犬夜叉サンデー感想(第101話〜第110話)
弥勒と風穴
原作少年サンデー1998年12月8日(2,3合併号)第101話「風穴の傷」

     ☆     ☆     ☆

たとえば弥勒の風穴が、25歳の誕生日に弥勒自身を吸い込む運命とわかっていたなら、少なくとも25歳になるまでは日々を恐れる必要はないだろう。
しかし、作品における風穴は、全くそういった描写がないため、今この瞬間にも暴発して弥勒を死に至らしめる危険性を秘めている。
今回の無心編、後の小春編で描かれた他は、全く忘れられている風穴のカウントダウンなのだが、そこに違和感を感じないのはなぜだろう。
読者も、弥勒自身も、そしておそらく高橋先生も、弥勒が風穴に吸い込まれて死ぬ最後を想定していないからだろう。

奈落を倒し、風穴の呪いを解いて初めて、弥勒は珊瑚と結婚できる。
おそらく弥勒が奈落に殺されて、いえ犬夜叉かごめ、桔梗に鋼牙、殺生丸までもが奈落に殺され、四魂の玉を完成した奈落が完全なる妖怪になりましたとさ、おしまいを想像している人はまずいないと思う、先生も含め。
さらに、ミロサンファンでなくても、弥勒と珊瑚は奈落を倒して子供を10人も20人も作るだろうと自然に思っているのではないだろうか。

では現実ならばどうだろうか。
弥勒はまさにこの瞬間に死ぬかもしれない、作品以上の刹那的な人生となる。
元々風穴を穿たれたのは弥勒の祖父。
祖父が子供を作ったために弥勒の父が生まれ、弥勒が生まれた。

弥勒一族に奈落を倒す使命があったかどうかは差し置いて、子供を作るということは、子供にも生まれた瞬間から死と向かい合わせという過酷な運命を強いることになる。
もしもだが、自分にこんな運命があっただろうと思うと、むしろ自分の世代でこの呪いを断ち切りたいと願うのではないだろうか。
そしたら奈落はどうするの?って言われそうだが、私は自分が女性であるせいか、風穴を持った子供を産むことをためらってしまうような気がする。

父親が死ぬなら子供を育てるのは母親の役目だろうが、弥勒の母が出てこず、無心が育てたことになっている。
母親が子供の運命を知ることを恐れて、共には暮らさず、子供ができたら母親から去ったのかなあなどと考えていると、弥勒の物語もできそうだ。

弥勒が娘と見れば声をかけるのも、犬夜叉と出会ってからはギャグになっているが、その前は本気の部分もあったんだろうな。
志麻の時にはうまく逃げてたけど?
珊瑚のためにももちろんこれは描かれるべきではない(笑)。

ところで弥勒のプロポーズ、これも現実に置き換えてみると、まさに天国と地獄。
仮想だから弥勒は死なない、は置いてといてもしも弥勒が奈落を倒す以前に風穴に吸い込まれて死ぬ、あるいは奈落に殺される、ないことではない。
だったら今のうちに珊瑚と子供を作れるだけ作っておいて不慮の死に備えることが現実的だろう。

弥勒のプロポ−ズはALL OR NOTHING、奈落を倒して幸せな結婚をするか、死ぬか。
ロマンティックなプロポーズだったが、あれもまた刹那的な選択だったんだなあと思う。

もちろん原作を読んでいてそんなことを考えるわけではない。
後で振り返った時に考察が始まる。
作品が目を瞑って描いている世界に挑んでいくのはおもしろい、おもしろいけど、ちょっとしんどい。

さてやっと感想。
特筆すべきは女蟷螂。
原作ではたいした存在ではないが、アニメで後の神楽、大神いずみさんが小手調べの出演をされたことで印象が強い。
弥勒の助平心を見抜いて女蟷螂に美しい娘の皮を被らせ、誘惑させたのは奈落の策略。

初期奈落は意外とこまめに動いて、一人一人を殺そうとしていた。
(今ではすっかりご隠居気分でいるらしいが。)
風穴に傷を負った弥勒は一人抜け出す。

犬夜叉たちに馴染んでいるように見えても、いざとなると頼らない、頼れないこの性格はちょっと前の珊瑚にも共通するものがある。
「犬夜叉」の魅力は、5人の主人公(一応メインは犬夜叉としても)が、それぞれ長所もあれば短所もある、とても人間臭い性格に描かれていること。
(初期のかごめにはそれがなかったが、後に出てくる。)

珊瑚に関しては琥珀編で書くつもりだが、弥勒も世慣れした中にどこか頑なさを感じる部分がある。
そうしたキャラの成長もおもしろさのひとつ。
でもここでまだ珊瑚がヤキモチやいてないのがおもしろい。

珊瑚はある日突然弥勒への恋に目覚めるので、そこのチェックも大切かも。

          ☆          ☆          ☆

今日はお休みで、なんと朝11時まで寝てしまった、しかも4時から8時まで寝てしまった(涙)。
予定していたことが何にもできず、朦朧としながらテレビをつけたら、アニマックスで「サイボーグ009」だった。
そしたら何と奈落の森川智之さんと無双関羽の増谷康紀さんが出演されてた、一気に目が覚めた(笑)。

森川さんはケイン、ケインとアベルのケインかな?だとしたらいかにも森川さんだ。
森川さんは「としゆき」って読むんですね、ずっと「ともゆき」さんだと思ってました、森川さん、ごめんなさい。

それから最近欠かさず見てる「新・スパイ大作戦」には今日「十二国記」の尚隆こと相沢正輝さんが。
犬父大塚明夫さんとの共演はじっくりやって欲しかったです。
 (2005年6月21日の日記) 
刹那的なプロポーズ
原作少年サンデー1998年12月22日(4号)第102話「無心の寺」

