歩くことにしている。 その途中で外堀通りをはさんで反対側に見えるのが日枝神社。 大きな神社であると共に、立派なエスカレーターがある意外性でやたらと目立つ。 神社仏閣が好きでよく歩く私だが、有名な所、大きすぎる所、建物が新しすぎる所はどちらかというと敬遠してしまう。 親しみやすさがない気がするからなのだが、日枝神社はその筆頭、しかもやはり虎ノ門からの帰り道、今日言ってみようと決めたその日は大雨だった。 なんだか相性悪いなあと思いながら、初めて通りを渡り、日枝神社へ向かう。 確かに仔の高さは特にお年寄りにはきついだろう、エスカレーターがあるのも当然かも。 でもそこはあるかなしかの若さを発揮、石段を歩いて登る。 ローヒールのパンプスを履いてきたけどけっこうきつい。 昔旅行で四国の金毘羅さんを二往復して息も上げなかった青春時代を思い出してもいちどため息。 しかもとにかく雨がすごい。 でも石段を登った先の大きな銀杏の木は今を盛りと色づいてなかなか風情がある。 雨のせいか他に人もおらず、閑散とした感じがいい。 とりあえずお参りを、と本殿に近づいてびっくりしたのがそこに鎮座していたのが狛犬ではなく狛猿?だったこと。 日枝神社のホームページによると日枝神社の当社の神使は古来、猿(申)といわれ、祭神大山咋神(おほやまくひのかみ)は山を主宰(うしは)き給う御神徳を持った神であり、この猿と比叡の山の神としての信仰とが結びついて山王の神使「御神猿」として信仰されるようになったという。 「山を主宰(うしは)き給う御神徳」というのがよくわからないが、「劇団を主宰する」と同じ字なのでなんとなくニュアンスは感じ取れるような気がする。 では狛犬は?とふと思った。 狛犬や稲荷神社の狐の方が数としては多いように思えるが、狐はともかく犬というのがよくわからない。 古来人間に慣れ親しんだというだけではないだろう。 調べてみたらおもしろいかも。 広い境内をうろうろしていたら、ふと雨に濡れて真っ赤な金網が目についた。 何だろうと思って裏側に回ってみたらなぜか赤い金網で閉ざされたお稲荷さんが。 しかもそこから木々にさえぎられるようにして細い石段が下方に続いている。 雨に濡れて薄暗く、カーブしていて先の見えないそこは、私の大好きな雰囲気をまとっていた。 日枝神社にもこんな場所があったなんて! それにしても何故このお稲荷さんは閉ざされているんだろう。 関係者の方でもいらしたら聞いてみたかったが、残念ながら人の気配は全くなかった。 (この雨で参拝する人なんていないだろうと皆引っこんでいたのかも)。 おそるおそるその石段を降りてみたら、着いたところはなんのことはない、駐車場。 しかも正門と違う所に降りてしまったので、お約束のように道に迷った。 けれど正面から見たらあんなにきれいに取り澄ました感じの日枝神社の裏側にこんな素敵な場所があったなんて、とちょっと感動した。 日枝神社に大雨の日に来てよかったと思った、日枝神社には雨がよく似合う(笑)。 以前、虎ノ門から溜池山王を超えて四谷まで歩いたことがある。 その日は真夏の酷暑で、でもビールの飲みすぎで増えた体重が気になってたその頃、疲れたら電車かバスに乗ればいいやと思って歩き始めたが、その道のりは遠かった、しかも坂道。 その日もヒールでしかもスーツという歩くには全くふさわしくない格好。 汗も出ず、後で知ったがその日は熱中症で救急車で運ばれた人の数が記録的に多かった日だったとか。 危ないことをしたもんだと後で冷や汗が出た。 (もしかしたらその時も道間違えたのかも) その途中で大きな大きないかにも日本建築な門を見かけた。 そこが東宮御所のある赤坂御用地だとは帰るまで知らなかったが、その威風堂々とした門のたたずまいに圧倒された。 洋風の建物なら大きい物はいくらでもあるが、和風でこれほど貫禄あるのは見たことないやとその時思った。 失礼ながら、殺人事件のあった大本家の前にたたずむ金田一耕助の気持ちになったっけ。 濡れついでに今日もそこまで歩いてみようか、暑くないし(寒いくらいだし)と思ったけど、風邪をひくのが怖いのでそのまま帰った。 私も気弱になったもんだ。 ★今日の写真。 「なかなか可愛い狛猿」。 ★東京都千代田区永田町2−10−5 (2009年12月17日の日記) |
