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箱庭 |
原作少年サンデー1998年7月15日(33号)第81話「腹中の光」 ☆ ☆ ☆ 今日のタイトル「箱庭」はきのうのエピソードタイトルだが、箱庭に関しては今回の方がおもしろい。 箱庭の中に吸い込まれたかごめたちは、無気力状態に陥っている人々を見る。 かごめたちもこの中で木の実を食べたり水を飲んだりすると、自分たちも同様になってしまうことに弥勒が気づく。 この「その世界の物を口にするとその世界に馴染む」設定、新しいところでは「千と千尋の神隠し」に見られるが、もっと昔にそんな物語を読んだような気がする、が思い出せない。 ピンチにもかかわらず笑えるやり取りのかごめたちに比べ、一人ぼろぼろなのが犬夜叉。 桃果人のおなかの中で気になる台詞は、朔犬になるにつれて「痛みを感じる」ようになること。 おなかに風穴をあけられてもそれなりにがんばる犬夜叉だが、これは妖怪全般というより犬夜叉特有の耐性なのだろう。 今週胸を貫かれた殺生丸もさほど痛みは感じていないのだろうか。 あの「しまった!」という顔は、魍魎丸ごときに傷つける隙を与えてプライドが傷ついたとか? 桃果人のおなかの中であわや胃酸に溶かされそうになる犬夜叉を鉄砕牙の鞘が救う。 どくんと波打った鞘に気づいた犬夜叉は鉄砕牙を呼ぶ。 鉄砕牙が桃果人のおなかに突き刺さり、犬夜叉は桃果人の吐瀉物と共に飛び出すが後でかごめがこの衣着るんだろな・・・。 後で犬夜叉が衣をかごめに渡す時、犬夜叉が「血だらけで気味が悪いだろうけどなっ。」と言い、かごめが「ううん、犬夜叉の血だもの。」と答えるが、残念ながらここは感動以前に「やっぱり一度は洗った方がいいんじゃない?」ってアドバイスしたくなった。 後にも先にも犬夜叉がこんなに汚れたことはないだろう。 アニメ最終回にあたる「鬼の腹」も今回に比べればずっと奇麗だったと奈落に感謝。 もうひとつ注目すべきは鉄砕牙を振り回している桃果人。 一応人間だから当然なのだが、犬夜叉の父君が母君を守る時、結界を張るのを妖怪のみにしたことは興味深い。 犬夜叉の母君が父君の死後仮に一人で暮らしていたとして、鉄砕牙が1本あるだけで身を守ることができたろうか、考えるとおもしろい。 もちろん母君が妖怪に襲われた時、鉄砕牙が勝手に動いて(十二国記的発想、笑)母君を助けるというものではないだろう。 たとえば桃果人、たとえば奈落、たとえば野盗、人間にも悪は多い。 彼らは変化しないとはいえ鉄砕牙を手にすることはできる。 逆に殺生丸や鋼牙がかごめなり、りんなりを(やむを得ず)鉄砕牙で守ろうとした時、鉄砕牙が変化しないのは困る。 だから私はむしろ、妖怪でも人間でも、とにかく他人を守ろうとする心がある者は変化させて使いこなすことができ、悪の心を持つ者は触れることすらできないという設定しにしたらおもしろいと思った。 もちろん父君から犬夜叉に譲られた形見として風の傷他の特殊技を使えるのは犬夜叉だけとしても、以前の殺生丸が使いこなすどころか触れることさえできなかった鉄砕牙で神楽を守って奈落を両断とか(でも奈落は逃げる・・・)。 こういう発想が出てくるのはやはりカードゲームの影響だろうけれど、七宝だって持ち運びできたんだからもしかしたら鉄砕牙ってそんな刀なのかもしれない。 犬夜叉の父君が妖怪を悪、人間を善と設定した意味、不思議である。 犬夜叉の父君という人は、妖怪や人間という枠に捉われない発想ができる人だろうと思うから。 理屈からいえば奈落だって鉄砕牙を奪えるんだから、わざわざ珊瑚に奪わせなくても良かったのにと思ってみたり。 それとも当時の奈落は、自分が半妖だと知らなかったのか。 さてこちらは正真正銘大ピンチの犬夜叉だが、あの桃果人のダイビングボディプレスを受けて生きてる朔犬。 普通の人間に戻ると言っても、基礎体力は並の人間とは比較にならないほどあるのかも。 (2005年4月31日)
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みんなががんばる |
