犬夜叉サンデー感想(第11話〜第20話)
魂移し
原作少年サンデー1996年2月5日(10号)第11話「魂移し」

     ☆     ☆     ☆

犬夜叉がかごめの名前を始めて呼んだことで、2人の仲が一歩近づいた印象的なエピソード、結羅編も今回で終わり。
結羅が「鬼の魂移し」から「付喪神」に変更されたことは以前書いたからここでは触れない。
「魂移し」という言葉自体あまり馴染みがなかったが、新しく作った仏像に魂を入れる儀式を以前見たことがある。
「魂入れ」か「御魂入れ」と言われていたような気がする。

結羅の「魂移し」はおそらくここから来たものだろう。
そういえば私の実家がなくなる時、家の仏壇の「魂抜き」をすると称して、神主さんが何か儀式をしに来られたこともある。
片付けものの手伝いに帰省していて私も参加したが、残念ながらその頃は結羅を知らなかったので、足が痺れた記憶しか残っていない。

この神主さんは、私の中学校の大先輩、いろいろ聞いておきたかったな、と今頃悔やんでいる。
さてアニメ、ここでものすごい印象的な台詞が出てくる。
結羅が死んで、そこに残された赤い櫛を見て犬夜叉が言う。
「死化粧に使う櫛だ。
櫛がうんざりして妖怪に姿を変えたんだろうよ。」みたいな言葉。

当時はこの言葉にびっくりしてしまった。
幼くして母と死に別れた犬夜叉は、常に人間から離れて生きてきた。
そんな犬夜叉がなんでこんな常識知ってるの?

この疑問は置いておいて、アニメでは犬夜叉の母君の出演頻度が原作に比べて多い。
幼い犬夜叉が蹴鞠の人々に疎外される回想シーンや何より映画では「十六夜」と名前を与えられて、生前の姿や犬夜叉との別れを演出している。
それを見た時、製作側の姿勢を感じたように思った。

原作より母との関わりを、より深く描こうとしているのではないだろうかと。
かごめにしても思ったが、特に犬夜叉の場合、原作では無女編以降、出番がないのに比べてアニメでは母を前面に押し出す。
その角度から見ると、もしかしたら母がまだ生きていた頃、犬夜叉は母と共に誰かの葬儀に参加して、赤い櫛の由来を聞いたのかもしれないというイメージが膨らんでくる。
こうしたアニメ独自の全編を貫く演出は、原作を読んでしまうとなかなか気づかないことも多く、残念ながら否定的に受け止めてしまいがちだが、犬夜叉の母に関する演出はいつも好感を持って見て来た。
やはり何度もくり返して見ることは大切かも、時には飽きるけど。

死化粧に赤い櫛、死に逝く女性を少しでも美しく彩る慣習かと思っていたが、アニメ比較でも書いた魔除けの意味もあるらしい。
ただ調べてみても、「赤い櫛」である事例はなく、同時に「櫛をくわえさせる」地域があったりしていまいちわからない。
結羅としては、やはり生命力溢れる赤い櫛が一番似合うということで、「櫛」に関する逸話にさまざまなオリジナルを加えた設定と結論づけて結羅編はおしまいにしたい。
 (2004年8月3日の日記) 
あの日とこの日の殺生丸
原作少年サンデー1997年2月12日(11号)第12話「半妖」

     ☆     ☆     ☆

偶然だが、今日の考察日記は初期のサンデー殺生丸初登場編だったりする。
下書きはできていたが、神楽との別れのエピソードを読んでもう一度書き直した。

この話は殺生丸だけでなく邪見、冥加、犬夜叉の母君(実は無女だが、姿や顔、性格などは犬夜叉が気づかないほど母君そのものなので一応)と、その後の展開に重要な位置を占めるキャラが次々登場。
特に印象的なのが「邪魔だから」大勢の人間をあっさり殺す殺生丸と「邪見」。

この頃はまだ阿吽がいなかったのか、殺生丸も船に乗ったり鬼に乗ったりとなにかと不自由そうだが、邪見は船の場面ですでにそのおちゃらけぶりを垣間見せる。
あの殺生丸がああなり、あの邪見がこうなり、と2人?の歴史を振り返ると今更ながら時の流れを感じずにはいられない。

邪見はアニメの長島さんの快演、怪演の影響もあり、笑えるマスコットキャラに成長したが、最初は平気で人殺してたんだよなあ。
高橋先生は最初から邪見をあんな風に描いていかれるつもりだったのだろうか。
それとも描いているうちに、「こんな感じになっちゃった」のだろうか。

私だけじゃないと思うけど、高橋先生に会うことができたら聞きたいこと、たくさんある。
会いたいなあ、会えたらいいなあ・・・。

犬夜叉と殺生丸が鉄砕牙の取り合いで戦っていた時のかごめ、弥勒が始めて最猛勝にやられた時、邪見が人頭杖効果を発揮できなかったのは、今にして思えばとても幸運なこと。

邪見本人、本体?はたいした力もなさげなのが良かったにしろ、あの頃のかごめはほんとに怖いもの知らずだった、これも懐かしい。
そういえばかごめって、いつも犬夜叉に守られているにしても、ほんと怪我のない子。
酸の海に足を突っ込んだ時くらいじゃないだろうか、大きな怪我は。

実は私はかごめには霊力の他に、「何かに守られている」んじゃないかと心密かに思っている。
笑われそうだから誰にも「言う」つもりはないけど「書いて」みた。
私が霊力の大きさにも関係あるが、かごめが桔梗を通り越して翠子の生まれ変わりじゃないかと思っているわけもここにある。
あっ、もちろんかごめは桔梗の生まれ変わりだけど、なんていうのかな?かつて楓が「ただの生まれ変わりではない」とかごめを見たその気持ちに近いものがある、と言ったらいいのか。

