犬夜叉サンデー感想(第21話〜第30話)
人の心
原作少年サンデー1997年4月16日(20号)第21話「残された心」

     ☆     ☆     ☆

私がアニメで初めに見た時はさほど思わなかったが、原作を読んで思った不思議なことが楓や村人の犬夜叉に対する態度。
桔梗を殺した(ように思えた)犬夜叉という半妖に対して、憎しみといった感情はあまり見られず、むしろ「しようのない悪餓鬼」程度の意識しかないように思えたこと。

紫織や地念児に比べて優しいというか、それほど差別意識、軽侮の念といったものを感じなかったといえばいいだろうか。
四魂の玉を狙ってちょろちょろして、袖だの裾だの縫い止められている姿も子供っぽいというか可愛いというか。
平安時代、母と共に蔑まれて生きてきて、母の死後は人間との関わりを断ったと見られる犬夜叉だが、その固くなささがむしろ人との共存を遅らせたと言えよう。

たとえば楓のような、あるいは冥加のような一般の人々との仲立ちをしてくれるような存在がいれば犬夜叉も違っていただろう。
逆に言うと、「偽の墓守」をしていて犬夜叉のそばにいなかった冥加の立場が奇異に思えてくる。

まあそれはどうでもいいのだが、今回の犬夜叉、九十九の蝦蟇の中に人がいることを知る。
ここでかごめが制止したことになっているが、意外とかごめが止めに入らなくても、犬夜叉は蝦蟇を殺せなかったんじゃないかと思える。
これが内面からにじみ出る犬夜叉の人の良さであり、楓と桔梗の村の人々からも「嫌われて」はいなかった理由だろう。

四魂の玉を狙った時のかごめ、小吉(屍舞烏)など人に手をかけそうになる場面、というより自分のしたことで人が巻き込まれても頓着しない、といった気の荒さは確かに見られるが、やはり犬夜叉の本質が善性である事は、ちょっと見ればすぐにわかることと思う。
それが桔梗に出会うまで、ただの1人も犬夜叉と親しくとまではいかなくても近づいた人はいなかったのだろうか。
何百年もの間、そこまで孤立していた犬夜叉の性格背景は非常に興味深いものがある。

「犬夜叉」では琥珀と親しむ年寄り夫婦、犬夜叉が助ける老人など親しみやすいキャラが出てくる。
私が「犬夜叉」で大好きな部分だが、これまで犬夜叉とそういう人間との出会いがなかったことが、その後の悲劇につながったのかと思うと不思議な気がする。

私にとって犬夜叉という存在はあまり異性を意識しないというか、むしろ弟のような存在。
生死を越えた悲劇の中で、それでも犬夜叉の感性は15歳の少年のもの。
アニメの犬夜叉もまたしかり。

鋼牙が好きだが鋼牙もどちらかというと弟感覚。
これは必ずしも年齢的なものではなく、やはり原作とアニメを通して私が感じるイメージだろう。
先日友達とおもしろい話になった。

私はアニメの犬夜叉をより子供っぽく感じ、友達は原作の犬夜叉を子供っぽく感じたとのことだった。
もちろん絵や声のそれぞれの印象もあるけれど、声優さんの影響も大なのかな?

九十九の蝦蟇から話がそれたが、今回は犬夜叉が持つ「人の心」について書いてみたかった。
 (2004年10月11日の日記) 
優しさ
原作少年サンデー1997年4月23日(21,22合併号)第22話「命乞い」

     ☆     ☆     ☆

九十九の蝦蟇の中には殿様がまだ存在していた。
それを知った犬夜叉は、蝦蟇を斬るのを躊躇する。
これがかごめや信長の命乞いの結果だろうと思っていたが、最近違うのではないかと考えるようになったことは先日書いた。
犬夜叉の生来の優しさの現われと私は捉えているが、そうなると桔梗に出会うまでの犬夜叉の生き様についても想いを馳せずにはいられない。

犬夜叉にとって、半妖というキーワードはとても重要である。
妖怪ではなく人間でもない、中途半端な存在。
よってずっと虐げられながら孤独のうちに生きてきた、そんな風に感じていた。
実際紫織や地念児はそのような形でいじめられていたし。

しかし何度も原作を読み返すうちに、また別の考え方が出てきたような気がする。
紫織や地念児の立場と犬夜叉の立場はまたちょっと違うのではないかと。
実は初期の犬夜叉で感じていた考え方に戻ってきたことだったりするが・・・。

「めぐり会う―」で「半妖」を連呼する桔梗の(製作側の)意図が正直言ってよくわからない。
こうした言葉により犬夜叉は虐げられてきたと表現したいのだろうか。
だが私はむしろ、犬夜叉の側が人間界を拒否してきたのではないだろうかと感じている。

いくらかごめがいたにしろ、かけら探しの旅の中で、犬夜叉は全くと言っていいほど差別されたり虐げられたりしていない。
犬耳があってどう見ても人間には見えないのだが、いかにも(妖怪退治以外は)のんきな旅を続ける。
犬夜叉が出会う人々も、特に犬夜叉を意識しては見ていないようである。

犬夜叉1人であれば警戒はしそうだが、侮蔑の念は感じられない。
紫織や地念児の場合は、狭い村の中で「その村の」人達に虐げられていた、では犬夜叉は・・・?

