「剣客商売」をたどる道(一)


秋山小兵衛の隠宅 〜木母寺・梅若塚(鐘ヶ淵)
すぐ近くの橋場町から、大川をわたって寺島へ着く舟が出ている。
百姓渡しで二人の舟守が二艘の舟をあやつっていた。
六十八間余の大川をわたって対岸の寺島村へ着くと、田圃道の向うに堤が横たわり、ものの本に

「官府の命ありて、堤の左右へ桃・桜・柳の三樹を植えさせられければ、二月の末より弥生の末まで、紅紫翠白枝をまじえ、さながら錦繍をさらすがごとく、幽艶賞するに堪えたり」

とあるような景観が展開し、あたりには木母寺・梅若塚・白鬚神社などの名所旧跡が点在して、四季それぞれ の風趣はすばらしく、小兵衛がこのあたりへ住みついてから、もう六年になる。

小兵衛の家は、堤の道を北へたどり、大川・荒川・綾瀬の三川が合する鐘ヶ淵をのぞむ田地の中の松林を背に在った。わら屋根の百姓家を買い取って改造したもので、三間ほどの小さな家である。


          ☆          ☆          ☆

春真っ盛りの日曜日、半蔵門線から東武伊勢崎線に乗り換えて鐘ヶ淵に向かった。
「剣客商売」の主人公秋山小兵衛の隠宅と言えば鐘ヶ淵、その場所も上記の引用文から数多くの池波ファンにより特定されている。
鐘ヶ淵駅前はごくごく普通の商店街。
踏切があってマクドナルドがあってコンビニがあって。

カネボウ化粧品のカネボウは元々「鐘紡」と書き、「鐘淵紡績」の略であることが知られている。
「鐘ヶ淵」の名前の由来が鐘ヶ淵中学校前の立て札に書かれてあった。
隅田川がこの辺で直角に曲り、それが大工が使う指矩(さしがね)に似ていることから「かねが淵」と呼ばれるようになったというのだが、後世この名称からさまざまな伝説が生まれ、たとえば台東区の石浜にあった普門院が亀井戸村に移転する際、その梵鐘が川に落ち、今に至るまで引き揚げられていないとか、ある将軍が家臣を水の中に潜らせ、鐘を見届けさせたとか。

なんとなく木母寺(もくぼじ)、梅若塚、白髭神社がすぐ近くにあって、木母寺にたどり着きさえすれば、そこはもう小兵衛の隠宅と思って出かけていったのが甘かった。
まず駅から木母寺までが遠い。
木母寺は梅若塚を祀ってあるからそれはいいのだが、そこから白髭神社までがさらに遠く、小兵衛の隠宅(地)など影も形もない。
寺も神社も隅田川のそばですらない(地図で見るとすぐそばなのに)。

まずは梅若塚。
人買いにさらわれた梅若丸という名の子供が病にかかり、隅田川のほとりでその儚い命を終える。
いまわの際に詠んだ歌が有名な

     「たずね来て とわばこたえよ みやこどり すみだ河原の露と消えぬと」の句。

梅若丸を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き、柳一株を植えて跡を弔う。
立て札にはここまでの物語が記されているが、略誌にはさらに続けてあくる年に里人が弔っていると、梅若丸を捜していた母が迷い来る。
梅若丸の悲惨な最期に狂うほどに嘆き悲しむが、その夜、梅若丸の幻と出会うことを得るのである。
能「隅田川」などでも語られる有名な話らしい。

地図に従ってずっと歩くと隅田川に沿って都立白髭公園があり、その中に都営アパート、木母寺、学校、隅田川神社などが点在している。
梅若塚が最初にあった場所は都営アパートの中庭?のような場所で、今はこんもりと土を盛った上に「梅若塚碑」が立っているだけ。
梅若塚は木母寺に移されたのだという。

木母寺は梅若塚碑のすぐそば、学校の体育館と見間違えるかのようなコンクリートの味気ない建物だった。
梅若堂は再建することは防災上不可能なため、ガラスケースの中に納められ、左側には塚が祀られている。
背後の梅が満開で老若男女、訪れる人も多く私たちも伸び上がったりしゃがんだりしながら写真を撮る羽目に(笑)。

他にも文太郎と名乗る子供を連れたおはるが囮となってその付近を歩いたり、「鬼平犯科帳」の中でも大好きなエピソードのひとつ「狐火」で、おまさがかつての恋人「狐火の勇五郎」と再会するのもこの近く。
長谷川平蔵は秋山小兵衛より30歳くらい年下か、ほとんど同じ時代を生きたわりには関わることがないのだが、こういった地名やお店でリンクすることがあり、楽しい。

「梅の字を木と母に分けて木母寺って読むんだよ。」
写真を撮っていたら、隣でダンディな老紳士が奥様に説明中、なるほど、と頭の中のメモに書き入れる。
次回は隠宅あたりから白髭神社まで。

