十二国記感想 5
「赫々たる王道 紅緑の羽化」 2
2ヶ月もたって十二ゲームのプレイ日記。
待っててくださった方はいるのだろうか・・・?

1作目は決められた1本道を行ったり来たりするだけだったが、今作では広いフィー ルドの中を自由に歩き回ることができる。
こうなると迷うのが私の?陽子だが、画面の隅っことか、行き当たりばったりに チェックしてみると、思いがけないアイテムが落ちていたりする。

拾った時点では何かはわからず、後で調べてもらうことになるのだが、「50円 玉」、見てわからない?(笑)。
他にも携帯、場所によってはカップラーメンなど、蓬莱(日本)から流されてくる物 も多いらしい。
RPGの王道、希少アイテムは目立たない所に多い。
これ見よがしに輝いていたりすると、確かに入手しやすいがまあ普通のアイテムだっ たりする。

この点「犬夜叉」は極端で1作目では七宝の特殊能力で探せるようになるまでは、犬 夜叉とかごめが2人して村中の家の中を荒らし回っていたのだが、「呪詛の仮面」で は全アイテムが輝いて教えてくれた、これまた極端な(笑)。

蘭玉の待つ固継に入る頃にはレベル12。
こういった戦闘RPGは最初無理にでもレベルを上げておくと後が楽。
陽子も全キャラ全使令もレベルを最終的に最高レベル99まで上げてしまい、ラスボ ス戦が哀しいほど楽だったりもしたが。

遠甫と蘭玉の会話の後で合踰が蘭玉たちを襲い、陽子が助けるところは原作のまま。
陽子は固継の中をうろつき回って(笑)、アイテムチェック。
鑑定人によると、拾った物は「年代物の茶釜」「きれいな茶壷」だったかな?そして まんが雑誌。
見たがってた漫画だけど、ここで陽子が読むわけにもいかず、あっさり売り払う。

固継でも「変な飾り」を見つけ、鑑定してもらうと「五百円玉」。
本当は戻って山口勝平さんの冬官長にお願いすると、ただで鑑定してもらえるんだけ ど、戦闘をこなしてる分、アイテム数がやたらと多く、いちいち出し入れするのがめ んどくさい。

まあ陽子の場合は鑑定人が預かってくれて、どこに行っても返してくれるからいくら か楽か。
買い物してから家に戻り、蘭玉と蓬莱の話、結婚の話などを交わし、遠甫と冬に必要 な物の話から始まる王としての心得を学ぶ。
遠甫の雰囲気がすごく良くて「2えるでーけー」も何度読んでも聞いても笑ってしま う。

その後景麒から北韋で「僕(しもべ)が待ってる」と蘭玉たちのお使い。
この蘭玉たちの勘違いと陽子の狼狽振りがなんともおかしい。
北韋にはいったん固継を出て、ひたすら妖魔と戦いながら進むことになる。

          ☆          ☆          ☆

十二国記でキャラ占い(ブログより)
先日教えてもらったののひとつ「十二国記でキャラ占い」やってみました。
なんと「犬狼真君(更夜)」でしたよ、いいのか?私。
犬だし狼だし嬉しいし。

更夜(犬狼真君)さんは、ひとことで言えばとてもユニークな人。
印象的とも言えるほどの強烈な個性を持っていたり、他人にはなかなか真似のできない才能に恵まれていたりします。
見た目が大人しいタイプなので、最初は誰もあなたのユニークさに気づかないのですが、つきあいを深めていくうちに驚いたり感心したり。
ですが、なかなかの苦労人なあなた。
時には、これで良いのか?っと悩みながらもそれに従い生きて行かなくてはならない場面もあったりしますが、自分自身の個性や方向性を良く見極めて、それを最大限に生かして、大きな幸せを掴んで下さい。
いずれ苦労は報われるでしょう!

六太「更夜」
更夜「ん?なんだい六太」
六太「いつになったら雁に帰って来るんだ?」
更夜「そうだねぇ・・・後500年って所かな」
六太「・・・・まじ?」
更夜「ニッコリ(^^)」
六太「・・・・(わからない・・・ホントか冗談か・・・ιι)」

● えむさんを狙っている異性は、4人います。
ま、4人って誰でしょう♪
 (2004年8月5日の日記) 
黒祠の島 〜夜叉
「屍鬼」と「黒祠の島」どっちが好き?と以前聞かれたことがある。
どちらも「十二国記」の小野不由美作品で、「十二国記」で小野作品にはまったNさ ん(匿名希望につき)がこの2作品も読んでみて唖然とされたらしい。

私は「屍鬼」や「東京異聞」が先で、「十二国記」はホワイトハート文庫のイラスト を見てコバルト文庫と勘違いし、手が出なかったから(笑)、あまり違和感がなかっ たが、Nさんは、「十二国記のようなロマンティックファンタジーを想像してたらあ まりにおどろおどろしくて・・・。
でも読んでいるうちにとりこになりました。」と書かれていた。

後でサイト巡りをしていて知ったことだが、アニメ「十二国記」の影響でファンにな り、他の小野作品を読んでみてやはり驚いた人がかなりいた。
さてそこで「屍鬼」と「黒祠の島」、なぜこの2作品をNさんが出してきたのかはわ からないが、私としては「黒祠の島」はホラーミステリーにジャンル分けしてもいい のではないかと思っている。

そのため「おどろおどろしさ」がストレートに伝わってこないというか、その「おど ろおどろしさ」も殺人事件の謎を深めるための手法という風に捉えてしまったので、 怖さで言ったら「屍鬼」かな?と思った。
いえ何より「夜叉」が出てきたことで軍配は「黒祠の島」に(笑)、というのは冗談 だが、「黒祠の島」には「夜叉島」「夜叉岳」といった土地名が重要な要素となって 何度も出てくるから、それだけでも親近感が沸いてしまう。

「夜叉」、「犬夜叉」はもちろん「金色夜叉」「金剛夜叉」など名前はよく聞くが、 では「夜叉」って何?と「犬夜叉」を知った頃考えたことがある。 漠然としたイメージで、「善悪両面を持つ女性の鬼」だと思っていた。
「やしゃ」の響きが柔らかくて女性的なのと、「夜」に怖い、不気味というだけでな くどこか物悲しい雰囲気を感じていたせいだろう。 例えて言えば鬼子母神のような。

