十二国記感想 8
6月25日 青条の蘭
雁の話だった。
雁王延王尚隆も麒麟六太も、馴染みの人物は誰一人出て来ない、でも確かに雁の話だった。
雁ならばあり得る、結末がこのように書かれていても、「あの後」どうなったかがたやすく想像できる、雁ならば、尚隆ならば。
見事な物語、感動よりも感銘、そして同等のもどかしさ。

「丕緒の鳥」もそうだった、「落照の獄」もそうだった。
見事な物語、でも話が進まない。
物語は深化し、でも読者は「その後」の慶が、雁が、戴が、他の国々がどうなったのかを知ることができない。
これからも「十二国記」をどんどん書き続けてくれる保証がない、とおそらくみんな感じているだろう。

約束されている長編一作では、全ての国を網羅することはおそらく無理。
ならば短編でも「その後」が知りたい、おそらくほとんどの読者が抱えているであろう想いに応えてもらえないもどかしさ。
とはいえこれまでの3つの短編が「書かれるべき物語」であることも十分納得できる。

「丕緒の鳥」は慶、「落照の獄」は柳、「青条の蘭」は雁、そして「風信」では再び慶。
「丕緒の鳥」前と「丕緒の鳥」以後は「十二国記」は大きく変わった。
「華胥の幽夢」も短編集だったが、王や麒麟など、本編でおなじみの人物が登場し、本編を補完する形で話が作られていた。
「丕緒の鳥」以降は主と据えられる人物からして違う、王でさえ出ても脇役に過ぎない。

でもそのもどかしさが「風信」で打ち砕かれた。
本編でさらっと書かれていたことが、実はこういうことだったと思い知らされる。

さて「青条の蘭」の感想。
タイトルを読んで、これは何かのたとえかと思っていたら、まさに蘭そのものだった。
まだ荒れ果てていた雁、ネタバレせずに書くのは難しいのだが、この国を救うための3人の人物が登場する。
国と書くのは大げさか、結果的には国を救うことになるのだが、3人はとりあえず民のために蘭を育て、王に渡そうと必死になる。

肉体的な疲労と苦痛、腐り果てた役人に苦しめられ、何度も絶望と失望の中に叩き込まれながら、途中から蘭は「命のリレー」のように民から民へと受け継がれていく。
この展開はちょっと驚いたが、安っぽい感動ものにならないのはさすがだと思う。
前述したように、王は出て来ず、3人はただ自分たちの苦労が報われたことを知る。
「丕緒の鳥」前の短編だったら、尚隆が出て来て3人の想いをしっかり受け止めていただろう。

この後3人がどうなったかを描くこともせず、「青条の蘭」は終わる。
もしかしたら「丕緒の鳥」以降の「十二国記」はファンタジーというジャンルを超えたのかもしれない。
たとえばここで尚隆や六太が出て来てしまったら、私たちはどうしてもこれまで挿絵やアニメで見たおなじみの顔が浮かんでしまうだろう。
でも「丕緒の鳥」で出てくるのは平凡でリアルな人の顔ばかり。

「十二国記」の舞台を借りた究極リアルな心情小説、それが「丕緒の鳥」なのかもしれない。
(2012年6月25日の日記)
6月27日 風信
「丕緒の鳥」は清廉で「落照の獄」は重く、「青条の蘭」は冷たい風に手足がきりきり痛むような気がした。
そして「風信」。

私がずっと思い続けていたこと。
どうして話を進めてくれないのか、「深化」ばかりで「進化」しないのか。
一作ごとに感動しながら読みつつも、どうしても拭い切れなかった不満が「風信」でさらりと消えた。
なぜだろう。

他三作は「十二国記」の一部分を「切り取って深化させた」気がした。
起承転結がないわけではない、でもそんな気がした。
「風信」で初めて「十二国記」の中のひとつの物語を読んでいる気がした。
「丕緒の鳥」前の「華胥の幽夢」に近いもの。