原作少年サンデー1998年7月22日(34号)第82話「桃果人の厨房」 ☆ ☆ ☆ 最近めっきり印象の薄くなったかごめだが、今編では弥勒たちとも離れ離れになり、ただ一人桃果人と対決、「場慣れした」会話と喰われそうになりながら、めげない強さを見せる。 特に桃果人にぽんぽん投げつける台詞の小気味よさは今のかごめには見られないもの。 かごめ自身の変化もあるかもしれないが、珊瑚と雲母が加わり、戦士が増えたことでかごめの出番が減ったこと、犬夜叉が成長して、前のようにかごめをほったらかしにして無茶な戦闘に入らなくなったこともあるのだろう。 最初に読んだ時、桃果人がかごめの制服を持ってたことで、かごめの服を脱がせたのは桃果人?と意味なくどきどきしてしまったが、ここはあの(実は可愛い)猿や狸の召使?であって欲しい。 以前満天なども(原作でのみ)人間をがりがりかじっていたが、そのときは感じなかったおぞましさを桃果人に感じるのはなぜだろう。 それはやはり桃果人が元は人間であること、人間をわざわざ調理して喰うという行動にあるのかも。 肉食動物や妖怪による生存のための人喰いに比べ、人喰いを「楽しむ」桃果人ではどうしても生理的嫌悪を感じずにはいられない。 ところがこの作品の中の、数あるゲスト妖怪の中でも桃果人の印象は強烈かつ魅力的なことが不思議。 特に私はこうした新キャラが次々登場するような形の作品(漫画)は読んだことがなかったので、もうその時点で「高橋留美子」というストーリーテラーに無条件で敬服してしまった記憶がある(笑)。 その後もむしろアニメの影響で声優さんに興味を持ち、さまざまなアニメや漫画に触れるようになったが、もちろん作品の素晴らしさは別にしても「犬夜叉」に出会った時のような鮮烈な感動は感じたことがない。 以前本好きの方とメールでお喋りしていて出た話題だが、お勧めの作家を聞かれてはたと考え込んだ。 たとえば池波正太郎、たとえば松本清張たとえば司馬遼太郎、素晴らしい作品であることは読む前からわかっていることなので、今更「出会い」といった感じはしない。 心の準備ができてるから、あとは読んでみて相性がいいかどうかの問題。 やはり鮮烈な感動はこれまで読んだことのない作家の作品を読んだ瞬間「なにこれ!」って鳥肌が立つようなそんな感じだろう。 そんな作家を紹介するとなるとこれがなかなか悩んでしまった。 途中からの「犬夜叉」、小野不由美著「十二国記」は当然として岩井志麻子著「ぼっけえ、きょうてえ」やパトリシア・コーンウェル「検屍官」を読んだ時くらいかな?ミステリ畑では。 桃果人から現代アメリカまで飛んでしまったので軌道修正。 とにかく高橋作品は主要キャラはもちろんだが脇役キャラの魅力がすごい。 小さな体でがんばり弥勒と七宝、アニメのゴキブリもどきの2人も可愛かった。 それとは別にこの桃果人編は、犬かご派、朔犬派にとっても垂涎のエピソード。 雑魚妖怪以外はいつも苦戦の犬夜叉だが、特に弱い犬夜叉(人間状態)、かごめを守る犬夜叉を堪能できる至福のひと時。 アニメの人気も高かった。 参考までに当サイトで行った「アニメ「犬夜叉」好きなエピソードアンケート」でも167作品中23位に入るがんばり。 犬かご、犬桔、鋼牙、ミロサンファン全盛のアンケートで固定ファンがついてた作品だったと思う。 (2005年5月11日)
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人間の心 |
原作少年サンデー1998年7月29日(35号)第83話「仙人の薬」 ☆ ☆ ☆ 原作での戦闘シーン、意外にアニメに勝る迫力を感じるエピソードは少ないが、桃果人編は、犬夜叉が人間として弱い立場にありながらかごめを守ろうとして戦うところ、ひとつひとつの台詞の深さで印象に残る。 今回一番気になる台詞は、人間の首で作った薬を飲もうとしない犬夜叉に、かごめが「あんた・・・ 心は人間だわ。」と心に思う場面。 「犬夜叉」という作品自体が妖怪と人間の、垣根を越えた心のつながりを描くものでありながら、「人間だから」こんな薬、人喰いにつながりかねない薬を飲まないのだとかごめに言わせる。 仮に犬夜叉が半妖ではなく完全なる妖怪だったとしても飲まなかっただろうと思うのだが。 前にも書いたように、変化自体はともかく、どんな悪質な人間でも触れる鉄砕牙、おそらく奈落ですら触れる鉄砕牙など作品全体にどこか人間と妖怪を分かつ雰囲気が感じられる。 ちょうど魍魎丸に養われた子供たちが、人に害をなさない妖怪(山岳人)を区別なく殺したように。 アニメオリジナルでこの矛盾を的確に捉えていたのが雲涯というオリキャラだった(殺生丸様と永遠に一緒)。 非常に思いやりのある優れた人物でありながら、「妖怪」と分類される存在は全てが退治の対象となる。 現実ならば鋼牙や七宝、雲母でさえも退治しようとするだろう。 (この部分はアニメだけにぼかしていたが)。 特に作品初期、妖怪と人間の垣根を乗り越えようとするキャラを描きながら、その根底にこういった矛盾を感じさせること、これが高橋先生が意図されていたのだろうか、今でも謎である。 もしくは初期のかごめや鉄砕牙に「あえて」そういった設定をされたのか。 以前奈落が珊瑚に鉄砕牙を持って来させたことがあるが、何のことはない、自分で奪って来れば良かったことで(笑)。 この時点で奈落は自分が半妖であることに気づかなかったのだろう、というよりもしかしたら「奈落=半妖」設定が先生の念頭にまだなかったのかもしれないと思ってみたり。 