犬夜叉考察 12
犬夜叉の心 かごめの想い
先日、白羅さんから「かごめのやきもち」について掲示板にて非常におもしろいテーマを頂いた。
掲示板にはとても書ききれないので今日の考察日記で取り上げることにした。

この問題に関しては、いろいろなサイトさんで議論されており、いつも興味深く読ま せていただいているが、私自身は突きつめて書き込んだことはないような気がする、 たぶん。

まず最初に書いておきたいことは、あくまでも私見だが、桔梗と犬夜叉たちの関係を 考える上で、2つの観点から見定める必要があるのではないかということ。

1つめはかごめなど、登場キャラに同化し、キャラの視点で捉えること。
そしてもう1つは、「漫画の手法」として捉えること。

なぜこの2つを最初に書いたかは置いといて、白羅さんの疑問に一言で答えるならば 「恋愛は理屈じゃない。」に尽きるだろう。
なんだか人生の酸いも甘いも噛み分けた大先輩のようなことを書いてしまったが (笑)、細かく考察してみたい。

まずはかごめ。
たしかに18巻の有名な場面(「かごめの心」参照)で、かごめは犬夜叉の気持ちが わかったと言っている。
犬夜叉の気持ち=犬夜叉が桔梗を想う気持ちと解釈すると、それでもなお犬夜叉と一 緒にいたい、たとえ犬夜叉が桔梗を好きでも、とかごめが決めたことになる。

これがかごめの理屈であるならば、犬夜叉が桔梗に会うたびに揺れるのは、かごめの 心。
仮にかごめを自分に置き換えてみたらどうだろう。
「彼がが彼女を好きでも一緒にいたいと決めたのはあたしだから、平気だもん ね。」と平常心を保っていられるだろうか。
現実問題として私はそんな人は100%あり得ないと思う。
もしいたとしたら、それは恋ではない。
そんな簡単に自分の感情までコントロールできるような軽いものではないはずだか ら。

そこで出て来るのは「当然の感情としてのかごめの嫉妬(ヤキモチ)」。
実は私は、かごめには嫉妬する資格があると考えている。
それをどう思うかは別だが。

犬夜叉の桔梗への想い、かごめへの想い、皆さんはどのように捉えておられるだろう か。
私は桔梗に対しては恋愛感情60%くらい、桔梗を信じきれずに結果的に死なせたこ とへの責任、哀惜の想い、死人になってまで孤独 に戦い続ける桔梗への賞賛、そういった部分が40%くらいだと解釈している。
そしてかごめに対しては100%恋愛感情、混じりけなし、負い目はない。

どう見ても犬夜叉とかごめは好いた者同士、実際そのように描かれているし、犬夜叉 が「桔梗が好きだけど、かごめがいいと言ってくれたから、かごめとも付き合ってい る」とはとても言えまい。

純然たる犬桔派以外の読者がここでかごめに違和感を覚える理由、私は以前のかごめ があまりに完璧すぎたためだと思う。
それでも初期のかごめはわりと気の強い普通の女の子。
とは言え殺生丸に喧嘩を売る?場面、雷獣兄弟と対等に渡り合う場面、アンケートコ メントで書いていただいたように、たしかに型破りなヒロインだった。

そのかごめが犬夜叉との出会いの中で恋を知る。
かごめのヤキモチ、そして嫉妬は言い換えればかごめの成長であり、恋の深まりであ り当然の姿ともいえる。
ところが以前は微笑ましく読むことができたかごめのヤキモチが、最近気になる理由 は何か。

ここからが漫画としての手法となる。
連載がここまで続きながら、犬夜叉とかごめ、犬夜叉と桔梗の関係に進展はない。
この関係に決着をつけるということは物語が一気に加速し、終末に向かうことであ る。

そうするわけにはいかないので、犬夜叉が桔梗に会う→かごめがヤキモチが繰り返さ れることになる。
私自身、18巻は何度読み返しても胸に迫るものを感じるし、この頃からかごめに憧 れるようになった。
しかし、さすがに1冊のコミックの中で、ヤキモチ場面はせいぜい1回にして欲しい と思うことがある。

「犬夜叉」はもう永遠に続いて欲しいと(笑)願う気持ちに変わりはないが、最終話 につながる大きな変化を持たせる事ができないジレンマは、先生にとっても大きいだ ろう。
実は鋼牙への犬夜叉の(自分のことは置いといての)ヤキモチも多いのだが、こちら はギャグテイストで描かれるせいか、議論になることは少ないようである。

かごめのヤキモチに関する結論は、犬夜叉の想いを理解し割り切ろうとする頭と、平 静ではいられない心のせめぎあいの結果だろうということ。
原作のかごめというキャラが、以前の完璧(心に闇がない)な状態から、良くも悪く も人間らしい生々しさを身につけ始める、これが「成長」だと私は思う。

よく「人間として成長する」というが、それは必ずしも良い意味だけではなく、この場合は現実 的になる、負の感情も身につけ始めるといった全ての変化を網羅しての「成長」であ ると思う。

現在のかごめに違和感を覚える人は
1、完全に桔梗派
2、自分の作り上げた、中期に描かれたかごめ像とヤキモチのギャップが気になる
3、くり返しがくどさを感じる

この3つのどれかではないかと思う。

私の悪い癖で、すぐにアニメと比較してしまうが、アニメのかごめはいかにもその辺に いそうな普通の女の子という現実感がある。
だから「四魂のかけらがなければ幻影殺に引っかかる」など、心にもそこそこ闇も弱 さも抱えている。
こちらのかごめの方が、見る側もヤキモチのギャップに悩むことが少ないのではない かと思う。

次に犬夜叉。
「犬夜叉は、大好きなかごめと永遠にさよならになるかもという覚悟をしてまで男と してのけじめをつけたのに。」と書いていただいたが、残念ながらこれは決定的に違 うと思う。

なぜか、それは犬夜叉がその後もかごめと一緒にいるから。
犬夜叉が男としてのけじめをつけたのは18巻89ページ頃から148ページ前後ま で。

「一緒にいていい?」
かごめが問う。

「いて・・・くれるのか・・・?」
こう答えた瞬間、男のけじめは崩れ去ったに等しい。

厳しいことを言えば、ここで犬夜叉が本当に「桔梗に―命がけで応えなくちゃならね え。」と思うのなら、かごめがなんと言おうと、かごめとは完全に別れて桔梗の元に行き、桔梗と共に奈落と 立ち向かうなり死ぬなりすべきだった。
かごめは自分を癒してくれる、かごめが愛しい、一緒にいたい。
そしたらかごめが桔梗のことも受け入れてくれた、だからかごめが一緒にいてくれる というのなら一緒にいたい。