常に半妖として虐げられていたというよりも、遠い昔に何かがあって、それが犬夜叉を人間を拒否さしめ、頑なな性格にしたらしめたのだはないだろうか。
これはもちろん個人的な見解であり、「原作の設定とは異なる」ことは承知の上。
私はアニメオリジナルの蹴鞠のシーン(犬夜叉が貴族たちに虐げられる)はあったと思う。

しかしやはりオリジナルで、子供の犬夜叉が半妖だからと妖怪たちにいじめられていたならば、それはないように思った。
餌ならば妖怪だろうが半妖だろうが、人間だろうが格好の餌だろう。
もちろん半妖に対する侮蔑が全くなかったとは言えない。
特に平安時代の貴族社会においては、たとえば平民と結婚したとしてもその子供は十分差別の対象となっただろうから。

現に逆髪の結羅や百足上臈など、犬夜叉を半妖と呼ぶ妖怪は多い。
もっともほとんどの場合は、種族の違いを表していただけで侮蔑の意味を込めていたのは案外少ないが。

ずっと前に外伝として書いてみたかった小説がある。
持ち前の?文才のなさで断念したが、匿名に甘えてストーリーだけ書いておこう(笑)。

平安時代の貴族社会は1人の男性が複数の妻を持つことは普通に認められていた。
映画「天下覇道の剣」にも見られるように、犬夜叉の父君も平安貴族のような風体で山奥に結界を張って城など作って住んでいたように思える。
実は「闘牙王」という名前は名前というより敬称のような気がしてあまり馴染めない。
だからと言って「闘牙」にすると鋼牙のお父さんみたいだし。

この青年(父君)には同族の妻がおり、イメージ的には犬夜叉たちよりも細く、むしろ透き通るほどの銀髪で誇り高く美しく、激しいものを秘めた女性。
青年はこの妻の激しさを愛するが、同時に人間界で見初めた十六夜(この名前は大好き)にも惹かれる。
十六夜は妻とは逆に儚い美しさと静かな優しさを秘めた女性、この相反する2人の間で、しかし青年は妻の激しさと十六夜の静けさを愛し続ける。

ところが誇り高く、激しい妻には嫉妬の心を御し切れない。
やがて十六夜に子供ができていたことを知った妻の怨念は物の怪となって青年の留守の間十六夜を襲う。
「源氏物語」の六条の御息所の雰囲気かな?
日に日に弱っていく十六夜を救うべく登場するのが陰陽師安倍晴明。

よって十六夜は、高橋先生のおっしゃる没落貴族の娘であったりするとちょっと困る(笑)。
映画「陰陽師II」のように、十六夜を守るべく晴明を雇えるほどでなくては。
晴明の攻撃を受けた妻は瀕死の重傷を負い、竜骨精を倒したものの、やはり重傷を負って帰って来た青年は妻を救うべく駆けつける。

しかしそれも間に合わず妻は死に、青年は妻と共に帰ってくるが自分も最後が近づいていることを知り、形見の用意をし、やはり死ぬ。
一部始終を見ていた幼い殺生丸の心には母から父を奪い、同時に父母を「殺した」人間(特に犬夜叉親子)への憎しみが強く刻み込まれる。

母の凄まじい怨念は死の間際まで十六夜個人だけではなく都にまで被害を及ぼし、妖怪の子を産んだだけではない(人間社会からの)憎しみが十六夜に向けられる。
十六夜は犬夜叉を心の支えに耐え続けたが、やがて若くして死に、犬夜叉の心にもまた「母(十六夜)を殺した人間への」憎しみが生まれる。

犬夜叉の桔梗に出会うまでは激しいまでに頑なでありながら、その後のごくごく普通に人間社会に溶け込んでいる姿を見ていると、必ずしも人間全てが犬夜叉を虐げていたとは思えないのである。
同時に初期の殺生丸の人間に対する無慈悲な行動を見ていると、ただの人間嫌いではないような気がしていた。

父君と殺生丸の母君の名前とか、激情に駆られると瞳が炎のように赤く輝く殺生丸の母のイメージなどそれなりに書き留めてはみたのだが。
そうなると父君もまた、2人の女性を同時に真摯に愛するあまりどちらも選べぬ息子に似た人になってしまうし、何より原作と微妙に変わってくるのが辛い。

しかし、初期の犬夜叉(と殺生丸)の性格を考えると、初期殺生丸は「人間に父君を取られた」からあれほど激しく人間を憎むようになったのだと思う。
何事も起こらなければ、ひ弱で無力な人間にはむしろ「無関心」が似合うだろう。
犬夜叉も、会う人間全てに石持て追われていたわけではなくて、犬夜叉の側から母を死に追いつめた人間社会を拒絶していたような気がする。

だからいったん心の垣根が取れれば(復活後)、かごめや桔梗がいようがいまいが人間との関係を築けていたような気がする。
桔梗やかごめの存在は、それをスムーズにする助けにはなっただろうが、必ずしも必要不可欠なものではなかったと思うのだが、さて・・・。
 (2004年10月15日の日記) 
犬アニ放映開始記念日&松野さんの誕生日
原作少年サンデー1997年5月7日(23号)第23話「肉づきの面」

     ☆     ☆     ☆

2000年10月16日アニメ「犬夜叉」放映開始、そして私と「犬夜叉」、高橋先生との出会いの日。
そして鋼牙の松野太紀さんのお誕生日。
お誕生日TOPを去年は作ったのだけれど、今年はできなかったな、残念。
よって私の中では鋼牙の誕生日も10月16日、数百年前の誕生日、鋼牙500歳?

お祝いにケーキと大きな花束と猪の肉持って戦国時代にお祝いに行きたいな。
とまあそんな話は置いといて、今回は「肉づきの面」。
覚えていらっしゃる方も多いだろうが、アニメでは七宝登場飛天満天編の後に回され、初めて本格的な「オリジナル要素」が挿入された作品でもある。

個人的にも「この妖怪(キャラ)にモデルはあるのか?」と調べ始めた最初の妖怪であり、かごめの現代生活から神社としての形態や雰囲気を確認する上でも特筆すべきエピソード。
そしたらなんと福井県に実際に「肉づきの面」があるという話に辿り着いたのだから狂喜した。
それが私の原作アニメ比較の柱の1本になった。

ただし私が「○○に○○の元となった話があるよ、モデルがあるよ。」と言っているわけではないことは確認しておきたいと思う。
私が上記のように言うとすれば(あり得ない話であるが)、高橋先生に確認して、「そうです、それは○○がモデルなんですよ。」って言っていただいた時だろう。

しかし本人がそう思っていても、読んでくださる側が「そうか、○○はこれがモデルだったのか。」と受け取られることもあるかもしれない。
実は先日掲示板でこの話題が出て、私も自分の文章表現について再考する機会を与えていただいた。
でもあったらいいな(笑)、高橋先生にお目にかかって想いのたけをぶちまけて、聞きたいことは全て聞いて、ついでに鋼牙の絵を描いて欲しいなんて言ったら叱られるかな?