・奥の白い橋のある辺りが小兵衛隠宅とされています。→「 写真
・梅若塚は前はここ、都営アパート敷地内にありました→「写真
・木母寺の梅若塚→ 「写真
(2006年3月9日の日記)
白鬚神社で会った女性(ひと)
春には珍しい強い陽射しとじっとりと湿気に満ちたあの日、あちこち迷いながら鐘ヶ淵、木母寺から白鬚神社に向けて歩いて行くと、道路わきにぽつんと白鬚神社があった。
灰色と緑と茶色の周りに風景にしっとりと溶け込んでいて、意識していなければ見逃したかも。
鐘ヶ淵駅に降り立ってから鐘ヶ淵の秋山小兵衛宅とされている場所、木母寺と迷いながら歩き続けて3時間余り。
途中長命寺の桜餅とお茶を一杯口にしただけだったから、午後も過ぎるとおなかはすくし疲れるしでもうへろへろ。

池波氏の作品やエッセイであまり気軽に書かれているので30分くらいでさっさと回れるような錯覚に陥るが、実際はかなり遠い道のり。
自分の運動不足と在りし日の池波氏の健脚ぶりを痛感させられる。

白鬚神社。
滋賀県琵琶湖畔にある白鬚神社の分霊として祀ったのが始まりとされ、主祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。
由来によれば、古事記や日本書紀に正しい方位を示す国土開拓の神として記されているという。
方向音痴の私には願ってもない神様、一生懸命祈ってきたが、方向音痴が直る気配半年たった今でもなし(涙)。

おもしろいのが「隅田川七福神」で、江戸時代に七福神詣を始めた時、寿老人だけが見当たらず、残っていた?白鬚神社を寿老人に見立て、半ば強引に七福神にしてしまったといういかにも江戸っ子らしい逸話。
勾玉の形をした鈴が災難除けとして赤黄緑の3個セットで売っていて思わずにんまり。

桜満開の狭い境内を見回しながら写真を撮っていると、お寺で飼ってるのか参拝客が連れてきたのか紐でつながれた犬が大人しく待ってるそばに猫が一匹やってきた。
気持ちの良い陽射しに伸びをしたりごろごろころがったり、近づいても逃げる様子もない。
うらやましそうにそれを見ている犬がおかしくて笑ってしまった。
疲れ切った連れは先に帰り、一人でぶらぶらしていたのだが、今日は平日、参拝客は皆退職後の老夫婦かグループで訪れてる主婦の人たち。

神社の境内にそぐわぬ?元気溌剌とした空気がみなぎっていた。
そんな中、ふと一人の女性に目が止まった。
肩くらいの長さの黒髪、白いTシャツにジーパンとスニーカー。
暑くて脱いだらしい黒のパーカーを腰に巻いて手にしたプリントアウトしたらしい地図に見入っている。

こういった散策をいつもされてる方なのだろうか、その女性の周りだけしんと静まり返っている感じだったが、それでも全然浮きもせず、ごくごく自然な感じで立っている。
手にしている地図が私が持ってる池波解説本と同じような気がする。
こちらの無遠慮な視線に気がついたのか、女性がふと目を上げた。
「池波、ですか?」
思わず手にしていた本を掲げて聞いてしまった。

もちろんこちらも女性だし、ただなんとなく嬉しかったから。
「あっ、同じ。」って 地図を見せてくれる女性。
やはり同じ本からのコピーだった。

その後少し立ち話をしたが、私と同じく池波ファンで休みの日は時々地図を見ながらお馴染みの場所を歩くのだとか。
土日でも祝日でもないこの日に休みが当たるような人なのかな?
ちょっと思ったけれど、もちろんそんなことは聞かず、鬼平のおまさの恋の話をちょっとした。

「これからどちらに?」
同じだったらご一緒できるかな?って思いながら聞いたら「木母寺です。」だって。
私と逆コースで歩いてるんだ、ちょっとがっかり。
「かなり距離があるので飲み物買った方がいいですよ。」って言うと「そうします。」ってにっこり。

ふと自分のホームページのこと話してみようかな?って思ったけれど、結局やめた。
もしかしたら彼女が検索かけた時、自分のことを記したこの文章に気づくことがあったら楽しいし(ありえないけど)、またいつかどこかで会うこともあるかもしれない。
そうなったら楽しいと思う。

神社を出て歩いていった女性を見送ってから、由来をもらいに札納所に向かう。
声をかける前に窓が開いて宮司さんが顔を出した。
由来書きをくれながら「これからどちらへ?」と聞いてくださり、道順や途中のお勧めまで教えてもらった。
お昼にラーメンでも食べられたのか、かすかなネギの匂いと親しみやすい笑顔に包まれた宮司さんはとても優しい方だった。