しかし辞書で調べてみたら、「恐ろしい姿をし、強い力を持っていると言われる鬼 神」だそうだ。
「不動明王」はよく聞くが、「金剛夜叉」も「不動明王」と同じ五大明王の1人で、 他の3人の明王と共に東西南北を守護し、金剛夜叉は北の担当。
以前プレステ「犬夜叉」の時にも書いたが、ほんとに「犬夜叉」は勉強になる (笑)。

と書いていたら、「金剛夜叉」以外にそのものずばり「夜叉」と名乗る「天部」も存 在するらしい。
「天」「竜」「阿修羅」などと共に「八部衆」と呼ばれるとされるが、「夜叉」と 「阿修羅」が非常に日常的に使われるのは何かきっかけがあったのだろうか。
これも調べてみたらおもしろいかも。

ちなみに私が見た夜叉像は怖い顔をして手が6本あり、「犬夜叉というより冥加だ な。」と思った記憶がある。
夜叉自体がもともと悪行を働く者で、それが心を入れ替えて神になったという部分は 鬼子母神と似てるかも。
ついでに「黒祠の島」には「馬頭」も出てくる。

話を戻して「屍鬼」と「黒祠の島」、どっちが好きか、夜叉抜きにしても「黒祠の 島」かもしれない。
私はミステリーを読む時、謎解きはあまり興味がなく、普通の小説と同じように読む ので、推理物としてどうかということは語れないが、いかんせん行方不明になる葛木 志保に感情移入ができず、よって式部が恋人でもない葛木を追ってこの島までやって 来て事件に巻き込まれるという展開に同調しにくいものを感じていた。

むしろ泰田均、神領安良、神領博史、そして神領浅緋などの脇役(と言っては語弊が あるが)の魅力に引き込まれていったような気がする。
最後はあまりに探偵役が
すごすぎて、なぜそこまでわかってしまうの?と思った りもしたが、それでも否応なしに納得させられてしまうのがキャラの魅力かも。
イメージ的には「屍鬼」が大作、「黒祠の島」はそうではない、そんな印象を受ける が、少なくとも私は「黒祠の島」は何度も読み返すし、「十二国記」の次に好きかも 知れない。
ただ不思議なのは謎解きの部分よりも、初期から半ばにかけての何がなんだかわから ないうちに怖さ不気味さが増してくる部分の方がずっとおもしろいこと。
少しずつ盛り上げていって最後に爆発!といった展開にならないのは手法だろうか。
でもちょっと気抜けしてしまうところが残念だった。

「屍鬼」には感情移入できるキャラがいないことが私にとっては大きいかも。
 (2004年8月5日の日記) 
くらのかみ
最初に「 くらのかみ」ってひらがなのタイトルを目にした時、小野不由美作品ならば「蔵 の神」に違いないと思ったが、そこから連想したのはなぜか「座敷童子」ではなく 「貧乏神」だったりした(笑)。
ただ「悪霊シリーズ」がストーリー的なおもしろさは大好きだけれど、キャラや喋り 方に思い切り引いてしまった苦い思い出があるので、今回も「児童書らしい」という 噂にしばらく手が出ずにいた。
(後になって「悪霊シリーズ」がティーンズハート文庫から出ており、対象年齢が低 いのでそれを考慮して文体や喋り方を設定されたことを知った。)

とりあえずは自分で買わずに図書館に予約。
届いた本を一目見て「あれっ?この絵・・・」、なんだかものすごく懐かしい・・ ・。
装画・挿絵は村上勉氏とある。
昔読んだ絵本か、何かの挿絵だったのだろうか、どうしても思い出せないが、ただ懐 かしい。
村上氏の作品リストを見ても記憶にないのが、今でも大きなミステリー。

最初に後のページを見たら「かつて子どもだったあなたと少年少女のための― ”ミ ステリーランド”」とあり、小野不由美他、綾辻行人氏(小野先生の旦那様)、京極 夏彦氏、島田荘司氏など日本ミステリー界の第一人者が勢揃い。
「本の復権(ルネッサンス)を願い」とあるけどいまいち言いたいことがわからな い。
講談社のサイトを見たけど、たぶん最初の頃はその目的について詳しい解説があった のかな?
今は宣伝しかないです。

とにかく本離れしつつある読者を取り戻すために、おもしろいミステリーを読みやす くお届けしますって趣旨なんだろうなあと思う。
でもこれ、もう一度同じ内容を大人向けに書いて欲しい、そんな物足りなさを感じて しまったのが残念。
よりによって私の大好きな「もののけ(座敷童子)」だ〜!」とまず喜び、梨花に 「この子は珠晶よ!」と心の中で叫び、三郎(多佳保)を「利広がここに・・・」に 感動しながら読み進めるが、あまりに賢く度胸のある子どもたちには目が点になって しまった。

とにかく冒頭の「四人ゲーム」からしてぐいぐい引き込まれる。
ちょっと想像していただきたい。
真っ暗で真四角の部屋、4人の人間が4つの隅に立つ。

最初の1人Aが壁に沿って歩いて人Bに当たったらその肩を叩く、叩かれたBは歩き 出し、叩いたAはそこに残る。
歩き出したBはCの肩を叩き、その繰り返しである。
普通に考えたら4人目DはまたAに辿り着いて、とそのゲームはエンドレスで続くは ずだが、実は違う。
ゲームが始まってしまうと常に歩いている人がいるのでDが最初にAがいた隅に辿り 着いた時はそこに誰もいないことになる。
よってゲームは一回り目で終わってしまう。

「ところが」、である。 それが成立してしまうのが「四人ゲーム」別名「しびと(四人=死人)ゲーム」なの である。
Dが誰もいないはずのAがいた隅に辿り着くと、そこにはいないはずのEがいて、そ の肩を叩くことが出来る。
いるはずのない誰かが混じって、成立するはずのないはずのゲームが成立する、それ が「四人ゲーム」なのである。

「四人ゲーム」の存在を知った「4人の」子どもたちが田舎の大きな旧家の蔵座敷を 使って試してみる。
できないはずのゲームは成立して、子どもたちはいつの間にか「5人」になってい た。
しかも誰一人知らない顔はなく、最初から5人だったかのように見えてしまう。