肉づきの面のエピソードに関してはアニメ感想で書いてあるので省略するが、今見ると懐かしいのが北条くん。
あまりにキャラが良過ぎてかごめの三股疑惑に浮上という、幸せなのか不幸なのかよくわからないキャラ。
原作にもかごめにもさっぱり忘れられている悲劇の人。
私は大好きなキャラなので、アニメで出番が多いのは嬉しかった。

それにしてもかごめの学校問題はどうなった。
犬夜叉の仲間たちがひととおり朔犬の姿を見てしまっているので、なにか事件が起こらなければ朔の日もすっ飛ばされることにもなりかねず、犬夜叉とかごめが出会ってからどれくらいの月日がたったのかがわからない。
季節感も意識的に消しているようなので、はっきり把握はできないが、原作が始まったのは1996年の11月だから8年はたっているのかな?(笑)、そりゃないか。

今回のエピソードで一番好きなのが、かごめのおすわり攻撃で腰を痛め、楓の家で這いつくばっている犬夜叉。
このくつろぎぶり、好き。楓も好き。
構えたところのない人って好き、自分が構えてしまいがちだから。
私が実際に犬夜叉に会ったら、「半妖だって知ってることを意識させないようにしなくっちゃ、自然に自然に・・・。」などとあれこれ気を使ってへとへとになってしまうだろう。

癒すどころの騒ぎでなく、犬夜叉にとっても逆効果。
私はわりと気が強くて社交的に見える(らしい)。
実際は小心者で過ぎたことをいつまでもくよくよ悩むタイプ、人付き合いも苦手。

もちろん普通に人付き合いもできるけど、できちゃうことが結構苦痛だったりする。 かごめや楓の相手を警戒させない自然体って憧れるなあ・・・。
 (2004年10月16日の日記) 
かごめの性格
原作少年サンデー1997年5月14日(24号)第24話「壊れた体」

     ☆     ☆     ☆

現代にて妖怪が登場するエピソードは、初期の「肉づきの面」と「タタリモッケ」の2つだけ、「犬夜叉」の中でも異質なエピソード。
内容にも馬夫さんと鹿子さんなんて、後にも先にも見たことないキャラが出てくるのもこの話だけ。
戦国時代ではおとぼけ気味の坊主主従が出てくるが、こっちは単なるお馬鹿キャラ、珍しい。
エキストラの多さでも目立っていたが、珍しいのがかごめの涙。
むしろ気の強さを強調するおかしな場面、その後犬夜叉を井戸に蹴り落としているし(笑)。

時々過去の日記を読み返して、感想に一番一貫性のないのがかごめだったことに気がついた。
原作とアニメのかごめの違いに関しては、意識的に触れてきたが、原作かごめの部分。
その時々で、初期の小気味いいかごめを懐かしんだり、後半の豊かさが出てきたかごめがいいと思ったり。
どうしてかなあと原作3巻を読みながら考えた。

初期の犬夜叉とかごめはすでに惹かれあっているが、その想いはまだ無意識なもので、2人の関係も真夏の冷たいシャーベットのような清々しさを感じさせる。
かごめが好きなタイプを聞かれて犬夜叉と正反対の性格を並べ立てるところ、犬夜叉がかごめがいなくてイジメる相手がいないと調子が出ないとぐでぐでしているところなど、傍から見てると「もう好きなんじゃない。」とわき腹のひとつもつついてやりたくなるほど見え見えだったりする。

もちろんこの時期桔梗は蘇っておらず、桔梗の「生まれ変わり」であるかごめが、時を越えて犬夜叉と結ばれることを誰もが信じて疑わなかっただろう。
北条くんとデートの約束をしておきながらすっぽかす、北条くんとデートしながら想うのは犬夜叉のことばかり、考えてみるととんでもない女の子になりかねないところ、可愛く見えるのはやはり「うる星やつら」から鍛え上げられてきたギャグセンスの素晴らしさ?

18巻「出会った場所」以降の恋を意識し始めたかごめは柔らかさが出てきて、これも好き。
人生を綺麗に生きてこれた人間が綺麗なのは当たり前のこと、桔梗がいなければいいと願う自分の心に気づいた時、かごめも奇麗事の人生ではすまされなくなったことを知る、もちろん15歳の少女なりの、の限定つきだが。

人の心の闇を知り、それでも綺麗であり続ける中期のかごめが一番好きかも。
最近の人間味の強いかごめが本当は一番現実感を伴い、魅力的かもしれないが、個人的には中期のかごめがやっぱり一番。
でも犬夜叉とかごめの妖怪退治ラブストーリー(肉付きの面前後のパターン)で続いていたら、とても30巻以上は続かなかっただろうな。
「らんま1/2」の二番煎じで終わってしまいそう。
やはり物語に深みとシリアス風味を与える意味で、奈落と桔梗の存在は大きい。

そんなことを考えながら読んでいると、以前とはまた違ったおもしろさが出てくる。
正直言って、今になって1話から感想を書き始める意味はあるのだろうかとまだ迷っている。
空白が嫌いだから、隙間を埋めているだけと言えないこともない。
でもこうして書き始めるとけっこうおもしろかったりするんだよなあ。
 (2004年10月18日の日記) 
人を喰う面
原作少年サンデー1997年5月21日(25号)第25話「人を喰う面」

