犬夜叉サンデー感想(第31話〜第40話)
ほんとの危機
原作少年サンデー1997年7月2日(31号)第31話「かごめの策」

     ☆     ☆     ☆

どうでもいいことだけど、この時期のサンデーは30号30話、31号31話と話が随分綺麗にまとまっていて気持ちがいい。
レギュラー&準レギュラーと奈落一家以外の妖怪(ゲストキャラ)で、飛天と結羅のような魅力的なキャラって意外に少ない。
七人隊でやっと出てきたかな?
結羅と雷獣兄弟で話が一気におもしろくなったが、同時にもう少し後でこなれてきてから出てきても良かった。

この飛天vs犬夜叉対決はやはりアニメが良かった。
「アクションのサンライズ」という言葉をあちこちで見かけたが、たしかにスピード感、そして犬夜叉(山口勝平さん)と飛天(神奈廷年さん)の声の迫力は最高だった。

一方でかごめ&七宝vs満天は何がなんだかわからないお笑い対決がんばってるけど)。
最後になると満天も残虐さを見せるが、それにしてもよく生きてたと思う、かごめも七宝も。
七宝はかごめに化けるのだけはうまいのか(笑)。

弥勒も珊瑚も奈落も桔梗もいない「犬夜叉」、すっきりさわやか清涼飲料水の趣がある、ラムネかスプライト?
弥勒と珊瑚で甘〜いお汁粉、奈落と桔梗で豊熟ワインか。
現在の「犬夜叉」ムジナ編を読んでから改めて初期の「犬夜叉」を読むと、やはり単純明快、わかりやすい。
現在では各キャラの行き着く先が曖昧模糊としていて、それはそれでおもしろいのだけど。

それにしても満天のかけらで髪は生えない。
死に逝く命をつなぐかけら、骨だけになった者を蘇らせるかけら、髪の毛が生えないかけら、足が速くなるだけのかけら(笑)、力もさまざま。
鋼牙の場合は強さより速さを求めた結果だろうが、所詮かけらが発揮できる妖力もその妖怪の妖力に比例したもの。
結羅なども出してくると一貫性もなくなってくるが、今度四魂のかけらと持ち主の能力比較表でも作ってみようかな。

突っ込みどころ満載かもしれない(笑)。
今回はかごめの危機、ほんとの危機で終わる。
おかしな話だが、満天がじわじわ殺していくような残虐な性癖を持っていたおかげでかごめは助かる。
そしてここでもかごめの霊力は発動しない。

これは一体どうしてだったのだろうか。
 (2004年11月6日の日記) 
満天のかけら
原作少年サンデー1997年7月9日(32号)第32話「妖力を喰う」

     ☆     ☆     ☆

扉絵。
血のついた衣の犬夜叉は珍しくないが、かごめのセーラー服まで汚れているのは珍しい。
漫画や小説にしても、映画やアニメ、ゲームやドラマにしても、現実との一番の違いは「汚れと匂い」だと思う。

どんなに血まみれのスプラッターな映画を作ろうと、そこに「匂い」がなければそれは所詮絵空事に過ぎない。
逆に言うと、見えるものがなくても暗闇に血の匂いが立ち込めているだけで生理的な恐怖感、嫌悪感が湧き上がるだろう。
かごめ達にしても実際は妖怪の体液や泥やほこりにまみれ、ひどい姿のはずが、お約束で常に綺麗な格好でいることができる。

これは別に「犬夜叉」に限らないこと。
あまり現実味、生臭さを感じさせず、嘘だろうと言いたくなるほど服も綺麗で怪我もすぐ治る、跡も残らない。
その意味でこの扉絵はとても珍しいカット。
アニメの桃果人がかごめのことを薄汚い小娘扱いしたのにかえって驚いたほど。

