十二国記感想 7
鮮血の迷宮−2
漫画「ゴーストハント」から入ったと言っていい私が、なぜ「鮮血の迷宮」冒頭部分に部分に引っかかったか。
まどかの台詞に

「ナルもリンも人当り悪いでしょ?
すごく人見知りするし。
その二人が人を雇うだけでも意外なのに、谷山さん、結構馴染んでいるみたいじゃない?」(「鮮血ー」より抜粋)

とあるが、ナルにとって、麻衣が特別な存在であることを示唆する台詞として大好きだ。
それは別に恋という意味でなくても、構えず突っ込んでくる麻衣、正義感の強い麻衣、そして何よりジーンに似てる麻衣、(ついでに生活に困ってるっぽい麻衣)だからこそ、雇ったという認識。
麻衣だから、のニュアンスは私の中では大切だ。
だからタカが遊びに来るだけなら全然平気なのだが、一緒に雇われちゃったというのが解せないのだ。
まどかの言葉も確実に麻衣だけを指しているし、だからリライト版では、バイトは麻衣一人と漫画版のように変えられるのかと思ってたのだけど。

原作者としては、漫画版に沿うのはどうかと思われるかもしれないが、オフィスに誰もいなくても、麻衣が来るまでそうだったのだから困ることもなし。
むしろすっきり事件に入り込めて、麻衣の心情は一人称故に、読者の側に打ち明けられて、というパターンで良かったのではないかと思う。
と、前回の愚痴をまた蒸し返したところで、今回の感想。
まどかに呼び戻されたナルが帰ってきたところから、当然不機嫌(笑)。

この場面は、小説はジョンの「そおゆう感じ」が「そういう感じ」に代わったような、細かい修正ばかりでほとんど変化なし。
漫画版で、最初から所長室にいた安原少年が今着いた、という設定になってることくらいだろうか。
ただ、真砂子が「あたくしなりに協力」の台詞を言うところ、「ねっとりした口調でそう言って笑う」が「思い入れを込めた口調でそう言って微笑む」に変えられたのには笑った。
綾子が顔をしかめるのは同じだが。
やはりこの点漫画版の方が可愛くてクセがない。

今回の舞台は原作では長野県の諏訪となっているが、リライト版では長野県のみ。
それでも諏訪市をイメージさせる描写が続くし、結局まどかが諏訪市内のホテルで待機することが明かされるから、地名を具体的にすることに支障があったわけではないらしい。
ちなみにWikipediaだと、北西側を諏訪湖に接し、西部、東部を山地に挟まれ、南側には茅野市、富士見高原を望む、諏訪盆地のほぼ中央に位置するとある。
山と湖のある風土と相まって、東洋のスイスと称されたことでも有名だそうで、幽霊屋敷と呼ばれる洋館がぴったりな雰囲気。

私は長野といえば、真田発祥の地上田市にしか行ったことがないが、山が身近な水と緑の多い風景というイメージだった。
諏訪市もなんとなく別荘がたくさんありそうな雰囲気かも。

そして依頼場所の洋館に着いた麻衣たちは、他のメンバーに紹介されるが、漫画版では澄明教会の聖忍と三魂会の三橋芳命が出ておらず、その助手の厚木秀雄は南心霊調査会所長南麗明の所員となっている。
そのため、所員の中原清明と聖の助手のもう一人、上原美紀は登場しない、よって全部で16人。
聖グループ3人セットで消さないで、メンバーを入れ替えたのには何か意味があるのだろうか?

余談だが、私はここで出て来る大橋さんが大好きだ。
いかにもやり手で有能、でも性格も良さそう。
人が次々に失踪する洋館の中で冷静さを失わず、何よりも20人の名前を瞬時に覚えた記憶力。

実はこの洋館のスタッフが誰も逃げずにあまりに冷静なのが漫画版で、そこに違和感を覚えていたのだが(犠牲者の年齢制限に気づいてはいなかった)、その辺はさすが原作でちゃんと描写されている(逃げたスタッフがいる)。
その方が自然だし、そこはなぜ漫画で省略されたかちょっと不思議だ。
 (2011年8月25日の日記) 
鮮血の迷宮−3
原作と漫画とリライト版とちまちま読み比べていたら、作品本来のおもしろさがどっかに飛んで行っちゃったので(笑)、ここからは怒涛の感想。
原作ありの漫画家、アニメ化をそんなに知ってるわけじゃないけれど、原作と対等に張り合える漫画、アニメって本当に少ないんじゃないかと思う。
特に少女漫画ジャンルの場合は、絵の可愛らしさが、時に原作の足を引っ張る場合があるのでは?と思っていた。
その意味で漫画「ゴーストハント」を読み始めた時は、正直不安だった。

でも漫画もおもしろい。
女の子キャラも可愛いし、男の子キャラもかっこいいけど、それより何より「怖さ」の描写がうまいなあと感心した。
今回の浦戸の登場シーンも、麻衣やナルをへら〜っと描いてるのと同じ人が描いたとは思えない怖さとグロテスクさ。
小説を読むと漫画の浦戸を思い出し、漫画を読むと小説の克明な浦戸描写を思い出す、とにかく怖い、それが快感。

ところでドラキュラのモデル、串刺し公ヴラドや血の伯爵夫人エルジェベット(私はエリザベートの方がなじみがある)・バートリのことをなんで私は知ってたんだろう。
読んだ記憶もなければ見た記憶もない。
でも「ゴーストハント」で読んだ時、ずっと前から知ってることに気づいた。

バートリ夫人はともかく、ヴラド公は、確かに敵や罪人に対しては過酷な罰を与えたが、治める国の中では決して暴君ではなく、小説「ドラキュラ」のために悪名を轟かすことになったという、ある意味不運の人。
さらにウィンチェスター館は「奇跡体験 アンビリーバボー」で知った、これは覚えている。
昔から好きだったんだよなあ、こういう番組。

ウィンチェスター銃で財を成したウィリアム・ワート・ウィンチェスターの未亡人、サラ・ウィンチェスターが、屋敷がウィンチェスター銃によって殺された人々の霊によって呪われており、それらが邸宅内で及ぼすと予想した霊障からいつでも逃れる為の隠し部屋・秘密通路をひたすら増築し続け備えておく事しか方法がないと信じたことから始まった果てしなく続く大改築(Wikipedia参照)。
ミステリー好きなら泣いて飛びつくこの3つのモチーフをこんな風に組み合わせて「ティーン向け小説」に仕上げるとは。
当時の小野先生の実力意欲もさることながら、なんだかんだと制約を設けながらも書かせた編集者側も偉かったと改めて思う。

悪霊シリーズの中でも一番の怖さを誇る「鮮血の迷宮」
私が苦手なのはヴラドよりも、麻衣が喉を切り裂かれる「夢を見る」場面。
「悪霊」では「細い冷たい感触が喉をすべった。」とある。
リライト版では「すべった」が「滑った」と漢字になっただけ。