ある意味「桔梗もかごめも愛しているから両方とこれからも関わっていく」というけじめをつけたとも言えるかもしれないが、それに対してヤキモチ焼くなというのは、かごめにも桔梗にも酷な気がする。
あの場面は絵的にも内面的にも、ものすごく美しく描かれているのでつい感動してし まうが、この時の犬夜叉、実は甘い。
そしてこの甘さが犬夜叉の魅力であり、物語を形作っていく大きな要素であるのだと 思う。
私自身はあまり気軽に「二股」という言葉は使いたくない。
なぜなら犬夜叉の想いはどちらも真剣であり、命がけのものだから。

前述したヤキモチだが、かごめをここまで悩ませるのは実は犬夜叉だったりする。
もし犬夜叉がかごめと完全に別れて桔梗の元に行けば、かごめはおそらく現代に戻 り、そこで「犬夜叉」は終わってしまうだろう。
「犬夜叉」が続くために犬夜叉は優柔不断になり、かごめは理屈と感情の狭間で揺れ る、最後はここに落ち着いてしまうのだが。(笑)

長くなったが次は桔梗。
私は実は桔梗こそ犬夜叉かごめ以上の悲劇のキャラだと思う。
奈落に殺されたとかそんな意味ではない。

ちょっと想像していただきたい。
犬夜叉と桔梗が会う。
「私だっておまえといたいのだ、犬夜叉。
誰がおまえを守る!? おれしかいねえじゃねえか!!と言っておいて去って行く し。

私が瘴気の底に落とされても生き返ってもなんだかんだ言ってまたかごめの所に戻る し。
仲間の元に戻れと私が言えば、おまえは素直に帰るのか?
言ってることとやってることが違うではないか!」

桔梗がごねる。
やっとのことで犬夜叉がなだめすかして帰ってくる。
今度はかごめがヤキモチを焼く。

どうだろう。
こんなどろどろした感情合戦がいつもあったら「犬夜叉」の持つおもしろさ、スピー ド感、そういったものが台無しになってしまうのではないだろうか。
だから「孤高の巫女=ものわかりのいい女性」になってしまった。
同じことは鋼牙にも言える。

桔梗は犬夜叉の自分への気持ちが、もはや恋ではないことに気づいているのではない だろうか。
いえ気づいているように設定されているのではないだろうか。
それだけにその孤独には惹かれるものを感じる。
そういった意味で、犬夜叉に振り回されるかごめ、想いはともかくやはり幼い。

そして七宝はまだまだ子供、はっきり言ってかごめが全て。
100%かごめの側につくのは当然だと思う。
むしろ七宝が桔梗の気持ちまで推し量っていたらかえって怖い。

珊瑚もどちらかというと融通のきくほうではないように思えるのでなんとも思わな かったが、気になったのは弥勒。
ほどほど顔もいいし、法力はあるし、実はもてる人だと思う。
人生経験もいろんな意味で豊かでその内面も理解できるだろうに、もう少し桔梗への 思いやりの言葉があってもいいような気がする。
七宝の幼い一言をさりげなくたしなめるとか、そんな場面が欲しい。

原作者が描いている弥勒像にそぐわないと言うのはおこがましいが、やはりそれまで 向き合ってきて形作られた弥勒のイメージにどこかそぐわないと思うのだが。

さて、長々と書いてきたが、私の言いたいことは伝わったかどうか正直心配。
ものすごく難しかったし・・・。

「かごめの犬夜叉と桔梗の関係に対しての嫉妬。」

この疑問に関しては最初に書いたように、「かごめの嫉妬は当然のこと。
ただし、漫画の手法としてあまり繰り返されるのはどうかと思う。」

「犬夜叉は、大好きなかごめと永遠にさよならになるかもという覚悟をしてまで男と し てのけじめをつけたのに。」

これに関しては、「男のけじめをつけてはいない。相変わらず桔梗とかごめの間で揺れ動いている。
ただし漫画の手法としてそうでなくては漫画が続かない。」

私がしつこく「漫画の手法」と書いたのはこのためで、まずストーリーありきで、それにキャラ設定がついてくるため、都合の悪い部分は無視するなどある程度の制約は必要「だろう」と思うから。

「この件で犬夜叉を責める七宝やかごめへの違和感。」

かごめに関しては前述の通り、七宝は子供だから仕方がない。
珊瑚も恋愛面ではまだ幼いのでかごめ派で仕方がないが、弥勒はもう少し桔梗への思 いやりを表現してもいいのではないかと思う。
弥勒なら桔梗の立場も理解できるはずだから。」

白羅さん、うまくまとまりませんでしたが、私の意見は以上の通りです。
白羅さんのご意見とはちょっと違う部分もありますが、改めて考える機会を与えてい ただき、本当に嬉しいです。
「犬夜叉」に関してはいろいろなテーマで人それぞれの捉え方があって当然ですが、 もし気になるところ、わかりにくいところなどありましたらご連絡くださいね。
 (2004年6月25日の日記) 
狐火幻影
私は用事で王子に行くことが多いが、王子といえば「鬼平犯科帳」の「山吹屋お勝」 を始め、時代小説や時代劇によく出るお馴染みの場所が多い所である。

鬼平犯科帳の中でも異色の一作「狐雨」にも狐に取り憑かれた同心、青木助五郎が登 場する。
「油揚げを、どのようにして召し上がられます?」
「生(なま)でよい。生で、生で、生で」

鬼平夫人久栄と青木の会話がなんともおかしく、何度読み返しても笑ってしまう作 品。
物の怪好きの中でも、九尾の狐、玉藻の前、狐の嫁入り、七宝(笑)と狐にからんだ 伝説が大好きで、そういえばきのう買った「山海経」にもこの関連の記述を見つけ、 狂喜した。
このことについてはいずれ書きたいと思っている。

実は私、「鬼平犯科帳」を一話ごとに読み解いていくコンテンツも作りたくてうずう ずしている。
どれも中途半端な状態で、これ以上増やすのは気が引けるので我慢しているが、いつ かは取り組んでみたい課題。

