竹むら |
「散歩のとき何か食べたくなって」などエッセイで池波さんが紹介したお店のひとつが「竹むら」。 池波ファンにとっては神田藪蕎麦、いせ源、ぼたん、まつやなど池波さんが愛したお店が並ぶ この界隈は聖地と言っていいだろう。 私も秋葉原、もしくは神保町に行くと、天気が良ければなんとなくこの界隈を歩き回ることが多い。 残念ながら藪蕎麦は火事で焼失してしまったが、再建を目指して工事が行われているのを 知った時は嬉しかった。 今回訪れたのは竹むら。 以前母と一緒に何度か来たが、当時は写真を撮ってブログに乗せるなんてことが普通な時代じゃ なかったかし、そんなことすると母に叱られたから(笑)、この辺のお店はなんとなく敷居が高い。 久しぶりに来てみたら、時間が早かったこともあり、ほどほどの混み具合ですぐに座ることができた。 聞いてみたら、お料理の写真は撮ってもいいけど、店内の写真は駄目とのこと。 それでも満足してあわぜんざいと揚げまんじゅうをお願いする。 やっぱりおいしい。 揚げまんじゅうも少し分けてもらったけれど、もちろんこちらもおいしかった。 後で「こちら」を 読んで知ったのだけど、私たちが座った席、池波さんのお気に入りの席だった。 偶然にしてもとても嬉しい。 ★ 東京都千代田区神田須田町1ー19 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。
(2014年11月10日の日記) |
12月13日 亀戸天神梅まつり |
池波関係で亀戸天神は紹介済みだか、最近池波さんの小説をたどる散策がなかなかできないので、今回は2月の
亀戸天神梅まつりについて。 5月の藤、10月の菊と共に有名なのが2月の梅。 亀戸天神は広い上に、太鼓橋から境内を見下ろすことができ、どんなに混んでいても満足度は十分すぎるほど高い。 さらに晴れた日に青空をバックに見せるスカイツリーも綺麗。 でも菅原道真を祭神としていることはしばらく知らなかった。 また、「祭神」の「祭」って不思議だなあと思ったのもこの頃。 なんとなく「お祭り=めでたい、賑やかな行事」だと思っていたのだが、「祭る」でも「祀る」でも意味は同じようだ。 Wikipediaによると、そもそも「祭」自体が「感謝や祈り、慰霊のために神仏および祖先をまつる行為(儀式)である」 とあるからおかしくないか。 亀戸天神にお参りしたら、帰りは船橋屋でくず餅を買うのがお約束。 実はきなこってそんなに好きなわけじゃないのだが、黒蜜かけるとおいしくて好き。 実はくず餅の餅自体もそんなに好きなわけじゃないのだが(笑)、黒蜜かけるとおいしくて好きになる。 何度も書いているように、秋葉原から亀戸にかけての総武線に沿った道は、池波小説や七不思議などにまつわる 楽しい場所がたくさんあるので、どこで降りてもどこから歩いても飽きることがない。 そういえばエッセイでお寺や神社にいる池波さんの写真ってあまり見たことない気がする。 (エッセイも食べ物系が多いせいかもしれないが) 自分で描いた待乳山聖天の絵などはあったけど。 エッセイはすでに出てるのをまとめたりで追加で出ているが、出すならもっと写真をいっぱい使った本を出して欲しい。 ★東京都江東区亀戸3ー6ー1 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。
(2014年12月13日の日記) |
5月1日いせ源 |
池波さんの愛した中には、私などには敷居の高いお店も多い。 いせ源さんもそのひとつだが、4月から10月までの期間は、1,000円台でランチを食べることができる。 私はそれを知らなかったのだが、須田町界隈をぶらぶらしていた時、開店前の準備をしていた 下足番さんが教えてくれた。 開店を待って早速入ると、小さく仕切った帳場に木の温もりが気持ちいい、でも急な階段に、 あちこちに飾ってあるあんこうの置物に、とすぐに和んでしまった。 二階に案内され、外を見ると向かいの竹むらさんがすだれ越しに見える。 竹むらで密談している盗賊を見張る密偵になった気分も味わえる(笑)。 あんこうを使ったランチもあったが、今回は金目鯛煮付御膳をお願いする。 お店の人も気さくで感じがいい人ばかり。 竹むらさんは食べ物以外写真禁止だったが、こちらはどうぞご自由にとのこと。 写真撮ってるうちに席もどんどん埋まり、あっという間に満員に。 最近年のせいか(笑)、洋食より和食党になってきたので、こういうランチはとっても嬉しい。 少しお話聞きたかったが、皆さん忙し過ぎて声をかけれずじまい。 こんなことなら下足番さんに聞いておくべきだった・・・。 ちょうどこの日、「出没!アド街ック天国」の取材スタッフさんが神田界隈を取材していた。 お話聞いたり写真撮らせてもらったり、取材してるとこ見せてもらったりでとても楽しかった。 毎週欠かさず録画している番組。 愛川欽也さんの司会もずっと馴染んでいたので、愛川さんが突然降板し、そして亡くなられたことは本当に寂しい。 御冥福をお祈りしたい。 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。 ★東京都千代田区神田須田町1丁目11?1
(2015年5月1日の日記) |
6月5日鷲神社・酉の市 |
鷲神社は普段行く分には愛らしい?「なでおかめ」があったりしてのどかな親しみやすい神社だが、
