その他の世界をたどる道(一)


ぼたん 〜神田須田町
何年前のことだったか、上京した母のお供で神保町の古本祭りに遊びに行った。
散々歩き回って疲れ果て、迷い込んだのが「いせ源」「竹むら」「神田藪蕎麦」そして「ぼたん」が連なる界隈だった。
秋葉原の電気街から都営新宿線小川町に向かう靖国通りを一歩入ると、昼時を過ぎて行きかう人も少ない静かな通りとなる。

おなかがすいてたまらなかった私たちは、迷うことなくぼたんへと飛び込んだ。
ところが「粋」と「老舗」が着物着た女将らしき老婦人にいきなり門前払いを食わされてしまった(笑)。
たしかに古本探して歩き回ることばかり考えていたから、着心地はいいけど着古したセーターによれよれのジーンズ、履き心地はいいけど古ぼけたスニーカー。
折からの強風で髪ぼさぼさに埃まみれという按配で、由緒あるお店にはふさわしくないスタイルだったかも。

目の前に7千円台だったか、の料理一品だけが記されたメニューを突き出され、「これしかないですけど?」とつっけんどん。
腹を立てるかしょんぼりするか一瞬考えたけど、なんとなくそのまま引き下がるのも業腹な気がして「こちらがどのようなお店かわかっているつもりですけど。」と答えてみた。
すると老婦人はこちらが嬉しくなるほどの笑顔になって私たちを受け入れてくれた。
初めて見る下足番のおじいさんに古びているけど艶のある廊下、立ち込める鳥すきのいい匂い、小さな庭に差し向かいで背広を脱ぎ、腕まくりしてご飯をかき込んでいる2人連れのサラリーマン。

私たちも衝立で仕切られた奥の席に案内される。
そして思いもかけぬ楽しい昼食が始まった。
サラリーマンが帰るとお客は私たちだけ。
先程のお詫びにと老婦人に若女将?らしき女性、下足番のおじいさんまで加わってすき焼きを整えてくれながら、いろんな話を聞かせてくれたのだ。

ちなみにこちらは鳥のすき焼きのみを出すお店で(もちろん飲み物などは別)、座れば特に注文する必要もない。
ビールを頼んで飲んでる間に、若い婦人がお鍋を仕切ってくれる。
ご飯が入った「おひつ」や瓶ビールを入れた手提げの箱バックみたいなのが珍しく、声を上げながら写真を撮る私がおかしいと老婦人が声を上げて笑う。

池波氏のエッセイを読むまでは猪鍋(猪の肉をぼたんと言う)の店だと思っていたと話すと、ぼたんはシャツなどにつけるボタンのことを言うのだとか。
なぜその名前をつけたのかは聞いたけど忘れてしまった(かなり酔ってた・・・)。
他にもお店に来る有名人やおもしろかったお客さんのこと、「あの人(某サッカー選手)は気が強そうに思われてるけれど、本当はとても礼儀正しい物静かな人なんですよ。」ところころ笑う老婦人、けっこうミーハー(笑)。

途中でおじいさんは席をはずしたが、女性2人は私たちが残りの出汁に入れたご飯にかかるまでつきっきりで面倒見てくれた。
池波氏の事を聞くと、取材が来るまでその老紳士がかの有名な作家池波正太郎とは全然知らなかったのだとか。
あの席、と私たちのそばを指差し、あそこで静かに食べてらっしゃいましたよと言う。
池波さんを慕ってお店に来る人、多いですねえ、始めはびっくりしましたと言う。

そんなある意味客に対する無関心さが池波氏には心地よかったのだろうか。
かつて池波氏は友人と共にここで大立ち回りをやらかしたという有名なエピソードがあるが、残念ながら聞きそびれてしまった。
(けっこう緊張してたし飲んでたし・・・。)

雪国育ちで濃い口の私でもずいぶん濃い味付けだなあと思ったけど、とてもおいしかった。
もう一度行きたいと思いつつもそれっきりになっている。
敷居が高いわけではないけれど、確かに値段は高かった(笑)。

★今日の一枚。
「ぼたん」の女将さん?
今もお元気でしょうか。→「こちら
(2007年9月15日の日記)
神田明神
東京都内で、神田明神ほど時代小説に頻繁に登場する神社はないのではないだろうか。
江戸の人々が馴染んだ神社、江戸の人々に愛された神社はこの時代になっても、神社としては珍しく華やか賑やかな雰囲気と圧倒的な存在感を持って、訪れる者を迎えてくれる。
私ももう20回近く訪れたと思うが、いつ行ってもだらだら歩き回るだけで軽く2時間はたってしまう。

前回「御宿稲荷神社」を取り上げたが、御宿稲荷神社の御神体が一時神田明神に移された時も、確認のために駆けつけた。
「平将門」について調べていて将門が神田明神でも祀られていることを知り、将門塚から回って来たこともある。
何年前か、なんとここで「犬夜叉」のお守りが発売されて、その時もすっ飛んで来て10個も買い、保存に5個と自分が持ち歩くのが1個、後は甥っ子や友達に配って回ったこともある(笑)。
後は年配のお客様を秋葉原から神田明神に案内して、さらに男坂を降りた所にある「かに道楽」でお食事を、というコースは皇居散策と同じくらい喜んでもらえた。

そんな用事などなくても、天気のいい日、時間のある日、ダイエットが必要になった日(涙)など、大きく回り道して訪れるにはとてもいい場所にあるのが神田明神。

「剣客商売」で一番印象的なのは「天魔」の中の「約束金二十両」。
秋山大治郎に惹かれ始めた佐々木三冬が、剣術の稽古に来ているはずの大治郎に会いたさに父田沼意次邸に向かう途中、神田明神そばの茶店に走り込み、甘酒をすする。
その三冬の目に留まったのが平内太兵衛が掲げた立て札。
これをきっかけに三冬、大治郎、そして大治郎の父秋山小兵衛が愉快な物語に巻き込まれていく。

池波小説が好きといっても、時折見られる濃密な人間関係の生臭さにはついて行けない(それこそが池波小説の醍醐味、と言われそうだが・・・)私であるが、この「約束金―」に関しては、解説で常盤新平氏書くところの「春風駘蕩」とした雰囲気が顕著に現れていて、読んでいて気持ちがいい。
特に老いた剣客太兵衛と若い娘おもよの性格や心の交流がほのぼのしていて、それでいておかしみがあって、何度読んでも読み返したくなる。