「犬夜叉」のすごいところは、桔梗を復活させたのが奈落ではなく裏陶という、まあレギュラーでもなんでもないただのゲスト妖怪だったことだけど、まかり間違って奈落が神楽のように桔梗復活を演出してたらどうだろう、と先日ふと思った。
でも駄目だ、生臭いものになりそうだ。

奈落に操られ、犬夜叉を苦しめるうちに自分を取り戻していく桔梗・・・、それって神楽だ。
美しき神楽、その誕生にはもしかしたら桔梗復活と不思議な関係があるのかもしれないなんて思ったことも秘密にしておこう。
あまりにも突拍子もないから。

こっそり書いておこう。
高橋先生が桔梗の復活の仕方を模索している。

「奈落にやらせようか・・・。
奈落に操られるままに犬夜叉を襲う桔梗、やがて自我を取り戻した桔梗は自らの意思で犬夜叉や奈落と対決する・・・。
う〜ん、駄目ねえ。

桔梗復活は他の妖怪にやらせておいて、ほらあの奪衣婆みたいな、中世の魔女みたいなあんなイメージで。
人間型の女性じゃないとまずいわよね。

名前ねえ、裏陶じゃどうかしら?(担当さんとの会話をイメージ、笑)」

その名残が神楽だったり琥珀の扱いだったり・・・、するわけないか。
でもまあ桔梗が奈落の手により復活していたら、少なくとも神楽はいなかったわけだ。
四魂のかけらを使って神楽を生み出したり七人隊を復活させた奈落、「本物の妖怪になる」ためじゃなくて「桔梗を復活させる」ためにかけら集めをすることは思いつかなかったらしい。

桔梗と神楽のためによかったよかった。

そして殺生丸。
前にも書いたが、最初にアニメ、次に中期の原作(七人隊復活前のあたり)の順に殺生丸を見ていたので、その後コミック1巻に戻って初登場の殺生丸を見た時の衝撃は大きかった。
「可愛すぎる・・・。」

そのDangerousBoyが今では他人を思いやる優しさを身につけ、美しく成長した。
柄にもなく母の心境になって喜んでいる次第。
 (2004年8月26日の日記) 
犬夜叉の母君
原作少年サンデー1997年2月19日(12号)第13話「母の顔」

     ☆     ☆     ☆

犬夜叉の母君、母であって母でないその女性の正体は無女だった。
それは今更語る必要のないことだが、何度か読み返すうちに湧き上がってきた疑問がある。

無女=母君は犬夜叉でさえ何の疑いもなく受け入れるほど、顔も声も性格までが母親そのものだった。
これはなぜか。
無女はどうやら触れることで初めて相手の心を読めるようなので、そのままでは母君に化けることはできまい。
そうなるとこれらは全て殺生丸の記憶ということになる。

これは非常におもしろい。
私は個人的には犬夜叉と殺生丸の父君は、初めに殺生丸の母君(妖怪)を愛し、その母君が亡くなってから犬夜叉の母君(人間)を愛し、犬夜叉を得たと思っている。
と言うより願望?(笑)
平安時代の貴族社会は一夫多妻制であったとされるので、同時に2人の女性を愛したという説も否定できないが。

いずれにしても殺生丸にとっては犬夜叉母子は父君を奪った憎い敵。
アニメで初めに見た殺生丸はクールで理知的なイメージが強かったが、原作をよく読んでみると、心の中に父に対する敬愛とその父を奪った母子に対する憎悪の念が強く感じられ、ある意味子供っぽさが感じられたのが不思議だった。

いつも桔梗と奈落を比較して書くことだが、奈落に限らず恋しい人に振られた場合、憎まれている方がまだ幸せだろう。
関心を持たれなくなるよりは。
もちろんそれはそれで辛いことではあるけれど。
(そんな歌もあったけど思い出せない。)

殺生丸にとっては犬夜叉も母君も同様に、憎みつつも関心を持たずにはいられない存在だったようである。

「原作アニメ比較」でも書いたが、妖怪の年の取り方はとてもおもしろいけど難しい。
私は「奥義皆伝」を読むまでは、殺生丸は22,3歳だとずっと思っていた。
「奥義皆伝」によると犬夜叉は人間換算15歳、殺生丸は19歳だそうだ。
この「人間換算」というのがおもしろくて、普通に考えると殺生丸500歳、犬夜叉496歳とかそんな世界になってしまうので(笑)、見た目と精神年齢と身体的な成長の度合いで人間ならば19歳と15歳とみなすことは確かにできる。

ただし犬夜叉が眠り続けていた50年間も殺生丸は成長し続けていたことになるから、実際は犬夜叉と殺生丸は元々は1つか2つしか離れていないと考えることもできる。
ここで前のおさらい。

アニメで平安時代の蹴鞠の回想シーンが何度も出てくるが、あの設定は私は高橋先生側にリサーチして、しっかりした時代考証の元に作られたものだと思っている。
というか、勝手に作っていいものではないと思っている。
ここで犬夜叉は2,3歳に見えるし、後に出てくる紫織も幼く、母は若い。

一方地念児。
ここからはあくまでも個人的な意見だが、彼も犬夜叉たちと同世代か少し上くらいに見える。
だが「かごめくらいの時」に地念児の父と知り合った母はすでに老婆。
私の言いたいことがおわかりだろうか。

