十二国記感想 6
落照の獄
たとえば前作「丕緒の鳥」のように、読み終えてほーっと満足の溜息をひとつついて本を閉じれるような、そんな物語 を期待していたとしたら、それは大きく裏切られる。
「ファンタジー」という言葉がイメージさせる華やかさなど微塵もなく、そのテーマははかり知れないほど厳しく、重い。
作家小野不由美は架空の国の出来事ではなく、この国に生きる者達へのメッセージを記したのだと思う。

「帰山」で謎だった柳国劉王助露峰の存在。
地方の官で評判は良かったがさほど目立つ存在でもなく、王として選ばれるまでに二十数年もかかり、劇的な登極をしたわけでもなく、利広は「どことなく冴えない印象がつきまとう」と評価した。

ところが時とともに露峰の名声は高まり、今では柳といえば類のない法治国家として名高いという。
その柳が沈みつつことを利広も尚隆もその目で確かめる。
「風の万里 黎明の空」の祥瓊が出会った柳の県正も名高い法治国家に仕える者にはとても見えなかった。
しかもその柳が辿った道はこれまで利広も尚隆も見たことがない形であり、助露峰は「玉座にいることに倦んでしまったのかもしれない。」と利広は結論付けた。

その助露峰の国の物語ではありながら、助露峰の謎は明かされず、柳という国は得体の知れないままで終わる。
けれども柳に生きる人々は助露峰の謎に振り回され、足掻き、懊悩し、苦しみ続ける。
利広や尚隆でさえ見抜けなかった柳国の民の苦悩のあからさまな描写、たった1人の男のためにむき出しの感情をぶつけ合う民、家族、そして官。
極限まで追いつめられた民は国と共に沈むのだろうか。

けれど物語として気軽に感想など書けない厳しさに、一読して私は向き合うことができなかった。
思わず目を、心を背けてしまうような、そんな自分の弱さを感じた。
「落照の獄」は終わっても、柳国の物語は終わっていない。
そんなもどかしさも同時に感じる。

電車で読んでいても周りの雑音が全く聞こえてこない、しんと静まり返ったような、そんな緊張感。
読み終えた自分の顔がこわばってどうにもならないような、そんな不安。

「いつの間にか堂内には強い西陽が射している。
 明かり採りに入った鉄格子の影が黒々と堂内の全てを切り刻んでいた。
 ―まるで何かの予兆のように。」

落照、夕暮れ時の強い陽射しは影をより濃いものにし、柳の国はこれから終わりのない夜を迎える、そんな気がする。

作家小野不由美はこれからどこに向かおうとしているのだろうか。
そして「十二国記」もまた、どこへ向かおうとしているのだろうか。
今回初めて「十二国記」を書き続けることは、作家小野不由美の「義務と責任」なのではないかと思った。
 (2009年9月26日の日記) 
悪霊シリーズ
先日、といっても去年のことだがめったに行かない図書館で大変な物を見つけてしまった。
リサイクル本コーナーに小野不由美著「悪霊とよばないで」「悪霊になりたくない!」「緑の我が家」が置かれていたのだ。
特にほとんど絶版状態とされ、書店古書店探し歩いても見つからず、通販やオークションでは高値で取引されているという幻の悪霊シリーズが2冊も!
これには本当に驚いた(もちろん速攻でもらってきた)。

私が「十二国記」に夢中になった時、悪霊シリーズはすでに入手しづらい状態だったが、どこかの図書館で2,3冊見つけ、読んだ記憶がある。
ところが当時は「十二国記」「屍鬼」「東京異聞」ときて悪霊シリーズだったから、独特のホラーテイストはともかくとして、文体とイラストにまいってしまった。
後になって当時の小野先生がいわゆる「ティーンズ文庫」に書いている「少女小説作家」で、いろいろと制約を受けていたことを知ったが、それにしてもそれ以上探してまで読もうとは思わない状態だった。

数年ぶりに2冊手に入れ、読み返してみて驚いた。
ヒロイン麻衣の口調(物語は麻衣の一人語りで進められる)やイラストは相変わらず苦手だったが、個性的でありながら筋の通っているキャラ、心霊現象や悪霊払いに関する豊富で科学的な知識、オカルトへのこだわり、そして何よりも物語としてのおもしろさがそこにはしっかりとあった。
さらに「軽く微笑う」など、後の「十二国記」にも多用される文章の特徴とか。

これはおもしろい。
下手な先入観を持ってしまったばっかりに、こんな面白い本を私はこれまで読まずにいたのか、と悔やんだけど、だからといってそう簡単に手に入るシリーズではない。
そこで手っ取り早くと言っては失礼か、国立図書館に行って悪霊シリーズ全冊+続編1冊+漫画になった「ゴーストハント」+これも幻の同人誌「中庭同盟」一気に読んできた。
アニメも見た、いや〜ほんとにおもしろい。

同時にこのシリーズがほとんど絶版状態になっている理由もわかるような気がした。
「中庭同盟」の感想は後日書くつもりだが、その中でも小野先生は出版社からの制約や読者の要望と自分の書きたいものとのすれ違いについて触れている。
私は続編となった「悪夢の棲む家」が三人称となって読みやすく、おもしろいと思ったが、これもまた途絶えているようだ。

ただ、ナルと麻衣に恋愛関係を、と願った当時の「ティーンズ」も今では大人になっている。
むしろ大人になった彼らのゴーストハントの物語があってもいいのではないかと思う、今だから書ける大人の麻衣の物語。
悪霊シリーズで小野先生のファンになった読者が、さらに「屍鬼」や「黒祠の島」、そして「十二国記」を読んだならば、小野先生の書きたい物語を書きたいテイストで書かれることこそ願うのではないだろうか。

他作品を読んでいても、小野先生は物語に恋愛要素が希薄な気がする。
宮部みゆき先生(ここではこのように呼ばせてもらう)のように「恋愛物は書けませ〜ん(書きませ〜ん)by『まるごと宮部みゆき』」なんて宣言しちゃうのもいいかも(笑)。
それにしても麻衣の恋がこのような展開を見せるとは予想だにしなかった、さすが小野不由美!
最近ならともかく、まだまだ駆け出しだった1989年にこれだけの物語を書いてしまうとは。

ちなみに私の一押しはぼーさんこと滝川法生。
なんせ誕生日と血液型が同じなのだ(笑)。
初登場時は25歳にもかかわらず、ひげなんてはやしていてとても20代には見えないのが笑えた。

ナルこと渋谷一也は元々ああいう性格なら、たとえば麻衣の恋があのような結末を迎えても、可哀そうと思ういわれもないだろうし、後釜になる必要もないだろう。
この際恋愛要素なんて皆無でいいから、是非是非再開して欲しい。
とりあえずは出版社にメールでも出すか・・・。

