犬夜叉考察 15
映画「紅蓮の蓬莱島」感想 3
今回の感想、あちこちのサイトさんを覗いてみたら、いまいち感が強いようだ。
たくさんのキャラが登場しすぎて一人ひとりを深く掘り下げることができていないというのが多かった。
私は逆にそこがいいと思ったのだが。

四闘神、飛天蛮骨改め龍羅、蛮骨くま睡改め獣羅、張郃丸尾改め凶羅、そして愛しの?西前剛羅。
蛇足ながら説明すると、蛮骨似で飛天声の龍羅と隈取睡骨似で蛮骨声の獣羅、無双の張郃似で「ちびまる子ちゃん」の丸尾くん声の凶羅、そして説明不要の剛羅は亀さん。
新キャラとは言えないような4人組だがかっこ良く、映画に花を添えるだけの存在。

そして半妖の子供たち。
たしかに彼らをもっと深く掘り下げていたならば、感動なり突っ込みなり書きたいことは出てくるだろう。
しかし残念ながらそれがない。

「犬夜叉」によく出てくる名もない村人、犬夜叉たちが到着する前に妖怪の犠牲になってしまうエキストラ。
可哀そうだとは思うが、一人一人を取り上げて考察する人などいないだろう。
今回の子供たちは、そこそこ可愛く、そこそこ健気で、そこそこがんばるが、全てがそこそこで、それだけに映画を楽しむ上で邪魔にもならないが、感動させてくれることもなかった。

次にパンフレットに書いてあるとおり、ストーリーが単純な分、作りこまれた部分。
今回好印象だったのはアクションシーンだった。
最初は鉄砕牙を持たず、散魂鉄爪、飛刃血爪といった己の体を武器として戦っていた犬夜叉が鉄砕牙を得て、風の傷から竜鱗の鉄砕牙に至るまでさまざまな技を会得する。
強さはともかくとして、これらの技を放つ時、犬夜叉はあまり動かなくなった。

もちろんアニメ初登場時の殺生丸のように、くるくる回りながら風の傷を放たれても困るが(笑)、原作なら2,3カットですむところ、アニメではかなり困ったのではないだろうか。
アニメの戦闘シーンでくどいというと真っ先に竜骨精と映画「時代を―」を思い出す。

いえ犬夜叉が原作で5回しか風の傷出さないのに、アニメでは10回出したというような、数字の問題ではない。

犬夜叉の魅力、戦闘におけるおもしろさって、絶対かなわないような相手に犬夜叉が立ち向かう姿にある。
かごめ、桔梗、そして仲間たちを守るため、犬夜叉は傷ついてもぼろぼろになっても向かっていく。
「もういいよ、もうやめなよ・・・。」
原作を読んでいて何度思ったことか。

そして、そう思った瞬間、犬夜叉が最後の力を振り絞り、敵を倒す。
やった!ってかごめや七宝と一緒に駆け寄りたいほど嬉しくなる、読んでいて。
ところがアニメ。
「もういいよ、もうやめなよ・・・。」と思ってもまだまだ続く。

「えっ、まだ?」と思ってもまだ続く。
やっとのことで決着がついた時は、別の意味で「もういいよ。」とため息をつきたくなる。
ただし、これがスピード重視の戦闘になった時、犬夜叉、鋼牙、神楽、そして20日に再放送されたばかりの影郎丸など、の迫力は原作はアニメに遠く及ばない。
私が一番好きな戦闘シーン、ちょうど今アニマックス再放送でOPがhitomi「I am」だが、その中の短いカット、犬夜叉vs鋼牙。

最高にかっこいい。
そんな私にとって今回の犬夜叉の戦闘シーンはくどくなく、さらっとした感じが嬉しかった。

映画を見ていてデジャヴじゃないけど妙に安定感というか安心感も感じた。
今回はかごめじゃなく桔梗だが、お約束の操られ、すっぽんぽんの桔梗も原作にあるから違和感なく見られるというか、安心して作れるのか?
犬夜叉や殺生丸がそれぞれの相手と戦うところ、七人隊やアニメオリジナル豹猫四天王を思い出させる。
目新しいものがないということが、かえって見やすいというのは自分でも複雑だが、あまりにも奇想天外な展開をされるよりはいいか・・・。

パンフレットで浦島太郎を意識されたと書いてあった。
もうひとつ、「とっとこハム太郎」と「桃太郎(鬼が島)」つながりだったのがとてもいいアイデアだったと思う。
私はほとんど最終日に行ったのだが、ほとんど満席で子供も多く、親子で桃太郎の会話をしているのが聞こえてきたりして微笑ましかった。
全く別のストーリーでありながら、「桃太郎」をリンクさせたことで、違和感なく「ハム太郎」→「犬夜叉」と入り込めたんじゃないかな?

私?私は赤面しつつ見ていた(笑)。
甥っ子と行ったので、すました顔していることができたが、一人だったら出ていただろう(笑)。
ただ小品でありながら、とても丁寧に作られていて好感は持てた。
製作側が「犬夜叉」のみファンを「ハム太郎」の世界に引きずり込むことを狙っていたのなら、ある程度の年齢層ファンに関しては成功したのではないだろうか。

余談だが、私が見に行くアニメ映画は「犬夜叉」「コナン」に「宮崎作品」。
コナンは甥っ子に付き合って見に行くのだが、いつも思うこと。
宮崎映画は別格としても、コナンは犬夜叉より年齢層の高いファンが多いような気がする。
親子連れ以外の、10代20代、30代くらいの男性女性が一人で二人で、グループで来ていることが多い。

私がいつも見に行く新宿に限って言えば、犬夜叉ではそんなタイプのファンは圧倒的に少ない。
私はコナンはサンデーでもざっと目を通す程度だし、さほど好きなわけではないが、アニメや映画はおもしろいなあと思って見てしまう。
思い入れがない分、原作とアニメの違いなんかにこだわらないし、映画もアニメも絵が同じでいいなあとうらやましかった、ずっと。
もっともコナン大好きの甥っ子に言わせると、やはり作画やストーリーに微妙に不満はあるようだが。
そんな甥っ子の夢は少年探偵団の一人になって、コナンと一緒に事件を解決することだった、今はどうかな?