まあそんなことは置いといて、七宝の父親の生前の姿の謎も、何度も書いたから置いといて。
今回の謎は満天の額のかけら。

満天の額には四魂のかけらが2個仕込んであったが、犬夜叉の鉄砕牙に貫かれた瞬間かけらが消えた。
しかもその後、飛天や犬夜叉たちが拾った様子もない。
当時は満天が死んだことにより、かけらが消滅したのかな?と思ったが、飛天や結羅の例を見てもそんなことなさそうだし。

もちろん描かれない部分で拾って持ってったと考えると簡単だけど、もしかしたら後で通りかかった狼くんが拾ったのかな?などと考えるととても楽しい。
1カットのミスではなく、満天のアップでずっとかけらが消えているのだから(笑)。

この満天、うちのサイトではとても大事な存在だったりする。
個人的に仲のいい友達と立ち上げた犬狼猫豚羊同盟、犬好き猫好き狼好き豚好き羊好きと書けば、うちに遊びに来てくださってる方なら犬夜叉、乱馬、鋼牙、良牙、ゴローちゃんとおわかりだろう。
ゴローちゃんはちょっと厳しいかな?

そこで専用掲示板をレンタルしたが、広告が「毛はえ薬」だったかそんな広告。
そこでなぜか満天=狢様が同盟の広告主様になってしまった(笑)。
同盟で一番偉い人。
そんな意味でもものすごく親近感のあるキャラ。

掲示板は「過去の掲示板」として残っているが、広告は「いけない系」になってしまった、残念。
 (2004年11月8日の日記) 
狢とムジナ
原作少年サンデー1997年7月16日(33号)第33話「鞘を捨てる」

     ☆     ☆     ☆

先日書いたように、当サイトでは永遠のオエライさんとなった満天無骨の狢様だが(笑)、本編ではあえない最期を遂げる。
肉づきの面でも見せた犬夜叉の究極芸ならぬ鉄砕牙さばきには瞠目した。
犬夜叉は鉄砕牙を入手するまでは「散魂鉄爪」と「飛刃鉄爪」と拳骨?だけで戦っていたと思うのだが、肉づきの面にしろ満天にしろ、数ミリずれればかごめが大変なことになるところ、何の躊躇もなく、というより自信満々に鉄砕牙を振るい、投げつけている。

後に殺生丸や刀々斎に下手だ下手だと言われまくっていたがとんでもない話。
この太刀筋はどこで身につけたのだろう。
当時父君が教えたのかと思ったが、父君の死と犬夜叉の年齢を考えると、とてもそこまで基礎を身につけさせることができたとは思えない。

刀々斎とも初対面のようだったし、素質はあるにしろ大きな謎だったりする。

最初は(今でも少し?)下手っぴなかごめの矢とはえらい違いである。
もうひとつの謎は、「散魂鉄爪」などの技の名前。
失礼ながら、幼くして両親と死に別れ、おそらく人間社会と絶縁したであろう犬夜叉がそこまで勉強していたとは考えにくい。
ならば誰が名付け親?

高橋留美子と言うなかれ、私は冥加かな?と一応と思っているのだけど。
「爆流破」は刀が絡む技だから刀々斎の命名、「金剛槍破」は宝仙鬼の命名って昔の人(妖怪)は風流だ。
「風の傷」は技の名前というより、まんまというかそのものというか、特別な名前がないのがおもしろい。
たしかに格闘物も漫画っていちいち技の名前言うのがお約束だが。

今週のサンデー、ムジナの正体は狢ではなく狸だった。
ムジナが狢で、あのまま可愛い女の子だったら満天も友達になれたかもしれないのにね。
しかしあのネーミングセンス、やはり奈落は関係なかったか。
 (2004年11月12日の日記) 
妖刀
原作少年サンデー1997年7月23日(34号)第34話「鞘が呼ぶ」

     ☆     ☆     ☆

飛天満天最終章。
飛天の雷撃を喰らったかごめと七宝が、七宝の父親の魂(狐火)に守られるが、勘違いした犬夜叉がかごめの手を握り締める、笑えるというか微笑ましい部分。
後に七宝が七人隊の錬骨の炎攻撃からかごめ達を守るシーンが出てくるが、この時の七宝を見てから飛天編に戻ると感慨深いものがある。