     ☆     ☆     ☆

初期の原作は、現在に比べるとだいぶキャラの顔が違うが、ヒロインかごめの顔を可愛いと思ったのはこの「人を喰う面」の扉絵だったように記憶している。
それまではむしろ完成した顔のアニメのかごめの顔が好きだった。

原作を読み始めて、それまでアニメ派だった私が原作派に転換?したのも今思えば「肉づきの面」を読んだ時だった。
その意味でも懐かしい。

モデルとは言わないが、実際に「肉づきの面」と呼ばれる面が福井県に存在することは原作アニメ比較にも書いた。
こちらの面は鬼面、人頭杖、河童の手のミイラなどと共に一度は見に行ってみたいと思っているのだが、未だにどれも果たしていない。

さて、かごめがついに肉づきの面+肉塊に対面する、というか襲われる。
このグロテスクさはかなりのもので、アニメで黒衣のおかめの面みたいになったのは当然だったろう。
しかし、アニメでかごめがかけらを草太に渡すのは、草太を狙えと言ってるみたいで当時違和感を感じた。

もちろんかごめが「かけらがなければ向こうに犬夜叉を迎えに行けない」と判断したという設定だろう。
そういった別解釈は残念ながらすんなりと受け入れるに難しいものがある。
原作でよほど大きな矛盾をはらんでいなければ、ほとんどが「不必要な変更」に思えてしまうからである。

原作主義の私だけの感想かと思っていたら、当時お邪魔したあちこちのサイトさんや掲示板で同じような感想が書かれてあり、逆に擁護派がいないことに驚いた記憶がある。
頭が固い、先入観強すぎ、いろいろな言い方はあるだろうが、当時はそれだけ純粋だったとも言える、迷いがなかった。

感想も当時の方がおもしろかったと言ってくださる方もいるし、当時はアニメ嫌いだと思っていたと言われたこともある。
この言葉はとても仲良くしていただいている友達に言われたが、後にも先にもこれほど驚いたことはない。
「この私がアニメ嫌い?こんなに好きなのに!(笑)」
好きだから原作派でも納得できるアニメにして欲しい、そんな愛ゆえの批判、のつもりだった、当時は。

けれどもアニメが終了したことで、これまで私にかかっていた原作主義のべールが消え、アニメ愛慕のベールがかかったらしい。
それがいいことなのかどうなのか、自分ではわからないが。
それにしても最後のページ、草太を吊り上げて「困ってるみてえじゃねえか。」の犬夜叉の顔、かっこよかった。
アニメ絵は作画の問題はあるにしろ、比較的安定しているが、原作の顔は、極端に言えば1カットごとにみな違う。

ギャグ場面だけじゃなく、ものすごくお子様チックな時もあれば、息を飲むように美しいこともある。
逆に言えば原作絵の方がクセがあるということだろう。
あちこちで書いてきたが、私はこの理由で「犬夜叉」以外の漫画はほとんどアニメ派。

古いところではルパンにヤマト、らんまにラムちゃん、コナンまで。
原作と映像の相違について知るための一番の資料「風の谷のナウシカ」の原作も、絵に慣れる前に挫折。
上記作品の原作を愛するファンの方が私のこの文章を読まれたらどう思われるだろうか、考えると冷や汗が出そう。

主張って所詮そんなもの。
いくら自分が公明正大なつもりでいても、他の人と同じ気持ちには決してなれない。
同じ気持ちになろうとするからできなくて苦しいんだな、そう思う。
もう少し早く気づいていたら、こんなに振り回されなくてすんだかな?

私はとても自己主張と強い人だと思われているらしい(実生活でも)。
必要があればとりあえずは主張するが、そうしながら横目であっちを伺い、こっちの様子を見る。
気に入られていないと思うと>あわてて取り繕うとするから、余計ひどいことになる(笑)。
こんな私には、やっぱりかごめの自然体は憧れだ・・・、それが今日の結論。
最近の考察日記、「えむの内部告白」シリーズになってるな・・・。
 (2004年10月21日の日記) 
かけらの行方
原作少年サンデー1997年5月28日(26号)第26話「助けてやるが・・・」

     ☆     ☆     ☆

原作の犬夜叉とアニメの犬夜叉とどちらが子供っぽいか、自分でも笑っちゃうほどいろんな人とメールで話した。だいたい最初は「どっちの犬夜叉が好きか」から始まるのだが、ほとんどのアニメ派はアニメの犬夜叉が好きで、ほとんどの原作派は原作の犬夜叉が好き。
これは予想された展開で納得できる。

だがおもしろいのが、アニメ派は原作の犬夜叉を、原作派はアニメの犬夜叉を子供っぽいと感じていること。
管理人がこんな議論好きの性格のせいか、掲示板の3倍くらいの人が、掲示板の3倍くらいの長さの意見をメールで下さる(笑)。
ほとんどが私など足元にも及ばないほど深い考察をされる方もいらっしゃる方々だが、私がすぐ考察日記で紹介したがるので、かなり警戒されているらしい。

それからサイト開設前は、あるファンサイトさんを見つけると、リンクしているほとんど全てのサイトさんを巡って歩いた。
考察サイト、小説サイト、イラストサイト、カップリングサイト、特定キャラ応援サイトなどなど。
むしろ自分と全く異質のサイトさんを探して、自分と全く違う意見を読み漁っていた。

最近は時間的余裕のなさももちろんだが、あまりに閉鎖&リンク切れサイトさんの多さに哀しくなることがたびたびあり、やめている。
私が主に読むのは管理人さんプロフィール(トップページと共にそのサイトさんの雰囲気が大体つかめる)、メインの感想や考察、そして掲示板。

その中で、いくつかのタイプがあることに気づいてきた。
1、完全に原作派で、だから原作で描かれる犬夜叉が好き。
2、完全にアニメ派で、だからアニメで描かれる犬夜叉が好き。
3、原作派だけどアニメの犬夜叉が好き。
4、アニメ派だけど原作の犬夜叉が好き。