犬夜叉は500年単位で生きているのに15歳にしかなってなくて、それでいて2,3歳頃までは普通の人間並みに成長しているのである。
生まれた時から何十年に1歳年取る生活だったら、母君があそこまで若くいられるはずはない。
そう考えると、地念児の母が老いてはいてもまだ生きているということは、地念児自体が下手すればまだ5,6歳でなければおかしなことになってくる。

以前ゲーム製作に関わったことのある友人に聞いた話だが(「パラレルワールド 〜妖怪の分類」参照)、実際ゲームを作る上で、こういった場合はやはり幼い頃は人間並みの速度で成長し、年を取るにつれて成長の速度がゆっくりになっていくというように設定されているそうである。

それにしても殺生丸という妖怪と、犬夜叉という半妖の年齢差が500年の年を経て4つしか違わないと言うのは不思議なことかもしれない。
 (2004年9月5日の日記) 
無女
原作少年サンデー1997年2月26日(13号)第14話「無女」

     ☆     ☆     ☆

逆髪の結羅にしてもそうだが、無女でもかごめがいなければ犬夜叉は確実にやられていて、「犬夜叉」が終わってしまいそうなことが時々ある。
特に初期の犬夜叉にとっては、かごめは封印を解いてくれたありがたい存在でもあったが、逆にいろんな事件に巻き込んでくれるトラブルメーカーでもあったわけで(笑)。
蜘蛛頭にしても事件に巻き込むのはかごめ、実際に戦うのが犬夜叉、というシチュエーションは当時結構笑えた。
そういえば最近単純に笑うことってあんまりないような気がする・・・。

そのそもかごめが戦国時代に来なければ、楓や鬼蜘蛛奈落も四魂のかけらに絡むこともなかったわけで、そう考えると、この頃の「犬夜叉」って今に比べるとものすごくシンプルだった。
かごめも相手が邪見とはいえ、がんがん飛びかかっていくし、アニメとはまた違った気の強さがすごく新鮮。

私の犬友の中には、私と同じようにアニメから「犬夜叉」に入り、後で原作を読んだ人が何人かいるが、「原作の絵を見てショックだった。」という人がいる。
アニメのキャラの方が可愛いかっこいい、特に初期の犬夜叉や殺生丸は絵が違う〜と言うわけ。
たしかに私も原作の殺生丸初登場を見た時は、ある意味ショックだった(笑)。

ただし私のような原作派にとっては、この1カットごとに微妙に表情や顔つきの違う原作の絵が素敵だと感じる。
内容だけではなく、私が魅力だと感じる部分で、「だからアニメがいいんだ。」と言われてしまうと、う〜んと唸ってしまう。
最近よく話題に上る、以前の考察日記だが、もしかしたら以前の私は同じ場面を見て、私とは違う感じ方をしている人がいるという常識を、全く念頭に置いてなかったような気がする。

当時は私と同じ感じ方をする人しか来られなかったので、特に問題にもならなかったが、今になってさまざまな捉え方をする方がいらして違和感を感じられるのだろうか。
以前の日記を読み直して推敲する作業、自分の中では恥ずかしいばかりでいっそ全部消してしまいたいと思うことも多々あるが、それでいてあまり直していないのは、やはり当時は当時でそれなりの信念があったせいだろう。

でもこれがネットのいいところ。
仮に、だが私が本など出してしまったらもうどんなに直したくても直しようがない。
ネットだからとりあえず削除すれば消える。
そのことに甘えて好き勝手書くのはいけないと思うが、どうも迷走状態に入っているような気がする、私が。

話を戻して無女、飢えや戦で子を失った母たちの無念の魂が寄り集まって生まれた妖怪。
「犬夜叉」の中ではずいぶん正統派と言うか、現実にもいそうな妖怪。
犬夜叉の母君に化ける特殊能力を、狐の化かしのように考えれば馴染みやすい。

初期の「犬夜叉」は百足上臈に屍舞烏、肉付きの面に無女とけっこう地味&現実的な妖怪と、逆髪の結羅、雷獣兄弟飛天満天、そして鋼牙、殺生丸といった、妖怪であって妖怪でない?強烈なイメージの妖怪とが交じり合って戦国御伽草子の世界を作り出していたが、最近はどうも戦国風味が薄まってきたように思えるのは残念。

話が深みを増すにつれ、特定キャラに存在感が集中し、新たなキャラ妖怪を待つ楽しみと言うのがないのは寂しい。
たしかに鼠の大群や巨大ナメクジはインパクトあったけど(笑)。
今日はどうも話そのものよりも関係のない話に移りがちだった、どうも気持ちが集中できない気がする・・・。
 (2004年9月10日の日記) 
黒真珠
原作少年サンデー1997年3月5日(14号)第15話「黒真珠」

     ☆     ☆     ☆

今は懐かし黒真珠。
なんで今頃サンデー1話から感想書いているのか、自分でもよくわからないが、当時に読んだり見たりした時の感想と、宝仙鬼を知った後での感想はだいぶ変わってくる。

「父君の墓=鉄砕牙が納められた場所」があることを犬夜叉は知らず、殺生丸は知っていた。
しかもその場所を知るものは誰もおらず(冥加すら知らず)、犬夜叉の潜在意識の底に隠されていた。
ただし冥加は父君の墓に鉄砕牙があることは知っている。
しかも偽の墓とわかっていて別の墓の墓守をしていたふしがある。

殺生丸の初登場回で邪見が人頭杖を使って本物の墓かどうか試していたが、あそこが冥加が守っていた偽墓かもしれない。
アニメではその辺をはっきり打ち出していたが、最初人頭杖は、墓を捜すためには何の役にも立っていなかったわけで。
なんとなく元々邪見の持ち物という感じが強いので、邪見が「これならお墓を探せますよ。」と売り込んで、人頭杖ごと殺生丸のお供になったのかと最初は思った。