漫画では
「ひふの うえを 細い氷が走ったみたいな感じがした」となっている。

漫画版が一番鳥肌が立つほどの「切り裂かれる痛さ」を感じるのはなぜだろう。
 (2011年9月10日の日記) 
海からくるもの
十二国記関連の友達から「海からくるもの」を読んだとメールが届いた。
彼女は原作未読の漫画既読の人だが、「最初間違って『悪夢の棲む家』のリライト版買ってしまったかと思いました。」
いえそんなのないのだが。
確かに冒頭部分の謎の?男女の会話が「悪夢ー」の広田と咲紀と彼らの上司?の会話に読めないこともない。
これは原作にはちゃんとあるのだが、漫画版にないため引っかかったのだろうけど、今読めば確かに楽しい罠かも(笑)。

さて「海からくるもの」である。
これも原作「悪霊とよばないで」を持っているのだが、前作「鮮血の迷宮」で読み比べから入って、リライト版の作品としてのおもしろさを味わえなかった失敗から、今回はリライト版のみ一気に読んだ。
もしかしたらこれまで出た6作の中で一番おもしろかったかも。

ストーリーとしては「鮮血ー」に軍配を上げるが、核となるナルの不在、よって生じる麻衣や他のメンバーたちの団結とがんばり、安原少年の有能さ、被害者となる吉見家の人々の気の毒さなどが生き生きと描かれている。
特に今まで役立たずと扱われてきた綾子の別人になったような行動は何度読んでも目を見張らずにはいられない。
「本当を言うと、あたしには大した力はないんだと思う。
でもね、あたしは巫女だから」
綾子屈指の名台詞、表紙のイラストも神がかってて綺麗。

でもこんな謙遜とんでもないことで、巫女だからではなく綾子だからできること。
力を持っているからこそ巫女になれたこと、その迫力がひしひしと伝わってくる綾子浄霊の場面には鳥肌が立ってしまった。
ほとんど漫画から入ったと言っていいような私にとっては小説の登場人物に感情移入するのにとても時間がかかったが、6作目に至って、やっとみんなに心が重なったといえるかも。
あっ、でも真砂子はまだちょっと影が薄いかな?

ただやはり気になるのが文中で時折見られる麻衣の口調。
たとえば157ページから憑かれたナルについてリンとぼーさん達との会話が延々続くのだが、麻衣が心の相槌をうってて、「なるほどなあ。」「・・・・・・ああ、なるほど。」と続いて、突然「にゃるほどなあ。」となる。
内容がシリアスなだけに、可愛いイラストなしで突然こういう口調が挟み込まれると苦痛を感じる。

真砂子やタカとふざけた会話でこなしてる分には構わないけど、こういう部分もいっそなくして欲しかったなあ。
って思うこと自体が、私の「原作」に対する愛着が薄いせいなのかもしれないけれど。
確かに「悪霊シリーズ、ゴーストハント」の「内容やキャラ」に対する愛着はあるけど、あの悪霊シリーズという「本(物質的な意味で)」にはそれほど愛着ないのかもしれない。
そんな人が三人称に代わった「悪夢の棲む家」に拍手喝采を送ったんだろうな、きっと。

今回安原少年と好対照をなしていたのが、若旦那こと吉見彰文。
ほんとに人のいい若旦那という感じで、でも芯はしっかりしていそうなのがいいい。
たまにゲストで出演してくれないかなあと思ったけど、さすがにそれは無理だった。
悪霊シリーズ次回で終わるし(涙)。

ところで漫画版に取材協力感謝として「浅田屋さま」があげられているが、これは「浅田屋旅館」でいいのだろうか。
海沿いではないけれど、気になるなあ。
雰囲気は近いです。
ここがモデルだったら行ってみたい。
原作もそうだったのかな?
原作はそれほど「絵」にこだわる必要ないからモデルはなかったのかな?
 (2011年9月29日の日記) 
扉を開けて(ブログより)
リライト版「ゴーストハント」最終話「扉を開けて」を読みました。
原作はずっと前に一度読んだきりで、漫画版だけ何度も読み返したせいか、「漫画とここ違う」って思うところが一番多かったです。
森さんが最後に来日したのにもびっくり。

一番寂しかったのは、住所の交換会がなかったこと。
一番驚いたのは、最後にぼーさんがたたみかけるようにして明かしていくナルの正体を、今回は小出しにして、しかも 大事な台詞を言うキャラが原作と変わってる・・・。
大変な事件のさなか、そんな話してる場合じゃないでしょ?って気持ち半分、だからこそ気を紛らわす意味もあるのか なと思う気持ち半分。
でもぼーさん大好きな私としては、ぼーさん大活躍が良かったなあ。

あと「好きっていう気持ちは相手のことをわすれるまでつづくんだよ、知ってた?」
がなかったのはショック!
これってまさか漫画版のオリジナル台詞なんでしょうか?
表紙はやっぱり「あれ」でしたね〜。
公開された表紙がナルだった時点で皆さん予想できてたのではないかと。
憂い顔と微笑み顔・・・。

総体的に、漫画版よりキャラにクセが強かったって気がします。
漫画版ではいきなりみんな「いい人」「いい子」でたちまち好きになる感じでしたが、小説版はもっとリアルです。
キャラに魅力がないって意味ではなく、少女漫画の世界観ではないキャラ設定がなされてるという感じ。
私は先に漫画版を読んだようなものなので、もしかしたらキャラは漫画版、怖さの部分は小説版、終焉の部分 は漫画版にちょっぴり軍配あげちゃいます。

今はリライト祭が終わってしまった寂しさと、GHと十二の今後への期待感などで悶々としている状態。
 (2011年12月3日の日記) 
「屍鬼」と「呪われた町」
スティーブン・キング著「呪われた町」を初めて読んだ時、私はまだ小野不由美を知らなかった。
小野不由美著「屍鬼」を初めて読んだ時、それが「呪われた町」へのオマージュだとは知らなかった。
そして最近、「屍鬼」が「呪われた町」へのオマージュとして書かれたことをわきまえた上で、「呪われた町」を再読した。
続けて「屍鬼」を再読した。

初めて「呪われた町」を読んだ時は、普通に怖く、おもしろかった。
構成はシンプルである。
吸血鬼は悪、人間は正義。
吸血鬼は加害者であり、退治されるべき存在である。
ある意味王道な吸血鬼物である。
読む側にも迷いはない。

「屍鬼」。
タイトルから、最初はゾンビ物だと思った(笑)。
確かに蘇り物ではあるが、蘇った者は人を喰らうのではなく、人の血を啜る。
そういう意味で、タイトルはネタバレじゃない?と思ったが、最初から「呪われた町」へのオマージュを打ち出しているのなら問題ないわけだ。
「呪われた町」を元にして書いてあるから、当然ながら物語は、より深い。

何よりも、被害者である人間と、加害者である吸血人(鬼とは書きづらい)との立場が対等である。
吸血人は人の血を吸わなければ生きてはいけないのだから、人の血を吸う。
しかも被害を最小限にし、無差別な殺戮を行わないように努力すらしている。