その前の木母寺の学校の体育館みたいな雰囲気に、ちょっとがっかりしていた気持ちも元気になった。
でも結局再び迷い、お昼ご飯も食べないままになぜか押上駅に着き、ものすごく遠回りして帰ってきた。
楽しかったけど正味6時間炎天下を歩き回り、しんどすぎる一日だった。
→「 白鬚神社の写真
(2006年9月16日の日記)
辻平右衛門道場あたり
秋山小兵衛の師、辻平右衛門の道場は住所で言えば麹町だが、むしろ四谷と言った方がわかりやすいだろう。
JR四ッ谷駅のすぐそばである。
物語では辻道場は栖岸院(せいがんいん)の近くにあったことになっているが、古地図を見るとこの界隈には他にも常仙寺、心法寺と並んでいるが、大正時代に入り、栖岸院と常仙寺は杉並区に移され、今残っているのは心法寺だけ。

栖岸院の名前があることから杉並に行ってみようかとも思ったけれど、一応この場所に道場があったということで四ッ谷心法寺に向かう。
さっきも書いた通り、JR四ッ谷駅を出て新宿通りを歩くとすぐだが、壁にぐる〜っと囲まれていて入り口が1ヶ所しかないため、入る道を間違えるとお寺を見ながら一回りしてしまうことになる。
賑やかな新宿通りから入るとそこは一転静かな住宅街で、小さな公園がある突き当りが心法寺。

以前何かで読んだ記憶があるのだが、ここに辻姓を名乗る人物の道場があったのは事実らしい(辻平右衛門は架空の人物)。
池波ファンサイトさんだったと思うが思い出せず、地図にも辻姓の建物は載っていないのでわからないのだが。

心法寺は千代田区内で唯一墓地のあるお寺らしい。
そういえばあまり墓地って見たことないな、上京してから。
神社だと気軽に入れるけど、お寺は用事がないとあまり行かない雰囲気がある。
でもここは休日出勤のサラリーマンが、ネクタイ緩めながらシーソーの上に立ってぎっこんぎっこんしながらコーヒー飲んでたり、くつろぎの場所でもあるらしい。

お孫さんを連れたおばあさんが色づいたイチョウの葉っぱを拾ったり、犬を連れた散歩の人が一休みしたり、ぽかぽかした秋晴れの一日ののどかな風景。
ここを竹刀かついだ秋山小兵衛(藤田まこと氏を無理矢理若くイメージしてみる、笑)が歩く図を想像しながら歩いていると、奥の方には可愛いお地蔵様や「獄門島」に出てきたような梵鐘(ずっと小ぶり)、水盤などがきれいに置かれている。
気になったのは井戸で、落ちると危ないからだろうか、蓋をしてその上に装置をつけ、蛇口から水が出てるようにしたもの。

見ててちょっと寂しいかな?
お地蔵様の頭の上には白い粒が撒き散らされており、これもなんだかわからなかったけど、後で調べたら塩だった。
これは塩地蔵といい、塩をまいてお参りするとご利益があるのだそうだ。
しまった、塩持参で来るんだった(笑)。

★今日の一枚。
紅葉と梵鐘と水盤と。
右手前の緑のネットをかけられているのが水盤。→「こちら
(2007年1月21日の日記)
石川甲斐守の本邸 〜千代田区三番町
八千石の大身旗本石川甲斐守は老中田沼意次の引き立てにより、御側衆として将軍家に仕えている。
秋山小兵衛のかつての門人岸井甚平の話によると「老中の信頼厚く、将軍家のおぼえもよろしく、公平無私で大奥の評判も大変にいい」人柄のいい人物。
しかし跡継ぎとして奥方に溺愛されて育った一人息子の源太郎が、縁談を前に芸者のお里にのぼせ上がり、お里は妊娠してしまう。
お里の父親山田勘介は石川甲斐守を脅しにかかるが、実はこれ、真っ赤な嘘だったという話。

思いつめた挙句に山田勘介宅に乗り込む奥方といい、苦悶し、振り回され、瘤だらけになる入江金右衛門といい当事者たちは必死なのだが、その必死さがどこか滑稽で哀愁が漂い、おもしろい「芸者変転(一巻)」。
彼らの慌てぶりを愚かなことと冷ややかに眺めながらも、石川甲斐守が「救うて救い甲斐のある御人」ゆえに助けに乗り出す秋山小兵衛の活躍が痛快。

ただしこの石川甲斐守は最後まで蚊帳の外で、物語自体にはほとんど関わりがない。
(さすがに事件が落着した後でその顛末を知っただろうが。)
出てこない石川甲斐守も奥方も入江用人も、いわゆる「ばか若殿」の源太郎もどこか愛すべき人物として描かれているのも楽しい。
その前が凄烈な「剣の誓約」だっただけに、読者も小兵衛もほっと一息つける「芸者変転」が用意されたのだろうか。

石川甲斐守の本邸が三番町と記されている。
私が参考にしている「江戸切絵図にひろがる剣客商売 仕掛人藤枝梅安(人文社)」によると、靖国通りをはさんで靖国神社の斜め向かい、ちょうどセブンイレブンがあるあたりとされている。
けれど今回は番町ということで、「番町皿屋敷」で有名な「帯坂」を取り上げたい。