慶で予王が景麒に恋するあまり全ての女に嫉妬し、追放し、残った者は殺されたことに触れているが、「風信」で、追放された、殺された側の女たちを具体的に描いている。
なんて理不尽な、なんておぞましい所業。
「風の万里 黎明の空」でも蘭玉が登場するが、彼女は慶に戻ってからのことが中心となるので、ここまで克明に描かれてはいない。
空行師、王を守り、国を守り、ひいては民を守るはずの空行師が民を射抜く、的が男であっても構わない。

辛うじて助かった蓮花が「風信」の主人公。
しかし途中から物語の雰囲気ががらりと変わる。
まるで桃源郷のような、のどかで居心地のいい場所、いい人たちに出会い、蓮花はそこで暮らし始める。
小野作品によく出るタイプのしっかり自分を持った少女。

彼らの仕事を納得しながらも、世の現状とのあまりの違いにどこか違和感を感じている。
それでもそこでの生活は楽しく、心穏やかに暮らす毎日。
しかし、遂に「世の現実」が、空行師が追い迫ってくる。
人が殺され、蓮花は叫ぶ。

「目を逸らさないであたしを見て!家族を殺されて全部失くした。これが現実なの!」

それでもこの地の人々はこれまで通りの生活を続けて行く。
表面はまうで何事もなかったように。
本当は彼らだって現実から目を逸らしているわけではないのだが。
怒りを感じつつもその中に呑み込まれていく蓮花。
けれどもある日・・・。

「風信」にも新王陽子の「影」が時々かすめるが、お馴染みの人物はやはり出て来ない。
ただ、遠甫を彷彿とさせる嘉慶を初め、清白、支僑といった人物像が、どこか本編を思い出させ、馴染みやすく読みやすい。
浮世離れした人たちにしっかり者の蓮花が振り回され、時には大きな傷を抱える蓮花を嘉慶以外の男たちがおどおどと見守り、とくすりとさせられつつ胸が痛むことも。

つまり、あえて本編に触れず、あえて本編の人物を出さない手法から、どこか柔らかさ、読みやすさを出してきたのが「風信」ではないかと思う。
もちろん作品で言わんとすることが柔らかくなったわけではなく、そのメッセージは痛切である。
でもより本編に近づき、読みやすくすることで私のような頑なな「十二国記」ファンも受け入れやすくなったような、そんな気がする。

王であることはこれほど重く、民の生活にこれほど重大な影響を与える。
でも「風信」を読むと、そもそもなぜ舒覚が選ばれたのかという疑問に立ち返る。
陽子を殺そうとした塙王しかり予王舒覚しかり。

最初は2人とも務めを果たそうと努力している、でも果たせない。
巧や慶には彼ら以上に能力を持つ者がいなかったのか、そうは思えない。
王の選定基準に関しては本編でも触れられているが、彼らもまた断ることの許されない王としての重責を負わされた、悲劇の人物。
こうした全ての謎を明かしてもらうには、この後の長編一作では足りない、全然足りない。

それはともかく「風信」は希望を持たせる静かな結末を迎えるが、その頃の陽子の奮闘と照らし合わせて読めば、やはり大きな感動がこみ上げてくる。
「嘉慶」の「嘉」は「めでたい、ほめる、素晴らしい」の意味。
「慶」と合わせてなんて嬉しい名前だろう。

「支僑」の「僑」は「仮住まい」を指す。
この地に住まう蓮花のような人たちを支えつつ、民のためためにできることをして、ひいては王、まだ仮の王朝でしかない陽子を支える。

そして「清白」。
「品行などがきよく汚れがないこと」。
「青条の蘭」や「風の万里 黎明の空」にもつながるけれど、乱れた王朝には私益を図り、保身を図る人間が多い。
でもその正反対の、嘉慶や支僑や清白のような人物もいるのだと主張する。

考えすぎかもしれないが、名前ひとつに込められた作者の想いと捉えたい。
(2012年6月27日の日記)
8月2日 残穢
「残穢」を読んだ。
「『ゴーストハント』の創り方」と副題をつけたくなった。