私は趣味でサイトを作っている人の中では、環境的にも仕事的にも恵まれている方だと思う。
それでも毎日もう10時間くらいパソコンに向かえる時間があって、疲れない目と凝らない肩と、痛くならない指があったらといつも思っている(笑)。
頭の中に書きたいことが溢れていて、思いつくと夜も眠れなくなるほどなので、とりあえずパソコンに向かう時間さえあれば、考えなしに打ち込むことができる。
打つのもそんなに遅くはないと思う。

時間が欲しいな、もっともっとパソコンに向かう時間が欲しい。
サイトの管理人さんみんなの夢だろうけど。

さて王子、もちろん内田康夫著浅見光彦シリーズにゆかりのある場所も多く、王子稲 荷、飛鳥山 公園、平塚亭など時間の許す限り歩きたい。

4月の半ばだったかな?桜の花が盛りの頃に少し遠回りして飛鳥山公園を歩いてい て、ふと春期企画展「狐火幻影」の看板を見つけた。
無料だったし(笑)ふらりと北区飛鳥山博物館に入ってみた。

私は今年こそ王子の大晦日の狐火伝承に参加したいと思っているが(顔に狐の化粧を して練り歩く)、その風景を写した写真や、落語「王子の狐」のビデオ、王子稲荷の 由来など、見ごたえのある展示だった。

ところがゆっくり解説など読みながらぶらついていると、突然「菊之丞」の文字が・ ・・。
といっても何のことやらわからないと思うが、実は松野太紀さんが「サクラ大戦」に 「菊之丞」というキャラで出演されている。
それを見たさに、スカパーで「サクラ大戦」一生懸命見たが、いつまでたっても出て こない。

いい加減飽きた頃に、菊之丞はテレビシリーズには出ていないことを知り、げんなり した。
それ以来「サクラ大戦」は見ていないので、残念ながら松野さんの菊之丞にはお目に かかったことがない(苦笑)。
ただ変わった名前だな、なんかから取ったのかな、と思った記憶がある。

私は日本語、漢字、歴史物が大好きなせいか、「犬夜叉」にしろ「三国志」「十二国 記」にしろ、「この登場人物(妖魔や妖怪)の名前や姿にはモデルがあるんだろう か、と考える癖がある。
もちろんバリバリの現代物にはそんなことを考えないが。

「犬夜叉」に関しては水木しげる氏の妖怪大辞典、「十二国記」に関しては「山海 経」など、実際にモデルらしき妖怪や妖魔が出てくることが実際あるのでとてもおも しろい。
今回の「菊之丞」、おそらく「王子稲荷の申し子と呼ばれた江戸中期の女形、二世瀬 川菊之丞」から取ったことは間違いないだろう。
他にも市川団十郎の稲荷参拝をきっかけに作られた狐の紙人形なども当時の風景画の 中に見られ、興味深かった。

私はこうしてあれこれ調べるのは好きだが、実際に歌舞伎を見に行ったりすることは ほとんどないので(高くつくし)、詳しくはないが、瀬川菊之丞、調べてみたらおも しろいかも。
ちなみに江戸川区の大雲寺には、初代から六代目までの菊之丞のお墓があるそうだ。
今度行ってみようかな。

都営新宿線瑞江駅、こんなことでもなければおそらく降りることのない駅だろうか ら。
もしお寺や近辺の図書館などで資料を見つけられたら言うことなしだが・・・。
 (2004年7月6日の日記 ) 
心の闇と幻影殺 〜かごめの結論
6月25日の考察日記「かごめの想い」に関して、4人の方から感想をいただいた。
実は反論も予想していたのでドキドキしながら開いてみたが、意外なことに全部が原 作かごめファンの方からで、やはり納得できずにいますと書かれてあり、驚いた。

やはり何かがおかしい。
もう一度かごめに関して取り組んでみたいと思う。
かごめの魂の特殊性について描かれるのは、裏陶編、幻影殺、心の闇、滝壺にて桔梗 を癒すエピソードなど数多いが、今回は「幻影殺」と「心の闇」に絞ってみた。

最初に確認しておくが、奈落の幻影殺、原作ではかごめには効果がなかった。
アニメではかごめに幻影殺が効かないのは四魂のかけらのせい、かけらを奪われたか ごめは幻影殺に囚われる。
ここでは当然原作に従う。

幻影殺にかかった犬夜叉たち。
奈落が言う。
「人の心とはか弱いものよ。
悲しみ・・・ 恐れ・・・ 迷い・・・
心の中の陰の気がひとつでも、この地に這わせた触手に触れたが最後―
陰の幻に囚われ・・・ 魂を喰い尽くされる。」

ここでかごめに術が効かないのは、かごめの魂の強さゆえだと思っていた、ずっと。
しかし犬夜叉は、犬夜叉に化けた奈落に桔梗を殺された。
蘇った桔梗は当初恨みの念に凝り固まり、犬夜叉を地獄にいざなおうとする。
その姿は犬夜叉にとってあまりに辛い。

珊瑚は奈落のせいで退治屋の里が全滅に追い込まれ、気弱な弟の琥珀が父を初めとし た退治屋仲間を殺すところを見せつけられる。
弥勒はやはり奈落に穿たれた風穴の呪いが祖父、父を残酷な死に追いやり、弥勒自身 も生きることがすなわち死への道。
七宝の幻影殺、原作では描かれていないが、その後の様子を見ると、やはり囚われて いたことがわかる。
(気を失って飛来骨に引っかかっている。)

七宝も奈落ではないが、飛天満天の雷獣兄弟に父親を殺されている。
そしてかごめは?
そもそもかごめがこの物語に加わったのは、体内に四魂の玉を持っていたこと、その 玉を、仕方がなかったとは言え砕いてしまった責任感からだろう。

かごめ自身の「陰の気」になるほどの大きな傷は、実は抱えていない。
もちろん犬夜叉をめぐって、桔梗との微妙な関係はすでに成立しているが、それにし ても「愛する者の悲惨な死」に勝るものではない。
仮に、仮にである。
この時点で犬夜叉が奈落に殺されていたらどうだろう。

かごめですら心の中に「陰の気(悲しみ、奈落への憎しみ、怒りなど)」抱えてし まっていただろう。
そう考えると、この時かごめに幻影殺が効かなかったのは、魂の強さもさることなが ら、「陰の気を抱えこむほどの経験をしていないから」と考えることはできないだろ うか。