マイノリティであるために、心ならずも加害者に、悪に認定されてしまう吸血人の悲劇も描かれる。
当然血を吸われて死に、吸血人として蘇ってしまう側の悲劇も描かれる。
読んでいて映画「アイ・アム・レジェンド」を思い出した。
主人公である男性が最後に気づく、「ダークシーカー(ゾンビのような存在と捉えてくれればいい)が世界で圧倒的多数になったら、今度は人間の方が異端になってしまう」事実。

吸血人の目論見が成功すれば、「屍鬼」の世界もまた、吸血人がマジョリティとなり、普通の人間がマイノリティとなる。
そうあってもおかしくない、その恐ろしさ。
いかにも日本のホラーなその質感、キングを上回る人の心の恐ろしさ、陰湿な描写。
たとえば徹と律子は、その苦しみを人間に知って欲しかった。
その他大勢と同様に殺されたのが辛かった。

そして吸血人は、沙子は、静信は、外場村の悲劇の上に生き延びる。
彼らはうまくやっている、物語はその状態で終わる。
けれどもその先には外場村の悲劇の再現が容易に予想できる。
ばれないわけがないからだ。
にもかかわらず、2人は「うまくやった形」で終わる。

凄いと思った。
絶賛に過ぎるかもしれないが、アメリカの作家には書けない世界だと思った。

そして「呪われた町」の再読。
私の感想の天秤は、また「呪われた町」に大きく傾いた。
やはり、「屍鬼」はあってはならない世界だと思う。

仮に沙子が死を望んだ時に、静信が共に死ぬことを選んでいたら、ありきたりの小説になったかもしれない。
でもそうあって欲しかった。
作品の評価とは別の部分で、私は「屍鬼」に出て来る主要な人物で、好きな人があまりいない。
特に静信、彼がいなければ「屍鬼」は成立しないのだが、やはり身勝手と思う。

「屍鬼」、凄い作品だと思うが好きな作品には到底なり得ない。
「屍鬼」を読んだ後だと、「呪われた町」の単純明快なストーリーが好もしくなる。
さて、この後また「屍鬼」を、「呪われた町」を再読したら、私の感想はどう変わるだろうか(笑)。
ちなみに「屍鬼」で私が一番好きな人物は、竹村タツである。
(2012年5月18日の日記)
「魔性の子」再読
新装版で再発売された小野不由美著「魔性の子」。
当然のように買ったものの、手に取ってしばらく考え込んだ。

以前も書いた記憶があるが、私は「魔性の子」を十二国記シリーズを一通り読み終えてから読んだ。
そして、おそらく二度と読むことはないだろうと思った。
嫌いというのではない、おもしろくないのでもない。
ただもう読みたくないのだ。

「魔性の子」ほど「十二国記」を読む前に読むのと、読んでから読むのとで印象の変わる作品はないだろう。
私は先に「魔性の子」を読まなかったことを本当に悔やんだ。
謎めいた少年、彼を取り巻く数々の事件、何かを探してうろつきまわる不思議な女性や「犬」のような存在。
少年高里が語る、後の「十二国記」の伏線となるいくつかの言葉、そして事件はだんだんエスカレートして行き、取り返しのつかない事態となる。

「魔性の子」が登場したのは1991年(平成3年)9月25日、「月の影 影の海」が出たのは翌年1992年(平成4年)6月20日のことである。
私は「魔性の子」が出た時に、「十二国記」が出ることはすでに発表されていたのか、それともどこまでも単作として出たのか、当時の事は知らないが、もし単作で出たならば、よくこれだけの謎をちりばめて作品として成立させたものだと思う。
もしこれが「序章」であると発表されていたなら、読者は首を長くして続編?を待っていただろうし、そして出たのが中嶋陽子が主人公の、高里要がほとんど出て来ない物語であったことに唖然としたのではないだろうか。
けれど「風の海 迷宮の岸」も出るに至って「魔性の子」の散りばめられた謎が一気に明かされていく、その爽快さに魅せられたのではないか。

逆に「十二国記」を先に読んでしまった私がもう読みたくないと思ったのは、ある種のやるせなさを感じたからだろうと思う。
私が最初に読んだのは、「月の影 影の海」だったが、陽子の凄絶な生き様やその後の感動は別として、気になったのが最初の部分だった。
杉本をいじめるクラスメートがいる、いじめられる杉本がいる、そしてどっちつかずの陽子がいる。
陽子はクラスメートには体よくあしらわれ、杉本には疎まれる。

陽子はどちらにも全否定されてしまうのだが、私はそれがとても悲しかった。
八方美人であろうが、偽善者であろうが、陽子は少なくとも努力した、なのに報われず、それどころか一番の嫌われ者となっている、その理不尽。
ところがその陽子が当然ながら主役として大きく生き様を変えていく。
陽子に課せられた試練はあまりに厳しくて、それすら読むのが辛いのだけど、最後に陽子は王となる。

慶国の王というだけでなく、自らを統べる王となる。
そこに大きな感動があるのだが、著者はこのクラスメートや杉本は一顧だにしない。
もちろんこれは陽子の物語なのだから、彼女達にも生き様を変える機会を与える必然性はないし、綺麗事に収まるだけかもしれない。
でも「十二国記」があまりにリアルな人間を描く物語であるだけに、読者として彼女たちをきっぱり見捨てることはできなかった。

彼女たちは物語の中で、自らを省みる機会を与えられることもなく、「愚かなまま」消えて行く。
それがなぜこんなに寂しいかというと、いじめこそしないけれど、私は彼女たちと同じ場所にいるのだから。
彼女たちは小説の中の登場人物ではなく、リアルな私自身だから。
そう思わせるリアルさがこの作品にはある。

そしてこの想いは「十二国記」を読み進めるにつれ、強くなっていくのだが、それがピークに達したのが最後に読んだ「魔性の子」だった。
迫害する人々、阿る人々、そして特別な「誰か」になりたい人。
もちろん自身を異邦人とはしないが、もっと平凡で、でも奥深い部分で他の誰とも違っていたいという傲慢で浅はかな思いを抱えているのだろう、私は。
だから広瀬に救いようのない惨めさと苛立ちを感じ、感じさせたままで物語は終わる。

汕子と傲濫によって壊された世界も、最後の最後に壊されてしまった広瀬の人格も、もはや省みられることはない。
「十二国記」は「十二国記」の世界に移り、「私の世界」は切り捨てられる。
「十二国記」だから、「小野不由美」だから感じるこの苛立ち、「ファンタジー」の枠には収まり切らないこのリアルな苛立ちこそが、「小野不由美」の持ち味である。
「屍鬼」もそうだった。

もし「魔性の子」を先に読んでたら、もしかしたら私はシリーズの中で一番好きな作品になっていたかもしれない、と思うと返す返すも残念だ。
もうひとつ、「魔性の子」は菊地秀行氏の解説も見事である。
私がうまく言えないことを、見事に解説してもらった気がした。