ちなみに私が話した中で4タイプはいなかったが、大きく犬夜叉ファン界を見渡せば、全ての犬夜叉が好き、あまりこだわらない、どうでもいいなどいろいろ他にも出てくるだろう。
1と2はわりと普通?のパターンだが、3では犬夜叉を演じておられる山口勝平さんの影響も大きいような気がする。
他にも絵の美しさ、和田薫氏の音楽の迫力などももちろんあるはず。

私はといえば、初期はむしろアニメの犬夜叉を子供っぽいと感じ、最近ではどちらも同じくらいに感じている。
アニメの犬夜叉を子供っぽく感じられる部分は、やはりオリジナルで食べ物をガツガツ「喰う」ところ、大の字なって寝るところ、七宝との喧嘩も原作より2割り増し方多く、全体的に原作よりデフォルメされている雰囲気だった。
もちろん私は犬夜叉の大ファンではないが、好きは好き、だからどうこう言うものではなく、単なるイメージと思っていただきたい。

原作の犬夜叉にかつて大人っぽさを感じたのは、やはり時折見せる表情の美しさだったと思う。

もうひとつ、興味深かったこと。
犬かご派には桔梗といる犬夜叉は背伸び(あるいは無理)しているように見えて、かごめといた方が自然に見える。
犬桔派には、かごめといる犬夜叉は幼すぎて、桔梗といると自然に見える、当然といえば当然だが。
同じ原作を読み、同じアニメを見てどうしてこんなに感想、好み、共感の度合いが変わるのか、いろいろ考えたがやっぱり不思議。

逆にこれほど好みが別れ、ファン同士の喧々諤々の論争があると言うこと自体が「犬夜叉」のおもしろさの証明なのかも。
特にかごめと桔梗。
当サイトで終了したばかりのアンケートを見ていてもそうだったが、かごめを巡って犬夜叉派と鋼牙派が深刻な喧嘩になったのは見たことがないし(実際はあるかもしれないが、少なくとも私は見たことがない)、殺生丸を巡ってりんと神楽とか(笑)、りんを巡って殺生丸と琥珀とか、あっても良さそうなのに見た事がない。

一番ありそうなのが桔梗を巡って犬夜叉派と奈落派だが、さすがに桔梗と奈落のカップリングを応援するファンは少ないのかも。
同じ容姿と魂を持ち、共に犬夜叉を愛し、「共に犬夜叉に愛され(これが大事)」、桔梗が死んだままならまだしも蘇って共に生きる(そばにいるという意味ではなく、かごめや犬夜叉と同じように、この世に存在するという意味で)、たしかに本人同士はもちろん互いのキャラのファンまでも巻き込んでしまういい意味でのおどろおどろしさ、やはりストーリーテラーとしての先生には敬服せざるを得ない。

ところで私はどうかというと、何度も書いているように、基本的に犬夜叉に異性としての魅力は感じていない(もちろん好きだけど、と連呼しておく)。
それはやはり初期の「助けてやるが・・・」で草太が感じた心の狭さ(笑)、というより幼さが原因だろう。
かっこいい、めちゃくちゃかっこいいのだが、「よくやったぞ、弟!」みたいな、肩をポンポン叩きたいというか、頭をぐりぐりしてやりたいというか。

そういった意味で、犬夜叉は何百年生きていても眠っていても、見た目どおりの15歳に見える。
その意味では個人的にはかごめといる方が自然かな・・・?
あっ、もちろんかごめと結ばれて欲しいというのではないです、はい。

それより何より重要なのが、今日の本題「かけらの行方」。
もちろんここでは原作オンリー。
肉づきの面の自己紹介?で「数百年の昔・・・
四魂の玉のかけらを受けた大桂の木から彫り起こされし面よ・・・」

しかも面のおでこには四魂のかけら。
これは何?
つまりいつの日かやってくる最終回、最後の最後にかけらは1個足りず、四魂の玉は完成せず、奈落は倒せず、何の決着のつかぬままに、かごめは現代に戻され、全ての記憶を失い、これまでの物語は全てリセットされて新たに始まった四魂の玉の物語に呼ばれた?みたいな。
最初の「かごめの記憶の封印」を考えれば考えられないことではないかな?

それにしてもかけら1個分そもそも足りないわけだから、四魂の玉がかごめが砕く前から不完全なものであったことになってしまう。
もしくはかけら1個分小さいまま完成形になったりして(笑)。
などと書いてみたが、実はこじつけ。

「犬夜叉」はもっと前に終わるべき物語だったのではないかな?と思う。
アニメ、映画の大人気により、完結するべき物語に尾ひれ1、尾ひれ2と話をくっつけて行って引き伸ばしたように見える。
そのために当初の段階で終わっていれば矛盾のなかった物語に矛盾が生じた、私はそう考えている。

今にして思えば七人隊編が最大のクライマックスで、白霊山で終わっていたのかも。
私?私は嬉しい、「犬夜叉」が続く限り嬉しい人だから(笑)。

          ☆          ☆          ☆

「犬狼猫豚羊同盟」掲示板にてひいらぎさんより嬉しい書き込みが♪

狼くんも2周年をお祝いするかのような登場っぷりですね!
ある意味一番うれしいお祝いかもかも〜


そうなんですよ!
偶然にしても嬉しすぎです、嬉しいです!