もちろん想像である、念のため。 火鼠の衣を可愛く着こなしたかごめがこれまで全部のかごめの服の中で一番好きかも。 犬夜叉の台詞はひとつひとつが勝平さんの声で読めてしまうが、もし犬夜叉と鋼牙の声優さんが逆だったらと思うとすごくおかしい。 というのはちょっと前に山口勝平さんの「金田一少年の事件簿」見たから。 もちろん金田一一役。 「なんか違う人だ〜」と思った。 もちろんテレビの長丁場をはったのは鋼牙の松野太紀さん。 これを犬夜叉鋼牙に置き換えて読むとすごい違和感(笑)、おもしろいけど。 でもアメリカ版犬アニを見た時は、犬夜叉の声ってむしろ松野さんに近いような気がしたけどさほど気にならなかった。 あと悲惨でありながら徳を感じさせる仙人がアニメでも不思議な余韻を残す(声は大木民夫さん)。 もうひとつアニメで特筆すべきが、桃果人がかごめのことを「薄汚い小娘」と言ってること。 前にも書いたような気がするが、かごめ自身が言う通り、気持ちのいいお風呂もシャワーもない、着替えもそんなにないだろうし洗濯も奇麗にはできないだろう。 これは「犬夜叉」に限ったことでもないが、本当ならば体も衣服も汚いのが常だろうし、生傷も絶えないだろうし跡だって残るだろうし、日焼けもすごいだろう。 久々に登校して病欠が信じられないほど、たくましく鍛え上げられてるような気もするし。 現実と仮想の違いはそういった匂い、汚れといった生々しさ。 そこまでリアルに描いて、いつも薄汚い服を着たキャラなど見たことがない。 それだけに桃果人の言ってはいけない一言には大笑いしてしまった記憶がある。 犬夜叉とかごめのツーカー問答(かごめだけ逃がそうとする犬夜叉、見抜くかごめ)などもおもしろかった。 ☆ ☆ ☆ 「めぞん一刻」今週号を買ってきた。 以前通して読んだつもりだったが、二階堂くんなんてキャラがいたことはすっかり忘れていた(笑)。 私が高橋作品で好きな女性キャラは、ラム、あかね、かごめといったお年頃キャラよりも、響子さんやかすみお姉さん世代の女性。 (もちろんかごめ世代が嫌いという意味ではない、より年上の女性に憧れるということ)。 私の日々の犬夜叉考察は、かごめや犬夜叉を「年齢的に」上から見おろす考察なんだと実感した。 むしろ私の感覚は楓の視線に近いだろう。 年齢的にはずっと下だが(笑)。 今こうして「犬夜叉」と「めぞん一刻」を読み比べるとおもしろい。 (2005年5月13日)
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牡丹と芍薬 |
原作少年サンデー1998年8月5日(36・37合併号)第84話「変化(へんげ)の弓」 ☆ ☆ ☆ 桃果人編を読んでいて、仙人がなってしまう花がずっと気になっていた。 おそらく牡丹か芍薬だと思うのだが、これは仙人、あるいは仙術に何か関連があるのだろうか。 葉の形からたぶん牡丹だと思う。 ただ原作を読んだ当時は牡丹と芍薬の区別ができなくて、行き当たりばったり調べてみた。 そしたらなんと、昔中国である孝行息子が母親のために「西王母」から芍薬の種を盗み、あわや殺されそうになったところで仙人に救われるという話に辿り着いた。 書かなきゃ書かなきゃと思いつつすっかり忘れてて、出所さえもわからない話だが、芍薬が漢方薬として使用されていることもあり、まんざら言われもない話ではないだろう。 ちなみに牡丹と芍薬の区別は、牡丹が木で芍薬が草であること。 葉っぱの形など見れば区別がつきやすい。 ところで西王母である。 孫悟空には桃を取られ、この男には芍薬の種を盗まれて追い掛け回し、別荘?探して日本に来るなど意外に人間臭く、同時に「十二国記」やら「紅蓮の蓬莱島」につながる西王母リンクがとても嬉しい。 もちろん当時はそんなことを考えもしなかったが。 さて本題。 朔犬は桃果人相手に大苦戦。 弓を見つけたかごめは破魔の矢を放とうとするが壊れてしまう。 かごめの破魔の気を見抜いた仙人は最後の力を振り絞って弓矢に変化する。 弓だけじゃなく矢にまで変化するのがすごい。 七宝が化けた時はカタツムリもどきになっていたが。 この仙人、初期「犬夜叉」のエキストラ以外の「善人の被害者」としてとても強い印象を残す「はず」なのだが、残念ながらグロテスクな桃果人、火鼠の衣を着た可愛いかごめ、そして何より朔犬の魅力ですっかりかすんでしまったようなのが残念だった。 かごめの矢は桃果人のかけらを無事射抜くが、激怒した桃果人はかごめを襲う。 かごめを救おうとした犬夜叉が桃果人と共に崖下に落下してしまう。 死に際が結構鮮やかな桃果人の 「ざまあみろ、 てめえ・・・ 死ぬぜ。」 と犬夜叉の 「かもな。」の会話が好きだった。 