そしてもうひとつ、犬夜叉(鞘)のピンチに割れかけた鞘が鉄砕牙を呼ぶ。
これには驚いた(後に桃果人編でも出てくる)。
使い時を教える殺生丸の天生牙と共に、それが亡き父君の意思だったのかもしれないが、異次元界=あの世とこの世の境の墓のように、その妖力には桁外れのものがある。

そこで考えたこと。
私たちが現実に存在した(かもしれない)とする妖怪は、むしろ魑魅魍魎、物の怪の類で、「犬夜叉」で言うなら鬼蜘蛛を襲う雑魚妖怪の大群程度のレベルだろう。

犬夜叉の父君は犬、犬が何百年も生きることで得られる力がこれほどのものならば、仮に人間が何らかの方法で何百年も生きることができたとしたら、果たして人間はどうなるのだろうか。
遠い昔から不老不死は人間の願いだった。

ただ、「十二国記」の王のように、それっきり年を取らないのであれば、何百年生きようが人はそれほど変わらないと思う。
その内面には知識と経験が蓄積されるだけだ。
「犬夜叉」だけではなく設定されている妖怪の年の取り方、緩やかに年老いていく、そのことが大切なような気がする。

年を取ることで人は人でなくなるのだろう。
犬夜叉の父君のような妖力も、年を取ることで得ることができるような気がする。
その父君、犬兄弟のおじいさんはどんな妖怪だったのだろう。
さらに年齢を経た大妖怪・・・?
しかしさらに遡り、初代に戻ると実は1匹の白犬だったのかもしれないな、と思う。
 (2004年11月14日の日記) 
タタリモッケ
原作少年サンデー1997年7月30日(35号)第35話「小さな悪霊」

     ☆     ☆     ☆

タタリモッケ、「祟り物の怪」と書くのかなあとずっと思ってきた。
原画全集の「タタリモッケは青森県に伝わる怪異のことで、モッケとは方言で赤ん坊のこと」と書いてあるのを読んで、へえと思ったが、いくら調べてもその元となる資料がわからない。

大学時代の青森県出身の友達に前に電話して聞いてみたら、「もっけ」とは「変わり者の、変な人とかそういう意味だよ。」と教えられた。
子供のことは「わらし」というのが普通だそうだ。
「童子」と書いて「わらし」と呼ぶことは私の故郷でも聞いたことがあるので、まあそんなものだろう。

民間信仰に関しては、その土地に行くのが一番、郷土史やら民話集やら手に入るので、本当は青森に行って調べればいいのだが、さすがにそれは辛い(笑)。

かごめは現代でタタリモッケに会っているが、同じ頃犬夜叉たちもタタリモッケに戦国時代で会っている。
だからと言うわけではないが、タタリモッケは1匹?だけではなく、それぞれの時代にいるんだろうなと思う。
このタタリモッケ、可愛いけれど、後に理不尽な怖さを見せる。

子供が成仏できる限り優しい子守のような顔を見せるが、恨みの心を捨てきれない真由に対しては地獄に引き込もうとする。
真由の恨みの心が、母への愛情の裏返し、寂しさの表現であったことは読めばすぐにわかる。
本来ならばその心を救い、癒す役目を担うのがタタリモッケではないかと思うのだが、そこは妖怪、天使ではない。
見た目の行動、言葉だけで判断してしまうこの妖怪、かごめがいたからこそ真由は救われ、心暖まる結末を迎えるが、もしかごめがいなかったらと思うと絵空事ながらぞっとするものを感じた。

この頃は今では見られなくなった私服姿も何度か披露、今となっては懐かしい北条くんも登場する。
パーマヘアのあゆみ(アニメ名)が登場していないことにも注目したい。
なぜかわからないが、原作においては出たり入ったり、時には戦国時代に行ったり(楓の村の子供)や看護婦さん(アニメタタリモッケ編)でバイトしたりと大忙しの女の子である。
 (2004年11月15日の日記) 
鉄砕牙の謎
原作少年サンデー1997年8月6日(36,7合併号)第36話「目が開くまで・・・」