     ☆     ☆     ☆

6月21日の考察日記「弥勒と風穴」でうまく言いたいことが伝わりきらなかった部分があるようなので、まず補足を。
私は弥勒と珊瑚が結婚できないと思っているわけではない。
「犬夜叉」を読んでいる人で、奈落が犬夜叉、鋼牙、殺生丸各一行と桔梗姉妹、冥加も琥珀ももちろん魍魎丸、赤子も全て殺して勝利するというエンディングを想像している人はいないだろう。

でも本来ならば奈落を倒して犬夜叉たちが勝利する保証はないわけで。
弥勒の祖父が奈落の呪い(風穴)を受けた時、選択肢は二つあったはず。
ひとつは今しているように子供に奈落を倒す使命と風穴の呪いを受け継がせること。
子供が一族の呪いを断ち切ってくれるかもしれないが、そうならない限り子供もまた、風穴に飲み込まれる運命を担う。

弥勒の祖父も父もこの選択肢を選んだ。
そしてもうひとつの選択が、今弥勒がしていること。
自分の代で呪いを断ち切る道。
成功して奈落を倒せば、幸せな結婚生活が待っているが、失敗すれば弥勒の一族も、おそらく珊瑚の一族も断たれてしまう。

その意味でも刹那的なプロポーズと書いた。
作品世界外のことかもしれないけれど。

「犬夜叉」が仮に1,000ピースのパズルとして読者の前に現れたとしよう。
そこには犬夜叉たちが死んで終わるピースは入っていないだろうし、奈落の天下が始まるピースは入っていないだろう。
でも私はその作品を噛み砕いて2,000ピースにしたいと思っている。
これは「犬夜叉」だけではなく、好きな作品は何でもそうだが、たとえば楓や奈落の50年、犬夜叉が桔梗に出会うまでの約500年、犬兄弟の1人の父と2人の母の物語、奈落が勝つ結末。
すでに忘れられた、あるいは先生が描くつもりのない部分を埋めていきたいと思っている。

このテーマについて、「えむさんが弥勒様に対して冷たすぎると思います。」とメールを頂いたので、その方と臨時チャットでお話したのだが、その方も納得された上で書かせて頂くと、私は「犬夜叉」を作品として捉え、この方は「現実」として捉えておられるんだなあということ。
前にも書いた記憶があるが、かごめや桔梗が友だちで、桔梗を殺した奈落が本気で許せないとか、奈落を認めるえむさんが信じられないとかそのように書かれた」ことが何度かある。

私のような捉え方とはどうしても越えられない壁だなあと、いえ越える必要のない壁だなあと思った次第。

このような意見を下さる方は、やはり相手に自分と同じように思って欲しいと願っている方々だろうと思う。
でも違う方がおもしろいんじゃない?って思う。
同じ見方の人と意見を重ねて喜ぶのも楽しいけど、違う意見を認めた上でぶつけ合うのもとても楽しい、そう思う。

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さて本題。
弥勒がいきなり狸に乗って登場するが、狸はいつもどこでどうしているんだろう。
弥勒はどうやって呼ぶんだろうって思った方は多いはず。
おもしろい答えをつけてくれたのが、PSで出たRPG「犬夜叉」。

全ての村と言うわけではないが、決まった場所に「八衛門」石だったかな?そう書いた岩があって、お金を500出すと別の村に連れて行ってくれる便利でせこい狸。
その点雲母はただで乗せてくれるが、狸の方が融通が利いたような気もする、懐かしい。

無心と弥勒の不良っぽいけど確かな心の絆が無心編で描かれるが、まぜ無心が風穴を治療できるのか、おもしろい。
無心と言えども風穴を開けば吸い込まれるだろうから、封印したまま縫ったのだろうが、風穴の切れた部分が見えているのもおもしろい。
封印の数珠さえしとけば布を巻かなくても風穴は開かないらしい。
見た目がちょっと問題だが。

幼い弥勒は、父が自らの風穴に吸い込まれる場面を見てしまう。
その記憶と、弥勒も「数年のうちに飲み込まれてしまう」運命は、弥勒の性格形成に大きな影響を与える。
そうなると、弥勒の父も随分早いうちに子供を作ったもので、その辺も一応子供がいないはずの弥勒とは大きく異なる。
もしも弥勒が犬夜叉たちと出会う前に子供の一人もいなかったとすれば、弥勒は風穴の呪いを弥勒の代で断ち切る覚悟があったのかも。

個人的に、弥勒の性格では、自分と同じ過酷な運命を背負う子供を作ることは最初から考えていなかったのだろうと思う。
勝っても負けても全ては終わる、その想いが最初に書いた刹那的なプロポーズにつながるような気がする。
もちろん奈落を倒し、呪いを解く覚悟があってのものだろうが。

作品では何度か朔の日は登場するが、大きく見ても半年くらいしかたっていないのだろうか。
あえて時間を意識させない設定?と書いたら、またまたかごめが学校のことであせり出すし。
弥勒も風穴の呪いのことはすっかり忘れているような今日この頃、犬夜叉世界自体が大きなパラレルワールドになっているのかもしれない。

一方犬夜叉たちは弥勒に拒否されたように思い、傷つきながらも弥勒を探す。
珊瑚もまだ、普通に仲間としての心配。
これまたいつの間にやら出てきた冥加とも合流?
無心はちょい役蠱壺虫に操られ、弥勒危機一髪のところで次回へ続く。

当時サンデーで読んでた読者は、どきどきしながら次週の号を待ちわびたんだろうなあと思うとうらやましい限り。
 (2005年7月2日の日記) 
感想追記 〜翠子と黒巫女椿
原作少年サンデー1999年1月4日(5.6合併号)第103話「弥勒救出」

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先日「ひとりごと」でも少し書いたが、私は電車の中で本を読んでない時や歩いている時はいつも「犬夜叉」のことを考えている。
現実逃避の意味合いがなきにしもあらずだが、その日の嫌なことを思い出していらいらするよりはずっと健全だし、ストレスにならないから。
意外に「十二国記」や「三国志」はありのままに受け止めるせいか、「あれはどうしてああなんだろう。」みたいに考えることが少ない、「犬夜叉」だけ。