これでかごめの特殊性はだいぶ薄れてくる。
そして「心の闇」。
この時点でも、かごめの心に闇はない。
かごめは珊瑚や弥勒、犬夜叉、奈落や七人隊などに殺された名もなき人々のために怒 り、奈落に立ち向かう、その素晴らしさはもちろんあるが、やはりかごめ自身はそこ まで悲惨な経験をしていない。

桔梗との三角関係が深まって、初めて闇が出るくらいなのだから。
こうなるとかごめの他者に対する思いやりの心、正義感などはかごめの性格として稀 有のものではあるけれど、実は魂の大きさ以外にその特殊性は感じられなくなってく る。

つまり、かごめ自身は優しく強い普通の女の子であるけれど、犬夜叉たちほどの悲惨 な経験は未だにその身に起きていない。
魂の大きさと共に、そのことがこれまでかごめだけを犬夜叉たちと隔たった場所に位 置づける。

ここで思い出されるのが18巻。
かごめが犬夜叉が桔梗を選んだことを知りながら戻ってくるエピソード。
とにかく絵も美しく、何度読んでもかごめの健気さに涙がにじむ場面。

この巻では、ともするとかごめだけに目が行きがちだが、実は桔梗もまた犬夜叉の腕 の中でその心を知り、運命の幻影殺から解き放たれる。
まだ恋愛の泥沼を知らぬ汚れなきかごめと、泥沼を這い上がり、全てを越えた凛々し き桔梗。
今にして思えば、この対比は興味深い。

かごめはこの時、本当に純粋に犬夜叉と一緒にいたい、たとえ自分がどんな思いをす ることになっても、と願う。
この時点で何度も辛い思いをしている、それでも一緒にいることを選ぶかごめの決 意。
しかし、これはまだ「犬夜叉と一緒にいる」ことの本当の意味を、頭ではわかってい ても、感情として把握していないかごめの姿。

最初は耐えていたかごめが、最近では犬夜叉に責任転嫁をする。
それに対して「かごめらしくない」と、私は違和感を覚えた。
だが今思うと、これはとても理不尽な話。

恋愛、特に三角関係は綺麗事ではない。
かごめが成長と共に、女としての生々しい感情をむき出しにせざるを得ない、当然の ことだと初めて思った。
18巻のエピソード、あまりにかごめが素晴らしすぎて、私の中では「清く正しく美 しく」のイメージが固まってしまったような気がする。

巫女(の生まれ変わり?)としてのかごめの魂の特殊性や霊力と、かごめ自身の年齢 相応の性格とは関係ない。
かごめの自然体は、おそらく生まれてこの方、大きな挫折を味わうことなく培われた もの。
父のいない環境ではあるが、それがかごめの性格形成にマイナスになったようには思 えない。

それが滝壺で迷いなく桔梗を癒すかごめの優しさであり、弥勒と珊瑚の仲と自分を比 較して卑屈にならないおおらかさであり、同時に犬夜叉の甘えを許しきれないかごめ の幼さだろう。
今までかごめ=完璧な魂(性格)の持ち主と決め付け、敬い奉ってきたが(苦笑)、 実は普通の女の子としての性格も最初から十分に持ち合わせていた少女と見直すこと により、最近の態度もすとんと腑に落ちたように思う。

我慢できずに出る嫌味も、そんな自分に落ち込む姿も、全てがかごめの自然な姿であ り、生身の人間としての親しみは感じても、その魅力を減らすものではない。
これまで私は「綺麗(心、魂)過ぎて現実感のないかごめ」と、「人間としての生々 しさを感じさせる桔梗」と、常に表現してきたように思う。

原作至上主義ではないが、どうして最近のかごめに違和感を持ち続けるのだろうと、 正直何かがつかえている感じで、素直に楽しめないことが多かった。
今回私が思ったこと、もちろんこれが正しいとはとても言えない、これもまた違うか もしれない。
でも少なくとも私は、こう考えることで素直にかごめに共感できる。

もしかしたら皆さんの方が正確にかごめの姿を捉えていて、何を今更と言われるかも しれないが(笑)、今の私、最高に気分がいい。
かなり前のことだが、「いい年して、よくもそんなに漫画にのめり込めますね。」と 書かれたメールを受け取ったことがある。
もちろんお互い知らない方なので、私の文章なりを見て、さほど若くはない(笑)、 少なくとも漫画が身近な世代とは思われなかったのだろう。

たしかに私は漫画が身近な世代ではないけれど、そんな世代でものめりこめるのが 「犬夜叉」なんですよ、とお答えした。
こうしてほとんど毎日長々と考察日記を書いていても、まだまだ書きたいことが溢れ てくる。
楽しいなと思う、とても。

ただ先日掲示板でも指摘していただいたが、勢いが過ぎると感情的になり、行き過ぎ てしまう。
これだけは気をつけなければならないと反省することしきりの今日この頃である。

          ☆          ☆          ☆

映画情報(公式サイト より)
蓬莱島は、四人の鬼神が統べる島。
突然現れた犬夜叉を知る少女の名は藍。
50年の時を経ても変わらぬその少女に秘められた謎とは?
呪われた刻印が浮かぶ時、
犬夜叉と殺生丸の新たな戦いが始まる!

ストーリー的にはとてもおもしろそうだなあと思います。
第3弾が犬夜叉と殺生丸がメインだったので、今回も、というのはちょっと意外。
でも桔梗も絡めて嬉しい誤算だったりします。

こういう時(二本立て)って「犬夜叉」だけ見て出てくることってできるのかな?
いえハム太郎がどうのこうのじゃなくって、1人で見るのは恥ずかしいから・・・ (^_^;)

          ☆          ☆          ☆

アンケートについていくつか質問を頂いています。
まとめてお答えしますと、当サイトが特別なルートを通じて、各公式サイトにアン ケート結果を送っているわけでは決してありません。
メールで意見をどうぞというのありますよね。
あれで一意見として送っているだけです。

ですからサイトスタッフの方が、見てくださっているかどうかは私にもわかりませ ん。
ただ一ファンとして何かをしたい、そんな気持ちから行っていることです。
私としては公式サイトスタッフが、一ファンサイトだけと個人的に?つながりを持つ ということは、あり得ないように思います。
公平さを欠きますからね。

私が特別なルートを使っているような書き込みをして(いたのかなあ・・・?)し まったとしたら、申し訳ないです。
ちょっとがっかりされたかな?(^_^;)