でも結局は黒真珠に対して人頭杖が正しい反応を示す。
つまり父君か誰かが殺生丸に父君の墓に鉄砕牙が納められている事を伝え、場所は教えずヒントとして人頭杖を与えたことになる。
しかも殺生丸はその刀を「自分が得る」ことができると信じていた、これも不思議。

後で出てくる天生牙との兼ね合いを考えると、鉄砕牙は元々犬夜叉の物であり、殺生丸には最初から権利がなかったかのように思えるが、もしも殺生丸がこの時点で人を愛するとまではいかなくても、他を慈しむ心を持っていたら、殺生丸の物になっていたかもしれない。
それでも良かったのだろうか。

たとえば犬夜叉があまりにも幼すぎて遺言を伝えることができなかったとしても、なんとなく殺生丸が可哀想な雰囲気。
冥加のような立場の者に、「犬夜叉が15歳になったら渡してやってくれ。」と言ってもいいようなものだし。
鉄砕牙を作った刀々斎と、黒真珠を作った宝仙鬼は墓のことを知っていたと思うので、適当なことを言って殺生丸に人頭杖を渡したのは刀々斎かな?

もちろんこの当時の高橋先生がそういった先々の設定をされていたかどうかはわからないが、物語にこじつけてみた。
これから書くことは、私の「犬夜叉たちの父君は、殺生丸の母君が亡くなってから、犬夜叉の母君を愛した」という前提に成り立つのだが、まあ父君の二股はあり得ないことではないが、考えたくないのでパス。

殺生丸は父君が人間の女性を愛した時点で物心ついており、母親への思いと父君が他の「人間」を愛したことへの怒りで、人間を憎み、冷酷な性格になってきていた。
百年単位で成長する妖怪であっても、経験は人間と同じように1日ごとに重ねているわけだから、人間への憎しみも人の一生よりはるかに長く抱き続けていたことになる。

母君に似せた妖怪を使い、その妖怪もあっさり殺し、犬夜叉や人間も本気で殺そうとする殺生丸を見ていると、初期の「クールで理知的なお兄様」のイメージがだいぶ薄れてくる。
邪見もけっこう憎々しいとこあるし。
邪見があんなにキュートになったのは、絶対アニメの影響も半分あるはず(笑)。
もし犬夜叉の母君が妖怪だったら、人間に対してこれほどまでの憎しみは持たなかっただろう。

一方犬夜叉はまだ幼い。
当時の通例として、犬夜叉の父君と母君は通い棔?
竜骨精との戦いで瀕死の重傷を負った父君は、この兄弟の将来、同時に偉大なる父妖怪の後を継ぐものとして育たなければならないことを考える。

殺生丸を犬夜叉とあえて命がけで戦わせ、その中で強さと優しさを身につけるようにさせる。
それが父君の厳しさなのかと、勝手に思った。
だってまともに考えたら、殺生丸がちょっかい出さなきゃ犬夜叉は鉄砕牙のことを知らずに終わるんだし、殺生丸との戦いの中で本当の強さを身につけ、鉄砕牙を使いこなすようになったのだから。

もちろん奈落の力も大きいが、さすがにそこまでも予想はしていなかっただろう。
それでも必ず竜骨精のような強敵が現れ、死闘を演じることになるだろうとは思っていただろう。
偉大であればあるほど守るべき物、守るべき世界は大きい。

アニメ「豹猫四天王」や映画「時代を―」、内容はともかくとして、あのような縄張り争いや侵略者との戦いの構図は納得できるものだった。
それにしてもこの墓、後に「あの世とこの世の境」として犬夜叉たちが再訪することになる。
刀を納めるためとはいえ、殺生丸の母君も、犬夜叉の母君もそこにはいないようなのが寂しい気がした。
以前から書いてきてることだが、犬夜叉にしろ紫織、地念児にしろ人間のみがあっという間に年老い、父母が生きていたとしても一緒に暮らすことはできないだろう。

両親は愛し合ったのだから満足かもしれないが、子供は大変だ。
犬夜叉は仲間を得て、地念児は村に受け入れられた。
でも紫織は?
紫織は今どうしているのだろう。

ところでこれから犬夜叉が行くことになる父君の墓。
私の中で一番印象が強いのは、原作でもアニメでもなく、実はPSのゲームだったりする(笑)。
その迷ったこと。
アイテムがやたらとあって、持ちきれずに無駄に気力体力回復したことなど今思うとおもしろかったな、あのゲーム。
やっぱり「呪詛の仮面」よりこっちが好きかも・・・。
 (2004年9月16日の日記) 
鉄砕牙
原作少年サンデー1997年3月12日(15号)第16話「鉄砕牙」

     ☆     ☆     ☆

ストーリー自体の感想はすでにアニメ比較で書いているので、今日は「犬夜叉の強さ」について。
強さと言ってもいろいろあるが、今まで精神的な強さ、内面的な強さについては何度も書いてきたので、今日はそのまんまの強さ。

16話にして鉄砕牙と対面する犬夜叉だが、それまでは主に「散魂鉄爪」と「飛刃血爪」で戦ってきた。
この名付け親って冥加だろうなあというのは置いといて、最初に鉄砕牙に触れ、結界に阻まれるのが殺生丸。
とりあえずは触れるけど、抜くことができないのが犬夜叉、あっさり抜くのがかごめ。

当時はまじめに読んでたけれど、何度も読み返しているとなんだかギャグに見えてくる。
かごめがいなかったら、2人とも鉄砕牙を目にしながら入手できずに帰って来てたかも。
殺生丸に100%足りないのは他を思いやる心、犬夜叉に足りないのは50%しかない他を思いやる心。
りんを救い、神楽を癒した今の殺生丸なら触れるのはもちろん、素手で使いこなすこともできるだろう。