          ☆          ☆          ☆

先日頂いたアメリカ版アニメ「犬夜叉」Tシャツの写真です。
下の2枚は殺生丸、奈落&鋼牙も登場、右側は背中の部分のイラストです。
拡大して見ていただくとわかりやすいかも。

ピッツバーグで買ってくれたそうです。
普通のCDショップに日本のアニメコーナーがあって、「犬夜叉」以外にも「るろうに剣心」「サクラ大戦」グッズなどがあったそうです。
もちろん勝手に作ってるわけじゃなくて、ちゃんと契約して作っている正規のものです。
日本じゃどうしてフィギュアみたいなものばっかりでTシャツやトレーナーとか売らないんでしょ(涙)。

他に黒地に「犬夜叉(漢字)」と赤字で書いてあるキャップも売ってたそうです。
 (2004年10月22日の日記) 
勝平さんと松野さん
原作少年サンデー1997年6月4日(27号)第27話「片割れ」

     ☆     ☆     ☆

最後はかごめが犬夜叉のかっこよさを再認識?してめでたしめでたしだが、かごめの顔に被さっているお面のかけらを見切って斬るところ、実は殺生丸以上の太刀筋の持ち主と言えないこともない。
などと言うのは野暮な突っ込みで、今日はきのう書いた山口勝平さんについて続けてみたい。

きのうの考察日記を読んで下さった雪華さんが掲示板に次のような書き込みをしてくださった。

えむさんは、【犬夜叉に異性としての魅力は感じていない】ということですが、私はこの時の犬夜叉の(異性として見た)魅力には、くらくらきますよ(笑)
勝平さんの声で、「桔梗…」とか言われると、もうほんとまいってしまいます。


もしかして勝平さんに「雪華・・・」なんて言われたら卒倒するんじゃないかと思えるほどの熱々ぶりだが(笑)、実は私の周りでは圧倒的に山口さんのファンが多く、同じようなコメントをあちこちで頂いて当てられっぱなしの今日この頃。
ここで紹介できないのが残念なくらい。
と言うより松野太紀さんの方が好き、と言う方にはお目にかかったことがない。
あっ、これは別に茶化しているわけじゃなくて、私だって「松野さん」の声で「えむ・・・(本名がいい!)って呼ばれたら卒倒する。

実は私の妹、ちょびは金田一くんに名前を呼ばれていたりする。
すごく嫌な性格ですぐに殺されてしまう女性だけれど、うらやましい・・・。
でも本人はやはり山口さんのファンなので、「どうせなら乱馬に呼ばれたい」とけしからぬことを口にする。
あんまり普通の名前が出てこないからな、らんまも犬夜叉も。
これは工藤新一に期待するしかないだろう。

アンケートで「鋼牙→松野さん→危険な遭遇」と最初から最後まで投票してくださった方がいるけれど(あれは私ではない、笑)、メールでも掲示板でもお話したことはないと思う。
そもそも私が松野さんのことを知ったのは「金田一少年の事件簿」、初めて声優さんという職業が存在することを意識した。
だからアニメ「犬夜叉」を見るまでは、もちろん山口さんのことは知らなかった。

ただ「金田一少年―」映画版で山口さんが金田一一を演じられたこともある。
お二人の声は雰囲気的に似ているのかな?
私的には、松野さんは透明感溢れる声、山口さんはもう少しウェットな感じ、かな?
ただ山口さんのファンには男性も多くてそれもびっくりした。

今考えておもしろいなあと思うのは、もしも、もしもだが犬夜叉が松野さんで鋼牙が山口さんだったらどうだったろうということ。
もちろん私も山口さん以外の犬夜叉、松野さん以外の鋼牙は考えられないけれど、最初から逆設定だったら案外馴染んでいたかも。
(犬夜叉=山口さんが高橋先生による指名であったことは承知の上での想像です。)

そうすれば今頃、私は犬夜叉派、雪華さん初め全犬夜叉ファンが鋼牙派で愛を語り合っていたのだろうか(笑)。
つまり声優さんの存在というものは、キャラのイメージにそこまで影響を与えるものなんだということ。
作品名を挙げるのは控えるが(というより記憶が定かでない)、以前ストーリーは原作に忠実なのに、主役の声優さんがあまりにもイメージとかけ離れていたために、大絶賛と大批判の真っ二つに別れたという話をどこかで読んだ。

たぶん製作側があえて主役のイメージと異なる声優さんを選び、「全くの別作品」となったことで新しい世界が開けたと喜ぶ人もいれば、原作をぶち壊したと怒る人もいたのだろう。
アニメで懐剣&高笑い桔梗を見た時は唖然としたが、アニメ業界?に詳しい人達の間では、桔梗にものすごく思い入れのある池田監督が、愛ゆえに?作った場面だそう。

どう見ても私には低年齢層にわかりやすくするために、悪役にしつらえたとしか思えなくて、それらの記事を読んでも納得できなくて困っている。
良くも悪くも印象の強いキャラになったことは確かだろうが。
ただ悪役イメージで定着する間際で踏み止まっていたのは、やはり日高のり子さんの演技力だったと思う。

こういったことを考えるにつけ私の中では声優さんがどんどん奥深い?存在に思えてくる。
以前も書いたかもしれないが、俳優さんはたとえどんなに違う役をしていても、顔が出る、舞台であれ映画であれテレビであれ。
歌手、タレント、ほとんどそう。

けれども声優さんに関しては、見ようと思わなければ、その素顔を見ることがない。 極端な話、私の頭の中の声優名鑑の写真の所には平田広明さん=睡骨、松野さん=鋼牙の顔が貼ってある。
(山口さんや良牙の山寺宏一さんなどの場合はテレビへの露出度が多いので、御本人の顔になってしまったが)
これは声優さんの立場にしてみれば、好ましいものではないだろうなあとは思う。

最初は特定キャラファンとして入っても、舞台を見たり歌を聴いたり本を読んだりして、一人の人間として見て欲しいと思っていらっしゃるだろうと思うとつくづく申し訳ない。
これは特に辻谷耕史さんのサイトにお邪魔していて感じた。
にもかかわらず、未だに私にとっては辻谷弥勒だったりする(涙)。
ある意味これは声優さんの神格化?というより偶像化。