大名・有馬中務大輔頼貴の上屋敷 〜増上寺 |
梅安が「殺しの四人」の中で仕掛けを頼まれる相手が、有馬中務大輔頼貴の上屋敷邸内の長屋に住む伊藤彦八郎だが、その有馬中務大輔上屋敷が古地図上に実際にあり、頼貴も実在することに驚いた。 頼貴は有馬久留米家の8代目当主で、11代将軍家斉(在位1787年〜1837年=天明7年〜天保8年)の時代の人物。 そしてその上屋敷があったあたりが現在の港区三田1丁目のあたり。 といったら増上寺だろうというわけで、小雨の降る日に行って来た。 増上寺といえば、最近では芸能人多数参加の豆まきがすっかり有名になってしまったが、元はといえば徳川家の菩提寺として栄えたお寺。 由来書によれば、1393年(明徳4年)、武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区紀尾伊町にかけての土地に浄土宗第八祖聖聡(しょうそう)上人によって開かれたが、1598年(慶長3年)に現在の地に移転したらしい。 ところが増上寺に肝心の家康のお墓はなく、あるのは二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍の墓所のみ。 家康のお墓は日光東照宮にあり、以前何度か行ったが、その頃撮った写真は引っ越し続きのどさくさで紛失してしまった、残念。 ちなみに増上寺では墓所は普段は一般公開してはいないが、年に何度か日を決めて公開しているようである。 さて、都営三田線御成門駅を出て少し歩くと、増上寺より先にプリンスホテル、そして東京タワーが見えてくる。 例によって「いいとこ住んでたなあ・・・。」などと今のイメージで想像してうらやましく思いながら歩く。 最近はすっかりスカイツリーがブームで、東京タワーが寂れたの、逆に相乗効果でこちらも盛り上がっているのとニュースが騒がしいが、雨に濡れながらすくっと立っている東京タワーは、遠目にもスカイツリーがまだまだ足元にも及ばない威厳と貫禄を備えていた。 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で高度経済成長期に湧く日本の象徴のように東京タワーが描かれていたが、やがてスカイツリーを抜く新たなタワーができる頃に、スカイツリーも年輪の貫禄というものを備えていくのだろうか。 たまたま数日前に亀戸天神に藤の花を見に行き、その際見上げたスカイツリーの高さとこんな離れた所でも写真を撮ろうと押し合う人たちを見て来たばかりだったので、いろいろ考えさせられることは多かった。 増上寺でも東京タワーを見上げながら歩き回ったが、もっとも印象が強かったのが子育て安産に霊験あらたかとされる 西向観音。 子供の無事成長を祈って赤い帽子をかぶったお地蔵さまが無数に置かれている。 同じくたくさんの色とりどりの風車や供えられた人形などが、雨にぬれた薄暗い背景に恐ろしくなるくらい鮮やかだ。 休日とあって観光客も多かったが、ここに来ると皆一様に静かになってお地蔵さまを見つめる風なのがいかにもという感じだった。 そういえば小野不由美著「黒祠の島」にもこうした無数の風車の描写があったなとふと思い出した。 不謹慎ながらも、薄寒い薄暗い中のこの強烈なコントラストは、あの時感じた寒気に似たものを呼び起されてしまった。 申し訳ありませんとお地蔵様たちに頭を下げる。 よく見ると一体一体とても可愛い顔をしている。 哀しいメッセージを伝える物もないではなかったけど、いろんな想いがここにひっそり眠っているような、空気の重さ、清らかさを感じてしまった。 ★東京都港区芝公園4-7-35 TEL:03-3432-1431 ★今日の写真。 「東京タワーと増上寺」。