その三冬が訪れた「明神社・大鳥居を入った左側の茶店」は「天野屋」さん。
見た目は普通のお土産物屋さんだが、入って左側、喫茶部の方に向かうとひなびた感じで薄暗い。
黒光りする柱やみっしり貼られた千社札、レトロな置物など、「天野屋」にお客さんが何を求めて訪れるのか知り尽くした感じ、でも自然。
うだるような暑さに汗を拭きながら、あるいはこごえた手をすり合わせながら入ってくる参拝客が腰を下ろしてほっと一息つく気分が間違いなく味わえる。

隣の売店で売っているたくあんの匂いがきつい。
これは味が濃くてとてもおいしいのだが、買って電車に乗るにはとても勇気がいる(笑)。
甘酒に添えられるなめ味噌もおいしくて、友達とおしゃべりしたり、一人で店の前を通る人たちをぼんやり眺めながら甘酒をすすっていると、スーツを着た現代の「旅人」の姿が見えてくる。

天野屋さんの隅っこで「天魔」を読みながらふと目をあげたら、そこに私と同じ名前の千社札が貼ってあった。
中年女性の10人ほどのグループが隣りの席に陣取り、おしゃべりに夢中になっていたが、その会話の内容から、その人たちが、やはり池波小説に登場する史跡を巡って歩いているのだと知ったこともある。
ちなみに私はもう少し神社寄りにある三河屋さんのさっぱりした甘酒も好きだ。
麹の匂いが苦手な方はこっちの方が飲みやすいかも。

大きな鳥居を一歩くぐれば、そこは間違いなく江戸の世界だ。
歌川広重の「江戸百景 神田明神曙之景」の真似をして、裏側の銭形平次のお墓がある辺りからあたりを見渡すと、立ち並んだビルの中にもやっぱり江戸の匂いがある。
いつも思うことだが、失った風景や新たにできた余計な物を嘆くよりも、今の風景からかつてを偲ばせるものを探す醍醐味、それが当時を知らない私の世代の特権である。
帰りは天野屋さんの方からお茶の水経由で帰ってもいいし、男坂を降りて秋葉原に寄ってもいい。
暑くもなく、陽射しも強すぎない気持ちのいい日の午後なら湯島聖堂に寄って読みかけの「剣客商売」を読んでしまってもいい。

でもそうすると、思いがけず時間を食って慌てふためいて夕方ラッシュの満員電車に飛び乗り、スーパーの買い物袋を両手に全力疾走する羽目になる。

★今日の一枚。
神田明神にはこんな物も売っています(笑)。→「犬夜叉お守り
(2007年12月14日の日記)
お墓参り 〜西光寺
地下鉄銀座線田原町駅で降り、3番出口から郵便局の脇を進んで行くと、間もなく池波氏の眠る西光寺に着く。
途中でお花でも買ってと思っていたのにあまりに近く、気づいた時は手ぶらでお寺の前に立っていた。
「これが西光寺?お墓ってどこにあるの?」
お寺というより2階建ての普通のお宅のように見える建物の前でぼんやりしていたら、近所の方らしき中年の女性に「どこ探してるの?」と声をかけられた。

西光寺と答えると「これよ。」と目の前のお宅を指差し、「どこかでお花を買いたいんですけど。」と言うと「この近くに花屋はないけど、シキビなら中で売ってるよ。」と買い物かご片手にさばけた口調。
いかにも下町だよなあ、いいなあ、でもシキビって何だろう?って首を傾げながらちょうど出てきたお寺の方らしき女性に「池波正太郎さんのお墓参りをしたいんですが・・・。」と言うと、「どうぞ。」と快く建物の中に招いてくれた。

えっ?お墓参りするのになんで家の中に入るの?ってまごまごしてるとまた首を出し、「お墓参りでしょ?どうぞ。」と招く。
慌てて付いて行くと、ドアを開けたところが三和土(たたき)となっており、正面に上がり框、廊下と続いて部屋がある。
そして三和土が部屋の左側までずっと入り込んでいて、その奥にお墓があるらしい。
女性の案内で歩いて行くと、また外に出て家の裏側が墓地になっているのだった。

途中の壁に「しきび(線香一対付き)」と書いた紙が貼ってあり、その下に椿に似た肉厚の葉のついた枝がたくさん置いてある。
後で調べたら榊などと同様お供えに使う植物で「樒」と書き、「しきみ」とも言うのだそうだ。
一組買って教えられた通り池波氏のお墓に向かう。

狭い敷地にたくさん並んだ中の、ちょうど真ん中辺にひっそりと池波氏のお墓があった。
お墓には桐の紋と「先祖代々の墓」の文字が刻んである。
下の部分に横書きで「池波」と記してあることだけが目印か。
あくまでも一個人として池波氏がここに眠っているのだと思っただけで思わず背筋が伸びた。

しきびと線香を備え、手を合わせたが、何と祈ったらいいのだろう。
しんとしずまり返った墓地の中で戸惑いながら、「あの、はじめまして。先生の本が大好きで、一度お目にかかりたくて来てしまいました。」とか何とか、池波氏が聞いていたら苦笑いされそうな体たらく。
勢いづいて5分あまりも心の中で喋りまくってしまった。

誰が供えたかお墓の前には「菊水の辛口(日本酒)」の小瓶と煙草を吸いつけてから水の入った灰皿に浸したもの。
池波氏がお好きな銘柄だったのだろうか。

帰り際に少しお話を聞いた。
お墓参りに来る人は池波氏の命日あたりが一番多いが、やはり一年を通してたくさん来るそうだ。
池波正太郎記念文庫から回ってくる人が多いというが、お年寄りが多いとか。
私が帰る時にもガイドブックを手にした5、60代の男性グループとすれ違ったが、私を見送ってくれた女性の物慣れた応対に思わず立ち止まって見入ってしまった。

とにかく賑やかで楽しそう。
ほとんど1人で歩き回る私、気は楽だけど時々寂しい。
私がこんなに「書くこと」が好きなのも、子供の頃に読んだ池波小説がきっかけだったんですよって思わず割り込んでしまいたくなった(笑)。

★今日の一枚。→「池波氏のお墓
(2008年3月31日の日記)
池波正太郎記念文庫
以前働いていた職場で、必要があってよく合羽橋や浅草橋に買い物に行った。
特に入谷駅で降りて「恐れ入谷の」鬼子母神に寄り道し、信号を渡って合羽橋道具街を冷やかしながらの買い物はいつも楽しみだった。
(仕事さぼれる?し、交通費は出るし)。