「くらのかみ」は推理物としてのミステリー要素が当然強いが、ここでもうひとつ、 伝奇物としてのミステリー的要素が加味される。
横溝正史金田一物に出てくるような、自然の中に埋もれた村の大きな古い暗い家、言 い伝えられる二つの伝説、「行者殺し」と「悪魔の手毬歌」に出てくる「お庄屋殺 し」、「11人いる!」と読みながらさまざまなキーワードが立て続けに頭に浮か ぶ。

サイトを作ってから何を読んだり見たりするにしても、記憶の中から関連するキー ワードが飛び出してくるようになった。
考察日記を書く上ではありがたいが、集中して呼んだり見ることがしづらくなったの はちょっと辛い。
ちなみに「11にんいる!」とは萩尾望都原作のSF漫画。
私は申し訳なくも絵が苦手なので読んだことはないが、ドラマ「イグアナの娘」の原 作でも有名な方。

読んだことないのにストーリーを知ってる私、我ながらあきれるが、これは壮大なS F大作。
10人の異星人同士が宇宙船の中に閉じ込められる、10人のはずなのになぜか11 人いる、もちろん座敷童子でもなんでもない(笑)。
10人の中で誰が敵か味方か異端者か、残念ながら読んだことがないのでそれ以上は 知らないが。

実は私、ミステリーを読む時に、犯人探しをせず、あくまでも普通の小説として読む ので、推理物としてのおもしろさよりも、雰囲気のおもしろさで読ませられたが、や はり「屍鬼」や「黒祠の島」に慣れた身にはもっとおどろおどろしさ、重苦しさが欲 しいかなとちょっと悔いたりない気分になったのは前述の通り。
もっともダークな部分を強調しすぎたら、少年少女向けにはならないが。

それにしても少年少女向けの本を読むのは久しぶり。
字の大きさと読みやすさに感動してしまった。
1年ほど前かな?「呉 三国志」(斉藤洋著)を読んだ時以来だと思う。
挿絵が「ルパン三世」のモンキーパンチ氏で、孫策や周瑜の可愛かったこと、物語の 厳しかったことが忘れられない。

話が大幅にそれたが、誰一人殺されることなく犯人は見つかり、座敷童子は帰って行 く。
ここでびっくりしてしまった。
座敷童子の存在自体が何かのトリックだと思っていたので。
でも座敷童子の意図を明確にせず、どうとでも取れる言葉でいろいろと考えさせる、 さすがの手法で満足度大。

大人が子どものために書く小説、難しいだろうなあと思う。
大人同様の内容で、わかりやすく噛み砕く、でも簡単にはしない。
他の「ミステリーランド」の小説も読んでみたくなってきた。
でもそろそろ「十二国記」の新刊も読みたいです、はい。
 (2004年9月4日の日記) 
「十二国記」の使令達
「十二国記」を知らない方のために簡単に説明すると、こちらの国には王がいる。
王を補佐するのは麒麟、首長キリンではなく、キリンビールのラベルの麒麟。
本来麒麟は幻獣(空想上の動物)とされるが、「十二国記」独特の設定で本性は獣、人にも変化して特殊な力を持つ神獣となった。

この十二国麒麟は血を厭い、争乱に怯える(これは幻麒麟の言い伝えと共通するらしい)ため、自分の代わりに王を守り、国を治める手伝いをする使令を持つことになる。
もうひとつ、こちらの世界では、王である限り、王も麒麟も不老不死。
このことを踏まえた上で、興味のある方は読んでみて欲しい。

私が最初に読んだ時、「使令ってなに?」と単純な疑問を持った。
読んでいくうちに、上記のように麒麟が野生の妖魔を、(言い方はちょっと違うが)飼い慣らして自分の御供にしてるんだな、と思った。
ところがさらに読み進めると、この妖魔は自分の意思を持ち、自分で判断して行動する生き物だと言うことがわかってきた。

たとえば慶国景王陽子の麒麟、景麒の使令に班渠と言う大型犬に似た使令がいる。
班渠は、自分を怖がる泰麒をからかったり、不器用な景王景麒主従を笑ったりと、その挙動は彼らよりもずっと世慣れた感じがする。
(くつくつ笑いがいい、笑)。

一方騶虞。
こちらはホワイトタイガーと思っていただければまあ間違いないだろう。
こちらはこっちで言うところの牛馬のようなもの。
自分の意思を持たず、懐いた主人のみに仕え
る。
こちらは使令ではなく、騎獣と呼ばれる。
「山海経」においては、動物(獣、鳥、魚など)、植物、そして神に分類されたさまざまな使令、騎獣のモデルが出てくる。
もちろん「十二国記」における使令も騎獣も一括で、その中で班渠のような高度な知恵を持つだけではなく、こんな人間臭い妖魔が存在することは非情に興味深く、物語のおもしろさを引き立てているように思う。

ちなみにこういった使令となる妖魔は、麒麟に捕らえられるとき、自身の力を持って麒麟の力を測り、麒麟と契約を交わすことによって使令となるという。
契約とは、麒麟が生きている限り全身全霊で麒麟に仕え、その代わり麒麟の死後は、その死骸を食べることによってその力を得ること。
ここで疑問。

これまで数多くの麒麟が存在し、妖魔と契約を交わしてきたはずだが、その死後力を得た妖魔は一体どこにいるのだろう。
昔の景王のように、優れた王もいたはずだから、当然優れた麒麟、優れた使令もたくさんいたはず。
伝説の妖魔と言われた傲濫クラスの妖魔がもっとうじゃうじゃいて良さそうなものだが。

そう考えると、黄海には新しい時代になるほど強大な力を持った妖魔が増え、使令が欲しくて黄海に行く麒麟の手に負えない状態になってもおかしくないと思うのだが、傲濫をのぞいて、さほどの妖魔が存在するという話は今のところない。
(黄海で命を落とした麒麟がいるという記述はあるが。)

もしかしたら麒麟の力を得た妖魔は、黄海の下で地下帝国でも作っているのかもしれない(笑)。
あるいはその妖魔が天寿を全うしたら、新たな麒麟となって生まれ変わるのか。
麒麟は神獣とされるが、全てが天帝の意思であるならば、麒麟の輪廻転生もあり得ない話ではないと思う。