先日も3時頃寝ようとして横になった瞬間、閃いた。
珊瑚が登場し、翠子の木乃伊の前で四魂の玉の秘密を語る場面、原作には翠子に懸想したためにつなぎにされ、翠子と共に木乃伊にされた男が登場する。
犬夜叉の時代に同様に桔梗に懸想し、自らの体をつなぎとして妖怪に差し出した男がいる、名は鬼蜘蛛。
このもくり返される四魂の玉の輪廻が物語の大きなテーマだと思っていた。

ところがアニメではこの男が登場しない、ずっとそれが気になっていた。
それがふと思いついたのだ、そこでもそもそ起き上がって原作を読んだ、アニメを見た、怒られた(笑)。

実はこの男、その重要性の割りに原作においてもほとんど描かれていない。
翠子に邪恋の念を抱く邪な男、だから読者はこの男がつなぎにされても仕方がないと同情を持たずに読むだろう。

しかし、この男、翠子に恋しただけで、翠子に何かしたわけではない。
「秘かに慕っていたとだけ」で妖怪に取り憑かれたこの男に罪はない、にもかかわらず犬夜叉たちはこの男を鬼蜘蛛と同様に扱う。
私が大きな違和感を感じる部分、もしかしてアニメ側でも同様だったのではないだろうか。
邪な男が恋しただけで、鬼蜘蛛(奈落)のように翠子を殺そうとしたわけでもないのに、同様に扱われることに危惧を抱かれたのではないかと思った。

この男がアニメで登場しなかったのは、桔梗を殺そうとする奈落ならともかく、翠子を殺そうとしなかったこの男が奈落同様つなぎにされ、同情もされない理不尽を描くわけにもいかなかったからではないだろうか。
翠子に懸想した男は被害者で、鬼蜘蛛(加害者)とは大きく違うと思うのだが。
この男が「邪」であることは、この四魂の玉をめぐる珊瑚の話の中で、非常に都合よく描かれている。
もしこの男が悪人ではなくて、普通の村人だったらどうだろう。

犬夜叉たちはこの男に同情するだろうが、四魂の玉を巡る輪廻を断ち切ろうとする強い決意がここまで明確にできただろうか。
高橋先生がこの男を邪な男としたのは、ただ「この男=奈落」にしたかっただけなのだろうか。
だったら「秘かに慕っていた」男の行動に違和感が生じる。
この原作における中途半端なつながりをうまく描けないのであれば、たしかにこの男はアニメでいなくてもいいのかもしれない。

そこまで考えてのカットだったかどうかはわからないが。
後の翠子、冥加、雲母、犬夜叉で描くオリジナルを見る限り、製作側にそういった意図はなく、オリジナルを描くために時間が欲しかったためとしか思えなかった。
あのオリジナルを見て、アニメのみファンで犬夜叉こそ翠子の生まれ変わりと思われた方がいたそうだ。
もしアニメが原作最終回まで続いていたら、アニメはあの部分をどのように辻褄を合わせるつもりだったのだろうか。

私が「犬夜叉」という作品において時々気になる部分、「犬夜叉側から見る正義」にこだわるわけは、このようなところによる。
犬夜叉がこの男に対して思うことは、そのまま読者の思いとなる。
犬夜叉はこの男が邪だから、この男に対して同情の念を持たないが、果たしてそれでいいのだろうか。
その意味でもこの「邪」という言葉、とても都合の良い修飾であると思わざるにいられない。
この男の件ひとつだけならさほど騒がないが、作品中に時折こうした矛盾が見られる気がするので、代表して取り上げてみた。

もうひとつ、黒巫女椿は実はたいしたことなくて、退治屋の頭が渡したはずの四魂の玉が、なぜ陰陽師というオリジナルになったのだろうかということ。
これは本筋にあまり関わらない部分ということで、原作を気に留めずに作ったんだろうなあと思う。
実はあの部分のみ(陰陽師に仕える椿が自分より桔梗を評価する陰陽師と桔梗を憎むに至る過程)のオリジナルは黒巫女編で好きな部分。
でもここをそれこそ原作の二番煎じではなく、オリジナルストーリーで描いて欲しかったと思う。

アニメ最終回前後からさまざまな掲示板を読み漁って、「犬夜叉」と言う作品への評価を探した。
原作のマンネリ(奈落問題、恋愛問題)、戦闘の迫力不足、ループし続けるストーリー(妖怪退治→奈落と戦う→逃げられる→もはや笑えないラブコメ→パワーアップと続いてまた妖怪退治に戻るのだそうだ)と読んでるだけでうまくまとめるものだなあと感心してしまう。
アニメでは納得できないキャラ設定、原作の世界観を壊したオリジナルなどが対象になっていた。
犬夜叉批判であっても、実は作品をきちんと捉えているからこそ書ける言葉、編集部には届いて欲しいと思う。

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蠱壺虫に操られた無心に殺されそうになる弥勒だが、印象強いのが狸。
アニメ独自のネーミングで唯一馴染んでいるのがこの「八衛門」で、普通に狸と書いたら、誰のことだかわからないのではないか。
かごめには「タヌキさん」、七宝には「タヌキ」、犬夜叉には「タヌ公」と呼ばれているが(これには笑った)、弥勒には呼ばれたことがない。
やはり名前がないと不便だよなあと思っていたが、巫法札合戦では「阿波の八衛門狸」になっていた、なんて大げさな。
八衛門は徳島生まれ?