ちなみに初めて送ったのは今年の2月21日、その後もう一度だけ送っているかと思 います。
わりに少ないですが、ベスト30の中で順位の変動はありますが、大きな入れ替わ りがないためです。
最近一作品が交代しましたが、それだけ勢いがないと新作品がベスト30に食い込む ことは難しそうです。
詳しくは、エピソード経過の「管理人より」をお読みください。

次に、どうしていちいちリセットするのかということについて。
私がお借りしている投票所は、50項目までしか項目を増やせません。
それで以前、キャラアンケートに「自分の好きなキャラを入れたいのに入れることが できない」と、コメントが届きました。
その結果です。
新しいキャラなり声優さんが入りやすくなった分、ベスト30に入るためにはかなり きつい状態になったと思います。

本当は無制限に項目を作ることができればいいんですが、技術的に無理でした、ごめ んなさい。 
 (2004年7月11日の日記) 
明智光秀大変身 追記1
以前「明智光秀大変身」というテーマで書いた考察日記がものすごく中途半端でずっと 気になっていた。
ひょんなことから「世界ふしぎ発見!」で放映された光秀がらみの番組ののビデオを入手することができた。

本筋の光秀に取りかかる前に、前回書いた源義経=ジンギスカンについての説明も少 し入っていたので、まずはここから。
兄頼朝に追われて現在の東北地方に逃げた義経が、岩手県の衣川で奥州藤原氏の襲撃 を受け、自害したことが定説となっているが、この時死んだのは替え玉で、義経自身 は生き延び、蝦夷の地(北海道)より中国に渡ったというのが義経=ジンギスカン 説。
それまで文章になったものを読んだことはなかったが、なんとなくこの話はシーボル トが発表して有名になったとか、その程度の知識はあったような気がする。

ところがこの説、言い出したのは沢田源内という人なのだそうだ、初めて聞いた。
水戸黄門で有名な徳川光圀、その業績のひとつに「大日本史」の編纂があげられる。
もうひとつ、それほど目立たないが、蝦夷地の調査のために、快風丸という名の調査 船を現北海道に送っていたらしい。
光秀生存の噂は当時からあって、その調査も含まれていたとされるが、その時にしゃ しゃり出て?来たのが沢田源内らしい。

私は最初、エレキテルの発明家平賀源内とごっちゃにしていたが全くの別人だった。
エレキテル、名前は知っていたが何のことだかわからず、ついでに調べてみたら、摩 擦で電気を起こす機械だった。
こちらの源内さんも、なんだかおもしろい人のようだが、今回は置いといて沢田の源 内さん。
彼の主張によると、「金史別本」によると、義経は平泉では死なず、中国(当時の 金)に渡って騎馬民族の将軍になったというのである。

ところがこの沢田源内、職業は「偽物の」家系図作り。
彼の打った一世一代の大博打が「金史別本」だったわけ。
この本自体が彼の創作であり、義経=ジンギスカン説の根拠とはなり得ない。
この源内の子孫の方などが出てきて源内を語るなど、見ていてとにかくおもしろい。

さて本題。
最初におさらいしておくと、明智光秀で何と言っても有名なのは、天正10年(15 82年)の本能寺の変とその三日天下だろう。
6月2日に本能寺を襲い、信長を討つが、秀吉との戦いに敗れ、伏見の小栗栖で落ち 武者狩りの餌食になったとされる。
イメージ的には細面の学者タイプ、神経質で小心者、その生真面目さが信長とは相容 れず、互いに悲劇の最後を遂げることになったという感じ?

ところが3日後に秀吉の元に送られた光秀の首は、異常なほど腐敗がひどくて光秀と 認識できるようなものではなかったという。
にもかかわらず、秀吉はこの首をあっさり光秀と認めてしまう。
このことが光秀単独犯説の否定につながる。

光秀の生没年は享禄元年(1528年)から天正10年(1582年)とされるか ら、一般には光秀は54歳で亡くなったことになる。
ところが岐阜県美山町にある光秀の墓には「享年75歳」と書いて(彫られて?)あ るとのこと。
つまり光秀は自分の身代わりを立て、自分は京都に逃げ延びて関が原の合戦に参加、 そこで戦死したという説。

この身代わりは荒木山城守というのが有力らしい。
もともと光秀が殺されたとされる小栗栖は勤修寺晴豊なる人物の領地。
この人は光秀の「死後」、光秀の姪や孫身元引受人となって面倒をみたとされてい る。
天皇家ともゆかりが深い人物で、なぜ光秀がここで殺される羽目になったのか、疑問 は多い。

そしてさらに光秀の単独犯説に疑問を投げかけるのが、この時期の秀吉と光秀の行 動。
次回はこの2人の謎について書いてみたい。
 (2004年7月17日の日記 ) 
明智光秀大変身 〜豊臣秀吉
光秀の本能寺の変に対する秀吉と家康の行動も謎が多い(とされる)。
まずは秀吉。

天正十年(1582年)、天下統一に限りなく近づいた信長は、最後の強敵毛利氏と の戦いのために秀吉を現在の岡山県に送った。
秀吉は備中高松城を取り囲んで水攻めにしていたが、信長急死の報を受け、急遽毛利 との和睦を取りまとめて引き返し、光秀を討った。

これが「光秀の三日天下」と言われる所以だが、この時の秀吉の決断と引き返すス ピードの速さは凄まじいものがあったらしく、「中国大返し」と呼ばれ、称えられ た。
余談だが私が子供の頃、実家に世界の偉人、日本の偉人をそれぞれ50人ずつ伝記に まとめた全集が揃っており、夢中になって読んだ記憶がある。

特に家康、信長、秀吉、武田信玄の伝記は、何度読んでも飽きず、子供心に「すごい すごいすごい」といつも興奮していた。
今にして思えば100人が100人とも「絵に描いたような」偉人で(笑)、よって 光秀などは「絵に描いたような」悪党にされており、何て悪い奴だと思った。

子供向けということで、人間としての生々しさ、生臭さが全く描かれないことは、伝 記としてどうなのだろうか。
この時期に培われた知識というものは、固定観念となって意識の中に植え付けられて しまいがちなので光秀こそが被害者だったのではないかと今回思った。

話がそれた。
腐敗した首を、秀吉が何の迷いもなく光秀と認めたことに関しては前回書いたが、こ と後、秀吉の戦後処理はあまりに手回しがよすぎたと言われている。
光秀を倒したその日、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の勅使から、信長の子、信忠 と並んで武家の頭領を意味する刀を与えられる。