余談だが、寡黙でクールなリンこと林興徐、アニメで彼を演じるのは「犬夜叉」の殺生丸こと成田剣さん。
これがまたはまり役で、特に「サイレントクリスマス」では笑いすぎて泣き、最後には感動して泣いた。
悪霊シリーズ、もしかしたら原作より漫画の方が読みやすいかも。
 (2010年3月5日の日記) 
ゴーストハント 〜漫画とアニメ
悪霊シリーズに漫画とアニメがあることは知っていたが、原作のイラストの漫画化だと勝手に思っていたため、どことなく馴染みが悪く、手に取ることはなかった。
けれどたまたま古書店で1冊見つけ、手にとってその絵の違和感のなさに思わず読みきってしまった。

後で知ったのだが、悪霊シリーズの同人誌を作っていたいなだ詩穂先生の作品を小野先生が認めてゴーストハントシリーズが正式に登場したのだそうだ。
小野先生のお墨付きがあるから言うわけではないが、なるほどナルはいかにもナルらしく、麻衣もいかにも麻衣らしく、かっこよく可愛いんだけどそれだけじゃない、雰囲気を持った作品に仕上がっていた。

しかも少女漫画の中での会話だから、「屍鬼」や「十二国記」から入った私のようなファンでも10代のヒロインの口調にもすぐ慣れた。
さすがに小野先生独特のホラーテイストの部分に少し弱さは感じたものの、漫画のための書き下ろし「サイレントクリスマス」まで掲載されているとあっては揃えないわけにはいかない(笑)。
その後アニメ化されているとも知り、さすがにこれは買うところまではいかなかったが、全て見た。
(ちなみにアニメは全10巻、漫画は現在11巻まで発売中)

原作が絶版状態にあり、入手しにくい状況である現在では、むしろこちらの方がお勧めかも。
結局は漫画やアニメの後目の色変えて原作探す羽目になるのだけれど。

前回書いたように、アニメのリンさんが「犬夜叉」殺生丸の成田剣さん。
殺生丸をクールなままでもうちょっとだけ愛想良くした感じで、リンさんのかっこよさだけでも一見の価値はあり。
名前も微妙に「犬夜叉」と被っているのが偶然だとしても嬉しい。
他にも岡野浩介(蒼猿や少年泰麒)さんや釘宮理恵(泰麒)さんの「十二国記」ダブル泰麒でおなじみの声優さんが出演されている。

私が一番好きな「悪霊になりたくない!」は「血塗られた迷宮」というタイトルでアニメ化。
吸血鬼ブラドとミステリーハウスウィンチェスター城を元に描かれた閉ざされた空間の恐怖、そして仲間を救いたいと願う麻衣やナルの想いが感動的だった。
また、インストゥルメンタルオンリーのOPとEDもミステリアスな雰囲気が漂っていて好きだった。

余談だが、先日(といってもだいぶ前)NHKで放映された「ドラキュラ公の城」(ヴラド公の生涯を関係したお城を通じて描いた)をおもしろく見た。
吸血鬼のモデル、串刺し公として恐れられたヴラドの真実(と伝えられる)姿が興味深かった。
アニメ「ゴーストハント」、スカパーでやってくれないかなあ・・・。 原作に比べるとさらりとした感じで物足りなさを感じることもあるが、下手にオリジナルを加えたりせず、素直に作られているのがいいと思う。 原作、そして作者に対する敬意が感じられるのが一番の好印象だった。
 (2010年4月16日の日記) 
中庭同盟−1
「中庭同盟」掲載作品の内容に触れている部分があります。

国会図書館で「中庭同盟」を読んできた。
「中庭同盟」とは小野不由美著「十二国記」や「悪霊」シリーズの番外編が掲載された同人誌で、「十二国記」に関する二編は後に「華胥の夢」で発表されているが、「悪霊」シリーズに関しては未だに「中庭同盟」以外では読むことができない。

ならばと思って国会図書館に行ったのだけど、これが大変な人気本で、待たされた時間の長いこと。
(おかげで未読だった小野作品やその他何冊か読めたのだけど)。
しかも読みたい人が多い本ということで、2階の閲覧室だったか忘れたけど、そこで渡され、この部屋から持ち出さないようにと言われ、なんだか妙に緊張してしまった。
人気作品で、とは言うものの、この部屋にいるのはスタッフ以外は私だけ。
そっかいくら人気あっても一度に読むのは1人だけか、なんて妙なことおろおろ考えてみたり(笑)。

残念ながら時間があまりなくて、作品以外の部分(小野先生のコメントやパソコン通信など)はさっと流し読みしただけなのだが、小野先生が「麻酔の効きにくい体質」であることを知った。
これは怖い、歯医者さんとか行ったら大変だろうなあ・・・。

★ここからネタばれ入ります。

1、「いちばん見えない横顔」

ぼーさん、安原くん、ジョン、綾子の居酒屋トーク。
仕事で集まる以外はあまり付き合いがないと思っていたメンバーたちの意外な?交友関係。
あんなに綺麗で色っぽい綾子を女性扱いせず(笑)、けれどその良さをしっかり見抜いているぼーさんに拍手。
どんな高級レストランでも臆せずクレームつけそうな綾子も、焼鳥屋さんにしっくり馴染んでるのもツボ。

何より嬉しかったのは、これまで気づかなかった麻衣の気持ちをみんなで思いやるところ。
いろんなものを背負っている麻衣だから、仕事以外で突っ込まれるのは嫌だろうと誤解して、あえてプライバシーに踏み込まなかったメンバー。
でも本当は麻衣は仕事を離れても、みんなと仲良くしたくて、でもそれができなくて落ち込んでいた、そこに気づく。
これで麻衣は万が一SPRが完全に閉鎖されても、大切な仲間を失わずに済む、良かったね、麻衣。
気持ちがとってもあったかくなる作品。

2、「白い烏の告解」

ナルはどーしてナルなのか。
ナルはどーしてああなのか。

そんな全国のナルファンの疑問に答える作品(ではありません)。
ナルの名言。

「物理学者が物体の重さを比べるのに、人に持たせてどちらが重いか聞きますか?」

どんなシチュエーションで出た台詞かは想像にお任せしますが、何となく誰と誰の話か想像つきますよね?