海外の旅行者が群がる食品サンプルのお店で、私も空中に浮かんだフォークに巻きつけたパスタや本物そっくりのパフェに目を丸くしたり。
まるでキスをせがむように目を閉じて口を突き出したカッパの置物に心の中で投げキッスしたり(笑)。
あれから数年たったが、今でも入谷は私のお気に入りの散歩コース。
さらに河童の手のミイラのある曹源寺を覘いてかっぱのぎーちゃんに挨拶、そして「池波正太郎記念文庫」に 立ち寄るのがお約束となった。

西浅草の台東区生涯学習センター1階。
私は乗ったことがないけ れど、台東区巡回バス南の北めぐりんに乗って「生涯学習センター北」で降りればすぐらしい。
建物に入ると、 まず目の前に鎮座している豪華な熊手に目を惹かれる。
右に入れば台東区立中央図書館、左に入れば池波 正太郎記念文庫である。

台東区にゆかりの作家は池波氏以外にも多く、中央図書館にも池波作品の 他、瀬戸内寂聴、沢村貞子など資料が充実しています。
また、浅草ならではの大衆文化関連の資料も2階に どっさり。
入ってしまうとなかなか出られない図書館のひとつ(笑)。

さて、記念文庫だが、やはり 一番好きなのは復元された書斎の一部。
セピア色にまとめられた中、どっしりした机や書きかけの原稿や読み かけの本や。
作家としての池波氏の匂い、そして生活人としての池波氏の匂いに包み込まれたような空間。
初めてエッセイで知った資料や写真を実際に目にした時は、身震いしてしまった。

池波氏は間 違いなくここで生きておられたんだ、ここで「鬼平犯科帳」や「真田太平記」を書かれたんだといった感動が押し寄せて 来る感じ。
他にも読むのが難しい?原稿や可愛い絵や年表やずらりと並んだ作品集を眺めていると、あっとい う間に2時間はたってしまう。
長野県上田市にある「池波正太郎真田太平記館」と提 携して、そちらで発行されている資料が読めるのも楽しい。

ちょっと笑ってしまったのが池波氏のイラスト を使用した栞や手ぬぐい、ブックカバーなどのグッズ販売。
ついつい私も手が出てしまったけれど、池波氏は どう思っているんだろう。
「俺の絵をこんなんに使うなよ」なんて苦笑いされていそうな気がする。

そういえばこの近く(台東区立待乳山聖天公園)に池波氏の生誕地碑が建立された。 →「 台東区ホームページ
今度足を伸ばしてみよう。

★今日の写真。 →「記念文庫入り口」。
バーミヤンの看板の方が目立ってます(笑)。
(2008年8月5日の日記)
味わいだけでも 〜イノダのコーヒ
私はグルメガイド片手に食べ歩く方じゃないし、コーヒーは好きだが専門店のコーヒーも家のインスタントもおいしく飲めちゃう味音痴なので特にこだわりはない。
にもかかわらず、去年の秋に池袋西武で開催されていた京都名匠会で、イノダの暖簾を見つけた瞬間イートインコーナーに飛び込んだのは、やはり池波氏の影響だろう。

お昼ちょっと前だったので早速コーヒー(本当はコーヒ)とサンドイッチを注文する。
デパートの催事場だけにテーブルや椅子など京都の雰囲気は望むべくもないけれど、周りを見渡すと品の良い老夫婦や、テーブルに肘をついて池波氏のエッセイ「むかしの味(この本で池波氏はイノダを絶賛している!)」に読みふける若い女性、2人連れの中年男性など、見るからに池波氏の雰囲気を感じさせるお客さんが多い。

そして運ばれてきたサンドイッチの大きさには絶句してしまった。
トーストしたパンに「ハムときゅうり」「トマトとベーコン」「チキン」の3段重ね。
しかも上には厚めに切ったあっつあつのベーコンが2枚乗っかっている。
どう見ても1人で食べる大きさではない。

これが池波氏言うところの「男が食べるサンドイッチ」なのか、大きさと量のことだったのか・・・。
馬鹿なことを考えながら、かぶりつく、おいしい。
実は私、パン屋さんやコンビにでもサンドイッチはあまり買わない。
生のパンが野菜などで湿った感じがあまり好きではないからだが、こんがり焼けたパンがとにかくおいしい。

さらに油の乗っているベーコンとチキンの味付けが最高!なのだけどチキンに取りかかる頃は、もうおなかがきつくて大変だった。
残すにはあまりに勿体なくて何が何でも食べたけど、隣りで老夫婦が持ち帰りを頼み、あっさり了承されていた。
なんだ、持ち帰りOKだったのかとがっかり。
今意地で食べなくても、持ち帰ってまたおなかがすいた時食べた方がおいしく食べれたのに・・・。

そしてコーヒー。
てっきり砂糖とミルクがあらかじめ入っているのだと思っていたら、今ではもう違うのか、選んだコーヒーのせいなのかブラックで砂糖とミルクを添えたものだった。
コーヒーはブラック派の私、自信を持って甘くする特別のコーヒーの味を楽しみにしていたのでこれもがっかり、ブラックのまま飲んだ、もちろんおいしい。

帰ってから「イノダのサイト」を調べてみたら、東京大丸にも支店があるのだった。
他のサンドイッチやコーヒーも試してみたい。

★今日の写真。
サンドイッチとコーヒ」おいしかったけど大きくて食べるのが大変でした・・・。
(2009年3月4日の日記)
全生庵の幽霊画
ずっと行きたかったけどなかなか行けなかった「全生庵」。
毎年8月に幽霊画を一般公開しているということで、今年やっと行くことができた。
有名なお寺なので場所もわかりやすいかと思いきや、日暮里駅からまた迷った。
地元の人に聞いても「幽霊画のあるお寺」の存在は知っていても、それがどこにあるかまでは・・・と申し訳なさそうに言われ、かえって恐縮してしまう。

それでもやっとたどり着いた全生庵の前には「円朝まつり」の幟が立っている。
そもそも幽霊画は落語家の三遊亭円朝が集めたもので、後に寄贈されたのだとか。
その関係で8月11日の円朝忌には落語家により供養の会も行われているとのこと。
ドキドキしながら500円を払い、展示室に入る。

なんとなく暗いお寺の本堂に飾ってるだろうと予想してたけど、実際は本堂横の小さな一室。
ちょうど10人ほどの団体客が帰ったところで、薄暗い室内には私一人。
木の床がどんなに気をつけて歩いてもきしむのがちょっと怖い。
眩しく暑い夏の陽射しがせいで部屋の暗さがいっそう濃く、その中におどろおどろしい幽霊画がずらりとかかっている。

