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1月9日「ダ・ヴィンチ」高橋留美子インタビュー2 |
命(死)を描く時、特に気をつけていることは、特に人魚シリーズにおいて、「生き方」を描くという事に主眼を置いたつもりです。 湧太は不老不死ではありますが、湧太は普通に死にたいのであって、別に死に憧れているわけではない。 各話の人魚の肉に関わる人々は何をやっても、不老不死の湧太が「おれはこう思う」と言う事で、 それなりにバランスの取れた話になつのでは、と思いました。 私が不老不死について考えたのは、たぶん「かぐや姫」を読んだ時が最初だと思います。 そんなに不老不死になりたい?と不思議に思いました。 まだ老いや病を意識しない子供だったとしても、不老はともかく不死を何故欲しがるのだろう。 実際問題として事故や病気で唐突に人生を断ち切られることは辛く、怖いことではありますが、 だからといって永遠に生き続けたいと思う人はいるのでしょうか。 私が不老不死と究極の幸福と捉えない人物の登場する物語に出会ったのはたぶん人魚シリーズ。 いつまでも若くいられたらそれは嬉しいけれど、そうなったらそうなったでどのように死を受け入れる ことができるのでしょうか。 老いるという事は、ある意味死を迎え入れる準備に入るという事なのかもしれません。 でも現在のような状況にある私たちは、特に病や事故などで命を奪われることがないよう、 それは望んでしまいますね。 「不老不死」という言葉は、高橋さんが人魚シリーズを描く前と後では随分意味合いが変ってきたように 思えます。 次の質問は 「(湧太は)死に憧れているわけではない。 一応、人と関わって生きている」とのこと、人と関わることが生きることと密接に結びついていると 考えているのか。」です。 リアルに考えると、逆に人と関わらずに生きて行く方が難しいと思いますが・・・。 この後も答えは続きますが、まずはここまで。 これは前の質問対する答え、湧太は人と関わって生きていることに関する2度目の質問ですね。 書面による2度のインタビュー、このような形で深めていったのだと思います。 湧太は基本的に1ヶ所に長期間滞在できません。 もちろん年単位ではありますが、何年経っても成長することも老いることもなく変らないままです。 定住を続けたらどうしても不信感を持たれるでしょう。 特に現代に近づくにつれ、どこに住むにも「自分」を証明する諸々の物が必要になって来ます。 極端な話をすれば、アパートを借りるにも、仕事をするにも自分であることの証明がいるのです。 ただ、作品内で湧太は日雇い仕事のようなことをして生計を立てています。 あまり詮索されないような場所ですね。 それに湧太や真魚はよく物を食べていますが、お腹がすくんでしょうかね。 食べなきゃ食べないで生きていけそうですが。 話がそれましたが、自分を証明する必要がない場所でなら、湧太も真魚も普通に生きていけそうです。 湧太は人を嫌っている感じはしないですしね。 不老不死であることがばれない範囲でなら普通に生活できると思います。 湧太に限って言えば、人魚を捜しているのだから情報収集のため人と接しなければならないし、 人と関わることで感情が動いたり考えたり、それが救いになったり。 人と関わる=心が動く、それが彼にとっては大切な事なのかもしれません。 人と関わって心が動くことが、必ずしも湧太にとって救いとはなっていない、むしろ辛いことが多いような 気もしますが、それでも湧太には必要な事なのでしょうね。 湧太にとって本当の救いは、真魚の存在であると私は思います。 余談ですが、今Wikipediaを読んでいたら、1989年(平成元年)にラジオドラマが製作され、湧太を野口五郎さん、 真魚を島田歌穂さんが演じたとあるのに驚きました。 聞いてみたいような怖いような・・・。 (この項続く) (2021年1月9日の日記)
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