犬夜叉考察 24
犬夜叉〜あれから
原作少年サンデー2013年2月6日(10号)「犬夜叉」特別編「あれから」

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まるでこれまでずっと「犬夜叉」が続いてきたような、これからもずっと「犬夜叉」が続いて行くような、淡々とした気負いのない物語だった。
「もうすぐ半年が過ぎようとしている」
この一文で、一気にあの頃に引き戻された。
ああかごめ、綺麗だ・・・。

そして物語が始まるが、そこから先は前述した通りあきれるほどにいつも通り。
珊瑚がおんぶしてる女の子かな?がさすがに半年で大きくなったのと、りんがちょっと大人っぽくなった感じ。
あと楓大活躍がしみじみ嬉しい。
琥珀が出てくる殺生丸が出てくる、そして愛しの邪見が出てくる、もうたまらない。

久々の「本物の」妖怪。
いつもだったら普通に雑魚だが、今回はこれで引っぱる、その引っぱり方が見事。
それからコミック56巻196ページ、井戸から戻って来たかごめの手を犬夜叉が取る場面が描き直されて、一層美しい場面になっている。
これがあるからサンデー表紙が描き下ろしじゃないことが不満にならない。

ただし全く不満がないかというとそうでもない。
不満は3つ。

ひとつめ、桔梗の扱い。 半年後なら、まだ彼らの中で桔梗は完全に昇華されていないのかもしれないが、私たちが読めるのはただ一話限り。
ならば桔梗の記憶はもう優しい想い出として描いてあげて欲しかった。
未だに桔梗が絡むとぎこちなくなる展開、なんだか桔梗が可哀想だ。

ふたつめ、鋼牙が出ない(涙)。
「犬夜叉」が終わってしばらくしてパソコン壊れた。
新しく買ったパソコンに「鋼牙」が登録してなかったことに今気がついた。
私、そんなに長い間鋼牙について書いてなかったのか・・・。
まあ鋼牙が出ないと嘆くのはわがままだってわかってはいるけどさ。
欲を言えば奈落や神楽たちも見たかった。

みっつめ、やっぱり短すぎる。
ページ数増やしてせめて前後編にして欲しかった。
楽しかったけどまだまだ足りない。

さて内容。
今回の妖怪は「根の首」。
人間を襲って首だけ持ち去っている。
妖怪退治に赴いたのは犬夜叉と弥勒だけ。
こんなところに時の流れを感じる。

弥勒はお札、犬夜叉は鉄砕牙、いつもの連携。
退治するのは簡単だったが、この問題、根が深い(笑)。

笑えるのが殺生丸。
「とるに足らぬ雑魚妖怪だ。
ただ、しつこい。」

殺生丸が向かった先はりんのいる村、つまり楓の村。
何のために?りんを守るため。
そこまではいいのだが、りんがいる珊瑚の家の屋根の上に仁王立ちしてるだけって言うのがかなり笑える。
「つっ立ってるだけなら手伝ってくれんかのう。」の七宝と邪見の漫才にも笑う。

話を戻して、この根の首はかつて四魂の玉を狙って桔梗に封印された妖怪。
桔梗が塚に破魔の矢で封印したのだが、山崩れで塚が壊れ、逃げ出したらしい。
根の首は桔梗が死んで四魂の玉が消滅したことを知らないので、再び楓の村を襲いに来たのだ。
雑魚妖怪でも四魂の玉の気配はみんな感じてたから、今はもうないってこともわかりそうなもんだという突っ込みはなしにしてっと。

弥勒と犬夜叉は壊れた塚の跡を見に行って、桔梗の破魔の矢を見つけたはずなのだが、その場面は省略されている。
2人が塚の跡で見つけたことが前提で楓の説明が入るのだが、なんでこんなわかりづらくしたのだろう。
最初にページ数ありきというより後で削ったような不自然さ、気になる。

彼らが桔梗の話をするためにかごめとりんを珊瑚の家に行かせたのだが、そこにかごめを桔梗と勘違いした根の首が襲ってくるのだ。
おかげでりんを守った殺生丸は、ついでに珊瑚たちも守ったことに(笑)。
久々にかごめに化けた七宝、珊瑚に子守を頼まれる琥珀など、シリアスの中の笑いどころも健在で、さらに楓の破魔の矢発動とてんこ盛りのサービス。
楓ファンとしては嬉しくてたまらない。

最後の犬夜叉とかごめの見事な連携、そして決め台詞。
「教えておくわ。私はかごめよ!」
「ついでに言っておくがなあ、四魂の玉なんて・・・もうこの世にねえんだ バカたれがあっ!」