3、「GENKI」

麻衣がメンバー以外の友達に対して自分の気持ちを語るエピソード。
実は私、これを読んで感想をサイトに載せたい!って思いました。
当時ジーンで駄目ならナルと麻衣を、って要望が多かったこともあって、小野先生は「ファンの望む物語はもう書けない」と「悪夢の棲む家」の後悪霊シリーズを書くのをやめたという話を読みました。
でも、この作品を「中庭同盟」だけでなく、ちゃんと本にして発表したら、麻衣の気持ちを作者からのメッセージとして伝えていたら、そういったファンの想いは過剰なプレッシャーにはなり得なかったのではないかと思います。
本編と違って麻衣の語りじゃないのもかえって自然な感じだし。
何か事情があったのでしょうか。
「中庭同盟」の「十二国記」の短編は発表し、悪霊シリーズに関しては封印する。
今も続く悪霊シリーズの人気を思うと、これはあまりに残念と私は言いたいです。

麻衣の言葉。

「あたし、ジーンのことを考えると、あったかい気分がするもん。
 どっかで見ててくれるかもしれないと思うと、がんばろって思うもん。
 だからジーンが大切なんだよ。
 忘れる必要も、次の人を探す必要も感じない。」

ただ、ここを読んでてふと「十二国記」を思い出した。
「十二国記」も「丕緒の鳥」「落照の獄」と2つの短編が出たものの、本編の方は中断して久しい。
さらにこの短編に、私は作家としての小野不由美の「深化」を感じたように思う。

特に「落照の獄」は気楽に読んでおもしろかった、おもしろくなかった、難しかった、などと気軽に評価できないような厳しさを感じた。
ちょうど裁判員制度をめぐって人として「人を裁くこと」の問題を突き付けられた時だった。
正式な裁判官や弁護士のように、法律を学んではいない人間に人を裁く資格はあるのか。
それ以前に万が一裁判員に選ばれてしまったらどうしよう、といった怖気づく気持ちもあった。

よく読む海外のミステリーでは「陪審員制度(裁判員制度とは異なるが)」がすでに一般的になっているのも多かったし、ネットでいろいろな意見も読んだ。
けれど「落照の獄」では、まさに自分が裁判員としてたった一人で人を裁けるか否か、その覚悟が持ちうるか否か、そんな覚悟を試されている気がした。
本気でこの作品の感想を書こうと思ったら、趣味を通り越して、自分のそんな根本的な部分をさらけ出さなきゃいけないような恐ろしさも感じた。
だから結局さしさわ障りのない感想しか書けなかった。

けれど逆に言えば、今ほとんどの「十二国記」ファンが読みたいのは、ストーリーだろう。
戴国はどうなったか、泰麒は?驍宗は?李斎は?陽子は?
もちろん他の国や他の王や他の麒麟や・・・。
彼らがどうなったか国はどうなるのかどう終わるのか。
私ももちろんそうだ。

でも「深化」した小野不由美が書きたいのは、もはや「ストーリー」ではなく、「人」だとしたら。
「丕緒の鳥」も「落照の獄」も、むしろ「人」を描く段階になった作品だと思った。
そこにおもしろさというよりついて行けなさを感じ、空恐ろしさを感じ、小野不由美の深化を感じた。

もしかして悪霊シリーズと同じことが再び起きているとしたら?
小野不由美の書きたい作品と、ファンが求める作品との微妙なずれが生まれているとしたら?
そんなことまで考えさせられた。

な〜んて思っていたら、「yomyomの作家たち(新潮社)」にて「今後もyom yomでシリーズ(十二国記)作を掲載していきます。」と発表が(笑)。
御自身のコメントではないけれど、希望が持てた。
「十二国記」はまだまだ続く、たとえどんな形であれついて行こう。
 (2010年5月8日の日記) 
「中庭同盟−2」他雑感
「中庭同盟」掲載作品の内容に触れている部分があります。

4、「千年の王国」

麻衣やナルに出会うまでのジョンを描く。
ジョンと師匠ソテロが関西弁で語り合う光景が目に浮かびます、笑える(笑)。

5、「彼の現実」

ホテル住まいのナルとリン。
ナルがいつも黒ずくめの服装なのには意外なわけがあった・・・。
でもナルらしいと言えば言えるかも。
ナル自身が語る珍しい一編、全くこの子は・・・(笑)。

6、「衛星の軌道」

真砂子の内面と不思議な力の一端が描かれます。
麻衣が好き、でも苦手、その気持ち、すごく良くわかる。

7、「緑の我が家 The Green Home」

ぼーさんの素敵な住まいと優雅な独身生活。
でもいわく付きの物件でどっきどきの同居者がいたりする。
この短編のタイトル弥内容が、もしかして小野不由美著「緑の我が家 Home. Green Home」とどこかでリンクする?
とにかく意味深な一編です、こんな所に住んでみたい!

8、「Eugene」

来日する前のナルとジーンの生活。
とても素敵な物語が編み込まれているのだけれど、この作品に限って言えば、読まない方が夢があったかな・・・?と思います。
夢の中に現れるジーン、優しい笑顔のジーン、麻衣が恋するジーン。
そんなジーンがあまりに素敵だったから、彼に関しては夢のままでいて欲しかった気がします。

ジーンにも可哀そう、麻衣にも可哀そうな感想かもしれないけど、ナルとふざけたり甘えたり時にはすねたり、あくまでも普通の少年として描かれるジーンにはちょっとだけ寂しさを感じてしまいました。
ただ「悪霊になりたくない!」で真砂子もまたジーンに会っているのですが、真砂子はそれがナルだと信じ込み、「霊」とは言ってません、ここが不思議。
あり得ない展開かもしれないけど、見つかったのはジーンじゃなかった、ジーンはどこかで生きている、そんな物語が浮かんできそうな雰囲気もあります。
続きが読みたいなあ・・・。

余談ですが、「緑の我が家 Home, Green Home」(「中庭同盟」収録じゃなく、普通に文庫化されている浩志が主人公の作品)のあとがきで、小野先生が

「ーまあ、自分でも悔いのある作品は、消えてもどうってことないと言いますか、むしろ穴を掘って埋めたい心地がしますので、それはそれで構わないわけですけど」

と書いてるのにとても寂しかった。
再版されない、ほとんど絶版と化した悪霊シリーズは、小野先生にとってもしかしたらそんな作品だったのだろうか。
大幅に書き換えてもいいから出して欲しいと多くのファンが願っていると思うのだけれど。

もうひとつ余談。
先日再読した「東亰異聞」の解説で(こちらは野崎六助氏)、野崎氏が「東亰異聞」と京極夏彦著「姑獲鳥の夏」、宮部みゆき著「震える岩 霊験お初捕物控」がほとんど同じくして発表されたと書かれている。
1994年(平成6年)前後に発表されたこの三作は、後に起こる2つの大きな事件の予兆として、東京(江戸であったり別の東京であったりもするが)、

「たしかに、異界が顕現して、なにものかの破局の予感が気味の悪い肌触りで作品sね櫂を緊迫させているのだった。
 ーいつの間にか、人びとが、こんな恐ろしい時代に生きねばならないことを思い知らされ、不安を抱くにいたった1995年。
 その予兆であったような作品は、すでに深く静かに読まれていたのだった。」

と記されている。
まさに言い得て妙で、この解説、前に読み逃してしまったいたのだろう。
それにしても「東亰異聞」も「姑獲鳥の夏」も「震える岩」もそれぞれ読んではいたものの、そのような意識は持てなかった当時、私は何をしていたんだっけ。
ああそうだ、うまくいかない人間関係に鬱々として、本当は自分の中に閉じこもっていたいのに、弱味を見せまいと片意地張ってた頃だ。

