その他の世界をたどる道(二)


子規庵 笹乃雪 元三島神社
鶯谷駅で降りると必ず立ち寄るのが、佐々木三冬の根岸の寮が「近くにあった」円光寺。
(といっても鶯谷自体そう頻繁に行くわけではないが。)
その時必ず目につくのが「子規庵」の案内板。

正岡子規。
俳句に関してはほとんど知らない私だが、それでも正岡子規は「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句や、野球の日本への普及に熱心で日本語で野球用語を作ったとか、結核で苦しんで、「子規」の雅号は「ホトトギス」にちなんだものだとか、なぜか雑学みたいな知識がぽろぽろ出てくる。
それだけ一般に浸透している有名人ということなのだろう。

その子規庵、かつて子規が住んでいた家が近くにあるなら行ってみたいと思い、降りしきる雨の中お邪魔した。
昭和を描くドラマにでも出てくるようなセピア色に染め上げられた一軒家。
「子規庵」となければ気にも留めないような普通の家。

ちょうど掃除を終えたばかりの男性が笑顔で「中へどうぞ」と勧めてくれる。
その男性の家にお邪魔するような気持になって、あいさつしながら靴を脱いでいると、ちょうど近所の常連さんらしきおばあさんと、売店の店員さんが、世間話の真っ最中で、やっぱり「子規さんの家に遊びに来た」気分がぬぐえない。
もちろん主人の子規さんは姿を見せないわけだけど。

まずは正岡子規の人となりや子規庵について紹介する映像を見せられる。
さらに子規に関するたくさんの資料や台東区の散策マップなどがどっさり置いてある。
もちろん子規の使った家具や寝付いていた部屋や愛した庭などもじっくり見ることができた。

病に苦しみながらも貫いた文学への道、さらに執着しぬいた「食」への想いなど、その直筆の日記をたどると、漠然と抱いていた子規の「のほほんとしたイメージ」がとんでもないものであったことに気づいていく。
さらに子規庵近辺には、子規の句を綴ったプレートがあちこちに貼ってあって、句集をまとめて 読むより共感しやすかった。

子規の愛した庭の写真の絵葉書を買い、そのままぶらぶら歩いていると有名な豆腐料理のお店「笹乃雪」の前を通りかかった。
「豆腐」ではなくて「豆富」と書くと、これも妙な知識があったが、実はここも正岡子規ゆかりのお店とのこと。
お店の前にも子規のプレートが飾ってある。
入ってみたいなあ、でもちょっと敷居が高いなあ、などとうろうろしていたら、ちょうど開店の時間になり、お店の人がパンフレットを手に「はいどうぞ。」だって。
根岸の人はみんな勧め上手だ(笑)。

予約いらずでおひとり様OK、よろしかったらランチをどうぞというわけで、広間に私も含め、3組のお客さんが散らばって、2,000円の「鶯御膳」。
実は私、豆腐はあまり好きじゃないんだけど、ここの悪い意味の豆くささを感じさせない上品な豆富料理はあっという間に平らげてしまった。
周りはお酒も飲みながらのんびり楽しんでいるのに、私は1人なので料理が運ばれるとぺろりという感じ。
でも落ち着いた装飾を眺めながら部屋の雰囲気を楽しんでいると、間が持たないということもなく。
今度母を連れて来たい。

許可を頂いて店内やお料理の写真も撮ったのだけど、パソコンただいま故障中で載せられないのが本当に残念。
というより復旧するのだろうか・・・。
正岡子規もここの味を愛して句に呼んでいると説明してもらい、大満足で次は「台東ぶらり散歩 正岡子規ゆかりの地(句碑)を訪れる」のパンフレットを検討した結果、元三島神社へ向かう。

これがまた凄い所にあって、モーテルなどが立ち並ぶ歓楽街の奥の奥。
何て言うんだろ、雑駁たる鶯谷界隈の中に、子規の世界が肩身狭く置いてあるわけでもない、だからといって仲良く共存しているわけでもない、胸張り合っておしくらまんじゅうしている感じ?
雨の中の元三島神社はこじんまりした静かな場所だったけど、この神社はじめ根岸の街では子規の世界を守ろうとする気概をそこかしこに感じることができる。

パンフレットには句碑が15ヶ所あると紹介されていた。
いつか全部回ってみたい。
帰りに羽二重団子のお店に寄る。
おみやげだけのつもりだったけど、あまりにおいしそうだったので、つい熱いお茶で食べてしまった。
今日はかなり歩いたけど、カロリー消費した分、また取り込んじゃったかな・・・?

★子規庵所在地;東京都台東区根岸2丁目5−11

★「ひとりごと」に写真を追加しました。
(2012年1月30日の日記)
芥川と葡萄餅
先日大徳院で、この界隈で芥川龍之介が少年時代を過ごし、 大徳院の境内の縁日で葡萄餅を買った思い出を綴った本があるらしいと伺った。
でも「葡萄餅」がわからない。

「葡萄餅ってどんな感じの物でしょうか。」
「ちょっとわかりませんねえ。」
「今も屋台で売ってるんでしょうか。」
「さあ・・・。」

ご住職も御存知ないらしい。
「大根餅のような物でしょうかねえ・・・。」
大根餅?それもわからない。

なんとなくチョコバナナやりんご飴のような縁日ならではの駄菓子で、今はもうすたれてしまったのだろうと勝手に思った。
苺大福のように中に葡萄が1個丸ごと入ってるお餅とか、葡萄餡の入っているお餅とか、いろいろ想像したけどやっぱりわからない。
大徳院は現在新築中で、以前の大徳院の境内がどれくらいの広さだったのかは想像するしかないが、それにしてもいい話だ。
芥川が書いたエッセイを見つけるために、作品を片っ端から読み始めた。

見つけたのはちくま文庫の「芥川龍之介全集 5」に収録されている「少年」という小説だった。
堀川保吉という青年が主人公だが、その前に読んだ自分の思い出を語る「大川の水」と読み合わせても、芥川が自身をモデルに書いていると考えて差し支えないだろう。

「大徳院の縁日に葡萄餅を買ったのもその頃である。」とある。
「葡萄餅」には「干しぶどうを入れた餅菓子」と注意書きが入っている。
その時頭に浮かんだのは、「豆餅」の豆の部分が干しぶどうになった画像。
う〜ん、おいしいのかなあ、おいしいんだろうなあと悩んだが、それきり忘れてしまった。