ところがおもしろいのが八衛門の「ちゃんちゃんこ?」についている紋だが、今調べている「東海道四谷怪談」のお岩さんが嫁いだ田宮家の紋と同じ「二つ巴」、これには驚いた。
徳島の小山氏の紋が、まさにそれで安房神社の神紋もこれであるという。
鳴門の渦潮をイメージしてるのかな?
この八衛門の模様の紋が時々右二つ巴になったり左二つ巴になったり見える。

サンデーだったら画面が大きいのではっきりわかるだろうが、残念。
二種類の模様のちゃんちゃんこ?を持ってて無心の寺でとっかえひっかえ着てるのかな?
もしかしてサンデー無心編まだ取ってる方いらっしゃったら是非確認してみていただきたい。
「犬夜叉」連載第1回から全部サンデー取ってる方っているのかなあ、だったらとてもうらやましい。
 (2005年7月9日の日記) 
口がない八衛門
原作少年サンデー1999年1月13日(7号)第104話「蠱壺虫」

     ☆     ☆     ☆

コミック11巻第6話「蠱壺虫」の表紙の弥勒がとても好きなことは前に書いたが、それ以上に気になるのが八衛門。
(八衛門はアニメのみの名前だが、個人的に気に入っているので使いたい。)
カットはたくさんあるが、口がない、おもしろいほど口がない。
台詞を言っても口がない、これには爆笑した。

犬夜叉たちの間で目立たないが、よくよく見るとどれも可愛い顔つきで、狸探しのためだけに読んでみたりする。
こんなキャラは八衛門と雲母だけ、それほど目立たないけど可愛い。

さて弥勒救出に間に合った犬夜叉たち、そのストレートな仲間を思う気持ちは、弥勒の心も救う。
朝起きて弥勒がいなかったら、それっきり探しになど来ないだろうと弥勒は思っていたらしい。
弥勒も仲間に不安を打ち明けることなく消える、それがこれまでの弥勒の生き方。
表面上は誰とでも仲良くするが、どこかに踏み越えることのできない一線があった弥勒、最大のピンチであったから余計に打たれる。

おもしろいのは、この時点で珊瑚もまた心を閉ざしていること。
ここでは弥勒が弱い立場にあるから見えないが、珊瑚もまた「いざという時は一人」を心に決めている。
その珊瑚が心を開くのは、この次のエピソード、奈落の城での対決の時。
犬夜叉の、かごめの、弥勒の、七宝の珊瑚を想う気持ちが珊瑚を救う。
弥勒と珊瑚がそれぞれ心を開いた時、二人の恋が始まる。
このあたりの描写はとても素晴らしくて、無心編から奈落の城まではくり返して何度も読んだ。
「犬夜叉」キャラの魅力のひとつは、ただの元気な男の子、可愛い女の子ではないところだろう。
かごめ以外はそれぞれが何かしらの葛藤を抱えている。

今の奈落どうやらそういった感情は捨て去ったらしいが、私が好きなのは初期奈落。
桔梗に恋焦がれる気持ちと憎む気持ちの狭間で苦しむ奈落。
これらの葛藤をひとつひとつ乗り越えていく、つまりキャラの成長の物語が作品の中枢を為す。
かごめは何もないだけに、ひとり輝き、それだけにどこか現実味のないキャラではあった(この当時)。
私はこの時期の迷いのないかごめが一番好きだが。

話がそれたが、仲間の心を知った弥勒は命がけで風穴を開く。
この流れ、風穴を開く弥勒、それを止める犬夜叉にはらしくもなく心がときめく(笑)。
無心を殺せなくても気絶させることは最初からできるんじゃないの?などという突っ込みはなしにして楽しみたい。

哀れなのは蠱壺虫で、ゲスト妖怪の中で一番印象が少ない、目立つ悪役は無心。
後半姿を現したと思ったら珊瑚の飛来骨に両断される。
この飛来骨、珊瑚は思いっきりくらってたな、神無編で。
相変わらず当たらない弓でも、口に布を巻いて珊瑚の助手を務めるかごめがいい。

「寺の中逃げまわられちゃ面倒だ。追い出すよっ。」「はいっ。」
この「はいっ。」がいい。
いつもなら対等に「うん。」とか「わかった。」と言うだろうが、妖怪退治のシビアさが感じられる台詞だと思う。
 (2005年7月11日の日記) 
弥勒の寿命は奈落を倒すまで?
原作少年サンデー1999年1月20日(8号)第105話「弥勒の寿命」

     ☆     ☆     ☆

ものすごく皮肉めいたタイトルになってしまったが、弥勒が奈落を倒す前に風穴の犠牲になると考えている人はいるだろうか。
この無心編を読み返すといつも思う。

弥勒の看病をしながら珊瑚が言う。
「法師さま・・・
 心が強い人なんだね。

 なんでいつも・・・
 あんなに明るくしてられるんだろう。」

かごめも思う。
「でも本当は・・・

 毎日・・・
 不安でたまらないんだわ。」

助平で陽気な弥勒の真の姿を目にし、その強さ辛さに同情と尊敬の念を持つ少女二人。
もしかしたらここで珊瑚の心に恋が生まれたかもしれないとも思わせる。

しかし最近の弥勒は、死へのカウントダウンへの恐怖などどこ吹く風、80までも90までも、いえ200歳くらいまで軽く生きれそうな安定ぶり。
何度も書いてる犬夜叉の恋心(桔梗への想い)、珊瑚の琥珀への想い、そんなものが途切れ途切れに感じるのはなぜだろうか。
もちろんいつもそれぞれのキャラが悶々として欲しいわけではないが。

切れ味のよさとのバランスってすごく難しいんだろうなあといつも思う。

それはともかくここでは仲間のために風穴を開く弥勒、弥勒を封じて最大限の力を発揮する犬夜叉が最大の見せ場。
この後の琥珀編、奈落の城ではさらにかごめの霊力も大爆発のリハーサル、ここからの盛り上げは素晴らしかった。
そしてついに犬夜叉の鉄砕牙が「一振りで百匹の妖怪をなぎ倒す」力を発揮する。
犬夜叉の仲間を想う力の効果だった。
なんかこの段階で、もう金剛槍破まで一気に行っちゃいそうな成長だよなあ(ほめ言葉)。

あっという間に飛来骨の餌食となった哀れな?蠱壺虫、相変わらずほとんどのカットで口のない八衛門、気絶?実は酔っ払って寝ている無心などツボも捉え、「みんなのためにみんなが戦う」犬夜叉たちの姿が好もしい。

