「剣客商売」をたどる道(二)


書物問屋・和泉屋吉右衛門 〜五条天神
たとえば「佐々木三冬は根岸の寮から下谷五条天神門前にある母の実家、和泉屋吉右衛門宅に向かった」と書いてあったとして、私には場所をイメージすることは難しい。
けれどこれが「佐々木三冬はJR鶯谷駅のそばの寮から上野アメ横にある母の実家に向かった」となると、「なるほど!」と手のひとつも叩きたくなる。
同時に雑駁な駅前を抜けて藤の花咲き乱れる円光寺の風景や、買い物客で賑わう年末のアメ横の光景が浮かんでくる。

これこそ私が実際に足で歩いて見つけた私の財産だ。
本で読むだけでなく、テレビで見るだけでない私だけの風景だ。
だからと言ってそこから一気に「剣客商売」の時代の風景が思い浮かぶわけでもないのだが、上京して時代小説に登場する地域を歩き回るようになり、小説の楽しみ方が明らかに変わったことを意識するのはこんな時。

では三冬のように鶯谷から上野まで歩けるかというとまた話は別。
東京は比較的「○○通り」と名付けられた大通りがしっかりしてるから、大通りをてくてく歩いて行きさえすれば新宿から池袋、上野から浅草といった場所も簡単に移動できる(時間がどれだけかかるかは別として)。
問題はその見つけ方。

駅前のごちゃごちゃした道の中から大きな通り(明治通りとか中山道とか)を見つけ、「○○方面 何キロ」を教えてくれる道路標識を見つけなければいけない。
簡単そうだが、地図と違って俯瞰の視点をまず持てないので、さっさとあきらめて電車を使うことになる。
さらに「小路に入って掘り出し物を見つける」なんて芸当もできそうにない。
小路に入ったらまず迷う、必ず迷う。
小路の入り口は全て鬼門である。

やっぱり昔流行った「地図を読めない女」がタイトルの一部だった本、まさに私のためにある言葉。
だから前記の文章も私だと「佐々木三冬は鶯谷駅でJRに乗り、上野駅で降りてアメ横に向かった」ことになる。

それはともかく五条天神、さっきからアメ横と書いてきたが、1923年(大正2年)に上野公園に移転し、アメ横には五条天神旧跡碑が立っている。
縁起書によると、第12代景行(けいこう)天皇時代(約1900年前)日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡を通った際に薬祖神2柱の加護に感謝し、祀ったのが創始と言われているとのこと。

上野駅からまず上野公園に向かう。
お花見や博物館など、上野公園には年に何回か来るが、今まで一度も行ったことのない方角に五条天神はあった。
木が生い茂り、怖いほどカラスの鳴き声に包まれて、休日なのに意外に人がいない。
みんな博物館のある中央の方に集まっているようだ。

小さな石段を降りると赤い鳥居があり、花園稲荷神社と五条天神がちょこんと並んで鎮座している。
花園稲荷には可愛い洞窟があったりしてのんびり歩く分には楽しかったが、驚いたのが縁起書をもらいに行ったら有料だったこと。
特別立派な物でもなく、普通神社に行けば無料でくれる類の物だが、有料だったのはたぶん初めて。
微々たる金額でお賽銭のつもりで払ってきたが、五条天神といえばこれが一番忘れられない思い出になりそうだ(笑)。

久々の上野公園でのんびりしたかったが、やはり暑さにはかなわない。
早々にアメ横に回る。
下調べした段階ではいまいち場所がわからなかったが、私が参考にしている人文社の「江戸切絵図にひろがる剣客商売ー」の写真では、碑のそばに「酒亭じゅらく」があったので、それを目指していくことにする。

そしたら何のことはない、アメ横に入ってすぐ目の前、ヨドバシカメラの横にあった。
前記の本の写真だと、まだヨドバシカメラはできておらず、碑もむき出しだが、今見ると頑丈に囲われている。
工事の時保護してそのままになってるのかな?
なんか檻に入れられてるみたいで可哀そうなほど。

大路恵美さんの佐々木三冬なら、あの恰好でアメ横歩いていても全然違和感ないだろうな、なんて想像しながらアメ横とアトレでちょっとだけ買い物して帰った。
上野駅でらぽっぽのいい匂いに誘われてポテトアップルパイを買ってしまったのは大誤算だった。
あの匂いにほんとに弱いんだよな、私・・・。

★東京都台東区上野公園4-17
TEL:03-3821-4306
★今日の写真。
上野公園の五条天神」。
アメ横の五条天神旧跡碑」。
五條天神社が正しい」。
(2010年8月27日の日記)
小川宗哲の家 〜回向院
宮部みゆき著「平成お徒歩日記」を読むまでは、両国と南千住の回向院が私の中でごっちゃになっていた。
小塚原刑場跡のあるのが南千住、赤穂浪士が討ち入りの後の集合場所に定めていたのが両国の回向院で、小川宗哲の家があったのは両国の回向院のそば。
「平成お徒歩日記」は、池波小説をたどって東京歩きをしていた私が、それを文章として書いてみるきっかけとなった本。
自分の記憶を記録として書き留めておくことで、自身の資料にもなり得るし、何よりも東京歩きがより楽しくなったことが嬉しい。

両国の回向院の前は何度も通ったし、それなりに馴染みのある界隈なのに入るのは初めて。
参拝の人が多いのも驚いたが、中でのんびりくつろいでいる人が多いのにも驚いた。
境内に喫煙所まであって、のんびり煙草をくゆらしているお年寄りもいる。
さらにお寺の人たちのフレンドリーな雰囲気にも好感を持った。

親しみやすいとも違った、もっとおおらかな雰囲気。
本堂をのぞいたら、お坊さんたちが何かの行事の支度に忙しそうだったが、私を見ると「どうぞ自由にお入りください。」と声をかけてくれる。
社務所の女性も何枚かの絵葉書を見せながら気さくな笑顔でいろいろ説明してくれる。
これまでお邪魔した中でも、くつろげるお寺のひとつな気がする。