     ☆     ☆     ☆

ついに合併号、号数と話数がずれちゃうのが寂しい。
友達がみんな怖がってお見舞いに行かなくなっても、ただ1人、お見舞いに行こうとする何気ない草太の優しさも印象に残る。
同時にエスカレートしていく真由をただ「見守る」だけのタタリモッケの不気味さも。
真由の家に様子を見に行ったかごめと草太は真由に襲われるが、この時草太には真由の姿は見えなかったんだろう。
(見ようとしてもいないが、笑)。

こんな感想は置いといて、今回のテーマは鉄砕牙の謎。

飛天との戦闘で折れかけた鞘を鋼バチの蜜蝋で補修する場面が出てくる。
この鞘ってどこから来たのだろう。
父君の墓で殺生丸と争った挙句、犬夜叉が鉄砕牙を手に入れるが、この時は鞘はない。
楓の村に戻ってきてからも、犬夜叉は抜き身の刀を振り回している。

この次のエピソードは九十九の蝦蟇編だが、冒頭おとぼけ河童に話を聞いてるとこは鉄砕牙そのものがない。
楓の村に置いてきたらしい。
信長に会って、いよいよ事件に飛び込むことになって初めて鉄砕牙を手にするが、その時点ですでに鞘付きの鉄砕牙になっている。
この鞘は、後に出てくる朴仙翁の枝から削り出されたものであることから、あらかじめ作られていたことはわかる。

冥加がどこかに預けてあったのか(刀々斎のとこにでも?)、それを蝦蟇編までの間に持ってきたのかもしれない。
それにしては冥加自身、鉄砕牙のことを知らな過ぎたけど。
このように表面に出てこない隙間を想像で埋めていく作業って大好き。

もしここで殺生丸が鉄砕牙を奪おうとしなければ、犬夜叉は鉄砕牙の存在を知らないままだったのだろうか。
あるいは黙っていても刀々斎あたりが出てきて鉄砕牙の存在を伝えていたのだろうか。
というのは、後の犬夜叉の妖犬化の問題が出てくるから。

これまで鉄砕牙が一応犬夜叉の中(右目の黒真珠を通して)にあったことで妖怪の血が抑えられていたのか、犬夜叉自身が思春期を迎えて不安定な状態になったために妖犬化し始めたのかはわからない。
しかしこれまで鉄砕牙のない状態で妖犬化しなかった犬夜叉の血が、鉄砕牙を手にし、失ったことで初めて暴走を始める。

上記の疑問で、鉄砕牙が表に出ることなく、犬夜叉の中(父君の墓)にあったなら、犬夜叉は一生妖犬化することはなかったのか。
それともこれまでたまたま悟心鬼戦のような目に会わなかっただけで、いずれは強敵との戦いで自分を失うことになったのか、答えはいくつも考えられる。

特に後者ならば、鉄砕牙が表面に出ることは急務で、その意味でも殺生丸は鬼教官の役目を果たしてくれたことになる。
ただ父君がそこまで煽るとは考えにくい、あまりに殺生丸がかわいそうな役回りだから。

最終回を迎えるまでに、この部分は高橋先生に解き明かして頂きたいと願っているのだが、これは遠い過去、この時限りの設定で終わってしまうような気がする。
本筋(四魂の玉、恋愛問題)とはあまり関係ない話だから。
個人的には、父君に関しては話を膨らませて欲しいのだが。
 (2004年11月16日の日記) 
特異なエピソード
原作少年サンデー1997年8月20日(38号)第37話「地獄へ」