そしてやけに大きな最猛勝の報告で犬夜叉のレベルアップを知った奈落の一言、
「百匹の妖怪をさし向けるより・・・
 殺せぬ一匹を放つのが得策・・・」
殺せぬ一匹とはもちろん琥珀。
やはり何でも悪役に魅力がなくてはつまらない。
その意味でこの時期の奈落、桔梗復活を知るまでの迷いのない(でも今ほど徹底的な悪でもない)、奈落は盛り上げ役として最高だった。

そしていよいよ琥珀が登場する。
今の琥珀を知ってから読み返すと、一番劇的な変化を遂げたのはこの少年ではないかと思う。
死を選ぶならやむなくではなく、琥珀の意思で死に逝くだろう、そしてその時は桔梗もまた死に戻るだろう。
その時犬夜叉は、珊瑚は、後悔しないだろうか。

後悔しないような日常であって欲しいと思う、そんな風に描いて欲しいと思う。
それでもなお後悔するだろうから。
でも願いはともかく、桔梗が生き続ける結末は考えにくい、琥珀はあり得る。
七人隊のように骨だけになっても蘇るのだから、琥珀&桔梗を1個の四魂の玉で生きた人間に戻すとか、できないことではなさそう。

それでも恋愛問題は解決しないが、私は書いたことあったかな?
桔梗は土に還り、かごめも現代に戻る結末(もう戦国時代には戻れないという結末)。
可哀そうなのは犬夜叉だが、かごめも桔梗も想いはともかく犬夜叉の時代、犬夜叉の世界に生きる存在ではない。
でも先生のことだから、誰も考えつかないような結末を用意されるんだろうなあと期待大。
 (2005年7月15日の日記) 
「鏡の中の夢幻城」と絡めてみた
原作少年サンデー1999年1月27日(9号)第106話「琥珀」

     ☆     ☆     ☆

今「鏡の中の夢幻城」を見ながら書いている。
実は買ってはいるものの、映画館以外で見るのは初めて。
相変わらず目がでかいなあと思いながらも、画面が小さいせいか、映画ほどは顔の違いが気にならない。

ちょうど今日書く予定の「琥珀」とほとんど同じかごめと珊瑚の温泉シーンが出てくる。
犬夜叉と弥勒がのぞきと勘違いされるところまで一緒(原作ではのぞいていたのは猿、映画では北条秋時)。

2人の話題は原作では琥珀のことだが、ここで気になるのが、珊瑚の「ここにいるみんな、それぞれ理由(わけ)ありなんだろ?」って言っている。
それに対するかごめの答えはないが、実はかごめは理由(わけ)なし。
現代から四魂の玉と共に連れて来られたことはたしかに普通とは違うが、かごめにとって辛そうな話では「全然ない」、そこが不思議だった。

などと書いてると、映画で無心編の無心が弥勒の命がすぐ尽きると言った場面の真似っこが登場。
原作で受けた場面を映画やアニメでも使おうとする手法は好きか嫌いか評価が分かれるだろうなあと思う。
でも映画でおもしろいと思ったのは、奈落の巨大鬼蜘蛛を「奈落の正体」と設定したこと。
原作においても奈落があれほど忌み嫌う鬼蜘蛛を、自らの謀略の象徴としていることに首を傾げていたのでとても納得できた。

さて、映画では奈落がいったん死に、琥珀も心を取り戻す。
原作では今回始めて奈落の操り人形としての琥珀が登場する。
桔梗、奈落の登場に続く操り琥珀の登場は、物語にさらに深みを与えた。
これがなければ問題はあくまでも犬夜叉がらみだけで、もっと早くに停滞していたのではないだろうか。

もうひとつ「犬夜叉」で初めて高橋作品に触れて驚いたのが(その後も乱馬など見て驚いた)、ヒロインのヌードが随分気軽に出てくること。
いやらしくなくてそれはいいのだが、これって少年漫画だから?(あまり少年漫画を読んだことない・・・)

さらに映画は進む。
かごめが月と羽衣から「かぐや姫(竹取物語)」を連想するところ、犬夜叉が「かぐらだと?」と言ってるように聞こえる。
もちろん「かぐやだと?」と言ってるのだろうが。
それにしてもいいなあ、八衛門、可愛い(笑)。

そしていよいよ質問を頂いた、犬夜叉とかごめの焚き火のそばの会話のシーン。
半妖に関する話をして、「少しは真面目に話を聞いてよ。」と犬夜叉の肩をつかむ。
BGM付きスローモーションで振り向いた犬夜叉にはっと目を見開く。
かごめの驚きに「なんだよ(あんだよ?)」と犬夜叉。

「犬夜叉、今・・・。」
「だからなんだよっ(あんだよっ)!」と怒鳴る犬夜叉。
しかしかごめが驚いた理由を答える前に、桜が舞い散り、神久夜が登場、かごめが驚いた理由は明かされない。

「かごめが『半妖のままの…』のせりふの後の犬夜 叉が振り向いたとき。
 なぜ、かごめは驚いて(?)い たのでしょうか。
 何度も見直しているのにわかりませ ん。どのような思いがあったのか…」

実は私はこの場面は何とも思わず流していたような気がする。
だからこういった疑問は全然浮かばなかった。
そこで今こうして見直しているわけだが、正直言ってわからない。

無理矢理理由をつけてみると、
1、振り向いた瞬間の犬夜叉の顔がとても近づいている(かごめが犬夜叉に怒りに任せてというほどではないが、「少しは真面目に話を聞いてよ。」顔をすごく近づけている)が、しかも         これまでとは別人のように素敵だった。
  つまりときめいたという意味で?