酉の市の日は大変だ。 まず境内に入るまで1時間、参拝するならそれ以上ぎっしり詰まった参拝客の中に並んでいなければ ならない。 縁起物を買うまでがまた一苦労。 それでもこういう行列に混じって周りの人の話を聞くのもまた楽しい。 なんとなくだけど、江戸の昔に還ったような、そんな気がしないでもない。 周りにお年寄りが多いせいかな?会話がわりと昔っぽい。 ところで初めて「おおとりじんじゃ」と打った時、「鷲神社」とは出なかった。 「鳳神社」「鴻神社」「鵬神社」「大鳥神社」は出るけれど。 そのせいで一時「鳳神社」と勘違いして覚えてたこともある。 そう、「おおとり」と読むけど、字は「鷲(わし)」なのだ。 「鷲(わし)神社」と書いて「おおとり神社」と読ませる。 「鳳」は「臥竜鳳雛」に出て来る巨大な伝説上の鳥(鷲も含まれるらしい)。 「鴻」も巨大な鳥だが「ヒシクイ、オオハクチョウ」など「鳳」より柔らかい感じ? 小野不由美著「十二国記」シリーズでは、戴国の首都が「鴻基」だったが、これは「大きな事業の基礎」といった意味を持つ。 「鵬」は完全に伝説にのみ登場する鳥。 ではなぜ「鷲」なのか。 鷲神社のホームページによると、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が天之岩戸に隠れた時、出て来てもらうために天宇受売命 (アメノウズメノミコト)が舞を舞った。 その時に弦(げん)という楽器を司った神もいたが、ちょうど岩戸が開いた時、弦の先に鷲が止まったので、世を明るくする象徴として 喜んだ神々は、この神は「天日鷲命(アメノヒワシノミコト)」と称される様になったという。 もちろん祭神も天日鷲命と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。 この時代は子供の頃から神話などで馴染んでいるので頭に入りやすい。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄って戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをした。 その日が11月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」だそうだ。 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。 ★東京都台東区千束3−18−7
(2015年6月5日の日記) |
6月17日六義園 |
近所の王子、巣鴨、白山などと比べても駒込近辺は池波さんの小説でもエッセイでもあまり出て来ない地域ではないだろうか。 ぽんと空間があいているというか。 もちろん何もなかったわけではなく、吉祥寺、駒込富士神社など寺社仏閣も多いし、武家屋敷もあった。 その武家屋敷のひとつ、松平時之助下屋敷の跡に作られたのが「六義園」である。 柳沢吉保が5代将軍・徳川綱吉から拝領し、庭園もこの時に造られたが明治時代に入って三菱の創業者である岩崎家の所有となり、 昭和13年に東京市に寄付されたという。 私は毎年5月に北区の霜降商店街で開催される「浅見光彦ミステリーウォーク」に欠かさず参加しているが、このとき必ず寄るのが古河庭園。 時々寄るのが六義園。 古河庭園はちょうどバラフェスティバルの時期でもある。 六義園は歩き回って疲れた身には広すぎる(笑)。 それに何といっても4月の桜が素晴らしいので、行くのは4月が多いかも。 門をくぐってすぐの巨大な枝垂桜が特に綺麗。 夜はライトアップしてくれるが、ライトを受けて黄色っぽくなるのは実はあまり好きではない。 「六義園」の名称は、Wikipediaによると、紀貫之が「古今和歌集」の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するらしい。 この「六義」の原典は「詩経」にある漢詩の分類法で、3通りの体裁「風」「雅」「頌」と、3通りの表現「賦」「比」「興」からなり、貫之はこれを借用して和歌の六体の基調を表した。 園内には見どころがたくさんあり過ぎて、ひとつひとつに意味があるので、未だに把握しきれていないのが辛い。 たとえば渡月橋は「和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき」の歌から名づけられた石の橋だが、そういった物や風景から和歌の世界、 古代中国の風景を想像するのはかなり難しい。 でも大泉水にぽつんと可愛く浮かぶ蓬莱島を見つけた時は嬉しかった。 ちょうどその頃「犬夜叉」の映画「紅蓮の蓬莱島」を見たばかりだったので(笑)。 他にも「十二国記」など蓬莱が絡む作品は多いが、大本の徐福伝説なども夢があってたまらなく好きだ。 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。 ★東京都文京区本駒込6
(2015年6月17日の日記) |
6月26日白山神社〜あじさい祭り |