絵としても扉絵始め、凛々しいかごめがとてもいい。 次回は犬夜叉弥勒の妖怪談議から珊瑚登場へと続く。 ☆ ☆ ☆ 今日は久々に中野にわやわや繰り出した。 樹なつみ先生の画集「オズマニュアル」とラスカルグッズを数点ゲット。 「OZ」は「犬夜叉」と並んで好きな漫画ベスト4の一作。 これまで未読だった番外編も読めて満足満足。 この画集にOVAのことも書かれていた。 「OZ」に関しては、原作以外は興味なかったが、声優さんを見てどっきり。 主役のムトーに桓魋&刹那猛丸(&ノリスケ)の松本保典さん、ネイトは良牙の山寺宏一さん、お祓いお婆&予王舒覚の藤田淑子さんと超豪華。 見ねばなるまい(笑)。 それからセル画。 犬夜叉やかごめが背景付きで1万3千円前後なのに、背景なしの殺生丸が6万円。 度肝を抜かれた。 でも素朴な疑問なのだが「犬夜叉」のセル画がなんでこんなにあるんだろ。 (2005年5月13日)
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犬夜叉の心 |
原作少年サンデー1998年8月19日(38号)第85話「犬夜叉の心」 ☆ ☆ ☆ きのうアニマックスで放映されたアニメ「犬夜叉」は桃果人編だった。 偶然だけどとても嬉しい。 桃果人と共に崖から落ちた犬夜叉だったがなんとか助かり、かごめのむき出しの感情に戸惑う。 もちろんこのかごめの激情は、頑なだった犬夜叉の心をまた少し開く。 素直に心配して、犬夜叉が死んだかもしれないことを恐れて、生きていたら素直に嬉しい。 なぜ桔梗亡き後かごめだったか、その理由がよくわかる場面。 桔梗ならもっと静かに癒すだろうし、少しずつ少しずつ犬夜叉の心に近づいていっただろう。 かごめはもっとストレートで強引である、この清々しさもいい。 同時にかごめが桔梗の生まれ変わりとして、桔梗そっくりの性格だったら、むしろ犬夜叉が「かごめとして」魅かれることはなかったかもしれない。 今回かごめ抜きで(現代に帰っているから)、犬夜叉と弥勒は語り合う。 弥勒もそうだが、犬夜叉もあまり自分の気持ちを語ることをしないキャラなので、ここでの会話は非常に興味深い。 原作ではこの時点で犬夜叉は妖犬化していない。 ただひたすら強くなるために、戦闘力、基礎体力といった基本的なこともそうだろう。 半妖と中途半端な存在で蔑まされなることも望んでいるだろう。 しかし何よりも強い心を得て悩みや葛藤(桔梗のことを中心に)を振り払いたいと願っている。 おもしろいのは弥勒は 1、かけらを使って良いことをしている妖怪を見たことがない。 2、犬夜叉が妖怪になった時に、犬夜叉の心のままでいられるだろうか。 (人の心を失って、かごめ達を食い殺すかもしれない。) と2つの問題を投げかける。 この段階では鋼牙はまだ登場していないことに注目したい。 同時に飛天満天などのこれまでのゲスト妖怪も。 鋼牙は人喰いだったが、これは四魂のかけらのせいではないし、かけらに操られて善性を失っているわけではない。 雷獣兄弟や逆髪の結羅、もちろん奈落も含めかけらを得たから(人間にとって)悪くなったわけではない。 もともと悪の存在が、かけらの妖力を悪用して、より悪く、強くなっただけである。 つまりかけらが妖怪を操るわけではないので、何が基準で弥勒の「心を失う」発言か、違和感が残る。 ここで犬夜叉は、四魂の玉を使って人間になろうとしたことを思い出しておらず(これは決して悪使用ではない)、かごめが思い出すのがおもしろい。 弥勒の言葉を裏付けるように、後に犬夜叉は妖犬化して人の心を一時失うが、これは決してかけらのせいではない。 犬夜叉の半妖の血、精神の未熟さによる結果である。 後々になって犬夜叉がかけらの影響を受けることがあるが(アニメ最終回にもなった「かけらを使う」参照、36巻)、これは邪気に満ちた鬼の岩の腹という特殊な状況なので別としたい。 原作9巻の段階でこれだけの矛盾を抱えこんだ会話、この時点でこそ成り立つ会話なのに、先にこの会話を入れてしまい、山犬妖怪の後、原作では21巻の段階で桃果人編が入ることになってしまった。 桃果人編の、他とは異質のアニメにしにくい残虐さ、スペシャルにしたいほどのおもしろさは十分理解できるがこうして順番を変えたことにより、原作の「矛盾のおもしろさ」すらも消えてしまった。 おもしろいエピソードだけに残念だった。 そして後半、妖怪退治屋珊瑚が登場。 何の屈託もない、明るい珊瑚は登場から僅かの期間。 それだけに退治屋の人々や琥珀の運命を知ってから読む、珊瑚登場編は感慨深いものがある。 (2005年5月16日)
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鬼蜘蛛 |