     ☆     ☆     ☆

アニメで言うところのオリジナル、干物妖怪が出てきたり透明妖怪が出てきたり、本筋とは関係なく挿入された物語。
タタリモッケ編って今読み返してみると、原作の中のオリジナルって気がする。
曖昧な季節感、肉づきの面編に続き現代の人々が巻き込まれる特殊性、さらに今回は悟の母というスペシャルゲストまで登場する。
あまりに平々凡々なキャラのために、当時はどうこう思わなかったが、真由の存在はともかくかごめの力をすんなりと受け入れるところなど、けっこう不思議な面も多い。

肉づきの面にしろ、現代に妖怪なり幽霊なり登場すると、「犬夜叉」の中ではどうしても現実感の喪失というか違和感を感じてしまう。
もちろんどちらのエピソードも大好きだし、特にタタリモッケのかごめが真由を救う場面は、「犬夜叉」で初めて泣きそうになった。
その意味で原作の中のオリジナルと位置づけたい気がする。

おかしなものだ。
かごめが住んでいる現代よりも、「基本的にあるはずのない」魑魅魍魎が蠢く戦国時代の方が、ずっと現実感を伴って迫ってくるのだから。
これはやはり戦国時代の登場人物(妖怪)の方が、はるかに魅力的に生き生きと描かれているせいだろうか。
(もちろんかごめの家族や北条くんといった準レギュラー陣はのぞく。)

この後、「小さな幸せ」のような他愛のない話以外で妖怪が現代を跋扈するようなエピソードは描かれない。
個人的には高橋先生もこの現実感のなさに気づかれたというか、もともと描く気がなかったのかもしれないなあと思う。

またまた勝手な想像と念を押して書いてみると、肉づきの面は、実在する肉づきの面の知識があった先生が描きたかったから、タタリモッケはかごめの特殊性を明確にしたかったのではないかと考えている。
戦国時代では、桔梗の生まれ変わり、生まれながらの巫女として特殊な力があるのは当然だと思われている。

しかし、かごめの力はその霊力だけではないと、その優しい心根にあるのだということを表現したかったのではないだろうか。
桔梗やかごめと黒巫女椿の違いは霊力の差だけではない。
人としての優しさ、他人への思いやり、そんなものであると思う。
タタリモッケ編では「悪霊」と犬夜叉やタタリモッケに片づけられていた真由の寂しさを癒し、救った。
かごめの優しさと同時に、見境なしに突っ走るかごめを気遣ってぶっきらぼうな優しさを見せる犬夜叉もまた心地よい。

          ☆          ☆          ☆

きのう(というか今日)の「三つの現代」に関して掲示板とメールでいくつか感想を頂いております。
その中で、私が高橋先生の描かれる犬夜叉世界を否定しているのではないかと心配してくださるものがありました。
お気持ちが嬉しく、同時に私の言いたいことがうまく伝わっていないのかな?と心配になりましたので、追記の追記を。

「犬夜叉」は根本的にあり得ない世界、絵空事です。
その架空の設定に理屈をこじつけようとするからややこしいことになるのですが、それがまた楽しいわけです、私には。

ただ仮に高橋先生がタイムパラドックスや、その他もろもろの矛盾を細かく描こうとしたらどうでしょうか。
犬夜叉たちや奈落に関わり、命を落とした全ての人間が歴史から消失、その子孫、もしかしたら現代に生きているはずの人間も瞬時に消えてしまうことになります。

もしもかごめがそこまで考えていたらどうでしょう。
人間を巻き込まないようにしようとしても、そもそもかごめがタイムスリップして戦国時代に来ることで、犬夜叉や楓と会うことで歴史を変えていることですから、そこに大きな矛盾が生じます。
そんなことで悩むかごめまで描いていたら「犬夜叉」のストレートなおもしろさは伝わりません。

誤解の上塗りを覚悟で書かせてもらえば、原作における犬夜叉の正義はあくまでも犬夜叉側から見た正義です。
(アニメに関してはまた書きたい事もありますが、ややこしくなるのでまたいずれ。)
生存のための人喰いならともかく、気まぐれで人間を殺していた妖狼族の鋼牙、今琥珀一人を助けようとしたことで、過去の罪全てが帳消しになってしまった神楽、犬夜叉側が好感を持ったというだけでいつの間にか「正義の味方」になってしまったこの2人や、殺され続ける無力な人間に対する犬夜叉たちの感情の希薄さなどは、この設定がマイナス方向に働いてしまったのかなと思っています。