最後に例によってHNさんのきつ〜いけれど的を射た一言を紹介しておく。

苺のショートケーキとチョコレートケーキ、両方出されて「どっちが好き?」と聞いているのと同じ 。
理由なんて必要ない、好みの問題。


たしかに(笑)。 HNさんはほんと厳しい、厳しいけれど小気味いい、だから大好き、感謝してます。

忘れちゃいけない、サンデー感想。
「肉づきの面」最終話でこれまでの感想に付け加えることはないが、やはり「ここまでの目に合っても動じないかごめって、嘘みたいにすごい」ということ。
それでも納得して読んでたんだよなあ。

特に後で「炎トリッパー」を読んで、「高橋先生はわかっていらっしゃったんだ。」と思った。
戦国時代に引きずり込まれたかごめが最初は馴染めずパニックに陥り、さまざまな恐怖や葛藤と戦いながら・・・となると話も全然変わって来る。
何よりも犬夜叉があっさりかごめを見捨てそう。

本質的な優しさがあるとはいえ、うじうじしているかごめは足手まといとみなしそうだ。
そうなると、かごめがある程度慣れるまで犬夜叉の登場は遅れ、となり、あの爆発的なおもしろさは望めないだろう。
高橋作品のファンならばその程度は常識だっただろうが、一般の読者&視聴者にとって初期のかごめはどのように受け止められていたのだろうか、とても気になる。

この部分に関しては、サイトめぐりをしていても触れているところはないように思った。
そんなことをごちゃごちゃ考えさせないほど圧倒的におもしろかったでいいのかな?
ここでもうひとつ、最強最陽の北条くん、こんなキャラでなかったら、ちょっと悲惨だったかもしれない(笑)。
 (2004年10月23日の日記) 
七宝登場
原作少年サンデー1997年6月12日(28号)第28話「狐火」

     ☆     ☆     ☆

飛天満天の飛天、逆髪の結羅と共にものすごい美男美女カップル、初期に出てきたのが今にして思うともったいない。
最近魅力的な人型敵キャラが出てこなくなってしまったので(奈落一家、七人隊をのぞけば鋼牙、阿毘くらい?)、最近出てたらアニメでも人気爆発、勢いがついていたのではないかと思うのだが。

笑っちゃうのが死骸の山を目にして平然とカップ麺を食べている犬夜叉、より動じないかごめ。
すぐに慣れたというよりは、最初からほとんど動じてなかったが。
私のように桔梗の記憶と認識していれば違和感もないが、現代に生きる普通の女の子として見ると、あまりに現実味がないという意見も当時あちこちでみかけた。

もうひとつおもしろいのが、かごめが現代から持ち込んだカップ麺を仲間内で(原作で)犬夜叉に食べさせていても何の違和感もないのに、アニメで篠助に食べさせるだけであーあと思う、原作派の哀しい性にも思いを馳せる。
理屈ではなく、原作派には「原作を変えて欲しくない」という根本的な想いがあるのだろう。

アニメで七宝が「おらがしっかりせねば」の台詞をお約束のように繰り返していたが、あれはだんだん引っかかるようになった。
かごめのおすわり、弥勒のおさわりと共にやはり「ほとほど」がいい。
この「お約束」、ドラマや映画でもよく見られる手法だが、たとえば毎回水戸黄門が最初から印籠を出さずに40分過ぎまで引き伸ばしても、ウルトラマンが3分ぎりぎりまでスペシウム?光線出さなくても全然気にならない。

どうでもいいが付け足すと、ルパン三世の背広が赤かろうが緑だろうが、そんなことも関係ない。
犬夜叉アニメの手法も気にならない人は全く気にならないだろうし、むしろ大好きな人だっているだろう。

実は内田康夫著浅見光彦シリーズも、浅見の素性がばれるお約束の部分は飛ばして読んでいる。
これは読者の全てが出版順に読むわけではないのだから仕方がないのだが、それでも気になる。

初期の七宝はけっこう男の子っぽい言葉使いをするが、だんだん可愛さを強調するようになり、それはそれでいいと思う、可愛かったし。
あれは意識して行ったのだろうか、それともアニメの影響で自然に変わっていったのだろうか。
この回の謎は、かごめが四魂のかけらを持っている」と見切っている七宝、かけらを見て「石の花(石英)ではなく四魂のかけら」であることを見抜いたこと。
かごめがかけらを持っていることを知らなければ、そもその彼らが出会うことはなかった。

同時に満天も七宝が四魂のかけらを持っていることを見抜いたし、そもそも雷獣兄弟は、七宝の父親は、どうして四魂のかけらを得ることができたのか、最初にアニメで見た時は全く浮かばなかった疑問点。
それだけストレートに感動していたからだろうけど。

七宝の父親の謎。
死んでからの父親は狐型をしているが、生きている時はどうだったのだろう。
カワウソ妖怪甘太は人間とカワウソが半々のようだったが、七宝の父親ももしかしたら人型だったかもしれない。
死んだから狐型に戻った?

だとしたら七宝も死んだら狐型に戻るのかな?
一方鋼牙、今回の墓荒らし?で周りの遺骨は犬夜叉の父君のような人型に見えた。
では鋼牙は死んでも人型?