靖国神社を背に右側にまっすぐ進むとJR市ヶ谷駅に突き当たる。
その左手に「東京三菱UFJ 市ヶ谷支店」がある。
駅と銀行の間は日テレ通りで、汐留に移転する前はこの先にテレビ局があった。
駅側ではない方の細い道をまっすぐ進むとゆるい上り坂となり、「帯坂」と表示がある。

お菊が髪を振り乱し、帯を引きずって逃げたとされる坂と説明書きがあるが、賑やかなこの通りにお菊の面影を忍ばせる雰囲気は何もない。
前にも書いた「番町の青山屋敷跡は今はマンションとなっているが、ばれると誰も住まなくなるので秘密にされている」という噂など、お菊さんは番町界隈ではすっかりお馴染みのようである。
ただしこのお菊伝説、元ネタは姫路城だとか、全国各地に皿屋敷の話が残り、お菊さんのお墓があるとか、さまざまな研究、考察がなされているが、近くに住む者としては、やはり番町説を素直に信じたい。

ちなみに「番町」皿屋敷の帯坂だが、坂のある住所は「九段南」とされている。
JR市ヶ谷駅前の交差点は「市ヶ谷見附」、隣り駅はお岩さんで有名な四ッ谷と時代小説好きにはこたえられない界隈だが、とにかく人が多いので、のんびり立ち止まってゆっくり表示を読むなんてことはなかなかできないのが辛いところ。
行くには土日がお勧めかも。

★今日の一枚。
この先靖国通り。
右に曲がると靖国神社、左はJR市ヶ谷駅。→「こちら
(2007年5月14日の日記)
秋山大治郎の道場 〜真崎稲荷明神社
以前秋山小兵衛宅が設定されたあたり、鐘ヶ淵界隈を歩いた時に、真崎稲荷明神社も探したのだけど、見つけることができなかった。
それもそのはず、現在真崎稲荷明神社は石浜神社に合祀されていた。
つまり、石浜神社内に真崎稲荷明神社が共に祀られているのである。

常磐線南千住駅で降りる。
地図で見ると泪橋経由で行くのが近そうだが、北口を出て交番で聞くと、モスバーガー、LaLaテラス南千住(TSUTAYAやスーパー、レストランなどが入っている商業施設)の前を通って「とちのき通り」をまっすぐ進む方が近いと教わり、その通りに行ってみる。
きちんと整備されていて、ツツジが満開でとても綺麗。
都立汐入公園に突き当たったら右折してまっすぐ10分ほど歩くと右手に石浜神社が見えてくる。

石浜神社本殿の右側に真崎稲荷神社があるが、額束には「真先稲荷神社」となっている。
「石濱神社のしおり(有料100円)」や「石浜神社社誌(石浜図書館蔵)」によると、天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤が宮柱を築き、神璽を奉納したことが始まりとされる。
この宝珠は家伝の宝にて身に帯びて戦に出ると、常に先駆けの功名を得ることができ、これに謝して「真先(真っ先に武功を上げるから)明神」としたのだそうだ。

しおりの表紙に石浜神社と真崎稲荷神社の鳥居が仲良く並んでいる風景を見ることができるが、震災後の都市計画により、社殿の一部を著しく削減、1926年(大正15年)6月12日に時の所轄庁の許可の下、石浜神社に合併移転した。
ちなみに「真崎」となったのは江戸時代半ば頃で、伊豆国伊沢郡真崎村から取ったものらしい。

隅田川をはさんで石浜(真崎稲荷)神社、木母寺、白鬚神社がきれいな二等辺三角形を作っており、おはるが大治郎を小舟に乗せて、家まで送る風景が実際の感覚として浮かんでくる。
この近く、とは言えないが日枝神社のあるあたりがかつて「汐入(塩入)土手」と呼ばれ、梅安シリーズの彦次郎の家があるあたりとなる。
梅安の時代は秋山小兵衛全盛期よりかなり後に始まるが、少しだけリンクしている部分もないわけではないので、秋山小兵衛や大治郎と、梅安、彦次郎がすれ違ったこともあるかもしれない。

大治郎はともかく、好々爺の小兵衛や物静かな医者梅安、平凡な楊枝作りの彦次郎は、互いの常人にはない裏の顔に気づいたかどうか、想像するのもまた楽しい。

★今日の写真。
石浜神社本殿の向かって右側にある「真崎稲荷神社」と「額束 」。
「真先」と書いてあるのが読める。
(2008年5月30日の日記)
塩入土手から板橋へ 〜総泉寺
千住大橋の袂から浅草側に歩き始めてすぐ左折すると、そこから汐入(塩入)土手が始まる。
古地図には「山王社」と記された日枝神社(虫歯の痛みに耐えかねて切腹した藩士清兵衛を祀る祠がある)を越えてさらに進むと、大治郎が住んでいた真崎稲荷明神社(現石浜神社)が見えてくる。
その先白鬚橋の明治通りとぶつかるあたりが、かつて総泉寺があった場所だろうか。