けれどもこれまで何度も書いてきたように、この矛盾は高橋先生がわかっていて切り取られた、そのように私は考えています。
たとえばかごめの奇異な格好(セーラー服)を見ても人々が驚いたのは楓の村と弥勒初登場編だけ。
他の人々は当然のようにそんなかごめを受け入れます。

かごめ達は川や温泉を見つけたり村で泊めてもらったりする以外はお風呂に入ることもないと思います。
キャラ的にいつもこざっぱりとして清潔感溢れていますが、本当ならば汚いと思いますよ。
破れた服は破れたままだろうし、かごめ以外はそんなに着替えがあるわけないのに、繕った後も見られない(笑)。
傷もあっという間に治るし、あれだけ陽射しにさらされていてシミもソバカスもない、うらやましい。

でもそれを指摘して「現実感がない。」という人っているでしょうか、いませんね。
これは暗黙の了解、公然の秘密、絵空事であるという前提があるから成立するのだと思います。
「犬夜叉」がタイムスリップを現実のものとして描こうとしているのだとしたら、おそらく作品自体が指摘の的になっていたことでしょう。

「犬夜叉」においてタイムスリップはかごめが戦国時代に行くための手段でしかありません。
極端な言い方をすれば、タイムスリップにより生じる矛盾には目をつぶってなかったことにしているのです。
そして読んだり見たりしている人は、それを容認した上で「犬夜叉」を楽しんでいるわけです。

私も同じです。
ただ、そこをあえて突きつめて考えることが楽しい、それだけです。
それが当サイトのスタンスであると考えていただければ・・・。
「難しすぎてつまんない(by甥っ子)。」と言われてしまえばそれまでですが(笑)。
 (2004年11月18日の日記) 
タタリモッケともっけの幸い
原作少年サンデー1997年8月27日(39号)第38話「魂鎮め」

     ☆     ☆     ☆

タタリモッケのエピソードはこれで完結するが、感想自体は「かごめに感動」に尽きるのでここまでにしておく。

先日日本人の語学力を憂えるニュースが報道された(by辛坊さん)。
憂えるとは喜んでいるという意味ではない(笑)。

私はけっこう本を読む方だと思うが、よくやるのがこういった勘違い。
以前「犬夜叉」不妖璧を「壁」と勘違いして、ぬりかべ背負ってよたよた歩いている奈落を想像してしまったが、不妖璧の「璧」は玉のことだった。

ここでまたまた勘違い。
「完璧」という言葉があるが、奈落の持ってた璧があまりにきれいににまん丸だったこともあるし、「完璧」とは非の打ち所がなく完全な球形の璧から来た言葉なのだと思ってしまった。

そしたらこれも大きな勘違いだった。
ゲーム「三國志IX」で遊びながら攻略本読んでたら、「完璧」の由来が書いてあった。

それによると奈落の「璧」はまん丸だったが、こちらは五円玉のように真ん中に穴が開いた平べったい形をしている。

実は今日は休みだったので上野の中国国宝展に行ってきた。
一番興味があったのは「十二国記」でおなじみの「玉(ぎょく)」と「三国志」に登場するような武器。
残念ながら武器は初期の戟が少しあっただけだったが、玉は精巧に彫刻されたものがたくさんあり、その細かさと美しさに魅入られてしまった。

玉や儀式に使われる装飾品のコーナーに時間を取り過ぎて疲れてしまい、最後の仏像コーナーはほとんど素通りしてしまったが、その玉でできているのが今書いているところの「璧」。
「完璧」の元となっているのは「和氏(かし)の璧」と呼ばれる宝玉。
戦国時代、趙の恵文王が和氏の璧を持っていたが、秦の昭襄王が15の城と交換して欲しいと迫る。