恨めしそうな、哀しげな、恐ろしい、悲しい、苦しい、様々な表情の幽霊が描かれた掛け軸、なのだけど不思議と怖くなかった。
幽霊画」のページでコレクションを見ることができるけど、どんなに恐ろしい顔していても、どんなに恨めしげな顔をしていても、どこか愛嬌があったり、美しいと感じたりしてしまうものばかり。
さらにどこか親しみすら覚えてしまう。

結局幽霊というものは、人間の究極の姿、むき出しになった人間の本質そのものだからだろう。
足のない幽霊として有名な円山応挙の絵の物悲しい美しさには溜息が出るほど。
誰もいない薄暗がりで、恐ろしくも楽しい、悲しくも美しい幽霊画の数々をたった一人で楽しめるこの贅沢(笑)。
掛け軸のけば立ちやうっすらついてるシミや紙の変色や、写真ではわからない紙質や色合いや筆の勢いや。

絵など全く見る目のない私ですら見惚れるほどの生々しさに1時間があっという間だった。
寄り添って入ってきた老夫婦に軽く会釈し、入れ替わりに眩しい陽射しの下に出た途端、ぶわっと鳥肌が立ったのは掛け軸を守るための涼しすぎる空調のせいだったのか。
それともうっとり見入る浅はかな人間に幽霊たちのどれかがいたずらを仕掛けてきたのか。
あわててしまって買うつもりだった画集を買わないで帰ってきてしまった。

落語には興味のない私だけど、来年は円朝忌の日に来て画集も買おう。
「幽霊=怖いもの」のイメージを覆し、同時に「怖くないけどぞっとする」のが全生庵の幽霊画。
暑気払いとか怖いもの見たさなんて言わない、素晴らしい美術品として見にくるべきだと思った。

★「全生庵」 台東区谷中5丁目4−7 ? 03−3821−4715

★今日の写真。
来年も見に行きたい」。
(2009年9月28日の日記)
江戸城 〜皇居
たとえば皇居前広場や北の丸公園に立って辺りを見回す時、そこにかつて壮大な江戸城があり、武家屋敷がぎっしり並んでいた様を想像することは難しい。
もちろん皇居に名残は残っているし、絵や古地図、時代劇などで見ることはあるけれど。

そんなある日、書店で見つけたのが芳賀徹、岡部昌幸著「写真で見る江戸東京」 だった。
江戸城を背に立っている侍や町人、さらに城を囲んで立ち並ぶ武家屋敷の写真が散りばめられている本なのだ。
そういえば徳川幕府最後の将軍徳川慶喜も写真が残っているのだから、当時の城を撮った写真があってもおかしくないのだが、この本を見るまで全く思い至らなかった。
特に48ページから56ページまでに掲載された愛宕山から見下ろす江戸風景(パノラマ写真)はみっしりと武家屋敷の屋根で埋め尽くされ、作り物ではない本物の江戸の迫力を伝えてくる。

今私が立っている東京のこのあたりにはかつて確かに徳川家康がやって来て城を作ったのだと、幕府を開いたのだと強烈な実感が湧いてくる。
しかも写真の中で歩いたり談笑したりしているのは紛れもない当時の人たち。
扮装でもなくかつらでもない、自然に着物を着こなした実際に生きていた人たち。

他にも日本橋や築地、両国、浅草など当時の風景の写真が掲載されており、今の様子と照らし合わせた写真も何枚かあるけれど、これは是非この本を持って行って、自分の目で今の景色と見比べてみたい。
あといつも漠然と行ってた皇居ももう少し目的を持って行きたいなあと思った。
たとえば門や櫓やいろんな場所の名残のもっと具体的な知識を得たい。
ところで私が参考にしている鶴松房治著「古地図で散策する 池波正太郎 真田太平記 」の江戸、つまり今の東京に登場する地名はこれで終了。
長野や大阪にも行って真田発祥の地や幸村終焉の神社、関ヶ原、大阪城など回りたいのだけど。
退職したらできるかな?

★今日の写真。
田安門」昔、田安大明神があったことが名前の由来とか。
★東京都千代田区千代田1番1号
(2010年2月1日の日記)
池波正太郎生誕記念碑 〜待乳山聖天
「江戸切絵図散歩」によると、池波氏の生家は待乳山聖天の南側、現在の台東区浅草7丁目3番付近にあったが、関東大震災で焼失してしまった。
この地に平成19年に生誕記念日が建立され、前に記念館を訪れた際に行ってみたが、今回は東京メトロ銀座線浅草駅から直行。
松屋の前を通り、雷門などのある繁華街から隅田川に沿って反対側に向かう道。
気持ちの良い休日などは散策する人が多いが、この日のように寒い小雨の一日だと、川沿いに全く人気がなく、怖いほど。

言問橋を右目にそそくさと進むと、間もなく左手に待乳山聖天(まつちやましょうでん)が見えてきた。
縁起書によれば、待乳山は推古3年9月20日、浅草観世音出現の先端として一夜のうちに涌現した霊山で、その時金龍が舞い降り、この山を金龍山と号するようになった。
その後、同じく推古9年夏、この地方が大早魃(かんばつ)に見舞われた時、十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜と現れ、天下万民の苦悩を救ったとされる。
待乳山聖天が金竜山浅草寺の支院で、正しくは待乳山本龍院といのはそのためなのだろうか。
石段を登っていくと、最初に目についたのが山積みされた大根!
なんで?と思いながら辺りを見回していると、大根と巾着の「比翼門紋」があちこちに記されている。
大根は立派なお供えらしい。
これも縁起書によると、大根は人間の深い迷いの心、瞋(いかり)の毒を表すといわれており、大根を供えることによって聖天様がこの毒を洗い清めてくれるのだそうだ。
ちなみに巾着は商売繁盛を表すとか、なんかおもしろい。

ところで休憩所には錦絵なども飾られていたが、その中には「真土山」の記載が(古い物ほどそのようになっているようだ)。
「武蔵国隅田川考」によると、今からおよそ300年前、万治、寛文のあたりまでは遥かに大きな山で、景色の良いところだったろうと書かれている(これも縁起より)。
ただ、それがなぜ「待乳山」になったのかは、関係者の方に聞いてもよくわからなかった。
「真乳山」と書かれている物もあるので、自然に名前が変わって行ったとも思えるが、「待乳」から乳飲み子をイメージしてしまった私、なんらかの昔話、伝承などがあってもいいような気もする。
今度調べてみたい。