まだまだ感想とも言えない感想が続く予感・・・。
 (2005年2月22日の日記) 
映画「紅蓮の蓬莱島」感想4 〜浦島伝説
犬夜叉映画のタイトルが「紅蓮の蓬莱島」に決まった時、日本にも「蓬莱」があるのだろうか、と疑問に思ったことを前に書いた。
だがこれは大きな間違いで(笑)、日本のどこが蓬莱にあたるのか、それとも日本そのものが蓬莱なのかを疑問に思ったと書くつもりだった。
ざっとおさらいすると、蓬莱伝説は、そもそも中国から見た不老不死の蓬莱、つまり日本を表したもので、徐福がはるばる来日したことなどが記録として残っている。
この疑問に対して、パンフレットでのインタビューの中で脚本を書かれた隅沢克之氏が答えてくださった。

蓬莱島は「浦島太郎」の竜宮城です。
蓬莱山とも呼ばれていたんですが、あと”玉匣(たまくしげ)の箱”なんかのアイデアもそこから取りました。

これが大きなヒントとなって、「丹後半島歴史紀行(浦島太郎伝説探訪)〜瀧音 能行・三舟 隆之著」を取り寄せた。
まずは地図を見てみる。
丹後半島、京都の北側、海側。
「浦島太郎」の元になった「宇良(浦嶋)神社」がある、そしてたくさんの古墳や遺跡、神社。
「百人一首」にも登場する「大江(おほえ)山 いく野の道の 遠(とほ)ければ まだふみもみず 天の橋立 (小式部内侍)」で有名な大江山もある。
もちろん源頼光の鬼退治でも有名。

数々の神話や伝説に彩られた京の地は私にとっても憧れの土地。
これは素敵なテーマを与えてくださったと隅沢氏にこっそり感謝。
しかもさらに浦島伝説の元となる「神仙思想」を辿っていくと、徐福伝説、「三国志」の張角が起こした「黄巾の乱」、さらに「十二国記」でおなじみの「西王母」にまで行き着くではないか。
ここでもしっかり犬夜叉リンク、ありがとう、隅沢さん!

さて「浦島太郎」、簡単に筋を書くと、優しい漁師が子供たちにいじめられている亀を助けたところ、亀は浦島太郎を竜宮城に連れて行ってくれた。
竜宮城には乙姫様がいて、太郎は3年ほど楽しく過ごす。
やがて故郷が恋しくなった太郎が、乙姫様に帰ると言うと、乙姫様は「絶対開けてはならない」玉手箱をくれた。
太郎が帰ってみると、そこはすでに300年がたち、知人も家も何もない。

困った太郎が玉手箱の蓋を開けると、そこから真っ白い煙が流れ出して太郎はたちまちおじいさんになってしまったというなんだか救われない話。
去年「鏡の中の夢幻城」を見て「竹取物語」について調べるまで、私はこういった昔話は自然発生的に生まれたものだと思っていた。
それにしてはあちこちに同じようで違う話が散らばっていたのが気になっていた。
そして去年学んだのが、こういった昔話は古代ほとんど中国より渡ってきた伝説や書物や思想や、そのようなものをモチーフとして生み出されたということだった。

浦島太郎のモデルは「浦島子」という、ここで思い出し笑い。
昔学校で「小野妹子」についての本を読んだ時、この人は女に違いないと信じていた(笑)。
誰かの妹で、女だてらに遣隋使?すごい!って。
今回も危なく同じ過ちを犯すところだった。

この浦島子も大元は古代中国の神仙思想に端を発する。
現在名前はわからないが、馬養という人によって書かれた神仙伝奇小説があったらしい。
原文も残っていないが、この作品を元にして書かれたのが「丹後国風土記」であり、それを開設してくれるのが今回の資料「丹後半島歴史紀行(浦島太郎伝説探訪)」なのである。

この本によると浦島物語はいろいろあって、助けた亀が綺麗な女性に化け、二人は結婚して幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし型から、竜宮で乙姫様と結婚した後、ちょっと実家に帰る感覚で帰ってきて、玉手箱を開けたばかりに、もう乙姫の元に行けなくなった話などがおもしろかった。
ここで出てくる亀は生来中国にて不老不死の象徴であることは以前どこかで書いた記憶がある。
その亀が、浦島子を連れていった場所こそ物語で竜宮城とされているが、「常世の国、不老不死の国、つまり蓬莱」なのである。

また、亀は物語では地味な?普通の亀になっているが、本来は五色の亀とされ、三神山(蓬莱山を含む)を支えていたのもオオウミガメだったとされる、これらも全て中国的思想なのだそうだ。

ところがもう一度じっくり地図を見、本を読んでいるうちにとても驚いたこと。
浦島子を祀ると言われる宇良神社のすぐそば(地図の上では、だから距離感はわからないが、同じ丹後半島上)に新井崎神社があるが、これがなんと「あの」徐福を祀る神社だった。 日本人は不老不死を中国に求め、中国に生きる人は日本に夢見た。
皮肉といえば皮肉だが、生きとし生ける者にとっては時代を越え、地域を越えた共通のテーマであることは間違いない。

そういえばゲーム「三國志IX」でも日本を蓬莱として夢見るような展開が用意されている。
不老不死はともかく、「蓬莱」という言葉にはどこかロマンティックな響きがある。
私は「夢のかなう国」とでも定義づけてみようかな、どんなに望んでもかなわない夢がかなう国、ありえない国、あって欲しくない国として。
ところで映画での「玉匣の箱(つまり玉手箱)」だが、これは「魂を保存?」しておく箱のこと。
よって映画の中で奏が玉匣の箱に封印したのは四闘神の魂だったと言えるかもしれない。

余談になるが、亀を助けるといういいことをした浦島太郎が、最後に悲惨な結果になるという不条理も、元はといえば、さまざまな話の混合だったり変化したりしたことによる結果らしい。
本来彼が行ったのは不老不死の世界。
実家に一時帰宅?した浦島子が持たせられていた玉匣の箱には、浦島子が自分の世界で失った時が入っていた。
だから玉匣の箱を開けてはいけなかったのである、単なるお土産ではない。

それがなぜ竜宮城に変化したかというと、平安時代に流行した「今昔物語集」に、ある若者が蛇を助けてやったところ竜宮で父の竜王がもてなし、おみやげに黄金でできたお餅をくれたという物語が原因らしい。
永遠の命よりも現実の宝物が好まれたせいか、「浦島太郎」は竜宮城に変化し、玉手箱を開けて年老いてしまうところだけがそのまま残ってしまったことになる。
竜宮城なのに乙姫など女性しかいないこと、「竜」なんとか(竜王とか)を名乗る者がいないことも元はといえば浦島子が「不老不死の世界で結婚」したものだったから。