ちなみに大根餅はその後行った飲茶の店にちゃんとあるのを見つけた。
油っこそうで頼まなかったが、大根やエビ、シイタケなどを蒸して刻んだのを粉に混ぜて、練って焼いたものだそうだ。

ところがその後、たまたま読んだ野村麻里著「作家の別腹」に池田弥三郎の「ぶどう餅」の項でで北区中里の「中里」に売ってるとあったのを見つけた。
なんだ、まだあるのか。
本で読んだひなびた印象とは違い、写真で見ると小さめの「赤福」と言えばいいか、くずを取った舟和の「あんこ玉」と言えばいいか、要するに小さなあんこ玉だった。
これなら食べてみるに限る、と出かけて行った。

中里と言っても最寄りの駅は駒込。
毎年参加している「浅見光彦ミステリーウォーク」が近くの霜降商店街で行われていることもあり、私としては慣れた街だ。
長い長いJR駒込駅に沿って歩いていて、ふと半年ほど前のことを思い出した。

あれは大震災で日本中が苦しんでいた頃。
特に被害のひどかった東北三県の中で、宮城県の村井嘉浩知事も毎日のようにテレビに登場し、苦悩に満ちた表情を見せていた。
その村井知事が駒込駅近く、今私が歩いている前を歩いていたのだ。
テレビでいつも来ている防災服の背中に「宮城県」とあり、間違いなく村井知事だった。

何の用事での上京なのか、疲れ切った後姿ながら、同行の人と言葉を交わしながら早足で歩いて行く。
思わず声をかけようか、わずかでも寄付をさせて頂こうか、と思いつつもできぬままに知事の姿は私とは別方向の道に消えて行った。
自分も実際に感じたあの恐ろしい揺れ、テレビで見る被害の状況と共に、震災と言えば忘れられない記憶の一つになっている。

さて中里に到着。
紫の暖簾に「ぶどう餅」の張り紙。
こじんまりした感じのいいお店だ。

お店の方に、昔縁日で売られていた葡萄餅もこんな感じだったのでしょうかと伺うと、それはわかりませんが、と前置きしながら「現在東京で葡萄餅をずっと作り続けているのは、おそらくうちだけだと思いますよ。」と自信に満ちた返事。
あんこの小さなかたまりがずらりと箱に並んでいる様が、葡萄のように見えることから「葡萄餅」と名付けられたのだそうだ。
百獣戯画の包装紙に、葡萄餅には葡萄の絵ののしをかけた物を渡してくれる。

持ち帰って早速食べてみると、上品ながら濃い甘さで、お茶やコーヒーも濃いめに入れたほうがおいしい。
しかも初めは小さいなあと思ってたけど、2個も食べれば十分満足。
これは縁日で売るようなものではないなあと思ったけど、なんとなく芥川の世界に思い出にちょっとだけ触れた気がした。→「こち ら

ちなみに後で見つけたのだが、香川県の正華堂というお店でも葡萄餅を売っているが、その由来は「 戦国時代阿波と讃岐の境のため戦火に明け暮れその折、もち団子を串にさ して武士に差し出した。
『戦力餅』との言い伝えがあり、氏神の白鳥神社に供えられるようになり武道餅と呼ばれ郷土名物となっております。」となっている。
「武道餅」から「ぶどう餅」、これもおもしろい。→「こちら

★今日の写真。
北里」。

★和菓屋「北里」 東京都北区中里1-6-11 中里SUZUKIBLD
(2012年4月9日の日記)
洲之内徹著「絵の中の散歩」〜全生庵の幽霊画
洲之内徹著「絵の中の散歩」に全生庵の幽霊画に関する記述があるというので読んでみた。
絵に関するエッセイだけだと思っていたので、最初に交通事故で亡くなった息子さんへの想いが書かれてある部分に驚いた。
もっと気軽に読める本だと思っていたのに。
でもその記憶がある絵に繋がっていく。
息子さんを失ったのに、心がこわばって悲しみを素直に表現できない、ひたすら嘆き悲しむよりずっと辛いような気がする。
それだけにたった一人で慟哭できた筆者、たとえそれで救われたわけでなくても、良かった・・・と思た。

ところでこの本を読んだちょうどその日に、小野不由美著「ゴーストハント」シリーズの全巻購入プレゼントが届いた。
付属の冊子に小野不由美さんのインタビューで、京都の大谷大学に入ったと答えている。
そしてこの「絵の中の散歩」にも、亡くなった息子さんが大谷高校の学生でお悔みに来てくれた先生がお経を上げてくれたという記述がある。
同じ日に読んだ本のどちらにも、高校と大学の違いはあるけれど、「大谷」の名前が出てくるなんて、とびっくりした。

さて、全生庵に関しては、「応挙の幽霊」というタイトルで書かれている。
筆者がいつ行ったのかはわからないが、当時は無料で見ることができたようだ(今は有料500円)。
私が一番好きな、芳年の幽霊ではなく、生きている人間、女性が痩せ衰えて階段に登っている絵を一番怖いと書いてあるのが嬉しかった。
生きていながら幽霊になるその哀しさ恐ろしさ凄まじさ。
ここでの名文句が「幽霊は美人でなければならない」。
お岩さんや牡丹灯籠のお露さんを引き合いに出して語っているのがおもしろかった。

ただ、読んでいて「あれっ?」と思った記述。

「ここの絵の中にも、お岩さんは一枚もないが、お露は三枚もある。
その中の一枚は、行燈の光を受けてお露が蚊帳の中に坐っているところだが、実にいい女で、私も蚊帳の中へ入って行きたくなった。」

どこに引っかかったかはこれから書くが、これが普通の人のエッセイだったら読み流すところ。
でも洲之内氏は美術エッセイストであり、画廊主・画商だった人物。
しかも他の絵に関する文章を読んでいても、絵に関する関心の高さ、気に入った作品に対する執着の深さは凄いものがあるので、こんな「勘違い」をするのはおかしいと思う。

私は毎年全生庵に幽霊画を見に行っているし、画集も持っているので、全生庵所蔵の幽霊画は全部把握しているつもりだが、その中に「牡丹灯籠」に登場するお露は一幅しかないはず。
そこで、上記の文章に出て来る言葉に従って検証してみた。

1、行燈が描かれている絵

・池田綾岡(あやおか)「皿屋敷」
行燈ではなくて雪洞で、お露ではなくお菊が描かれ、蚊帳ではなく襖である。
綺麗な女性(お菊だが)が坐ってはいる。

2、お露

・尾形月耕「怪談牡丹灯籠図」女中お米と2人の立ち姿。
お露」であることが明言されているのはこの一幅だけ。
灯籠を手にしているが、行燈はない。
死霊の雰囲気が強く、「いい女」ではない。