読者から寄せられた膨大な情報に目を通す。
「鬼談百景」収録の「お気に入り」が目に留まる。
情報を寄せてくれた読者に連絡を取り、追加取材を頼みつつ、自身も検証を進めて行く。
まとまった資料を基に小説に仕立て上げて行く。
作者自身の知識や考えなどを盛り込んで行く。
(たとえば串刺し公ヴラドや血の伯爵夫人エルジェベット、ウィンチェスター館など怪奇物には欠かせない要素がふんだんに盛り込まれた「鮮血の迷宮」が私が一番好きなタイトル。)
こうして新作が完成する。

この流れが、つまり作者が本を1冊書くまでの経過がドキュメンタリータッチで描かれている。
あくまでも想像だが、「ゴーストハント」で使われた?と思われる奇談もいくつかあった。
さらに作者の考え方やスタンスは、シリーズ主役の1人ナルに投影させているのではないかと思う。

本来ならば、作者はここで得た膨大な資料を使って「ゴーストハント」や「屍鬼」「黒祠の島」のような全く「架空の」物語を作り上げるところだろう。
しかし今回はあえてドキュメンタリータッチにした。
「鬼談百景」感想で書いたように、私は実際に読むまで一切の情報もインタビューも見ないようにしていたので、作者がこの本を「フィクションです」あるいは「ノンフィクションです」と宣言したのかどうかはわからない。
ただこの本を読む限り、私は「残穢」はノンフィクション(つまり実話)を元にしたフィクション、つまり小説だと思った。

「作家」が小野不由美自身であり、描かれるその考え方や日常生活が自身のものであることは間違いないだろうが、それにしてもおもしろい。
こういったホラー物を書く作家の常として、私は小野先生は心霊現象が大好き、ゆえに信じているのだと、信じたいタイプなのだと漠然と思っていた。
それにしてはたとえば「十二国記」に見られるように、妙に冷めたと言えば聞こえが悪いか、合理的なスタンスが一致しないなあ、一体どんな人なんだろうといつも不思議だった。
なにしろ悪霊シリーズのあとがきを読むと、なんというかはっちゃけた人って印象しか残らなかったから(笑)。

でも今回「残穢」を読んで、とことんクールで、心霊現象などもむしろ「心霊現象でないことをとことん突き詰める」ことに情熱を注ぐ、その関わり方、そしてそういった形で心霊現象が好きな立ち位置がとても素敵だと思った。
その意味で「残穢」の収穫は大きい。
ただしそれで満足したかというと、やっぱり別の形の物語も読みたかったと思う。
「残穢」はおそらく待ち望む全ての読者の予想を裏切り、期待をいい意味でも悪い意味でも裏切ったと思う。

私は「残穢」を元にしたもう1冊新作を希望したい。
「お気に入り(元ネタ)」→「残穢(取材経過報告)」→「残穢を元にした完全なるフィクション(物語の完成)」。
「屍鬼」のような、「黒祠の島」のような、そう、「久保さん」自身が主役でもいい。
「残穢」では実際にはなかった大風呂敷を広げて、大仰な恐怖の描写をてんこ盛りにして、「残穢」ではなかった結末をつける。
なんて書いたら小野先生が眉をひそめられそうだけど、今回は先生が書きたい本を書いた、次は読者の読みたい本を書いて欲しい。

さて内容だが、怖かったのが梶川さんが出て来るところ。
可哀そうで、でも怖いと一番感じた部分。
なぜか「残穢」に登場する女性陣は、恐怖を感じていてもどこか(先生好みの)たくましさがあって、本当に湿っぽいホラーの被害者っぽい人の筆頭が男性である梶川さんだった。
あと 鎌田氏の鋳物工場で亡くなった先輩の描写は痛いという意味で怖かった。