もっと不思議なのは犬夜叉の父君。
頭蓋骨は犬っぽかったけど、遺骨の感じは人間が座っているように見える。
そう見ると、死んだ直後の父君は、普通の大きさの人型ではなく、妖犬殺生丸のような巨大妖怪でもなく、巨大な人型になったのかもしれない・・・。

よく人に化けて人を化かした狸や狐が退治されると獣の姿に戻るという。
七宝親子、犬夜叉親子(殺生丸含め)、鋼牙がどうなるのか、とても気になるけれど、死んでしまっては困るのでこれは永遠の謎と言うことで(笑)。
それにしてもどうして「犬夜叉」って考えることが尽きないんだろう。
読めば読むほど、見れば見るほど謎の泉が湧いてくる。
先日目を痛めた時、パソコン中毒と叱られたが、同時に犬夜叉中毒であるのかも。
 (2004年10月25日の日記) 
雷獣兄弟
原作少年サンデー1997年6月18日(29号)第29話「雷獣兄弟」

     ☆     ☆     ☆

今日からやっと4巻目。
原作において「犬夜叉」連載開始と共にサイトを立ち上げたサイトさんはないのだろうか。
今のところ見たことがないが、当サイトも連載開始と同時に開設したかったな。
今度生まれ変わって?再び「犬夜叉」に巡り合えたら、今度こそ連載開始=サイト解説を目指すぞと密かに誓う今日この頃(笑)。

今回はまたもやかごめの危機、危機感のない危機。
かごめに助けられつつも見捨ててしまう七宝、かごめのために土下座する七宝、心の狭さ?再び披露の犬夜叉と、なにげにかっこいい犬夜叉。
いつの間にやら冥加。

この頃はどんな話も明の部分だけでテンポ良く進み、単純におもしろい。
これはアニメでも同様に見られたもので、後になって「急ぎ過ぎた」との批判も出たが(原作を読んで、確かにそのスピードにびっくりした)、それがあったからアニメ「犬夜叉」人気が爆発したのかなと思うと複雑な気持ちになる。

当時、日曜日など近くの公園を通ると必ず「おすわり!」「ふぎゃっ!」「おすわりっ!」「ふぎゃっ!」ガ聞こえたし、妹も学校で大流行だったと言っていた。
あの頃に帰りたい・・・なんて歌なかったっけ?

飛天のかっこよさと(アニメの)声の素敵さが未だに印象深いが、物語としては特に深みもなかったな、この頃は。
さっき生まれ変わったら云々と書いたけど、本当は今度生まれ変わったら「うる星やつら」から極めたい。
私の夢は2つ。
次の世での初期からのるーみっく作品ファン活動と、死んで天国に行ったらあの世でプロレスファンクラブを作りたい。
力道山はあまりに世代が違うけど、馬場さん、ジャンボ、エリック一家にマードック、A・アドニスも入れたいな。
最後はちょっとマニアック。
今日の日記を読んでくださっている方で、アドニスを知ってる方はおそらく1人もいらっしゃらないだろう・・・。

          ☆          ☆          ☆

きのうの「ブラックジャック」で地震への配慮で放送が前回分の再放送となった。
新聞によると最初にスーパーを流したにもかかわらず、300件近くの問い合わせがあったとか。
「BJ」の話題性を感じた。
 (2004年10月26日の日記) 
危機感のないおもしろさ
原作少年サンデー1997年6月25日(30号)第30話「惚れた女」

     ☆     ☆     ☆

これまで何度も書いてきたように、私はアニメが犬夜叉との出会い。
アニメがかなり進んでから原作を取り寄せ、読み始めた。

アニメを見ている時にはぴんと来なかったが、原作を読んで驚いたのが、かごめがとんでもない危険に何度もさらされているということだった。
アニメたぶん絵の派手さと動き、声、音楽の素晴らしさに圧倒されて、見たまま受け入れていたのだと思う。
雷獣兄弟編でも、かごめは満天に煮溶かされそうになるし、目の前で女妖怪の顔を素手でぶち抜かれるし、大包丁で殺されそうになるし、と戦国時代に来てからこの方、命がいくつあっても足りないような目にあっている。

いえそのことよりも、動じぬかごめと、息詰まる死闘(犬夜叉vs雷獣兄弟など)にしょっちゅう見られるギャグテイスト、そっちの方に驚いた。
かごめはさほど恐れるようなこともなく、自分の才覚で自分を守るし(霊力が発動しないが・・・)、雷獣兄弟そっちのけで犬夜叉と喧嘩を始めるし。

なんとなく「うる星やつら」や「らんま1/2」の漠然としたイメージがあったので、これは「戦国冒険ギャグ漫画」に違いない!と思ったりもした(笑)。
ところがその後「人魚」シリーズを読むと、目一杯シリアスだし、もちろん「犬夜叉」も奈落や桔梗が絡み、どんどんシリアスになってくるし・・・。

この独特のギャグテイストがとにかくおもしろい。
どんなにシリアスな戦闘でも思わず笑ってしまうし、不謹慎とも思わないし、こういうのってひとつ間違えば思いっきりしらける所、高橋先生をさすがと思う部分。

ところが最近サイトめぐりをしていて、当時の感想をいくつか見つけることができた。
そこで初期のかごめに現実感がないという感想を見つけた。
これはこれで「なるほど」と思う。

私などは、かごめの中には桔梗の記憶が残っていて、無意識のうちに「妖怪慣れ」しているのではないかと思っているが、見方を変えると、たしかに都合が良すぎる部分はある。
しかし、やはりここでかごめが普通に怖がって、まずは戦国時代に慣れるところから始まって、と描いていたら、「犬夜叉」のおもしろさ、あの勢いといったものはなかったのではないかと思う。

高橋先生に関して新参者の私が言うのもなんだが、そんな人には「炎トリッパー」を読んで頂きたい。

          ☆          ☆          ☆

12月10日にコミックと一緒に犬夜叉小説が発売されるそう。
これがものすごく楽しみ。
漫画に沿って何巻も出してくれるのかな?

これまでよく言われたのが、「いい年して漫画なんか・・・」という台詞。
家族や友達もそうだが、ネット上でもイメージされる年齢にそぐわないと思われるのか、よく言われる(書かれる)。
そのたびに「大の大人がハマるおもしろさ」を強調してきたが、冷たい人はけっこう冷たい(苦笑)。

たとえ器は少年対象の漫画でも、作者である高橋先生は成熟した大人の女性として、いくらでも深いものがこめられると思う。
その意味でも小説という形なら、あまり先入観にとらわれずに受け入れてもらえるんじゃないかと心密かに期待しているのだが・・・。
 (2004年11月4日の日記) 

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