3、蚊帳

・菊池容斎「蚊帳の前に坐る幽霊」
行燈と蚊帳の中は正解だが、「いい女」とは言い難い。

・歌川国歳「こはだ小平次」
男性な時点で問題外(笑)。
しかも蚊帳の中ではなく、蚊帳の上から中を覗き込んでいる。

・禮朴(れいぼく?らいぼく?)「蚊帳の前の幽霊」
雪洞、蚊帳の中ではなく前にいるし、後姿。
こちらもいい女とは言い難い。

4、いい女

・円山応挙「幽霊画」
紛れもないいい女だが、洲之内氏自身が名指しで感想を書いているので違うことがわかる。

・鰭崎英朋(ひれさきえいほう)「蚊帳の前の幽霊」
洲之内氏が書いているのはおそらくこの絵。
ただ、行燈はあるけれど立っているし、解説にお露とは書いていない。

・洲之内氏の語る絵は鰭崎英朋の絵なのか?
なぜ立っていたのを坐っているとしたり、この絵をお露だと決めつけてるのか?
お露の絵が3枚とあるけれど、当時は3枚あったのか?
(現在は1枚)。

ただ、洲之内氏の履歴を読むと、全生庵の絵を見たのは上京した1952年(昭和27年)から「絵の中の散歩」が出版された1973年(昭和48年)の間と思われる。
洲之内氏ほどの人がこんな簡単な間違いをするとはとても思えないので、もしかしたら当時は絵が百福あって、その中にお露も三幅あったのではないかと思い至った。
というのは、「全生庵に寄贈された幽霊画を集めたのは有名な落語家の三遊亭円朝で、当時は百点集めたのだが、半分は焼けたとも逸散したともいわれる」と画集にあったからである。
全生庵が幽霊画の公開を始めたのが1950年(昭和25年)なので、須之内氏が見に行った頃は、百点の絵の中からいくつか選んで公開していたとしてもおかしくない。

ただその絵がどんな物だったのかは調べる手がかりが全くなく、全生庵でお話を伺った。
それによると、全生庵に寄贈された時点で掛け軸は五十幅であり、牡丹灯籠と明記された絵は、つまりお露さんの絵は最初から一幅しかなかったとのこと。
しかも後で画集の安村敏信氏の論文を読んで、掛け軸が百幅あったという説自体が信憑性のないものだったことがあっさりとわかった。
詳しい内容は全生庵のホームページの幽霊画に関するページにもそのまま掲載されているが、要は須之内氏の勘違い、それに尽きるのだ。

確かに他の絵に対する突っ込んだ書き込みぶりに比べ、全生庵に関しては誘われたから見に行った、あれ意外といいのがあるじゃない、程度で他の絵ほどの関心は見せていない、 が、有名な美術評論家の肩書のための私自身が暴走してしまっただけのようだ(笑)。
須之内氏の言う絵はやはり鰭崎英朋「蚊帳の前の幽霊」で間違いないだろう。
「絵の中の散歩」が出版されたのが、ネット全盛の今だったらあちこちで指摘されたろうが、当時は全生庵に見に来れる人自体それほどいなかったのだろうか。
「絵の中の散歩」は美術史上名著として名を残す。

この本は絵に関しては全く知識も感性もない私が読んでもおもしろかった。
絵を描いた画家と、それらの絵を渡り歩く須之内氏、その交流。
絵を知るのではなく人を知る本だった。

だがこうして調べまわっているうち、もうひとつ、どうでもいいような疑問と、円朝を巡る人々のおもしろい関わりが見えてきた。

〜この項続く〜

★今日の写真。
全生庵」。

ブログ」にも写真を載せています。
★東京都台東区谷中5丁目4−7
(2012年6月7日の日記)
全生庵の幽霊画 〜高橋由一
画集を見ながら幽霊画についてあれこれ考えているうちに、おもしろい事に気がついた。
といっても大した事ではないが、

・菊池容斎「蚊帳の前に坐る幽霊」

・鰭崎英朋(ひれさきえいほう)「蚊帳の前の幽霊」

このいずれも蚊帳絡みの幽霊画だが、どう見ても「蚊帳の前」にいるようには見えないのである。
写真をここに掲載できれば一目瞭然なのだが、それもできないので言葉で説明すると、容斎の絵は、蚊帳のそばに正座していて、顔と膝だけが蚊帳の中に入っているように描かれている。
カーテンなどを使ってやってみればすぐわかるが、これは蚊帳の横に座らない限り、まず無理な形。
蚊帳の前に座ってこんな風に見えるには、幽霊がかなり体をくねらせてないとできない所業で、それだと怖いよりむしろお笑いの世界に入ってしまう。

英朋の絵は、幽霊が完全に蚊帳の中に立っている。
現に前回紹介した洲之内徹氏も「蚊帳の中に入って行きたくなった。」と書いている。

題をつけるなら、容斎版は「蚊帳の横に坐る幽霊」だろうし、英朋版は「蚊帳中の幽霊」だろう。
ネットのない時代とはいえ、ここは誰も突っ込まなかったのだろうか。
失礼とは思いつつも、このことも全生庵で聞いてみた。

すると当然のことながら、この題は円朝がつけたわけではなく、おそらく絵が描かれた時点で作者によってつけられたものだろうから、今更変えようがないし、なぜこの題になったかは把握していないとのことだった。
洲之内徹氏も幽霊画の解説をされている安村敏信氏も、あえてそれには触れないのが粋なのかも?