(2010年5月21日の日記) |
旗本・嶋田大学秀現の屋敷 〜清正公寺 |
今回取り上げる嶋田大学は、人として許せないことをしでかすとんでもない人物。 まあ彼がいたから梅安シリーズの中でも特に好きな終わり方を迎える「梅安晦日蕎麦」を読めたわけだが、この屋敷があったのは現在の日本橋浜町2丁目に設定されている。 地図で検索していたら、ありがたいことに嶋田大学とは正反対の人物、加藤清正を祀ったお寺があることに気がついた。 嶋田大学のイメージを浄化するには清正が一番っていうわけで今回選んだのは浜町公園の中にある、その名も「清正公寺」。 加藤清正といえば豊臣秀吉から徳川家康に仕え、関ヶ原でも名を轟かせた猛将で、賤ヶ岳七本槍の一人。 当然さまざまな小説に登場する有名どころだが、私としてはやはり「真田太平記」の清正像が一番好き。 なぜそんな所に清正ゆかりのお寺があるのか、興味津々で出かけてみた。 ついでに日本橋浜町あたりをぶらり散策してみたかったのだが、今回も時間はなく、暑さにもまいってあまり歩く気になれないという情けない一日となってしまった。 悪いことに?浜町駅を出たら目の前に浜町公園があって、数歩歩いただけで清正公寺が見えてくるのだから、歩く必要も全くなく、そんな状況に甘えてしまった自分が情けない(笑)。 なんだかとっても小さなお寺で、ぐるりと回ってみたが、お寺というよりお堂のよう。 聞けば江戸時代には細川藩の下屋敷があったところで、文久元年(1861年)、細川斎護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請して創建したお寺だそう。 加藤清正とどんな関係が?と思ってみれば、当時から人気のあった清正を祀ることによって民の心をつかもうとしたという、早い話が人気取り。 これはちょっとがっかりだな、と思ったけど、人の姿もほとんど見えない酷暑の浜町公園に、清正公寺は「そんなこと関係ないもんね」と言わんばかりにすまして鎮座していた。 そして私も、それだけ人気のあった加藤清正、やっぱり好きだなあとなんとなくほのぼのとした気持ちで帰ることができた。 お寺のそばにいたのは、というより浜町にいたのはわずか10分ほど。 これまであちこちの神社仏閣訪ね歩いたけれど、その中でも最短記録を更新してしまった。 しかもここで撮った写真が行方不明、というわけで、写真のアップは後ほどでお許しを。 それにしても嶋田大学、本当に許せない奴である。 帰りも電車の中で「梅安晦日蕎麦」を読んで一人で怒りながら帰った。 ★東京都中央区日本橋浜町2-59-2 TEL:03-3666-7477
(2010年9月13日の日記) |
下駄屋・金蔵の家 〜薬師寺東京別院 |
完全なる脇役なのに、主役の梅安よりも先に登場する愛嬌者の下駄屋の金蔵。 彼の家は当然梅安の家の近く、つまり雉子神社の近くのはず。 今度行ってみようと思っていたのだが、下調べする前に所用で新橋に行くことになった。 新橋の帰り、駅でふと表示を見ると、都営浅草線で五反田がすぐだ。 とりあえず五反田に行ってみて、雉子神社近くのお寺か神社を探してみて、そこを金蔵の家に決めようと勝手に思って行ってみた。 五反田のホームで行先表示を見てすぐ目についたのが「薬師寺東京別院」。 独身時代、しょっちゅう奈良京都に一人旅したものだが、奈良では薬師寺が一番好きだった。 その薬師寺の別院がなぜ東京に? いえ私が知らないだけで、薬師寺別院は日本中にごろごろあるのか?などと考えながら早速行ってみることにした。 五反田駅から5分ほど歩いた薬師寺東京別院は、なんともロマンチックないわれを持ったお寺だった。 そして私が今までお邪魔した中で、一番親切で丁寧な応対をして頂いた。 ただ見学に行った身としては、心苦しくて仕方がないほどで、でもおかげでいろいろお話を聞くことができた。 まずこの建物は宮尾登美子著「伽羅の香」のモデルとなった香道家山本霞月氏より譲り受けた物だそう。 