物語では、まだ謎に包まれたままの国、王、麒麟もたくさんいる。
新作を待ちわびる気持ち、もちろん話の続きを読みたい気持ちもあるが、どんな王、どんな麒麟、そしてどんな使令が出てくるのか、興味は尽きない。
「山海経」を読みながら、作者気分で「これは使令向き、これはだめだな。」などと楽しむのが、もっぱらの私の十二国記の楽しみ方。
 (2004年9月9日) 
風の万里 黎明の空 終章(第39話)
原作を読んでイメージしていたこととアニメの映像がだいぶ食い違う終章、しかしOP なしに本編がいきなり始まる手法につい引き込まれた。
祥瓊と鈴がそれぞれの正体を明かしてから、いやに自信なさげな祥瓊に首をかしげ、 景麒=麒麟の登場の仕方に首を傾げる。

アニメでは陽子が最初から保墻の上で待っているが、ここは是非原作どおりに「呆然 と声を上げる人々を掻き分け」て走って欲しかった。
時間制限のためだろうが、いまいち迫力に乏しい。
優美と言うより可愛く見える(笑)麒麟、特に後姿だが麒麟は話す時、口が動かない んだと始めて気づいた。

「私に騎獣の真似ごとをせよと?」
「言わせてもらうが、禁軍を出したのは、お前の責任だぞ」
がない。(涙)

しかも
「紫の目が陽子を見て、ふいと逸らされる。」
「見事に優美な首が閑地に向かって返される。」
この辺の微妙な情景が当然ながら全くなし。

これでは「たま」や「とら」と同じだ、ただ喋る騎獣。
アニメのみの視聴者に、麒麟の位置づけ麒麟の意味がわかっただろうかと心配になる くらいあっさりした展開。
それに今回もキャラの顔がなんだかおかしいことがある。
陽子も前半のアップは良かったし、最後に祥瓊が楽俊に会いに来る場面の美しさはす ばらしかったが。

さてはアニメスタッフに祥×楽派がいるな?と思ったほど。
そしていよいよ景王陽子の最大の見せ場、迅雷への叱咤の場面。
迅雷の心理も形をなぞっただけで残念。
このビデオを見終わってから、「月の影―」の冒頭部分を見返した。

景麒に抗い泣きわめき、無理やり連れて行かれた国でパニックに陥るあたりまで。
正直この頃は、「この声優さんで大丈夫だろうか?」と杉本の存在と同じくらい (笑)不安だったことを覚えている。
それがこうなるんだから声優さんってすごい、久川綾さんってすごい!と絶賛してし まった。

そしてこれがあの有名な「桓魋のおでこ」シーンなのね、と爆笑してしまった景麒が 去ったその後の場面。
夕暉も、その後の浩瀚もおでこは綺麗だったのに、桓魋と部下達だけがおでこに土つ けて可愛い。
桓魋のスピード感あふれる槍さばきといい、このお茶目なおでこといい、アニメス タッフに桓魋ファンが(以下略、笑)。

ここであれ?と思ったのが桓魋が青辛と名乗る場面、私はずっと「いしん」だと思っていたのだが、どちらかというと「せいし ん」と聞こえたこと。
意外にアクセントが想像と違い、戸惑うことが多い。

この後、浩瀚が最後の最後にいきなり目立ち(想像していたより20歳は老けて見え る・・・)、珠晶と祥瓊の軋轢はじめ、過去の名場面を振り返り、雁国主従、采国主 従、祥瓊と楽俊、桂桂のサービスカットが入る。
沍母とはさすがに会えないだろうが、沍母が今の祥瓊の姿を知ったらどうだろう。

いつの日か祥瓊らの努力によって慶が雁、奏、恭、漣、範、才、そういった国々と力 を合わせて戴、芳、巧といった国を助け、舜や柳も含め全ての国が妖魔も飢えもな く、穏やかに暮らすことができたら、その時沍母が生きていたら、初めて祥瓊も許さ れるのではないかという気がするが、それは甘い希望だろう。

ただ浅野に対し、「ここで生きてここで死んだからここで眠りたいだろう」みたいな ことを言っているが、これは違うと思う。
むしろ王として「これ以上蝕は起こせない」くらいのことを言って欲しかった。

最後に遠甫が水禺刀の鞘を作ったことになっているのにあれ?っと思ったが、「心に 鞘は入らない」という台詞を引き出すためのオリジナルならまあいいか。

これで「風の万里―」は終了。
全体的な感想は、「ずいぶんさくさく進むなあ」というもので、オリジナルや変更に 対し、初期ほどの不満がないのは、私の方がアニメに同化しているからだろう。

ただもしもアニメを見て「十二国記」に興味を持った方がいらっしゃったら、ぜひ原 作を読んで欲しい。
例外はあるにしろ「映像が原作を越えることはない。」は基本原則だろう。
難しい部分もあるが、アニメでキャラや用語を把握しているから素の状態で挑むより かえって楽かも。

次の番外編「乗月」と「東の海神 西の滄海」にはいる前に時間が許せばもう一度 「月の影―」と「風の万里―」を見直してみたいような気がするが・・・、無理だろ う。(笑)

それとアニメ脚本集も出ているなら読んでみたい、アニメを見たから。
出てるかな?

浩瀚は乃村健次さん、中将軍で最強トリオの中嶋聡彦さんが嬉しいご出演。
 (2004年9月27日) 
「十二国記」脚本集「月の影 影の海」第一章
梁邦彦氏の名曲「十二幻夢曲」に乗せて上から見おろす十二の国と青い海、いかにも中国な風景と十二の麒麟、一番後から一生懸命ついて行っているように見える黒麒。
木の実の中で眠る子供、木の実がなる木(里木)、そして戦の模様と景麒の使令、龍のような妖魔は條庸か? 最後にもう一度十二の国を見せてオープニングテーマをまとめる。

初めてアニメ「十二国記」を見た時、本編よりもオープニングに魅かれた、曲と絵と。

十二国記感想はしばらくご無沙汰だったが、今度は脚本集とアニメを比べた感想を書いてみたいと思う。

最初に景麒の使令について紹介される。
班渠や重朔は「山海経」に登場する伝説上の生き物だが(「山海 経に見る十二国記用語」参照)、驃騎は原作者によるオリジナルであることが明かされる。