最後に作品を離れてやはり言っておきたい。
すでに絶版になり、さらにリライト版で出された悪霊シリーズ(ゴーストハントシリーズ)はともかく、既刊の「十二国記」を今改めて出版する意味はあるのか。
確かに山田章博氏の新規イラストは嬉しいが、それなら画集なりイラスト集なりカレンダーなりで出して欲しかった。
「月の影 影の海」からの文庫本は3冊ずつ揃えることになる。

なら買わなければいいのだが、そこは読者の哀しい性で買わずにはいられない。
この冊数が全て新作だったら倍の値段でも躍り上がって喜ぶのだけれどなあ・・・とすでに入れる隙間のなくなった本棚を恨めしく見ている次第である。
(2012年7月16日の日記)
鬼談百景
小野不由美9年ぶりの新作登場を知った時、あえて一切の情報を拒否したので(笑)、実際に手に取るまで私が知っていたことと言えば

・7月20日2冊同時発売
・十二国記とは関係ない
・ホラー長編

これだけだった。
最初に読んだのは「残穢」だったが、感想を書く前に「鬼談百景」の帯に「鬼談百景」の中の一話が「残穢」とリンクするとあったので、もったいなかったけれども「鬼談百景」も一気読み。
感想も「鬼談百景」を先に書きたくなった。

作家小野不由美が読者に募った「怖い話」を集めた実話集で、「幽」で連載されていたものに新作18編を加え、全99話が掲載されている。
その中の「お気に入り」が「残穢」にリンクする、いわゆる元ネタである。
こう来るか、と思った。
私が新作ホラー長編と聞いて想像したのは、「屍鬼」や「黒祠の島」のような物語だった。

想像というより期待と言った方がいいか、つまり実話を元にしたとしても、恐怖の描写を膨らませ、架空の物語でしか味わえない大仰な恐怖を与えてくれることを期待していた。
ところが作者はこちらの意表をついて、実際にあった(と時には読者が感じただけの)物語を淡々と綴る手法に出た。
「鬼談百景」はまさに読者から寄せられた鬼談の紹介、それのみである。
作者の感想や検証など何もない。
検証は無理だとしてもちょっとした感想や届いた当時の状況などは書いて欲しかった。
「残穢」はその中の一話を取り上げて、実際に作者が行ったであろう検証をドキュメンタリータッチでまとめたレポート形式の「小説」となっている。

ところで私、子供の頃からホラー好きで、実際に心霊スポットに行ったりすることはないが、本や映画、夏に流行る体験物のバラエティーなどにはかなり馴染んできた。
それだけにホラーに関する「怖がり感性」はかなり麻痺していて、書評や映画の感想によく出て来る「思わず後ろを振り返った」とか「夜に眠れなくなった」などの思いは残念ながらしたことがない。
(スプラッター系の痛い描写は苦手だが)
漫画「ゴーストハント」を夜読んで眠れないと泣き言言ってた妹がうらやましかったくらい。
それだけに淡々と綴る中に時折ぞくっとさせる筆致はさすがと思いつつ、淡々と読んだ。

中には京極夏彦や宮部みゆきを彷彿させるものや、「あっ、 これテレビでよく見るタイプだ」とくすっと笑ってしまうものまで多種多様な怪談が収められている。
作者は「お気に入り」を除いて、深く検証することなく、読んでおもしろかった、怖かった、あるいは興味を惹かれた時点で選んだのだろうと思わせる。
作り話などと言うつもりはないが、たとえば「思い込み」「勘違い」など幽霊話でありがちな錯覚も混じっているのではないだろうか。
作者の目的は怪談の検証ではなく、どんな怪談が集まるか、あるいはどの年代、どの地域、どの世代からどんな怪談が出て来るか、そういった統計的な部分にもあるのではないかとも思わせる。

少なくとも作者は掲載れている怪談を実話とは認定していないし、偽物と決めつけてもいない。
この辺のスタンスが「残穢」で記されていて興味深かった。
私は「残穢」を先に読んだが、できることなら「鬼談百景」を先に読む方がいいように思う。

さて、私が読んだ中でのお気に入りは

・マリオネット(描写のえぐさ)
・一緒に見ていた(いわれのない恐怖)
・遺志(いい話)
・どろぼう(確かめたくない恐怖)
・芸者(幽霊がびっくりして飛びのいた)
・狐狸の住処(もののけ風)
・影の手(場慣れしている母親がいい)
・たぶん五匹(ほのぼの系)
・グリコ(なぜか笑えた)
・ひろし(某漫画のお父さんを思い出してこれも笑えた)。

特に「芸者」は幽霊の方がびっくりしたなんて、作り話では絶対あり得ないシチュエーションに大笑いした。
錦糸町にロッテのホテルがあるが、グリコでも系列ホテルがあるんじゃないかと探してしまったのは私だけじゃないと思う。
逆にトンネル系や学校の七不思議系は、今の時代だとちょっとありふれてるかな?って気になる。
「金田一少年の事件簿」や「絡新婦の理」など取り上げられている作品も多いし。
ただこの怪談募集が始まったのが悪霊シリーズのあとがきで、私の記憶に間違いがなければ第1作「悪霊がいっぱい」だったと思う。
(国立図書館で一度読んだきりなので記憶が朧・・・)

だとすれば1989年、昭和から平成に変わった年の7月の事である。
それから23年、当時から現在まで作者の元には怪談が集まり続けているのだろう。
できれば各怪談が作者の元に届いた年や投函された場所なども知りたかったなあ。
差しさわりのない範囲では書かれてあるものも中にはあるが、やっぱりまずいか・・・。

ちなみに作者のお気に入りは「白い画布」「海に還る」「胡麻の種」「禁忌」だそうだ。→「こちら
さて「鬼談百景」に収録されている怪談は99話。
残り1話が「残穢」かと思っていたが、そうではないので、残り1話は読者に任せられているのだろうか。
困った。

ホラー大好きな私だが、身近に恐怖を感じた心霊体験は皆無。
できることなら怪談を経験して小野先生の元に送り、できることなら小説のネタにしてもらいたいのだが・・・。
それにしても小野先生、インタビューにも顔を出さず、読者とは距離を置く作家と失礼ながら思っていたのだが、こんな形で読者と絆を作るタイプだったとは。
「残穢」の描写と共に、今回は目から鱗の場面が本の内容とは関係のない部分で多かった。

ただやはり、待望の新作長編がこれではちょっと・・・という気持ちはある。
2冊のうち「鬼談百景」だけがこのタイプで、「残穢」がもっと濃密で完全な?物語であったならさらに満悦できたと思うのだけど。
それから「鬼談百景」は表紙がいい。
私は本はカバーを取って扱うのが基本だが、この本はカバーを取った表紙の方が好き。

余談だが、悪霊シリーズもリライト版が出てからずいぶん安くなったものだ。
以前は何千円〜万単位で中古で売ってたような気がするのだけれど・・・。

もうひとつ、悪霊シリーズの続編「悪夢の棲む家 ゴーストハント」が7月28日発売のARIA9月号(講談社)にて、いなだ詩穂漫画化隔月新連載スタートとのこと。
これは嬉しい。
当時「読者に受け入れられなかった」この続編を漫画化することを許可したのなら、今の読者には受け入れられていることを認めたのだと思いたい(笑)。
悪霊シリーズリライトも済んだ、十二国記新作も書いた、十二国記とも悪霊シリーズとも関係ない新作も書いた、で、次はいよいよ「ゴーストハント」新作を是非!