残念ながら、平成15年に老朽した邸宅を一部解体復元したということで、見目新しい建物となっていたが、香道、茶道、華道、書道、そして写経など訪れた人が自在に学ぶことのできる(もちろん有料だが)環境が整っている。 玄関から階段を上がっていくと、袈裟をまとった笑顔の優しい女性が出迎えてくれた。 最初に本堂の見学と写真をお願いすると、快く承諾してくれ、本尊の写真を撮ってもいいけれども、中では写経している人もいるので、邪魔にならないようにして下さいと言われる。 そっと入ると、なるほど10人ほどの女性や老夫婦が熱心に写経をしている。 その静かな雰囲気にのまれて、写真はやめて見るだけにする。 さっき昔奈良京都に通っていたと書いたけど、今ほど寺社仏閣に興味があったわけでもなく、奈良京都に一人旅する自分に酔っている部分ってあったよなあ、と心に赤面しながら振り返る。 瀬戸内寂聴の寂庵を訪れた時は、やはり写経をする人たちがたくさんいて、その真摯な態度に、恋に恋するお年頃みたいな感覚で寺社巡りをしていた自分が恥ずかしくなったっけ。 今の私、あの頃から少しは成長しているだろうか。 反省しながら出て来ると、先ほどの女性がお菓子とお抹茶を用意してくれていた。 たぶん写経や習い事に来た人のためのものだろうに、こんな私にすみませんと恐縮しつつもおいしく頂く。 そして今度は由来書きを見ながら、「伽羅の香」に関する話を聞いた。 写経や香道などを通じて訪れる人を大切にもてなす、そうでない人も丁寧に応対してくれる、その姿勢には本当に好感が持てた。 私がお茶を頂いている間も、(たぶん近所に住んでいる)顔なじみらしき老婦人が上がって来て、いろいろ世間話や家庭の愚痴!などを話していったが、それもにこにこしながら聞いていたし、丁寧に相槌を打っていたし・・・。 写経を終えて、少し話をしてから帰る人もいたけれど、「ここに来ると、ほんと肩の荷が下りる気がするの。」との一言が印象的だった。 ちょうど七夕前ということで、七夕祭りのお知らせが貼ってある。 それによると、古来願い事は、笹の葉ではなく、「梶の葉」に書いてお祈りしていたのだそうだ。 願い事を書くために用意してある短冊に梶の葉が印刷してあるけど、カナダの国旗についてるメープルに似た感じ。 別院にも植えてあるけれど、残念ながら非公開の場所にあるのでお見せできずとのことだった。 また、当日は京劇俳優・演出家の「張紹成」氏の「變臉(四川省が生んだ伝統劇「川劇」で顔に施した多彩な色や形の隈取りを観客の見ている前で瞬時に変える技のこと)」もあるとのこと、見に行きたい。 帰って来てから「伽羅の香」を読んだ。 なぜか先日読んだ有吉佐和子著「一の糸」を思い出した。 「伽羅の香」は実在の香道家をモデルとし、「一の糸」も全てというわけではないが、モデルとなった人物、事件はあるらしい。 けれど私は「一の糸」と「香道」に魅せられた女性の激しさと強烈さと熱意に圧倒され、そして2人の女性の男性への想いの強さ、激しさに圧倒された。 平々凡々たる性格で、平々凡々たる人生を送ってきた私にはとても付いて行けない気がする。 だからこそこのような小説に引き込まれるのかもしれないが。 おもしろいのが「一の糸」のヒロイン茜と「伽羅の香」のヒロイン葵の性格の違いだろうか。 茜と葵、なんとなく炎の激しさと水の静けさを勝手なイメージで作り上げてしまったが、2人のヒロインは見た目の性格と違いとは裏腹に、「一の糸」と「香道」を抉り抜いて行く激しさと一途さと、ひたむきな愛という同じ面を共有している。 個人的に好きなのは時には笑えるほどあけっぴろげな茜の方だろうか。 思い立って来てみた五反田で、下駄屋の金蔵がとんでもない魔性の女性に化けた、そんな気がした一日だった。 写経は丁子を口に含んで清めて行うという。 いつか、もう少し年を取って、自分の人生をじっくり振り返る余裕ができた時に、写経をしてみたいと思う。 「省線の外側の地域はゴミゴミした家が並んでいるものの、内側に当る池田山周辺はまだほとんど人家がなく、造成地へ向う坂には両側から桜の古木がトンネルのように連なり、登りつめるとゆったりとした自動車の道路がすでに造られてあった。」 と書いてあるのはたぶんここだろうと思える坂を夕暮れの中歩きながら、そんなことを思った。 ちなみに日本全国で薬師寺の別院があるのは東京だけということだった。 ★東京都品川区東五反田5丁目15−17