その近くで畑仕事をしていた百姓が住んでいた家を借りうけて、彦次郎が住んでいる。
前回も書いたが、大治郎宅とは本当に目と鼻の先だ。
さらに総泉寺は「鬼平犯科帳」にも登場する。

区役所資料室で見た資料によると、総泉寺の開基は前回行った石浜神社にもゆかりのある石浜城主千葉之介守胤。
曹洞宗の寺院で正式には妙亀山総泉寺と号す。
山号「妙亀」は梅若塚や木母寺の梅若伝説に登場する、梅若丸の母妙亀からつけられた。
妙亀は、人買いに連れ去られ、この地で非業の死を遂げた息子梅若丸を弔うために尼となり、庵を結んで寺のはじめをなしたという伝承によるのだそうだ。

その総泉寺が、なぜ板橋区に移ったかというと、大正12年の関東大震災で焼失したため。
昭和3年に板橋区小豆沢に元々あった大善寺と合寺され、昭和47年に本堂が新築された。

最寄り駅は都営三田線志村坂上。
マクドナルドの方に向かって中山道を5分くらい歩くと、右手に坂があってその上に見えてくる。
この駅周辺にはもうひとつ、都内では西ヶ原と2つだけが完全な形で残っていると言われる志村一里塚がある。
これがまた見事な榎で、暑い日など木の下で一休みしたら気持ちいいだろうなあと思ってしまう。
管理も行き届いていて、歩道がよけるように作られているのもおもしろいが、もちろん中に立ち入ることはできない。

さて坂を上って門をくぐると、「広いなあ」というのが第一印象。
最近見た都内のお寺の中ではだんとつに広い(笑)。
とにかく目を引くのは正面の本堂の石段に彫られた亀の彫刻。
工事中で囲いがされているので近づいてじっくり見られないのが残念だが、梅若丸の母妙亀にちなんでいるのか、5匹の亀が愛らしい。

あとおもしろかったのが、可愛い亀の上に七福神が彫られた玉があって、それがくるくる回るもの。
しばらくしゃがんで休みながら、何度も回して遊んだ。

さて中山道、板橋区役所に行ったついでに板橋宿(商店街?)にも寄って、その楽しさに中山道にも興味が出てきたおだが、私の記憶では「中仙道」だったような気がする。
いつから「中山道」になったのだろうか、今度調べてみたい。

★今日の写真。
板橋の総泉寺の本堂石段の「亀の彫刻」と「玉を乗 せてる亀」、何から何まで亀尽くし?
(2008年6月30日の日記)
円光寺 〜根岸の寮
佐々木三冬がとても好きだ。
それも男装して剣術に打ち込み、片意地張って生きていた頃の三冬。
「父が・・・・・・父が、もっと別のお人でしたら・・・・・・」と秋山小兵衛に訴える三冬。
老練な剣士秋山小兵衛に惹かれながらも小兵衛とおはるの関係に気がつかない三冬。
そして知らず知らずのうちに小兵衛の息子大治郎に惹かれ始める三冬。

ここまでか。
大治郎の妻となってしっとりした女性の魅力を身につける三冬も好もしいけれど、やはり私はそこに至るまでの煌く凛々しい三冬が好きだ。

その三冬が父、田沼意次の元を飛び出して住み着いたのが、宝鏡山円光寺の南側根岸の寮。
JR鶯谷駅北口を出て根岸小学校の横を通り、細い道に入って行く。

初めての場所に行く時は迷うのがお約束の私だが、今回ばかりは迷った先に円光寺の門があってかえってびっくり。
わかりにくい場所ではないが、見つ出すにはやはり地図が必要だ。
ところが正門が閉まっていてなんとなく入りにくい雰囲気。
「お寺にも休寺日ってあるのかな?」なんて馬鹿なこと考えながらうろうろしていたら、地元の方らしい女性が脇の通用門のような扉を開けて普通に入って行く。

私もおそるおそるその後に続いたが、中に踏み込んだ瞬間「緑に埋もれた四阿」という言葉が頭に浮かんだ。
お寺なのだから四阿も何もあったものではないのだが、大げさに言えばお寺の屋根しか見えないほど木や花で埋め尽くされて、それらが雨上がりの陽射しを受けて色鮮やかに輝いているのだ。
真っ赤な彼岸花や名前のわからない青や黄色の花には黒や黄色のアゲハが戯れ、しっとり湿った空気が決して広いとは言えない閉ざされた空間に充満してむせ返るよう。
ふと子供の頃読んだ「秘密の花園」を思い出した。

何故か藤棚が2つか3つ、駐車スペースらしいコンクリートには大きな藤の紋が描かれ、可愛い石のお地蔵さんや動物があちこちに鎮座。
「ああ、ここ好きだあ・・・。」一人溜息をつきながら歩き回る。
ご住職らしき白の単姿の痩せぎすのお年寄りがいらしたのでお話を聞いてみた。
始めに「このお寺の由来書みたいなのありますか?」と聞くと、「そんな大層なもん、ありませんがな。」と大きく口を開けて笑われた。