「暗褐色の豹のような姿をした鉤吾という生き物」だが、「鉤吾」は「山海経」にも登場する。
「北山経」、北山の首(はじめ)は単狐(たんこ)の山より二十五山、五千四百九十里。

ここより東西南北に何百里か行った所にそれぞれ山があり、生き物がいる、それらが紹介される。

そして
「さらに北に三百里、鉤吾の山といい、頂上には玉が多く麓には銅が多い。」とある。

ちなみにこのあたりにはゲームにも登場した妖魔「ホウ鴞」がいる。
つまり「山海経」では鉤吾は地名となっているのだ。

余談だが班渠は原作では赤い毛並みの獣とされているが、アニメでは青っぽい。
赤というと驃騎のイメージがあるので、班渠は青がいいかも。
重朔が黄色で信号みたいだが。

第一章は比較的原作に忠実に作られていることがわかるが、大きな違いは2つ。
陽子の夢に青猿、人っぽい青猿がすでに登場していること、陽子を赤子と呼ぶ(原作では妖魔だけ)。
もうひとつはアニメ最大のオリジナル、杉本と浅野(杉本は原作にも登場するが大きく変えられたという意味で)。

アニメではなぜか付き合っている設定。
予備校から一緒に出てきただけで付き合ってると思い込む陽子にも驚いたが、脚本集では杉本を抱き寄せ、肩を抱くとなっている。
浅野の第一印象(バスで困っている陽子を助ける)は良かったのだが、アニメを見ていて妙な違和感を感じた。

杉本はみんなからいじめられている。
私はアニメオリジナルならこの部分を膨らませて欲しかった。
陰気なイメージはあるが、それだけでここまで徹底的に嫌われるだろうか。
陽子はともかく杉本がここまで浮く理由はなんだろう。

原作ではこの部分は無用のものとして切り捨てているが、アニメの杉本がむしろ自分から周りを拒絶しているように見えるだけに、準主役?に取り上げるなら、「今の杉本」を始まりとせずに、もう少し描いて欲しかった。
原作で恋愛的要素が非常に希薄なために、アニメでそこはかとなく香るのはあまり好きではなかったが、特に杉本と浅野の関係は変な意味ではなくいやらしさを感じてしまった。

いじめられる杉本、そのことを知っている浅野、陽子を助けながら杉本のためには何もしない浅野、何より屋上で一緒にいる2人のイメージが湧かない。
もちろんアニメの杉本はかなりのファイターで、それならそれでいじめさせない杉本を描くべきなんじゃないかなあという気がする。
原作の杉本とアニメオリジナルの杉本と2人いるみたいで気になった。

最初に気になるところを書いたが、脚本集の台詞がカットされたり2文が1文にまとめられているところなど、脚本集とアニメを見比べてみるとおもしろかった。
当然のことながら、アニメでは台詞がすっきりし、わかりやすくなっている。
さすがプロだなあと驚嘆しながら読んでる次第。

ところで優等生陽子はスカート丈を守っているが、アニメの杉本のスカート丈は短い(他のクラスメートと同じ)。
どうだろう、原作の杉本だったらスカート丈は守りそうな気がするが。

あとアニメはサービスで六太登場、やたらと目立つ。
後でやはり大盤振る舞いされた犬狼真君が、アニメで出れるかどうかわからないためにオリジナルの出番を作ったと知ったが、ここで六太が出る意味ってあるのかな。

さすがと思ったのが使令が現れるシーン、窓ガラスが破られるシーンの迫力と美しさ。

「屋上」という言葉を使う景麒には目が点、どこで習った、そんな言葉。
とにかく後の豹変を意識して現在の情けなさを強調しようとする手法か、陽子がやたらと声が高いのと、杉本の景麒や妖魔(蠱雕)に対する一人よがりな解釈は久々に見て疲れた。

今のかっこいい陽子、落ち着いた杉本を見たせいか、初めて見た時よりも疲れた。
でももちろんおもしろかった。
陽子の乗るバスが「港洋台」行きとなっていたが、横浜なのかな?なんて思ったりして。
(脚本集では「高校は海に程近い都内か近郊地、具体名は出さない」となっている。)

エンディングテーマの月迷風影(有坂美香さん)も本当に素敵な曲。
この2つの曲に合えただけでもアニメになって良かったなあと思う。

芥瑚が李斎の進藤尚美さんであることは知っていたが、鈴の若林尚美さんがここではいじめっ子(陽子のクラスメート)なのが笑えた。
もうひとつ笑えたのが、陽子の夢のイメージで、刀を構えて迫る塙麟や不気味な楽俊、剣を振るう延王(尚隆)が設定されていること。
実際に陽子がこんな夢を見ていたら、実際に楽俊や尚隆に会った時の心情が激変していただろう。
 (2004年12月1日の日記) 
「十二国記」脚本集「月の影 影の海」第二章
「月の影 影の海」前半部分(楽俊を信じ切れるまで)はできることなら読みたくないし見たくない。
おもしろくないのではない、陽子の、と言うより人間の、自分の弱さ醜さをこれでもかこれでもかと言うように目の前に突き出される展開が続いて、自己嫌悪と劣等感でどよーんと気持ちが落ち込んでしまうから。
(「風の万里 黎明の空」前半部分、祥瓊と鈴の部分もできることなら読みたくないし見たくない。)

しかも後半に入ると、陽子は自ら自分を高め、男前な女王への道を歩み始める、それに引き換え自分は、とさらに闇の深みにはまっていく。
(途中から読み始めるとそんなことはない。)
下手なホラーよりずっと怖い小野不由美先生独自の人間の心理描写。
(「屍鬼」や「黒祠の島」よりずっと怖い、情景が美しいだけにさらに怖い。)

それでも読んでしまうし見てしまうのは、原作では「十二国記」の世界を把握、理解したいから。
「十二国記」用語を頭の中に叩き込みたいから。
アニメでは「十二国記」の風景や衣装、髪型、食べ物、自然、そんな知識を得たいから。

そしてやっぱり読まずにはいられないから。
(「魔性の子」は読んでない。)

さて各エピソードの冒頭部分について最初の解説が入る。
主人公の心情を細やかに追いかける原作(小説)に対し、映像では基本的にキャラクターの言動でストーリーを語るため、主人公のナレーションという形でこれを引き写すのは難しいとのこと。
そのために、ナレーションなしで物語が始まる。

