その他の世界をたどる道(五)


3月13日 かねやす
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」

先日、白山から本郷通りを神田に向かって歩いていたら、都営大江戸線本郷三丁目駅すぐの交差点で シャッターに大きく描かれた「かねやす」の文字を見つけた。
その瞬間、頭に浮かんだのが上記の句である。
意味など考えたこともなかったが、なんとなく覚えていたもので、帰ってから調べてみた。
Wikipediaによると、「かねやす」とは、京都で口中医(歯医者)をしていた兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)が、徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、興した のだそうだ。

「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)で、京都で口中医をしていた。
徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、口中医をしていた。
「元禄年間に、歯磨き粉である『乳香散』を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店『兼康』を開業する。
乳香散が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの兼康を開店した。
同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。
これを裁いたのは大岡忠相であった。
大岡は芝の店を兼康、本郷の店をかねやすとせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。
その後、芝の店は廃業した。」とある、おもしろい。

さらに1730年(享保15年)、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。
このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。

ただでさえおもしろい話なのに、大岡中相が出て来ることで、よけいおもしろい話となる。
漢字の「兼康」とひらがなの「かねやす」、しかもひらがなの「かねやす」は現在もなお続いている。
私が通った日がたまたまお店が休みで、シャッターが下りていたが、そうでなかったら気づかなかったかもしれない。
今度開いている日に覗いてみたい。

そう思っていたのだが、ネットで調べてみたらもう1年近く休業中で、しかもテナント募集の看板が掲げられているそうだ。
あわてて写真を見直したら、たしかに自分の写真にも看板が写っている。
看板は覚えていたが、7階建てのビルなので上の空き部屋が空いたのだろうとぼんやり思った記憶がある。
閉店だとすれば残念だ、1度行っておきたかった。

ちょうど今読んでいる夏目漱石著「三四郎」にも出て来るので余計悔しかった。
「そのリボンの色も質も、たしかに野々宮君が兼安(かねやす)で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった。」

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。 ★東京都文京区本郷2-40-11

(2018年3月13日の日記)
3月17日 東京第二陸軍造兵廠板橋製造所遺構〜加賀公園
先日佐藤さつきさんの漫画「妖怪ギガ」を読んでいたら、「石神」の話だった。
普通に「いしがみ」と読みたいところ、「しゃくじ」とルビが振ってあり、「全国各地で崇められている道祖神。
その土地土地で異なるが、豊作・健康・安産など様々な恵みを与えるとか(以下略)」と書いてあって驚いた。

石神井公園、石神井川、上石神井駅。
馴染みのある名前だけれど、特に意味を考えたことなかった。
もしかして関係がある?と思ってWikipediaを見てみたら、

「『石神』(しゃくじ、いしがみ)に由来すると伝えられている。
むかし村人が井戸を掘った折、石棒が出てきた。
その石棒には奇端(きずい=めでたいことの前兆)があり、村人達はそれを霊石、石神様として祭った。
これが通称『石神神社』、今の石神井神社の始まりだという。
いつか、村の名もそれにちなんで石神井となった。」とあった。

なるほど、「石神(しゃくじ)」と「井戸」で「石神井」になったのか。

石神井川は桜の名所で、私も毎年川沿いに歩いて花見をするが、その途中(板橋区)に加賀公園がある。
加賀藩前田家の下屋敷があった場所で、築山もあり、緑の綺麗な公園だが、ここは同時に火薬を製造する板橋火薬製造所 (東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)があった場所でもある。

電気軌道(トロッコ)線路敷跡、弾道検査管の標的、隣りの野口研究所に残る当時の建物など、前田藩の下屋敷の雰囲気を期待して 寄った私には、一瞬身のすくむような感じがした。
それでもこうした遺構を保存し、戦争の歴史を後世に伝えて行くことは必要なのだと思わせる何かがここにはあった。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都板橋区加賀1丁目8

(2018年3月17日の日記)
4月10日 徳川家光と若一王子縁起絵巻展〜飛鳥山博物館
桜満開の北区飛鳥山博物館で「徳川家光と若一(にゃくいち)王子縁起絵巻展」が開催されているので、お花見も兼ねて見て来ました。
北区王子にある王子神社はかつて「若一王子社」と呼ばれていました。
平安時代末期、武蔵国豊島郡を支配した豊島氏が、荘園「豊島荘」を紀伊国熊野権現に寄進し、荘園鎮守神として若一王子社が勧請されたことに由来したと言われています。
ちなみにこの豊島郡は原罪の豊島区だけでなく、北区、千代田区他多くの地域を含む区分です。