さて、その待乳山聖天の石段を下りて右に曲がると、台東区立待乳山公園がある。
こじんまりした公園だがきちんと整備してあって、その入り口近くに池波正太郎生誕記念碑があった。
どのエッセイだったか昔のこのあたりの写真が掲載されていて、池波氏が印をつけているのを見たような・・・。
当然のことながら、当時の面影は全くない。

寒さに震えながらぼんやりと記念碑を眺めていても、私のイメージしていた「池波氏の生家」は全く浮かんでこなかった、残念。
それでもこの待乳山聖天はとても楽しいなんて書いたら失礼か、所なので、また来たいと思った。
1月には大根祭りという催しがあるそうだ、来年は来てみようかな?気の早い話だけれど。

★今日の写真。
待乳山聖天」。
池波正太郎生誕記念碑」。
★東京都台東区浅草7−4−1
(2010年2月17日の日記)
浅草 梅園
上京して小さなワンルームマンションに部屋を借り、さあこれから、という時にいきなり仕事が駄目になり、仕事探しをする羽目になった。
収入ゼロで家賃は貯金を切り崩し、と今思えば切羽詰まった状態だったのだが、呑気なのか常識ないのか世間知らずなのか(たぶん全部)、東京見物しながら池波小説に登場する場所を歩き回った、仕事探しの合間に(笑)。

本当はしかるべき場所に登録して連絡を待つべきだったのだが、そんな知識もなく、専門職だったこともあり、あちこちの職場に乗り込んで、雇ってくれるように直接頼み込む日々が続いた。
当然のことながら全て断られて半年余り、とうとう浅草までやって来た。
実は当時住んでいた場所から浅草に通うには乗り換えや所要時間で不便が過ぎ、どうするつもりなんですかと浅草の職場の長の方にあきれられ、「引っ越しますから」とあっけらかんと答えた当時の自分を思い返すと今でも冷や汗が出る。

馬鹿にならない引っ越し代のことも考えず、お金の価値など思いもしない若かった、というより馬鹿だった頃の私がいる。
で、その長の方にしかるべき所に登録するように教えてもらい、住んでた地域で登録してすぐに仕事が決まった。
親切にしてもらったその長の方にお礼に持って行ったのが「浅草 梅園」のあんみつだった。
そして帰りにひとりであんみつ食べて就職祝い、私にとって思い出のお店のひとつとなった。

池波氏のエッセイでは「竹むら」が有名だが、私としては入りやすいこともあり、梅園の方が好きだ。
クリームあんみつのあんこもおいしいけど、クリームもおいしい。
誰かと来ると、まずもんじゃ、それから梅園であんみつ食べて舟和の羊羹かあんこ玉をお土産に買って帰る。
母は雷おこしが好きなので、それも買う。

おかげでその後一週間くらいは体重計に乗るのが怖い(笑)。
浅草には食べるためだけに来ることってあまりなくて、浅草橋や上野から歩くか、池波氏ゆかりの地を見に来るか、羽子板市などのお祭りイベント見に来るか、だが一時の「休日以外はすたれた」感じは全然なくて、平日でもにぎわっているのが嬉しい。
といっても浅草在住の知り合いの話だと、平日は国内外の観光客がほとんどだそうだが。
夜はどうなのだろう。

それにしても浅草は本当に居心地のいい街だ。
下町といわれる場所は多々あるが、私にとっては浅草が一番だ。
そういえば家探しの時も浅草には何度も来たが、いい物件が見つからず、あきらめた。
今住んでる場所からはちょっと遠いのが難だが、もしかしたら、実際に住むよりも、こうしてせっせと通う方が浅草らしさを楽しめるかもしれないと最近思うようになった。

★東京都台東区浅草1丁目31−11
TEL:03-3841-7580
★今日の写真。
浅草 梅園」。
(2010年6月25日の日記)
ほおずき市 〜浅草寺
初めて「食卓の情景」を読んだ時、「四万六千日」について池波氏が書かれた文章が強く印象に残っている。
昭和20年、現在の米子空港にあたる美保航空基地で池波氏はお母様より「廃墟となった浅草に、例年通り草市が立ち、四万六千日の行事が行われる」と書かれた手紙を受け取る。
そして池波氏は終戦の年の「ほおずき市」に、一面の焦土と化した浅草で四万六千日の行事をとりおこなった東京人の、そして浅草寺の心意気に感動したと記している。

私には戦争の経験も極限の飢えの経験もなく、その辛さもひどさも想像すらできないが、それでもどん底に追い込まれた人間が求めるのは、まず衣食住だろうという漠然とした意識はあった。
けれどその現実的な欲求を超えて開かれた「四万六千日」は何だったのだろう。
心のよりどころ、生きるための精神の糧だったのか、その意味を考えても考えてもわからなかった。
ただただ人間のたくましさ、底力のようなものを学んだ気がした、うっすらとではあったが。

戦争の体験談はいくつか読んでいるが、池波氏の違うところは、戦争の無残さ、惨さを記しながら、その中に自分や共に生きた人たちの強さや不思議な明るさを感じさせる部分だろうか。
辛い体験をただ辛かったと書くのではなく、その中で生きた自分を客観視しながらそれを文学の域にまで高めているような気がする。
だから他の体験談を読んだ時のように陰鬱な気持ちになるのではなく、人の生き様を清々しい感動を覚えながら読むことができる。

戦争の現実を知らない世代はこうした体験談を、生々しい手記や池波氏のエッセイや、そういったものから戦争を学ぶ必要があると思わせられる。
そんなことをつらつら考えながら初めてのほおずき市に向かった。

浅草寺、もう何回来たかどうかわからないけれど、では浅草寺について何を知ってるかというと何も知らないに等しい。
大きな提灯の下がった雷門があって、客待ちの人力車がたむろしていて仲見世があって外国の観光客がたくさんいていつも混雑、そんなイメージだろうか。
一度ちゃんと調べてみなきゃあ・・・。

「四万六千日」とは、この日に参拝するとそのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるためだとか。
わあ、今日からさらに126年生きるのか(笑)。
浅草寺」のホームページによると、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるなど薬草として評判であったため、この日にほおずき市も開かれるようになったのだとか。

とにかく見事なほおずきが所狭しと並んでいる中、人をかき分けるようにして歩いていると、カメラを構えた人たちがずらりと並んでいる一画に出た。
その中心にいたのは素敵に着物を着こなした女性。
本当に「粋な」としか表現できないような歯切れのいい喋り方、艶然として豪快な笑顔、そして思わずほおずきを買いたくなっちゃう口説き文句。
思わず足を止めてその口上に聞き入ってしまう。