七宝の例をとっても、妖怪=触れることができないというわけではないし、一応人の手をつけてた時の殺生丸は使いこなしていたし。
ただし殺生丸に金剛槍破は無理だろうが。

それはともかく、鉄砕牙を手にしてからの犬夜叉の強さは全て鉄砕牙に集約される。
実はこれが物足りない。
風の傷から爆硫波へ、赤く変化し究極奥義?は金剛槍破。
アニメでアクションシーンを見ていても、鋼牙や弥勒の肉弾戦の方がおもしろかった。

もちろん犬夜叉の内面的な強さ、成長は別の形で描かれるが、高橋先生がここまで鉄砕牙にこだわる理由は何だろう。
父の牙より作られし鉄砕牙、人を思いやる心により鉄砕牙を変化させ、竜骨精を倒すことで(もしかしたら)父を越えた。
もちろんそれは理解できる。

ただ、戦闘において鉄砕牙に頼らぬ強さもたまには見せて欲しかった。
だからといって雷撃を起こしたり火を放ったりされても困るが。
その意味でも犬夜叉の強さはとても人間くさいというか、そんなものを感じる。

犬夜叉はおそらく妖力の面では、妖怪にはかなわない。
せいぜい驚異的な跳躍力と、体力と耐性(傷の治り具合の速さも含め)くらいだろう。
四魂の力に頼る奈落はともかくとして、殺生丸と比較するとそれがよくわかる。
その妖力を補うものが鉄砕牙であり、形見として次男坊に残した父君の意思だったのだろうか。

今回おもしろいのは、かごめの存在。
邪見を取っ組み合って泣かせているが(笑)、邪見が百足上臈のように腕をもがれたりしなくて良かった。
人間の一軍団を焼き殺したりしてるんだけど・・・。

この時の殺生丸を挑発するかごめの小気味よさは今ではほとんど見られず、妙に落ち着いてしまったのが寂しい。
私は高橋先生の「漫画の書き方」は存じ上げないが、このように邪見のキャラひとつとっても試行錯誤を繰り返されたのだろうと感じられた部分がある。

鋼牙の人喰い問題にしてもそうだが、邪見キャラが現在では信じられないような残虐性と、同時に今の邪見の基本となるおもしろさ?を兼ね備えているのは興味深い。
今の邪見が笑いながら人間を焼き殺すなんてあり得ないだろう。 もちろんだからといって邪見が成長したとか思いやり深くなったといったといった変化を遂げているわけではなく、邪見はまんま邪見である。
冥加や邪見は殺生丸や犬夜叉のような「成長」の過程がそのそもない。

「犬夜叉」、何度も読んで何度も見ているが、アニメはさすがに30回くらい見返すと、それ以降の感想は変わらない。
原作は何度読んでも全台詞を暗記するほど読み返しても、次々と違う感想が出てくる。

アニメと原作の比較、結局は原作者の意思ではなく、受け取る側との相性の問題なんだなあと思った次第。
 (2004年10月1日の日記) 
犬夜叉的性格
原作少年サンデー1997年3月19日(15号)第17話「変化」

     ☆     ☆     ☆

かごめが抜いた鉄砕牙は、結界に拒まれなかった犬夜叉の物となる。
初読したときはなんとも思わなかったが、今この時の殺生丸の心理状態を考えてみると、興味深いことがわかってくる。

鉄砕牙が欲しかったのに半妖の弟に奪われた、そんな単純なものではなかったろう。
もちろん天生牙ガ登場するのはずっと後、この時点で天生牙の存在は知らなかった。

そうなると単純に犬夜叉と殺生丸は「父君の形見の鉄砕牙を兄弟で奪い合った」ことになる。
もしくは「父君が弟だけに形見の鉄砕牙を残した」ことになる。
半妖として弱く、虐げられる立場にある犬夜叉のことを思って、犬夜叉のためだけに刀を残した、最初はこう解釈した。
殺生丸は完全なる妖怪として、父君より無類の強さと妖力を受け継ぎ、「刀などなくても大丈夫」と思ったと。

隠し場所のヒントが「犬夜叉の」目の中にあったことが何よりの証拠だと思えた。
鉄砕牙が「犬夜叉のための」形見だということを、殺生丸が知っていたかどうかは置いといて、自分が結界に拒否され、犬夜叉が受け入れられなかった時の殺生丸の気持ちはどんなものだっただろうかと思って胸が痛んだ。

父君を奪った人間と半妖の親子、鉄砕牙までもが自分を拒否し、犬夜叉を受け入れる。
殺生丸の誇りも傷ついたかもしれないが、気持ちも傷ついたのではないだろうか。
数百年の時を生きながら、経験に基づいた精神的成長がないとすれば、犬夜叉親子への憎悪の念は、薄れることなくむしろ殺生丸の中でより強く、より暗く濁り澱んでいったに違いない。

普通に365日で1歳年をとり、子供から大人へ、やがて中年の域にさしかかり、老人と呼ばれ、80〜100年で生涯を終える人間にしてみれば想像がつかないのが妖怪の心。
犬夜叉のように人と関わりを持たずに(桔梗に会うまで)生きてきた立場ならともかく、いろいろな出会いがあって命懸けの戦いもして数百年、それでいて「心」は10代の見かけどおりの殺生丸や鋼牙を見ていると、一度これまでの人生を語っていただきたくなってくる(笑)。