秀吉はこの事件をきっかけに、織田家の家臣から天下人への道を歩み始めることに なった。
この事実は、秀吉が光秀と「朝廷の」クーデターを知りながら信長には知らせず、信 長暗殺に関わったことを理由に朝廷を脅し、自分の権威を認めさせたのではないかと いう説の元になっている。

ここでなぜ朝廷が出てくるかというと、信長が朝廷にとって非常に危険な存在だった から。
信長に関しては諸説いろいろあるが、ひとつだけはっきり言えることは、信長が征夷 大将軍足利義昭も、朝廷をも超える存在になろうとしていたことだろう。
もちろん願う人物はたくさんいたろうが、信長だけがなし得る器を持っていた。
一方光秀は朝廷に忠誠を誓う、古き良き時代の守護者。

光秀が朝廷のために信長に刃を向けたと考えるのは、穿ち過ぎだろうか。
とこれまで書いてきて、どうも説得力に欠けると自分でも思うのは、やはり私がこの 説を信じているわけではないからだろう。
もちろん信じていないわけでもない。
おもしろいと思う、おもしろいと思うがそれだけの段階で終わっているところにこの 考察の弱さがあるかも。

ところがここでもう一人、本能寺の変に絡んで不思議な動きをした人物がいた。
その名は前述の徳川家康、今日はここまで。
 (2004年7月23日の日記 ) 
アニメの結末
今日のテーマ「アニメの結末」、最初にお断りしておくと「心配」ではなく「考察」である。
「9月終了」を前提にしているように思われるのが怖いので一応確認。

本題に入る前に、今「殺生丸様と―」を見直しながら書いていて、ふと「妖狼族の人喰い問題」を思い出した。
鋼牙の初登場回、私は大きな疑問を感じた。

1つは人喰いである鋼牙を、かごめたちがあまりに簡単に受け入れたこと。
最近神楽を仲間に誘う場面を見て彼らの善性の賜物かとも思ったが、やはり「人が人を喰う」ことに対する嫌悪感の描写が一切ないのが気になった。
おかしな話だが、人食いライオンや人型でない妖怪が人を喰うことに対しては、もちろん恐怖感は感じるが、人の形に近づけば近づくほど嫌悪感が勝るのではないかと私は思う。

もっとも今回言いたいことはこれではない。
もうひとつの疑問。
「鋼牙登場(原作アニメ比較4内)」でも書いたが、妖狼族が人喰いなのは仕方がないと思う。
もしも彼らが生存のための人喰いをするならば。

ところがりんの村の人々は、「ただ殺されている」だけであった。
鋼牙の四魂のかけらを盗んだのが、この村の人間であるなら、あるいは見せしめの意味を持たせることもできたかもしれないが、かけらを盗んだのは鋼牙の仲間、村人は関係ないし、「りんをいじめる人達だから」は通用しない。
なぜこんな妖狼族になってしまったのか、ずっと考えていた。

「悪い人じゃない」からと安易に受け入れるその描写にはずっと違和感を感じていた。
犬夜叉側の、妖狼族側の善性以前の問題である。
このことは当時でもかなり議論の的になったような気がする。
今回、「殺生丸様と―」を見ていて、あの設定はもしかして「りん復活」のための伏線だったのだろうか?とふと思った。
りんが完全に「喰われて」いたら、いかに天生牙の力を持ってしても蘇らせることは不可能だったろう。
狼たちが趣味の殺戮を楽しむことによって、りんは死にはしたものの喰われはせず、完全な姿を保つことができ、結果的に蘇ることもできた・・・。

たかがそれだけのための設定とは考えにくいが、「鋼牙大好き」を語る時、どうしても浮かんでくる疑問には他に答えを見つけることができない。
ただ「犬夜叉」に限らずこういった戦闘作品の特徴として、「犠牲者となる名もない人々」にほとんど目が向けられないのは仕方のないことだろうか。

もちろん話の流れをスムーズに進めるためには、主役級キャラ、ゲストキャラ以外のエキストラ?にまで目を向けてはいられないことはわかる。
でもたとえば私が何かの作品の登場人物だったら(笑)、決して主役ではなく出てきた瞬間殺される名もなき「女」だろうと思う。
何よりも精神面の弱さにおいて。

そんな弱き人間にとっては、「弱き人間に目を向ける」優しい目も、作品には欲しいと思う。
そういった意味で鋼牙との和解、神楽との和解、それぞれ素敵な展開ではあるけれど、その裏で死んでいく多くの人間を思えばあまり「善性」のみで語って欲しくはないような気がする。

いよいよ本題。
アニメ終了の噂が一段落した頃、やってみたことがある。
作品はだいたい半年前から取り掛かるということをどこかで読んでいたので、「自分がアニメを作るなら」どう作るかを考えてみた。
もちろん絵を描いたり脚本を書いたわけではない、書けない(笑)。

わかりやすくなるかどうかわからないが、とりあえず説明してみよう。

2004年8月11日の時点でアニメは161話(162話目のオリジナルはのぞく)、原作はアニメ最新分「記憶の糸」で345話、単純に計算すると原作2話ちょっとでアニメが1話できるから楽かな?と思われるかもしれない。
(思う人などいないかもしれないが・・・。)

ところが原作と言うのはご存知の通り続き物だから、必ずしも1話が1つのエピソードとなるわけではない。
アニメ「昔のあやまち」に関しても原作3話、ざっと見たところアニメ1エピソードにつき原作3話というのが一番多いようである。
「獣郎丸と影郎丸」のように原作7話を1回分で作ってしまった例もある。

今またしても中途半端に作っているコンテンツがあって、「アニメ原作対比(比較でなく対比)」(アニメに対する原作の分量の割合を資料化したもの)を作っている。
読んでおもしろいとは思えないが(笑)、アニメ製作の裏側を図る上で参考になるのではないかと思っている。

それを見ていると、じゃあなんで「2話1アニメ」にしないんだ?という疑問が当然沸いてくる。
これを自分なりに作ってみると大笑い。
それこそオリジナルが毎週山ほど入り、1話まるごと戦闘のみなんていう回もあったりして大変なことになった。
逆に「2話1アニメ」にこだわらず、オリジナルエピソードなしで引き伸ばして辻褄を合わせようとすると、やはり1作品の中にオリジナルシーンが山ほど入る(下記「小さな幸せ参照」)。