寛永11年(1634年)、王子権現社・王子稲荷社・別当寺金輪寺造営の際、それ以前の縁起が消失していたことから、新たに「若一王子縁起絵巻」の制作が命じられました。
原本は焼失しましたが、後に原本に忠実な模写が作られ、現在に伝えられています。
上・中・下の3巻には、熊野三所権現を勧請した王子権現社の草創や霊験、家光によって王子権現社が造営されたこと、田楽躍の図等が描かれています。

私は王子神社が大好きなので、以前からこの絵巻を図書館の資料やや飛鳥山博物館のホームページで見ていました。
特に、有名な大晦日の王子狐の行列を含む王子七不思議の様子が描かれた三巻の「王子七不思議」がおもしろく、神社だけに本所七不思議のようなのんきな?不思議と違って 宗教絡みの七不思議となっているのが興味深いのです。

メインとなる特別展示室は当然撮影禁止でしたが、入口のある2階ロビーは壁いっぱいに絵巻の図を貼った一角があってそこは写真を撮れるので、巨大な絵巻を写真に撮りつつ 満喫してきました。
文字は当然読めませんが、かなり大きな物なので、いわゆるくずし字と読み方の文章を比較しながら拾っていくと、いくつかの単語や平仮名が読めて来るのが楽しい。
たとえば「王子」という字はくずしても「王子」と読めるのです。

くずし字というだけで目が読むのを拒否していましたが、こんな簡単な文字でも読めるとそれだけで嬉しくて偉くなったような気になりました(笑)。
解説付きの図録も素晴らしいので即買いです。
こういった博物館や美術館の図録は一定の期間が過ぎると売ってくれなくなる(増刷しない)ので、こういった資料はなるべく買った方が後で後悔しないと思います。
結局難しくて手に負えないことも多いのですが、美しい絵を見ているだけでも気持ちが和みます。
5月6日まで開催しているので、興味がある方は是非足を運んでみてください。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都北区王子1丁目1−3 飛鳥山博物館

(2018年4月10日の日記)
4月17日 板橋郷土資料館〜新藤楼
以前板橋宿の板橋観光センターに行った時、ボランティアガイドさんにセンターの近所を案内してもらった。
その時印象に残ったのが、かつて新藤楼があった場所に建てられたマンションで、そのファザードにはさりげなく名残りの装飾がされている。
かつて板橋町最大規模の貸座敷と言われた新藤楼の玄関部分だけが郷土資料館に依存すると聞き、早速行ってみた。

なんとなく資料館内に大事に収められていると思っていたので、外に吹きさらしになってどんと置かれているのに最初気づかず通り過ぎてしまった。
何よりもこの時撮った写真がことごとく失敗していて、残ったのが下が切れてるこの写真だけだったのが辛い。
でも写真で見るだけだったこの玄関をくぐり、天井を見上げ、横板の壁部分に触れるとなにか切ないものが沸き上がって来る。
レプリカでなく、本物の持つ重み、だろうか。

資料館の常設展示場にはそれ以外の遊郭の名残はなかったが、1998年(平成10年)に開催された「板橋の近代のあゆみ」展の図録には、 当時の遊郭や働いていた女性たちの写真がたくさん掲載されている。

お邪魔したのが3月だったので、屋外に残されている古民家でたくさんのお雛様が飾られていた。
江戸時代、明治時代、大正時代から平成に続く顔の違うお雛様。
天気が悪くて外をゆっくり歩き回ることは出来なかったが、こういう場所はとても落ち着く。
何よりも触れる木の温もりがいい。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都板橋区赤塚5丁目35−25



(2018年4月17日の日記)
4月24日 清澄庭園
本所深川と言えば宮部みゆきさんを思い出す大好きな場所だが、この日は所用で来たため天気が選べず、どんよりした曇り空。
おかげでせっかく寄った清澄庭園も緑も映えず、うら寂しい雰囲気なのが残念だった。
2月で寒かったし訪れる人も少ないのである意味貸し切り。
来たついでに深川江戸資料館も回りたかったのでかなり駆け足の散策になってしまった。

この公園の一部は江戸の豪商、紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられていて、享保年間(1716〜1736年)には、 下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたそうだ。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、 明治13年に「深川親睦園」として 一応の竣工をみたが、弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、 周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を 代表する「回遊式林泉庭園」が完成した。

関東大震災で大きな被害を受けたものの、避難場所としての役割も果たしたことから公園用地とそて東京市に寄付されたという。
岩崎弥太郎と言えば旧岩崎邸だがけっこう離れているなと思っていたら、この方は庭が好きだったらしく、他に六義園も買ったそうだ。
このあたり、詳しく調べたらおもしろいかも。