文京区白山にある白山神社は東京十社のひとつ。 毎年6月にはあじさい祭りが開催されるので、欠かさず見に行く。 境内には富士塚があって、富士塚に上る区域は普段は入ることができないが、この時だけ公開される。 今年はちょうど雨が降った翌日(しかも晴天!)とあじさい見物には理想的な日になり、瑞々しいあじさいが 素晴らしかったが、同時に人も凄かった(笑)。 Wikipediaによると、 「天暦2年(948年)、加賀国の白山比咩神社から勧請を受けて、武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷1丁目)に創建された。 元和年間(1615年-1624年)に将軍徳川秀忠の命で巣鴨原(現 小石川植物園内)に移ったが、明暦元年(1655年)、その地に館林藩主徳川綱吉(後の5代将軍)の屋敷が作られることになったため、現在地に遷座した。 その縁で綱吉とその母桂昌院の崇敬を受け、以降、徳川将軍家から信仰された。 明治初期には准勅祭社に指定された。」 とあるが、引っ越しを繰り返したわりにはどっしりした佇まいで好きな神社のひとつ。 本殿前の狛犬さんはとにかく愛嬌のある可愛い顔してて、まずは心の中で「久しぶり、元気ー?」と声をかけてからちゃんと参拝している(笑)。 なんかそんな声をかけたくなる笑顔なのだ。 狛犬やお稲荷さんのお狐さんは、どれも個性があって見て回るのがとても楽しい。 そういえば池波さんの小説には「指谷」という名前で白山近辺は出て来るが、白山神社は出て来たことがなかったんじゃないかな? この時期は花だけでなく、和菓子もまたあじさいの季節で、デパ地下や老舗のお店など、あちこちで「紫陽花」と名付けた和菓子が販売されるが、今年は休みがうまく合わず、一番好きな池袋「すずめや」さんの 「あじわい」を買えずに終わってしまったのが残念だった。 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。 ★東京都文京区白山5-31-26
(2015年6月26日の日記) |
12月6日村上開新堂 |
池波さんが「むかしの味」で絶賛していた村上開新堂が昨年東武池袋に出店していた。 よしっ!好事福蘆!と思って早速並んだが売ってなかった、当然か(笑)。 日持ちしないので、お店で買うことしかできないというのを以前どこかで読んだっけ。 以前も書いた記憶があるが、独身時代はよく一人旅をした。 国内ならとにかく京都。 何を学ぶことも、何を得ることもなく、ただ京都を旅する自分に酔っていた旅。 今ならもっと下準備して、いろんな場所を効率的に歩くんだけど。 時代小説に出て来る場所や、池波さんが愛した場所(敷居の高いお店も多いのでおそらく入ることはないかもしれないが)を ゆっくり回ってみたいが、それは退職後の夢、かな? もちろん村上開新堂も行ったことがない。 さて好事福蘆はなかったが、ロシアケーキを売っていた。 というよりそれしかなかった。 他のお菓子が売り切れなんじゃなく、最初からロシアケーキしか持ってきていないらしい、自信の表れか。 後で思い返して顔から火が出たが(笑)、あまりのお値段にびっくりして、東武カードのつもりでnanacoカードを出してしまった。 店員さんもさすが顔には出さなかったが、笑いをこらえているのがありあり(雰囲気でわかる)。 ロシアケーキはなぜかエジプト柄の包装紙で包んであって、なぜエジプト柄?と聞く余裕もなく。 今度見かけたら聞いてみよう。 ロシアケーキとあるけど、これ、ケーキじゃないよね? 村上開新堂のが変わってるわけじゃなく、どこで見てもロシアケーキって見た目はクッキー。 調べてもよくわからなかったが、とりあえず二度焼きしてジャムやチョコレートで飾ったこのスタイルのお菓子を共通して ロシアケーキというのだそうだ。 調べるうちに、東京にも村上開新堂があるのを見つけた。 京都のお店と関わりはあるのだろうが、こちらは完全予約制。 さてロシアケーキ。 私はたぶん、ロシアケーキって食べるの生まれて初めてじゃないかな? とても懐かしい味、ビジュアル。 どう食べてもクッキーだったが(笑)、普通においしい。 いつかは京都でお店の雰囲気も感じてみたい。 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。 ★京都府京都市中京区常盤木町62
(2016年12月6日の日記) |
3月9日古瀬戸珈琲店 |
今では池波さんが愛した店というより城戸真亜子の絵がある店ということで有名になってしまったようだ。 これも時の流れか。 こちらは神保町を古本探してぶらぶらしているとよく見かける場所にあるので、行く機会も多い。 コーヒーの美味しさが売りだけど、だいたい小腹がすいてることが多いので、いつも必ず何か食べる。 なのでコーヒーよりも軽食の印象が強いというのも恥ずかしい話(笑)。 お気に入りはシナモントースト。 昔はシナモン苦手だったが、最近はむしろ好きになった。 ケーキ類は食べたことないなあ。 初めてお邪魔した時は、池波さん絡みのお店だという事を忘れてて、なのでむしろ気楽に入った。 池波さんが愛したお店というと、それだけで敷居が高くなる気がすることも多いが、ここは本当に気楽に入れるし。 本を読みながら長居もできる。 と書いてて、ふと「エリカ」を思い出した。 こちらはさらに「神保町の喫茶店らしい喫茶店」。 いつ行っても背広姿のサラリーマンしかいなくて、ここでコーヒーを飲みながら本を読むのはむやみに緊張したものだ(笑)。 何て言うか、エリカに馴染むまで数年かかったような気がする。 最近行ってないなあ。 というよりブックオフが多くなって、神保町自体行くことが少なくなった。 確かにブックオフはお手軽だけど、たまには神保町のあの雰囲気を味わいに行かなくちゃ。 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。 ★千代田区神田神保町1丁目7?1 NSEビル 1F
(2016年3月9日の日記) |
5月24日花筏〜皇居お堀端 |