原作少年サンデー1998年8月26日(39号)第86話「退治屋」 ☆ ☆ ☆ 私は奈落のこれまでには3つの段階があると判断している。 ひとつは奈落として誕生し、動ける体と高い妖力に喜び勇む奈落である。 鬼蜘蛛の心が自分の中にあることに気づかず、「桔梗を殺す」ことができ(1巻で犬夜叉に化けた)、犬夜叉を「薄汚い半妖」と罵り(自分は奇麗な半妖だと思っていたわけではあるまい、笑)、鬼蜘蛛によって珊瑚の一族を皆殺しにする奈落である。 次の段階は、桔梗に言われるまでもなく、自分が半妖であることに気づき、鬼蜘蛛の心によって桔梗をもはや殺すことのできない奈落である。 奈落は己の背中の鬼蜘蛛の痣、人間の心、桔梗への想いを主張し続ける痣を嫌い、自ら剥ぎ取ることすらしてのける。 みっつめの段階は人の心を捨て去り、心おきなく桔梗退治ができる奈落である。 こう判断した上で映画「鏡の中の夢幻城」を見た時、違和感を感じたことは以前書いた。 奈落が一番嫌い、憎む「鬼蜘蛛」が、なぜ未だに奈落の謀略の象徴として登場するのか。 2002年12月頃の公開だったと思う。 アニメでは怒涛のオリジナル攻勢の真っ最中だが、原作ものでは鬼の首城(231話)のあたりまですでに来ている。 つまり第2段階の奈落で、その奈落がなぜ忌み嫌う鬼蜘蛛を登場させたのか、何でも使える奈落だけに、あえて鬼蜘蛛にこだわる意図がわからなかった。 むしろ今回人見城の悲劇をそのまま踏襲したような奈落作りが、「鏡の〜」の中で大きなマイナスポイントになってしまった。 (ストーリーとはほとんど関係ないとはいえ、竹取物語の歌を用いたこととOPの素晴らしさで相殺されたが。) その意味で、今回の話は珊瑚と琥珀の悲劇と共に、印象に残る一遍。 犬夜叉登場キャラの中で、この時期何も抱えるものがないのはかごめくらいだろう。 犬夜叉と桔梗は過去の傷を抱え、弥勒は風穴の呪いと風穴に吸い込まれる父を見てしまうという悲劇の持ち主。 七宝は雷獣兄弟に父を殺される。 奈落も身を喰らわせてまで恋した桔梗をその手で殺してしまう。 殺生丸は父君を奪った犬夜叉の母君が憎けりゃ人間みな憎いと子供じみてはいるが、情け容赦なく人を殺すほど強いものだった。 その中でも珊瑚の悲劇は、丁寧に描かれているだけに、琥珀が死なず、奈落に操られてしまうということで、特に際立つ。 珊瑚が非常に突きつめた性格になっているのもこの影響が大きいだろう。 弥勒への恋に目覚めるまでの珊瑚を「可愛い女の子」と思う人はあまりいないのではないか。 もちろん顔は可愛いが、性格的に強いもの、時には頑なでさえある強さを秘めているように描かれている。 元々退治屋として培ってきた強さもあるだろうが、犬夜叉たちに助けられた後、一人で敵討ちに行こうとするところ、水神編で犬夜叉との激しいやり取りなどを読むと、高橋先生がやはり「抱えるもの」のあるキャラとして描かれていることがわかる。 それだけに弥勒との恋の中で、不器用で愛らしい性格が少しずつ見えてくる珊瑚には本当に嬉しかったし、可愛いなあ愛しいなあと思えた。 今回は、鬼蜘蛛退治後、琥珀が仲間を手にかけたところまで。 愕然とした珊瑚の表情がその後の悲劇を予感させる。 もうひとつ印象的なのが城の若殿。 アニメではこの時はまだ若殿のままなのだが、原作ではすでに奈落が入れ替わっている。 アニメではここが惜しかった。 珊瑚を救うのが、まだ本物の若殿ならば、病弱ながら剛毅な若者だったことになる。 そこまで変えるなら、奈落との関わり、入れ替わる瞬間なども描いて欲しかった。 すでに流れに関係ないオリジナルは乱発していたが、さすがに物語そのものに関わる大きな変更に挑む用意のない時期だったのかもしれない。 原作で無視されたキャラだからこそ、アニメで丁寧に描いて欲しかったのだが。 (2005年5月17日)
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珊瑚と琥珀 |
原作少年サンデー1998年9月2日(40号)第87話「罠」 ☆ ☆ ☆ 先週のサンデー、桔梗と琥珀が静かに語る、あの場面を見た後で今回の「罠」を読むと、「犬夜叉」という作品の長さにつくづく頭が下がる思いがする。 父や退治屋の仲間を殺し、珊瑚に重傷を負わせ、正気に帰らぬままに死ぬならまだしも、死の直前に己の所業を見せつける。 奈落の謀略も、最近ではマンネリの域に入りつつあるが、当時は本当に胸が痛くなるようなエピソードが続いていた。 ところで、当時の珊瑚を見ていると惨劇の影響ももちろんあるのだが、元々自分に頼む所の大きい、突きつめた性格の少女に思える。 もちろん悪口ではない。 妖怪退治屋という生まれ持っての使命のせいもあるだろうが、犬夜叉たちと合流してからも、しばらくのうちは非常に頑なな面を見せる。 犬夜叉に限らず、弥勒も珊瑚も出会いと恋の中で少しずつ心を開き、人としての柔らかさを身につける。 