あちこちのカメラマンにポーズをサービスしながらにぎやかにしゃべり続ける女性をうっとり見ていたら、急に目があってどきんとした。
ちょうど私のいる所は女性が集まっていて、みんなしてカメラを構えていたのだけど、「女はね」の一声に思わずカメラをおろして聞き入ってしまう。
「若いうちは何にもしなくたって綺麗なの。」
艶やかな声。
「年取ってからよ、大事なのは。
女を磨いて。努力するとしないのでは全然違うからね。」

ああ江戸っ子ってこんな女性を言うんだろうなあと聞き惚れながら写真を撮らせて頂いた。
実はすでにほかのお店でほおずきを買っていたのでこちらで買えなかったのが残念。
年末の羽子板市でも粋なおじいさんやきっぷのいいおばあさんなど素敵な人との出会いが必ずあるけれど、来年来たらまた会えるかなあ。

★東京都台東区浅草2-3-1
TEL:03-3842-0181
★今日の写真。
ほおずき市で出会った素敵な女性」。
(2010年10月15日の日記)
団子坂 〜D坂の殺人事件
団子坂、池波小説にも登場するが、今回は江戸川乱歩著「D坂の殺人事件」で。
子供の頃からミステリ好きだが、それでも好みはあるもので、たとえばルパンよりホームズ、たとばクィーンよりクリスティ、たとえば江戸川乱歩より横溝正史、と以前メールか何かで書いた時に、ふと気がついた。
江戸川乱歩、読んだことがない。
あまりにも有名なその名前、さらに名探偵明智小五郎、怪人二十面相など、日常よく見るドラマやアニメにも浸透しているので、すっかり読んだような気になっていただけだった。

そんなわけで江戸川乱歩。
とりあえず作品リストを眺めて気に入ったのが「D坂の殺人事件」というタイトル。
さらにこのD坂、全く架空の名前でなければ団子坂のことではないかとひらめいた。
調べてみると、乱歩はかつて団子坂の上で「三人書房」という古書店を開いており、D坂も団子坂がモデルだった。
図書館で借りて読んでみると、これがまた明智小五郎初登場という記念すべき作品、これなら団子坂に行くしかない!と心に決め(笑)、天気の良い日曜日に出発した。

予定では団子坂近辺を歩き回って乱歩ゆかりの地を探し、せっかくだから団子坂付近で「D坂の殺人事件」収録本を買い、できることならコーヒー「乱歩」にも寄ってそれ読んで、といささかミーハーな気分だったが、肝心の団子坂があまりに普通の坂でちょっとがっかり。
広い道路でゆるやかな坂、ひっきりなしに走る車、両側に並んだマンション・・・。
どんな坂であって欲しかったんだろ、団子の標識あって欲しかったわけじゃないし、昭和レトロな雰囲気を望んでいたわけでもない。
ただもうちょっと「谷根千」を感じさせる何かを期待してたんだろうと思う。

写真を撮って、ふらふら歩いて目についた小さな本屋さんに寄る。
残念ながらここに「D坂の殺人事件」収録本は置いてなかったが、話好きの御夫婦が地図をくれていろいろ説明してくれたのが大きな収穫。
「谷根千は一日だけでは絶対回れない、三日あっても足りないですよ。」の言葉が強く印象に残った。
結局次に見つけたブックオフで「江戸川乱歩傑作選」を買って(笑)、このまま帰るのもなんなので、もう少し歩いてみようと思って地図を見たら、目についたのが「高村光太郎住居跡」。

詩はほとんど読まない私だが、高村光太郎は好きで、特に「道程」「レモン哀歌」などは暗記するほど読んだ記憶がある。
ここに行ってみようと歩き出して、見つけた坂が「大給(おぎゅう)坂」。
ひっそりと静まり返った細く長い緩やかな坂で、まさに私の「団子坂」なイメージ。
金色に色づいた見事な銀杏が青空に映える。
京極夏彦著京極堂シリーズで、だらだら続く長い坂を上っていくと主人公中禅寺秋彦の家があるが、もしこの大給坂を黒塀で囲んだら、そしてもっと舗装されてない、土埃が舞い上がるような道にしたら、それもまたぴったり。
大給坂を見つけただけでも来た甲斐あったと大きな満足と共に歩き続ける。

坂の名前の由来は「かつてこの坂上に子爵・大給家の屋敷があったことから名付けられ、大給氏は、戦国時代に三河国(愛知県)加茂郡大給を本拠とした豪族である」といった内容の表示があった。
団子坂は、これも「坂の下に団子屋があったからという説と、急な坂なので雨降りの日に転ぶと泥まみれの団子のようになるからという説がある」と書かれた表示があった。
坂を上りきったところに小さなマンションがあり、そこに「高村光太郎住居跡」の表示。

明治45年から昭和20年までの23年間、ここで妻智恵子と暮らした家。
表示板以外、わずかの名残もとどめていない場所だったけど、確かに智恵子はここに立って空を眺めていたんだなあと思った。

「東京には空がない」と訴えたという智恵子。
どんなに東京の空が青く澄み渡っていても、智恵子にとっては故郷の空だけが本物の空だった。
「東京にも空はあるよ、私は好きだよ。」
心にそっと呟いて住居跡を後にした。

帰りに汐見地域活動センター内にある本郷図書館に寄った。
乱歩関連の資料を期待していたのだが、乱歩に関する物はほとんどなく、目につくのは森鴎外。
それはそれでおもしろそうだったので、日を改めて来てみたいと思った。

で、結論、私はやっぱり横溝派かも(笑)。

★今日の写真。
団子坂」と「大給坂 」。
(2011年2月4日の日記)
日曜日の万年筆
余震に怯えながら、テレビに映し出されるあまりに惨い光景に胸をえぐられながら、募金や節電など、自分にできる精一杯のことをしたら、あとは普通の日常生活を送るしかない、その申し訳なさ。
おかしいとわかってはいてもそう感じずにはいられない矛盾。
そんな毎日もやっと落ち着いてきたある日、壊れた本棚を買い直すまで山積みになった本の中から、一番最初に抜き取ったのが池波正太郎著「日曜日の万年筆」だった。
このエッセイの「食について」を読みたかった。