さて、こんな他愛もない話題は置いといて、洲之内徹氏が「絵の中の散歩」で絶賛していたのは高橋由一の「幽冥無実之図」だった。
女性が生身の人間で、その後ろに幽霊となった男性がいるという珍しい形で印象に残ってはいるが、失礼ながら女性もそれほど綺麗とは思えなかったし、好きな絵とは言えない。
でも洲之内氏が絶賛しているんだからいい絵なんだろうな、くらいの気持ちでいた。
そんなある日池袋で見つけたのが、現在はもう終了しているが東京藝術大学大学美術館で開催されていた「高橋由一展 」。

なんだか高橋由一に縁があるなあと思いつつ、観に行ってみた。
高橋由一の事だから、幽霊画が山ほどあったらいいなあなどと無知な期待に心躍らせて行ったらとんでもない、高橋由一は「鮭」の絵で有名な洋画家だった。
全生庵から貸し出された「幽冥無実之図」もあって、今年の8月までは会えないと思っていたのにと、感涙物だったが、確かに「鮭」の絵は凄かった。
とにかく大きい。
特にまな板に置かれた鮭の迫力と巨大さは、生臭さを感じるほど。

他に有名な花魁小稲を美しく描くのではなく、リアルに写実的に描くことにより、生身の迫力とある種の惨さを感じさせる絵が素晴らしかった。
もっと美化して描いてくれることを期待していた小稲は「私はこんな顔じゃない」と泣いて怒ったと言うが、同じ女性としてその気持ちはよくわかる。
ただもし私に高橋由一の絵が買えるなら、滝野川の紅葉寺(金剛寺)付近を描いた絵が欲しい。
王子駅から王子神社脇、玉子焼きの扇屋跡、音無公園の春は桜を愛でながら、飛鳥山公園下を通り、北区中央図書館に向かう。
調子が良ければさらに歩いて板橋区の名前の由来となった実際の橋「板橋」まで歩く、途中には東板橋図書館もある。

一番好きな北区の中央図書館に行く時や、毎年5月に霜降り商店街で開催される「浅見光彦ミステリーウォーク」に参加する時、あるいは秋の飛鳥山公園薪能を見に行く時に必ず通るお気に入りのコースである。
その途中、サミットの近くに紅葉橋があり、紅葉寺(金剛寺)がある。
高橋由一の中では小品だろう、でも馴染みのある風景、大好きな風景を高橋由一が描いてくれた、それだけでも喜びは大きい。
惜しむらくは有名な絵ではないので、クリアファイル、ポストカードなどのグッズ化されていなかったこと。
あちこちネットで探したが、画像検索でも引っかからない。
多少無理をしてでも目録買っておけばよかったかな・・・。

その高橋由一、本来はあまり幽霊画のような絵は描かないのだが、円朝のたっての頼みにより描いたというような記述をどこかで読んだ。
そこで高橋由一と円朝のつながりを探そうと、「高橋由一履歴」を読んでいたら、さらにおもしろい人物が登場した。

〜この項続く〜

★今日の写真。
高橋由一展」。

(2012年7月6日の日記)
由一とベアドと「圓朝の女」
三遊亭圓朝と交友関係にあった高橋由一が(おそらく)圓朝に頼まれて、幽霊画を 描いたということで、高橋由一展を見に行ったが、この辺もう少し詳しく知りたく思い、 「高橋由一履歴」を読んだらおもしろい記述を見つけた。
由一がチャールズ・ワグマンを訪れて、持って行った絵を見せ、ワグマンの絵を見せてほしいと頼んだら、写真を持っ てきた。
実はその相手がフィリップ・ベアドで、ワグマンは隣の家に住んでいたというのである。

ワグマンは由一の師ともなった画家だが、由一が勘違いした相手の写真家ベアドも私にとっては興味深い人物である 。
先日「料理屋・酔月楼 〜愛宕神社」を書いた時に、ベアドの写真が掲載されている本「写真で見る江戸東京」を資 料として取り上げたが、ベアドは私にかつて東京は江戸だったことを「実感」させてくれた。
調べてみたら慶応2年11月上旬に発行された万国新聞紙に出ているベアドの広告、及び68年度版の人名録によ り、住所が居留地24番であったこと、また「高橋由一履歴」により、ベアドとワーグマンが塀ひとつ隔てて隣同士に 住んでいたことがわかった。

私は落語自体は興味ないというかよくわからないが、圓朝の「真景累ケ淵」に外国人が幽霊画を見に来るくだりがあ り、絵に関してずいぶん鋭い目を持っているのだが、これもベアドやワグマンだろうか。
その外国人は菊池容齋の「蚊帳の中の幽霊」と柴田是眞の「桟橋の幽霊」をほめていたというが、その「蚊帳の前の 幽霊」こそ前回私が幽霊は蚊帳の前に座ってないぞと突っ込みいれた問題の1枚だった(笑)。
ちなみに圓朝はここでは絵の題を口にしていない。
もしかしたら当時は特に題のついていない絵が多かったのかもしれない(確証はない)。

今年も全生庵に幽霊画を見に行ったが、おもしろい話を伺った。
外国の人もよく見に来るが、外国の人に評判がいいのは谷文中「燭台と幽霊」、歌川広重「瞽女の幽霊」、伊東晴雨 の怪談乳房榎図」と中村芳中「枕元の幽霊」で、日本人に好まれる円山応挙のように美しく、はかない幽霊よりも、不 気味で怖いが好まれるのだとか。
確かに上記の4幅は不気味という点では数ある幽霊画の中でもトップクラス。
中でも「燭台を通りすぎ、さらにその先に進もうとしているような元気さがある。」と解説されている「燭台の幽霊」の元 気な不気味さには、怖いを通り越して笑ってしまうものがある。

話がそれたが、圓朝はこの時、「これだけの幽霊画を集めるからには、幽霊がいるかいないかを確かめたのでしょう」 と問われて、圓朝も当惑し、「日本では昔からあると言われているし、あなたの国ではないと言われているそうですから、つまりない人にはある、ある人にはない(のが幽霊)でございましょう。」とまことに穿った答えをしている。
京極夏彦や小野不由美など、幽霊物の怪を検証するような小説を書く作家はまさにこの視点に立っており、この言葉 が圓朝以外にも口にしていそうな雰囲気があるのだが(柳田國男か井上円了あたり)、調べてみたらおもしろいかも。

こうして圓朝について調べていて読んだ松井今朝子著「円朝の女」がこれまたおもしろかった。
圓朝は生前数多くの浮名を流した人と聞くが、この本で描かれる妻や恋人、娘など5人の「女」を読むと、圓朝は女にも恵まれていたんだなあとつくづく思う。
主人公は圓朝なのか、彼を取り巻く女たちなのか、いつの間にか圓朝の影がすっかり薄くなって、女たちの個性が際立っていくさまが秀逸。
この作者の筆致がまたすごく、「凄い女が描く女は凄い」を地で行く迫力だった。

その中に

・ともあれ浜町の家の近所には清元の名人えんじゅ太夫延壽太夫延寿太夫に彌生太夫、「鮭」で名をあげた絵かきの高橋由一先生、円朝が幽霊の絵を何枚も描いてもらった飯島光峨先生といった、いずれもその道の名人がお住まいでした、
その方々とのお付き合いにもお内儀さんは欠かせなかった。