当時の秦は大国で、断れば戦争になるし、璧を渡しても約束を守ってもらえるとは思えない。
なんとかして断ることを考えて使者に立ったのが藺相如(りんしょうじょ)と名乗る人物。
藺相如は璧を砕いて死ぬ覚悟であると宣言したり、璧を趙に送り返したりと死を賭けた大芝居を打ち、ついに昭襄王は璧をあきらめ、藺相如を手厚くもてなしたという話が伝わっている。

この「璧を完(まっと)うして持ち帰る」ことから非の打ち所がないという意味で「完璧」という言葉ができたのだそうだ。
ちなみにこの「和氏」とはこの璧を原石で見つけた人。
恵文王の前に2人の王様にこの原石を見せたが、嘘つき呼ばわりされて最初は片足を、次の王にも片足を切られてしまうという悲劇の人。
とここは母の受け売りだが、「最初から磨いて見せれば良かったのにね。」とは母の弁。

「三国志」、ゲームにハマっているように見せかけて、実は中国の歴史の勉強をしてるんだよって説明してもなかなか信じてもらえないが、「泣いて馬謖を斬る」とか「死せる孔明生ける仲達を走らす」とか、名前が出てくる有名な故事は知っていたが、「苦肉の策」が「三国志」がらみなのもゲームで知った。
そのうちこういった故事も少しずつ紹介してみたい、遊んでばかりじゃないのである(笑)。

なんだか「犬夜叉」というより「三国志」の話になったが、今回三国志関係の宝物はほとんどなかったにも関わらず、売店では金色関羽が2万2千円で売っていた。
なぜに関羽、関羽だけ?と思いつつもちょっぴり嬉しい、もちろん買えない。
2,500円の目録も欲しかったけど断念、残念。

やっと本題。
執念深くもまだ「犬夜叉」以外の「タタリモッケ」はいないかと調べているうちに、ふと思い出したのが「もっけの幸い」。
「車を木にぶつけたけど怪我がなかったのはもっけの幸いだった」といった言い方をする(経験談)。
まあ悪いことの中にたまたまいいこともあったというか、不幸中の幸いというかそんな意味。

私はこれまた勘違い。
当時タタリモッケは「可愛い妖怪いい妖怪」のイメージがあったので(本当はけっこう怖い)、「もっけの幸い」とは、不幸な時に、座敷童子、福の神みたいないい物の怪が来ていいことをしてくれる」、そんな風に思っていた。

ところが先日、「十二国記」がらみで図書館に居座っていた時に調べてみたら、「もっけ」は「災異、異変などを表す言葉」とあった(古語辞典)。
つまりこちらのもっけは「物の怪=妖怪」ではなく、「異変=不幸」といった風な解釈となる。
よって「もっけの幸い」は直訳すると、それこそ「不幸中の幸い」となるのである。

早読みのせいか早とちりの性格のせいか、私にはこういった勘違いが非常に多い。
でも辛坊さんのおかげでちょっとなかし勉強できた、感謝です。

最後に今日の上野公園、枯葉やポプラなどが強い風に乗って舞い上がり、渦を巻き、ひらひらと落ちてくる、最高の景色だった。
枯葉踏みもまた楽し。
 (2004年11月25日の日記) 
蜘蛛頭
原作少年サンデー1997年9月3日(40号)第39話「蜘蛛頭」

     ☆     ☆     ☆

朔の日の犬夜叉初登場で朔犬人気爆発!
「人間の耳が可愛い」ってそれ普通の状態じゃない?って突っ込みを入れたくなることが多々あったあの頃、懐かしい。
朔の日が定期的に来て、かごめの戦国日程もわかりやすかった(今は混沌)。