私がアニメを作ったら2,3回の放映で打ち切り間違いなし状態。
今までいろいろとアニメ批判を繰り返し、私なりに真剣に向き合ったつもりでいたがまだまだ甘い。
作る側の苦労となれば視聴者の評価も気にし、他の仕事もこなし、とその大変さは想像以上だろう。

ためしに「小さな幸せ」をあげてみようか。
1話め
・犬夜叉が桔梗が生きていたことを楓に告げる。
・現代に帰ってきたかごめがあれこれ悩む。
・犬夜叉と弥勒たちの会話、珊瑚のおすわり

2話め
・学校でのかごめ、友達に犬夜叉が来ていることがばれる。
・一緒に帰り、家に着いて壊れた自転車を見つける。
・バンダナ犬夜叉お手伝い

3話め
・かごめのおすわり
・犬夜叉と友達初対面
・仲直り

どうだろう。
特に2話め、学校での友達との会話や事件、回想などを山ほど入れないととても25分はもたないだろう。
そうして持たせたところで、おもしろいかどうかは別問題。
つまらなければ、それこそ「打ち切り」の危機は常にある。
評判が悪くても、次の放映を作り変えるわけにはいかないから、作った物をそのまま流す・・・。

もちろんわざと極端な書き方をしたが、こう考えると簡単に「オリジナル反対」を連呼することはとてもできない、いい勉強になった。

ところでアニメ製作には半年前から取りかかるという記事を読んだことがある。
仮に9月終了が事実で、製作側が3月から最終回に向けて始動していたと考えてみよう。
3月後半の原作は、それこそ「鬼の岩」の中で犬夜叉が「四魂のかけら」を使う、あのエピソードである。
アニメで犬夜叉たちが阿毘姫相手に苦労していた頃、製作側は「この時原作が到達していたエピソード」を最終話と設定し、動き始めていたと捉えることもできないことではない。

公式に発表されていない以上、終了になるか否かは明言できないが、このことに気づいた時、「あるいは・・・」と思ったことは否定できない。
そう思ってみると、最近のアニメは実によくまとまっていると思う。
前にも書いたが、珊瑚と弥勒の恋物語を「昔のあやまち」できれいにまとめ、「小さな幸せ」で犬夜叉とかごめをきれいにまとめ、「宿り蛹」で 犬夜叉と七宝、喧嘩ばっかりしてるけど、やっぱり仲いいんじゃない。」と思わせ、「殺生丸様と―」で殺生丸一行に別れを告げ、「秘密の花園」では琥珀と珊瑚。
弥勒と珊瑚、犬夜叉とかごめ第1段階、七宝に関してはオリジナルでまとめる必要がない。

「かけらを使う」では犬夜叉とかごめの絆の集大成が見られるし、映画ではおそらく犬夜叉と桔梗。
これまで私は
「9月に終わるとして、どのように終わらせるんだろう、まとめきれるだろうか。
無理だろう、だから終わらない。」方向に考えてきたが考えてみればアニメで話を無理やり終わらせる必要はないのである。

視聴者の心に「犬夜叉たちの奈落探しの旅はまだまだ続いているんだな、がんばれ犬夜叉」と余韻を残すことだってできる。
きのう書いたゲームのように、無理やりこじつける必要はない。
逆にアニメで奈落を倒して終わらせて、原作で奈落が改心して自ら死んでいったりしたらアニメの方がいかにもうそ臭い(ありえないか、笑)。

原作が終わっていない以上、アニメ独自の終わらせ方をする自由があるとはいえ、やはりあまりにも後の原作最終回とかけ離れたものになってはまずいだろう。
高橋先生にリサーチして先取りしてもまずいだろうし。
その意味で、「小さな幸せ」があり、「宿り蛹」があり、「昔のあやまち」があり、「不妖璧(奈落に捕らわれた桔梗を犬夜叉たちが助ける)」があり、という「この時期」の原作の展開は、最終回に向けてまとめるためには最適といえるかもしれない。

近いうちに終わらなければならないという前提があるならば、オリジナルも少なくてすむ理想的な流れと言ってもいいのではないかと思う。

私はよく「原作があまりにもアニメと違う」と書いてきたが、最近思うこと。
原作ファンはアニメを見ても見なくても「原作を知っている」、原作を知らない視聴者に「犬夜叉」を教えるためにアニメは存在するのだろうか。
一般視聴者を惹きつけつつ、原作ファンを失わない、それがアニメとしての理想の姿だろうが、放映されている4年間という年月を考えれば、やはりアニメ「犬夜叉」、素晴らしい作品であると断言できる。

比較してはいけないかもしれないが、最初から何話で完結と決まっている作品に比べ、先の見えない作品の映像化は大変だろう。
しかも1話毎の独立した話ではなくストーリーのある続き物。
人魚シリーズをアニメで見て、その完成度の高さにうらやましさも感じたりしたが、やはり私は「犬夜叉」が好き。
もうすぐ終わるとか終わらないとか、そんなことは関係ない。
私はアニメのおかげで「犬夜叉」に会えた、それが嬉しい。

アニメ製作に携わっている全ての方々と高橋先生、そしてこの長文駄文を読んでくださった方に心から感謝を。
それでもやっぱり続いて欲しい。
原作がいつまでも続いてアニメもその後を追いかけて、10年でも20年でも続いて欲しい、それが私の本音である。

          ☆          ☆          ☆

最後にもう一度確認。
今日の考察日記は「アニメ終了を前提として」書いたものではありません。
「アニメが終了すると仮定して」書いたものです。
それから私はアニメ「打ち切り」と言う言葉は使いたくありません。
今回意味があって1度だけ使いましたが、必要ならば「終了」という言葉を使いたいと思っています。
ご了承願います。
 (2004年8月12日の日記) 
7月の終わりに
7月を振り返ってみれば、とにかく暑かったとしか思い浮かばないのですが、これか ら本格的な夏が始まるんですね。
どっかに避暑に行って秋になるまで帰って来ないなんてことができたらいいのにな。

今日は久々に秋葉原に繰り出しました。
どうやら「FCバルセロナ」の選手?が来てたみたいですね。
カメラを持った人達がいっぱいいました。

あとびっくりしたのが総武線の「ポケモン電車」。
映画の宣伝か・・・。
でも誰かに「写真撮ってきて!」と頼まれても断りますね。
「犬夜叉」ならともかく「愛」がなければ恥ずかしくてできることではありません。
子連れならともかく・・・。