世の中どころか自分にすら目を向ける余裕のなかったあの頃。
あれから16年たったんだ・・・。
私もだいぶ変わったな、とちょっとだけ苦笑してしまった。
 (2010年6月5日の日記) 
「ダ・ヴィンチ」12月号感想
今日は小野不由美著「ゴーストハント1 旧校舎怪談」の発売日。
なのに職業病の腰痛が悪化、遠回りして書店に寄れない情けなさ(近所のコンビニではさすがに売ってなかったし)。
それもあって今回は「ダ・ヴィンチ」12月号の感想で。

「小野不由美」は「十二国記」から入った私、続いて「黒祠の島」「屍鬼」など読んでいったが、悪霊シリーズはすでに絶版状態にあることもあり、ほとんど入手不可能。
ただ以前書店で発売当時だったのか、見かけた記憶はある。
表紙のイラストに手に取ることもなかったようなかすかな記憶が・・・。

結局悪霊シリーズをまとめて読んだのはたぶん国立図書館。
ほとんど予備知識のない状態だったからまずその文体に驚いた。
「小野不由美」でなかったら、たぶん読むのをやめただろう。
でも読み進むうちに、そのホラーな内容と、当時それほど有名じゃなかった「ゴーストハント」の薀蓄に夢中になり、けれどもやはり登場人物にまで気持ちが重なることはなかった。

その後漫画とアニメの「ゴーストハント」で悪霊シリーズにハマる。
だから私の中では内容もむしろ漫画の方が印象が強い。
ディスカバリーチャンネルの「GHOST LAB」など心霊研究番組を見ていると、ナルの時代よりさらに進化したゴーストハントぶりだが、「ゴーストハント」には一切見られなかった胡散臭さがあって(笑)、それだけでも「ゴーストハント」の凄さがわかるというもの。
ちなみに原作の悪霊シリーズも前にふらっと入った図書館で「悪霊になりたくない」と「悪霊とよばないで」の2冊がリサイクルで出ていたのを見て文字通り鳥肌が立った。
もう一冊出てた「緑の我が家」と共に速攻でもらった、当然(笑)。

そんな感じで「ゴーストハント」に関してはあまり知識のない私なので、今回の「ダ・ヴィンチ」の記事はとてもおもしろかった。
最初に見たのは年表。
第1作「悪霊がいっぱい」が出たのは1989年だから今から21年前、と書くとはっきりしないけど、元号が昭和から平成に変わった年、と書けばわかりやすい。

そして9年後の1998年に漫画「ゴーストハント」が連載開始。
さらに12年、原作から21年たってリライト版が登場するわけだ、これは凄い。

インタビューで印象的だったのが、当時の少女小説に対する規制の強さ。
「女の子の一人称の小説で、なるべく難しい漢字は使わない、少ないページ数で収める、そして恋愛小説である」
私の苦手な分野ど真ん中で、でも心霊現象に超能力と私の大好きな分野でもど真ん中で、読んでる時の葛藤も凄かった、確かに。
書いてた小野先生の葛藤も凄かったんだろうなあと思う。

後の大家「小野不由美」としては、なかなかそのまま再販できない気持ちもあったらしく、
「出し直そう、という話は何度もあったのですが、うまく現実にならなくて。
話が出るたびに直しては棚上げ、を繰り返すうちに、どんどん気になる部分が出てきてしまって・・・・・・。」と答えている。

さらに
「書いていた当時は、媒体の関係で規制が多くて、自分で書いていながら納得できてない部分が多かった。
あの時はこれで納得してたんだ、というのなら諦めがついたんですが。
それで少しでも納得のいく形にしよう、と思っていたら、結局はゼロから書き直すより大変な作業になってしまいました」
本当にご苦労様です。

でも逆に考えると、当人の納得できない形でこれだけ熱狂的に受け入れられたのだから、好きなように書かれていたらどうだったんだろうととっても気になる。
あまりに先鋭的で逆に一般受けしなかったか、さらに歓迎されたか。
規制の中で精いっぱいとんがってみたことで、とんがり過ぎず、甘すぎもしないちょうどいい小説ができたとと言えるのかもしれないけれど。

でも「当初はナルと麻衣とぼーさんが三角関係になる、という予定だったんですよ。
早々にあきらめておいて正解だったな、と今にして思いますけど(笑)」
これは番外編というか外伝、別物語として読んでみたいかも。

あと、へえと思ったのが「旧版ではあまり怖いシーンって書いてないんです。」のくだり。
いや十分怖かったぞって思ったら、「怖いシーンを積み重ねるより、ネタそのものの怖さ重視、みたいな気分があったんでしょう。」
そういえば漫画版の「ゴーストハント」のホラー描写は怖かった。
漫画版も人気だったのは、キャラの可愛さかっこ良さや心理描写もさることながら、ホラー描写の上手さもあったんじゃないかなあと個人的に思ってる。 あんまり小説の漫画化したのは読まない方だけど(「ゴーストハント」もどちらかというと原作が読めないから読んだクチ)、これだけは一読して一気買いしたもん(笑)。
最後にとっても嬉しい言葉が!
「今後ももし機会があれば、単発もので新作を書いてみたいなあ、とは思っています。」
是非!是非!

インタビューはカラーページで小野先生の写真も掲載、だったがなぜか首から下とか後姿とかそんな写真だけ、なぜだろう。
他にも仕事場の風景とかペットの猫とか資料とか小野先生の好みや素顔が垣間見えて興味深い。

そうそう、いなだ詩穂先生との対談では、リンと綾子をついつい忘れちゃうことがあるとか。
それだとかわいそうなので、今回の書き直しの折には付箋に「リンさんを忘れない」って書いてモニターに貼ったというのには爆笑だった。

「ダ・ヴィンチ」に先行掲載されてる「旧校舎の怪談」は本で一気に読みたいので読んでいない。
ただぱらっとめくってみたら、挿絵代わりに漫画版のシーンが吹き出しの台詞つきで載っけてあって、これには笑った。
挿絵があって嬉しい反面、挿絵が喋ってるよみたいな感じで。
楽しいな、「ゴーストハント」。
けれども小説版は、いなだ先生の絵が入るのは表紙だけとか、寂しいなあ。
 (2010年11月19日の日記) 
旧校舎怪談
「悪霊」シリーズが大幅にリライトされて蘇るというニュースを読んだ時、大きな変更の一つとして、「一人称」が「三人称」に変更されるだろうと思っていた。
だから「旧校舎怪談」を読み始めて、「えっ、どこが変わったの?」と最初思った。
元本となった「悪霊がいっぱい!?」は持っていないので、2,3回しか読んだことがない。
当然のことながら、どこがどう変わったのかはわからない。
たとえば麻衣が好きになったのが、実はジーンじゃなくてナルだったくらいの大きな変更を入れてくれなくては気づかないくらい馴染んでない(笑)。
そんな状態で戸惑いながら読み進めていった。