・本所二葉町の屋敷を手放したときは相当な大金が転がり込んだが、その金を三つに割って、内のひとつは山岡鉄舟先生ご開基の禅寺、全生庵にお渡しした。

という文章を見つけ、嬉しかった。

最後に作者と春風亭小朝の対談が載っていて、「時代小説が今よく読まれている理由も、ちょっと時間軸をずらして、現実離れした世界に逃げたいからなのかもしれません。」と話しているのも興味深かった。
なるほど、ファンタジーほど現実離れもしておらず、でも自分と同じ、生きてる時代が違うだけの人間の物語ということか、と納得した。

余談だが、今年は全生庵で初めて見る掛け軸があった。
幽霊画ではなく、おそらく圓朝直筆の書、と思っていたのだが、何の説明書きもなく、達筆すぎて読めない。
ただ「圓朝丈人(お年寄りを敬う言葉、老人の意)」とあるところを見ると、圓朝筆ではないのだろうか?
お寺の関係者の方々もわからないという掛け軸だった。
圓朝本人の幽霊画の由来か、他人が書いた圓朝の幽霊画収集に関する説明だと思うのだが。
ちなみに読み取れたのは「池、月、柳、風」などの漢字と「累々、石戦?荊棘、」などで最後に「落語家圓朝丈人」と書かれた部分など。

〜この項続く〜

(2012年8月10日の日記)
8月19日 ベアドと王子扇屋
私に「生きた」江戸を教えてくれたフェリックス・ベアド。
彼が撮った中に「王子の茶屋」と題する王子の扇屋さんの写真がある。
「鬼平犯科帳」にも「山吹屋」と名前を変えて登場する慶安元年(1648年)創業の老舗の料亭。

現在は料亭はなく、1メートル四方の屋台?の中で玉子焼きを販売しているだけのお店だが、ここの玉子焼きはお いしい。
王子駅に降りた時は、遠回りしてでも買い求めたい玉子焼き。
14代目のご主人が12時から2時頃まで店頭にいて販売しつつ、玉子焼きがなくなると裏に回って焼いてくる。
(2時過ぎは女性の販売に変わる。)
その間お客さんは世間話などしながら玉子焼きが焼き上がるのを大人しく待っている。

お店の前を通りながら、そんな光景をよく見かけた。
年配の常連のような人が多いから慣れているのだろう。

かつて「海老屋 扇屋」と並び称された二大料亭のある王子界隈を、ベアドはロバート・フォーチュン(中国からインドに お茶をもたらした事で有名な植物学者)の

「王子は日本のリッチモンドである。そこには『スター・アンド・ガーター・ホテル』のような有名な茶屋がある。これは江 戸の善男善女が、日帰りの行楽やレクレーションにやってくるところである。」(「フェリックス・ベアト写真集、幕末の風景と人びと」参照)。

という言葉を引用して紹介している。
もう一人私に大きな夢とロマンを与えてくれたハインリッヒ・シュリーマン(トロイア発掘)もまた扇屋を訪れ

「子は川のほとりに建つ茶屋で有名な魅力的な村で、川はここで大きな滝となって流れ落ちる。」(「シュリーマン旅行 記 清国・日本」参照)。

と書いている。
シュリーマンはこの後扇屋での食事の様子を楽しそうに綴っているが、残念ながら私は扇屋で食事をしたことがない 。
私が初めて訪れた時、すでに料亭は廃業し、チェーンの居酒屋さんに変わっていた。

それでも御主人にお話を聞くことができた。
14代目当主は早船武彦氏。

もともとは農家だったが、初代弥左衛門が農業のかたわら掛茶屋をしていたのが始まりで、それが料理屋になった という。
もちろん御存じの事とは知りながら、「池波正太郎の『鬼平犯科帳』にも山吹屋と言う名前で出ているのご存知ですか ?」と聞いてみたら、以前新橋演舞場で「鬼平犯科帳」をやった時、山吹屋の室内を扇屋を模して作ったこと、早船氏も招待されたことを嬉しそうに語ってくれた。
もちろん鬼平さんにも会うことができたそうである。
Wikipediaを見てみたら、1992年(平成4年)に新橋演舞場で「五年目の客」と「山吹のお勝」を一話にまとめた「五 年目の客」が演じられているので、その時のことと思われる。

最後に落語「王子の狐」に出て来るお店も扇屋がモデルだが、三遊亭圓朝と何か関わりがなかったかを聞いてみた。
これで圓朝も足繁く通ってましたなんて話になったら綺麗にまとまるのだが(笑)、残念ながらそんな形跡はなかった ようだ。
(来たかもしれないが、記録としては残っていない。)

「王子の狐」自体オリジナルではなく、上方の落語を東京に移したものなのだそうだ。
なるほどこれもWikipediaに「初代三遊亭圓右が上方噺の高倉狐を東京に写したもの。」とある。
でもこの初代三遊亭圓右が二代目三遊亭圓朝を名乗るはずだったのが病気のため亡くなって果たせなかったと言う のは何やら因縁を感じておもしろい。
内容はほとんど同じで、ただ舞台となった場所が変わるだけのようだ。

実は落語自体は興味がなくて、聞いてもおもしろさがよくわからない情けなさなのだが、圓朝に関しては今後も調べ て行きたい。

(2012年8月19日の日記)
横浜 〜野毛山不動尊と関帝廟
もし絶対に読むことのかなわない本で、読みたい本は何ですか?と聞かれたら、真っ先に出てくるのが「池波正太郎の三国志」だろう。
仁ばかりではない人間臭い劉備、悪ばかりではない豊かな曹操、他の本では無視されているような人物であっても見過ごさず、心の機微を描き抜く。
池波氏の「三国志」、本当に読みたかった。
吉川英治著「三国志」を読むたびに特に思う。
吉川氏には「宮本武蔵」など日本と中国、両方の小説があるが、池波氏は、戦国時代、江戸時代、幕末とあくまでも「日本の」歴史小説、時代小説に生涯を捧げた。

多趣味な方だったし、演劇の仕事などもあり、書く暇がなかったというより、やはり日本の歴史ほどには興味がなかったのだろうか。
私は戦国時代も好きだけど、同じくらい三国志も好きなので、未だに悔しい。