後半絵がどんどん変わって来たのは残念だったが、さすがに手慣れた感じでまとめあげたなあというのが率直な感想。
できれば「高橋留美子劇場」みたいに1年に1回くらい犬夜叉たちのその後を1話ずつでも見せて欲しい。
作り手としての高橋先生はそんなこと望んでいないだろうけれど。

ちなみに今回の読切は8人8作品のチャリティーコミックスの他にワイド版最終巻30巻にも収録予定とか。
残念ながら新規カラーはなかったが、読めただけでも十分幸せ。
(2013年2月6日の日記)
私のスカイ〜私とスカ井さん
「年に一度の高橋留美子劇場 本日開幕!」の鳴り物入りで今日の朝日新聞に広告がカラー掲載されていた「私のスカイ」。
私この話、これまで読んだ「高橋留美子劇場」の中で一番好きかも。

よくあるテーマ、よくあるキャラ設定、よくある展開なのに笑いながら、じんわりしながら読み切った。
なんといってもスカイが可愛い。
死んでしまった老犬スカイ、ところが飼い主の中年男性(名字が犬飼さん!)の元に、なぜか背広姿の老人の姿で現れる、もちろん霊。
つぶらな瞳、ふさふさの眉毛、しわしわの口元、曲がった背中も愛らしい。

犬飼さんが定年退職をした翌日死んだスカイ、寂しそうだった犬飼さんが次のページで「・・・ていうか、誰なんだ、これ」でまず吹き出す。
「透けてるし・・・」でさらに笑い、「なんで人の姿!?」「わかりかねます。」のとぼけた会話にもう爆笑。
「呼び捨てするのもはばかられる老けっぷり。
敬老の意をこめてスカ井さんと呼びたいくらいだ。」だって(笑)。

このコンビに絡んでくるのが向かいのアパートの夏川さん。
ゴミ捨てマナーを守らない悪そうな男と派手な女。
犬飼さんを守ろうと男を「はむはむ」するスカ井さんがたまらない。

でもここから話がだんだんシリアスになってくる。
夏川さんは息子一人のシングルマザー、見かけは派手だけど健気にがんばって悠斗を育てている。
その父親がとんでもない男で、暴力振るうわ夏川さんのお金を盗るわと絵に描いたようなヒモっぷり。
虐げられている悠斗にはスカ井さんの姿が見えるらしい。
余談だが20ページのレジ打ちしている夏川さんのヘアピンが目に見えて仕方がないのは私だけだろうか。
ちょっとりんねを思い出した。

追いつめられた夏川さんは、息子を守ろうと遂に立ち上がった。
が、ここまでやるかと(やらせるかと)正直びっくりした。
前半あまりにほのぼのしてたせいか、いきなりの切り替えに突き抜け過ぎじゃないかと思ったくらい。
笑いの中に社会風刺をちらりと見せるのが高橋先生の得意技だが、この漫画でここまでやっちゃって、何事もなかったかのように収まるのはちょっと居心地が悪い。

ちょっとだけ。
そう、爪がちょっと欠けて、チッと服に一瞬引っかかったような、その程度のことだけど。
実は「犬夜叉」の「あれから」の桔梗の扱いにも感じた居心地の悪さ。

それはともかく、嫌な男を追い出して夏川さんは大事な息子と2人だけの生活を取り戻す。
幸せになった悠斗に、もうスカ井さんの姿は見えない。
そして次は犬飼さんの番。
犬飼さんとスカ井さんにも本当の別れの時が来た。

じわっとした寂しさの中に、リードを取り出して、「さ、思う存分私とお散歩を。」のスカ井さんにまた笑う。
「リードは結構。ヘンな感じになりますし。」
「雰囲気が出ますのに・・・」
いえ変ですから(笑)。

思う存分散歩して、スカ井さんは空に消えてしまった。
「時間ができたら(定年退職したら)もっと可愛がってやろう。二人でいとんな所に行ってみよう。」
犬飼さんとスカイの約束。
犬飼さんにとっても楽しみにしていたことだった。

その約束を果たすために戻って来たスカイ。
月並みだけど、いい話だった。
私の中でこの作品のタイトルは、「私とスカ井さん」に変換された。
(2013年3月5日の日記)
宿題〜「めぞん一刻」と「こころ」 1
先日「ビブリア古書堂の事件手帖」を読んだ。
本の感想は別のところで書くとして、第1話のテーマが夏目漱石であることで、ふと自分に課した宿題を思い出した。
それが「めぞん一刻」と「こころ」を宮川健郎氏が比較した本を読むこと。
ずっと気になっていたのだが、この本は東京都内の公立図書館にはなく、唯一あるのが国立国会図書館。