回向院は明暦3年(1657年)の「振袖火事」の名で知られる明暦の大火をきっかけに開かれた寺院で、この火事で犠牲になった大勢の人々を弔うために開かれたという。
動物(ペット)供養の観音様や、相撲の街両国らしく、力塚なる相撲関連の碑もあって、境内を歩き回るだけでも楽しいが、南千住にもある鼠小僧次郎吉のお墓があるのには笑った。
どちらにもちゃんとしたお墓の他に、受験生が削るための石もちゃんと置いてあるのが楽しい。
小川宗哲はこの付近に住んでいたわけだが、秋山小兵衛の鐘ヶ淵とは電車で30分くらいの距離がある。
秋山小兵衛や小川宗哲は、この距離を気軽に行ったり来たりしていたわけで、いつか通して歩いてみたいが、迷わず歩けるかどうかは今ひとつ自信がない(笑)。
全く「健脚商売」とでもタイトル替えして欲しいところ。

帰りにマクドナルドで一休みしたが、髷姿のお相撲さんが何人かやって来てはマックを大きな袋に買っていくのを見て両国らしさを満喫した。
★東京都墨田区両国 2-8-10
TEL:03-3634-7776
★今日の写真。
休日でも行き交う人は多い」。
(2010年11月29日の日記)
楊枝店・卯の木屋 〜浅草寺鎮護堂
彦次郎は、浅草寺参道にある楊枝店・卯の木屋に品物を納めている。
それだけで彦次郎の楊枝職人としての腕前がわかるというものだが、「ふさ楊枝」、今でも作られているのだろうか?
私のイメージだと細めの茶筅といった感じだったが、実際はいろいろな形があったらしい。

さて今回も浅草寺。
ほおずき市に行った時、浅草寺についてほとんど知らないことに気づいたことは、以前書いた。
あまりに有名過ぎて、何度も行き過ぎて、浅草寺については知り尽くしてるような錯覚に陥っているのだから困ったものだ。
しかも時代劇で見る賑わい振りから、下手すれば浅草寺自体江戸時代にできたなんて思いかねない(笑)。

そこでまず、「浅草寺のホームページ」 を覗いてみた。
浅草寺の由来は「飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した」ことによるのだそうだ。
あれっ?これ知ってる。

そういえば参道に「本尊感得の図」の絵と由来が飾ってあったっけ。
いつも見てるのにすっかり忘れてた。
浅草寺ができたのは今から1400年くらい前、これは凄い。

今回はこれまで行ったことのない場所に行ってみたいな、と思ってさらにホームページを見ていったら「鎮護堂」に気がついた。
「通称『「お狸(たぬき)さま』と呼ばれ、火防・盗難除けの守護神として信仰が篤い」のだそうだ、行ってみよう。

浅草寺から伝法院通りを抜けていくと、参道の賑わいが嘘のように静かで、歩く人もほとんどいない。
閉まっている店も多いが、寂れているという感じはなく、店先で店主同士が煙草を吸いながらのんびりお喋りしたり新聞を読んだりと、のどかな風景となっている。
ふさ楊枝を手作りして売ってるお店ないかなあなどときょろきょろしながら歩いてみたが、残念ながら見当たらず、ほどなく鎮護堂へ。
可愛い狸が2体鎮座していて、いかにも狸神社といった風情だったが、では何故狸神社なのかと思っても、ホームページの説明では「明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首(かんす)唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)大僧正が、夢告により境内に棲む狸(たぬき)を伝法院の守護としてまつった」と書いてあるだけで、その夢告げが何だったのかは説明されていない、今度調べてみよう。
でも明治16年だから、わりと最近狸神社になったことだけはわかった。

目立たない場所にあるので、お参りする人も少なかったが、建設中のスカイツリーを眺めながら近辺をのんびり歩くだけでも楽しかった。
後で知ったのだが、この神社にはジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」の絵馬が飾られているそうだ。
今回気づかなかったので、今度見に行ってみようと思う。
この映画は人間の身勝手な自然破壊に怒った狸たちが暴れ回ることから始まる物語なので、意外とこの辺に「狸神社」になった由来も関係しているのかも。
悪さをする狸を鎮めるため、とか。
人間側に立ったら狸の怒りなんて理解できようにないし(笑)。

ちなみにいくつかの楊枝のお店を見てみたが、さすがに現在ふさ楊枝を作ってはいないようだ。
さすがに買うことはないだろうが、実物を見てみたかったのだけど、残念。

★東京都台東区浅草2−3−1
TEL:03-3842-0181
★今日の写真。
昔を髣髴させる伝法院通り」。
鎮座ましますお狸様(笑)」。
(2011年1月3日の日記)
一橋家・徳川治済の控屋敷 〜秋葉神社
田沼意次の御膳番を務める飯田平助は、以前八代将軍徳川吉宗の孫にあたる一橋家の当主徳川治済の家臣だった。
一橋家の命で意次の毒殺を図る平助だが、その一橋家の控屋敷は、現在の台東区松が谷4丁目にあたるらしい。
松が谷といえば池波正太郎記念文庫の近く、用事で浅草橋界隈に行くと、必ず記念文庫をのぞいて、2階のバーミヤンで昼食をとるのがお約束。

住みやすそうで活気があって好きな街だったので、前にマンション探しをした時、当然松が谷近辺も歩き回った。
そこで見つけた一軒の不動産屋さんがよかった。
40代〜50代前半の男性で、落ち着いた物腰で好感が持てたが、奥の部屋に引退したお父さん?がいるらしく、ちょこちょこ顔を出してはまだあの物件残ってるんじゃないかとか、ちゃんとこの辺確認したかとかチェックを入れてくる。

お父さんからすれば頼りない息子に見えるのだろうが、息子さんの方は恥ずかしいやら煩わしいやらで大変そう(笑)。
でも慣れてるのか、適当にお父さんに言葉を返しながら、こちらへの紹介もきちんとやってくれた。
その様子がなんとも微笑ましく、こっそり「親子不動産」と名付けたのだ。 こちらの紹介する物件で決めたかったが、残念ながら実現せず。

ここだけが唯一後で郵送で物件資料を郵送してくれたことでも好感度は高かった。
今でもお店の前を通ると(通ることはめったにないが)、そっと店の奥をのぞいてしまう。

さて、松が谷近辺の地図を眺めていて見つけたのが「秋葉神社」。
ああここにあったのか、とまず驚いた。
これもマンション探しをしていた時に、たまたま見かけて「秋葉原と関係あるのかなあ」と思ったので、 なんとなく秋葉原にあるものだと思っていたのだ。
近頃流行りのアイドルグループと名前が似てる?から大人気なスポットになっていたらどうしよう(笑)なんて思いながら行ってみたら、境内には人っ子一人いないなんとも静かな風景だった。