「犬夜叉」では、かごめ(他のキャラの場合もあるが)というヒロインの口を通してナレーションが入る。 個人的には邪魔に感じていたが、主人公のナレーションという手法自体に違和感を感じなかったのは、キャラの喜怒哀楽が明快だったためだろうか。
たとえば「犬夜叉」の主役が桔梗だったら、冒頭ナレーションはなかったかもしれない。

陽子が出てきて「私は村人に捕らえられてしまった、辛かった。」などと語り始めたら、やはり興醒めかも。
短い文章の中に、複雑な心理状態を1語2語で表すこと自体が無理なのかもしれない。

そして「陽子の主観ナレーションを廃する方向で脚色」されたが、この後「風の万里 黎明の空」の脚色は「別アプローチ」を試みることになる。
それが陽子、祥瓊、鈴の「自分以外のキャラを語る」ナレーション。

そのために原作では1人1人まとまった物語が描かれていたのを、まるで各エピソード3分割制みたいにして3人の物語を平行して進める結果となった。
最初はめまぐるしくて各キャラの真情の変化がじっくり描かれない気がして不満だったが、何度も見ているうちに慣れた。
というより今「月の影 影の海」など見ていると、冒頭ナレーションがないのが寂しかったりするからいい加減なものである。

まあ「風の万里 黎明の空」は後回しにするが、こういった裏話的な資料、「犬夜叉」でも欲しかったなあと思う。
たとえばオリジナルにしても「こういう想いがあった。こうせずにはいられなかった(技術的に、社会的に)。」とある程度打ち明けてもらっていたら、「仕方ないよなあ。」といった同情的見方?もできるのに。
映画にしても宣伝文句ばかり並べるのではなく、そういった話も欲しい、その意味でガッシャー氏の日記の削除はほんとに惜しい。

しかも「間違って消してしまった」などと言われると、かえって「読まれてまずいことがあったのか、削除するようにとお達しがあったのか。」などと深読みしてしまい、かえってマイナスになりかねない。
特にアニメが終わってからの映画ということもあって、煽りすぎの感がいなめない。

などと関係ない話は置いといて、第二章も杉本が比較的おとなしいのでほとんど原作どおり。
浅野がいた分、班渠の(痛々しいけど)登場サービス、そして二頭の麒麟の遭遇(残酷な場面だけど美しかった)が挿入される。
班渠は武闘派じゃないよなあ。

でも慶国の宝重が水禺刀と碧双珠でほんと良かった。
これが華胥華朶だったりしたら、今の陽子にはあまり役に立たない気がするし。
でも自分が王であることを信じやすくはなったかな?

あと気になるのが冗祐。
普段はどうしているんだろう。
陽子の中で眠っているのだろうか。
陽子がパニックに陥ったり、危険にさらされている時だけ目覚めるとか。

他の使令にしても、ついている限り目覚めていて、何から何まで見られてしまうのはある意味辛いかも。
特に冗祐は陽子の醜さや弱い部分、葛藤など全てを見ていたわけだから、冗祐もまた辛かったろうなあと思う。
使令は麒麟と違って王に対しては絶対的服従なんだろうか。
「情けないなあ、この王は。
ほんとうに大丈夫だろうか。」などと思ったりはしないのだろうか。

「−王座を望みなさい。
あなたになら、できるでしょう。」

全てを見てきた上で出てきたのがこの言葉なら、やはり感動せずにはいられない。
この2行を書いただけでも涙が出そうになる。
人前では絶対泣かないが、1人でいる時はやたらと泣いてしまうのが私の性(さが)、笑。
でも使令でない賓満、野生の賓満って普段はどんな生活をしているんだろう。
アメーバみたいな生活?それにしては知能が高そうだし。

景麒と見つめ合って(にらみ合って)いた時の冗祐、見てみたい。 陽子を十二国記の世界に連れてきて危険に巻き込んだだけで、後は全く役立たなかった景麒だが、「蓬莱に住む人間なら剣など使ったことがないだろう。
今の荒れてる国では剣を振るうことも必要だ。」と景麒が考えて冗祐を使令にしたのなら、たいした判断力だと思う。

案外六太のアドバイスだったりして。
「(今の)蓬莱ではみ〜んなのほほんと暮らしてて、剣なんて使えねえぜ、きっと。
賓満捕まえといた方がいいんじゃねーか?
荒れてるだろ?おめーの国。」なんてささやいてたりして。

いけない、喋り方が犬夜叉だ(笑)。
でも生真面目ながらどこか抜けてる景麒に対して、見かけは子供ながらはしっこい六太のこと、ありえないことではないかもしれない。
景麒ってちび泰麒を勘違いさせて落ち込ませたり、陽子を危険な目に合わせたりしてしまうが、結局おいしい所も全て取っちゃういいキャラだったりする。
もちろんいろいろ苦労はしているのだが、なんとな〜く笑える麒麟、そこが好き。
 (2004年12月4日の日記) 
日本に来ていた西王母
 秋田県男鹿半島に伝わる生剥(なまはげ)の行事は、武帝を祭神とする赤神神社の伝説に由来がある。
武帝は安住の地を求めて世界中に方士を派遣し、ついに蓬莱の地として男鹿半島を選び、崑崙に住むという西王母(大荒西経)と共に飛車という空飛ぶ乗り物に乗ってやってきた。
その時武帝に仕え来た五人の鬼が、後の生剥の鬼のモデルになったというものである。


「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家水木しげる氏が書かれた「山海経」の解説「日本に渡った精霊たち」の上記の文章を読んだ時「行ってみたい。」と思った。
私の実家は東北、帰省のついでに寄るには格好の場所、写真を撮って資料を集めて、できればお話も聞いてきたい。
何より不思議なのは、不老不死を司る女神であるはずの西王母が、なぜ武帝の蓬莱(不老不死)探しについてきたかである。
西王母としては単なる別荘探しだった?などと不謹慎なことも考えたくなってくる。

西王母、中国の西にある崑崙山に住む女神とされるが、中国だけでなく日本においても馴染みが深いのは、この蓬莱伝説による。
「十二国記」における西王母は「黄昏の岸 暁の天」に泰麒を救う役目を持って登場する。