悪霊シリーズを読んだ時、ヒロイン麻衣の一人称で話が進んでいくことにかなり抵抗があったが、それが漫画やアニメの「ゴーストハント」を読んだり見たりするうちに抵抗感が薄れていった。
けれど大幅リライトに勝手に期待して、そのうえで読んだから、また初めて読んだ時のような居心地の悪さを覚えた。
ところが読んでいくうちに、おもしろいことに頭の中に漫画の麻衣やナルが浮かんできて台詞をしゃべり始めたのだ。

ちょうど映画のノベライズを読んでいるような感じ。
文章だけで読むと抵抗のある麻衣の一人称も、漫画のようにキャラが出てきてしゃべってくれるのなら全く抵抗がない。
ここまできてやっとリライトされた「旧校舎怪談」のおもしろさに触れることができた。
私が麻衣の年頃にこの作品に出会ってないのが悔しくてたまらないのがこんな時。
大人になって「十二国記」に出会って「屍鬼」だの「東亰異聞」だの読んで、それから悪霊シリーズだったから。

悪霊シリーズの続編となった「悪夢の棲む家」だけど、これは三人称で描かれている。
これも当時のことは知らないけれど、小野先生はこの作品が「ファンの望むものではなかった」として悪霊シリーズを書くのをやめた。
ファンの望むものでなかった理由の一つとして、一人称ではなかったこともあげられたのだろうか。
確かに一人称に慣れた読者にとっては、麻衣に共感しにくくなったというのはあるかもしれない。

たとえば海外ミステリーの傑作(と私が信じる)パトリシア・コーンウェルの「検死官」シリーズも、最初はヒロインのケイ・スカーペッタの一人称で書かれていたが、その形式だと、どこまでもケイが見たり聞いたりしたことしか書けず、作品が制限されるからという理由で途中から三人称に変えられた。
確かに作品世界は広がったが、ケイの苦悩や活躍を読んでいても他人事のような感じで、以前のように感情移入がしにくくなったのは確かである。
同様に悪霊シリーズに関してもその兼ね合いがあって「悪夢の棲む家」は失敗し(と受け取られ)、リライトでも一人称のままだったのだろうか。

さて、ここからやっと本編の感想だけど、まず本の厚みに驚いた。
「悪霊がいっぱい!?」は決して厚い本ではないし、漫画に至ってはコミック1冊分の内容が、「旧校舎怪談」になると、こんなに厚い。
では何が増えたかというと、一つの事件の中に起きるアクシデントが増えた。
当時書きたくてもかけなかったのか、その後蓄えられたのかはわからないが、霊を思わせる何かが起こり、それをナルが科学的に解明する部分が増えた。

新しいアクシデントに関しては、初読だからドキドキしながら読むし、その辺の怖さを感じさせる描写はさすがにうまい。
けれど解明されればふっと気が抜ける。
で、麻衣による一人称の会話や心理描写が始まると、漫画のキャラを脳内補填しながら読んでいく。
今までいろいろ読んできたが、こんなややこしい読み方をしたのは初めてだ(笑)。

ストーリー自体は既出のものなので、新鮮なおもしろさはないが、元本と読み比べてどこがどう変わったかを調べたら楽しいかもしれない。
逆に言うと、初めて「ゴーストハント」原作に触れた人以外は際立ったおもしろさは感じられないかもしれない。
私は「鮮血の迷宮」の元本「悪霊になりたくない!」と「海からくるもの」の元本「悪霊とよばないで」は持っているので、その時は読み比べてみたい。

リライトに関しては私はむしろ、既出の原作は、タイトルと表紙を変えて、そのまま出して欲しかった。
そして新しい知識や情報は続編、新刊に書いて欲しかった。
それでもこれまで幻の本と言われていた悪霊シリーズが復活した、読みたくても読めなかった、入手したくてもできなかった読者の夢がかなったその喜びは大きい。

今回ぼーさんや綾子はプロとしてのプライドが前面に押し出されていて、キャラとしての魅力はまだまだだが、233ページのジョンの祈祷に対するぼーさんの言葉が今回一番好きな一文となった。
「祈祷を聞くと、できる奴かどうかは分かるもんなの。こけ脅しもなけりゃ気負いもない。ありゃ、言葉が身に付いてるわ」
「パフォーマンスに堕してない。(以下略)」

余談だが、本の中に小野先生のインタビューの番外編が入っていて、大学に関する読者からのお便りに関する楽しいコメントには笑った。
こんな大学入って、こんな勉強できるならもう一度受験勉強頑張るんだけどな(笑)。
次巻「人形の檻」は1月12日発売とのこと、予約せねば。
 (2010年12月11日の日記) 
人形の檻
スカパーのディスカバリーチャンネルで「心霊スポット調査隊(Ghost Lab)」という番組が放映されてて、「米各地の心霊スポットや超 常現象を最先端技術で調査」するという、まさにナルたちがやっている調査そのもの。
いえ機材や方法などは、SPRよりはるかに進化しているのだけど、ごつい兄弟や番組を見てると、どうも胡散臭さを禁じ得ず、いつも笑いながら見てしまう。
もちろん調査チームは真剣なのだが、小説、漫画でありながら、現実以上のリアルな恐怖を持って迫ってくる「ゴーストハント」と比べるとなぜか喜劇。

アンビリーバボーの心霊特集なんかもそうだけど、「心霊現象」を信じるかどうかとは別の次元でどこか笑える雰囲気があることが多い。
それはやはり、「異常な声」や「ラップ音」程度だと、生で見ない限り信じ難いという意識があるからだろう。
テレビでそれっぽく見せるだけでは説明しきれない確たる証拠があれば話は別だが。

実は「人形の檻」でもそのことについては触れていて、ナルは「心霊現象というのは、部外者を嫌う。無関係な人間が入ってくると、一時的に鳴りをひそめるものだ」、ぼーさんは「テレビでよくあるだろう。幽霊屋敷に取材に行ったりしてさ。怪現象の頻発する恐怖の館、とか仰々しく紹介しても、たいがい何も起こらない」と語っている。
物は言いようだなあと、こういったテレビを見るたびに思い出すのだが、調査人物をナルや麻衣に置き換えて見るのは楽しい。

さて、そんな「ゴーストハント」シリーズ第2弾は「人形の檻」。
人形の怖さは、作品中で綾子が語っているが、確かに私も昔から人形にはある種の怖さを感じていた。
だからぬいぐるみはあっても、人形をねだって買ってもらったことは一度もない。
ただ「人間の形を模した人形は、魂のない人間」というよりも「人間の形を模した人形は、人間のまがい物」という意識だったように思う、今にして思えば。