あとこれは実話の部分だろうけど、登場する作家の痛んだ体の描写と、廃墟に乗り込んでいくその豪胆さ。
下手なスプラッターより痛そうに、克明に描かれるその腰だの頸椎だのの痛みはおそらく経験した人にしかわからないものだろうが、そんな人に新作を!新作を!と連呼する自分がいかにも非道に思えてくる(笑)。
そして廃墟!
私も廃墟は一種独特の雰囲気があって好きだが、それはあくまでも写真や本で見るだけのこと。
心霊云々よりも、虫がいそう、蜘蛛がいそう、もしかしたら蛇がいるかもしれない、汚いだろうな、危ないだろうな、どちらかというとそちらが怖い。
なのに夜の廃墟に乗り込んでいくその神経!もう脱帽するしかない。

読んでいて春日武彦著「屋根裏に誰かいるんですよ。―都市伝説の精神病理」を思い出した。
もう1冊、昔見た廃墟写真集も思い出した。

ただこれ、表紙がよくわからない。
というかおもしろおかしい、目からビームにしか見えないのだが・・・。

あと

・合理的思考の持ち主なのに、地鎮祭をしなければ据わりが悪い。
・作者の思う帯も怖い、アイデアは気に入ってるのだが作るのをためらう。
・怪異が事実存在するなら、これは特異とはいえ「自然現象」の一部であるはずだ。
・自然現象である以上、整合性はあってしかるべきだと思う。

の部分や

・作者が忙しい分、妙に後輩に信望の厚いハマさんが、暇のある後輩達を、その都度、動員して手伝ってくれた。」(安原さんのイメージ)
・私が通っていたのは浄土真宗系の大学で、周囲には寺の子が圧倒的に多かった。(ボーさんのイメージ)

などがおもしろかった。
さらに

・平山夢明「四谷怪談のベースは物語とは関係ないからお岩さんの祟りなんてあるはずがない。
でも普通は怒らないようなことが四谷怪談に限っておこる。常識に考えたら偶然だろうが、四谷怪談の場合は突出して顕著に起こる。
「・怪談は語ること自体が怪。(この言葉が一番印象に残った、好きな言葉。)」が印象に残った。

最後に

穢れは感染する。

作者はこうまとめてあるが、やはりこの部分を膨らませて物語に仕立て上げて下さい〜と結局地団駄踏んで願いたい。
(2012年8月2日の日記)
2月2日 東亰異聞
「孝行者には良い報いがある。
人魂売りもさすがにこの子は見逃した。
これが遊び浮かれて意を忘れた子供なら、くるりと捏ねて袋の中に放りこんだだろうよ。

黒絽の中には人魂がひとつ増えて、子供の姿がひとつ消えるという按配」

          ☆           ☆           ☆          

嬉しいことに、これまで何人かの方が、当サイトをきっかけに「十二国記」にハマってくれた。
次に読むのが「ゴーストハント」シリーズで、それを読み終わった途端、はたと困るらしい(笑)。

確かに「十二国記」と「ゴーストハント」は作品のイメージがあまりに違い過ぎて、その先にどんな作品が待っているのか見当がつかない・・・のかな?
手当たり次第読む人、発表順に読む人、さまざまだろうが、時々「お勧めはありますか?」「えむさんは他にどの作品が好きですか?」といったメールが届く。
でも先日の「図書館にあり過ぎて」のメールには不覚にも笑ってしまった。

Aさんとのメールのやり取りで、今では笑い話になってしまったのだが、Aさん、図書館のリストを調べてみたら、100冊近く出ていて途方に暮れたらしい。
まあ「十二国記」ファンなら周知のことだが、「十二国記」は講談社文庫、ホワイトハート文庫、作品によっては現在出ている新潮社版、アニメ脚本集も出ている。
「ゴーストハント」も図書館によってはリライト前の「悪霊」シリーズを置いている貴重な図書館もある。
さらに漫画も「小野不由美」の検索に引っかかるので膨大な数となるが、これらを除くと、小野不由美作品意外と少ない。
Wikipediaの作品リストも一見多く見えるが、少なくとも本になっている作品、図書館で扱うような作品は少ないのだ。