―これが西王母。
尚隆でさえ、その姿を見るのは初めてだった。

     ―(中略)―

碧霞玄君の美貌は衆目の認めるところであろう。
それに対し、西王母の容姿には愕然とさせられる。
―醜いわけではない。
あまりにも凡庸だったのだ。


まるで彫像のように無機質で抑揚のない声の持ち主。
碧霞玄君(玉葉)の、さらに上にいて、今初めて姿を現す。

そして「山海経」。

玉山に住んで、その状は人の如くで豹の尾、虎の歯をもち、よくうそぶき、おどろ髪に玉のかんざしをさし、天の災害と五つの刑を司るという。

ただしその姿は時代によって変貌を遂げ、

年のころ三〇前後、容姿端麗な絶世の美姫

であった時もあり、むしろ「十二国記」の碧霞玄君(玉葉)をイメージさせる。
さてその西王母が本当に男鹿に来たかどうかはともかくとして、ナマハゲ伝説にどのように関わっているのか、胸弾ませて男鹿に向かった。

「男鹿のなまはげ(土井敏秀著 無明舎出版)」によると、漢の武帝(即位紀元前141〜前87年)は蓬莱の国に不老不死の薬があるらしいという報告を受け、飛車(風に乗って空飛ぶ乗り物)に乗って日本にやって来る。
ただしこの本には西王母は登場しない。

飛車を引くのは青、黄、赤、緑、紫の五色の蝙蝠、鬼が化けたもの。
ちなみにこの配色は陰陽五行説による。

武帝は男鹿半島の美しさに目を見張り、あるいは薬を探して男鹿に滞在するが、やがて武帝帰国後、鬼と男鹿に住む人々との間に軋轢が起こる。
村人は鬼を追い払おうと、一晩で千段の石段を作るように持ちかける。
もちろんできるはずがないとタカをくくっていたのだが、驚いたことに鬼たちは九百九十九段作り上げてしまった。
あわてた村人たちは鶏の物まねで鬼を騙し、事なきを得る。

しかし鬼を騙したことで罪悪感に悩んだ村人は、鬼を祀ることにし、それがなまはげの行事につながったというもの。
この本での村人は優しい。
タクシーの運転手さんやホテルの営業の人?の話では、鬼を騙して追い返したところで終わっていて後味が悪かったのだが、この物語で鬼と友好関係を結ぶことができた男鹿の人々の暖かさが感じられ、嬉しかった。

そこで西王母である。
なぜ武帝に西王母がくっついてくることになったかというと、縁起のある「赤神神社」によると、元となった説は江戸時代に久保田藩士梅津利忠が撰した「本山縁起別伝」に掲載されており、赤神神社には帝が白鹿に曳かれた車に乗り、桃を携えた西王母とともに描かれた掛け軸がある(サイトトップ左上に見ることができる)。

赤神神社のサイト(上記)から縁起を引用すると

「当山赤神は、前漢の孝武皇帝の祠なり。旧記にいわく景行天皇二年、赤神天より降れり、あるいはいわく、日本武尊化して白鳥となり、漢の武帝を迎う。
武帝は白馬に駕し、飛車に乗り、赤旗を建て、西王母と此の嶋に至る。
五鬼は化して五色の蝙蝠となりて之に従う。
故に蝙蝠を以って使者となす。
時に景行十年冬十月のことなり。

となる。
私が目指したのはその「赤神神社」。
残念ながら宮司さんは市内に住んでいらして、赤神神社は無人の神社、お話を聞くことはできなかった。

その脇にあるのが「九百九十九の石段」。

鬼が石や岩を投げつけて作っただけあって、でこぼこで足首を捻りそうになったり、足の裏に尖った石が当たったりととにかく登りにくく、疲れる。
しかも暑い。
東京から涼しい秋田と楽しみにしていて、薄手の長袖ジャケットなど用意していた自分が馬鹿に見えるほど暑い。

九百九十九段、若さと?勢いで一気に登りきる自信があったけど、あっという間に息が上がる、苦しい。
そんな自分が情けない(涙)。

それでも5分ほどで比較的緩やかな前半部分を登りきると、なんとそこには駐車場。
ここまで車で上がってくれば楽なのだけれど、やっぱり自分の足で登りたい、と一休み。

左手には「徐福の塚」がある。

秦の始皇帝の命を受け、蓬莱に不老不死の薬を求めて旅立ち、日本に来てそのまま永住したという人物。
あちこちに徐福伝説が残っているが、男鹿にも来ていたとは、来ていたとされてるとは。
漢の武帝と西王母の来秋伝説には、そんなところも関係しているのかな?

一休みして、石段は一気に急になる。
登る、登る、登る、登る。
こんな時こそ武帝のみに飛車が欲しい。

そしてやっと辿り着いた、「五社堂」。
5匹の鬼を祀っていると思っていたら、名称は左から、「十禅師堂」「八王子堂」「中堂」「客人(まろうど)権現堂」「三の宮堂」。
真ん中が武帝(赤神)を祀ったものだそうだ。

武帝に置いていかれた鬼たちが「なまはげ」になったわけだが、そのいわれは、「石段を完成できなかった鬼たちの叫び声が、生身を剥ぐ痛みに感じられたから」とも「冬に炉辺のそばばかりにいる怠け者のナモミ(火にあぶるとできる肌の痣)を剥ぐから」とも言われている。

大晦日の夜、なまはげは山から降りて来て怠け者はいないか、悪さをする子供はいないか、村中を歩き回る。
そしていつでも村人のことを見守っていると言い残して帰っていく。
何気なく見物していたなまはげだが、日本人にとっての恐怖から畏怖への対象の変化と共に、遠い国に取り残されて、200年もの長い間孤独に生き、やがて村人と溶け合う異国(中国)の人のかなしみがうっすらとその周囲を取り巻いているように感じた。

騙されて怒り狂った鬼が引き抜いたと言われる杉がそのまま「逆さ杉」として五社堂のそばに保存されているが、ガラス窓に守られているため、はっきりと写らなかったのが残念。

そして登る時以上に辛かったのが降りる時。
足場が安定しないので、ぐきっぐきっと足を捻る、痛かった、すごく。

翌日新幹線に時間があったので真山神社の資料館に回る。
テレビでよく見るなまはげとはちょっと違った素朴で黒っぽい「なまはげ」がいきなり現れ、しこを踏む。
なぜしこを踏むかわからないけど(笑)、とにかく二人揃ってしこを踏む。
囲炉裏端で待っていたおじいさんとの兼ね合いがとにかくおかしくて大笑いしてしまった。