最後にアニメ「十二国記」が8月2日より一挙放送!→「こちら
こちらも嬉しいプレゼントかも。
(2012年7月31日の日記)
7月15日 はこ
子供の頃からホラーが好きで耐性が高いせい、というより感性が鈍いのだろう。
文章で読む心理的なホラー小説よりも、映像で見るストレートなホラー映画に反応する(笑)。

小野さんには「屍鬼」や「黒祠の島」、「東亰異聞」などその両面を刺激してくれる作品が多い。
反面「くらのかみ」や今回の「はこ」などは児童向けだし、それほど怖くない・・・はずだった。
でもこの何て言うのかな、「怖い未来」というより「痛い未来」を予想させる終わり方は怖いというより痛いよね。

子供は怪談好きだけど、子供に怪談はどうなの?って議論は(見た、聞いた)読んだことがない。
怖い話を聞いたり、怖いテレビを見て眠れなくなったり、そういった経験が子供に悪影響を及ぼすのでは、といった 問題提起があってしかるべきだと思うこともあるが。

ちなみに私は作品を選べばいいんじゃない?でもあえて読ませは、見せはしない派だろう。
そんな中出た、そうそうたる顔ぶれによる怪談えほんシリーズ。
怪談えほん公式サイト」に そんな私の疑問に対する答えが掲載されていた。

このシリーズ、一通り読んだけど、やはり「小野不由美、宮部みゆき、京極夏彦」は私の中で馴染みがあるせいか 読みやすい。
ただ、子供の頃を思い出して怖いと思ったかというと、普通におもしろい本で終わってしまった。
やっぱり感性が鈍いんだろうなあ・・・。
(2015年7月15日の日記)
7月8日 「私の本棚〜小野不由美」
「私の本棚」に掲載されている小野不由美さんの「すべての本を一列に並べよ」を読んで圧倒されてしまった。
以前何かで見た京極夏彦さんの書斎も凄かったし、まあ本好きな人が本を買い出すとこうなるんだろうなあという見本。
それにお金があって空間があって、本その物に対するこだわり(内容じゃなく物体としての本)があるのが作家なのか、 たまたま作家だから見る機会があるだけで、世の中にはさらに凄い本持ちがいるのか、とにかく凄い。
凄いとしか言いようがない。

今回は小野さんがテーマだから小野さんについて書くと、小野さんは「終の棲家」として家を建てたらしい。
まず夢や理想をあれこれと並べ立て、次に現実を見て考え直す。
最終的に小野さんの目的は次のようになる。

「書庫には、転居当初の段階で、全ての棚に本が並ばなければならない。
これが至上命令だ。
さらに可能なら、せめて小説と資料と漫画くらいは本棚を分けて、きちんと分類できるようにしたい。
できればそれを判型ごとに分け、空間を最大限有効利用したい。」

この後の小野さんの奮闘が凄い。
本をサイズ毎、ジャンル毎に揃うよう、棚の本を整理し、床に溢れた分は並べてそれぞれ測ったというのだ。
小説文庫の総延長は64、630ミリ。
このように理想の書庫を作るための小野さんの戦い?が続くわけだが、読んでいるうちに思考が別の方に向かってしまった。

小野さんはとにかく「こだわる」人なのだろう。
「十二国記」を読んでいても思ったけど、その発想や展開は無限だけど、その設定や世界は緻密。
本を書く人なら当然のことだとしても、小野さんの場合、特に厳しいのではないか。

私の友達に「営繕かるかや怪異譚」や「はこ」や「残穢」などどんどん書いてるのに、どうして「十二国記」だけ書いてくれないの?と 先日泣き言を言ってきた人がいるが、「十二国記」は他作品とちょっと違う気はする。
他作品はある程度の知識と情報があれば、基本設定はさほど難しいものではない。
(もちろん他作品を軽く見ているわけではない、念のため。)

「十二国記」は基本となる設定や世界観が複雑すぎるのではないか。
物語が進まないのではなく、設定で曖昧な部分、昔の「十二国記」にあったミスの部分などを見つけると矢も楯もたまらなくなるのではないか。
そこから設定し直すためになかなか進まないのではないか、書くのが大変なのではないか、そんな風に思うのだ。
できることなら「十二国記」もリライトしたかったのではないかと思えるほどこだわる作家のような気がする。

そうやって「十二国記」を書く作業ははたして楽しいだろうか。
「丕緒の鳥」以降の作品が「十二国記」世界を大きく捉えたものではなく、部分的に切り取った形に思えるのは、設定の複雑さが気にならないせいでは ないだろうか。
たとえば泰麒のその後を書くなら、まず十二国記の世界とシステム、戴と少なくとも雁、慶をきっちり再構築する必要があるのではないか。
小野さんはそんな風に思っているのではないだろうか。
「華胥の幽夢」以降のブランクはそれほど長い。
作家としての成熟もむしろ「十二国記」の足を引っ張っている気もする。

小野さんの「生みの苦しみ」は想像するしかないけれど、そう思えばアナウンスされてからさらにこれほど待たされることも苦にはならない。
私が寂しいのは、新潮社の「十二国記公式サイト」の態度?である。
昨年12月26日以降ずっと更新がなく、6月20日にやっと更新したかと思ったら「残穢」の映画化、文庫化のお知らせだった。
(「十二国記」にも触れてはいるが。)
完全版が出るまでの更新頻度を思えば、あまりにも「宣伝のためのサイト」にしか思えないし、実際そうなのだろう。

でも執筆情報がなくてもいいい。
せめて1ヶ月に1度でも、「今月は寒いですね。」とか「今年もよろしくお願いします。」とか、その程度でいいから書き込んでくれてたら、と思う。
これほど待たされるとは正直思ってなかったので、そんなファンをもう少し思いやって欲しかった。
今後も「残穢」映画の情報だけがどんどん更新されて行くんだろうなあ。

ちなみに「ゴーストハント」は今「営繕かるかや怪異譚」の形で受け継がれているのかな?と思っている。
話がそれたが、この本には祖父江慎さんの文章もあって、「ピノッキオ」に対するこだわりがおもしろかった。
みんな本が好きだなあ。
私はむしろ子供の頃の方が本好き、雑読だったと思う。
今は興味のあるジャンルしか読まなくなった。
これは良くない、絶対良くない。
(2015年7月8日の日記)
4月10日 アニメ「屍鬼」
録画はしたものの、そのまま封印していたアニメ「屍鬼」をたまたま見始めた。
封印していたのには理由がある。

「屍鬼」が漫画化されると聞いた時は喜んだ。
私は「三国志」関係のゲームで遊ぶので、「藤崎竜」の名前は安能務訳「封神演義」を漫画化した人として知っていたが、 絵は見たことなかった。
そんなある日、書店で大きなポスターを見た時の驚き。