妖犬化してまで、これまで蔑んでいた犬夜叉と戦う殺生丸の心には、おそらく犬夜叉と父君への怒りが満ちていたのではないだろうか。
後になって天生牙の存在が明らかになるが、「斬れぬ刀」と信じていた殺生丸にしてみれば、この時の心理状態はそんなにずれてはいないように思う。

当然のことながら、「犬夜叉」は特に最初は「犬夜叉の側から見た物語」として描かれ、殺生丸などは「悪役の兄」であることを強く打ち出しているが、何度も読み返してみると、殺生丸の父親への屈折した想いが感じられる。
現在、すっかり落ち着いた殺生丸が、父君に想いを馳せる場面はないが、今、犬夜叉に、殺生丸に、父君に対する想いを垣間見せて欲しいような気がする。

実は映画で「過去」が関係ある設定だけにちょっと期待しているのだが・・・。

さて犬夜叉。
私は主役の犬夜叉というキャラには、それほど個人的な思い入れはない(アニメも原作も)。
鋼牙が好きだが、鋼牙にもそれほど個人的な思い入れはない。

自分でも不思議だが、たとえばパーティーなどに行ったとして(笑)、犬夜叉鋼牙、殺生丸タイプよりも、奈落、睡骨タイプタイプの人を選んでしまう、そんな性格だからだろう。
基本的に主役バリバリのかっこいい人よりも、暗い人が好きなのかも。

だいたい映画でも小説でも、主役よりはNo.2の地味キャラ、渋キャラ、おじさんキャラが好きな人です、はい。
どなたかそんな私の心理状態を考察してくださらないだろうか(笑)。

もうひとつ思うことは、犬夜叉のそばに邪見や楓が、殺生丸のそばに邪見がいることって、2人にとってとてもプラスに働いているなということ。
邪見なんて思い切りストレス発散の対象になっているけれど、ある意味殺生丸が十代の少年らしさを見せることができる相手だと思う。
アニメでも殺生丸と邪見の出会いがオリジナルで描かれていたけど、あれはおもしろかった。

できれば原作でも振り返って描いて欲しいと思う。
原作「犬夜叉」は常に先へ先へ進むことが義務付けられているけれど、時には過去を振り返ったエピソードもサイトストーリー的に挿入して欲しい。
いえ回想シーンとしてではなくて、独立した物語として。
アニメで時間稼ぎでもよく見られた手法だが、内容にはそれぞれの感想はあるものの、あの作り方は好きだった。

今回は、役に立たないボロ刀の鉄砕牙が、かごめの、犬夜叉の言葉により反応するところまで。
こうして昔の原作なりアニメなりを振り返って考察することは、リアルタイムでは出てこなかった感想が出てきて、自分でも驚くことが多いのだが、同じ文章の繰り返しになることも多いようだ。

特に最近の考察日記。
きちんと以前の分を読み直してから書けばいいのだが・・・。
おまけに誤字の多さには我ながらあきれ果てている次第。
「過去の日記」の推敲、気持ちはあっても実際に取りかかれるのはいつのことやら。

サンデー感想、毎日休まず書いたとしても(書けないけど)、現在380話までおよそ1年。
もちろん原作はまだまだ続くから1年たっても、まだ終わらない。
おそらく本格的な推敲はその後になるかも、有言無行で申し訳ない。

けれども、いつの日か原作が終わってサンデー感想が終わった日、私に何が残るのだろうか。
もちろん他コンテンツや「十二国記」などもたっぷり書きたいことはあるけれど、このように毎日文字に追われるようにしてキーを叩き続けることはなくなるのだろう。
今から寂しい(笑)、私、完全にパソコン中毒だ・・・。

今日は犬夜叉の性格について書くつもりだったが、殺生丸メインになってしまった。
タイトルとずれたかな?
 (2004年10月4日の日記) 
妖怪体質
原作少年サンデー1997年3月26日(17号)第18話「形見」

     ☆     ☆     ☆

犬夜叉が人を想う心で「かごめを守る」ことを決めた時、鉄砕牙が変化する。
鉄砕牙は、父君の意思は犬夜叉を試し、その想いに応えるが、同時にその刀は、父君の意思はもう一人の息子を傷つける。
父君が殺生丸を愛していなかったはずはない。

犬夜叉が生まれた時、殺生丸にすでに異端の血が混じった弟を厭う気持ちが芽生えていたなら、父君はその憎しみを危惧したのではないだろうか。
大妖怪の血を引くものとして、心に憎しみを持つ息子であってはならないという強い意思があったのか。
結果的にこの兄弟は死をかけた戦いの中で、本当の強さと優しさを身につけていくことになるのだが、最初の死闘は、殺生丸の体にとっても心にとっても非情な結果となった。
自ら招いたことはいえ、気の毒と、今なら思う。

当時の殺生丸は単なる弟嫌いのお兄様って形の敵キャラだったので、その心情にまで思いを巡らすことはなかったが。
当時の絵の影響もあるけど。

このとんでもない兄弟喧嘩が父君の予想を越えたものであったとは考えにくい。
天生牙は普通に殺生丸に与え、鉄砕牙は隠しておく。
殺生丸は最初から犬夜叉の鉄砕牙を「横取り」する意思はなさそうだった。

天生牙は当然の権利としてもらい、「斬れぬ刀」だったこともあって鉄砕牙も欲しかったように見える。
鉄砕牙が犬夜叉のものという意識があったら、その憎しみはもっとひどかっただろうと思うから。
偉大なる妖怪の後継者としての宿命なのかは知れないが、それにしてもその代償は大きかった。