わたしの子供の頃からの謎も解けてすっきりした(笑)。
これも「犬夜叉」のおもしろさである、もちろん。

ただし、今回の映画に限って言えば、次回書く予定の「桃太郎」と共に、「モチーフ」とは言い難いような気がする。
犬夜叉役と桔梗役の声優さんの言葉と、昔話から「言葉を拾っただけ」という感じ。
もちろん「玉匣の箱」の部分、「温羅」から取った四闘神の名前など、それなりに生かしているところはあるが、前回「鏡の中の夢幻城」のように、もっと話の中に入り込んで、その話を生かしてもらえていたら、多くの人が言われる「物足りなさ」も感じないですんだのではないだろうか。

「鏡の中の―」でも残念ながら歌(かぐや姫が求婚者に贈った歌など)がほとんど映画の中で意味をなしていなかったが、すくなくともかぐや姫が求婚者に要求した宝物は映画の中でとてもよくストーリーに絡んでいたと思う。
それだけに今回の「浦島太郎」には期待していたのだが。

次回は「鳴動の釜」と「鬼ヶ島」が関係していると思われる(鳴動の釜と吉備津の釜が関連しているかどうかはわからない)「桃太郎伝説」について書いてみたい。
 (2005年2月26日の日記) 
映画「紅蓮の蓬莱島」感想5 〜桃太郎伝説
昔話から言葉を借りた部分で、一番気に入っているのが、

異国からやってきて暴れまくる鬼神”温羅”を時の政府が吉備津彦命という戦士に征伐させた(パンフレット参照)

説から四闘神に「〜うら(龍羅=りゅうらなど)とネーミングした部分。
当然「温羅」は「うら」と読む。
ちなみに「吉備津彦命」は「きびつひこのみこと」と読む。

私がアニメや映画を見ていて、妙に大人向けだなと思うのは、こういった特別な言葉や名詞にふりがなを振っていないこと。
逆に「竜雷閃」「昇雲の滝」など、公式サイトを見なければ漢字を見ることができない 言葉もあった。
脚本家のインタビューなど大人しか読まないと思われているのかもしれないが、こういった細かい所に気を使っていただければ、好感度も100%以上にアップするんじゃないかなと思うのだが。

特に「犬夜叉」は歴史や伝承に関した言葉、普段見ることのない名前などたくさん借り出してきているのだから。
この吉備津彦命が桃太郎のモデルである。
今回柳田国男著「桃太郎の誕生」を借りてきたが、ざっと眼を通したところ、「桃太郎」やいくつかの昔話との比較で、それはそれでおもしろいのだけど、今回のテーマとは関係ないようである。
何より本があまりに古くて汚くて、持っているだけでアレルギーになりそうなので、こちらは断念。

「吉備」とは広島県東部から兵庫県中央部にかけての地域を指す。
吉備津彦命に退治された鬼「温羅」は当時の大陸からの外来者とされている。
秋田のナマハゲなどと同じように、「見慣れぬ異国人」への恐れの気持ちが鬼へと変貌させていったのだろう。

この温羅は、大きな釜を持っていてこれで人間を煮て食べたとされている。
退治された温羅の首はこの釜の下、地中奥深くに埋められたが首は唸り続けた。
しかしやがて改心した温羅は、釜によって吉兆を占うことを誓い、大きく釜が鳴れば「よい知らせ」、小さかったり鳴らなかったりすると「悪い知らせ」と言われるようになった。
この「鳴釜神事」は今でも吉備津神社にて行われているそうだ。

だから「鬼ヶ島」はともかく「鳴動の釜」も使い方としては微妙で、むしろ昔話と切り離して、鳴動の釜と犬夜叉の迫力を楽しんだ方がいいのかもしれない。
私はあの犬夜叉が釜に飛び込むシーンが、映画の中で一番好きだったりする。

          ☆          ☆          ☆

最後の感想。
私なら大切なキャラであればあるほど、大事な台詞であればあるほどきちんとした声優さんにお願いしたいと思う。
たぶんこう書いただけで、読んでくださる方には十分なのではないだろうか。
もっともこれは「犬夜叉」に限ったことではなく、むしろ人気取り、話題作りのための人気のあるタレントさんの出演、吹き替えが主流となっている今、「犬夜叉」だけに幻滅を感じるのは酷なのかもしれない。

それに何でもかんでも声優さんじゃなきゃ嫌ってわけでもない。
ハム太郎では、台詞を読んでるんじゃなくて普通におしゃべりしてるような自然な感じがあった。
だからたとえ声優さんにはこだわらなくても、やはり実力にはこだわって頂きたいと思う。

もう一つ気になったのが、最初からかごめを当てにする犬夜叉。
犬夜叉というキャラは性格的に「守る」気持ちの強いキャラで、たとえ最終的にはかごめや桔梗の霊力が必要になったとしても、最初から巻き込もうとするようには思えない、それが私の解釈。
「鬼の腹」にヒントを得たのかなあと思って見ていたが、前にも書いたデジャヴにも似た妙に新鮮味のない安定感はこんなところにもあったのかもしれない。
もしかしたらアニメオリジナル、全国行脚の退治屋夫婦と対を成すものとして作り上げられた、動画限定退治屋カップルだったのかもしれないな、とも思ってみたり。

このようにあれこれ感想なり考察なり書いてきたが、やはり「最高におもしろかった」に尽きる。
結論づけると私にとって「紅蓮の蓬莱島」は、(犬夜叉復活を信じることとは別に)犬夜叉映画でありながら、アニメ犬夜叉に対するオマージュだったと言えるのかもしれない。
こうして書きながら思うことは、なまじっか「アニメなりの深み」を出そうとはしないで、もっと単純に、ストレートに作っていたら、アニメ人気はまだ続いていたのかなあということ。
原作のシリアスとアニメオリジナルのお笑いのギャップが大き過ぎて私はどうしても馴染めなかったが、最初から単純な「犬夜叉」だったら、かえって「アニメは別物」として楽しめていたような気がする。
でもそうだったら、アニメに「犬夜叉」の本質を見抜くすごいファンの方々もいらっしゃらなかったかも。
 (2005年2月28日の日記) 
初心に帰ろう
今日は高橋先生と養老氏の対談の感想を書くつもりだったが、養老氏の話の内容はこの本1冊+「バカの壁」+「死者の壁」をもう少し読み込んでから書きたい。
氏の話が漫画の感想に留まらず、他の章でもちょこちょこ出てくること、「死者の壁」と「バカの壁」にも触れていることから、その方が絶対おもしろいと思う。
ただ養老氏と一緒に写っている写真を見て考えたことを書いてみたい。