かごめの場合は最初が完璧なためにどこか現実味がなかったが、かごめ以外のキャラの心の成長が作品の魅力のひとつだなあとしみじみ思った。 もうひとつ凄いというか凄過ぎるのが珊瑚の生命力。 さすがにちょっと行き過ぎではないかと当時は思ったり。 後で珊瑚は四魂のかけらを埋め込むが、かけらがあまり効果がないことが興味深い。 当時の奈落はかけらの力に+@となるほどの妖力はなかったのかな?とも思う。 七人隊を蘇らせるほどの力を持つ奈落なら、珊瑚を全くの健康体にすることもできそう。 見えない部分で奈落も修行しているのかも。 作品中切り捨てられる中に、戦闘以外の修行といった部分もあるが、当時かごめがあくまでも守られるためのキャラで、犬夜叉の少しでも助けになるよう修行してほしいという意見を当時あちこちで見かけた。 私は練習していないわけではなくて、その部分を描いていないだけだと思っていたのだが、作品に全てを求める人と求めない人への作者としての兼ね合いがどんなものだろうと想像してしまう。 そして本人ではないのだが、強い印象を残すのが城の若殿。 何度も書いている通り、本来ならば本物の若殿は存在しない。 原作登場時、すでに奈落が入れ替わっている。 この部分は2人の若殿を描いてみせたアニメの解釈がおもしろかった。 犬夜叉、弥勒、七宝とそれぞれの悲惨な過去を背負っているが、中でも珊瑚の記憶は悲惨なものに感じられる。 現在弥勒の風穴へのカウントダウンや桔梗の消滅へのカウントダウンへの緊迫感が希薄なせいだろうか。 全てを描かず、しかし読むものに全てを感じさせる作品、私はどうしても高橋先生に期待したい。 実際それがあったから私はこの作品に惹かれたのだし。 その意味でも私は「犬夜叉」という作品がもう10年でも20年でも続いて欲しいと思っているのだが、友達の古株?高橋ファンに言わせると、それは酷な要求なのだそうだ。 作品が輝いているうちに終える英断もまた大切とか。 そういう見方もあるんだなあとつくづく思った次第。 (2005年5月24日)
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アニメの優しさ |
原作少年サンデー1998年9月9日(41号)第88話「砦の中」 ☆ ☆ ☆ 以前黒巫女椿の感想でも書いたが、アニメで時に不思議な優しさを感じることがある。 子供向けを意識しているのか、脚本を書いた方が優しいのかわからないが、椿は醜い姿で老いさらばえることなく死んだ。 同じことを、アニメでのみ登場した本物の若殿に感じた。 次回の話になるが、犬夜叉を倒そうと怪我をおして出ようとする珊瑚に若殿が言う。 「本懐を遂げたなら、私のもとに戻ってこい。」 剛毅な若殿の静かな優しさが、珊瑚の心に蘇る。 「戻れはしない。」 珊瑚の心、できることなら犬夜叉を倒して若殿の元に戻りたい、そんな想いがあるのだろうか。 それほど琥珀に父や仲間を殺され、自らも傷ついた珊瑚の心は実は弱かった。 珊瑚を支えているのは犬夜叉への敵意だけ。 ところが戻ってこいの言葉が、奈落から発せられたのであれば、事態は逆転する。 仮にだが、珊瑚が犬夜叉を倒して戻ってきたならば、正体を現した奈落に殺されるのがおちだろう。 いっそう残酷である。 アニメで珊瑚の心の支えの若殿が実は奈落であることを捨て、本物の若殿を出して心の絆を真実のものにした。 珊瑚に優しい展開となったように思えた。 そんな深い意味はないのかもしれないが、結果的に優しいアニメになった。 ちなみに珊瑚登場編の脚本を書かれたのは隅沢克之さん、椿の最後は千葉克彦さん、どちらも男性である。 男性は女性ほど残酷にはなれないとはよく聞くが(笑)。 アニ犬の脚本を手がけるのはほとんど男性だが、たとえば椿編の場合、5話に渡るエピソードを3人で手がけられている。 椿編の各エピソードの持つ雰囲気が、どことなく不協和音をかもし出すのは、そんなところにも原因があるのだろうか。 ところが逆に珊瑚が若殿の所に戻ってきたバージョンを考えると面白いことに気づいた。 本物の若殿に仕える道を選んだ珊瑚、後のオリジナル、「珊瑚目指してオンリーユー」の根本となる展開になりそうだ。 最初感想のつもりで書き始め、いつの間にやら「考察日記」になったが、最後の最後に「深読み日記」になりそうだ・・・。 今回は若殿(本物奈落)と奈落(傀儡奈落)の会話を聞いて、珊瑚が犬夜叉が皆を殺したと勘違いするところまで。 そしてコミック9巻もこれでおしまい、残り213話。 ☆ ☆ ☆ きのうのサンデー「冥道残月破」を読み返していて、ふと思い浮かんだのが眠狂四郎の円月斬り(円月殺法)、と書いても見たことはない。 柴田錬三郎著「眠狂四郎」は田村正和さんも演じておられるとか。 古畑任三郎もコマーシャルもいいけど、田村さんはやっぱり時代劇に華がありそう。 見たことないので、刀を満月のように回すのかな〜(どうやって?)と思っていたけど、美しさといい名前といいなんだかリンクしそうな気がする。 高橋先生は時代物好きそうだからって、どこまでも個人の想像だが。 「日暮神社と音無響子の音無は、源頼朝がらみですか?」「犬夜叉は南総里見八犬伝と西遊記が関わってますか?」 いろいろ聞いてみたいなあ。 (2005年5月26日)