弟は自分を殺そうとする兄の左腕を切り落とす。
さらに追い討ちをかけ、鉄砕牙は殺生丸の胸?をも切り裂き、殺生丸はさらなる深手を負い、退散する。
風の傷を会得した時の、止めをさせない犬夜叉のためらいはまだ見られず、もちろん犬夜叉もいっぱいいっぱいの状態。
手加減などしていたら自分が殺されていただろう。

風の傷の時は天生牙が殺生丸を守るが、この時も見えないだけで守っていたのか、それとも天生牙もまだ眠っていたのか。
もしかしたら天生牙の守護を、まだ霊力が完成していないかごめが見えなかったのかもしれない。

この時点で先生の頭の中では、後の天生牙、兄弟の関係、宝仙鬼がらみのここへの再訪などが、どれほど設定されていたのだろうか、考えると興味深い。
私には、話の流れに解釈をくっつけているだけで、先生がどのように「犬夜叉」を描かれているのかはわからない。
けれども初期の犬夜叉=正義の味方で、兄殺生丸=冷酷無比な敵役の設定を今振り返ってみるとこの8年の連載の期間が、そのまま犬夜叉の8年間につながるような気がする。

実際は犬夜叉とかごめが出会ってから1年もたっていないだろう。
受験、学校生活、朔の日などをわざと曖昧にして時間の観念をなくしているが、この時間の流れと犬兄弟を初めとした成長の度合いが曖昧なのが、犬夜叉世界の不可思議感につながっているのかも。

さて妖怪体質について。
結羅編でかなりの深手を負った犬夜叉が、ものすごい回復力を見せていた。
この後、片腕をなくした殺生丸を見て、ああ殺生丸の腕もまた生えるんだろうなあと思った私(笑)。

半妖犬夜叉でさえあれだけの再生力を見せるのだから、妖怪殺生丸ならもっとすごいだろうって思ったわけ。
けれどもその後出てきた殺生丸は、片腕のままだった。
そうするとあの体質は、犬夜叉独自のものなのかな?

まあ鋼牙も殺生丸も何日くらいかは明示されないが、治りは早いようだけど。
でも犬夜叉が利き腕ではない左腕を切り落としたのは、ある意味優しい?それもたまたま?
私は父君の墓がある場所は時の流れが止まっているというか、時間の影響を受けない場所のように見えるので、腕はそのまま落ちていると思っている。

妖犬の形のままでは大変だろうが、人型の腕に戻っているのなら拾ってくるのは邪見の役目だろう。
邪見はすっかり忘れているようだが(笑)、意外にまたくっつくのは容易かも。
四魂のかけらでくっつけるって方法もあり、前やってたし。

この後かごめ達が楓の家で語り合う内容についてはアニメ比較で書いているので控えるが、かごめが来た最初の夜、楓の家までついて来て寝っころがってる犬夜叉の図、今見ると不思議な気がする。

四魂の玉欲しさ、おすわりに対する怒りなど興奮状態にあって意識していないのかもしれないが、人間に対して強い警戒心を持ち、近づくと威嚇する犬のように刺々しかったはずの犬夜叉のこの態度。
以前の犬夜叉なら人間の家の中に気軽に入ることなど考えられないだろう。
桔梗がいてもしかり、である。

桔梗との恋が成就して仮に人間となって、村という人間社会に受け入れられて初めて入る、そんな気がする。
けっこう長い道のり。
桔梗にとっては気のおけない恋人でも、桔梗もそれほど気さくなタイプではないし、楓のように取り持ち上手な老人タイプの人もいなかったようだし。
そんな人がいたら、桔梗があれほど孤高の巫女である必要はなかったから。

かごめの持つ自然体、楓の持つ和ませるというか女を感じさせない?雰囲気などは、やはり犬夜叉にとって稀有のもので、犬夜叉と人間社会をつなげる媒体としても効果的に仕立て上げられているんだなあと思う。
鉄砕牙を得た時は犬夜叉は家にはおらず、しばらくは外にいる状態が続くが、肉付きの面編で、かごめの連続おすわり攻撃を受けた犬夜叉が、楓の家でばてている図を見て大笑いし、同時に犬夜叉のために嬉しかった記憶がある。
まるっきり孫と祖母、かごめがいなくても楓の家でくつろぐ犬夜叉、いいなあ、嬉しいなあ、そう思ったのだった、懐かしい・・・。

これで2巻までの感想終了。
ここから余談。
アニメしか見ていなかった人が原作を読んで、絵に違和感を覚えられたという意見が3通寄せられた。
へえと思い、信じられな〜いなどとかわい子ぶってもみたが(笑)、実は私、らんまや「うる星やつら」の原作を同様の理由で1,2冊ずつしか読んでいない。

それからルパンや、宇宙船艦ヤマトやナウシカや、いろんなアニメの原作に違和感が強かった。
やっぱり慣れもあるのだろうし、人それぞれの思い入れや好みもあるだろうし。
このアニメ後原作派の方のご意見に関しては、それぞれ許可を頂いて、考察日記で取り上げてみたいと思っている。
もちろん絵だけではなく、内容や手法に関していろんな見方の意見があったとてもおもしろいので。

私個人は、だかららんまや「うる星」など、どれがオリジナルでそれが原作かなんてことはもちろん知らないし、絵が激しく違うことがあっても「ほうほう」と普通に見てしまうし、ばらばらに録画しといて見るから、見るたびにEDやOP違うし。
めぞんは原作も全部読んで、後半大好きになったのでアニメもきちんと見たが、特にオリジナルに対する抵抗はなかった。
響子さんって憧れの女性だし♪
あとかすみお姉さんも♪

「犬夜叉」から入ったせいかもしれないし、思い入れが違うのかもしれないし。
いずれこのテーマも取り上げてみたいと思っている。
 (2004年10月5日の日記) 
九十九の蝦蟇
原作少年サンデー1997年4月2日(18号)第19話「物の怪の城」