こっちを向いて微笑んでいる高橋先生、ごくごく普通の女性に見える。
こんな優しそうな女性の頭の中に、あれほどの知識と才能と努力と経験と情熱が一体どれくらい詰まっているんだろう。
同時に「高橋先生の頭のぞき」なんて書いてのけた自分の傲慢さが恥ずかしい。

以前メールで「高橋先生に対して絶対の信頼を持てるえむさんがうらやましい。」と書いて頂いたことがある。
その時、それはちょっと違うとお答えした。
先生がどんな人かなんてことはお会いしたこともないし、こうして見かけるインタビューやコメントでしか伺い知ることはできない。
私が絶対の信頼を向けているのは先生ではなく、「犬夜叉」という作品。

おもしろくないから冷めるとか、マンネリだから離れるとか、そんなことは絶対ない。

そりゃ「ああ今週はおもしろかった。」と思えるものがなければ、気持ちも盛り上がらないし、感想を書くのもしんどいことは認めよう。
けれども先日も書いたように、私はおもしろくなければ高橋先生も苦しんでおられるんだなと思って自分も苦しくなるし、おもしろければ先生のために嬉しい。
今頃初期サンデーの感想を書いてるのも書きたいから、好きだから。

「犬夜叉」という作品のどこにこんなに惹きつけられるのか。
基本は「もののけ」と「戦国時代」、そして「タイムスリップ」。
キャラの魅力、犬夜叉、かごめ、そして桔梗、そして奈落、睡骨、鋼牙、楓・・・。
完全なる正義もなく、完全なる悪もない。
矛盾を抱えこんだ正義であり、矛盾を抱えこんだ悪である。

与えられた運命をがんばって乗り越えていく話、さして珍しいものではないが、そこはキャラの魅力で引っ張る。
さらに魅力なのが古来よりの伝承、伝説を思い起こさせるストーリーや妖怪陣。
年月を重ねて確かにマンネリ、確かに停滞、それで落ち込まされたり悩まされたりするが、それすらも魅力。

それだけじゃない魅力。
世の中にこれだけたくさん男性がいても、結婚するのは(とりあえず)一人。
男性しかり、だろう。
同じように私は、全ての作品の中で「犬夜叉」という作品び惚れ込んだんだと思う。

正直言って私は漫画世代ではないし、これまで素晴らしいと思った映画、本、いくらでもある。
どんなに感動しても、そのためにホームページを作るなんて考えたことはなかった。
私にサイト作りのエネルギーを与えてくれたのが「犬夜叉」。

「今のうちに終わるべき」「最近の展開には失望した」といった書き込みを本当にたくさん見かけた。
その気持ちももちろんわかる。
でもここで初心に帰って言っておこう。
私は「犬夜叉」が好き。

なんでこんなことを書き始めたかというと、某交流掲示板でそんな書き込みを見つけたから。
そこに書き込めと言われるかもしれないが(笑)、書き込んでしまったら今度はそっちのレスに気をとられちゃって自分とこがおろそかになるから。
白状すると、毎日30箇所近くのサイト巡りをしているのでもういっぱいいっぱい。
そちらは遠慮してここに書いているというわけ(笑)。

私がこんなこと書くのもなんだけど、どんな理屈をこねようと、「愛」があれば「犬夜叉」はおもしろい。
つまんなくてもおもしろい、マンネリでもおもしろい。
愛がなくなったら、私はさっさと消えるだろう。
「今のうちに終わるべき」「最近の展開には失望した」とわざわざ書き込むのも、無関心ではいられないからではないだろうか。

いつも「素直に見ろ」と叱られてる私だけど(笑)、これだけは言っておきたい。
なぜ今の「犬夜叉」に怒りや失望を感じるのだろうか。
嫌いなら読まなければいい。
わざわざ読んで怒りをかき立てるその中には、やっぱり「おもしろい犬夜叉でいてほしい」っていう愛があるんじゃないかと思う。

そのことに気づけば少しは楽になるんじゃないかと思う。
今の「犬夜叉」も「犬夜叉」なのだと、もちろん作品に対する意見は批判は必要だろうけど。

私の目標。
「犬夜叉」を最後まで忘れないのはもちろん高橋先生だと思う。
なにしろ生みの親(笑)。
私はその次に「犬夜叉」を忘れないファンでいたいと、思う。
思うだけね?
もっと想いのある方はたくさんいらっしゃると思うから。

先日また、といえば失礼だが「よくもたかが漫画にそこまでのめり込めますね。」とメールが届いた。
そこで「じゃあ、たかが漫画を描かれる高橋先生も、たかが漫画家と思われますか?」とお返事を書いた。

同時に嬉しいメールも届いた。
最近犬夜叉カードにハマった人からで、私が「プレミア物をのぞく全て持ってる」と書いたのを読んでくださって、カードの技などに関する質問のリスト。
今はカードがほとんど入手できないので、持っていないカードは自分で作るのだとか。
こんな人もいるんだよって伝えたい。

いつもはけっこう冷静に書いてるが、今日だけは熱く燃えてみました(笑)。
 (2005年4月1日の日記) 
王子の狐、狐の行列
上京して間もなくの頃、下の妹こえむとご飯を食べようと待ち合わせをした。
ところがこえむは残業が入り、2時間遅れると言う。
仕方がないのでそばにあった西武だったか東武だったか中をぶらついていた。
何しろ上京したて、働き始めでお金がないから買い物もできないし、これからご飯だからコーヒーなんかも飲みたくない。

そこで見つけたのが「江戸百景」展示会だった。
あれは絵葉書だったのか、それくらいの大きさの絵がガラスケースにずらっと並べてある。
「江戸百景」、名前は知っていたが、まとめて見るのは初めてだったし、いい時間つぶしになると展示会場に入り込んだ。

江戸百景とは江戸時代の有名な浮世絵師歌川広重による版画で、江戸と近郊の風景を季節感豊かに切り取ったもの。
それくらいの知識でも、まとめて見ると「あっこれ知ってる。」「テレビで見たことある。」と叫びそうになるほどなじみのある絵ばかりで2時間があっという間に過ぎてしまった。
その中で特に気に入った1枚が「王子装束ゑの木大晦日の狐火」。

薄闇の中、田んぼの中に大きな木(榎)が一本。
その根元に狐が集まり、狐火がゆらゆら揺れている。
遠くには小高い丘が見渡せ、麓に藁葺屋根の家々がひっそりと佇んでいる。

「犬夜叉」なんかもそうだけど昔の田舎、昔の村って山の麓、もしくは小高い丘のそばにあることが多い。
何となく山に対する自然信仰か山の恵み(獣や木の実など?)を得るためなのだろうかと思ってみたり。
以前湯河原に行った時は、「山に守られている」気がしたがそんな部分もあるのかな?