(2011年6月21日の日記) |
石川友五郎の住居 〜泉岳寺 |
「梅安晦日蕎麦」で、嶋田大学の屋敷からお千枝を連れ出した浪人石川友五郎。 その嶋田大学の屋敷は、現在もその名前が残っている日本橋浜町あたり。 そして今回の石川友五郎の住居は三田・南代地町、現在の港区高輪に当てられている。 港区高輪といえば泉岳寺である、赤穂浪士である。 というわけで今回は泉岳寺へ。 8月の猛暑日、JRのポケモンスタンプラリーに参加した。 小さい方の甥っ子が最近アンパンマンを卒業して、ピカチュウに夢中ということで駆り出されたのである。 確かに人数が多い方が楽しいし、もらえるものも多い(笑)。 スタンプラリーは初めてだったが、まあ子供の娯楽だし、なんて気楽に考えてたのが甘かった。 まずスタンプ台が改札内にはない。 必ず改札の外に出てスタンプを押すことになる。 なるほどそうでなくては一日乗車券買う意味ないし、出たついでにちょっと買い物、とかちょっとお茶飲む?みたいなことになってJRにお金を落としていくことになるわけだ。 私たちも池袋でご飯食べて、東京駅で買い物して、浜松町でお茶飲んでってお金を使いまくったし。 それにしても子供の扱いは慣れてるつもりだったが、人中での子供ってなんでこんなに大変なんだろう。 ポケモン参加の親子連れでぎゅうぎゅうづめの山手線、どこを見ても疲れているのは大人ばかり。 こんなに暑いのに何故元気?急ぐ必要ないのに何故走る? しかも山手線半周りで一応目的は達成されるのに、当然のことながら一回り。 そこで私は新橋でいったん離脱。 泉岳寺に行ってから浜松町のポケモンセンターで合流することと相成った。 泉岳寺といえば、宮部みゆき著「平成お徒歩日記」でも真っ先に紹介されてた有名どころである。 これまでいろんな寺社仏閣を訪れたけど、一番「歴史を感じさせる」というか、「雰囲気の残る」お寺ではないかと思う。 赤穂浪士のお墓や首洗いの井戸といった史跡が残っているから、というだけではない。 泉岳寺境内にいるだけで、赤穂浪士を感じることができる、濃い空気に包まれる、そんな感じ。 私が一番好きなのは戦国時代で、赤穂浪士は実はあまり興味がないのだが、そんな私ですらこの重い空気、雰囲気には呑まれてしまう気がした。 緑の重さ、建物の重厚さ、人の多さで呑まれたことはあったけど、歴史の匂いすら感じさせる所は、今の時点では他にはない。 それでいて立ち並ぶ売店では赤穂浪士の湯飲みや徳利(赤垣源蔵徳利の別れや夜空に響く陣太鼓と書いてあった、笑)が揃っていて、いかにも楽しい。 最後にそばにいた人をつかまえて、宮部さんと同じ場所で写真を撮ってもらうというミーハーぶりも披露して浜松町で無事合流。 写真にはピカチュウと泉岳寺が仲良く並ぶフォルダとなった。 泉岳寺には何度でも行きたいと思う。 ★東京都港区高輪二丁目11番1号
(2011年9月16日の日記) |
料亭・井筒 〜大徳院 |
梅安シリーズには「井筒」という名前の料理屋が3か所あることに最近気づいた。 一番有名なのが、梅安の恋人おもんが働いている橋場の料亭・井筒。 そして白子屋菊右衛門が妾・お崎にやらせている京都の茶屋。 もうひとつが羽沢の嘉兵衛が両国で経営している大きな料亭である。 ところが両国の井筒は、梅安シリーズの1巻では名前が出ていない。 「羽沢の嘉兵衛は本所・両国一帯の盛り場を縄張りとする香具師の元締で、隠然たる勢力を誇る。」とあるだけだ。 「鬼平犯科帳」の「麻布ねずみ坂」で羽沢の嘉兵衛が料亭井筒を経営していることが明かされる。 