「人間は、生まれた瞬間から、死へ向かって歩み始める。
死ぬために、生きはじめる。」

まだ「死」を夢にすら思うことのなかった頃、父の書棚で見つけた池波正太郎の本、「鬼平犯科帳」にまず夢中になり、「剣客商売」は若い娘が祖父のような男性と結婚することに抵抗を覚え、梅安はまだその生臭さに馴染めず、「真田太平記」で戦国時代に目覚めた。
その後読み始めたエッセイでこの一文を見つけた時の衝撃は未だに忘れない。

当時の私にとって、死は縁のない出来事だったのに、まだ10代の私ですら「死ぬために」生きているなんて・・・。
実在の人の死よりも先に突然訪れた死の恐怖に怯えながら続きを読んだ。

「だが、人間はうまくつくられている。
生死の矛盾を意識すると共に、生き甲斐をも意識する・・・・・・というよりも、これは本能的に躰で感じることができるようにつくられている。
たとえ、一椀の熱い味噌汁を口にしたとき、(うまい!)と、感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。」

「しかし、その生き甲斐も、死にむすびついているのだ。」

束の間訪れた死への恐怖は数日で消え、私はごくごく普通の人生を歩んできたけれど、池波小説やエッセイを読むたびに、というより様々な出来事を経験するたびに、さらにさまざまなニュースをテレビで見るたびにこの一文、生と死の矛盾を意識するようになったと思う。
けれど、戦争という大きな悲劇を経験した先達の言葉を、私が実感として意識できるわけもなく、それはあくまでも意識させられる「言葉」に過ぎなかったように思う。

この度の震災で、潜り込んだテーブルの上から滑り落ちてくる本や花瓶に悲鳴を上げ、テーブルと一緒に床を引きずられながら、倒れる本棚や崩れ落ちて辛うじてコードでつながり、窓にぶつかって揺れている機器を見つめながら、その瞬間は確実に「死」を意識した。
後になってテレビで見た惨状に比べたら、私の恐怖などあまりに軽いものだったけど、それでも怖かった。

どうしてこんなことに・・・とそれはまるで悪夢のようで、あまりに現実感に乏しく、それでいてこれまでに見たどんな映画よりも生々しい現実感を伴って私の前に押し寄せてきた。
そして20日・・・。

未曽有の惨事を超えて生き抜く人々の強さに、優しさに何度も涙した。
災害下における日本人の我慢強さ、それでも失わない礼儀正しさは世界の賞賛を浴びているけれど、逆にそれは抑え込まれた感情の辛さにつながるのではないだろうか。
そんなことを思いもした。

炊き出しによる熱い汁物に笑顔を見せる人、ボランティアの方々に「こんな所に来てくれてありがとう。」とお礼を言う人、自らも被害に会いながら他のために尽くす人。
人とはなんと強くて素晴らしいのだろうと思った。
もしも私が同様の境遇に立たされていたら、どうだったろう。
私には自信がない。
それでも何度も何度もこの一文を読み、かみしめながら私なりに精一杯生きるしかないのだと、やっと思えるようになった。
(2011年3月31日の日記)
赤城神社 〜神楽坂
神楽坂は好きな街で、以前住んでいた場所から近かったのでよく行った。
ご飯を食べることはあまりなかったが、飯田橋から坂を上っててっぺんにある善國寺に参拝、ついでに「紀の善」であんみつ食べたり、小路に入って小さなカフェでコーヒー飲んだりするのが好きだった。
でも私の「神楽坂」は善國寺までで、その先は行くことがなかったから、赤城神社は今回が初めて。

神楽坂上を越えて、神楽坂駅に向かう途中に赤城神社はある。
最初にあれっ?て思ったのは、私が雑誌で見ていた赤城神社と全然違うこと。
私が見たのは、緑の木々に囲まれた、緑の屋根の赤い社殿の趣のある雰囲気だったのに、目の前にあるのは小奇麗なマンションとガラス張りの社殿。
高台から見下ろす神楽坂の街並みは良い眺めだけど、すっきりし過ぎていかにもそっけない。

もしかしてここも新築改築しちゃったの?最近こういった風情のない神社を見ることが多いのでがっかり。
そこへ関係者の方が通りかかったので、思わず「あの、すみません。」と声をかけた。
そしたらその方(男性)は振り向きがてらに大きな笑顔で「はいこんにちは、どうなさいました?」
あちこちのお寺や神社でお話を聞くことが多いけど、ここまでおおらかに応えて下さった方は珍しい。
たちまち私の中で赤城神社の好感度が急上昇してしまう。
(なんにしても失礼な話だが。)

お話をうかがうと、やはり2010年(平成22年)に新築されたとのこと。
忙しそうなご様子で、詳しい話は聞けなかったが、「そうだ、これをどうぞ」と資料室から「神社新報」平成22年10月18日版を、一掴み!なんと5部!も出して来て下さった。
これには恐縮してしまう。
この新聞の最終面に「神楽坂 赤城神社本殿竣工」の記事が掲載されている。

それによると、老朽化で近年は耐震性能の向上が必要になったこと、神社の維持運営に不可欠だった幼稚園が少子化の影響で園児が減少し、閉園を余儀なくされたこと、周辺地域の商業化で氏子数が激減し、神社の運営が困難になったことなどの事情により、新築に踏み切ったのだという。
さらに詳細は省くが、神社の再建だけでなく地域の活性化も視野に入れた取り組みを、ということでマンションまで建ててしまったわけである。
こうなってくると、一概に趣だの風情だのと文句も言えなくなってくるのだが、それにしても寂しいものは寂しい。
それでも関係者の方の優しい対応におおいに気分も盛り上がり、写真を撮ったり、ちょうどその日行われたらしい結婚式で、打掛姿の花嫁さんが親族に迎えられている風景に心和ませながら帰ってきた。

ところで「赤城」と言えば、「赤城の山も今宵かぎり(何となく覚えていた言葉、調べてみたら国定忠治だった)」や前に遊びに行った「赤城高原牧場」を思い出すけど、何か関係あるのかなあと思っていたら、やはり頂いた「神社暦」に群馬県の赤城神社の御分霊をお祭りしたものと伝えられる。」とあった。
Wikipediaだともう少し詳しく、「鎌倉時代の正安2年(1300年)、上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる」と書いてある。
田島村とは現早稲田鶴巻町のことで、神楽坂からはさほど遠くない。
寛正元年(1460年)、江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移され、さらに弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔(牛込氏)により現在地に移される、とこれは暦にも書いてあった。
それにしてもなぜこんな頻繁に移されたのだろう、調べてみたらおもしろいかも。
ちなみに鶴巻町の方に「元赤城神社」がまだ残っているそうだ。
写真で見る限りでは、境内もない小さな鳥居と社の、それこそ風情のかたまりのようなその神社、いつか行ってみたい。