さて、先日忘年会もかねて横浜に出かけた。
あちこち歩き回ったが、メインは横浜のお寺か神社を見つけることと、夜の横浜中華街関帝廟を久々に見ること。
池波氏は横浜と言えばホテルニューグランドでマティーニを飲んだり、当時の横浜の港で異国情緒に浸ったりといったエッセイがあるが、私にはどうも合わない。

とりあえず泊りが関内なので、赤レンガ倉庫や野毛山動物園などを見ながらぶらぶら歩いていた。
そんな時に見つけたのが野毛山不動尊。
動物園から帰る坂を下り、交差点で右折したところに細い参道がある。
かなり急で細い坂、夕焼けに染まる行く手、坂の細さがなんとなく京極夏彦著京極堂シリーズの眩暈坂を思い出す。

ところが残念なことに頂上にあるはずの不動尊が開創145年の記念事業として改築中だった・・・。
それでも高台からはるか見渡せば半円のヨコハマ グランドインターコンチネンタルホテルとすぐそばに巨大観覧車。
見下ろせば真下には稲荷神社の並んでいる小さな赤い鳥居のトンネルが緑に埋もれてひときわ鮮やかで。
暮れなずむ街で身に染みる寒さに震えながら、しばらく見ていた。

高い所がとっても好きで(笑)、でも人工的な高い所(タワーやビルなど)ではなく、こうした自然の高台から見下ろす風景が好きだ。
こうして見ていると、別に風光明媚な観光地に行かなくたって、綺麗なところはいっぱいあるじゃない、としみじみ思う。

仮本殿で参拝してから今度は中華街に向かう。
忘年会も楽しみだけど、関帝廟で関羽に会えるのが嬉しい。
できれば曹操や趙雲にも会いたいけれど、商売の神様として異国で人々を見守り続けていた関羽のみがここにいる。
地元の人の見事な参拝をほれぼれ見ながら、こちらも気持ちだけは真剣に手を合わせる。

いつか蜀の都、成都を訪れるのが私の夢のひとつだ。
ここには「十二国記」に関係ある三星堆遺跡もあるし、パンダもいる(笑)。
いつか退職したらの話になるかな?
(2012年12月18日の日記)
2012年 羽子板市〜浅草寺
朝顔市、ほおずき市、酉の市、昔ながらの季節のイベントもたくさんあるけど、休みを取ってでも必ず行くのが羽子板市。
羽子板市には楽しい思い出がある。

数年前になんとなく行った羽子板市で、「秀徳 人形工房」で当時夢中だった「犬夜叉」の羽子板を見つけたのだ。
客寄せに芸能人やアニメ、その年の有名人をモデルにした羽子板を飾っているお店がたくさんあって、「犬夜叉」羽子板もその一つ。
その時は欲しかったけど、羽子板なんて私が買えるものじゃないって写真だけであきらめた。
たしか3万円くらいだったんじゃないかと思う。

ただお店に出てたきれいな女性が、私が精一杯背伸びして写真撮ってたら、他の羽子板が邪魔にならないように寄せてくれたのが印象に残った。
しゃきしゃきした物言いと、おおらかな笑顔で、私はたちまちファンになってしまったのだ(笑)。

ところが次の年に行ったらまだあったのである、犬夜叉羽子板。
しかも昨年と微妙に違うなと思ったら、「今年は勾玉の首飾り(言霊の念珠のこと)をつけました」って笑える一言。
どうしても欲しくなった私は、連れにローンを組んで(笑)、遂に犬夜叉羽子板を自分のものにしたのである。
この時この女性が周りのお客さんも巻き込んで、盛大に手締めをしてくれたのには舞い上がってしまった。

後になって手締めをしてもらったらご祝儀をはずむのがならいだと知ったが、私たちに値切る度胸はなかったし、気持ち良く送り出してもらえたので良かったのかな?と思う。
この後日本橋に回ったら、交番のお巡りさんや、信号待ちのおばあさんに「羽子板買ったの?どんなの?いくら?」とかあちこちで声かけられて「犬夜叉」とも言えず、でも言いたい見せたいとはずむような気持ちで歩いた。
この羽子板は今でもお正月になると(たとえ戌年でなくても)出してきて飾る。
我が家の大切な宝物である。

そんなこんなで毎年欠かさず羽子板市に来て、秀徳のお姉さんとちょっとだけでも言葉を交わすのを楽しみにしてたのだが、今年は秀徳はお店を出していなかった。
依然あったホームページも見つけることはできないし、どうしたのだろう。
お店ごとに微妙に違う色合いや表情を見比べながら回るのは楽しかったが、そればかりが心残りだ。

抜けるような青空の下、スカイツリーもそびえ立ち、一年が終わろうとしている。
大晦日に初もうで、足を延ばして王子の狐の行列、そして浅草羽子板市が私の年末を締めくくる恒例行事となっている。

★「ブログ」に他の写真も紹介しています。
★ 浅草寺 〒111-0032 東京都台東区浅草2−3−1
(2013年1月19日の日記)
善光寺〜玉だれ杏
散歩の帰りに、風月堂の「玉だれ杏」を買って来て、夜ふけの宿で食べるのも、信州の旅らしい。

          ☆           ☆           ☆          

去年の12月、所用で長野市に行った。
ちょうど週末だったのでせっかくだから一泊にして善光寺に行ってみようと思った。
一度は行ってみたかった善光寺。
でも急遽決めたので慌ただしく、下調べする暇もなく新幹線に飛び乗った。

善光寺は有名なお寺だが、どんなお寺なのかは全く知らず、ただ「牛に引かれて善光寺参り」を意味も知らずに覚えていたのと、池波氏の「散歩のとき何か食べたくなって」での描写が素晴らしく、とても惹かれるお寺。
抜けるような青空の元、まずはその広さに圧倒された。
実際に広いかどうかはともかく、人がたくさんいるのに混雑した感じが全然ないのである。
人もゆったりと歩き回り、お店もゆっくりのぞき、と限りなくのどか。

浅草浅草寺や神田明神の、いつ行ってもごった返した境内に慣れてる身にはあまりにも新鮮で、もうこれだけで来て良かったと心底思う。
善光寺を背に臨む仲見世通りは情緒をそそるお土産物屋さんや飲食店が軒を連ねて、これもまた良い。
夕日に映える善光寺を参拝した後お店をぶらぶらしていて・・・見つけた。