場所は松が谷3丁目だが、「秋葉原」という地名の由来となったことは間違いない。
縁起によると、明治のはじめに東京府内に火事が多発し、それを憂慮した英照皇太后(明治天皇御母)により、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷して東京府火災鎮護の神社として現在の秋葉原の地に創建したのが始まりだそうだ。
明治21年に鉄道駅設置のため境内地を払い下げて現在地に御遷宮となり、駅にはこの神社にちなんで「秋葉原」と命名されるとある。

ではなぜ「秋葉」神社、「秋葉原」なのかはわからないが、Wikipediaによると「、江戸時代に火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていた神仏混淆の秋葉大権現(あきはだいごんげん)が勧請されたものと誤解した人々が「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火災時には緩衝地帯となるよう空き地とされていた社域を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことに由来する。」とある。
ただこの記述に関してはソースが明記されていないので、今度池波記念文庫のある図書館にでも行ったら区史など確認してみたい。

★今日の写真。
秋葉神社
東京都台東区松が谷3丁目10−7
(2011年5月17日の日記)
木下肥後守の上屋敷 〜善福寺
麻布山善福寺は「暗殺者」でも舞台となっているが、今回は木下肥後守の上屋敷の心当たりを捜し回っていて見つけた。
木下肥後守だが、古地図を見ると、ちゃんと「木下備中守」とある、実在の人物らしい。
Wikipediaによると、小兵衛の庇護者となっていたのは第7代藩主木下利忠になるのだろうか。
剣客としてはあえて無名な立場に身を置いていた小兵衛だったが、経験豊かな話し手としては重宝されていた様子が微笑ましい。

善福寺は「池波正太郎が愛した江戸を行く」によると、もとは真言宗だったが、鎌倉時代に訪れた親鸞聖人の高徳に傾倒して浄土真宗に改宗したというユニークな寺院。
南北線麻布十番で降りたのだが、曇っていながら酷暑のこの日。
熱中症ではないと思うが、前の晩の睡眠不足がたたったか、体がだるくて気分が悪い。
開店前の小さなオープンカフェに座り込んでいたら、お店の方にとても親切にして頂いた。
水をたっぷり飲んで、地下水のとってもおいしいアイスコーヒーと、なんとカレーまで食べて元気回復!
仙台坂下にある cafe kariz さん、本当にありがとうございました。

ちなみにこの地はかつて伊達家の江戸下屋敷だったとか。
改めて来てみたい。
仙台坂通りを「大使館ロード」と銘打って、オリジナルの大使館ロードマップを発行していたので、それももらって来た。
大使館巡りも楽しそう。

さて善福寺だが、前述の改宗の他にも、一向一揆を背景に石山本願寺で織田信長と戦うほどの勢力になると本願寺に援軍を送るなどおもしろいエピソードが多い。
本願寺11世顕如上人が善福寺に宛てた書簡が残っていて、「石山合戦において、朝廷の斡旋により和睦の条約を結んだが、信長が心変わりしないか不安であったことがうかがえる」とある(非公開、ホームページより)。

他にも一向一揆の旗とか、豊臣秀吉の朱印とか、歴史の中でも身近な宝物が揃っており、なんとなく親近感を感じてしまう。
逆さイチョウの巨大さにも驚いたが、何よりも驚いたのが善福寺の背後にそびえる、奇妙な形の巨大なビル。
さらに突然鳴り出した釣鐘。
見上げても誰もおらず、見えない誰かが鐘をついているよう。

ホテルなどで勝手になり出すピアノは見慣れているが、勝手になり出すお寺の鐘は慣れるまでちょっと怖かった(笑)。
善福寺のそばに麻布山幼稚園が併設されており、近所の子供たちがたくさん遊びに来ていた。
そばで若いお母さんたちがお喋りに興じていたが、こんな光景は久しぶりに見たなあと思ってちょっと切なくなった。
いろんな施設のホームページに「砂場の放射線量測定しました。」なんてお知らせが掲載される日が来ようとは、誰が想像しただろうか。

本当にたくさんの子供に関わる施設がこうやって一日も早い日常を取り戻そうと努力している。
思わずもう一度戻って手を合わせた。
放射線を心配しなくてもいい生活を一日も早く取り戻せますように。
人も地域も国も含め、災害の後遺症が一日も早くなくなりますように。
そしてこんな痛ましいことが二度と起こりませんように。

いろいろな寺社仏閣を回ることは楽しいことではあるけれど、あの日以来、私の中でも何かが変わった。
行く先々で小さな祈りを捧げれば、少しでも私の想いは届くだろうか。

★東京都港区元麻布1丁目6−21
(2011年9月4日の日記)
大身旗本・石川甲斐守の別邸 〜笠間稲荷神社東京別社
茨城県の笠間稲荷神社といえば日本三大稲荷のひとつ、その別社が日本橋浜町にあるのをたまたま日本橋に出かけた時に偶然見つけた。
「芸者変転」に出て来る石川甲斐守の本邸があるのは千代田区三番町で、以前「番町皿屋敷」ゆかりの「帯坂」と一緒に紹介したが、別邸が浜町となる。
初めて別社を見た時は、時間がなく、通り過ぎただけだったので、今回改めて見に行った(が場所を覚えてなくて難儀した、笑)。

笠間稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。
日本の神話が書かれている『古事記』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)との間に生まれた子で、「宇迦」とは「食」を意味している。
全国の稲荷神社で祀られていると聞くが、私の中でも思い入れが深い。
というのは、お寺や神社について調べるようになって、一番先に出て来たのが「御宿稲荷神社」の祭神としての宇迦之御魂神だったから。
個人的に赤い鳥居が好きで、お稲荷さんと呼ばれる稲荷神社が好きで、お狐さんも好きなので、なんとなく宇迦之御魂神には親しみを感じている。

笠間稲荷神社の鳥居は赤くない、それが残念。
でも別社の中に小さな狐が家族のように10体近く並べられていてとても可愛かった。
また、いろんな種類のおみくじが売られていて、特に手縫いの綺麗な袋に天然石の入った三角みくじがお気に入り。
欲しかったが、なぜか誰もおらず、買うことができなかった。