今思えばあれは夏野だったのかな?
アニメキャラの中では無難な、というよりむしろびっくりするほどかっこいい少年だったけど、大胆なタッチで色もクリア、 なんか「屍鬼」のイメージじゃないなあと思い、買わなかった。

その後のアニメ化。
公式サイトを見て、改めてキャラ絵を見て呆然。
私が大好きな国広律子の髪がなぜピカチュウのしっぽみたいになってるの?
辰巳はなぜ猫耳なの?ポケモンですか?
一応録画はしたものの、正直な話、見る気にはなれなかった。

そして最近、家計簿つけながらDVDケースに手を突っ込んで、適当に1枚選んだDVDが「屍鬼」だったのだ。
心理的拒否感は相変わらず強かったけど、とりあえず見始めた。
最初に「へえ」と思ったのが、普通の村人が普通に描かれていたこと。
夏野や徹は嘘みたいにカッコいい。

恵や正雄はそのデフォルメぶりが、彼らの内面をそのまま表現しているみたいに合っている。
もしかして、アニメに出てくる異形の人たちは、その「人ではない」ことの設定を絵にしたもの?
普通に描けるものを、あえて特殊なビジュアルにした理由があるのだろうか。
そう思ってはみても、やはり正志郎やその他違和感はぬぐえない。
悶々としつつも見続けて行ったが、だんだん絵を通り越して物語そのものに引き込まれて行った。

原作の生理的嫌悪感を感じるような陰鬱な描写を、直接的な暴力描写に切り替えている。
そのために、原作よりも屍鬼側の痛み(体も心も)に共感しやすい。
意識して入れたのだろうが、血まみれの手でおにぎりを食べる村人たちのシーンには、鳥肌が立った。
恵の最後より怖かった。
結果的に勢いで見せられたということだろうか。

藤崎さんのキャラも、慣れたのか後半にはそれほど気にならなくなった。
が、当時漫画化にあたって、小野さんが藤崎さんを指名したのか、何かコメントがあったのか調べてみたけど見つからなかった。
このアニメ(漫画)がキャラの立ち位置を具現化したものとすれば、ある意味凄い冒険であり、成果だったのかもしれない。

私が気になったことは2つ。
まず、原作では死んで蘇らなかった夏野が人狼として蘇る。
個人的には嬉しい。
でも「いい人だから最後に勝つべき」「主役だから生き残るべき」という読者の予想を裏切る形で夏野を死なせ、中途半端な 読後感を与えるのは、ホラー小説の手法のひとつ。

B級ホラー映画なども見ていて、どう見ても危機感のない愚か者が最初に1人離れた行動をとって殺され、どう見ても主役な1人が生き抜くのがお約束だが、 「屍鬼」で夏野を殺したことは、残された不安と共に、原作の非常に優れた部分だと思う。
アニメ(漫画も)ではその夏野を、起き上がりでもなく、死亡でもない人狼として、ヒーローとして蘇らせた。
見る側もすっきり落ち着き、安心して見られる。

でもこれは、小野さんの狙った効果を削いだもの。
少年青年対象雑誌掲載という「枷」のせいか、心理的恐怖小説であった原作を、アクションホラーに変えるべく変えたのかはわからない。
でもおかげで、「屍鬼」がものすごくわかりやすい作品になったと思う。
原作では、私は夏野を失った、普通に生き抜くべき主役を失った不安感を最後まで拭えなかった。

そして傲慢にも、私は最後の場面も変えられているだろうと思っていた。
そう、静信と沙子の部分である。
富雄に殺されそうになるも静信に救われる。
でもそこで自分が生きていくために失われる多くの存在に改めて目覚め、あえて死を選ぶみたいな。

静信も寄り添ってくれたら沙子も安らげよう。
屍鬼となってしまったのは沙子の罪ではない。
沙子には死ぬ権利も殺される権利も罰せられる権利も許される権利もない。
では沙子には大勢の人を犠牲にする資格はあるのか、己が生き抜くために。

そこをあえて綺麗にまとめなかったところに「屍鬼」の怖さがある。
沙子は以前のような大所帯はもう願わないだろう。
静信がいればそれでいいはず。
けれど生きていくためにはやはり犠牲は必要だ。

人一人の血を吸い、蘇らないように確実に殺す。
放浪しながらそんな行為を繰り返す。
それは何に対する罰なのだろうか。

沙子と静信が逃げ延びたことで、読者はまた大きな不安を抱え込みながら本を閉じることになる。
中途半端な終わり方とも捉えられよう。
アニメがそこを描ききるとは思わなかった。

これは作者の強い意向があったのか、制作側が最初からその覚悟を決めていたのか。
原作を知らないで見ると、かなり抵抗ある終わり方ではないかと思う。
当時の反応も知りたいところだが、漫画もアニメも出たのはかなり昔の話。
Amazonの評などで少しは感想読めるけど、やっぱりリアルタイムで見るべきだったなあお今頃後悔している次第。

でも今後も漫画は読むことはないと思う。
原作、アニメ、漫画とまた違いがあるらしいので気にならないことはないけれど。
(2015年4月10日の日記)
12月9日 恐怖の向こう側にあるもの
「営繕かるかや怪異譚」読了、というか三読した。
「奥庭より」「屋根裏に」とうまく入り込めず、我ながらぎこちなく読んでいたが、「雨の鈴」あら勢いがつき始め、 「檻の外」まで一気に読み切った。

短編集を読まないわけではないが、宮部みゆき、池波正太郎などの豊かさとは違った意味での切れの良さには 時折付いて行けず、読むのに苦労することがある。
他にも京極夏彦もそんな感じかな?
読み慣れると勢いづくんだけど、それまでちょっと苦労する。

全6話の中、特に印象に残ったのが「異形のひと」と「檻の外」だった。
「営繕かるかや怪異譚」の中でもこの2話は、怖さの向こうに人を怯えさせる存在になってしまった「人」の悲劇性が強い。
虐げられた老人、虐げられた子供。
ひとつ間違えば自分がそちら側に行ってしまうかもしれない、もしくは自分が誰かをそちら側に追いやってしまうかもしれない。

私達の生活の中で、あまりに身近なその境が、他のホラー物とは違ったリアルな怖さを生み出して行く。
絵空事ではなく、他人事でもない「小説」であることが「営繕かるかや怪異譚」の個性ではないかと思う。

最後まで尾端の素顔?正体?はわからなかったが、今後も連載続くのかな?
漆原さんの絵、尾端は普通の青年だったが、背景がまさに「小野不由美=営繕かるかや怪異譚」の世界観を そのまま描いているようで素晴らしかったと思う。