人ももう寝静まったのか家にも灯火は灯っておらず、狐たちの周りだけが仄かに明るい。
狐たちはこの榎の木の下に集まり、衣服を正して関東総社である王子稲荷に参ったという。

他の絵が比較的自然な風景を描いているのに比べ、この絵だけがどこか浮世離れした幽玄の雰囲気を漂わせていたのがとても印象的だった。

あれから数年、 この冬(といってももう5ヶ月たってしまったが)、こえむが久しぶりに帰って来るということで冬休みは私と母、こえむの3人で湯河原に出かけ、年越しは王子の狐の行列を見に行くことにした。
大の大人が子供に帰ってご飯を作ってもらったりのんびり温泉に浸かったり尽きぬお喋りに興じたり。
昔と違うことはお酒があることくらいで(笑)、久々に「親子」に戻った一週間だった。

そして大晦日。
東京には珍しく雪が降り、王子の狐のごとく集まった私たちはひとしきり飲んで食べてこのところ見ることのなかった紅白を見て大騒ぎ。
時間になって、昔よくしたように、母からお賽銭をもらってそれを手の中に握りしめて外へ出た。
空気はきーんと冷たく研ぎ澄まされ、凍った雪がつるつる滑る。
足を取られて転びそうになったこえむが私の腕にしがみつく。

雪国育ちの私たち、雪道の歩き方は慣れてるくせに。
つられて転びそうになりながら茶化すと「この靴じゃ駄目なんだよ。」とふくれて見せる。
ほんとに昔に返ったみたい、つかまれた腕と、胸が暖かい。

ちなみに「狐の行列」とは上記の伝承に沿って狐の化粧や格好をした人たちが王子の街を練り歩くというもの。
残念ながら狐の化粧は予約制なのかしてもらえなかったが、無味乾燥な王子の駅前に少しずつ狐メイクの若者やお面をかぶって羽織袴のお年寄りらしき姿が三々五々集まってくる。
着物姿に狐のメイクで、携帯片手にメールしたり写真撮ってる若者が異様に感じる(笑)。

思ったほどは狐人も集まらず、閑散とした感じだったが、時間になってとりあえず始まった。
先頭切って腰を振り振り歩き始めたのがひょっとこ兄さん。
歩き方がセクシーで(笑)、見物人の笑いを誘っていたが後が続かない。
振り向いてはちょこちょこ戻り、また歩き始めるが誰もついて来ない。
だんだんイライラして来たようで気の毒ではあった。
それでも見物人が増え、狐も増えて行列も盛り上がってくる。

行列について歩道を歩きながら写真を撮っていると、目の前に狐のお嫁さんがやって来た。
恰幅のいい?お嫁さんだが俯き加減で顔を隠し、楚々とした風情とギャップがおかしい。
急いで「写真撮らせてください。」と叫ぶと、そそそとこっちの方にやって来た。
ぱっと顔を上げた瞬間の顔が凄い、厚化粧のおじさんだった。
ひえ〜とカメラごとのけぞってしまい、あせる、あせる。
「すみません、もう一枚撮らせて!」と叫ぶとポーズをとったまま待っててくれる。

絶対楽しんでるな、この人(笑)。
そばで笑いをこらえているお婿さん役の男性がおかしい。
王子稲荷神社の方からも立派な装束に身を包んだ一行が迎えに現れ、挨拶を交わしていたが残念ながら遠くてよく見えなかった。

このまま王子稲荷神社に初詣することにして行列を離れ、赤々と電気の灯る行列道を歩いていくと 道際に屋台や出店がずらっと並び、稲荷寿司、コーヒー、焼きそば、甘酒などを売っていた。
「お寿司食べたい、あったかい甘酒飲みたい。」
気持ちまでも子供に返ってしまうが持っているのはお賽銭だけ。
まさかお賽銭を使うわけにもいかず、お店を見ないようにして王子稲荷神社へ。

境内には時代劇でよく見るような篝火、新年を待っている家族連れやカップル、男の子だけの仲良しグループなどがおしゃべりしたり手を温めあったり。
なんかいいなあ、こういう風景。
新年と同時に誰からともなく「おめでとうございます」と挨拶を交わし、ほかほかのお賽銭を投げ入れて手を合わせる。

今年も良い年になりますように。
はじけるような幸せじゃなくてもいい。
みんなが普通に幸せで、みんなが普通に仲良くできて、そんな年になりますように。

本殿のさらに奥でもお参りを済ませ、狭い急な階段を一人登っていくと今度は小さな小さな祠に「狐の穴」。
落語「王子の狐」の元になったのがこの穴とか。
覗いてみると穴と言っても深さもなく、ここには住めないだろうって笑っちゃうくらい。
けれども電気も薄暗く、下の方にわやわや人はいるけれど、ここはなぜかしんと静かで怖いくらい。
いつもは可愛く感じる狐の人形も今日はちょっと不気味に感じる。
おまけに降りる時に凍った階段で転げ落ちそうになり、新年早々冷やりとしたり(笑)。

帰って来る時、都心のお正月に心がときめいた。
真っ白な雪、灰色の空、いつもはあれだけ大渋滞の靖国通りに人っ子一人、車一台なく、雪の道路に車のタイヤの跡もない。
別世界に迷い込んだような不思議な気分。
「Xファイル」でモルダーが平和を願ったら人間が全て消えてしまうエピソード「三つの願い」や元祖「猿の惑星」を思い出した。
 (2005年5月9日の日記) 
犬夜叉ゲーム「奥義乱舞」感想 1
今日買ったばかりなので、まだ「おまけ」しか見てないところでまず感想。
ハイブリッドムービーの出し方→メニュー画面でR1,L1,△を同時に押し、出た「おまけ」をクリック。)


ハイブリッドの言葉に期待むんむんでやっと買った奥義乱舞。
なにげに神楽と殺生丸を組ませてみたり、珊瑚に爆流破かます犬夜叉にへぇ〜と思いつつ、やはり3D顔には馴染めない。