その後、甘酒横丁をぶらぶらしていて亀井堂という和菓子屋さんの店先で不思議な物を見つけた。
「がんばるノダ」という文字と野田首相の似顔絵が付いた瓦せんべい。
テレビで何度か見たことあるし、秋葉原あたりだと麻生さん、小泉さん物よく見かけたが、こんな人形町の老舗っぽいお店に?
しかも「歴代六人衆」なんて入れ替えの激しい最近の首相6人がひと箱に詰め込まれたシャレにならない一品もある。

雑誌に紹介された記事も飾ってあったのでそれを読んでいたら、お店の方が「試食をどうぞ」と出してくれ、食べてみた。
おいしかった!
失礼ながらこういったキャラクターのお菓子はおいしいと思ったことがあまりないのだが、これはとてもおいしい。
そう話したら、これは国会の売店から委託を受けてこのお店で作っている物、国会内とこのお店でしか売っていないのだそうだ。

もともとおいしいお煎餅に顔を入れただけだから、おいしいのが当たり前、と誇らしげに言われて納得してしまう。
お店のホームページに

「人形町亀井堂は、今より約百三十年前の明治六年、神戸元町に創業した亀井堂総本店より、昭和四年、江戸初期から東京に在住する旧家、人形町佐々木家嫡流に、のれん分けのかたちで任された店でございます。
人形町佐々木家は平安時代より約千年にわたって続く宇多源氏の名族で、江戸時代には三千石を拝領する大身の旗本となりました。」
とあり、また

「幕末に江戸南北町奉行や外国奉行を歴任した幕閣の重鎮、朝散大夫(ちょうさんだいぶ)佐々木信濃守顯發(あきのぶ)は著名であり、本店にはその顯發に栄誉ある信濃守任官を宣下する朝廷の宣旨が掲げられております。」

とあるが、その額の写真を撮らせてもらっていたら、その説明のコピーまでもらうことができた。
なんとなく肝心の神社よりこちらのお店の方が印象に残る一日となった(笑)。
★東京都中央区日本橋浜町二丁目11−6
(2011年11月87日の日記)
大名・松平美濃守の上屋敷〜築地本願寺
「三冬の縁談」で三冬の相手となった大久保兵蔵が仕えているのが、松平美濃守の上屋敷。
現在の千代田区内幸町1丁目に設定されている。
所用で内幸町に行った時、近くに手頃なお寺か神社はないものかと思ってうろうろしていたら、どこをどう間違えたのか、築地まで出てしまった。
築地と言えば、私が大好きな築地本願寺がある。
というわけで、今回は松平美濃守の上屋敷近辺とは言い難いけれど、築地本願寺を取り上げたい。

築地本願寺は京都の西本願寺の別院として建立され、正式名称は「浄土真宗本願寺派 本願寺築地別院」というのだそうだ。
築地本願寺に行くと、まずそのインド風の佇まいに驚かされるが、これは当時の浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部教授・伊東忠太による設計だったとのこと。
日本のお寺でありながらこのエキゾチックな雰囲気は、本堂に入るとさらに強くなる。

茶とベージュを主体にした薄暗い本堂は何故か大学時代の講堂や、海外で訪れた聖堂の中を思い出させる。
薄暗い中に眩しい陽射しを受けて輝くステンドグラスのせいか、下に敷かれた赤い絨毯のせいか。
本堂を右に向かって進んでいくと、その先はやはり大学のロビーに戻ったようで懐かしい。
そして途中にあるトイレのドアは白にすりガラスの窓。
私が入った古い寮もちょうどこんな感じだった。

たくさんの観光客や参拝の人、さらにうとうとしているサラリーマンまで広い本堂に散らばっているけれど、中はとても静かで、でも緊張感があるわけでもなく、心地よい。
時間さえ許せば2時間でも3時間でもぼーっと座っていれる和みの空間、それが築地本願寺だ。
大きなお寺は数あれど、ここまでくつろげる場所は意外と少ない。

大勢の人でざわざわうるさいか、ぴんと張りつめた緊張感に満ちているか、全く人がいないような所だと、参拝だけ済まして大急ぎで出てきてしまうこともある。
お寺の本堂で和むのもどうかと思うが、見た目の不可思議さと共に、この心地よさが築地本願寺の特徴だと思う。

でも不思議だったのが、今回初めて見つけた「hide」コーナー。
そういえば、X JAPANのメンバーhideが亡くなった時に葬儀は築地本願寺で行われ、大きなニュースになっていた。
彼を偲んだのだろう、写真や手書きのメッセージや、様々な物が本堂の一角に飾られていた。
こうしたファンの想いを受け入れてくれた築地本願寺の懐の深さを感じながら、ぶらぶらしていて、今度は書籍販売コーナーに、仏教関係の書籍と並んで笹島保弘著「イタリアン精進レシピ」や島田洋七著「がばいばあちゃん」が並んでいるのに驚かされた。

そしたら「築地本願寺のホームページ」でちゃんと紹介してあって、著者の祖母で本書の主人公がばいばあちゃんがいつも浄土真宗の念仏である「南無阿弥陀仏」を「ナマンダブ」と唱える「お念仏ばあちゃん」として知られていたとのこと。
これにも驚いた。
ちなみに精進レシピの方は、京都の西本願寺の本願寺出版社から出ているので、こちらは納得。

築地本願寺からの帰りは、いつも銀座まで歩くことにしている。
昼でもなく、夜でもなく、夕暮れ時の銀座の街を歩くのが好き。
笑っちゃうほど信号が多いけど、銀座の街で信号待ちでぼーっと佇んでいるのは好きだ。
お洒落で華やかな人々が慌ただしく行きかうのを見ているのが好きだ。
夕暮れの街の中では自分がまるで影のように思える、存在しない傍観者のように思える。だから好きだ。

★今日の写真。「築地本願寺」。

★東京都中央区築地3丁目15−1
(2012年3月2日の日記)
大身旗本・永井和泉守尚恒の屋敷〜鳥越神社
「剣客商売」に出て来る永井和泉守尚恒の屋敷があるのは現在の台東区鳥越1丁目に設定されている。
ならば鳥越神社に行かない手はないと、カメラを片手に行って来た。
息子の右京と三冬の縁談が持ち上がるが、自分より強い相手でないと結婚しないと言い張る三冬に勝つために、用人、大山佐兵衛が大治郎を訪ねて来るところから「剣客商売」は始まる。
そのせいか、この大山に何故か悪意は感じなくて(とんでもないことをしているのだが)、後に自殺したとあるのを読んで、驚いた記憶がある。
そのせいもあって、主の親子の方はあまり印象にないのだが、三冬に負けて喜ぶ右京にはなんとなく笑ってしまった。