駆け足で回った男鹿半島、地震と筋肉痛のおまけつきだったが、近寄り難い神様のイメージがあった西王母が、別荘探しに日本にやって来た大金持ちのおばあさんみたいな印象で妙に親しみを感じたのが我ながら不思議。
武帝と差し向かいで杯を交わしたりお刺身食べたり温泉入ったり。
もしかしたら岩場で蟹取りしたり泳いだりもしたかもしれない。

          ☆          ☆          ☆

おまけ1。
下の妹こえむが撮ってくれた九百九十九の石段残すところわずかでへばってしまった(えむ )です。

          ☆          ☆          ☆

参考資料。

・「男鹿のなまはげ」 土井敏秀著。
 (リンクは秋田県立図書館より)

・「山海経」「死者の棲む楽園―古代中国の死生観」
 (2005年8月25日の日記) 
丕緒の鳥(ブログより)
明日(2月27日)発売の新潮社「yomyom」6号に掲載される小野不由美先生の新作が十二国記シリーズ「丕緒の鳥」と発表されました。
原稿用紙換算で90枚の短編で陽子が慶国の王に即位するころの話となります。

早速大漢和辞典で調べてみました。
「丕緒」とは「宗史」などに出てくる言葉で「大きいいさを」とあります。
「いさを=いさお」を辞書で調べると「勲、功」とあり、「いさおし」とも読みます。
「大いなる業績をあげる」「偉大なる軍功を立てる」といった意味(使い方)になるのでしょうか。

鳥といえば図南の鳳凰と鸞鳥しか思い浮かばないけど、景王陽子を表すのでしょうかね?
「丕緒の鼠」でも良かったかなあなどと思ってみたり(笑)。

「同誌の木村由花編集長はかつて小野作品の書籍化を担当。18年の同誌創刊当初から原稿を依頼していたという。」の一文にとても感動してしまいました。
また、今後の単行本出版などは未定だそうです。
でも陽子が景王になる頃の話ってもう書かれてるような気がするんですが、景麒を助けてから即位式までの間の話でしょうか、それとも陽子の周りの人々を描く「華胥」のような形になるのか気になります〜。

          ☆          ☆          ☆

「丕緒の鳥」の「丕緒」とはこれだったのか、ちょっと深読みしすぎました。
「丕緒の鼠」になるわけないや(笑)。

今まで語られなかった歴史、今まで語られなかった人物、今まで語られなかった事柄について今回新たに語られます。
初登場が多いだけに、説明にかなりページ数が費やされますが、大きなクライマックスをあえて持たせず、すっきりした余韻と共に読み終えることができました。
景王陽子は彼の心を知らず、けれど王として、人として彼の心を捉えます、真に仕えたい王として。
同時に心ある者には心ある者の想いは伝わるんだなあとしみじみ思いました。

特に最後の2ページ、淡々とした描写の中に、胸にじわりと迫るものを感じることができました、見事です。
久しぶりのせいか、登場人物に過去の登場人物との共通性が感じられたところも興味深かったです。
この国でこの時期のエピソードをさらに追加?と最初は驚いたのですが、「十二国記」という物語はいつの時代、誰の話でも無限にエピソードを追加できるんだなあと思いました。

けれど物語の完成度とは別の部分で寂しさも感じました。
たとえば「yomyom」7号にさらに「十二国記」が掲載だったらいいんです、気持ちは十分満たされます。
どんどん作品が発表されるのなら。
でも次回作がいつ出るかわからない、また何年も待つことになるかもしれない、そんな状況なので、陽子以外の王や麒麟、その他お馴染みのキャラたちにももう少し出て欲しかったです。

また本筋にもう少し関わるストーリーでも良かったです。
いえ本音を言えば、「丕緒の鳥」と本筋に関わるお馴染みの登場人物の登場する作品と2つ発表して欲しかったですって贅沢すぎますか?私。
特に泰麒と李斎、驍宗がどのような運命に巻き込まれてるかが気になって仕方がないので、その部分も読みたかった。

詳しい業界事情は知りませんが、「魔性の子」のみだった新潮社が講談社版「十二国記」関連の作品を掲載できたのですから、制約ももうないのでは?と思います。
新潮社でも講談社でもいいからこれからどんどん出して欲しいですって問題は小野先生か(笑)。
 (2007年2月27日の日記) 
「緑茶」の黒猿 陽子の蒼猿
同朋舎から出ている「ワールド・ミステリー・ツアー」シリーズが好きでよく読むが、「ロンドン編」で紹介される気になる作品がある。
ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ著「緑茶」。

ドイツ人の医師であるマルチン・ヘッセリウスは、あるパーティーでジェニングズと名乗る牧師に出会う。
二人はパーティーの後も親しく付き合うが、そのうちにヘッセリウスは驚くべき告白を聞かされる。

ある日、ジェニングズは乗っていた馬車の中に突然赤く光る目を持つ黒猿を見たと言う。
その猿は以後、現れたり消えたりしながらジェニングズにつきまとうが、他の人には見えず、ジェニングズ自身、触れることもできない。
最初の頃はジェニングズをじっと監視するだけだったのが、やがて「罪を犯せ、人を傷つけろ、自分を傷つけろ」と命令し、ジェニングズは精神的に追いつめられていく・・・。

結末はここには書けないが、この黒猿が心霊現象なのか、あるいはジェニングズ自身が生み出した幻想なのか。
短編ながら、そのミステリアスで衝撃的なエンディングは、読んだ後も謎を引きずり続けてしまうほど。
作者レ・ファニュはあの「ジェイン・エア」や「嵐が丘」にも影響を与えたとされる大立者ながら、その死後はすっかり忘れ去られてしまった存在だとか。
他の作品も、是非読んでみたい。

それはともかくこの短編が、大学時代に推理小説研究会に所属していた、小野不由美先生に影響を与えたということは、あり得るだろうか。
私はあり得ないことではないと思う、もちろん想像に過ぎないけれど。
赤く光る目は冗祐に、というのは冗談としても(笑)、この心を責める恐ろしき猿のモデルが「緑茶」にあったとしたら凄いと思う。

★参考資料
 (2008年6月16日の日記) 

十二国記感想

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