おまけのハイブリッドムービーとは何のことはない、原作の絵を並べてアニメ終了より夢幻の白夜、竜鱗の鉄砕牙会得までアニ犬その後を解説する動画コミックというかスクリーンセーバーのようなもの。

原作絵に犬夜叉とかごめの解説が入るが、絵的に原作の犬夜叉やかごめとアニメの彼らは別人だと思うので、原作絵に2人の声が入るとすごい違和感。
むしろ普通の声でナレーションのように解説して欲しいなあと思った。
原作絵にアニメの熱さはいらないって、これは私が原作絵が好きだからだろうけど。

こうしてアニメその後を解説することでわかりやすくなったかと言えば、御霊丸や魍魎丸に目が点になったアニメのみファンはすんなり「ああこうなるのか。」と思えるだろう。
(ゲームを買っておまけを見ればの話だが。)
ただこれでまたひとつアニメが遠のく気がする。
相変わらず「犬夜叉」第2部はアニメ以外の全てだなあ。

ただ原作絵がこのようにページをめくらなくても余韻を持って流れていく、その美しさは堪能した、特に「風」。
神楽の最後の笑顔、見つめる殺生丸・・・、だから解説はいらないって・・・(涙)。

「かつての恋人」桔梗発言には首をかしげ、いつからそれが公式設定なったんだ?
作者がどう思おうと、世間の流れは確実に犬かご路線を一直線じゃない?
ただ竜鱗の鉄砕牙に夢幻の白夜、刀々斎まで出てくるとは思わなかったので、それなりに楽しめた。

あちこちでゲーム感想を読んでるととてもおもしろい派と期待はずれ派と両極端に別れているようである。
隠しキャラは「全員出して欲しかったなあ。」だと(笑)。

わたしはどちらかというと格闘系よりシュミレーション系ゲームが好きなので、「奥義乱舞」をどれくらいやり込めるかはわからないが、「カップリングの妙」は楽しめそうだ。
かごめと鋼牙で犬夜叉ぼこぼことかかごめと桔梗で犬夜叉を(以下省略)。

「呪詛の仮面」ほどまだドキドキワクワク感がないので、今日はここまでにしてまた「真・三国無双4」に走る予定。
ちなみに「真・三国無双4 猛将伝」が9月発売予定のニュースが嬉しい。
なお犬夜叉「奥義乱舞」はTSUTAYAゲームランキングにて初登場8位にランクイン(6月13日〜19日)。
これらの情報は後ほど「情報&更新履歴」にアップしておく予定だが、ゲームランキングは変動が激しいので、見られた時に変化している可能性あり。
  (2005年6月25日の日記) 
お岩さんを訪ねて 1 〜四谷怪談
雪国育ちの私は暑さに弱い。
毎年この時期から夏になるとエアコンだシャワーだと水や電気を使いまくるので、光熱費が一気に跳ね上がる。
代謝の悪いのもそのせいだと思うので、今年は一念発起、健康兼節約のためになるべくエアコンを使わず、自然な環境の中で過ごすことにした。
そして一気に体調崩した。

仕事も休んで家にこもっている間、何をしていたかといえば、エアコンがんがんかけてひえびえとした部屋にこもるか、温水プール並みの温度のお風呂で過ごすか。
情けないことに「パソコン&ゲーム禁止令」が出たのでやることがない。
そこでたまっていたビデオやDVDを見たり、本を読んだりしていたのだが、中でも一番おもしろかったのが再読した京極夏彦著「嗤う伊右衛門」だった。
「東海道四谷怪談」を語る上での新解釈だと思って読んだが、最後の部分が横溝正史著「迷路荘の惨劇」の犯人の最後を髣髴させるのには困った。

それはともかく横山泰子さんの書かれた解説で気になったのが

「電車の吊り広告の中で『嗤う伊右衛門』の近刊予告を見た時、たまたま私は『四谷怪談は面白い』なる本を執筆中であった。」

の一文。

私は本がおもしろくても解説がひどいとその本自体が嫌いになるほど解説にこだわる人だが、「四谷怪談は面白い」は早速取り寄せ、読んでみた。
おもしろい、とてもおもしろい。
おもしろいが、私が他の怪談と一線を画して「四谷怪談」で気になる謎には答えて下さらなかった、それが残念。

私が怪談としてではない「四谷怪談」に興味を持つようになったのは、「お岩さん」が実在の人物で、しかも怪談に描かれているような、不幸で恐ろしい女性ではなく、むしろその貞淑さを讃えられるようなごくごく普通の、そして素晴らしい女性であったという記事を新聞で読んだ時。
実在のお岩さんから200年もたってから「四谷怪談」は生まれたが、その時お岩さんの子孫はどのような思いでこの騒ぎを見ていたのだろうか、これが大きな謎だった。
今のように気軽に訴えることもない時代、「四谷怪談」を楽しむ人々の、現実と仮想がごっちゃになった恐怖と哀れみの視線を注がれたことはなかったのだろうか。

「思い立ったが吉日」とは私のためにあるような言葉で、この本を読み終わった翌日、久々におかゆと梅干を口にし、エアコンの使いすぎでかさかさの顔にファンデーションを塗りたくって?買ったばかりのデジカメと地図を手に飛び出した。
雨こそ降らないものの、梅雨特有の陰鬱な曇り空でねっとりした湿気の固まりに包まれてるような不快な気分。
さらに先に書いておくと、この日は一日で13回電車を乗り換え、13人の人に道を聞いたという難儀な一日だった。

最初に着いたのは四谷にある「於岩稲荷田宮神社」。
歌舞伎や映画などで「四谷怪談」を演じる時に、こぞって参詣に訪れるという、そうしなければ祟りに合うといういわくつきの神社だが、その実態は、また後で書くことにする。
稲荷神社というだけに赤い鳥居を予想してたら、普通の鳥居。
(なぜかこの日撮った写真はほとんど右肩下がりで曲がってました、姿勢が悪いのかなあ・・・。)

ところが一歩狭い境内に踏み込むと、右手に可愛いお稲荷さんが。

実はこの神社はお岩さんが嫁いだ田宮家の敷地跡に立っている。
そして神社の奥には普通のお宅があって、そこには「田宮家」の子孫が住んでいらっしゃるのだ。
田宮家に嫁いだお岩さんは、田宮家に代々伝わる邸内の稲荷を厚く祀って敬っていたとされる。
それがこの小さな稲荷だろうか。