さて鳥越神社。
勇壮な例大祭があまりに有名なので、さぞかし大きな神社だろうと想像していたら、意外とこじんまりした親しみやすい神社だった。
Wikipediaによると、「白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。」とのこと。
江戸時代までは約2万坪の広大な敷地だったのが、徳川幕府にどんどん取り上げられてしまったという、気の毒な話も掲載されている。

だが、この、ビルや車群の谷間の小さいけれどしっかりと樹が生い茂った地は鬱蒼とした雰囲気を醸し出しており、その奥に鉄筋などではない、昔ながらの神社の形態を守り抜いた神社が鎮座している様は、おかしな言い方だが「これぞ神社」の貫禄を備えている。
立派過ぎて浮いてることもなく、小さすぎて埋もれてることもない、神社の王道。
休日にもかかわらず、ワイシャツ姿のサラリーマンがいくたりか、地元の人に交じって参拝に来ている。
休日出勤なのだろうか。
季節外れの暑さでみなさん申し合わせたようにハンカチで額の汗を拭いてから参拝、ご苦労様です。

以前静岡県伊東市に源頼朝ゆかりの日暮神社を見に行ったことがあったが、ちょうどこんな感じだった、懐かしい。 あと、中で竹籠をかぶった可愛い犬張子が売られている。 これは「竹+犬=笑」の縁起物だそうだ。 ところで古地図を見ていると、「鳥越神社」ではなく、「鳥越明神」となっている。
不思議に思って調べてみた。
これもWikipediaの受け売りだが、「明神」とは、神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味だそうだ。
それに対し、「権現」は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味で、徳川家康の「東照大権現」が有名。
しかし、明治初期の神仏分離により、「明神」「権現」共に公用を禁止されたとのこと。

でも神田明神は普通に使われているじゃない?
正式名称は「神田神社」だそうだが、それでも公式サイトも「神田明神」となっているし。
この辺のところはどうなのだろう。

と思ったら、神田明神公式サイトのQ&Aコーナーにちゃんと答えが書いてあった。
神仏分離で正式名称が「神田神社」となったが、昔から「神田明神」で親しまれていたため、今でも神田明神と呼ばれることが多いのだとか。
呼ばれることが多いも何も、神田明神自ら堂々と「神田明神」と名乗っているし。
当時は締め付けも厳しかったが、今はおおらかに容認されているということなのかもしれない。

そういえば以前神田明神の話を聞いたおじいさんは、神田明神のことを「明神さん」と言ってたので、もしかしたら鳥越神社のことも、お年寄りは「明神さん」って言ったりするのかな?
今度行ったら聞いてみよう。

ところで、この「神仏分離」というのが難しくて、本を読めば読むほどわからなくなる、というか理解できない。
以前いくつかのお寺で詳しくお話を伺ったのだが、恥ずかしくもほとんど理解できなかった、本当に申し訳ありません。
それでも最近はネットで要約されたものがたくさんあるので、少しはわかってきたのかな?こないのかな?
というのは、日本の場合「神仏分離」の前に、「神仏混淆」というものがあるので、まずそこから理解しなければならないし、そうこうしているうちに、日本の並外れた寛容さというか、その沼にはまって、余計にがなんだかわからなくなる。
最近は理解しようとせずに、知識として知っているだけの方がいいのかも、なんて罰当たりなことを考え始めた次第である、情けない。

お昼は駅前のバーガーキングで軽く済まそうと、入って何とも思わずにメニューにあった「ワッパー」を頼んだら、とんでもない大きいのがどどんと出て来てびっくり。
必死で食べたが、「ワッパー」って「とてつもなく大きい」という意味だとか。
これからは鳥越神社はバーガーキングとセットで思い出すことになりそうだ。





★東京都東京都台東区鳥越2丁目
(2012年5月11日の日記)
市ヶ谷亀岡八幡宮
秋山小兵衛は、笹屋方と横堀喜平次への関心を振り払うようにかぶりを振って、市ヶ谷八幡宮の総門から境内へ 入って行った。
市ヶ谷八幡宮への参詣も久しぶりのことであった。
                                「剣士変貌」

          ☆           ☆           ☆          

数年前まで月に一度は飯田橋に行く用事があり、行けば必ず市ヶ谷八幡宮まで足を延ばしていた。
市ヶ谷に向かってお堀端を歩き、JR市ヶ谷駅に渡る橋を横目にさらに進むと、右手にタリーズコーヒーが見えて来て、 その脇の横道に入るとすぐに石段がある、市ヶ谷八幡宮である。
かなり急な石段で、息を弾ませながら参拝し、帰りにコーヒーを飲んでくるのが常だった。
私は市ヶ谷八幡宮が大好きなのである。

元々高台にあるお神社が好きだ。
石段を登って目の前に木々に囲まれた鳥居の向こうに本殿が見えた途端、別世界に踏み込んだ気になる、あの一 瞬が好きだ。
特に高橋留美子原作「犬夜叉」を読み始めてから特に好きになった。
漫画なのだが、ヒロイン日暮かごめという少女は日暮神社の娘という設定である。

アニメで初めて見た時に、かごめが鳥居をくぐり、石段を駆け下りて学校に行く場面を見て、市ヶ谷八幡宮を思い出 した。
もちろん日暮神社のモデルではないし、高台にある神社は他にもあるし、ただ私にとって馴染みのある市ヶ谷八幡 宮が頭の中で日暮神社とリンクしたのだ。
それで市ヶ谷八幡宮が特に好きになった。
日暮神社みたいな急な石段を登ったてっぺんにあって、お堀や総武線や中央線が見下ろせて、ブヨよりずっとスマー トな猫がいて、ベンチでもあればゆっくり本を読めるのに、なんてずいぶん不謹慎なことを考えていたものだ。