となると一日がかりになる(他にもここならではの本がたくさんある)ので、つい先延ばしにしていたのだが、「ビブリア古書堂ー」が背中を押してくれたおかげで久しぶりに行って来た。
「総力討論 漱石の『こゝろ』」は小森陽一、中村三春、そして宮川健郎三氏によるシンポジウムの記録とこれを補う研究会の記録である。
私はこの本を狐(山村修)著「水曜日は狐の書評」で知った。
狐氏が紹介する本そのものより書評の方がおもしろいと噂のあの本である。

ところが実際に読み始めてみると難しい。
一人一人が自分なりの「こころ」を語り、それがややこしくやたら哲学的な上に、次の章ではその反論が載ったりするから、正直「こころ」を「本の一冊、物語のひとつ」としか捉えていなかった私は完全に混乱。
なにしろ一文読むたびに「えっ、そうなの?あの文章にそんな意味あるの(深読みするの?)」とうろたえて「こころ」を読み返す始末。
まるで「こころ」が辞書になってしまったよう、収拾つかず結局買う羽目に。

私は「こころ」を小学生の時に読んでいる。
良い本は子供のうちに読ませよう、人生の糧となるなどとよく言われるが、私は残念ながら例外だった。
本はとにかく読んだ。
子供用の(少年少女なんたらかんたら)本はわかりやすく、感情移入しやすく、得るものも大きかったが、親の書棚にあった大人用の本(漱石、太宰、トルストイその他)は全く身にならなかった(笑)。

「こころ」にしても私の心には「読んだという記憶」と「あらすじという記録」しか残ってない。
なまじっか子供の頃に読んだだけに大人になってから読まない、というもったいないことになる。
あるいは私に読解力、豊かな感性といったものが決定的に欠けていたのかもしれない、未だにそうだし。
ただ子供なりに不思議に思ったことは、前半の「私」が「先生」と呼んでいた人物が後半「私」に変わり、物語を語り始めるのがややこしいなあ、なんでこんなめんどくさいことしたんだろうということ。

「こころ」の根底に関わる大事な要素をめんどくさいと片づける、我ながら怖いもの知らずというかなんというか・・・。
まあ感想はおかしいけれど、そこに目をつけたということは少しは「こころ」を理解できていたのかもしれない。

いま読み返しても「こころ」は、論文を書きたくなるほど、人生が変わるほど影響を受ける作品ではない。
良い本なのだとは思う。
「私(前半)」の生き方、家族、故郷との関わり、敬愛する人との関係など身につまされる部分はあるけれど、トータルで見るとよくわからない。
けれど総力討論の24ページの押野武志氏の文章を読んで、もしかしたら私は「こころ」に登場する「奥さん」に一番近いのではないかと思うに至った。

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また、「私」に対して奥さんは「人間は親友を一人亡くした丈で、そんなに変化できるものでせうか。」と述べています。
つまり、奥さんは親友が一人死んだだけで人はそう変わるものではないと思っている人なのです。

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ここだけ取り上げれば奥さんが非情の人のような身も蓋もない言い方になるが、もちろんそうではなく、奥さんはある意味現実的というか地に足据えて生きる人なのではないかと思う。
そして女性、というくくりでは測れないだろうが、「こころ」の二人の「私」に通じる、いわゆる「ロマンチズム」は日一日をいかに生きるかに心砕くタイプの人間には少し遠く感じる。
私は最初これは「こころ」が書かれた明治の時代の青春の象徴と捉えたのだが、今もなお「こころ」が強く支持されているのは、表だって見えないだけで、「こころ」を愛する人たちの心には、今なおこの豊かで素朴で純粋な感情があるんだろうなと思う。
残念ながら私にはないが・・・。

上記の引用には次のような文章が続く。

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ロマン主義的に恋愛しなければ先生のように苦悩する必要はなく、罪意識を抱く必要はないと言えます。
奥さんという共通のコードを有していない「他者」に対する不安、漱石はこの不安を決して隠蔽せず、というよりも、隠蔽しようとして隠蔽しきれなかったという方が正確でしょうか、少なくとも奥さんの「他者性」に触れていると思います。