すでに魂の入っている物、でも人間ではない、そんな存在。
アンティークドールのような、凄絶な美や古さを感じる物なら、さらにその怖さは増すだろうが、残念ながら実物は一度も見たこともない。
むしろ「人形の檻」の表紙の人形「ミニー」がすでに怖い。
でもそんな表紙を見てから、ひっくり返して裏表紙を見ると、今度は笑える。
主役はぼーさん(笑)。

内容も「ゴーストハント」シリーズとは何かも知らずに買ってしまった人は、ぼーさんが主役の本だと思うだろうなあ(笑)。
しかも作品内でおじさん扱いされてる存在だとは夢にも思わないだろうなあ。

人形物のホラーと言えば「チャイルドプレイ」が有名だが、あれは殺人鬼の魂が子供の遊び相手となる人形に宿ったもの。
ホラーではあるけれど、総体的に賑やかで派手でいかにショッキングな怖さ、というより痛さを見せるかに心を砕いた映画だった。
だから「人形の檻」のような、「ポルターガイストはあっても、しんしんと冷え冷えと迫ってくる静かな恐怖」はあまり感じられない。
早い話が、人形じゃなくても良かったような気にさえなる。

むしろ「Xファイル」シリーズの「ドール」だろうか、近いのは。
スティーブン・キングが脚本を書いたこのエピソードは、人形に背景も何もなく、ただ恐怖の存在、殺人鬼としてあるだけ。
海から拾い上げられ、拾った男の娘にプレゼントされただけ、でもその背景のなさが、憑かれたのではない意志を持つ人形の怖さを体現していた。
「人形の檻」ほど静かではないが、「チャイルドプレイ」ほど賑やかではない、この三作品をチャイルド、ドール、檻と順番に見るなり読むなりすれば、日本の人形ホラーがいかに「日本人の肌に合っているか」が身に沁みてわかる気がする。
もっとも「チャイルドプレイ」は映画として人に見るようにお勧めはしないが(笑)。

ある洋館に引っ越してきた家族。
幼い礼美が持っていた人形が、引っ越しをきっかけに意志を持って礼美を操り始める。

といっても礼美自体がどうこうするわけではなく、人形ミニーに脅されて孤立したり、ポルターガイストが引き起こされるきっかけになる形。
ナルはその原因がミニーであることを突き止めると共に、この館では「8歳前後の子供が危険」だと言う。
霊に関する特殊な能力を持たないナルが、ジョンや綾子、ぼーさんなど霊能力者たちをフルに使って効率良く仕事を進めていく過程がおもしろい。
ミニーも怖かったが、ミニーはいわゆる「前座」に過ぎず、本当の敵(実は敵ではない)は遠い昔、悲惨な形で子供を失った女性の霊だった。

クライマックスの除霊の場面、今回は真砂子の優しさが光る。
たとえ相手が悪霊になっていたとしても、除霊はして欲しくない。
犯罪者を有無を言わさず処刑してしまうような、そんな形では葬って欲しくない、真砂子の願い。
辛くて悲しくて苦しくて、悪霊にならずにはいられなかった女性の心を想う真砂子。
でも彼女の力を持ってすら霊に太刀打ちできない。

出てくる悪霊、女の救われない魂。
静かに、でも禍々しくの想いは麻衣たちを襲う。
真砂子の叫びだけが静けさの中悲しく響く、この恐怖、この悲しさで背筋が冷える。

そして終焉。
ナルの放った娘の遇人(ひとがた)は女性にとって娘そのもの。
ここでナルが女性を騙してのでは?と思う麻衣に説明が入るが、ここでも真砂子の「嘘でもいいから、戻ってきのだと実感したかったのですわ・・・・・・」の一言が一番説得力がある。
ここでナルは陰陽師として認められるが、この出来事が後の大きな伏線となる。

リライト版悪霊シリーズを読んで、ぼーさんや真砂子、綾子の魅力がやっと漫画に追いついたという気がする。
漫画だとビジュアルのかっこ良さ綺麗さはともかくとして、わりとすんなりいいところを見せてくれるので、共感するのも早かった。
リライト版だと、「人形の檻」も後半になってやっとそれぞれの良さが垣間見えてくる。
このクセモノ加減が原作の魅力かも。
ああジョンだけは、未だに漫画の方が圧倒的に好きだけど(笑)。
 (2010年1月23日の日記) 
乙女ノ祈リ
何度か書いたが、私は「十二国記」の後に悪霊シリーズの存在を知り、数年前に国立図書館でまとめて読んだ。
「乙女ノ祈リ」の原作「悪霊がいっぱいで眠れない」は1990年(平成2年)発売だが、この本では「スプーン曲げ」「狐狗狸さん」が登場する。
Wikipediaによると、「スプーン曲げ」で有名になったユリ・ゲラーが日本で活躍したのは1970年から80年代、こっくりさん(狐狗狸と書くのはこの本で知った)が流行したのは1970年代だそうだ。

悪霊シリーズは、古い出来事を取り上げていても古く感じさせない魅力に満ち満ちているが、「乙女ノ祈リ(悪霊がいっぱいで眠れない)」は他作品に比べて私の中では評価が低い。
低いといっても他作品が★5つのところ、★4.95くらいの低さなのだが。
それは作品のメインとなる事件に「スプーン曲げ」を押し出し過ぎているように感じたからだと思う。

超能力や心霊現象はすたれることのない、ある意味永遠のテーマだと思う。
だから狐狗狸さんの部分を読む分には違和感はなかったのだが、スプーン曲げが具体例過ぎたと言うのだろうか。
後半メインの呪詛よりも、スプーン曲げの方が読後に印象に残ってしまったというのは我ながら残念だった。

それでも麻衣とぼーさんの楽しい掛け合い、相変わらず冴えわたる恐怖の描写、さまざまな薀蓄など、興味のある分野なだけに、一気に読ませるおもしろさは当然ある。
特に131ページ、綾子が「どうして曲げるのはスプーンなのか、スプーンでなければだめなのか」という疑問を出した時には、「よくぞ聞いてくれました!」と膝のひとつも叩きたいほど嬉しかった。

テレビでユリ・ゲラーのスプーン曲げを見て影響された人が、その力を抵抗なく受け入れて、当然曲がるくらいのつもりでやってみると、スプーンは曲がることが多い。
しかし、対象がスプーンでなくなった時、周りに力を否定された時、など自分の力に疑いを持ち始めた途端、力が消滅することもまた多いという。
だから「スプーンでなければ曲げるイメージを持てない」というぼーさんの理論はとてもわかりやすく、納得できた。

また今回は、これまで垣間見えていた麻衣の超能力が、ナルによって証明される。
「動物と一緒で、敵に相対すると感覚が鋭敏になる」などと身も蓋もない言い方されてるけれど(笑)。
それにしても、悪霊シリーズはほとんど読んだことがなく、アニメや漫画に馴染んでるせいか、登場人物がやたら多い気がするのは気のせいか。