それから数年後、無料で配布されていたタウン誌「Adagio」で「横溝正史と牛込神楽坂を歩く」という特集が出た。
神楽坂の他に市ヶ谷も取り上げていて、「百日紅の下にて」の舞台となる「市谷亀岡八幡宮」が紹介されていたが、 なんたる偶然、ちょうどその日私は「百日紅の下にて」が掲載されている本を読んでいたのだった。
(表紙も凄い、タイトルも凄い「殺人鬼」って本でカバーなしでは持ち歩けない代物)
かの「獄門島」に向かう直前の金田一耕助がここで謎解きしてたんだ、と思うと感慨深いものがある。
そんなどうでもいいような偶然が重なって、さらに市ヶ谷八幡宮が好きになった(笑)。

太田道観が1479年(文明11)年、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが 始まりとされるが、「鶴岡」に対して「亀岡」と名付けるなど何とも楽しい話である。
境内には木が植わっているせいか狭く思えるが、かつては茶屋や芝居小屋がたくさん並んで、賑わっていたそうで ある。

★雨の中大荷物で写真が曲がってしまいました・・・。





★ 〒162-0844 東京都新宿区市谷八幡町15
(2012年11月4日の日記)
亀戸天神
秋山大治郎は、それから何処をどう通って行ったか、よくおぼえていないが、気づくと、亀戸天神の境内にいた。
(これはいかぬ)

          ☆           ☆           ☆          

「剣の誓約」、「剣客商売」の中でも特に好きな話のひとつ。
嶋岡礼蔵と剣客シリーズとしてまだ2話目、出たばかりの秋山小兵衛(大治郎の目にはまだ頼りなく見える)の対比、嶋岡礼蔵と柿本源七郎の対比、大治郎と伊藤三弥の対比、大治郎と佐々木三冬の出会いなど、何もかもがおもしろく、何度も何度も読み返してしまう。
一巻を手にすると一通り読んでから必ず「剣の誓約」を二度三度と読み返すのが私の癖、それほど好きだ。
嶋岡礼蔵と柿本源七郎の対決もさせてあげたかったし、何も知らず、でも責任を取って自害した柿本源七郎の生き様も見事、そして嶋岡礼蔵の死に様もまた見事。
ここまでして果たされなければならないものなのかと信じられない思いだった。

仮に何事もなく立ち合っていたとしたら、嶋岡礼蔵は柿本源七郎をどうしただろう。
死病にかかり、苦しむ相手を討つことも討たれることもなく、終わっていたのだろうか。
それともあくまでも誓約を守り、礼を持って斬っていただろうか。
それとも大治郎が感じたように、それでも斬られていたのだろうか。
読むといつも考える。
でもどれほど考えてもわからない。
けれども読後感は清々しく、厳しく、哀しい。

さてこの場面。
さりげなく書いているが大治郎はとんでもない距離を歩いている(と私には思える)。
少なくとも考え事しながら歩ける距離ではない(と私には思える、笑)。
しかも途中鐘ヶ淵に寄っているから回り道までしている。

大治郎の家がある真崎稲荷神社のあたり(石浜神社)は白鬚橋西詰のあたりだから、最寄りの駅は南千住かな?10分くらい歩く。
それから白鬚橋(隅田川=大川)を渡り、南下する。
グーグルマップだと、バスで30分歩いて10分くらいとなっている。
ああ意識して歩くとそれほどでもないかな?
今度このコースを歩いてみたい。

私は亀戸天神は大好きだが、秋葉原から亀戸までの総武線がいつものコースなので、橋場から南下するというのはやったことがない。
なにしろこの2つの駅の間に浅草橋、両国、錦糸町をはさんだこの本所界隈は池波関係、七不思議他おもしろ所満載地域なので、東西に歩いたり電車に乗ったりして訪れることは多い。
そして大体締めは亀戸天神で参拝し、そのまま秋葉原まで電車で帰る。
それだけに馴染みのある神社だし、広く、季節の花も多く、カメも多くてのどかなのでここに来るとなんとなく和む。

最近はスカイツリーの影響で参拝客も一気に増えたが、それでもどこかのんびりした雰囲気の神社だ。
特に綺麗なのは藤の季節と梅の季節。
私が先日行った時は何も咲いてなくて寂しい風景だったが、それでも特に合格祈願の受験生の姿が目立っていた。
なにしろここは菅原道真を祀る神社なのだ。

平日はわからないが、休日だと屋台が出ており、時折小さな甥っ子のおみやげにわたあめを買うのも楽しい。
ちなみに甥っ子、スーパーなどで売ってる袋菓子のわたあめは甘みがきついと言って食べない。
なるほどすぐに溶けないように、なんらかの工夫をしているのだろうが、それが甘みのきつさにつながっているらしい。
屋台のわたあめはすぐ溶けるけど、ふんわりした甘みがあって確かにおいしい。

★ 〒136−0071東京都江東区亀戸3丁目6番1号
(2013年2月8日の日記)
料亭・桜屋〜甘酒横丁 2
やがて村垣主水は、堀江六軒町にある料亭「桜屋」に入った。
ここは、日本橋川と江戸橋の東方の入り堀とが合する地点で、思案橋の東詰にあたる。
桜屋は、このあたりできこえた料亭で、孤へ絵も二度ほど来たことがあった。 ( 「まゆ墨の金ちゃん」)

          ☆           ☆           ☆          

「剣客商売」1巻「まゆ墨の金ちゃん」に登場する料亭・桜屋は現在の人形町3丁目にあたるらしい。
鬼平用に小網神社に行った後、そのまま甘酒横丁に向かう。
正確に言うと甘酒横丁は人形町2丁目だが、この辺に来るとまるで引き寄せられるかのように(笑)行ってしまう場所。
私にとって甘酒横丁は「森乃園」のほうじ茶の香ばしい香りから始まる。
以前も紹介した焙煎機がいい仕事してるんだよなあ。

ここに来ると必ず寄るのが「志乃多寿司總本店」。
ここの稲荷寿司の特徴は小さめで色が濃くて味も濃い、でも上品だろうか。
ぽってり大きいお稲荷さんも嫌いではないが、見た瞬間手が出るような(笑)感覚は独特のもの。
一度食べると1ヶ月はお稲荷さん食べなくても大丈夫って充実感が好きだ。

食べ物屋さんは何度でも入れるが、一度限り!の覚悟で今回お邪魔したのが「岩井つづら店」。
何しろこちらのつづらは気軽に買えるような代物ではないので、なんとなく敷居が高い。
店先に並べてあるつづらをいつも見ながら写真を撮りながら、入れずにいたお店に飛び込んだ。