そんなことを考えながら、境内をうろうろしていると、小さな本殿から朗々とした声でなにやら話しているのが聞こえてきた。
思わず立ち止まって耳を澄ますと、どうやら宮司さんがこの神社の由来などを誰かに語って聞かせているらしい。
本殿の小さな階段の下にはきちんと揃えられた履き古した靴が一足、雑誌か何かの取材だろうか。
おりよく?降り出した雨に心に言い訳しながら?(傘を持ってきていなかった)、私も外で便乗してお話を聞くことにした。

もっとも宮司さんは、私がいることをちゃんとご存知だったらしい、立ち聞きみたいでどきどきしていたのでほっとした。

その内容は後で書くが、話を聞きながら雨よけにもならない狭いひさしの下で置かれている資料など読んでいると、ふと目についたのが「成田剣」の文字。
「えっ?成田剣さん?」とあわてて気を入れて読むとなんのことはないやはり「四谷怪談」作者鶴屋南北の「法懸松成田利剣」の文字だった。
(ちゃんとあるでしょ?成、田、剣の文字。)
こんなところで笑うわけにはいかないが、お岩神社で殺生丸に会えるとは。

この「法懸松成田利剣」、やはり「四谷怪談」同様祟り物だが、通称「累」とか。
夏になるとスカパーなどで放映される古い怪談で「四谷怪談」などと同時に流れる「累ヶ淵」と関係あるのかな?
ついでに幽霊のお岩の言葉に

「うらめしい
 ともにならくへ」

と伊右衛門に迫る台詞があって、ここでは声を殺して笑ってしまった。
ならく、奈落だ。

ところでこの田宮家の紋は面白い。
「右二つ巴」と呼ばれるが、これを始めて見た時、私は林正英(ラム・チェンイン)の「霊幻導士」シリーズを思い出してしまった。
不謹慎かもしれないが、中国版ゾンビキョんシーと戦う道士の背中に確かこんなマークが。

よくよく見ると、田宮家の「右二つ巴」と見られる家紋、中に それぞれ小さな丸が見られる。
(この写真はお岩さんのお墓がある妙行寺で撮ったもの。)

これこそ陰陽思想の「大極図」で「霊幻道士」のシンボルとなっていた方のマークである。
ちなみに「巴」とは国語辞典によると「水がわいて外へ回る形の図案」とある。
簡単に言うと水の流れ、渦巻く状態を表している。
それが何を意味するのかは残念ながらわからない。

ただ妙行寺でお話を聞いた女性によると、サーフィンなどする若者もこのマークのついたTシャツを着ているようですよ、とのこと。
水難よけのお守りになるのかな?これもよくわからない。

一方「大極図」は陰陽思想によるもので全ての物は陰陽の二気によって生じ、五行(木火土金水)によって形成されるとする。
また日と月、天と地といった対を成すものを陰陽に当てる。
この巴と大極図の家紋の意味するところは、自分でも言葉だけでさっぱりわからないのだが、「陰陽師」にもつながる興味深いテーマではある。

おもしろいのが妙行寺では「赤穂浪士」で有名な浅野内匠頭の浅野家のお墓がセットになっていたこと。
この質問もお寺の女性に聞いてみたのだが、この話も後で書く。
お話を聞いていくとこの二つの物語の関連が少しずつ見えてくる。
鶴屋南北が蠢く江戸時代の娯楽模様、私の中でどんどん興味が湧いてきた。
 
 (2005年7月5日の日記) 
忘れて眠れ−1
先日ある方から「炎トリッパー」は時々引き合いに出すのに、どうして「忘れて眠れ」に関する記述がないのでしょうかという質問を頂いた。
お答えする意味で今回のテーマとしてみたい。
最初に私の高橋作品履歴を並べてみたい。

私が最初に出会ったのが「犬夜叉」で、それがそのまま高橋作品との出会いだったことは何度か書いた。
この後「めぞん一刻」「人魚」シリーズは全部読んだし、アニメも全部見た。
「らんま1/2」は本は数冊読んでアニメはたぶんほとんど見ている。
「うる星やつら」は本は1冊読みかけてやめ、アニメもテレビをつけた時やっていれば見る程度。

「高橋留美子劇場」はたぶん全部読んだと思う、アニメもいくつか見たと思う。
先に「犬夜叉」を読んでからは「うる星やつら」など初期の絵に馴染めず、むしろ私は「犬夜叉」のみファンなのかあ、「うる星やつら」の頃から知りたかったなあと悔しかったほど。
また「戦国時代」「もののけ」「タイムスリップ」「不老不死」といった興味のあるキーワードを「犬夜叉」が持っていたことも特に惹かれた要因だっただろう。
「めぞん一刻」はむしろ異質で、特に後半の音無響子というキャラで読んだし、「らんま」では主役の2人(乱馬とあかね)よりもかすみと良牙が好きだった。

そんな私にとって「犬夜叉」以外の作品で特に衝撃的だったのは人魚シリーズと「炎トリッパー」だったと思う。
人魚シリーズでは、漠然と古来より人間が憧れ続けてきた不老不死が現実にあったらこんな形になるとは、と愕然としたことを覚えている。
不老不死といえば漢の武帝や秦の始皇帝が求めたことで有名だが、彼らの望む不老不死とは一体なんだったのだろう。

以前も書いた記憶があるが、もう一度まとめてみよう。
仮に今この瞬間、世界が不老不死になったらどうだろう。
病気の人はもしかしたら瞬時に治るかもしれない、でも年老いた人は若返りはしないだろう。
年老いたままそれから1秒たりとも老いることもなく、老人のまま生き続けるだろう。

生まれることもある意味老いることである。
ならばこの地球上にただ一人も生まれることもなく、ただ一人も死ぬこともなく今生きている人だけが永遠に生き続けることになるだろう。
それは異常な世界だ。

武帝が求めた不老不死はそうではあるまい。
自分と自分の愛する者達、自分と親しい者たちのみの不老不死だろう。
たとえば薬のような物で、自分が好きな人に与えるといった風に。
そんな漠然とした意識はあったが、それを現実のものとして引きおろして描いて見せた「人魚」シリーズの衝撃は大きかった。

愛する者だけがいつまでも若さを保ち、その前で自分が老いていく苦悩。
普通の人間の目にはむしろグロテスクにさえ見えてしまうその姿。
主人公にとって不老不死は苦悩でしかなく、その孤独、虚無感は大きかった。
もちろん真魚と出会ってから湧太の物語は始まるのだが、私にとって人魚シリーズはただ一人(この時点で)の不老不死の人間、湧太との出会いが全てだった。