帰りに道に立ってたお兄さんから豊原国周の浮世絵「東京の花 中村翫雀」が印刷された立派な封筒をもらった。
5円玉付きのその封筒、開けてみたら神楽坂の居酒屋さんの宣伝だったが、この封筒があまりに良くて、ほくほくしながらレシート入れに使っている(笑)。
神楽坂、何から何まで大好きだ。

★東京都新宿区赤城元町1−10
(2011年6月6日の日記)
深川江戸資料館
深川と言えば池波小説でもお馴染みだが、私にとって深川は「宮部みゆき」。
昔から時代小説の舞台となる場所を歩き回るのが好きだったが、レポートにまとめてホームページにアップしようと思ったきっかけが宮部みゆき著「平成お徒歩日記」だった。
宮部さんが「剣客商売浮沈の深川」を歩いたり、本所七不思議の舞台を探して歩き回ったりしたエッセイで、中には小伝馬町から鈴ヶ森、小塚原と罪人になって引き回し?のルートを回る宮部さんとか、たまらないおもしろさ。

確かにいろんな所に行っていろんな所を見てきたが、日記にちょこちょこ書くくらいで、後で思い出そうとしてもほとんど忘れていることが多い。
アニメやゲームがメインのサイトで「池波正太郎」を取り上げるなんて、なんだか申し訳ないような気もするし、でももうひとつサイトを立ち上げる気力も時間もない時期だった。
そこで読んだ「お徒歩日記」、よし、やろう!って決めた瞬間だった。

最初はちょっと眉をひそめるメールを頂いて落ち込んだりもしたけれど、何とか持ち直し、今回で55回目くらい、まだまだ序の口である。
そんな私の原点でもある深川、用事で行った時でも必ず寄るのが深川江戸資料館。
たとえば両国の江戸東京博物館などと比べると、まあ一度行けばいいかな?と思える程度のこじんまりした資料館。
でも私はここがとても好きだ。

江戸の町並みを再現した常設展示室。船宿があり、米屋があり、長屋がある。
八百屋には野菜や卵が並び、稲荷ずしの屋台があり、井戸やトイレやごみ溜めまである。
時間がたつと朝になって鳥が鳴き、時には雨が降り、夜になる。
なんか居心地がいいのだ。

ただ、歩くなら資料館の周辺よりも深川不動尊や富岡八幡宮のある通りが楽しい。
名物の深川めしもお店によって味も体裁も違うので、食べ比べもできるが、未だに本来の?深川めしに出会ったことがない。
先日行った伊勢屋さんだと、鶏肉の代わりに浅利が入った親子丼?みたいな感じだった。
でも浅利のふっくらして柔らかく、おいしいところはさすが深川、とてもおいしい。

深川は池波、宮部、七不思議にもうひとつ、芭蕉にゆかりのある場所でもある。
深川江戸資料館・中川船番所資料館・芭蕉記念館の3館の入館券セット(400円)を買って来たので、今度行ってみたいが、芭蕉に関してはあまり知らないので、もう少し調べてから行くことにしよう。

★東京都江東区白河1丁目3−28
(2011年7月11日の日記)
善國寺 〜神楽坂
「神楽坂といえば?」と聞かれたら、答えは人それぞれだろうが、私は迷わず善國寺だ。
飯田橋駅から神楽坂を上って善國寺に参拝する。
ぶらぶらするのはそれからだ。
でも神楽坂に通うようになってしばらくの間、善國寺を赤城神社と信じていた時期がある、理由は赤いから(笑)。
さらに善國寺は毘沙門天を奉安しており、戦国ゲームで上杉謙信を使ったりしている私には、それだけで嬉しい。

そんな善國寺だが、最近行った時、絵馬がやたらジャニーズ系の願い事にあふれているのに気がついた。
「嵐のコンサートチケットが取れますように」といった普通の物から、「嵐の○○くんと目が合いますように」「嵐の○○くんがこっち見てくれますように」といった可愛いお願い物、さらに「嵐のチケット取れました、ありがとう」といったお礼まで、とにかく嵐尽くしなのである。
善國寺で何故嵐がブーム?と思って社務所で聞いてみると、最近神楽坂を舞台にした嵐のメンバーが出演するドラマが作られ、その影響で嵐のファンが一気に増えたとのこと。

帰ってから調べてみたら二宮和也さん主演の「拝啓、父上様」で、2007年に放映されたらしい。
ということは嵐絵馬もその頃からあったのかな?気づかなかっただけで。
私が行った日は、地元の人ばかりで静かな雰囲気だったが、当時は毘沙門天もびっくりな賑やかさだったに違いない(笑)。

ところであちこち出歩くと、いろんな人に声をかけられる(変な意味ではなく)。
浅草ではお年寄りに声をかけられるが、神楽坂は若い人にも声をかけられることが多い。
たいてい観光名所の立札を読んでいたり、お店の前で入ろうか迷っている時で、「ここはおいしいですよ」「お勧めですよ」といったアドバイス?さすが観光地である。
家探ししてた頃、神楽坂界隈に住みたかったけど、やはり人気が高くて値段も高く、断念したことなど思い出した。

今回はそんな人に勧めてもらったお蕎麦屋さん「蕎楽亭」に入ってみた。
テレビにも登場する有名なお店だそうだが、私たちが行った時にはお客さんも少なく、静かな雰囲気。
でもお店の人のあしらいも良く、感じがいい。

私は連れにいつも叱られるのだけど、蕎麦よりうどん、ついでに紅茶よりコーヒー派なので、蕎麦屋さんに行ってもうどん、紅茶専門店に行ってもメニューにある限りはコーヒーを頼んでしまう方。
今回も冷たいうどんを頼んだが、これは大当たりだった。
とにかくコシが強い、さらに冷たい。
冷たいうどんを頼んで、びくんと震えが来るほど冷たいことってそんなにないが、ここのうどんは本当に冷たくておいしかった。
ちなみに連れが頼んだ蕎麦もとてもおいしかったとのこと。
リピーターの予感大。

ただ神楽坂界隈は本当においしいお店が多いので、なかなか一つのお店に絞って通うことができない。
しばらく行かないと、どんどん新しいお店が増えていくし。
お洒落なカフェやフレンチレストランも多いが、私はやっぱり神楽坂では和食がいいな、と思えるひと時だった。
★東京都新宿区神楽坂5丁目36
(2011年10月4日の日記)

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