          ☆           ☆           ☆          

押野氏が言いたいことのメインはここではないのだが、ここを読んで私は二人の「私」のロマンチズムから蚊帳の外に置かれた奥さんこそが一番身近に感じられ、ある意味被害者でもあるのではないかと思った。
二人の男性に愛されたはいいが、本人のあずかり知らぬところで起こったせめぎ合いに負けた一人Kが自殺する。
そのこと自体は奥さんに大きな傷は残していないが(自分が原因とは知らない)、勝者であり、自分が結婚したはずの「先生」が今度は抜け駆けしてKを自殺に追いやった罪の意識に苛まれ、奥さんの知る「先生」ではなくなってしまう。
挙げ句の果てに「先生」は「私」に遺書を残して自殺である。
「こころ」は先生の遺書で終わっているから、この後奥さんが先生の自殺の原因を知る(遺書を見る)のか、その後どうなるのかは触れていない。

私は奥さんにとっては青天の霹靂であり、理解し難い暴挙ではなかったのかと思う。
死に至る時、「先生」の脳裏に奥さんは存在していただろうか。
残された者のことを考えたら、と考え始める私は限りなく現実的な人間で、だからこそ「こころ」の二人の「私」が理解できないのかもしれない。
男性=ロマン主義、女性=現実的と決めつけるわけではないが、このシンポジウム、是非女性にも参加して欲しかったと思う。
(2013年4月15日の日記)
高橋先生インタビュー!
コミックナタリー」の高橋先生の画業35周年記念インタビューを読みました。
これって6月18日発売の「るーみっくわーるど35〜SHOW TIME&ALL STAR〜」にそのままのっけてもいいくらい濃密な内容で歓喜しています。
早速プリントアウトしてファイリング、電車の中で読みました。
思わずにやにやしてしまう部分もあったりして、怪しい人に見えたかも(笑)。

高橋先生ほどキャリアが長いとこういったイベントで舞い上がって大騒ぎする時期はとっくに過ぎてるんだろうなあって気がします。
何度か書きましたが、周りが騒ぐほどご自身は興奮してない。
35周年も漫画家人生の中の一日に過ぎないと、ある意味達観しているような雰囲気を感じました。
もちろん喜んでいないというのではなく、これまでの漫画人生を認められたという喜びは当然感じているのでしょうが。

「登場人物にはみんなハッピーであってほしい」には、思わず奈落が頭に浮かびました。
あれだけ残虐の限りを尽くしたわりには穏やかな最後でしたよね。
他にも人魚シリーズなどいろんなヒールキャラが登場しましたが、その死に様はともかく本人が納得して死んでいったという意味では確かに幸せだったのかも。

私は「犬夜叉」からの新参者なので、「うる星やつら」「らんま1/2」「めぞん一刻」などに関するコメントは知らないものが多く、おおっ!と思うことが多かったです。
ラムが最初はすぐに消えるゲストキャラに過ぎなかったとか、竜之介のおかげで話が動くようになったとか。
私は「うる星やつら」は普通におもしろい漫画という感じでそれほど思い入れはなく、竜之介やしのぶ(最初はヒロイン予定だった)はむしろ印象に残らなかったので、このコメントはすごく驚きました。
たぶん私はハチャメチャなギャグコメディよりも、ストーリー性の高い作品の方が好きなのかもしれません。

そこに「戦国時代」「妖怪」のキーワードが入ってくれば、やはりベストは「犬夜叉」になってくるわけです。
「めぞん一刻」も最初は普通に読んでたのですが、五代君と響子さんの恋が打ち出されるようになってから本腰を入れて読み始めたように思います。
そして「人魚」シリーズの暗さ切なさ厳しさ、真魚の登場で見えてきた希望の光、そして「不老不死」、この三作品が私の中のベストです。

高橋先生が子供の頃大好きだった漫画、影響を受けた漫画もいくつか紹介されています。
「おそ松くん」とか「おばけのQ太郎」とか知っていても見たことない、「デビルマン」とか絵が苦手で読んだことない、そんな作品ばかりでした(汗)。
ただ高橋先生の描く女性像は体が自然で綺麗だなあとは昔から思ってました、なのにセクシー。
サンデーは少年漫画雑誌なので、胸が強調されたり、かなりきわどい描写が売りの作品も多いですが、るーみっくきゃらはごく自然、なのに素敵。

女性に好かれる女の子キャラを上手に描くのは女性漫画家ゆえでしょうか。
あっ、ラムの名前が「アグネス・ラム」からとったというのは初めて知りました。

あと笑ったのが、「犬夜叉のときちょっと調べたんですけど、日本の妖怪ってけっこうのどかなんですよ。」のコメント。
「人を食べちゃったりしないの(笑)」だって。
そういえばそうなのかな・・・?
だからもっとおどろおどろしい妖怪を描きたかった高橋先生は、「犬夜叉」の妖怪はほとんどオリジナルだったそうです。