東京都の花見の名所でも、おそらくベスト3には入る千鳥ヶ淵、そして皇居お堀端。 池波さんも、「江戸切絵図散歩」で、皇居のお堀端を「排気ガスを吸い込みながらジョギングしている人々」を 眺めながら、回想にふける姿が描写される。 桜の見事さもベスト3なら、花見に来る人の多さもベスト3ではきかないのではないかと。 細い道をぎっちり詰まった人の群れ、群れというより一つの塊。 塊の進む方に進む他なく、戻ったり途中で抜けたりなんてとんでもない。 なのに立ち止まって写真を撮ろうとする人も多々いるから、朝の通勤ラッシュ以上のおしくらまんじゅうが続く。 私は苦手なので滅多に行くことがないけれど、盛りを過ぎた花筏は見に行かずにはいられない。 花筏とは、読んで字のごとく散った花びらでお堀がびっしり埋め尽くされて、まさに筏のように、というより 水面自体がピンクのカーペットのようになることかな? これがまた素晴らしい美しさなのだが、不思議なことにそれを目指してくる人は圧倒的に少ないようだ。 確かに見上げる桜がほとんど葉桜と化しているので、見上げる楽しみはないかもしれないが、見下ろす楽しみは これまたいい。 残念ながらこの日は青空に恵まれず、ピンクというより白っぽい花筏になってしまったが、目で見る分には 十分に美しい。 ここほど有名ではないが、板橋から王子に向かう石神井川に沿った散歩道も桜で有名で、雨が少なければ 水の流れもゆるいので、運がよければ奇麗な花筏を見ることができる。 ★「ひとりごと」でも写真を紹介しています。 ★東京都千代田区千代田1-1付近 皇居お堀端
(2016年5月24日の日記) |
8月30日 王子田楽 2016 |
「王子田楽」とは、北区の王子神社の夏8月の祭礼に奉納される田楽舞い。 名前は知っていたが、これまで見に行ったことはなかった。 7月に調べたいことがあって飛鳥山博物館に行った時、ついでに展示を見学していたら、王子田楽の コーナーもあり、映像も見た。 その美しさもさることながら、「戦災を受け40年にわたり中絶していたが、1983年(昭和58年)、地元有志が組織を作って復興を果たした」 という記述に惹かれた。 専門家ではなく一般の人が興味を持ち、調べ始め、復活まで成し遂げる。 田楽そのものもさることながら、そこまでの道のりを知りたいと痛切に思う。 そんな田楽を今年は是非見てみたいと王子神社に向かったのが8月7日、暑い中早くもたくさんの人が集まっている。 いつもは広々とした境内に舞台がしつらえられ、雰囲気も盛り上がる。 実は宵宮(5日)ものぞきに来たのだが、この時はたくさんの提灯と盆踊りで賑わっていたものの、時間がなくてゆっくりできなかったので、 この日は早めに来たのだが、残念ながら前の方はすでに満員。 いくらか涼しくなりかけた午後4時半いよいよ始まった。 Wikipediaによると、「鎧武者たちに護られた8人の舞童が大太鼓と笛の音にのって、びんざさら(ささらの内、棒ささらで無い編木のもの)を 打ち鳴らしながら中世の面影を今に伝え優美に躍る。」らしいのだが、まずは鎧武者、次に裃姿の男性が数人出てきて槍を打ち合わせる。 その後ろから槍を手にしたたくさんの子供たち。 白装束の男性(神社のお使い?)が迎えに出るが、何度も追い返される。 結構時間がかかって見てる方も大変だ。 そして遂に主役が登場。 花笠と言うと、山形の花笠踊りが連想されるが、もっと大きく華やかな笠。 顔が見えないようになっているが、皆小学生である。 1人の女の子がちょっと具合が悪いらしく、最初は休んでいたが後で参加、良かった。 1人ずつゆったりした動きで舞って行く。 単調だけど優雅。 舞いそのものよりも、この暑い中がんばって練習したんだろうなあとそっちの方に感動してしまった。 手にするのは「びんざさら(ささらの内、棒ささらで無い編木のもの)」とある。 私などは日光江戸村で見た「玉すだれ」を思い出したが、秋の稲穂が擦れあう擬音を意味する楽器なのだそうだ。 がんばって前に出過ぎて、目の前で踊っている子供たちの全景を撮れなかったのが本当に残念。 常連らしき人達は、あえて後ろの方に陣取り、高い位置から撮っていたが、あちらの方が正解なのだろう。 最後にみんなで舞台に上がってさらに舞う。 昔はこの花笠を見物人が奪い合う喧嘩祭りだったらしいが、それは今はなく、代わりに福まきと称して豆まき状態。 私はしっかり駄菓子セットを受け止めて大満足で帰った。 来年の王子田楽までに舞いの意味、田楽の由来などをもっとちゃんと勉強しておきたい。 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。 ★東京都北区王子本町一丁目1番12号 王子神社
(2016年8月30日の日記) |
9月8日 茶店・としま屋〜音無もみじ緑地 |
今回紹介する「茶店・としま屋」は「雲霧仁左衛門」に出て来る仁左衛門一味の最大拠点。 「音無もみじ緑地」より、「岩屋弁天跡」と書いた方がわかりやすいかと思う。 王子駅から音無親水公園を抜け、音無橋をくぐって石神井川沿いの散歩道を歩いて行くと、紅葉寺として 有名な金剛寺が見えて来る。 かつて石神井川はこの付近で曲がりくねっており、昭和33年(1958年)の狩野川台風で大きな被害を受けた。 そこで石神井川をなるべく真っすぐな川にするように工事が行われ、川だった部分がそれぞれ「音無さくら緑地」、 「音無もみじ緑地」「音無くぬぎ緑地」として整備された。 もみじ緑地は道路から川岸ぎりぎりの所まで降りていくため、雨の日など増水の危険がある日は閉鎖されるが、 まさにその場所にあったのが岩屋弁天である。 