一軒の和菓子屋さんの中からこちらを見ている写真の顔、池波氏だ。
そっか、善光寺と言えば「風月堂」の「玉だれ杏」だ。
いつもなら下調べして新幹線の中で「散歩の時ー」でも読みながら来るのだが、今回はそんな暇もなく、すっかり忘れていた。
見つけて良かった〜と思いながらお店に入る。

風月堂の玉だれ杏、写真を見るまではなぜか「玉すだれ杏」と読んで、日光江戸村で見た玉すだれの芸のように、すだれに杏のお菓子がいっぱい刺さっているんだろうか、なんて想像してたことを思い出して思い出し笑いが込み上げる。
こうして本や雑誌に取り上げられると、その記事をお店に飾るのは微笑ましくもよく見る風景だが、ここではあまりに恭しく飾ってあるのにびっくりしてしまった。
エッセイの中では善光寺の描写がメインで、玉だれ杏はさらっと流していたが、それでも池波効果か観光客でお店の中はごった返していた。

玉だれ杏を1つ買い、ホテルで食べたかったが、家で写真を撮ってからと我慢(笑)。
翌朝も善光寺をお参りしてから帰宅。
家で早速食べてみた。
上品な甘さでおいしい。

杏の羊羹を求肥で巻いたお菓子だが、ところで求肥って何?
和菓子のお店でよく見かけるが、見た目は桜餅の薄皮みたいな感じ、どうやって作るのだろう。
調べてみたら白玉粉や餅粉など、もち米をひいてできた粉に水分を加え軟らかく練り、そこへ砂糖や水飴を加えた後に加熱をしながら練るのだそうだ(Wikipediaより)。
砂糖がたくさん入っているので固くならず、日持ちがするとか、なるほど。

名物にうまい物なしと信じているわけではないが、旅行に行ってもお菓子のおみやげはあまり買わない私でも、これはまた来たら買おうと思うおいしさだった。
ただ、たとえばいつも行くデパートに長野風月堂が入ったとしたら、たぶん買わない。
長野物産展などで出店してたらたぶん買う。

おいしい物が身の回りにあふれている今、あえて玉だれ杏に手を伸ばすとすれば、それは旅情かやっぱり池波氏の影響だろう。
ちょくちょく買って楽しむほどのインパクトが感じられないのは、まだこういった本物のおいしさを感じる年齢になっていないのか、それとも食べる物なら何でもOKな、この食いしん坊のせいなのか。
また行きたいなあと思う。
遠い場所ではないけれど、やはりきっかけがなければ行かない地だけに、より恋しい気持ちがこみ上げてくる。

これまで善光寺の風景はテレビで見た物ばかりだったが、今では夕陽を受けて黒くそびえる広大なシルエット、そして白と茶色で描かれた参道の風景だ。

★善光寺(長野県長野市長野元善町491)
★長野風月堂(長野県長野市大門町510)
(2013年3月7日の日記)
薬研堀の唐辛子
以前薬研堀不動院を見に行った時、「薬研堀の唐辛子」として有名なお店はもう薬研堀にはなく、浅草に移ったという話を聞いた。
今度浅草に行ったら見に行こうと思いつつ、浅草自体なかなか行く機会がなくて、お店を見つけたのは半年以上後の事だった。
仲見世通りというから、漠然とアーケード街を想像していたのだが見つからず、あちこち歩き回って見つけたのは、アーケードを抜けた先(笑)。
後でわかったが、私が見つけたのはメトロ通り店の方だった。
(浅草には2ヶ所ある。)

お店の名前は「やげん堀」
最初に目についたのは、お店の前にディスプレイされた唐辛子をつく?装置。
昔は「薬研」という道具を使って唐辛子をすり潰していたらしいが、ここでは小型自動餅つき機?みたいな可愛い機会がかわりばんこに唐辛子の入った小さな臼?をついている。
写真があるので参照してください。
これがなかなか楽しくて、見てて飽きない。

お店の中は普通に?唐辛子屋さんだけど、やはいスーパーで買ってきた卓上七味とは違う香ばしい香りに包まれている。
パック詰めした七味や一味も売っていたが、自分の好みで山椒やけしの実などを混ぜ合わせてくれるので、「薬研堀」の唐辛子を買うなら、お店に足を運んだ方が楽しいと思った。
私は唐辛子といっても、蕎麦やうどん、モツ煮込みなどに時折かけるだけで、特別好きというものでもなかったが、この日以来ちょっと凝るようになった(笑)。

本当はひょうたん型や竹筒など容器も選びたかったけど、けっこう値段が高いので、塗り缶の一般的な物。
まだ薬研堀と善光寺、2個しか買っていないけど、楽しいお店を見つけたら、少しずつ買い揃えて行こうかなと思っている。

★東京都台東区浅草1−32−13

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(2013年12月1日の日記)
柴又帝釈天
先日、と言っても去年のことだが、急に寅さんにハマった夫が、突然柴又に行きたいと言い出した。
いつもあちこち付き合ってもらってることだし、私も一度は行ってみたい場所でもあるので、天気のいい休日に行ってみた。
そしたらとにかく人人人人、人の波。
どこに入るにも、何を見るにも大混雑で、今もなお凄い寅さん人気が伺える、がおかげで人の顔が写りこまない 写真はなく、草だんごの高木屋本舗、演歌で有名な矢切の渡しと楽しくはあったものの、寅さんファンのパワーに 圧倒された一日だった。

「寅さんのお寺」として有名すぎて、他の知識は全くなかったが(笑)、正式名称が「経栄山 題経寺」だとこの日に知った。
私も「男はつらいよ」つられて2本ばかり見たけれど、映画としてはおもしろいけど、寅さんが(寅さんみたいな人が)身近にいたら どうだろうとかあれこれ考えると、なんだか引いてしまって、嫌いじゃないけど特別好きなわけでもない。
おかげで「寅さんの良さがわからない可哀そうな人」に認定されてしまったが(笑)、確かに、今の日本が失いつつある人情を 体現している映画と思えば、大切に残しておきたい世界ではあると思う。


でもこうして「寅さんのふるさと」を意識しているだけに、映画の世界を壊したくないという、柴又の人たちの強い願いが 帝釈天や参道を形作っていて、本当に映画の世界に入り込んだような、作り物ではない街の雰囲気が味わえた。
それにしても人が多くて、寅さん世代の御夫婦から若いカップルまで楽しそうに歩いているのが印象的だった。