そんな中で「十二国記」「ゴーストハント」に続く私のお勧め(現在のところ)は「東亰異聞」。
「十二国記」の古代中国風ファンジーでもなく、現代日本でもない、舞台は文明開化後の東京、いえ東亰。
一文字変えられることによって、この世界が私たちの歴史にある東京とは違う世界であることが暗示され、同時に物語の大きな伏線となっている。
ただし、この伏線、おそらく気づいた読者はほとんどいないだろうと思わせる。

この作品は、ストーリーよりも雰囲気を読む作品だ。
東亰の街に恐ろしい魔物が現れる。
かつて人は闇に怯え、物の怪に怯えたけれど、今は闇の消えた街を跋扈する魔物に怯える時代。
でもこの魔物は「人」であることがさりげなく暗示されている。

ここで物語はホラーの形をとったミステリーであることが明かされる。
魔物の正体は?魔物が出た理由は?を読者は考えながら読み進めるわけだが、やがて明かされる衝撃の結末。
いえ正直に書くと、この結末はそれほど衝撃的ではない。
雰囲気に惑わされて心地よく真相を知るのだが、本当の結末はこの後に来る。

ミステリーから再びファンタジーホラーの世界に一転、なぜに「東京」ではなく「東亰」だったか、読者は知る。
実は時折出てくる黒衣の男の正体は薄々感じていた。
ただ彼が操る、と思われる人形の正体が衝撃的だった。
こう来るか、と思った。
「東亰異聞」はミステリーとして犯人を追わずに、惑わされるために読んでほしい。

他の小野作品では次点に来るのは「屍鬼」かな?
現代版横溝正史ばりの閉ざされた世界で起こる摩訶不思議な、そして恐怖の出来事。
スティーブン・キングの「呪われた町」へのオマージュとして書かれながら、全く異質な世界観を持った作品です。
あと児童物だが、「くらのかみ」もさりげなくお勧め。
元々全てが好きなので、これと選ぶ方が難しいが、「残穢」などの新作は、「小野不由美」を意識して読むならば後回しにして、やはり古い方から読んだ方がいいように思う。
(2013年2月2日の日記)
4月4日 新作への期待
毎週期待しながら「十二国記新潮社公式サイト」を のぞくけど、なかなか進展しない「書き下ろし長編」にじらされまくり。
そこで今回は「十二国記語り」をちょっとお休みして、新作への期待を書いてみたい。

十二の国のうち、一番安定しているのは、櫨先新とその家族がまとめ上げた奏だろう。
この国は、櫨先新が王に選ばれるまでと、そこから今に至るまでを読みたい。
ただ、「図南の翼」や、短編「帰山」でちょこちょこ出て来て(特に利広が)、和気あいあいぶりを見せてくれているので、優先順位は低いかな?
陽子や泰麒の慶、戴と離れているのも致命傷。

尚隆の雁も、「東の海神 西の滄海」で過去が描かれているし、陽子絡みで「月の影 影の海」その他に出まくっているので、あえて雁を主役に据えて の長編は、優先順位は低い。
奏や雁は、未来を描くと滅びの道しか残ってないような気がするし。
これまで通り、慶や戴のサポート役として、尚隆や六太には活躍して欲しい。

これまで読んだ中、安定した王、安定した国は奏、雁の他、鴨世卓の漣、黄姑の才、呉藍滌の範だろうか。
これらの国の現在過去未来ももちろん読みたいけど、限りなく制限がある新作(残作)においては、落ち着いたままでいて欲しい。
ただ漣と範は個人的に王が生まれた経緯や、落ち着くまでの流れを読みたいなあ。

波乱万丈なのが陽子の慶、落ち着いているようでも気になる珠晶の恭、錯王が崩御した巧、やはり王のいない芳、沈みつつある柳、 謎に満ちた舜だろうか。
なんといっても気になるのは戴だが、戴の話には泰麒捜索で関わった多くの国に再び登場して欲しい。
気が早いが、陽子が考えている、国同士の助け合い、大使館を置くような形で、が実現して行くのも読みたい。