店内に漂う甘いような酸っぱいような不思議な匂い。
出来上がったつづらに和紙を貼った竹籠、一升瓶に入った液体、刷毛や温度計や筵が無造作に置かれ、天井からも廿楽がいくつかぶら下がっている。
棚には古紙?和紙?の類がたくさん積み重ねられている。
店内に踏み込んだ瞬間、江戸時代に紛れ込んだような感覚。
そう、こういったつづらは時代劇でよく見るからなんだろう。

白髪の厳しい表情の御主人がちょうど奥から出て来たところで、どきっとする。
髪を整え、衣装を着たらそのまま時代劇に出られそうな雰囲気の方。
まあつづらを買いに来たお客さんにはとても見えなかったろうが、意外に気さくでこちらの質問にも丁寧に答えてくれた。
私が貝だ匂いは柿渋の匂いでちょうそそれを使った作業を終えたばかりだとか。

許可を得て写真を撮ってたら、終わるのを待って片づけ始める。
小さな物でも万単位で、私にはとても手が出ないが、こうして目で見て話を聞くだけでもいい勉強になった。
私がペンキの缶だと思っていたのが漆の缶で、漆がこんなのに入ってるんだとびっくりした時だけちらりと笑顔を見せてくれた。
昔堅気の職人さんというまさにその雰囲気、大満足。
こういった本物を買って使いこなせるような人間になりたいな。

その後甘酒横丁に来ると必ず甘酒を飲む豆腐屋さんの「双葉」へ。
店先にお鍋?を置いて200円で紙コップに熱々の甘酒を入れてくれる(ちょっと高い)。
けど椅子に座ってふうふう飲みながら、おいしそうな豆腐や油揚げが並んだ店内や、道を行きかう人たちを眺めていると、人形町に来たなあという満足感がこみ上げてくる。
こちらの御主人はおもしろい人で、この日はお孫さんに見せるのだと言って魚くんみたいな動物帽子(ただし熊)をかぶって出て来た、思わず甘酒噴きそうになる。

甘酒は家で薄めて飲めるように袋入りを売っているが、家で飲んでも味気ない。
やっぱり甘酒横丁で飲むのがいいんだな。
最後にこちらも欠かさず買う柳屋さんのたい焼きをお土産に買って帰路につく。
人形町に来ると、とにかく食べまくるので、それに見合うだけ歩かないと大変なことになる。
この日も天気が良かったのでがんばって二駅歩いた、大満足。
ところで小兵衛さんは人形町の桜屋で何を食べたんだろう。

帰りの電車で剣客1巻を読み返しながら思った。
「まゆ墨の金ちゃん」は1巻、つまり初期の作品だけど、大治郎に対する秋山小兵衛の父として以前に剣客としての厳しさを表に打ち出している。
もしこれが円熟期に書かれていたらどうだったろう。

大治郎の腕前に思わず飛び出し、斬られた金ちゃん、素直に大治郎を心配して飛び出す牛堀九万之助、そして最後の最後に飛び出そうとして自ら押し止める小兵衛、この展開がもしかしたら変わっていたかもしれない。
そんな金ちゃん物も読みたかった。
池波作品は一編一編が見事に完結しつつ、余韻を残しつつ終わるが、さらに先を読みたい、別展開を読みたい、別解釈を読みたいという欲がとどまらずに出てくるから困る。
だからこそ何度読んでも読み終えたと感じることがない。

★「ブログ」でも写真を紹介 しています。。
★〒103-0013 東京都 中央区 日本橋人形町2
(2013年3月31日の日記)
蕎麦屋・山田屋〜日枝神社日本橋摂社
「剣客商売」10巻にあたる「春の嵐」は初の長編。
大治郎の名を騙る辻斬りが現れ、大治郎は窮地に立たされる。
この話で、松平越中守の家臣と、御用聞き・亀島橋の彦太郎がよく談合する蕎麦屋。山田屋があるのは南伝馬町三丁目、現在の京橋2丁目にあたる。

この近辺のお寺や神社を探していたが、急に日本橋に行く用事ができた。
数年前に「犬夜叉松江ツアー」に参加して(笑)、松江・出雲に行ったことがある。
犬夜叉はともかく、松江も出雲も雰囲気のある素敵な地だった。
そこで買った勾玉のネックレス、愛用していたのだが、壊れてしまったのである。

でも日本橋三越のそばに、島根のアンテナショップがあるので、ここで買って来ようと思ったわけ。
しかも併設しているお食事処「主水」の「がいな丼(木桶に入った海鮮丼)」が大好きなので、お昼をここで食べて、帰りに寄ってみようと思ったのが日枝神社日本橋摂社。
日本橋と言っても住所は茅場町なのだが、いつも書いてる通り、小説に出て来る場所にちょうどお寺や神社があるとは限らないので、位置関係がかなりいい加減になって来ている。

「摂社」を調べてみたら「本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。本社と末社との間に位する。」とあった。
この言葉も初めて聞いたような気がするが、「日枝神社」が「日本橋」にあるのも初めて知った。
(赤坂の日枝神社は何度も行ってるし、サイトでも取り上げたことがある。)

頂いた由来書きによると「、天正18年(1590年)、家康が江戸入城、日枝大神を崇敬されて以来、御旅所の存する「八丁堀」北嶋祓所まで神輿が船で神幸されることに始まります」とある。
御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。
巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。
御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。(Wikipediaより引用)
山王祭(神幸祭)の時、本社である赤坂の日枝神社を出た神輿の御旅所であったらしい。

さて実際来てみて驚いたというか、珍しいと思ったのが、ビルの谷間、奥にある鳥居の先にあるのが社殿ではなく、「摂社 日枝神社」と彫られた石柱と、神符授与所が立派にあって、社 殿はその横に ちんまりと鎮座していたこと。
なんか社殿より石柱の方が偉そうで、不謹慎にも笑ってしまった。
緑豊かで、境内にある明徳稲荷神社の赤とのコントラストが綺麗、さらに空を見上げて気持ち良さそうにしている狛犬の愛嬌がすっかり気に入り、長居してしまったが、休日にもかかわらず、 参拝に来るサラリーマン風の男性が多く、のんびりしている自分が申し訳ない気持ちになるほどだった。