「呵呵と笑う」ってよく時代小説に出てくるけど、こんな感じの笑い方なのかな?
ダイナミックではないけれどあけっぴろげで気持ちが良い。
もうひとつ、「こちらにも藤の花があるようですが、これにも何かいわれがあるのでしょうか?」と質問。
これは私の完全な勉強不足で円光寺は藤寺として有名なのだった。

すると「そんな大層なもん、ありませんがな。」と再び笑う。
「この辺は昔から湿地帯で藤に合ったんでしょうな、亀戸天神とおんなじで。」とあっさり。
言葉遣いが正確に思い出せないのが残念だが、とても歯切れがいい話し方で「江戸っ子」のイメージだったがどうなのだろう。
帰りにお寺に咲く花の写真で作った絵葉書を3枚頂いた。

東京に来てから、私もたくさんのお寺や神社を回ったが、その中でも一番感じのいいお寺だった。
日も良かったのだろう、雨上がりの陽射しが眩しい午後。
閉まっていた正門でかえって一気に開けた木々や花の印象も鮮やかだった。
涼しげな単のご住職(たぶん)も好もしかった。

後日所用で亀戸に行く用事があり、ご住職の言葉を思い出して亀戸天神にも寄ったが、藤棚よりも池にいる亀の多さに驚いた。
「なんでこんなに亀がいるの?」
「亀戸だからでしょ。」
「じゃあ(隣り駅の)錦糸町には錦鯉がいっぱいいるのかなあ。」
「『錦』糸町だから?」

おそらく初めて亀戸天神を訪れた人が誰でもするような会話をして帰ってきたが、これもまた楽しかった。

★円光寺 台東区根岸3−11−4
★今日の写真。
緑に埋もれた円光寺」と 「色鮮やかな彼岸花」。
(2008年10月25日の日記)
田沼屋敷とコガネムシ
神田橋を挟んで外側には田中屋久兵衛請負宿(梅安)があり、内側には時の老中田沼主殿意次の上屋敷(剣客)があった。
今はむしろ大手町と言った方がいいか、相変わらず行きかう人や車が賑やかで、不思議なコガネムシが日の光を浴びて燦然と輝いていた(笑)。

下の説明によると

「この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。」

とあるが、豊かさ=お金持ち=コガネムシとイメージしたものか(しかも金色)。
何度来ても強烈なインパクトのある像だ。

さて田沼意次。
私が池波作品に惹かれるのは、長谷川平蔵や秋山小兵衛など主役の人物は当然として、悪党や小心者や脇役や、そういった作品に登場する全ての人々の性格描写の豊かさだった。
その筆頭が「剣客商売」では田沼意次。

田沼意次を知ったのがそもそも「剣客商売」だったから、その後別の小説で田沼意次を読んでその魅力のなさにがっかりしたことを覚えている。
時代小説にしろ歴史小説にしろ、他の作家の作品を全て「さっぱりし過ぎて物足りない」と思ってしまったのだから、初読の池波小説は強烈だった。
田沼意次を私腹を肥やした悪党とせず、清濁併せ呑む人物として取り上げ、だからこそできた政を描いていく。

歴史を大きく変えることはせず、歴史上の人物のし遂げたことを越えることもなく、けれど彼らに会って来たかのような生々しさを伝え、架空の人物を実在するかのように練り上げるその力量には惚れ込んだ。

そんな私が一番好きなのが「真田太平記」。
中学生の時に始めて読んだ池波作品ということもあるが、お江や向井佐平次など実在の人物で、忍びの組織などちゃんと資料が残っていてそれを元に書いているのだと信じていた。
大人になって何度も読み返すうちに、一番印象に残る人物が幸村やお江から平岡頼勝に変わった。

関ヶ原の勝敗を決したと言われる小早川秀秋の家老。
西につくか東につくか、眼下の戦場を見守りながらなかなか結論を出すことができずにいるとするか、結論を出さずにいるとするかで頼勝の描写も変わってくる。
池波氏は

「この期におよび、冷静に、ふてぶてしく東西両軍の死者や監視人をあやつる平岡頼勝が、傍目には、いかにも遠謀深慮に長けているかのように見える。」

と書く。
けれど

「その、あまりにも露骨な駆け引きが目の前で演じられているのを見て、『何という愚か者であろうか・・・・・・』奥平貞治は呆れ果てたという。」

「自分の一身に責任(せめ)を負うて、(かならず、主家をまもり通してみせる)と、平岡頼勝は、これまで、のらりくらりと敵味方をあざむいてきた自分の駆け引きに、『酔っていた・・・・・・』のである。」