広重の「王子滝野川」で有名だが、昭和41年(1961年)7月10日付けの北区新聞に発見のニュースが掲載されて いる。 「これが発見されたのは、さきごろ区教委社会教育課員らが他の史跡調査のため、川岸を 歩いているうち見つけたものだが、 洞窟の上方が急な崖になっているうち、この場所付近の 石神井川が急激にカーブして急流となっているため、 近寄って調べることができず、対岸から 見た限りでは直径2メートル近い入口がポッカリと口を開けており、 真っ暗な内部に謎を秘めている。」 と新聞には書かれている。 掲載されている写真も現在の整備された公園とは全く違って興味深い。 現在岩屋弁天は金剛寺に移っている。 なお、私が参考にしている「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳・雲霧仁左衛門」は岩屋弁天を滝野川2丁目としているが、 正しくは滝野川4丁目である。 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。 ★東京都北区滝野川4-2
(2016年9月8日の日記) |
10月28日 大龍寺〜子規寺 |
正岡子規が特に好きというわけではなかったのに、上野、田端、根岸界隈を歩いていると、
子規ゆかりの場所があまりに多くて、しかもとても人間臭い味わいを持った場所ばかりなので、なんとなく好きになってしまった。 ただなぜ子規が田端に眠っているのかわからなかったのだが、今回調べて生前「静かな寺に葬って欲しい」と言っていたとされており、 死後大龍寺が選ばれたと北区のホームページに書いてあった。 子規庵から歩いて35分ほど。 根岸のあたりにも静かなお寺がありそうな気がしたが、私は根岸と言えば「剣客商売」の時代をイメージしてしまうので、のどかに感じてしまう。 子規が生きてた時代の根岸はもっとざわついていたのかもしれない、と子規庵から鶯谷駅に向かう雑駁な飲食店街を眺めながら考えた。 やはり北区のホームページによると、大龍寺の創建は明らかではないか、慶長年間(1596年〜1615年)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781年〜1789年)になって 湯島霊雲寺光顕が中興して大龍寺と改称したと伝えられているそうだ。 霊雲寺は当然湯島2丁目に残っているので今度行ってみたい。 子規のお墓の横には墓誌があり、なぜか亡くなった時は月給40円もらっていたとの記述があり、おもしろい。 ★東京都北区田端4−18−4
(2016年10月28日の日記) |
11月2日 八幡坂 |
田端近辺は、あまり池波小説に登場した記憶がない。 Wikipediaによると、江戸時代には、江戸の鬼門を守る上野東叡山寛永寺の寺領が多くを占め、 このほか多くの寺社が建てられたとのこと。 むしろ明治に入って正岡子規他、田端文士村として有名かもしれない。 八幡坂は、八幡神社に名を由来するとあったが、私が八幡坂を見つけたのは大龍寺に行った時。 「坂の名は,坂下にある八幡神社に由来します。 坂下の上田端児童遊園のところにあった紅葉館に小説家の堀辰雄が下宿していたほか、この坂の 近くには、小説家の菊地寛、詩人の室生犀星、画家の倉田白羊、彫刻家である吉田三郎や池田堯 八が住んでいました。 芥川龍之介は,その随筆に「踏石に小笹をあしらったのは,詩人室生犀星の家」と書かれた北区教 育委員会の看板がある。 その八幡神社の旧別当寺が大龍寺だったとの事。 心覚えのために「別当寺」の意味を書いておくと、「別当」とはすなわち「別に当たる」であり、本来の 意味は、「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味であり、「寺務を司る官職」である。 そして別当寺とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれ た寺のこと。 明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなっ ていった(こちらもWikipediaより)。 神仏分離令は非常に難しい課題で、神仏分離令前と後の違いなど、一度きちんと調べてみたいと 思っているが、なかなか果たせずにいる。 ところで田端、私にとって実は乗換駅で降りることは滅多にない。 前にも書いたが、戦国時代が一番好きな私なので、明治から昭和にかけての文豪には接する機会があまりない。 でも田端文士村を歩いていて、ちゃんと読まなきゃなあという気持ちになった。 そんな気持ちにさせてくれる街だ、田端。 ★田端4-18地先
(2016年11月2日の日記) |
11月14日 田端文士記念館 |
田端文士村という言葉は知っていたし、この建物も時々見かけていたが、なんでこの建物が
「村」なんだろうとずっと不思議だった(笑)。 田端は乗り換えで駅ではよく降りるものの、駅から外に出た事はほとんどない。 おまけに芥川龍之介など日本文学は、むしろ子供の頃の方がよく読んでいて、最近は ほとんど読んでいないので、記念館に足が向くこともなかった。 (先日森鴎外記念館に行って「雁」を「かり」と読んで大恥かいて来たばかり・・・。) 始めて行ったのは何年前だろうか。 その時もたまたま通りかかったから、程度だったのだが、入ってみたらおもしろかった。 展示されている作家のファンが訪れたらもちろん楽しいだろうが、それまで興味が なかった作家の本を読みたくなる、そんな雰囲気がある。 マニアック過ぎるとコアなファンしか太刀打ちできない、そんな場所もなくはないけど、 ここは「日本文学入門所」としての意義が大きいのではないだろうか。 私も「そういえば内田康夫の『萩原朔太郎の亡霊』で萩原朔太郎を知って『月に吠える』を 読んだけどおもしろかったなあ。」とか、「大徳院で、芥川龍之介と葡萄餅のお話聞いて、 葡萄餅探して歩きまわったなあ。」などといろいろ思い出して懐かしかった。 この時は時間がなかったのでゆっくり見ることができなかったが、今度は時間をかけて ゆっくり、などと思ったのにまた数年。 何をするにも時間が足りない今日この頃が恨めしい(笑)。 ★東京都北区田端6丁目1?2