私がこの公園で特に好きなのがたくさん配置されている飛び石。
池の中にも普通にあって、もちろん渡ることができるのだが、バランス感覚が悪いせいか意外にドキドキする(笑)。
さらにしゃがみ込んで、丸々と太った鯉とにらめっこしていると飽きることがない。

こうして深川をぶらついていると、宮部さんとばったり会わないかなあなどと期待してしまうのだけれど、もちろんそんなことはなく、 時間の関係で深川めしも食べることなく帰る羽目になった。
やはり本所深川は天気のいい日に一日がかりで回る場所だ。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都江東区清澄三丁目3−10



(2018年4月24日の日記)
5月15日「池波正太郎 没後15年記念総特集」
ちょっと調べたいことがあって河出書房新社の「池波正太郎 没後15年記念総特集」を久々にひっぱり出した。
2005年(平成17年)に出た本なので、なんと13年ぶり。
池波本はとにかくたくさん出ていて、池波さんを語る、池波さんの本を語る、グルメを語る、地域や歴史を語るなどはいいとして、 ひどいのになると池波さんのエッセイから抜き出して1冊の本にして新刊として売り出すなんてのもあって、一通り読んだものは売ってしまうものが多い。

でもこの本は、特に藤沢周平さんのエッセイが好きで手元に置いてある。
藤沢さんが小説を書き始めた頃に教えられた言葉に「鴎外の毒、周五郎の毒」という言葉があったそうだ。
歴史小説を書くとどうしても森鴎外風になりがちで、時代小説を書くと山本周五郎風になりやすい、つまり影響を受けやすい作家として名前を挙げているのだ。
藤沢さんは、池波さんは描く世界、表現方法が全く異なる安心して読める作家と書いているが、藤沢さん、池波さんより若い世代の小説家にとっては、やはり 「池波の毒、周平の毒」だったのではないだろうかと思う。

私も一時、「池波式」の表現に慣れ過ぎて、他の作家の時代物を読んでは「さっぱりし過ぎている」とか「田沼意次を悪者に仕立て上げることは許せない」などと 怒っていた時期もあった(笑)。
最近はテレビで「実は関ヶ原の戦いはこうだった、実は石田三成はこんな人だった」みたいな新解説もよくやるが、それを見てもなお、私の歴史(特に戦国時代)は 「真田太平記」に寄りそう。

まあ私は書く人ではなく、読む人だから誰にどんな影響を与えられても全く問題ないのだが、今思えば子供の頃の方が広く本を読んでいた、いわゆる雑読。
大人になってからは、新しい作家や本と出会うよりも、同じ作家の本を繰り返し読むことに楽しみを見出し、神田や神保町を歩くこともあまりなくなった。
たまに行っても、掘り出し物との出会いより、欲しい資料を探しに行く感じで、それならむしろネット通販で検索した方が確実だったりする。

そういえば、神保町に通ってた頃、一番お気に入りだったのが「エリカ」だった。
男性客の多い、「大人の老舗」と言えるだろうか、買った本を読みながら、コーヒーを飲むのがいやに緊張して(笑)、でもそんな自分に酔ってた頃。
まだあるだろうかと思って検索してみたら、健在は嬉しいけれど「食べログ」やいろんな人のブログで内観やコーヒーの写真など見放題。
私自身、おいしい物を食べに行けば写真を撮る方だけど、当時の「エリカ」だったら思いもよらないことだったろう。

全てのお店が気軽に入れて、全てのお店で写真が撮れる、そしてもしかしたらほとんどのお店で禁煙になってるかもしれない。
私は煙草が苦手なので、禁煙自体は嬉しいのだが、煙草の煙すらお店のステイタスだった時代もあった。
(エリカが当時禁煙だったか喫煙可だったかは覚えていませんし、現在禁煙か喫煙可かもわかりません。)
いい時代になったのか、軽い時代になったのか、池波さんが生きていたら何て言うだろう。
本を読みながら、ふと思った。

この本には他にも、西尾忠久さんの「名所図絵から見る藤枝梅安」や池波さんが19年間にわたって選んだ映画ベストテンが紹介されている。
池波さんの映画の感想は、銀座日記などにも書かれているが、こうして並べられたものを見ると何だろうね、いわゆる名作文芸作と言われた物ばかりではなく 「スター・ウォーズ」「ナイル殺人事件」などの娯楽大作も載っているのが嬉しい。
本当に奢らず高ぶらず、知識をひけらかすこともなく、ただただ映画が好きな人だったんだなあと思う。