それでいて浅草のようなせわしなさもなく、かといって雑駁な感じもしない。
のんびりしたいい感じ。

ところで私の記憶が間違っていなければ、鬼平や剣客などの池波作品に柴又が登場したことはないような気がする。
私の持ってる資料だと、「血闘」に出て来る「化け物屋敷」だけだった。
三囲神社など向島あたりは何度か出て来るが。
エッセイにもなかった気がするがどうだったろう。

まあ近場でなければ散歩のついでに気軽に行くような場所ではなく、柴又に行くには、「柴又に行く」という心構えがないと地理的に難しいのだが(笑)。
でも私は柴又の雰囲気や、参道の寅さん風味が大好きになったので、今年も是非行きたい、毎年行きたい。
映画も夫が全て録画してたから、柴又の風景を楽しみながらもう少し見てみようかと思っている。

★東京都葛飾区柴又七丁目10番3号

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(2014年2月27日の日記)
いづう
★「ひとりごと」で写真を紹介しています。

両親が池波さんが好きだったので、小説はほとんど揃っていたが、知らなかったのか興味がなかったのか、なぜかエッセイは 1冊もなかった。
(たぶん後者だろう。)

自分で本を買うようになって、真っ先に買い揃えたのが、(漫画以外は)池波さんのエッセイ。
何よりも「銀座日記」と「散歩のとき何か食べたくなって」は、旅行先にも持って行って何度も何度も読んだ。
一通り買い揃えてしまうと、今度は「池波」とか「鬼平」といったタイトルの、いわゆる池波ファンの書くエッセイや資料集を買いあさった。
でもそこで愕然としてしまう。

何て言うのか、池波ファンたるためには、ただ好きなだけじゃ駄目なの?
偉くなきゃ駄目なの?親しくなきゃ駄目なの?女性じゃ駄目なの?そんな気持ちにさせられる本が本当に多かった。
地方のお嬢さんが池波好みのカフェに訪れて、「ハトバス・コース」で東京タワーを見物するおばちゃんと同じ扱いされていることに 気づかず哀れとか、東京に憧れているまさに田舎の小娘の胸にはぐさりと突き刺さった。

また、敬愛する池波さんならともかく、全然知らない人に「女というものは」などと書かれておもしろいわけがない。
たまたま読んだのではなく、選んで読んでる本だけに。
今思えばそこまで過敏にならなくても、とむしろ苦笑いする他愛なさだが、当時は多感なお年頃、かなり傷ついた。
今のように、ネットで無料でいろんな人の文章が読める時代ではない、わざわざお金を払って、こんな本を買った自分が 情けなくて、一時期は池波小説も読むのをやめた。

もちろん全てがそうではなく、資料的に、あるいは感想としても素晴らしいなあ、おもしろいなあと思った本は大事に とってある。
復活したのは上京して、小説の舞台を実際に歩き回ることができるようになってから。
そしてネットで無邪気に、ただ池波さんが好きだから、小説が好きだから、エッセイが好きだから感想や資料を書き連ねている たくさんの人の文章を読むようになったから。

池波正太郎を読むに足る人間じゃなくても好きならいいじゃないって開き直ったのは我ながらおかしな話(笑)。
その方がずっと楽しいし。
遠い店、敷居が高くて行けない店なら、行った人の楽しい記事読めばいいし。
何よりも「池波正太郎」を通して、他のファンと見えない絆ができている気がする、一方的にだけど。

さて、いづう。
前にも書いたように、独身時代はしょっちゅう京都に行ったが、それは「京都に行く自分」に酔いしれているような旅で、 それで何を得たのかはなはだ心もとない。
池波さんが愛した通りをぶらぶら歩いてみたりもしたけれど。


いづうには行ってないが、去年だったかな?池袋東武だか西武の京都展にお店を出してて、そこに買いに行った。
とても気さくな女性の店員さんと、黙々と実演している職人さん。
とっても混んでてほとんどお話聞けなかったけど、合間を見て写真は撮らせてもらった。
包んでもらってる間に、「ああ京都に行きたいなあ。」と思わずつぶやいたら、「どうぞどうぞ来て下さい。」と 店員さんが満面の笑み。

お寿司の値段は覚悟してたけど(笑)、それでもとっても気持ち良く買い物して帰ることができた。
いづうのお寿司、上品な味でとってもとってもおいしかった。
そういえばすっぽんの「大市」さんも来てたような気がする。
今度京都展あったらのぞいてみようかな?
(2014年5月15日の日記)
松竹大歌舞伎 中村又五郎襲名披露
私は歌舞伎に関して全くの素人だが、「中村又五郎」という名前には思い入れがある。
「池波正太郎」を読む人は皆そうではないだろうか、池波さんが生涯敬愛し、「又五郎春秋」を記し、秋山小兵衛のモデルにした 人物。
「鬼平犯科帳」や「剣客商売」にも出演し、その穏やかな風貌に魅せられた。

中村又五郎さんは2009年(平成21年)に94歳で亡くなったが、今年中村歌昇さんが、三代目中村又五郎を襲名し、 現在も襲名披露の公演が行われている。
しかも鬼平こと中村吉右衛門さんも「角力場」と「襲名披露口上」と2つに出演するので、どうしても観に行きたい。
そしたら北区の北とぴあでチケットを取ることができた。

北とぴあはこじんまりしたホールだが、駅から近くとっても行きやすい場所にあり、私の好きな会場のひとつ。
今回は昼の部だったのでお休みを取って行った。

「角力場」は吉右衛門さんが人気力士で大ベテランの濡髪長五郎、挑む側の放駒長吉は、やはり襲名披露(中村種太郎から 中村歌昇へ)の四代目中村歌昇さん。
気迫漲る歌昇さんも素晴らしかったが、どうしても貫禄のある吉右衛門さんに目が釘付けになってしまう。

そして口上の司会、でいいのかな?が吉右衛門さん。
朗々たる口上の後、三代目又五郎さんと四代目歌昇さん。
なんとなく又五郎さんが恰幅がいいので、小顔だった又五郎さんと違うなあと思ってみたり。
いえ、大切なのは芸なのだが。
そして最後が「傾城反魂香」。
又五郎さんが口が不自由な絵師の「浮世又平」を演じたが、私はむしろ女房おとくを演じた中村芝雀さんが気になった。
とにかく喋る役で目立っていたし愛らしかった。
こんなところが素人なんだろうあと反省しつつもおもしろかった。

帰りにパンフレットと小物を少し、「出雲のどら焼き」を買って来たが、これがまたふかふかしておいしかった。
もっともっと観に行きたいなあ。
(2014年7月19日の日記)

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