そういえばポケモン映画の主題歌はTommy February。
嘘か誠か「February」は誕生日が2月であることと、2月にしか活動しなこといから なんて書いてある記事を読んだことありますが、どっちにしても好きなんで嬉しいで す。
もしかしたら「犬夜叉」と「ポケモン」の二本立てだったら両方見るかも(笑)。
「ポケモン」って見たことないけど。

さて「好きな声優アンケート」の途中経過ですが、諏訪部順一さんと緒方恵美さんの 好きキャラがわからなくてずっと空白になっていました。
それが気になっていたんですが、今日の投票で「幸村」とあったので「真田幸村( SAMURAI DEEPER KYO )」を追加しました。
「めぐみ」さんと読むんですね、「えみ」さんだと思ってました。
真田幸村、気になりますが、ゲームだったので見られませんね。

それから今突然思い出したのですが、以前諏訪部さんのコメントに「テニプリ」って あったような・・・。
そこでこちらも「跡部景吾(テニスの王子様)」追加です。
もし「違う〜、私の好きキャラはこれです!」という方いらっしゃいましたらご連絡 下さい。

8月前半のトップページの写真はRARURUさんの「 LIVE IN HOKKAIDO北の大地の贈り 物」からお借りしました。
当サイトではおなじみの素材サイトさんです。
とにかく暑い日が続くので、少しでも涼しげなトップにしたいとなると、どうしても 青系緑系になります。

最近思うんですが、私は山の緑よりも海の青が好きかもしれない。
子供の頃山に行って、目の前に蛇が落ちてきた記憶が今でもトラウマ(笑)。
海は冷たくて気持ちがいいし、後のお手入れが大変ですが、今年は泊りがけでちょっ と遠出してみたい。
では8月もよろしくお願いします。

あ”っ、ポルノグラフィティのベスト盤×2買うの忘れた。
何のために行ったんだ?秋葉原・・・。
 (2004年7月31日の日記) 
アニメの今後
今朝ご飯を食べながら日テレの「ズームインサタデー」を見ていたら、いきなり「10月11日月曜日夜7時より『ブラックジャック』スタート。」のニュースが。
山岡さんは好きだけど、今日ばかりはそのあっけらかんとした笑顔がちょっぴり恨めしかった。
ファンにとっては「犬夜叉」が全てでも、「よみうりテレビ」の中では「多数の中のひとつ」なんだなと改めて思った一瞬。

おそらく山岡さんも、このニュースが「犬夜叉」ファンに与えた大打撃を露ほども気づいておられないんだろう。
あわててスポーツ報知を買ったが、考えてみたらわざわざ新聞買わなくても、ネットでいくらでも読めるんだ。
けっこう動揺していたんだろう。

掲示板にてモンブランさんとえむ@犬茶屋さんも書き込んでくださったが、詳しくは「スポーツ報知公式サイト」はじめあちこちで読むことができる。
覚悟していたとはいえ、いざとなるとやっぱりショックだが、落ち着いて読んでみると、「ブラックジャック放映開始」とは書いていても、「犬夜叉放映終了」とは一言も書いていない。

放映時間の変更、原作がたまるまでの小休止などかなり無理すれば考えられないこともない。
犬夜叉終了の挨拶なくして新番組開始を宣言するのは、この世界では当たり前のことなのだろうか。
よみうりテレビの「おたよりコーナー」、終了に関してかなりの書き込みがされているが、あれはメッセージを向こうでピックアップして掲載する形式。

スタッフの方が投稿に目を通して、「犬夜叉終わっちゃうんですか?」といった書き込みを見て、それを黙って載せているだけ、なんだか寂しい。
しかし、逆に「アニメ犬夜叉は9月13日(20日、27日)で終了します。」とまだ宣言されていない以上、個人的には、同時に当サイトではまだ「静観」を続けることしかできないような気がする。

ブラックジャックとピノコがズームインしている?「ブラックジャック」の新サイトを物悲しく見ながら、一応はその姿勢でいくつもり。
それにしても、前に終了の噂が出た時は5月の連休だった。
今回の情報は夏休み、間が悪いと言うかなんというか・・・。

旅行などはキャンセルできないが、それ以外はなるべく情報収集と今後のアニメ「犬夜叉」を考えていきたい。

もちろん「ブラックジャック」に罪はない。
今はもうないが、私の実家の書棚にはさまざまな本と並んで「ブラックジャック」が並んでいた。
父が買ったか母が買ったか、妹たちの誰が買ったか未だにわからないが、たまたま手にとって読んでみたらおもしろくて、一気に全巻読み尽くした。

漫画がメッセージを持ちうることを知った最初の作品ではなかっただろうか。
そのアニメ化、危惧も大きい。
特に「手術のシーンや病気の描写はリアルな表現を避け」、「子供たちも楽しめるキャラクターを増やす」とは。
たしかに先日のスペシャルは素晴らしかったが、それはスペシャルと言う1作品に全身全霊を込めて打ち込むことができるからだろう。
毎週放映の連続アニメとはわけが違う、はっきり言って。
「犬夜叉」のおかげで先入観を持たないことを学んだが、悪く言えば俗っぽくなる危険性は常にある。

今の子供たちが「ブラックジャック」をアニメで見て手塚治虫氏の作品に触れるきっかけとなり、手塚氏の偉大さが再認識され、作品が受け継がれたら、それも素晴らしいことだと思うが。
結局「犬夜叉」に限らず全てがそうなのだろう。

原作の良さを生かしながら一般視聴者の心をつかむ、そのせめぎあいが作品を作っていく。
改めて大変な仕事だと思う。
何につけても原作にこだわるこの石頭は直らないが(笑)、とりあえずは「ブラックジャック」を受け入れ、「犬夜叉」は静観、それしかないというのが今日の結論。

余談だが、サンデーCMを最近テレビでやたらと見る。
私としてはCM劇場の方がいいなあと思っているのだが、いずれにしろ勢いがあるのはいいこと。
原作「犬夜叉」はいついつまでもがんばって欲しいと思う。

もうひとつCM,ハウス食品「こくまろカレー」のCMに良牙の山寺宏一さんが黒木瞳さんと夫婦役で出演されていた。
これは嬉しい驚き。
 (2004年8月14日の日記) 

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