2、月に影響を受ける犬夜叉、すでに神久夜の気配を察知していて、これまでとは一転雰囲気か表情か、それとも気配が変わった。

す、すみません、私にもわかりません。
もし他にも、あの場面にはこういった意味があったのではないか、というご意見がありましたら、是非教えてください。

興味深い台詞は「過ぎ行く時を慈しむのは人間だけ」。
何百年単位で生きる妖怪でなくては出ない台詞だと思った。

さらに映画を見ていて思ったこと。
もう桔梗に関しては決着をつけた方がいいのではないだろうか。
客観的に見て、今の犬夜叉は、もう二股ですらないような気がする。
不可解な行動をとり、その想いもわからず、何のために存在するのかわからない桔梗。

物語以上に存在することが不幸なキャラではないだろうか。
桔梗派であるとかないとか、そんなことは別にしても、ここで桔梗が決着することで、話が大きく変化するような気がする、私はその方が望ましいと思う。

さて原作に戻ってただ一人琥珀の元に辿り着いた珊瑚は琥珀の後に奈落の姿を見てしまう。
第9話「琥珀の命」の表紙が珊瑚と琥珀の楽しい思い出であるだけに、今も続く珊瑚の苦悩の始まりが切ない。
 (2005年7月16日の日記) 
「海のトリトン」を見ながら
原作少年サンデー1999年2月3日(10号)第107話「琥珀の命」

     ☆     ☆     ☆

これを書いている時、アニマックスで「海のトリトン」劇場版を見ていた。
オープニングは曲も映像も素晴らしいなあと思っていたが、ピピって誰?状態。
トリトンの海の冒険活劇というより、トリトンとピピのじゃれ合いの中に冒険が入るみたいで、だいぶイメージが違う。
これって二人とも大人になってわかり合えるまで続くのかな?
大人の素敵なカップルになった二人まで見たい気がするけれど。

原作あるのかなあと思ってたら、あるらしい。
ところが話が全然違うらしい。
なによりトリトンが7人の子持ちになることにびっくりしてしまった。

「犬夜叉」の「観音掛け軸呪いの罠」で集落の長のまつこと沢田敏子さんと観音掛け軸(山椒魚の妖怪)こと北浜晴子さんが出演されたが、「海のトリトン」のトリトンの母(沢田さん)と白イルカのルカ(北浜さん)だった。
これか〜と大感激。
山椒魚偏ももう一度見てみたくなった。
そしたらイルカはルカではなくルカーだった・・・。

さて話を「犬夜叉」に戻して。
珊瑚が結界を越えて辿り着いた琥珀の背後には奈落がいた。
奈落は琥珀に四魂のかけらを与え、命を救う。
ただの人質ではなく、操り人形に仕立てて人を襲い、珊瑚を苦しめるところが作品として秀逸、しかし珊瑚は苦しむ。

それが本当に今になっても続いている所が珊瑚のために可哀そうに思う。
今の琥珀は記憶を取り戻し、奈落の元から解き放たれたが、その奈落を倒し、自分を罰する覚悟も珊瑚を繰るしめる。
琥珀にしろ桔梗にしろ、決意した方が清々しく見える不思議。

奈落は、琥珀を救うために犬夜叉の鉄砕牙を奪ってくるように言いつける。
拒むことのできない珊瑚、眠っていたと思っていた犬夜叉がかっと目を見開く。
この時の犬夜叉の顔が最高に素敵。

そんな話は置いといて、珊瑚が犬夜叉に奈落の要求を話していたら、どうなっていただろうか。
最初からみんなで連れ立って奈落の城に乗り込んでいたに違いない。
しかし、珊瑚一人でなければ結界は開かないだろう。
そうなったらかごめが結界を開くのか。

その過程を描くのと、原作のように人を頼らず一人で乗り込もうとする珊瑚を描くのと、どちらが読んでいて勢いがあるかといえば、やはり原作の方だろう。
その方が駆けつけた犬夜叉たちが傷ついた珊瑚を見て怒りを爆発させるシーンが引き立つ。
それにしてもかごめに比べ、珊瑚は本当に損なキャラ。
いつも傷つき、いつも苦しむ。

その代償に、かごめにはない、(浮気はあるが)珊瑚一筋の愛を得ることができたと思えば複雑な気持ちになる。

もうひとつ、ここで珊瑚に無理矢理話を聞こうとする犬夜叉を、かごめが「おすわり」で止める。
この時期は、まだまだ「おすわり」が必要な時期だったな、と考えておかしくなった。
いつから「おすわり」が必ずしも必要でないものになったのか、これから原作を読む上で興味深いテーマかも。
 (2005年7月18日の日記) 
弥勒の性格 珊瑚の性格
原作少年サンデー1999年2月10日(11号)第108話「珊瑚の裏切り」

     ☆     ☆     ☆

桔梗を想う犬夜叉と、琥珀を想う珊瑚のシリアスな会話の後、対琥珀戦に入る。
琥珀は不利になると、鎖鎌を自分自身に突き刺し、四魂のかけらを抜き出そうとする。

もちろんその行為は琥珀の死に直結する、珊瑚が見ていられるはずはない。
珊瑚は犬夜叉の鉄砕牙を奪い、琥珀を追う、それが今回のあらすじ。

無心編と琥珀編を通して読むと、弥勒と珊瑚の人となりがわかってくる。
というより高橋先生が伝えようとしてこのエピソードを持ってきたように見える。

弥勒は風穴を切られ、犬夜叉たちから去った。
弱い部分を見せない、ピンチの時に人に頼ることを潔しとしない、そこまで犬夜叉たちに心を開いていない。
もちろん珊瑚にも。
珊瑚自身に余裕のないこともあるが、弥勒もまださほど気にかけてはいなかったということだろう。

そして珊瑚。
たとえば奈落の言葉を素直に話していたら、展開もまた変わっていただろう。
珊瑚というキャラは、人間なのに痛い思いをすることがほんとに多い。
現実にはあり得ない回復力(退治屋だとしても)に救われるが、やや現実味がないなあと思う部分。

珊瑚の場合は仲間意識のなさというより、何でも自分で、人に頼りたくない、責任は自分で取るといった己に頼むことの非常に大きいキャラだと思う。
退治屋として育てられたからというより、生まれ持っての性格だろう。
その性格に退治屋という職業が重なったことで、ある部分頑なな性格が加速していく。