読んでいると、天帝は必ずしも王としての「資格」にこだわらず、気まぐれに王を選んでいるように見えることがある。
生粋の?十二国界の人々は王の選択をそのまま受け入れているが、異界(蓬莱)から陽子は違和感を持っているし、尚隆も六太も、口には出さないが 陽子の考えを認めているように思える。
李斎でさえ、王の存在、天帝の選択の在り方に疑問を持ち始める。

このあたりを進めて欲しい。
長編とはいえ一作では無理だろうが・・・。

はたして驍宗は王としてふさわしくない人間だったのだろうか。
予王舒覚は、錯王は、驕王は、砥尚は、健仲韃は。
王の地位が永遠でなければ、彼らはもしかしたら立派に勤め上げていたかもしれない。
全ての王を天帝なり西王母なりが導いて、完璧な王に仕立て上げれば、天帝は新たな王を探す楽しみがなくなってしまうのか。

奏や雁が長く続いているのは、たまたま選ばれた王が傑物だったからなのか。
天帝はなぜわざわざ蓬莱(崑崙もあるかも)に流された者の中から王を選んだりするのか。
新しい意識や知識(陽子の大使館や、雁の建築などのように)を呼び込むためなのか。
考えだすと止まらない。
小野さんにはその全てに応えて欲しいのだが・・・。

こういった「新しい展開」「話の続き」を読みたかった読者にとって、「丕緒の鳥」を初めとした短編集は衝撃だった。
新たな深化した「十二国記」として受け入れつつ、求めていた「十二国記」ではなかったことを悲しみつつ、あれからまた時が経ち、今また期待と不安に満ち満ちて いつ出るかもわからない新刊を待ち続けている。
長い・・・。
(2014年4月4日の日記)
1月25日 小野不由美×中村義洋対談1
1月24日付の朝日新聞に、小野さんと映画「残穢」の監督中村さんのスペシャル対談が掲載されていました。

まず小野さんが、中村さんの「ほんとにあった!呪いのビデオ」シリーズを観て以来、中村さんの大ファンという冒頭のコメントに衝撃を受けました(笑)。
私も「奇跡体験!アンビリバボー」の心霊特集など大好きですが、心の中ではどこか胡散臭いものとして見ています。
(そういえば最近心霊特集やりませんね、なぜでしょう?)。
ある意味作り物として楽しんでいる感覚でしょうか。

だから「ほんとに〜」にしても買ったり借りたりする気にはならないので見ないだけで、テレビでやったら見るかもしれない、その程度。
ところが「残穢」は「ほんとに〜」にインスパイアされて書き上げた小説だとか。
なので、映画化できたら中村監督がいいよね」なんて話していて、今回その夢が見事かなったのだそうです。

私は中村映画は「チーム・バチスタの栄光」は好きだったけど、「白ゆき姫殺人事件」は駄目でした。
見たことあるのはこの2作品だけです。

今回は
「ふだんのドラマでは役者の演技を尊重して空気感を出すことも多いのですが、ホラーはスタッフ側が狙いを定めてコントロールしていかないと怖くならない。
そのため、本作は今までの経験値を捨てることを心掛けて撮影しました。」

それに対して小野さん、
「怖さを尊重して制作されているからこそ、実際に起きたことだと誰もが信じそうになる恐怖、リアルなザワつきが感じられるんでしょうね。」
リアルなザワつき、さすがうまいこと言いますね(笑)。

「残穢」は小野さんが本当に体験したことなのか?という疑問は出版当時から出ていましたが、今回「フィクションとノンフィクションのはざまを行き来するような 小説にしようと意識されていたのでしょうか。」という中村さんの質問に、「そこが狙い目でした。」と答えています。

「現実に取材するという言い方は変ですが、細かなデティール、人物像は極力事実に寄り添って描きました。
行間から浮き立つ空気がよりリアルなものになると思ったので。
反対に幽霊に襲われるといった怪奇現象は、非現実的なので外しました。」

ゴーストハントシリーズが続編書かれない理由、いろいろ言われていますが、この辺にも理由の一つがあるのかもしれません。
前にも書きましたが、作家として、人間としての小野不由美が成長、深化し過ぎて、若き日の作品「十二国記」「ゴーストハント」が置いてきぼりを くらったような気がします。