もうひとつ興味深い不老不死の物語がある。
「十二国記」、限りある不老不死の物語である。
詳しい内容は省くが、この世界では天が王を選ぶ。
王として立った瞬間から、普通の人間は不老不死となる。

天が王にふさわしいと認めた人間だから、その王位は永遠に続くと思われそうだが、そこは出自が人間だし神の如き完璧な性格に変化するわけでもない。
王が王たるにふさわしくないと天が判断すれば、王は死を迎えることになる。
王である限りは不老不死、王を辞めれば死。
現在物語で一番長く続いている現王朝でも奏の六百年。

王が選ぶ家臣も不老不死にすることができるが、こちらは普通の人間に戻ることができる。
「人魚シリーズ」の湧太と「十二国記」の王。
この2つの不老不死の物語ともうひとつ、武帝が求め、「竹取物語」などを通して脈々と受け継がれてきた不老不死の歴史にとても興味がある。
「人魚」シリーズがなかったらここまで「犬夜叉」にのめり込んだかどうか正直わからない。

私の興味は作品よりも、むしろ「犬夜叉」と「人魚シリーズ」を通した高橋先生への興味なのだと思う。
そしてもうひとつ「炎トリッパー」と合わせて私の高橋作品ベスト3となる。
ではなぜ「忘れて―」に対してそれほど強烈な印象を持てなかったのか。
実は自分でもよくわからないのだが、今回は長すぎる前置きとして次回を本題としたい。
 (2005年5月2日の日記) 
忘れて眠れ−2
「忘れて眠れ」は「高橋留美子傑作短編集 2」に掲載されている。
第1話が「炎(ファイヤー)トリッパー」で第8話「忘れて眠れ」も入れて全9話。
4話がコメディ(ってまとめていいのかな?)、1話が猫にまつわるエッセイのようなもの、そして4話がシリアス物、というよりむしろホラーと言っていいのかもしれない。
初めて読んだのは人から借りてだったが、何しろ表紙も「炎トリッパー」、開いてすぐ1話目が「炎トリッパー」、しかもカラーつき、だ、印象が強い。

でもそれだけじゃなく「タイムスリップ」「戦国時代」というテーマに大きく惹かれた。
涼子(すずこ)はごく普通の生活を送っている女子高生。
ただ両親が本当の親ではなく、子供の頃鈴を身につけたまま倒れているところを保護されている。

隣に住む盲腸の手術をしたばかりの幼い周平と共に家に帰る途中、ガス爆発に巻き込まれる。
そして目覚めた涼子が見たものは、戦国時代の戦場だった。

最初におもしろいなあと思ったことは、戦国時代ですずと涼子が出会うこと。
すずは涼子自身であり、本来ならば大きなタイムパラドックスが生まれるはずだが、作者はあえて触れない。
そして涼子が出会うのはもう一人16歳の宿丸。
激しくネタバレしてしまうのだが、この宿丸こそが周平で、2人はタイムスリップした時点で離ればなれになり、周平は幼い子供の状態で涼子より前の時代に飛ばされる。

そこで宿丸として育てられ、16歳になった時に17歳のままの涼子が飛ばされてきたことになる。
タイトルが「炎トリッパー」だが、涼子は「タイムスリップ」と位置づけているところがおもしろい。
涼子も周平も時を旅した者、けれど涼子の中では飛ばされてしまった者としての認識か。

最初は戦国時代に馴染めず(当然だ)、頑なに心を閉ざす涼子であるが、宿丸のぶっきらぼうな優しさに触れ、少しずつ惹かれるようになる。
しかし2人のいる村は戦闘に巻き込まれ、まずすずが、そして涼子と宿丸が再びタイムスリップをしてしまう。
すずは幼い涼子として現代で生き始める(成長して涼子となる)。
涼子と宿丸は戦国時代のまま16歳と17歳のままで現代に「戻ってくる」。

宿丸の傷の手当てをする涼子が遂に宿丸=周平であることを知る。
そして涼子も戦国時代に生きる者であることも。
さらに2人が戻ったのは運命のガス爆発が起こった日。
涼子と宿丸は戦国時代に戻るべく、あの日と同じ場所に向かった。

ガスタンクのそばでくちづけを交わす2人、向こうからは何も知らない鈴子自身と幼い周平がやって来る。
そして爆発の瞬間、2人は帰って行った、自分たちの時代へと。
ではこの瞬間同時に巻き込まれたもう一人の涼子と幼い周平はどうなったのだろうか。
周平は再び宿丸の義父の元へ、涼子は涼子の義父母の元へと戻っていくのだろうか。

永遠に続く答えの出ないタイムスリップ。
涼子がすずであり、すずが涼子である。
周平が宿丸であり、宿丸が周平である。
この2つのタイムスリップが戦国時代で出会って離れて再び出会う、その入り組んだおもしろさには魅了されてしまった。

私が持っている版での13ページ、涼子が爆発に巻き込まれる直前のカットで、涼子たちとすれ違うサラリーマンの
「きょーびの(近頃の)ガキはよー」
「なんなんだ ありゃー」
あの会話が最後の涼子と宿丸のくちづけを指したものであることは想像に難くない。

涼子の鈴と周平の盲腸の傷が導く恋人たち、怯えながらも戦国時代で生き抜く決意をした涼子が清々しい。
特に「犬夜叉」を読んでから「炎トリッパー」を読んで、ヒロインのかごめと涼子との比較が興味深かったことを覚えている。
実は最初に「犬夜叉」を見た時、あまりに場慣れした感じのかごめに嘘っぽさを感じたので(この時点では)、その後「炎トリッパー」を読んで高橋先生があえてかごめをあのように設定したことを知り、納得した次第。

次回こそ「忘れて眠れ」に関して書きたい。
最後に私の気のせいか、最終ページで涼子が長持ちの底にセーラー服をしまうカットがあったような気がするのだが、今回買った本にはついてなかった。
普通人涼子ならではの決意を感じてとても好きなシーンなのだが、あれって私が心の中で描いたカットなのだろうか。

今回考察するにあたってWikipediaで調べてみたら、OVA化されていたそう、見てみたい。
製作は「十二国記」と同じスタジオぴえろですずと涼子の二役?はナウシカ&響子さんの島本須美さん、宿丸は水島裕さん、周平は竜之介の田中真弓さん、おお!「戦国BASARA」の武田信玄玄田哲章さんも出演されている、何の役だろ・・・?
 (2005年5月10日の日記) 

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