そんな平岡頼勝は

「傍目には、ふてぶてしく見えはしても、平岡頼勝にしてみれば苦悩に心をさいなまれていたにちがいない。」

となる。
真田幸村のように死に臨んでなお悠々たる態度を崩すことのない人物に比べ、頼勝の動揺や苦悩や優柔不断はあまりに身近で(本当は身近でもなんでもないのだが)、忘れ難い人物となった。
悪党は悪党なりに、小心者は小心者なりに魅力的で、それが豊かなストーリーと共に描かれていくのだから何度読んでもやめられない。

田沼意次もまたしかり。
黄金色のコガネムシと相対しながら、もしかしたら田沼屋敷近くにこの黄金コガネムシがあるのもなにやら意味がありそうな気がした一日だった。

★今日の写真。
コガネムシ」。
「千代田区七不思議」があったら是非入れたい不思議なフォルム。
(2009年6月16日の日記)
田沼意次の中屋敷 〜水天宮と甘酒横丁
田沼意次の上屋敷は神田橋のそばだったが、中屋敷は日本橋浜町。
現在の住所で言うなら中央区日本橋蛎殻町1丁目、名前からしておもしろい。
今回は蛎殻町2丁目にある水天宮に行くことにした。
人形町界隈ということで好きな場所ではあるし、甘酒横丁もお気に入りなのでこの辺には何度も来ている。
何より妹が赤ちゃんを産む前に、一緒に水天宮にお参りに来たのでなんとなくおなじみの場所でもある。

さて「蛎殻町」。
昔は海だったんだろうなあ、この辺は。
貝塚じゃないけど、蛎とか魚とかたくさん取れたんだろうなあ、だからこんな名前がついたんだろうなあと漠然と思っていたが、これを機会に調べてみることに。

「日本橋区史」によると、天正年間(1573年〜1592年)以前は海だったが、埋め立て後は大名の蔵屋敷となった。
そのため、本来この地に名前はなかったが、埋立地であるため蛎殻町と俗称されたとある。
わかったようなわからないような話だが、漁師町のあたりを埋め立てた、ということなのだろう。

この時期には珍しく暖かい休日で、人形町駅で降りて通りをのんびり歩く、までは良かったが、いざ水天宮につくとあまりの人にびっくり。
あかちゃんを抱っこの若夫婦におじいちゃんおばあちゃん、おなかの大きな女性に寄り添う夫に、凄いのは一人だっこに両手に可愛い双子ちゃんを連れたお母さんとかお参りに来た人たちでぎっしり。
とてもじゃないけどぼ〜っと雰囲気を楽しんだり建物や紋を観察したりする余裕はない、もちろんスペースもない。
なんだか居心地悪くて早々に出て来てしまった(笑)。

それにしても、なぜ水天宮は安産の神様なんだろう。
水天宮のホームページ(現在メンテナンス中)によれば、祭神は壇ノ浦の合戦で源氏に追われ、入水した安徳天皇、祖母の二位の尼(時子)、母の建礼門院(徳子)、そして天御中主神(あめのなかのぬしのおおかみ)。
「天地の最初に出現された、宇宙の根元の神さまです。日本の神々の祖先神であり、水天宮の子授け、安産祈願に広大無辺のご神徳を発揮されます。」とあるが、それ以上にわずか8歳で惨い最期を遂げた安徳天皇の魂がこれから生まれるべき子供たちを守り続けていると思ってみたい気がした。

水と子供を守護し、犬がお産が軽いことから戌の日に安産祈願に訪れる人が多いのだとか。
しまった、私たちがお邪魔したのはまさに「戌の日」、邪魔者以外の何者でもなかったんだ(笑)。
境内に綿菓子やお面など懐かしい駄菓子やおもちゃを売るお店があったり、昔の写真が飾ってあったり、雰囲気はとてもいいのでまた別の日に来てみたい。
石段(けっこう急なので妊婦さん用にエレベーターがある)を降りてそのまま甘酒横丁に向かう。

どこでもそうだろうけど、東京にも本当に商店街が多くて、中にはとっても寂れている場所もあれば、逆に常に賑わっていて活気のある場所もある。
甘酒横丁はどちらでもなくて、せわしなくなく、どちらかというとまったりとした印象。
緑の幟(甘酒横丁と書いてある)や道に埋められたプレートを見ないと気づかないような場所だけど、お店の名前にカタカナ、英語が少ない、木でできた建物、古い建物が多いなど、いかにも日本的な風景を醸し出している。

駄菓子屋バー」や懐かしい缶ジュースみたいなすとんとした郵便ポスト(郵便局で貯金箱として売ってるの、でも真っ赤じゃなくて朱色)、店先に並べてあるがんもやお豆腐、樽に乗っけた甘酒。
無理してない、押し付けじゃない、いかにも自然な日本の風景だ。
近くに明治座があるので綺麗なお弁当や持ち帰り寿司のお店も多い。

通りを歩いている間、ずっとお茶のいい香りがしていたので気になっていたのだが、通りの端っこに「森乃園」ってお 茶屋さんが。
店先にレトロなほうじ茶焙煎機があって、次々にお茶が入れられ、下から焙煎された?ほうじ茶が出てきている。
強い香りがはるか遠くまで届くのはそのせいで、お願いして写真は撮ることができたが、ひっきりなしのお客さんでお話をうかがうことはできなかった、残念。