(2018年5月15日の日記)
5月18日 揚子江菜館
先日も書いたが、最近本当に神田や神保町に行かなくなった。
新たな本や作家との出会いを求めるよりも、資料探しが主となり、それだと検索してネットで買う方が確実で手軽だからである。
我ながら寂しいなあと思い、また神保町に出るようになったが、昔に比べて勘が働かないというか、膨大な量の古本の中で途方に暮れている事が多い。
Amazonやブックオフできっちり整理された中から選ぶのに慣れ過ぎたなあと悔やむことしきりな今日この頃。

神保町ではいろんなお店に通ったが、なぜか揚子江菜館に入ったことがない。
通り道ではあるけれど、揚子江菜館の前を通る時は、必ずどこかで昼食を食べた後なので気にはなっていたが入るのは今回が初めて。
昔旅行のお供に必ず持ち歩いたのが池波さんの「銀座日記」だった。
文庫本で厚いけど、何度読んでも飽きないということで、国内はもちろん、海外に行く時も持って行った。

揚子江菜館はこの本に出て来る。
食べたのは上海焼きそば。
お店は普通のお店。
「池波さんの本に書かれた」という気負いがかけらもない、お店の人がそのことを知らないのではないかと思ってしまうほど普通。
でもお客さんは池波さんのような帽子をかぶり、池波さんのようなかばんを持った初老の男性がほとんど。
池波さんもこんな風に1人で焼きそば食べて、ビールを飲んでたんだろうなあと思いながら眺めた。

焼きそばは、日本風のソースじゃなくて、でもおいしい。
デザートに杏仁豆腐もついて来て、ここにまた来るために神保町に通おうと思った。
揚子江菜館の歴史については、「KANDAアーカイブ」に詳しく記載されている。
1906年(明治39年)創業で、初代は周所橋(シュウ ショキョウ)氏だそうだ。

揚子江菜館でもホームページを持っているが、メニューにさりげなく「上海式肉焼そば(池波正太郎先生等著名な文化人がこよなく愛す る一品。
数々の焼そばコン テストで優勝したメニュー)」と書いてあるのが微笑ましかった。
何よりも京劇風のお面のマークがいい。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都千代田区神田神保町1丁目11―3

(2018年5月18日の日記)
6月12日 柳橋界隈
柳橋、まずはその言葉の響きに強烈に惹かれた。
次に柳橋芸者、その言葉に意味もなく憧れた。
でも実際に見に行った柳橋は風情のない緑の鉄筋で、実はがっかりした。
昔は木造だったと言うが、当然今そんな形で残すことはできない、それはわかっているのだが。

ところがその界隈の雰囲気が素晴らしい。
よく時代劇の世界に迷い込んだような、という表現が使われるが、私があちこち歩いていて 「時代劇の世界に迷い込んだような」気持ちになったのは柳橋が初めてだった。
ひっそりと佇む茶色と白の和風の船宿、神田川を見下ろせば色鮮やかな赤い屋形船での準備に余念がない。

船宿の中が混んでいるのか、銀色の着物に身を包んだ年配の女性が日傘をさしてすんなりと立っている。
思わず写真を撮らせて下さいと言いそうになったが、目が合った瞬間、軽く会釈された、その凛としたたたずまいに声が出ない。
おそらく頼めば快く撮らせてくれただろう、そんな雰囲気のある女性だったが臆してしまった自分が情けない。
それほど素敵な女性だった。

そうした風景の中で見る柳橋は、そのくすんだ緑に優美なラインがむしろ馴染んで、「柳橋」のプレートの暗さもうっすら曇った 空の下では不思議に美しい。
とにかくその場から離れられず、うろうろしながら写真を撮り続ける私を、子犬を連れて散歩中の女性が、「いい所でしょ?」と 声をかけてくれた。

「こんな所に住んでいらしてうらやましいですね。」と答えると、「まあ見慣れちゃって何とも思わないけどね。」と笑っていた。
身も蓋もないけど、何気ない会話も嬉しい、これが下町の良さか。
柳橋に残る唯一の料亭「亀清楼」を見るのを楽しみにしていたのだけれど、残念ビルの中に取り込まれていた。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都台東区柳橋1丁目

(2018年6月日の日記)
7月8日 円通寺
円通寺は下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神と共に「下谷の三寺」として栄えた。
慶応4年(1868年)の上野戦争で敗れた彰義隊は「賊軍」だったため、遺体は放置されていたが、 23世大禅仏磨大和和尚が上野山中に出向き、斬首覚悟で、円通寺境内に埋葬した。
これが縁で、弾痕が残る黒門も移築された。(「散歩の達人 都電荒川線さんぽ」参照)。