今回はこの両国の井筒のあたりに行ってみることにした。 両国駅前といえば有名なのは回向院だが、ここは何度も行っているし、当サイトでもすでに取り上げているので、そのすぐそばにある大徳院に行ってみることにした。 大徳院は名前の通り、徳川家康ゆかりのお寺で、徳川家菩提(文武両道)の祈願寺として開かれ、「大徳院」」の寺名は、高野山を開いた弘法大師の「大」と徳川家の「徳」を採って「大徳院」と号したのに由来するという。 ところが大徳院、見当たらない。 回向院の周りをぐるぐる回っても見つからない。 それもそのはず、本殿が改築工事中だった・・・。 でもうろうろ捜し歩いたおかげで、すぐ近くに相撲の井筒部屋があるのを見つけた。 明治時代、七代・井筒(第十六代横綱・初代西ノ海)によって創設された部屋で、見た目は現代的な建物だったが、前に説明が書かれた立札が立っていた。 「井筒」とは、井戸の地上部分に突き出た丸い部分で、その名に深い意味はないが、両国に料亭を置く時、池波氏がこの井筒部屋を意識してたのだったら楽しいな、とふと思った。 もちろん江戸時代にここに井筒部屋はなかったとしても、少なくとも池波氏が梅安や鬼平小説を書き始めた時はここにあったのだから。 そして江戸時代に、どこにあってもおおかしくない名前なのだから。 さて、そんなこんなでうろうろしていてやっと大徳院の仮寺務所を見つけた。 そしてありがたいことに御住職にいろいろお話を伺うことができた。 たとえばお寺のホームページや資料など調べていけばわかるような話でも、御住職の口から直接聞くと、俄然生き生きした色彩を帯びてくる。 歴史上の人物と認識していた徳川家康や天海僧正、太田道灌が、紛れもなくこの東京で生きていた、動き回っていた、そんな生身の人間としての現実感を帯びてくる。 これはとても新鮮な感覚だった。 それも当然のことで、大徳院に関わる方にとっては、徳川家康も祖先に等しい、家康なくして成り立たない存在なのである。 お寺の話から家康個人のことにテーマが移り、家康が健康マニアで医者にかかることなく自分で薬を調合した話や家康の母於大の方か薬師如来に祈願して家康を授かった話、家康がその影響で東照権現信仰では薬師如来を本地とした話などとてもおもしろかったのだが、あまりに長い時間膨大な量を聞いたので、走り書きしたメモを見返しても何が何だかわからない状態になってしまった・・・。 帰ってすぐに整理して下書きしておけばよかった・・・、情けない・・・。 ところでこの界隈は芥川龍之介が少年時代を過ごした場所でもあるらしい。 大徳院の境内の縁日で葡萄餅を買った思い出が綴った本があるとか(タイトルは失念されたとか)。 自分もよくわからないけど、葡萄色をした大根餅のような物でしょうかねと言われた。 本殿改築中ということでわからないけれど、かつての大徳院の本殿前は縁日が立つほど広い境内だったのだろうか。 その日以来芥川の本を見つけ次第読んでいるけどまだ見つけてない。 ただ、それとは別に「大川の水」という一編を見つけた。 少年時代に毎日のように見た大川を中心に、「この大川の水に撫愛される沿岸の町々」での風景を描き、想い出を綴る。 芥川といえば「鼻」や「芋粥」のような有名どころしか知らなかった私には、この芥川の語る密やかな、そして地元でもないのに懐かしさを感じさせる情景がとても切なく・・・。 「愛撫」ではなく「撫愛」、水が絶え間なく流れて行きながら、その沿岸を撫で愛し続ける、いい言葉だと思う。 今スカイツリーの出現で大きく変わろうとしている墨田区や台東区や江東区など、時代小説に名を残す数々の名所旧跡を抱える町。 未曽有の災害を越えて地元も盛り上げよう、日本も盛り上がろうとがんばる姿の象徴にすらされつつある。 その勢い、上を向いて歩み続ける姿勢は素晴らしいものだけど、こうした古き良き世界も同様に愛され続けていったらいいなあと思う。 でもこうした懐かしさの風景は、今でもちゃんと残っている、こうした街を歩き回っていると、いつもそんな風に感じる、嬉しい。 ★今日の写真。 「大徳院寺務所」。 来年(平成24年)12月20日に完成予定。 ★東京都墨田区両国2丁目7−13