他にもたい焼きたこ焼き人形焼きに葛屋さんに三味線屋さん、私の好きな下町情緒にどっぷり浸かれる街だった。
ちなみに「甘酒横丁」の由来は明治の頃、この通りの南側に「尾張屋」という甘酒屋さんがあったことからつけられたのだそうだ。

★今日の写真。
森乃園さんの店先にあるほうじ茶焙煎機」。
(2009年12月4日の日記)
料理屋・武蔵屋 〜西念寺
料理屋・武蔵屋は四谷の弥七の住居で、伝馬町、現在の四谷1丁目にあるとされている。
四谷は以前住んでいた所から近いので、四谷見附など見に行ったりしたものだったが、四谷に「伝馬町」があるのは知らなかった。
何といっても有名なのは小伝馬町の牢獄で、この地名に何か意味があるのかなとずっと思っていた。
まあ字の感じから今でいうところの宅急便のような仕事(馬で荷物を運ぶ)をしている人のことで、その中継地が伝馬町となったのではないかと思っている。
あながち間違ってはいないようだ。

四谷1丁目付近はお寺が多く、地図を見ているうちに目に留まったのが「服部半蔵のお墓のある」西念寺。
半蔵のお墓があることは知っていたが、それが四谷だとは!
早速行ってみることにした。

四谷駅で降り、新宿に向かって歩き始める。
朝出る時は肌寒いながらも薄日が射していたのに、この頃から雲行きが怪しくなり、新宿通り四谷二丁目手前のジョナサンから小路に入る頃には冷たい雨に風まで吹き始め、とにかく寒い。
しかもまっすぐ行けばいいものを、お寺が多いので変に迷って結局出会った人に聞く羽目に、寒いのに申し訳ない。
地元の人って意外とお寺があることは知っていても名前ははっきりしないことが多いのだが、さすがに半蔵クラスになると有名なのか、すぐに教えてもらえた。
どうやら前を通り過ぎてしまっていたらしい。あわてて戻る。

なんか寒くて冷たくて帰りたいなあと思いながら歩いているので、「四谷の弥七、半蔵のお墓、四谷の弥七、半蔵のお墓」と呪文のように心の中で唱えて気持ちを奮い立たせる(笑)。
昭和20年に焼失して再建されたというだけあって新しいお寺だったがやっと着いた。

頂いた由来書によると、西念寺は織田信長によって切腹させられた徳川家康の長子信康の冥福を祈るため、家康の命により、服部半蔵(正成)が開山したもの。
それで半蔵のお墓があるわけだ。
しかも半蔵の槍まであるというので、見せてもらうことにした。

服部半蔵といえばゲーム世代としては「鎖鎌じゃないの?」なんて叱られそうなことを考えながら案内していただく。
半蔵が家康から拝受下槍は先端30cm、矢尻150cmを戦災で損壊したが、それでも全長258cm、重量約7.5kg、昭和63年に新宿区文化財の認定を受けている。
後には普段は公開していないという曼荼羅の掛け軸が飾られており、ゆっくり見たかったのだが、来客中ということで仕方がない、急いで写真を撮る。

何しろケースに入っているわけでもなく、むき出しなのである。
私がさわったり削ったり、もしかしたら振り回したりこっそり持ち帰ったりするのではないかと(思っているわけではないだろうが、笑)、そこに私がいる限り離れるわけにはいかないのだろう。
錆びてるけど、資料館などで見かける立派に整えられた物よりずっと迫力を持って見る者に迫って来る槍だった。
お礼を言って今度は外にある半蔵のお墓にお参り。

信康の供養塔もあったはずなのだが、あまりの寒さに見るのを忘れて帰ってきてしまったのが残念。
(お墓は神奈川県清瀧寺にある。)
服部半蔵といえば忍者のイメージが強いが、確かに伊賀の出身であるにしろ、どうして忍者として認識されるようになったのだろうか。

いろいろ考えながらの帰り道、私の頭の中に四谷の弥七はかけらもなかった。
ごめんなさい、四谷の弥七。

新宿通りに出ると、そこは四谷三丁目の駅のそば。
この近くには、以前よく通ったインドカレーのお店「ディップパレス」がある。
ここのシーフードカレーが私、大好きで(笑)。
神楽坂や「半蔵」門にも系列店はあるけれど、やっぱりここが一番おいしい。

そのまま新宿の方に歩いてこれも以前よく通った四谷図書館に寄る。
半蔵がらみの本を少し見たが、借りるわけにはいかないので(返しに来るのが大変)そのまま帰った。

懐かしかった。 ★東京都新宿区若葉2−9  ?03-3351-0662
★今日の写真。
半蔵の槍」。
半蔵の槍アップ」。
半蔵のお墓」。
(2010年4月23日の日記)

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