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かごめ、桔梗、そして翠子 |
原作少年サンデー1998年9月16日(42号)第89話「木乃伊」 ☆ ☆ ☆ 奈落に騙された珊瑚が犬夜叉を追っている頃、退治屋の里に来た犬夜叉たちは翠子の木乃伊を見つける。 翠子、桔梗、かごめがそれぞれの生まれ変わりだと想定すると、2つの疑問が浮かんだ。 ひとつはかごめと桔梗の年齢差。 桔梗は大人っぽく見えるが、桔梗の誕生日か命日にかごめが戦国時代にやって来たのだと思っていた。 生まれ変わりをSF物の基本に合わせるなら、だいたい生まれ変わりは同日同所に生まれることになると思ったから。 しかし桔梗が18歳、かごめとの間に3歳の年の差があるなら、犬夜叉とかごめの旅はちょうど3年で決着つくのではないかとおもった。 もうひとつは生まれた場所。 桔梗とかごめは大体同じ場所で生まれたと言っていいと思う。 では翠子はなぜ退治屋の里にいたのか。 実は珊瑚が翠子の生まれ変わりと言いたいのではない(笑)。 翠子の時代、珊瑚の言葉や建物からいって平安時代と思われる。 私は翠子もまた、武蔵の国、桔梗の村周辺で生まれたと思っている。 平安時代、武蔵の国は平将門の乱に代表されるように荒れた時代だったとされている。 「犬夜叉」の物語は殺生丸と犬夜叉兄弟の父と母2人が愛し合った関西(おそらく京都近辺)と武蔵の国、つまり今の関東地方に別れるが、翠子も武蔵組。 つまり翠子は桔梗の村近辺で生まれて、死んだのが後に退治屋の里になる場所なのだろうか。 もちろん高橋先生なりの設定と考えればこれまで書いたことは何の意味もなさないが、それはそれで楽しかったりする。 さて、後にアニメで珊瑚の説明を聞く時に、実に不思議なオリジナルが挿入された。 どうでもいいのは襲われそうになった冥加が、助けてくれた犬夜叉を翠子と間違える所。 見間違えではないと力説してたので、犬夜叉=翠子の生まれ変わり説浮上?って笑った。 もひとつは、翠子のお供している雲母(イメージ)。 雲母の先祖説もあったが、雲母自身が懐かしがってたので、雲母だろう。 いずれ翠子の問題が決着する時どうするんだ?と思ったが、アニメは終了(一応)。 ところがコミック40巻で尼寺編、齢三百年の化け猫に子猫扱い。 雲母は齢五百年だよ、って無意味な突っ込み(アニメに従えば)。 「アニメは別物」、いい意味でも悪い意味でも、つくづく便利な言葉だと思う。 よく原作クラッシャーという言葉を聞く。 具体的なお名前をあげるのは控えるが、うまくいけば原作以上の作品を仕上げ、下手すると目も当てられないものとなる。 もしもだが、私がアニメを作ったら冒険できない、原作に忠実なだけで面白みのない作品になりそうだ。 その意味ではいろいろ考えさせられるという意味で、アニメ「犬夜叉」はメリハリの利いた作品だと思う。 これも「よくも悪くも」の但し書き付き。 ☆ ☆ ☆ 何気なくテレビをつけたら、ヒストリーチャンネルでいきなり「犬夜叉」劇伴が。 「その時歴史が動いた」の「坂本竜馬暗殺事件」だった。 近代史にはあまり興味が持てない私だが、思わず見てしまった。 ☆ ☆ ☆ きのうは地上波で「トレマーズ」(モンスターパニック映画)を見た。 ケヴィン・ベーコンは私の大好きな俳優さんの一人。 「フットルース」で大ブレイクした後B級映画?と思ったけど、これが馬鹿らしいほどおもしろかった(ほめ言葉)。 私は彼の声が大好きなので、吹き替えで聞くのは初めて。 こんなに馬鹿らしいほど怖くなくて、馬鹿らしいほど登場人物がおもしろくて、馬鹿らしいほどモンスターに笑えた作品はない。 おそらくB級ホラーの中でもベスト5には入ると思う。 ちなみに私はホラー好き。 「13日の金曜日」に出てたケビン・ベーコンには笑った・・・。 (2005年5月27日)
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アニメの法則 |