帰りに連れの希望で、日本橋三越で開催されていた「ウルトラセブン」展に寄る。
私は子供の頃から、ウルトラ系、ライダー系、レンジャー系といったテレビ番組は一切興味はなかったけれど、今小さい方の甥っ子たちが、ウルトラマンゼロだギンガだと大騒ぎしてるので、 なんとなく好きになった。
甥っ子たちへのおみやげに、ギンガのフィギュアを買って大満足。

でも残念ながら、島根のお店に勾玉のアクセサリーはなく、代わりに不昧(ふまい)公こと松平治郷が愛した和菓子「若草」を買った。
かなり甘味が強いので、濃く入れた茶にとても合う。

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(2013年10月3日の日記)
料亭・吉浦屋〜数寄屋橋公園
豊前中津藩の江戸の武具奉行・小出源蔵は、わずかな粗相をとがめて船宿の女中おたかを階段から突き落とし、死なせてしまう。
おたかが小兵衛とも関わりがあったことから、小兵衛は源蔵の鼻を斬り飛ばして敵討ちをするのだが、その源蔵も訪れた料亭が吉浦屋。
場所が数寄屋橋なのでとてもわかりやすい。
でも地図を見ながらうろうろしていて、数寄屋橋公園を見つけた時には笑ってしまった。

時々通る場所じゃないか。
なまじっか地図に頼ったからかえって迷う、よくあるパターン。
銀座近辺の橋はほとんどが堀の埋め立てと共に壊されてしまったが、数寄屋橋もそのひとつ。
「数寄屋橋公園」とその記念碑、数寄屋橋交差点などに名前を残すのみとなっている。

いつもは気にも留めずに通り過ぎる場所だが、そこに「菊田一夫記念碑」を見つけた時は嬉しかった。

横溝正史著「金田一耕助シリーズ」の金田一耕助の名前のモデルとなったのは言語学者の金田一京助氏であることは有名な話だが、この菊田一夫氏も またモデルの1人であることを知っているのは、横溝ファンだけだと思う。
金田一耕助の風貌に関するモデルと言ってよく、名前ももしかしたら「菊田一」名字になっていたかもしれない。
思いがけない発見に喜びつつも、なんでここに菊田一夫の記念碑が?と思った。

「君の名は」という数寄屋橋を舞台とした大ヒットドラマの作者が菊田一夫だったらしい。
記念碑には「数寄屋橋此処にありき」とあり、この言葉が「君の名は」と関係あるのかどうかはわからなかった。

あまり天気の良い日ではなかったが、休日だけあって銀座の街も人通りが多く、数寄屋橋公園も家族連れやカップルがたくさん。
モデルさんを立たせて写真撮影もしていて、綺麗な場所もたくさんあったが、人が写り込まずに写真を撮れたのは1度だけ。
あまり綺麗な場所ではなかったが(笑)、撮れただけでも奇跡的。
ただ都心の一角の公園だけあって、ゆっくりくつろげるような場所ではなく、なんとなく追い立てられるような気分。
そそくさと写真を撮り、そそくさと立ち去った。
ちなみにこのあたりは伊達政宗の伊達屋敷があったあって、数寄屋橋門も政宗が建造したそうである。

★東京都中央区銀座5丁目1−1

★「ブログ」でも写真を紹介しています。
(2014年1月21日の日記)
虎ノ門金刀比羅宮〜旗本・井上主計助の屋敷
「剣客商売」の「春の嵐」に登場する井上主計助(かずえのすけ)。
幕府御納戸頭をつとめる主計助は、秋山大治郎を名乗る辻斬りに殺される。
一緒にいた小者は、辻斬りが「秋山大治郎」であることを証言するために見逃される。
陰湿である。
その主計助の屋敷があったのは現在の虎ノ門1丁目あたり。

その日、私は出先で虎ノ門にいた。
お昼を食べようとうろうろしていて、たまたま見つけたのが「虎ノ門金刀比羅宮」。
へえ、こんな所に「こんぴらさん?」と入ってみたが、なぜかこちらは私によそよそしかった。
別に立派なビルと一体化しているせいじゃない。

そんなお寺や神社は今時あちこちにあるし、珍しいものではない。
でもなんとなく落ち着かず、そわそわと出てしまった。
なぜだろう、いつもと違ってスーツとヒールだったから?
私が「お寺に行くぞ!神社に行くぞ!」と両手を広げて飛び込んで行かず、ついでに寄ったのがばれた?

後で見たホームページが味のある素敵なものだったので、余計残念でならない。
と、ホームページを見直していて初めて気がついた。
「金比羅(こんぴら)さん」じゃなくて「金刀比羅(ことひら)さん」だった。
正式名称は「虎ノ門金刀比羅宮」。

佐藤さんに向かって鈴木さん鈴木さんと呼びかけてるようなもので、これじゃあ金刀比羅さんも怒るだろう。
でもその違いは何?と思って調べてみたがよくわからない。

ホームページの「由緒」には

「当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、 明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。」とある。

基本的に「金比羅」も「金刀比羅」も同じ?らしい。
が、「神仏分離」のせいで、何故名前が変えられたのかがわからない。
この「神仏分離」というのが難しくて、私は苦手。

Wikipediaにあるように、神仏分離とは「神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。」 はわかる。
理屈はわかるのだが、それに準じて行われた様々なことが今ひとつ理解できない場合が多いのだ。
お寺や神社でお話を聞いても一番苦労するのはここで、関係者の方にとっては常識中の常識であるから、私のような 無知な人にわかりやすく説明するのがむしろ難しいらしく、いつも申し訳なく思ってしまう。

ただ、以前は神仏混合の寺社であり、現在は神道の神社となっている。
字、名前を変えただけと考えていいのだろうか。
もっとちゃんと調べてみたい(が、何を調べたらいいのかよくわからずにいる)。

ちなみに祭神は大物主命と私の大好きな崇徳上皇。
また間違えた、崇徳天皇。
でも私にとっては崇徳上皇の方がずっと馴染みがある。
大好きなんて書いたら不謹慎かもしれないが、崇徳上皇の怨霊伝説は、平将門、菅原道真と共に読むたびに血沸き肉躍る 恐ろしくも哀しい物語なのだ。
全く私ときたら・・・。

でもホームページの写真で見る神社の変遷や歴史がおもしろかったので、またいつか行ってみたい。

★東京都港区虎ノ門一丁目2番7号

(2014年4月25日の日記)

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