「蟲師」を絶賛していた宮部みゆきさん、「私も漆原さんに描いて欲しい〜」とかねだっていそう(笑)。
でも宮部さんの世界はまたちょっと違うからなあ。
もうちょっと茜色に近くてもうちょっと明るい。
(2014年12月9日の日記)
12月6日 営繕かるかや怪異譚
小野不由美さんが郷里である大分県中津市を舞台に書き上げた新作「営繕かるかや怪異譚」。
まず「営繕」がわからなかったが、調べたらなんと、国土交通省にたどり着いた。
「営繕」とは、「建築物の営造と修繕」のことをいい、具体的には、建築物の新築、増築、修繕及び模様替などを指す。
「かるかや」は「刈萱」と字を当てていいのだろうか。
「カヤ(草)の総称」とある。

あえて一切の情報を仕入れずに楽しみに待っていた。
大事に大事に読んでいるので、まだ「奥庭より」と「屋根裏に」しか読んでいないが、その時点での感想を。
最初に「ゴーストハント」と「鬼談百景&残穢」の間に位置する作品か?と思った。

「ゴーストハント」は当時の最先端を行くゴーストハンター、というより超心理学者のナルことオリヴァー・デイヴィスが「具体的」な 超常現象を扱い、解決して行く。
科学的に解明できない存在が現れたり、超能力も出たりとその超常現象はかなり明確な形で描写されている。

私もこのシリーズの続編を望む者だが、希望はともかく続編を書くのは難しいだろうなと思っていた。
これだけ科学やネット社会が進んでほとんどの超常現象が否定されている中、当時のままの設定だとかなりレトロな世界になりそう。
かといってナルや麻衣が大人になって現在の最先端技術を使ってゴーストハントと言うのもちょっと苦しい。
ここが時代小説やファンタジーとの違いで、「鬼談百景」を読んだ時も、なんとかしてこのネタを「ゴーストハント」に生かせないんだろうかと 悶々していた。

「鬼談百景&残穢」は「ゴーストハント」とは全く別物で、こちらは現代の超常現象を扱う。
この言葉はちょっと合わないが、目に見えない恐怖、はっきりしない恐怖など「具体的でない」現象の恐怖をしんねりと描いて、結論を出さずに むしろ投げ出したような結末がリアルな怖さを煽っていた。
私達が実際に経験するかもしれない恐怖。

ところが今回この「営繕かるかや怪異譚」を読んで自分の中ですとんと腑に落ちた。
「鬼談百景&残穢」+「ゴーストハント」=「営繕かるかや怪異譚」ではないだろうか。
相手は怨霊や超能力者ではない、もっと得体の知れない恐怖、現在に蠢くリアルな恐怖である。
そしてそれを解決するゴーストハンター=「営繕 かるかや」の尾端(おばな)がナルだ。

全く異なるキャラながら、新たな形で現在のゴーストハンターとして蘇った、そんな気がした。
そしてここに漆原友紀さんが登場する。
蟲に翻弄される人たちを助け、癒す蟲師ギンコの生みの親。
絵の雰囲気だけでなく、尾端とギンコ、2人のつながりも意識したのではないか。
なんてことをつらつら考えながら読んだ。

「鬼談百景&残穢」に比べて小説よりということで、リアルな怖さは薄れている。
はっきりした形ではないけれど、それなりに解決したということで「鬼談百景&残穢」よりは読後感に余裕がある。
怨霊ではなく雰囲気勝負と言うことで、「ゴーストハント」よちはリアルである。

そんなこんなで「営繕かるかや怪異譚」はこれまでのホラー系(「屍鬼」などは除く)の集大成という気がした。
それにしても小野さんの描く和風ホラーは好きだ。
最初舞台が京都か?と思った薄暗く湿った感じ、他にイメージするのは木造家屋、陽射しが強ければ強いほど濃くなる影など。

まだ最後まで読んでいないので、尾端の正体が作品内で明かされているのかどうかわからないが、怖さのわりに起承転結がないというか、 似た雰囲気の話が続くので、シリーズ化するならもう少しメリハリをつけて欲しいかも。
もうひとつ、思い出したのが京極夏彦さんの「書楼弔堂 破暁」。
構成というか、素人が悶々とする問題をプロが出て来てさらっと解決するところ、最後のまとめ方など似ていると思った。
私の好きな構成だ、続編が楽しみ。

でも「尾端」と書いて「おばな」と読む。
最初「おばた」かと思ったが、あえて「おばな」と読ませているのには何か意味があるのだろうか。
中津市では多い苗字とか?
(2014年12月6日の日記)
9月16日 「十二国記」画集「久遠の庭」
山田章博さんの「十二国記」画集「久遠の庭」第一集買いました。
「1991年から2006年発表の装画、挿絵、関連商品イラストを中心に未発表品、描き下ろしも加えたカラー27点、モノクロ68点、全95点の完全収録」となっています。
当然メインは「十二国記」完全版の表紙や挿絵でしょうが、その他はカレンダーくらいしか買ってないので、知らない作品も多く、楽しめました。

通して見ると、絵の雰囲気もその時々でかなり違いますね。
柔らかい雰囲気、可愛い雰囲気、厳しい雰囲気等々、同じ「十二国記」の同じキャラでも、描かれた時期によって変わるのでしょうか。
とりあえず表紙の陽子の豪華な雰囲気にため息です(笑)。

あと目次の尚隆と楽俊が可愛過ぎる!
その後ホワイトハート文庫の表紙絵が続きます。
「図南の翼」の表紙を見るたび気になるのが、珠晶が乗ってるの、星彩ですよね?
ただの虎(黄色と黒のしましま)になってるのはなんでだろ。

それからホワイトハート文庫の挿絵(モノクロ)ですが、楽俊が普通にネズミっぽい?
あと24ページの描き下ろしの珠晶が大人っぽくなって、「今の」珠晶っぽくて好きです。
逆に28ページのやはり描き下ろしの青猿はかなりシュール。

32ページの「月の影 影の海」で景麒(獣形)を抱える陽子と、33ページ、泰麒の入った卵果を失う瞬間の汕子の挿絵はどちらも取ってもお気に入り。
でもベストカットは39ページの描き下ろし楽俊!
なんていうか、赤ちゃんみたい!
つぶらな瞳が可愛いです。

もう1カットずつ感想を語りたいところなんですが(笑)、実は「十二国記」を読み始めた頃は、このイラストが苦手で、イラストのない文庫版ばかり読んでいました。
表紙が可愛い(綺麗)なので、小野不由美物なのになかなか手が出なかったという、今ではそんな自分が許せない!思い出もあります。
山田さんの「念白 はじめに」に興味深い記述がありました。

          ☆           ☆           ☆          

「十二国記」は安逸遊冶な夢物語ではない。
だからこそ少女向けレーベルに入れる意味があると説得されて、僕の役目はおのずと決まった。
この小説を出来るだけポップに見せかけることだ。

−(中略)−

物語本位で考えれば、もっと凛烈で森厳な絵柄の方が相応しかろう。
けれど敢えて漫画的な手法を選んだ。
結果的にどこからも浮いていたことは否定しない。

          ☆           ☆           ☆          

さらにこんな絵がついていたばかりに食指が動かなかったという読者には申し訳ないと続け、後に新作が出るとホワイトハートに先行して、絵の無い講談社文庫版が出版されるようになったと結びます。
講談社文庫の売れ行きは、挿絵すら必要としない事を証明しつつも、未だに描き続けているのはなぜだろう、この世界の天帝に訊いてみようなんてちょっとお茶目な文章に笑ってしまいました。