都電荒川線(東京さくらトラムなんて名前よりもやっぱりこの方がいい)の終点三ノ輪駅で降りると、いつも楽しい気分になる。
どこかレトロな雰囲気の駅や商店街が待っていてくれるからだろうか。

この日はお馴染みの浄閑寺、素戔嗚神社と回って円通寺も初めて訪れた。
最近幕末についても少しずつ勉強しているので、彰義隊が眠る古刹とあれば寄らないわけにはいかない。
金色の観音様が目立つ一見派手なお寺だったが、中に入ると落ち着いた静けさを漂わせている。
一番不思議に思ったのが、お寺からまっすぐの正門が閉ざされていて、別の入口があったこと。
石畳まで直角に曲げられているので、最近のことでもないらしい(写真参照)。

お寺の方に聞いてみると、特に理由は残されていないらしい。
彰義隊のお墓があるだけあって、訪れる人も多く、特に戦争の弾痕が残る黒門の前には何かのツアーだろうか、ガイドさんに 連れられた団体さんがお話を聞いていた、いいなあ。
私はその場の勢いで行くというか、あらかじめ予定を立てて行くことがあまりできないので、こうしたツアーに申し込むということがなかなかできない。
専門家のお話を聞きながら歩けたら楽しいだろうといつも思うのだが。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都荒川区南千住1丁目59-11

(2018年7月8日の日記)
7月10日 牛天神(北野神社)
その日、所用で後楽園に出かけた私は、時間が余ったのでこれまで行ったことのないお寺か神社を探してみようと検索して、たまたま見つけたのが牛天神こと北野神社でした。
かつては海辺だったこの場所で源頼朝が老松に船を繋ぎ、まどろんだ時、平氏の滅亡と長男誕生の夢を見ました。
どちらも正夢となったため、頼朝はここに神社を創建し、そばに牛の形の石があったことから牛天神とも呼ばれるようになったとと伝えられます。

交差点から細長い石段を登って行くと開ける神社。
高台にあり、葛飾北斎の冨嶽三十六景「礫川雪ノ旦(こいしかわゆきのあした)」でも有名という眺めの良さを称えられたのだそうですが、たしかに緑に包まれ、早咲きの紫陽花が綺麗な落ち着いた神社でした。
残念ながら現在は遠く富士山を眺めることは無理ですが。
撫で牛も可愛かったけど、どちらも口を開けた(阿像)の狛犬も元気が良くて気持ち良かった。
「ひとりごと」でも紹介していますが、おみくじを結ぶのが、縁の物はハート形、もう一つは牛形をしているのも遊び心があって楽しかったです。

境内に餌をまいているのでスズメがひっきりなしに飛び回ってはついばんでいます。
社務所で関係者の方にいろいろお話を聞くことができました。
とても笑顔の素敵な優しい方でした。
その節はありがとうございました。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都文京区春日1-5-2

(2018年7月10日の日記)
7月27日 福蔵院
福蔵院は真言宗豊山派の寺院で、僧頼珍が大永元年(1521年)に創建したとされている。
江戸時代には隣接する鷺宮八幡神社の別当寺を務めていたという。

帰って来てここまで調べて絶句した。
隣接する鷺宮八幡神社に寄るのをすっかり忘れていた。
ただそれほど福蔵院の境内は広く、緑が美しく、そして気温は高かった。
鷺宮界隈を散々歩き回って、暑くて頭がぼーっとしていたような気もする。
もちろん熱中症の危険を感じるほどのものではなかったが、とにかくこの日は暑かった。

美しい拝殿や元気な狛犬など見どころも多かったが、福蔵院で特に有名なのが十三仏(仏菩薩)で、死後の忌日をつかさどるもので、 冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願ってまつられたもの。
自他の供養がまとめて修められるtことから、室町時代以降、民間で広く信仰されたと中野区教育委員会の掲示板に書いてあった。

お墓参りの人が休めるようにか、四阿もあり、猫がベンチに座って涼んでいる。
お寺に猫は付き物とはいえ、お寺巡りをしていると本当に猫にはよく会う(犬はあまり見ない)。
人慣れしていて近づいても逃げなかったので、そばに座り、私もしばらくぼんやり涼んだ。
こんな風景、だれか写真に撮ってくれないかなあ。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都中野区白鷺1-31-5

(2018年7月27日の日記)

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