(2016年11月14日の日記) |
11月28日 専修院 |
毎年染井霊園に桜を見に行った後、側にあるお寺も回るので、染井霊園も含め、皆住所が巣鴨だと
思い込んでいたけど、駒込であることに気づいたのは2年前の事だった。 この辺りはおもしろい場所で、白山通りとJR山手線、東京メトロ南北線、そして都電荒川線によって ほぼ正方形に囲まれ、さらに地名も巣鴨、西ヶ原、駒込、滝野川とごちゃごちゃしているので、自分が歩いているのがどこなのかわからなくなることが多い。 と言っても、特定の場所を探し歩くのでなければ、別に地名がわからなくても支障はないし、何よりも 前述の染井霊園の他、旧古河庭園、巣鴨地蔵通り商店街、六義園の他美しい自然に囲まれた落ち着いた場所あり、素朴で賑やかな買い物処ありと私にとっては大好きな場所。 そして染井霊園に沿うように、あまり目立たないけど並び建つお寺にも味わい深い場所がある。 芥川龍之介、谷崎潤一郎などのお墓がある慈眼寺、遠山の金さんこと遠山金四郎のお墓ら明暦の 大火(振袖火事)供養塔のある本妙寺、「剣客商売」が好きな私にはお墓参りが欠かせない田沼意次が眠る勝林寺、夏目成美(せいび)の蓮華寺、そして今回紹介する専修院。 小さくまとまって綺麗に整備されたお寺だが、何よりも素晴らしいのは小さいけれど見事な藤の花。 私は藤が好きで、亀戸天神など毎年藤を見て歩くが、2年前に見たこの専修院のこんもりした藤の花 の美しさは、亀戸天神の満開の藤をはるかにしのいでいた、なぜだろう。 ここには目立つお墓はないが、かつては伊藤伊兵衛の屋敷跡だったとされている。 伊藤伊兵衛は、かつて植木の里として栄えた駒込の植木屋の1人。 最近駒込、滝野川、巣鴨界隈の植木や野菜などについて調べたこともあり、この発見は嬉しかった。 そういえばソメイヨシノもここで生まれた。 ★豊島区駒込7丁目2?4 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。
(2016年11月28日の日記) |
12月2日 天然寺 |
今回紹介する天然寺も、前回紹介した専修院も駒込なのに、専修院は豊島区、天然寺は文京区だった。 えっ?と思って確かめたら、専修院は「駒込」だが、天然寺は「本駒込」。 実は私、本駒込は駅の名前で区別するだけで、全て駒込だとばかり思っていたのでかなり驚いた。 JRと南北線の乗換駅の駒込駅を出て六義園を通り、本郷通り(南北線)を歩いて行くと本駒込駅にたどり着く。 本郷通り沿いにはお寺が多く、天然寺も道沿いにある。 天然寺で目を引くのは、花の美しさ。 ホームページも花の写真がたくさん掲載されていて綺麗だが、時折花くらぶガーデニング講座などを開催しているらしい。 頻繁に歩く道ではないが(写真を見たら最後に行ったのが2年前だった)、今度散歩を兼ねて行ってみよう。 前にも書いたような記憶があるが、駒込近辺はまり池波小説に出て来ず、私が見ている資料に出て来るお寺は、「鬼平犯科帳」の お園絡みで登場する円通寺と十方寺くらいだった。 円通寺は平蔵の母のお園のお墓があるお寺、十方寺は平蔵の妹お園が関わる。 どちらのお寺もいつか紹介したい。 ★文京区本駒込2丁目20 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。
(2016年12月2日の日記) |
12月13日 火付盗賊改方長官・安部式部信旨の屋敷〜東京大神宮 |
火付盗賊改方長官と言えば長谷川平蔵を思い出すが、「雲霧仁左衛門」に登場する火付盗賊改方長官は安部式部信旨(のぶむね)。 平蔵より65年ほど前、八代将軍徳川吉宗の時代(享保期)に活躍した人物。 平蔵同様実在の人物だが、検索しても「雲霧仁左衛門」が引っかかるので、安部式部本人に関する情報が出て来ないのが辛い。 古地図を見るとちゃんと「安部式部」と名前はあるのだが。 以前も書いた気がするが、鬼平剣客真田梅安ほど雲霧を読まないのは、作品の持つ生臭さに当てられて、他作品ほどすんなり読めないせい。 それが雲霧の魅力であることは重々承知だが、つくづく自分は中途半端なファンだと思う。 さて、その安部式部の屋敷があったのが千代田区富士見2丁目。 飯田橋駅と靖国神社に挟まれた区域で、名前の由来は昔富士山がよく見えたから。 そしてこの区域で有名なのが東京大神宮。 飯田橋駅を出て目白通りだったかな?を歩いていると「東京大神宮」の大きな石柱が見えるが、そこから結構歩くので、初めて訪れたのは去年の3月。 別名「東京のお伊勢さま」と呼ばれる所以については神宮のサイトに説明がある。 東京における伊勢神宮の遥拝(遠くから拝むこと)殿として1880年(明治13年)に創建され、最初日比谷の地に鎮座していたことから、 世に「日比谷大神宮」と称されていた。 関東大震災後の1928年(昭和3年)に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至る。 肝心の本殿の写真がピンボケで失敗してるので使えないが、花と緑に溢れたとても綺麗な場所で、お花見のついでに参拝するのにぴったりな場所。 祭事やイベントも多く、何度でも足を運びたい場所だ。 ★東京都千代田区富士見2-4-1 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。