この短い文章の中に難しい言葉がいくつか出て来たので調べてみました。
「安逸遊冶」は、一瞬「安逸遊惰」では?と思ったけれど、ちゃんとあって、「安逸」は「気楽に過ごすこと。何もせずに、ぶらぶらと遊び暮らすこと。また、そのさま」、「遊冶」は「遊びにふけり、着飾ること」です。
確かに「十二国記」はそんな物語ではありません。

「凛烈」は「寒さが厳しく身にしみいるさま」、「森厳」は「きわめて厳粛でおごそかなさま」です。
なるほど、少なくとも山田さんが描く「十二国記」は違いますね。
表紙で当時の「ティーン」の少女を惹きつけ、手に取らせたらこっちのもの、読みさえすれば感動することは間違いないないのだからという当時の編集部の意図がうかがえる文章でした。
でもそのイラストがこうして受け入れられ、アニメやゲームになり、山田さんが描き続ける事には何の不思議もありません。

天帝じゃなくても答えられます(笑)。
可愛いだけじゃなく、綺麗なだけじゃない、山田さんの絵が「十二国記」の世界観をきっちりと表現しているからだと思います。
特に陽子や驍宗が妖魔と戦う時の舞うような動きの美しさ、かっこいいだけじゃなく、味のあるキャラの描き分け。
キャラで読者を釣る作品とは一線を画したきっちりした世界なのです。

ただ山田さんがそれ以前に「魔性の子」を手がけた時のことも書いて欲しかった。
「十二国記」が後に出ることを知っていたのか、いえ知らなかったから「十二国記」とは違うリアルな画風なのかと思いますが。
その後「十二国記」を手がけた時に、「魔性の子」の画風をそのまま続ける気は、本人はなかったのか、などなど。

絵の方に戻って、初めて見る北米版のイラスト。
表紙もモノクロなんですね。
キャラの顔が日本版よりきりっとしてます。
私、この北米版の顔が好きだなあ。

最後は関連商品。
ポストカードやカレンダー、ゲームのイラストは持ってますが、買った当時を思い出して懐かしいです。
今後第二集「青陽の曲」が出ますが、やはり思い入れという点では「久遠の庭」かも。
原画展見に行きたかったなあ・・・。
(2014年9月16日の日記)
4月20日 「ゴーストハント」に思うこと
「ゴーストハント」の番外編掲載の「ARIA」を買いました。
この雑誌のこと、初めて知りましたが、Wikipeiaによると、「コンセプトは良質な奇想天外。
キャッチコピーの非日常的ガールズコミックに基き、恋愛の枠に収まらないファンタジー要素のある少女漫画が多く掲載されている。」のだそうです。
今大人気の「進撃の巨人」掲載雑誌ということでも有名らしい。

先日買った「プリンセスゴールド」もそうでしたが、今時の少女漫画はこんなにぶ厚いのか?
サンデー慣れした私はこの厚さと重さに度肝を抜かれました(笑)。

実は「サイレントクリスマス」のような番外編を期待していたのですが、残念ながらそうではなくて、コミックス第2巻発売記念!スペシャルショート「悪夢の棲む家」でした。
コミック1巻のあとがきまんが「俺の非日常的日常に関する考察」のような、短いけれど笑えるミニ漫画ですね。
ナルが帰国している間、代理社長の森さんと楽しく過ごした麻衣。
部屋は可愛く飾り、森さんと毎日お菓子三昧、ふっくらしたことをぼーさんに突っ込まれる麻衣。

「ゴーストハント最終話(ナルの帰国の理由となった事件)」と、「中庭同盟」掲載の「GENKI」を思い返しながら読むと、笑える中にも感慨深いものがあります。
ジーンの死体発見、ジーンとの別れ、そしてその後の麻衣の想い。
森さんの存在は、傷心の麻衣にとってある意味最高の癒しとなったのかもしれませんね。
この本とコミック2巻の応募券を貼って応募すると、いなだ詩穂さんの描き下ろし「暑中見舞い」が「応募者全員」に届きます。

さてこれまで何度も書いてきたように、「ゴーストハント」シリーズは「悪夢の棲む家」以降書かれていません。
小野さん自身、「ゴーストハントシリーズが前作・悪霊シリーズのファンの望む物語と違っていた」、「ファンの望む物語は書けない」と明言しています。
でもこれまた何度も書いたように、「今のファンがゴーストハントシリーズを望んでいる」ことを受け入れたわけですから、だからこそ今こうして漫画化され、盛り上がっているわけですから、ファン云々で続編を書かない理由にはならないと思います。
というより普通に書いて欲しい。

どうしてこんなに書いて欲しくて仕方がないとかというと、もちろん魅力的なキャラ、ホラーだけどおもしろいストーリーなどいろいろあるけれど、私が一番気になるのはジーンの存在です。
ジーンが「悪夢の棲む家」に出て来なかったら、ある意味私の中でも終わりを認める気持ちもあったかもしれない。
ジーンが成仏?というより永遠の眠りにつく、と言っておきましょうか、そのチャンスはただ一度、死体が見つかった時でした。
そしてジーンは麻衣に別れを告げ、眠ったように見えました。

ところがそのジーンが、実は眠っていなかった、まだこっちの世界をさまよっている。
ジーンが望んでいるわけでもない。
眠りにつくただ一度のチャンスを逃してしまったジーンをどう扱うのか、どう決着をつけるのか、それが気になる。
だから続きを読みたい、出て欲しい、その想いです。

霊界、幽霊などとの交信物は数あれど、このような形で、つまりリアリティを持って現実の人間と関わらせる、あまりない物語だと思います。
物語を進める素材はたくさんあるはず。
「鬼談百景」を読んでも、「ゴーストハント」のネタになりそうな話はごろごろしています。
今こそ読者の想いに応えて続編を!

と思ったのですが、小野さんには「十二国記」も書いて欲しいんですよね・・・。
で、思いついたのが本は無理でも、「サイレントクリスマス」のように小野不由美原作(原案?)の物語をいなださんに漫画として続けてもらうのはどうでしょう。
原作に負けない実力と人気と勢いのあるいなださんに丸投げ、じゃ言い方は悪いか、お願いして、小野さんはとりあえず十二国記に専念してもらう。
一段落したらゴーストハントの原作を書いてもらう。

ちょうど映画の後でノベライズが出るような形になりますが、原作者だしいいんじゃないかと。
そしてそれが落ち着いたらまた「十二国記」。
もちろんこの2シリーズ以外の本も読みたいし、といった想いを私は葉書きに延々と書き連ねました。
正直言って今の商法に思うところもないではないけれど、それで小野さんの背中を押せるなら投資しよう、の気持ちです。

あっ、そうだ。
今月号では「悪夢の棲む家」あぶらとり紙プレゼントもありましたよ。
こっちは10名様ですが。
(2014年4月20日の日記)
十二国記感想

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