原作少年サンデー1998年9月22日(43号)第90話「仇」 ☆ ☆ ☆ 騙された珊瑚と犬夜叉が対決する。 人間で、しかも女性の珊瑚に対する犬夜叉は防戦一方。 ここを読んでて思い出すのがPS「犬夜叉」。 犬夜叉は初登場時の弥勒とも珊瑚とも戦うが、2人ともやたらと強い。 逆髪の結羅で苦戦した後、さくさく進んでいくと、弥勒で苦戦、珊瑚で下手すると戦闘不能でゲームオーバーになりかねない強敵だった、懐かしい(笑)。 おもしろいのが、弥勒は最悪でも体力を「1」残してくれるのでゲームオーバーになることはないが、珊瑚の場合は情け容赦なかったこと。 体力を40、50とけずられて、あっという間のゲームオーバー。 事態を顧みる余裕のない珊瑚と、人のいい犬夜叉の原作でのシチュエーションが上手に生かされたステージだった。 珊瑚は犬夜叉を半妖とそしる。 たとえ犬夜叉が敵だったとしても、犬夜叉が半妖であることは何の関係もない。 にもかかわらず半妖呼ばわり。 妖怪に対して無用な偏見のないはずの珊瑚にこう言わせた事で、作品世界においての半妖に対する意識がどんなものか、より読者に印象付ける効果があった。 もちろん珊瑚は本来ならば敵であってもそんな言い方をする少女ではない。 そこにあえてこう言わせる事で、珊瑚という初登場キャラの突き詰めた性格、家族と仲間を一度に殺された悲しみが見事に浮かび上がる。 私はこの辺は和田薫氏の「珊瑚のテーマ」、風を意識させる、と桑島法子さんの声でアニメの珊瑚に魅力を感じた。 珊瑚の場合はその時々で原作の方が良かったり、ここはアニメがいいやと思ったり、けっこう揺れる。 犬夜叉の「ここで会ったが百年目」発言には爆笑した。 つい先日会ってるだろ、みたいなことじゃなくて、犬夜叉もだし後の蛮骨もだが、高橋先生世代の言い回し(申し訳ないがちょっと古い)がちょくちょく出てくる時があって、しれがいかにも犬夜叉には似つかわしくなくて、意識して作ったギャグとは違ったおかしみを感じるのがおもしろい。 今では考えられない奈落と珊瑚ペアも今見ると新鮮だが、刀を使う奈落も珍しい。 さらにおもしろいのは、かごめから平気でかけらを奪う奈落。 かごめに対して恐怖観念を持つまでにはまだ至らず、これはむしろ桔梗と関わるようになり、鬼蜘蛛の心が強くなるにつれてでてきたものなのだろうか。 ☆ ☆ ☆ 今日のアニマックスははじめてのオリジナル、スズナとセリナの「美少女姉妹の弟子入り志願」。 ここで大変なミスを発見。 アニメ原作比較で、私は姉セリナを山崎和佳奈さんと書いていたが、大間違いだった。 どう聞いても妹セリナだ、すみません、直しておきました。 ちなみに山崎さんは「十二国記」の好きキャラ珠晶も。 そうそうちょっと前に友人と話していて思わず「好きキャラが」と言ってしまった。 オフラインではアニメ好きなどおくびにも出していないので(アニメ好きには見えないだろうし)、「えっ、好きキャラ?」と突っ込まれて冷や汗かいた。 前にも「きのうどっか行った?」「うん、アニメイト。」と答えて怪訝な目をされたことも(笑)。 話がそれたが、今日のタイトル「アニメの法則」は出番の話。 オリジナルだけに、5人の主役級キャラが「ワン、ツー、スリー、フォー、フィニッシュ!」みたく順番に出番が生じる。 原作で出番のない戦闘においても平等に5人の出番を作る。 実はこれがちょっと苦手。 ところが久々に見たコナン。 少年探偵団が出てくると必ず順番に出番があった、灰原哀まで出番があった。 これがアニメの法則なのかもしれないなあと思った。 他アニメも共通するのかもしれないが、映像だけに出番がなければ印象が薄くなるのかなあ、それでは困るのかなあ。 遠い昔の○レンジャーだっけ?、あれも順番だったよなあ。 映像では常に印象付けていなければならないのかもしれない、なんとなくそう思う。 これはこだわる方が悪いのかもしれない。 「犬夜叉」以外でも思うことだが、やはり原作と映像の中には越えられない大きな壁があるのだろう。 それにしても丁寧に作られているオリジナルだと思う。 後のオリジナル連発にはかなり抵抗があったが、やはりプロとして時間に追われる中では全て満足いく作品を作る方が無理なのかもしれない。 評価されないオリジナルに一番辛い思いをされるのは、もしかしたら製作側の人かもしれないなあと、珊瑚の足を見ながら(笑)つらつら考えてしまった。 ☆ ☆ ☆ ニュースの後、つけっぱなしでいたら、「雪の女王」が。 もうポアロとマープル終わったんだって驚いた。 なんとなく聞き覚えのある声に公式サイトをのぞいてみたら、日高のり子さんだった。 ちゃんと見ていなかったのでわからなかったが、ゲルダのお母さんなのかな? もっと驚いたのは鈴木琢磨さん(細っこい青トロル)。 月夜丸、百鬼蝙蝠編紫織の父だった声優さん。 あと「るろうに剣心」の涼風真世さん。 例によって俳優さんが多いのはなぜ? (2005年5月29日)
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