当時はもちろんかごめと桔梗の関係もよく知らなかったし、「炎トリッパー」も知らなかった。
かごめが好きだが、その強さ(vs妖怪戦など)、恐れのなさに嘘っぽさを感じていたので、なずなの普通の少女としての怯え、1種の妖怪に親を殺されたために「全ての」妖怪を憎む頑なさ、和尚を信じる気持ちでさらなる危機を呼んでしまう弱さと甘さ、そして自らを犠牲にして鉄砕牙の的になろうとする心の強さ(その場で得たもの)の印象は強かった。
未だに心に残るキャラの一人。

それにしても蜘蛛頭より原作のわさわさいる顔人体蜘蛛の集団が未だに怖い。
妖怪じゃなくても怖い、1匹だけでも嫌、私はとことん蜘蛛嫌い。

逆に好きなのが、高橋先生の描かれる女の子の太ももの色っぽさ(注;私は女性です)。

立ち姿はわりとすっきり細い足なのでそうでもないが、座ったり足を曲げている時の太目の?太ももが好き。
その意味でなずなの服装もけっこう珍しいんだけど大歓迎だった(笑)。
でも高橋先生の絵って、たとえすっぽんぽんでもいやらしくなくていいなあと思う。

かごめ以外は犬夜叉におんぶしてもらった女の子は珊瑚となずなだけ。
今度は桔梗のおんぶ姿も見てみたい。
 (2004年11月27日の日記) 
鉄砕牙で・・・
原作少年サンデー1997年9月10日(41号)第40話「新月」

     ☆     ☆     ☆

「肉付きの面」でも感じたことだが、今回も犬夜叉はなずなに向けて自信満々に鉄砕牙を振り下ろす。
鉄砕牙を得てから日も浅く、これまでさほど修行も積んだとは思えない犬夜叉のこの態度、けっこう不可解。
ここでふと思ったのだが、この鉄砕牙で「人は斬れるのだろうか」。

元々鉄砕牙は人間(犬夜叉の母君)を守るために作られたもの。
もしかしたら相手がどんな悪党であれ、生きている者は斬れぬ天生牙のように、全ての人間を斬ることはできぬ代物なのかもしれない。
もちろん相手が善人でも悪人でも関係なく、である。

こうして見てみると、「犬夜叉」自体が差別されてきた犬夜叉の苦悩を描きながらも、差別によって成り立つ作品であるように見えてくるから不思議。
つまり「妖怪」を一緒くたにして「邪なもの」と決め付ける差別である。
妖怪にだって(人から見て)いい妖怪はいるし、人間にだって悪者はいる。

しかし鉄砕牙、白霊山の結界(これは奈落の思惑がかなり絡んでくるので後で触れたい)、その他さまざまな結界が人間と妖怪を差別する。
つまり人間側から見た作品となる、当然のことだが。

もちろんこれは高橋先生がどうこうと言うのではなく、そもそもの妖怪に対する定義、妖怪=不浄の存在とする昔から培われた人間の意識、そういったものが根底にあるからなのだろうなあと思う。
そういった意味でも、「犬夜叉」という作品が、勧善懲悪正義vs悪対決、最後は正義が勝つ!ような単純なものではなく、主役級キャラ初め、さまざまな矛盾を抱えこんだものであることが見えてくる。

これらの矛盾は先生が意識して描かれているものだろうか。
当初はそこまで細かく設定されているのだろうと思っていたが、最近はそういった基本的なこと、考証はすでに無意識のうちにインプットされていて、今更意識しないで物語を紡ぎ続ける中に、いつの間にか織り込まれているのではないかと思うようになった。
それが経験だったり才能だったり努力だったり、そんな中で培われたものかもしれないが、やっぱりすごい、奥が深い。

同時に読んでも読んでも新たな感想なり疑問なりが出てくることを楽しみつつも、最初の頃の純粋な感動、素直におもしろいと思う気持ち、楽しむ心を失いつつあるような気がして寂しい。
それでも今回「蜘蛛頭」編を読んで、犬夜叉、かごめ、七宝、冥加、なずなのシリアスなのに笑える場面、会話などのおもしろさには声をあげて笑ってしまったりする。
 (2004年11月28日の日記) 

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