     ☆     ☆     ☆

かごめを戦国時代に導いた百足上臈、かけら探しの旅のきっかけを作った屍舞烏、犬夜叉とかごめの関係を1歩近づけた逆髪の結羅、殺生丸登場に加わった無女など、初期の妖怪(鬼)たちは、皆それぞれの役割を持って出てくる。
この後も七宝登場のきっかけとなる雷獣兄弟が出てくるが、今回は九十九の蝦蟇。

「好きなエピソード」で投票はしないだろうが(笑)、蝦蟇初め出てくるキャラのボケ具合、シリアスなのになぜかほのぼの、そんな雰囲気がとても好き。
もう1つ、このエピソードは犬夜叉の活躍する年代、地域を絞り込む上で重要なヒントを与えてくれる。
正しいかどうかはわからないが、私の個人的な考察は「戦国の世」などにまとめてあるのでここでは省くが、犬夜叉の「武蔵の国」発言、織田信長を「尾張のうつけ」と(自分のことは棚に上げて)評するうつけな信長、武田から嫁いだ露姫の立場など。

もう1つ、アニメで信長に「甘利」の姓がつけられたことも付け加えておこう。

ここで確認しておきたいことがある。
私は基本的にアニメのみの設定は、「犬夜叉」として認めない。
以前目立っていたのは北条くんと菖蒲の問題。

かごめの中で犬夜叉への想いが募るにつれて、北条くんは人気キャラにもかかわらず、原作では登場しなくなる。
それはどうしてかと考えた場合、かごめの二股説が浮上しかねないことは当然予想されただろう。
そうでなくても鋼牙がいる。

かごめは1度鋼牙を振っているという前提の元に、それ以降は鋼牙の勘違いを否定することもなく、曖昧な態度を取り続ける。
もちろんギャグ面で、犬鋼漫才が必要という意識もあるだろう。
対奈落の同志意識と辛うじて容認される部分もあるだろうが、アニメでは最近まで北条くんが登場していた。

その結果、かごめの二股どころか三股疑惑が浮上、考えてみれば理不尽な話である。
アニメでかごめが北条くんと両想いになることもできないし、逆に北条くんをはっきり振るわけにもいかない。
この曖昧さが、アニメのかごめに与えた影響は大きい。

もう1つ、菖蒲は完全なオリキャラ。
かごめ一筋の鋼牙の純粋性が、これまた曖昧なものになってしまった。
特に菖蒲がとても魅力的なキャラだったことから、「鋼牙が意識しておらず、菖蒲が勝手に想っていた」状態が、「鋼牙と菖蒲はかつて両思いだった」ように捉えられたファンが当時非常に多かった。

他の人がどう思おうがその人の自由、そう思ってしまえばそれまでだが、私の中には「犬夜叉」をありのままの形に受け止めて欲しいという気持ちがある。
原作に従えばかごめは三股などでは決してないし、鋼牙は昔も今もかごめ一筋だし、その部分まで誤解されたらちょっと可哀想な気がする。

こういったことは他にもいろいろあるが、逆にアニメ設定を受け入れてもいいと思われる部分。
それが主に時代考証。
犬夜叉が生まれたのを平安時代とする回想シーンや、今回の「甘利」の姓。
とれを間違えると「犬夜叉」の世界観を変えるどころか「嘘」になってしまうので、この辺は綿密にリサーチされたと思っている。

上記の理由で、私はうつけ信長が甘利姓なのは事実として受け止めている。
前述の「戦国の世」で書いたとおり、それで筋が通るからである。
もちろん私の歴史の知識など微々たるもので、間違っていることも当然あり得るが。

これらのヒントから犬夜叉が活躍していた時代を想定するのはとても楽しいことだった。
さらにこのエピソードはうつけな信長の他に、天然ボケの露姫、さっぱり顔の殿様、そして九十九の蝦蟇に日吉丸と出てくるキャラがみんないい雰囲気。

蝦蟇の舌が2度も信長を貫くなど、包帯で腕を吊るくらいでは済みそうもない大怪我など突込みどころも多いが(笑)。
さらにアニメでは三国無双の姜維の「声が引っくり返る」殿様菅沼久義さん、「十二国記」の犬狼真君石田彰さんと大好きコンビも登場で無条件で楽しめた。
 (2004年10月7日の日記) 
火に弱い
原作少年サンデー1997年4月9日(19号)第20話「九十九の蝦蟇」

     ☆     ☆     ☆

それにしても九十九の蝦蟇編、七宝が仲間入りしてからでは成り立たない話なのがおもしろい。
熱い物を探せ、狐火!で終わってしまっては間の抜けた話になってしまいそう。
もっとも蜘蛛頭でも狐火を有効活用しつつ苦戦してたから、それなりの話には仕上がるだろうが。

今振り返ると、四魂のかけらも「翠子の意思」が信じられない適当な?使われ方をしていることに気づく。
最たるものは満天の毛生え薬だけど(笑)。
やはり四魂の力も、その妖怪の妖力の程度に応じた力を見せるのだろう。

そう考えると後にかけらを使って鉄砕牙を操る殺生丸、ほっとけば腕が再生なんておこともあったかも。

緊迫した場面でやたらとボケまくる信長と露姫が楽しくて?何度読み返しても笑ってしまう。
どう見てもカエル体型なのに気づけぬ露姫も可哀想と言えば可哀想なんだけど、なぜか笑える。

こういうお笑いモードの?死闘というのは今まで見た事がなかったので、すごく新鮮に感じたことを覚えている。
 (2004年10月9日の日記) 

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