(2016年12月13日の日記) |
12月16日 渋沢史料館 |
王子駅界隈、飛鳥山公園に音無親水公園、石神井川に沿って歩いて北区中央図書館、王子神社に王子稲荷、名主の滝公園と見どころが多くて大好きな街。 そして忘れちゃいけない飛鳥山公園3つの博物館。 紙の博物館、これまた大好きな飛鳥山博物館、そして今回取り上げる渋沢史料館である。 「渋沢栄一」という名前はよく聞くが、どんな人なのか、何をした人なのか全く知らず、2年前のその日も待ち合わせの時間に余裕があったからふらっと入っただけだった。 なぜ渋沢史料館が王子飛鳥山にあるのかそれすらわからない、そんな私だったから資料館の資料は難しいなりにおもしろいものだった。 Wikipediaによると多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」と言われた渋沢氏だが、王子製紙の設立に関わり、 渋沢氏の旧邸 「曖依村荘」跡に作られたのが渋沢史料館。 旧邸内に残る大正期の2つの建物「晩香廬」と「青淵文庫」(いずれも国指定重要文化財)に本館を加えた3つの施設でできている。 晩香廬(ばんこうろ)は、渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設(株)が贈った洋風茶室で、 青淵文庫(せいえんぶんこ)は、 渋沢栄一の80歳のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社(当財団の前身)が寄贈した鉄筋コンクリートの建物。 どちらも日にちを決めて公開しているので、運良く公開日に当たった時は、本館よりも晩香廬と青淵文庫を眺めて回るのが好き。 残念ながら内部は撮影禁止なので外観と庭の写真しか使えないが、旧岩崎邸のように撮影可にして欲しい。 とにかくステンドグラスの美しさは特筆もので、柏の葉とどんぐりの渋沢家の家紋が素晴らしいというか可愛い(笑)。 初めて訪れた2年前、応対して下さった学芸員さんに、「渋沢栄一のことなんにも知らないんですけど。」などと言ってあきれられながらも 丁寧に教えて頂いたことが冷や汗と共に思い出される。 あの時とった山ほどのコピー、まだちゃんと整理できていないが、ながめるたびに渋沢氏に対する思いの強さを感じる。 余裕ができたらきちんと資料をまとめたい。 ★東京都北区西ヶ原2-16-1 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。
(2016年12月16日の日記) |
2月1日 四谷の風景(一) |
四谷から新宿に向かう新宿通りは私のお気に入りのコースのひとつ。 ビルが乱立、車も多い典型的な都心街だが、ふと横道に入れば新宿御苑、お岩稲荷田宮神社、長谷川平蔵菩提寺戒行寺、 服部半蔵の槍が納められている西念寺、カステラがおいしい坂本屋、居心地の良さと蔵書に和む新宿区立四谷図書館、そして新宿歴史博物館。 鬼の平蔵と鬼の半蔵がご近所さんなのもおもしろいし、一時この通り沿いにあるインドカレー屋さんにハマったこともあり、かなり通った。 四谷と言えば「剣客商売の」四谷の弥七。 弥七の料理屋武蔵屋は以前西念寺で紹介しているので省略するが、四谷界隈を歩く時は、まず新宿歴史博物館を足場にする。 目立たない場所にある目立たない博物館だが、一押しなのが館員さんたちの感じの良さ(笑)。 博物館や図書館、資料館などどこに行っても館員さんは博識で感じが良くていかにもプロだなあと思う。 でも新宿歴史博物館ではなぜか(笑)、皆さんがまるで仲間のようにわいわいやって来て、調べものしてる最中でも「こんな資料 見つけましたよ。」「良かったらこれも見て下さい。」みたいに話しかけてくれる。 これほどフレンドリーな博物館は初めてだった。 他にも四谷見附橋の欄干の一部があって、それを見るたび四谷の弥七を思い出す。 新宿三丁目に向かう途中にはお気に入りのインドカレーのお店もあるし、でも最近行ってないなあ・・・。 ★東京都新宿区三栄町22(新宿歴史博物館)
(2017年2月1日の日記) |
2月8日 四谷の風景(二) |
四谷から新宿に向かって歩いて行くと、四谷図書館の側で四谷大木戸門跡の碑と水道碑記を見ることができる。 大木戸は時代劇ではお馴染みの江戸の出入りを取り締まるための関所のことで、四谷は甲州街道と江戸の境。 こういった史跡が残るのは四谷4丁目交差点あたりだが、ここに四谷大木戸藪蕎麦という名前も店構えも素敵なお蕎麦屋さん がある。 カフェやお店と違って、こういう食事を楽しむお店はおなかがすいてなければ、あるいはお昼時でなければ入れないのが難点で 、残念ながら一度も入ったことがない。 このお店の前に四谷大木戸が描かれた「江戸名所図会」が飾ってあって、何とも言えない風情がある。 こちらのお店は、神田の藪蕎麦とは関わりがないのだろうか。 公式サイトにも特別記述がなかったが。 そして玉川上水。 石神井川や玉川上水といった、いわゆる水の流れにはとても興味があって、いつかその流れ(もしくはその跡)を追ってみたい と思っているのだが、お寺や神社と違ってピンポイントではないので、なかなか果たせずにいる。 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。