それなりにモデルはいたんでしょうね。
雷獣とか姑獲鳥とか。
それにオリジナルの要素を加えて「犬夜叉」の妖怪に仕立て上げて行く、魅力的でした。
初期はゲスト妖怪(百足上臈や屍舞烏はともかく逆髪の結羅以降)、後期は人間ぽい妖怪ばかりのメロドラマみたいになってしまって妖怪という意味での魅力は感じられませんでしたが、初期はとにかく物語のスピード感と相まって本当におもしろかったです。

「るーみっく」という言葉はファンによって名づけられて、それが公式になったのだとばかり思ってました。
でも「うる星やつら」の時の担当編集さんが作った言葉だそうです。
もうひとつ、殴られた時に「両手の中指と薬指を曲げたポーズでやられる」のは、痛そうに見えない、深刻にならない、ポーズをとる余裕があるといった「大丈夫」感を見せるためだそうです。
「うる星やつら」の頃から使ってたそうで、しかもその形には「I LOVE YOU」の意味もあるとか(笑)。
(もちろんその意味は知らなかったそうです。)

擬音で有名な「ちゅどーん!」は先生の発明じゃなく、「うる星やつら」当時に」同時連載されていた他の漫画にあったのを真似たらしいです。
いろんな歴史があるんですねえ、はあ・・・。
私も高橋先生のデビュー当時からのファンでありたかったなあ。
でも「犬夜叉」から入ったからこそ「犬夜叉」への思い入れが一番強いことを考えると、うん、これで良かったのかも。

声優さんに関しては、乱馬とらんまが最初は女性声優さん一人で演じ分けるはずだったのが先生が別々の声優さんを使うように提案したとか。
確かに乱馬→犬夜叉につながる山口勝平さんの演技はぴったりでしたね。
あと、たしか弥勒の辻谷耕史さんも高橋先生の要望だったと辻谷さんがブログに書いていました。
桔梗の日高のり子さんはかごめのオーディションを受けに行って桔梗に決まったってこれもどこかで読みました。

でもあたるは初めて見た時「変な声」なんて思ってしまってごめんなさい。
古川登志夫さんと言えば大御所も大御所、高橋先生も「白バイ野郎ジョン&パンチ」ファンだったので嬉しかったとのこと。
ちなみにパンチ役のエリック・エストラーダの声だったそうです。
じゃあジョンは?って見てみたら吹き出しました、田中秀幸さんじゃないですかあ。

ずっと前に「キン肉マン」をちらっと見た時、たまたまテリーマンが出ててなんて素敵な声!と思いましたが、今は「真・三國無双7」というゲームで韓当という愛らしいおじさんを愛嬌たっぷりに演じてます(笑)。
ジョン&パンチはかっこいいドラマなんでしょうね、この2人もかっこいいんでしょうね。
古川さんはあたるのイメージが強すぎるて想像できないけど。

高橋先生はアニメに対して注文出すタイプじゃなくて、「アニメはご褒美」と割り切っているようです。
まあ原作=アニメが一番望ましいのでしょうが、それがとても難しいことはわかっているんだろうなと思います。
さらに現場も見てるとスタッフさんの努力も理解できるだろうし。

一番厳しいのは作者よりも原作に思い入れの強すぎるファンなのかもしれません、反省・・・。
作品を仕上げる速さでは定評のある高橋先生、その裏側を語ってくれてますが、私は漫画そのものよりもストーリーを考えることが凄いと思いました。
素人考えですが、ストーリーを繋げるよりも、ギャグのネタを考える方が大変そうな気がします。
お笑いが大好きな高橋先生、ギャグのネタを仕入れるアンテナを四方八方に張り巡らせているのかもしれません。

最後に高橋先生は、漫画でメッセージを伝えることよりも、漫画を読んで楽しくなってくれればいい、と思うと語ってます。
その意味でも高橋先生の本質はギャグコメディ、そして短編にあるのかもしれないなあと思いました。
個人的に好きなのは「犬夜叉」ですが、高く評価されるのが「うる星やつら」や「高橋留美子劇場」であることは理解できる、そんな感じです。

とにかく一日でも長く、一話でも高橋先生には漫画を描き続けて欲しいです。
改めて画業35周年おめでとうございます。
お体を大切にがんばってくださいね。
(2013年5月24日の日記)

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