(2011年12月8日の日記) |
料亭・亀谷清右衛門 〜薬研堀不動院 |
梅安が田中屋久兵衛を殺したのは料亭・亀谷清右衛門。 台東区柳橋1丁目に設定されているが、地図を見ていてちょっと離れた日本橋の薬研堀不動院を見つけ、ここに行きたくなった。 日本橋と言えば柳橋の隣りだが、柳橋1丁目と日本橋2丁目の不動院だと、浅草橋駅から日本橋高島屋までの距離がある。 もちろん歩いて行けない距離ではないが、今回の料亭とは全然違う場所になってしまった。 ![]() 想像力に乏しい当方としては、人形町甘酒横丁のような古き時代の良さを残している場所ならともかく、官庁街など巡り歩いていても何も浮かんでこない。 だったら少し離れていてもそれっぽい場所を見つけて行った方がいいな、小説の設定場所は「きっかけ」に過ぎないのだから、と最近は割り切るようになった。 というわけで今回は薬研堀不動院。 久々に日曜日にたっぷり時間をかけて歩けそう、浮き浮きしながら出発する。 空はくっきり青く澄み渡り、空気はキーンと張りつめて冷たく、耳が痛くなる。 日なたは眩しく、日陰は暗い、絶好の池波日和。 薬研堀、来るのは2度目だがとても好きなお寺の一つ。 まず名前がいい。 「薬研」とは、薬を作る時、材料をごりごりひく道具。 今だったらすりこ木とすり鉢?ともちょっと違って、時代劇など見てるとお医者さんの弟子などがよく使っているのだが。 この地にあった堀の形が、薬研の窪みに似ていたことから「薬研堀」と名付けられた。 川崎大師の東京別院で、目黒、目白と並び江戸三大不動として知られたそうだ。 橋場不動院もそうだったが、五色のカラフルな幕が印象的でよく目立つ。 これは真言密教における五色(金剛界曼茶羅の五仏に関連するもので、大日如来の白、阿閃如来の青、宝生如来の黄、阿弥陀如来の赤、不空成就如来の黒と、その持っている徳)を表すのだそうだ。 また、密教の五大(五輪)説とも関係づけられてもおり、その五大説とは、すべての存在は地大、水大、火大、風大、空大によって構成されていると説くもので、地を象徴するものとして方形(四角)と黄、水は円形で白、火は三角で赤、風は半月で黒、空は団形(宝形)で青とされる。 これを下から順に重ねると五輪塔となり、大日如来そのものとなる。 そしてこの大日如来と不動明王とは同体である事とから、この五色はお不動さまの色であるとも考えることができるのだとか。 なぜ「お不動さま」にだけカラフルな幕がかけられているのか、ようやくわかった。 さて薬研堀と言えばもうひとつ浮かんでくるのが唐辛子。 元々漢方薬として日本に入ってきた唐辛子を食材として使い始めたのが「やげん堀唐辛子本舗」。 そのせいか、石段を上った本堂の右隣に、ガラスケースに入った大きな七味唐辛子入れがいくつか飾ってあって思わず笑ってしまった。 しかも左側にはカゴメの野菜ジュースの巨大パック。 地図を見ると、近くにカゴメの東京本社や支社があるので、何らかの形で関わっているのだろう。 なんとものどかな雰囲気だ。 石段には一段ごとに綺麗な鉢植えが置かれ、手入れも行き届いている。 不動院に至るまでの街灯や、案内もいかにも日本橋(昔ながらの日本橋)の雰囲気で、歩き回るだけでも楽しかった。 せっかく来たのだから、唐辛子を買っていこうと思っていたら、唐辛子のお店は浅草浅草寺の仲見世に引っ越したとのこと。 そういえば仲見世にいい感じの唐辛子屋さんがあったなあ、あそこは「やげん堀」って名前だったのかと納得。 帰ってから検索したら、やはり私の知ってるお店だった。 おせんべいや揚げ饅頭ならともかく(笑)、唐辛子などというものは意識して買うものではないので、いつも素通りしていたのが悔やまれる。 今度浅草行ったら寄ってみよう。 ![]() ![]() ![]() ![]()
(2012年3月20日の日記) |