(2017年2月8日の日記) |
2月13日 西新井太師 |
数年前に所用で西新井に行った時、西新井太師が近くにあるのに気づいて寄った時の写真。 いつもは花の綺麗な時期、青空が映える日を選んで行くので大賑わいの太師様、この日は肌寒い曇り日で参拝客も少な く閑散としている。 太師名物山門前の参道の両脇に向かい合って建っている草だんご屋、中田屋さんと清水屋さんも暇なので、両側から凄い 勢いで呼び込みされる(笑)。 だんごの試食をしてお茶をもらって冷えた体が温まったところで、感謝とお布施?で両方でだんごを買う。 「食べ比べてみてね〜。」 両側から笑顔で見送られて、ずっしり重いだんごを抱えてまずは参拝。 Wikipediaによると、空海(弘法大師)が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、本尊 の十一面観音を彫り天長3年(826年)に寺院を建立したことに始まるとされる。 「西新井太師」と呼びならわしているが、「總持寺(そうじじ)」が正しい名前だと初めて知った。 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。 ★東京都足立区西新井一丁目15番1号
(2017年2月13日の日記) |
2月17日 平塚神社 |
東京都北区の平塚神社。 後三年の役の際、源義家が鎧を下賜し、それを埋めたのが平たい塚であったことから平塚神社と呼ばれるようになったという。 でも今はその縁起より、「浅見光彦ゆかりの神社」としての方が有名になった。 内田康夫著浅見光彦シリーズの主人公である浅見光彦は西ヶ原の生まれで、平塚神社の名前も2作目「平家伝説殺人事件」ですでに登場する。 毎年5月に行われる「浅見光彦ミステリーウォーク」でも必ず通る場所にあり、作品内にも時々登場する内田康夫氏も愛する「平塚亭」もあることから、浅見ファンにとっては、いわゆる聖地のひとつ。 私はミステリーとしては決着のつけ方など気になるところも多く、特別浅見ファンではないが、下手なガイドブックより訪れて見たい気分にさせてくれる各地の風景描写の見事さで、出れば必ず読む作家の1人。 (ただし浅見物最終巻は例によってまだ読んでない。) もうひとつ、平塚神社で特筆すべきは参道の長さで、駐車場も含めうろ覚えだが、都内で一番長い参道とされているのではなかったか。 さらにお気に入りが、楽しく戯れているようにしか見えない狛犬たち(笑)。 とても愛嬌のある顔をしているので、寄ったら是非まじまじと見て欲しい。 上中里駅そばにあるので、寄るにも易いいい場所である。 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。 ★東京都北区上中里1丁目47?1
(2017年2月17日の日記) |
3月3日 大塚天祖神社 |
都電が好きで、見かけると用事もないのについ乗りたくなる。 先日知り合いに、「都電って外から見ると可愛いけど、乗ったらただの電車でしょ?」と言われたが全然違う。 まず窓から見える風景が違う。 混んでなければなるべく前の方に立ち、運転手さん目線で前の風景を見ていると、あまりにのどかで、それに自分が「電車でGO!」の中のキャラの1人になった気がしてくる。 遊んだことないし、理由はわからないのだが、なんだろう、おもちゃのような雰囲気があるのだ。 もちろん朝夕の通勤時は駄目。 学生やサラリーマンであふれる普通の電車になっている。 休日祝日も家族連れで混み合ってて、それも何か違う。 一番都電らしさを感じるのは平日の日中。 買い物やお出かけらしきお年寄りがほとんどで、何ていうか「生活の匂い(おじいさんの煙草やお酒の匂いとか、おばあさんの持ってるたくあんの匂いとか)」に満ち満ちている時間。 しみついた煙草やお酒の匂い、普段は苦手なのだが、都電の中ではなぜか平気に感じる不思議。 そして都電が大塚近くに来ると、窓から見えるのが大塚天祖神社。 住所は大塚だが、昔の巣鴨村の鎮守とされる。 鎌倉時代末の元亨年間(1321〜1324)に、領主の豊島氏が伊勢の皇大神宮の神さまを迎えて祀ったのが最初と言われており、明治6年に天祖神社と名前が変わるまでは、 神明社・神明宮と呼ばれていて、江戸時代には十羅刹女堂も境内に祀られていたとか。 最近知ったのだが、池袋のある豊島区の他に、北区にも豊島という地名があってややこしい。 どちらもかつてこの地を治めていたという豊島一族にちなむものだろうか。 この神社で見事なのが銀杏で、特に今回使った写真(2年前の秋)の時は青空に映えて特に美しかった。 地元の人がのんびり(30分以上も!)世間話をする中、うろうろしながらお参りしたり写真撮ったりしたが、ここは特に居心地がいい。 心の中の汚れた何かが清められたような、そんな気持ちになれる場所である。 そうそう、汚れと言えばこの時、形代(形代とは、人の姿に似せて作られた紙のこと。 この形代に自分の罪や穢れを移し、本人の身代わりとしてお祓いされる)を頂いた。 お祓いはしなかったが、以前京極夏彦さんが写真に撮った形代と同じ形の物なので大切にしまっている。 「ひとりごと」 にも写真を載せてあります。 ★東京都豊島区南大塚3−49−1
(2017年3月3日の日記) |