奈落の城でいったん心を開くが、それ以降も自分のことは自分で性格はあちこちに顔を出す。
犬夜叉も本来はそんな性格だと思うが、かごめに出会ったことでかなり丸くなった(笑)。
頼りたがらないのは桔梗がらみの時だけという微妙な状態。
七宝はともかくとして、一番依存状態にあるのはかごめだろう。

にもかかわらず、最後の最後に仲間を想う心で霊力を爆発させる、自然体の優しさで仲間を癒す。
「犬夜叉」という作品の主役は誰か、この頃私はかごめだと思っていた(ほんとは四魂の玉)。
今はどうかというと残念ながら主役不在の状態に思っている、おもしろさとは別の部分で。

それはともかく、珊瑚の苦しさ、犬夜叉の想い、弥勒の覚悟、奈落への怒り、全てを包み込んで爆発するかごめの霊力。
この「奈落の城」編は、かごめというキャラの一番の見せ場だと思う、戦いの場において。
(精神的な部分では「出会った場所」。)

逆に言うと、これ以降のかごめにこのエピソードを凌ぐ感動を得られてないのが辛いところ。
なんでだろう。
「鬼の腹」も「無償の癒し(対桔梗)」も、「奈落の城」と「出会った場所」に勝るものではない、そこが不思議。

さすがに原作も何十回も読み込んでると、感性の方も麻痺してきて、さほど感動することがなくなってくる。
にもかかわらず、初期のこの「奈落の城」編は未だにじわっとこみ上げてくるものがくる。
今回で11巻が終了するが、奈落の城の感想を書くのがほんと楽しみ。

          ☆          ☆          ☆

よみうりテレビの[ブラックジャックサイト」に、映画「ブラック・ジャック ふたりの黒い医者」が12月17日(土)全国東宝洋画系 ロードショー決定のニュースが掲載されている。
(詳しくは「公式サイト」にて。)

これまでの月曜日7時の「名探偵コナン」はゴールデンウィーク、7時半の「犬夜叉は冬に映画公開と決まっていたが、その犬夜叉の時期に「ブラックジャック」が入るわけ。
もちろん「ブラックジャック」は手塚プロダクション、「犬夜叉」は(作るとなれば)サンライズと違うだろうが、どちらもよみうりテレビの管轄となると、「犬夜叉」無理じゃないかなあと言うのが正直な感想。
「とっとこハム太郎」のように短編を同時上映というのも微妙にやだな・・・。

別の時期に「犬夜叉」を単独で製作というのも、これまでの流れからは考えにくいような気がする。
ただ、だからといって「ブラックジャック」が失敗してほしいと願うものでもないし、「ブラックジャック」は「犬夜叉」とは別の意味で訴えるものがある素晴らしい作品。
特に映画に出てくるドクター・キリコはアニメでは作り難いキャラ、ブラックジャックとの「命」を巡る、暗い、凄まじい攻防は、「読む」者に命の大切さ、生きる意味を考える上で胸に迫るものがあった。

奇麗事に作り変えてしまうアニメの世界から脱皮した真実の「ブラックジャック」を作ってくれるのであれば、期待は大きい。
なにより「ブラックジャック」が不調になってもその後が続かなければ、「月曜7時から8時」のアニメ枠が消えることが一番怖いのではないかなあと思う。
「犬夜叉」が「ブラックジャック」に交代するのは寂しいけれど(「紅蓮の蓬莱島」に堪能しただけに)、今は「ブラックジャック」をひっそり見守りたい。

          ☆          ☆          ☆

情報を頂きました。
「海のトリトン」でトリトンが原作で7人の子供を作るのに驚いたと書きましたが、それは「七つの海」を意識しているのだそうです。
なるほど・・・。
教えてくださってありがとうございました。

ついでにもうひとつトリトンに関する謎。
「ブラックジャック」には他作品のキャラがそのまんま出てきてますが、トリトン(貝に足を挟まれる漁師の息子)だけが、トリトンと似ても似つかぬ姿で出てきます。
あれは何故でしょう?
著作権とか出版社の都合とか?
 (2005年7月19日の日記) 
奈落の城
原作少年サンデー1999年2月17日(12号)第109話「奈落の城」

     ☆     ☆     ☆

いくつものエピソードがより合わされ、張りめぐらされていく中にいくつかのクライマックスが入る。
弥勒が登場し、奈落が華麗に舞い踊り?珊瑚が登場してこの時期における最高のクライマックスは奈落の城での攻防だった。
にもかかわらず、アニメでコンパクトにまとめられてしまった不満は何度も書いた。
特に、かごめが奈落が犬夜叉を揶揄したことによって霊力を爆発させる部分。
かごめの戦闘における、数少ない見せ場のひとつなのに。

このことについてはいろんな人とメールで話してきたが、出てきた意見は次の四つだった。

1、犬夜叉が弥勒を殴る場面を小さな子供に見せたくない。
  犬夜叉の真意が伝わらず、仲間にも手を上げるヤツだと思われかねない。
   ←低年齢視聴者の中に、犬夜叉が怖いという意識があった。
    (弥勒役の辻谷耕史さんのサイトにも書かれている。)

2、アニメでは初期、かごめ→犬夜叉→桔梗路線を独自に作り上げていたために、ここで犬夜叉を想って霊力を爆発させるかごめの健気な姿を見せ、それでも桔梗を想う犬夜叉に視      聴者が共感できないのではないか。
  どこまでも犬桔路線を貫くために、かごめの見せ場を削った。

3、琥珀と珊瑚の問題に、その悲劇に集中したかった。

4、どうしても1週間で終わらせたかった。

私は当初2だたろうと思っていたのだが、何度も見るうちに3かな?と思うようになった。
かごめと珊瑚が同じくらいの見せ場で登場する時、普通ならヒロインのかごめだろうが、ここは重要度でも珊瑚だろう。
でもだからといってここを削らなくてもと思うのは私だけではないだろうが。