「丕緒の鳥」以降の「十二国記」がストーリーを追うのではなく、登場人物の心を狭く深く描く描写に変わったのもそう思えば納得できます。
おそらく最終作となる長編が、「物語」としての結末を描いてくれれば良いのですが。
でももしそうなったら、それは作者として「自分が描きたい」作品ではなく、「読者が望むから描く」作品になっているのでしょうか。
もう書くつもりのなかったゴーストハントはともかく、十二国記のブランクが重ね重ね残念でなりません。

中村さんが驚いたのは、「小野さんが意外にも心霊信者ではない」こと。
中村さんはゴーストハントシリーズは読んでないのかな?
読んでいたら、小野さんはナルの立ち位置だと気付いたのではないかと思うのですが。

ここで小野さんは
「幽霊を信じていないわけではなくて、それ以上に、自分が怖がりたいからホラー小説を書いていうというところが大きいんです。」
と答えています。

最近は感覚がマヒして簡単に怖がれない自分が寂しいって(笑)。
まあ「屍鬼」や「ゴーストハント5 鮮血の迷宮」なんて書いちゃうと、生半可なホラーじゃ怖がれないでしょうね。
(2016年1月25日の日記)
1月26日 小野不由美×中村義洋対談2
★映画「ホーンティング」に関する重大なネタバレがあります。

小野さんは映画を見て、音が効果的に使われていると感じたようです。
これに対し、中村さんは
「音が肝だなと途中で気づきました。
例えば、久保さんが『畳を掃くような』と表現する音も、ひたすら単調なリズムを繰り返すことで、震え上がるような 怖さを表現しました。」
と答えています。

私が日本のホラー映画の好きな部分はここです。
洋画だと、怖がらせようとする効果音がうるさいものが多くて(笑)、何かにつけて派手ですよね。
邦画のさりげない、あるいは単調な、あるいは湿った雰囲気は、たとえばアメリカが日本のホラーを真似して作っても 描き切れない部分だと思っています。

話が原作に戻って、テーマを「穢れ」にしたのは、最初から意図したものではなく、書き進めながら穢れが作品を貫く 背骨としてふさわしいと思い、そうしたのだとか。

中村さんの「祟り」ではなく?という問いかけに
「祟るという言葉には祟る側の気持ちの働きかけを感じるが、そもそも怪談話の幽霊って何のために出るのかよくわからない。
「残穢」も、前にその部屋に住んでいたからというだけで、その人の前に幽霊が出て来たところで何の意味があるのか。
そう考えると、出る側には意外に目的意識も意思もないなと、それで穢れという捉え方をしたと。

京極夏彦さんや宮部みゆきさんも同じようなこと話してましたね。
「穢れ」という言葉は使ってないにしろ。

今映画「ホーンティング」を見ながら書いているのですが、この映画はシャーリー・ジャクソン「山荘奇談」の「2度目の映画化」なのですが、 最初に映画化されたときは、題名が「たたり」でした。
私は「たたり」は見ていませんが、ストーリーが「ホーンティング」と全く同じなら、それはまさに「出る側には目的意識も意思もある」映画に なるわけで、なるほど「祟り」だなあと思います(正確には祟りではないけれど、目的も意思もあるという意味において)。

ただ何となく「ホーンティング」のヒロインがこの呪われた屋敷と関わりある人物だったという設定は「ホーンティング」のみの設定ではないかと 思う(この映画を見る限りかなり無理やりっぽい)。
機会があったら「たたり」も見てみようと思います。

「祟り」と「穢れ」の相違はニュアンス的にわかりやすいですが、この後笑っちゃったのが、小野さんの
「そもそもこの部屋で前に亡くなった人がいるらしい、前に事件があったらしいと言い始めたら、私が今暮らしている京都なんて住めないですよ。
千年以上の歴史の中で様々な戦があり、多くの人が亡くなっている土地ですから。」
このバッサリ感がナルだよねえ(笑)。