これまでリライト版悪霊シリーズ「ゴーストハント」を3巻まで読んだが、いずれ原作を持っておらず、読むにも困難なため、なかなか比較できずにいる。
それでもリライト版の完成度の高さ、恐怖の描写のさらなるレベルアップはさすがと思わせる。
ただ、作者が現在の筆力により、加筆が過ぎ、説明が丁寧すぎ、作品として完成しすぎて、悪霊版が持っていた勢いのようなものが失われてしまった気がする。

リライト版はリライト版で良しとして、ここは是非悪霊シリーズも(できればイラストは稲田先生の物に直して)そのまま再出版して欲しい。
悪霊版のフレッシュさとリライト版の完成度と両方楽しみたいから。
もちろん比較の楽しみもある。
両者の間に作家小野不由美の歩んで来た軌跡のようなものも見えてこようから。

それから実は私、リライト版の表紙が凝り過ぎていてちょっと苦手。
3巻「乙女ノ祈リ」のショッキングピンクにはうわっとなってしまった。
もう少しキャラのイラストに重点を置いた落ち着いた装丁にできないだろうか・・・。
 (2010年5月12日の日記) 
死霊遊戯
買ったばかりの新刊本は、カバーを取って読むのが主義だが、今回いきなりのけぞった。
蟲がいる・・・。
カラーのカバーでは遇人(人形)で隠れてて見えなかった部分、に蟲がいる・・・。
可愛く言えば「風の谷のナウシカ」に出てくるオウムのような、でもあのむっちりした胴体に、短い無数の脚がうじゃうじゃと蠢くあの蟲がいる・・・。
この凝った表紙だけで700円くらいはしそう、私の鳥肌代。
表紙はキャラのイラスト大きく取り上げて欲しいです、はい。
表紙に巣食う蟲の部分に触れないようにしながら読み始める。

今回の「死霊遊戯(旧題「悪霊はひとりぼっち」)ではいよいよ爽やか系老獪少年安原修が登場。
でも思ったよりさっぱりしてて、やや物足りなかった。
読んでて「まずいっ!」と思ったのだが、私は「悪霊はひとりぼっち」はずっと前に国立図書館で一度読んだだけで、漫画とアニメをくり返しくり返し読んだり見たりしてるんだよなあ。
おかげで今回「死霊遊戯」の方が漫画やアニメのノベライズに感じてしまった、これはまずい。
だから登場人物やけに多いなあとか余計な感想を持ってしまう。
薀蓄の多いのは大歓迎だけど。
キャラ同士の関係描写もちょっと淡泊に思えるのもちょっと寂しい。

けれど本題に入っていよいよ事件が盛り上がってくると、さすがに怖い、そして哀しい。
特に事件の大本でありながら、救われることなく逝った少年の惨さ哀しさ、詮無きことではあるけれど、どうしてこんな奴のためにって思う部分も確かにあった。
ただこれは、旧作を読んでた時から感じてたことだけど、ナルもリンも蠱毒に気づけなかったこと、またナルがしようとしていることに、麻衣はともかくぼーさんが気づけなかったこと、などは違和感を感じる。

こうした部分はリライト版でも変えるわけにはいかないだろうが、もし今小野先生が新作「死霊遊戯」を書かれてたら、こうした展開にはしなかっただろう。
こうした作家としてまだ未熟だった部分も、「悪霊はひとりぼっち」では新鮮な魅力だったが、完成された「死霊遊戯」での設定となると、ちょっと厳しく感じてしまうのは私だけだろうか。

今回はリンさん大活躍。
「そもそも誰かが、この呪符を狐狗狸さんの道具だと偽って広めた、ということでしょう。」に始まり、「作ったのも呪法を行ったのも素人だから良かった。私なら、これ一枚で殺してみせますよ」はリンの「ゴーストハント」史上屈指の名台詞。

余談だが、私は「コックリさん」は知ってたが、「狐狗狸さん」と書くのはこの作品で初めて知った。
狐に狗(いぬ)に狸、人の霊ではなくて動物の霊を呼び出すわけだ、ちょっと意外。
そして動物霊に自分の事とか質問して答えてもらうわけだ、さらに意外。
子供の頃読んだクリスティーに「テーブル・ターニング」が出て来て、ドキドキしながら読んだ記憶があるので、てっきり人間の霊、あるいは神様を呼び出すのだとばかり思っていた。

さて次回はシリーズ中で私が一番好きな「鮮血の迷宮(旧題「悪霊になりたくない!」)、実はこの旧作、たまたま訪れた図書館で「リサイクル本!」として出てたのをもらってきている。
次回は旧作新作の読み合わせも楽しめそうだ。
ウィンチェスター・ミステリー・ハウスに。「血の伯爵夫人」ことエリーザベト・バートリに「ドラキュラ公」ヴラド・ツェペシュと予習もする気満々だったりする(笑)。
 (2010年5月31日の日記) 
悪夢の棲む家
★悪霊シリーズ及び「悪夢の棲む家」に関する重大なネタバレを含みます。★

「悪霊シリーズ」の続編として1冊だけ出され、そのまま中断してしまった「ゴーストハント 悪夢の棲む家」。
(漫画、アニメの「ゴーストハント」は「悪霊シリーズが」原作の別物)
ゴーストハントシリーズが前作・悪霊シリーズのファンの望む物語と違っていたこと」、「ファンの望む物語は書けないこと」という理由で小野先生が書くのをやめたのだそうだ(Wikipediaより)。
この記事は私も直接読んだことがあるような気がする、「中庭同盟」に記載されていたのだったか。
(国立図書館で読んだため、原本は手元になく、確認できません)

私は悪霊シリーズ、「悪夢の棲む家」 の出版当時の状況を知らないので、実際どんな評判だったのかはわからない。
ただ、もし「悪夢の棲む家」が悪霊シリーズのファンに受け入れられなかったとすれば、理由は当然「麻衣とナル、ジーンの関係」と「一人称から三人称への変化」だろう。

悪霊シリーズにおいて、麻衣がいつも夢の中で会い、恋した少年はナルではなくジーンだった。
そしてジーンはすでに死んでおり、意識だけが残って麻衣とコンタクトを取り続けていたのだが、最終話で自身の死体が発見されることにより、消えて逝った(ように思えた)。
安心して眠りについた、つまり成仏したのだろうと、麻衣もナルも、そしておそらく全ての読者がそう信じたことだろう。
ところが「悪夢の棲む家」ではジーンが帰ってくる。

もちろん生き返るのではなく、魂がまだナルや麻衣のそばに残っていたという設定である。
ここで読者はどう思うだろうか。
「麻衣にはナルを」「やっぱりジーン」と二つに分かれたのだろうか。
私は「悪夢の棲む家」の描き方はとても好きだった。