ここで一応まとめておいた(笑)。

そして12巻より奈落の真骨頂、琥珀を操り珊瑚を傷つけ、犬夜叉たちを瘴気で追い込む。
この瘴気の1本1本が目がある、うなぎみたいで微妙に怖い。

この時期の奈落を見ていると、余計な物(とげとげなど)のない方が、奈落らしくていいなあと思う。
いかにも怖い顔してたり、いろいろくっつけて怖さを演出するよりも、端正な顔のごくごく普通の男、その怖さの方がより際立つと思う。
奈落もそのうちにあのとげとげを体の中にしまい込むんじゃないだろうか、未だに発展途上の奈落。
こういった仰々しさは、アニメや映画でよく見られたが(娑羅や神久夜、黒巫女椿の鬼など)、原作ではあまりないこと。

それにしても埋葬されてしまうほど瀕死の重傷を負った珊瑚、また琥珀にこれほどまでに傷つけられて、もちろん心も傷つけられて。
珊瑚ファンでなくてもどうして珊瑚だけ?って思ってしまう。
それだけに早く奈落を倒して、弥勒と結婚して子供の20人でも30人でも産んで欲しい。
でも退治屋に育てるのではなく、妖怪と人間が共存できるような世界で生きて欲しいと思う。
 (2005年7月21日の日記) 
霊力発動
原作少年サンデー1999年2月24日(13号)第110話「瘴気」

     ☆     ☆     ☆

珊瑚が鉄砕牙を奪った意味、もちろん琥珀を救うためだが、冷静に考えると、犬夜叉から武器を奪い、仲間を危険にさらすこと。
自分が奈落に太刀打ちできるわけがないことはおそらく承知だったろう。
それでも琥珀を救い、犬夜叉たちを助けるために、単身城に乗り込む。

それこそ「牙」を失った状態で珊瑚を追う犬夜叉たち。
そこで見たのは琥珀に傷つけられた珊瑚、犬夜叉たちも危険に陥る。

ここで犬夜叉たちを揶揄する奈落の言葉。
最初に読んだ時は、私も人の心、人の命を弄ぶ奈落に憤りを覚えたが、実は奈落の言葉はまさに正論。
犬夜叉の甘さは、架空世界であるからこそ全ての矛盾を乗り越え、必ず最後に正義?は勝つパターンに落ち着いているが、下手すれば作品自体が仕様もない甘い物になってしまう。
それを適度に引き締め、犬夜叉側が全てではないことを教えてくれるのが奈落の存在。

ただ強さを求める悪役、ただ悪いだけの悪役でなかったところが奈落の大きな魅力であり、奈落の存在こそが「犬夜叉」の大きな魅力だろう。

「きさまらはここで死ぬのだ。それもすべて珊瑚の裏切りのせいでな。」
「珊瑚はきさまらの命より弟を救うことを選んだのだ。」

「犬夜叉、その甘さが命取りだ。
 裏切り者の珊瑚を憎みきれず、法師の命を惜しんで自ら活路を閉ざす。」

「助けあい、思いあって、そしてそのせいで死んでいくのだ。」

冷静に読んでみてどうだろう。
奈落が吐いているのは正論、私は奈落最高の名台詞のひとつだと思う。
そしてただ犬夜叉を殺して鉄砕牙を奪いたかった、といった単純悪ではない奈落を、理屈抜きに越えるのがかごめの霊力。

かごめというキャラは、常時発動できないとはいえ、ここまでの霊力を持っているにもかかわらず、作品において常に守られる立場にある。
犬夜叉がなぜいつもかごめと一緒にいるのか、恋愛感情を省いても、

「桔梗なら自分の身は自分で守れる。
 もしかしたら奈落を倒せる。」

くらいの意識があるのではないだろうか。
たとえ瘴気の底に落とされて「再び」死にそうになっても、犬夜叉の態度は「守るべきはかごめ、桔梗は一人でも大丈夫」、それ以外の何物でもない。
事実、かごめが戦闘時に霊力を発揮するのは本当にわずか、それだけに印象的な場面として印象に残るのだが。

最近思うことは、話がここまで続くなら、桔梗問題はもっと早く解決するべきだったんではないだろうかということ。
奈落との最終決戦に桔梗は必要だったとしても、少なくとも三角関係においては精算してほしい。
早くにしていれば潤いのない話になっていただろうし、遅すぎれば桔梗は心を失う。
その兼ね合いの難しさを痛感する今日この頃。

          ☆          ☆          ☆

これまで何度か奈落賞賛に関してメールを頂いたが、私は桔梗を殺し、犬夜叉を苦しめる奈落がいたから「犬夜叉」はおもしろいという考え方。
もし奈落が実在して、私の友達を苦しめたら私は奈落を憎むだろう。
でも私にとって奈落はあくまでも架空世界の架空の人物。
もしも奈落が強くなる、本物の妖怪になるためだけのキャラで、桔梗が邪魔だから殺そうと付狙うだけなら、そんな単純RPGのラスボスみたいなキャラなら、私は作品を素通りしていたと思う。
(その意味で最近の奈落、人の心を捨てた奈落には魅力を感じない。)

桔梗やかごめが自分の友だちで、友だちを苦しめる奈落を憎く思うのもその人の読み方だし、架空作品として捉えるのもひとつの読み方。
もしかしたら登場キャラに感情移入できる人の方が優しく純粋なのかもしれない(年齢のせいもあるかも)。
ただ私はかごめと桔梗が表裏一体、一つの魂を持つ者であると同様に、犬夜叉と奈落もまた同じ魂の光と影であると捉えている。
ああ同じ魂と言ってももちろん生まれ変わりという意味ではなく、桔梗との巡り合いに端を発した激動の運命に巻き込まれたという意味で。

桔梗一筋でむしろ純粋だった奈落、けれど決して桔梗に受け入れられることのない奈落は人の心を捨てた。
桔梗を救えなかった犬夜叉、桔梗を選べなかった犬夜叉は未だにふたりの少女の間で揺れる。
私がよく書く「犬夜叉」という作品には完全なる正義もなければ完全なる悪もない意識は、あくまでも私の考え方であり、読んでくださる方に押し付けるものでないことはわかって頂きたいと思う。
 (2005年8月1日の日記) 

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