麻衣はやっぱりジーンが好き、でもジーンは死んでいて決して結ばれないことはわかっている、でもジーンが帰って来てくれて嬉しい、ジーンが可哀そうだけどやっぱり嬉しい・・・。
そしてナル、表に出さないだけで、本当は麻衣が好きなんだ、そんなそぶりはどこにもない。
麻衣もまた、冷たそうだけど本当は優しいナルに惹かれ始めてる、そんな描写もどこにもない。
それが物足りなさを感じさせたのだろうか。

ティーンズ文庫として出された悪霊シリーズならいざしらず、「悪夢の棲む家」や後の「十二国記」に見られるような、何が何でも恋愛にこだわることをしない小野先生の男前な部分が私は好きだ。
もちろん悪霊シリーズに見られる麻衣のほのかな恋心という絶妙な恋愛成分の入り具合も大好きだ。
「悪夢の棲む家」でも麻衣の恋は続いてる、それじゃいけなかったのだろうか。

次の三人称への変化、実はこれも私は好もしかった。
ティーンズをはるかに超えてから(笑)読んだこともあり、物語のおもしろさとは別の部分で文体(口調)にはどうしてもなじめない部分があったから。
ただし三人称になってキャラに共感しづらくなったという意見はあって当然と思う。
私自身、大好きだったパトリシア・コーンウェルの検屍官シリーズが、主人公ケイの一人語りから三人称になったことで、かなり寂しさを感じ、物語にそれほどのめり込めなくなってしまったから。
悪霊シリーズにおいても「ティーンズ」の麻衣と共に過ごし、年を重ねてきた読者なら、不満を覚えて当然かもしれない。

実はもうひとつ、私には引っかかることがある。
三人称大いに結構、作品としても悪霊シリーズに引けを取ることなくおもしろい、ジーンも帰ってきた、なのに何が不満?と聞かれると、不満はある。
三人称ながら、物語が広田の視線で語られることである。
「登場人物紹介」に「オカルト嫌いの頑固な公務員。」と書いてある通り、ナルや麻衣たちとことごとく対立、しかしその中で自らの経験を通してナルたちと協力態勢に入っていく展開である。

さっきも書いたように、物語としてはおもしろい、だけど「ゴーストハント」ではない、そんな風に思った。
悪霊シリーズの続編として読まなければ文句なくおもしろいのに、ナルに対立する広田視線で始めたために、「ゴーストハント」シリーズらしさが薄れてしまったのではないだろうか。
無難かもしれないが、最初は同じ三人称でも、麻衣やナルたちゴーストハントのメンバーの視線に立って一話目を書いてくれてたら、もっと受け入れられていたのではないかと思う。
一話目をゴーストハントと敵対する広田視線にしたことは大きな冒険だったと思う。
それがゴーストハント再開を心待ちにし、麻衣の恋の成就を心待ちにしていた読者には近寄りがたい雰囲気があったのではないかと思う。

最近「幽」にて新連載も開始との小野先生、「ゴーストハント」は中断し、「十二国記」も中断したままである。
もちろん悪霊シリーズリライト版は出版されてるし、「十二国記」も「丕緒の鳥」「落照の獄」と外伝的な短編は出たが、読者が本当に待ち望んでいるのは「外伝」より「焼き直し」より「続き」なのだということは小野先生にも十二分に伝わっていると思う。
書いて頂けないだろうかと思う。

前にも書いたが、ナルだジーンだと恋してただろう読者も、もうそれだけにこだわることなく新作を待ち望む年齢になっていると思う。
ファンが望む物を書けないなら、書いた物をファンが望む物にして欲しい、それだけの力をお持ちの作家だ。
今のままでは、せっかくの新作もリライト版も、お茶濁しになりかねない、それではあまりにもったいないと思う。
 (2010年6月14日の日記) 
鮮血の迷宮−1
買ったばかりの本を読む時は、カバーを外して読むのが癖だが、「ゴーストハント」に限って言えば、やっぱりカバーよりも本自体の表紙の方が好きだ。
カバーをモノクロにして、題字とキャラが消えてとってもシンプル。
まだ言うかと思われそうだが、表紙は祖父江さんのみに作ってもらって、いなださんにはストーリーに沿った挿絵をたっぷり描いてもらいたかったなあ。
「十二国記」ホワイトハート文庫のように。
それでさらに値段が上がってもいいのに・・・。

さて今回は、原作「悪霊になりたくない!」も持っているので、感想というより比較と考察メインで行きたい。
感想って言ったら「おもしろい!」「この話大好き!」の二語で終わってしまうから(笑)。

とはいえ私は漫画「ゴーストハント」から入ったようなものなので、漫画に比べて小説の方が登場人物が多く、とまどった。
特にタカと千秋先輩(リライト版でセンパイから先輩に昇格、それだけでもかなり読みやすい)。
プロローグやエピローグに登場して、麻衣の本音に付き合うパターンだから、逆に麻衣とSPRの仲間たちとの関係が希薄に見える。
漫画に比べてメンバーの個性が強いからだろうか、というかクセがあるかるだろうか。

でも原作から入ったファンは、漫画を見て「タカや千秋センパイがいなくて寂しかったけど、リライト版で帰って来てくれて良かった」と思ってるんだろうな、たぶん。
読む順番って本当に大切だ。
大好きな「十二国記」シリーズも、最後に「魔性の子」を読んだせいで、未だに「魔性の子」は苦手・・・情けない・・・。

話がそれたが、「ゾーキン」が「雑巾」になったり漢字が増えて、タカこと高橋優子の紹介場面で「最上級生になったばかり。」が「なったばかりだ。」と変えられたりというように、原作のキャピキャピ加減がだいぶ薄らいでいる。
(キャピキャピって言葉自体すでに古いか?でも原作はまさにそんな感じのノリだから。)
あと全体的に文章がまとめられて長くなり、形容詞が増えたことで、「麻衣の一人称」の軽さを軽減しようとする工夫が見られる。
その分改行も減った。
もっと削除部分が多いかと思ったらそんなことはなく、むしろ薀蓄部分の追加が増えたか?

これまでは原作が手元になかったのではっきりしたことは言えなかったけど、漠然と持っていた印象。
今回原作と読み比べてその印象が強くなった。

さて冒頭ガールズトークが終わって、森まどかが登場する。
原作ではおおっとのけぞる華やかスマイルのお姉さんがどどーんと出て来るが、当然ながらリライト版にはなし。
仕方がないので漫画版の森さんの柔らかい笑顔を思い浮かべながら読む。
謎の女性、森まどかとリンの意味深な会話

「ナルはいないの?」
「旅行中です」
リンさんが低く答えると、森さんもちょっと複雑な感じの笑みを浮かべる。

ナルの旅行の「目的」を知ってる2人の「複雑な」心情の描写。
この部分が後の大きな伏線となる。
なのにすぐに打ち切って戻って来いだもんなあ、恐るべし森まどか(笑)。
 (2010年7月25日の日記) 

十二国記感想

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