でもそういった「土地に歴史あり」の感覚が、都会では失われつつある。
それが逆に不思議だったので「残穢」で土地の穢れということを強く打ち出したのだそうです。
最後は中村さんの「恐怖の余韻はせいぜい2,3日」、小野さんの「主人公は一度も悲鳴を上げないので大丈夫」なんてホラー嫌いでも見てね♪ を強く打ち出しています(笑)。

私は今のところ映画館に見に行く予定はなく、レンタルかテレビでいいかな?と思ってます。
原作を超える映画かどうかはもちろん見ないとわからないけど、それ以前に「残穢」の怖さの感じ方は、やはり小説ならではという気持ちが強いからかもしれないです。
(2016年1月26日の日記)
10月7日 過ぎる十七の春
★「過ぎる十七の春」に関する重大なネタバレを含みます。★

今年も残すところ3ヶ月。
漫画「ゴーストハント」最新刊&最終巻を手に、「十二国記」新作は今年もきっと出ないんだろうなあ なんてすでにあきらめの境地に入っている私。
書棚をぼんやり眺めていてふと目に留まったのが、その小野不由美さんの「過ぎる十七の春」。

もう何年も読んでないなあと手に取って、つい読みふけってしまいました。
小野さんは初期の作品は、いわゆる「黒歴史」認定する方のようで、「中庭同盟」掲載作品は ほぼなかったことにされ、悪霊シリーズなどは書き直し、となっています。

読者としては、その小野さんの作家としての成長と深化もまた楽しむべきもので、たとえばこの 「過ぎる〜」においても、「十二国記」でお馴染みの「軽く微笑った」って表現よく出て来るなあ。
この頃から好きだったんだなあなどと微笑ましく読んでいます。

でも小野さんにしてみれば、その「微笑ましく読まれる」ことが我慢ならないのかもしれません。 完璧を目指すプロの作家としては当然の意識かもしれませんが、我儘な読者としては、つい書き直す時間を 新作に当てて欲しいと思ってしまうわけですよ。
「中庭〜」のなかったことにされたGH物もおもしろいんですから、そのまま出してほしいと思うわけですよ。

さて「過ぎる〜」です。
これも書き直した部分があったそうですが、私は「呪われた十七才」を読んでないのでそのまま受け入れました。
あとがきで小野さんがイラストを絶賛されてますが、たしかに表紙は綺麗です。
悪霊シリーズの表紙が苦手だった私には夢みたいな表紙です。

でも挿絵はいらなかったなあ。
当時の風潮で仕方がなかったのかもしれませんが、圧倒的に合わないっていうか、この小説は挿絵がむしろ 雰囲気を壊しています。

それでも傑作です。
「営繕かるかや怪異譚」や「残穢」の境地には達していない、「屍鬼」ほど凝っていない、この時期ならではの シンプルなおもしろさです。
それでいてホラー部分は怖い。

小野さんは、初期の頃からホラー部分の描写がほんとにうまい。
そしてほんとに容赦ない。
息子隆を守るために、自ら凄絶な死を選んだ母美紀子。
その死が最後ぎりぎりまで悼まれることはなく、最後に美紀子は隆が救われたことを知る事もない。

小説として当たり前の展開がせつなくて、ああうまいなあとしみじみ思います。
小野さんはね、やっぱりうまい作家であり、完璧を目指す職人、プロであり、だからこそ「十二国記」新作も こんなに遅れているんだなあと、妙に納得してしまうのでありました。

おもしろい本に出会って、「あっ、この作家の本もっと読みたい!」って思う事あるじゃないですか。
遡って読んで行くと、当然作家としてはどんどん未熟になって行きます。
デビューから応援していた作家との違いはそこです。
そこでがっかりしてしまう作家もいるにはいるけど、小野さんは違うんだよなあ。

特に「悪霊シリーズ」の読むのが辛い口語体の奥底にじんわり染みるおもしろさと怖さっていうのかな。
やはり別格。
それでも私はこのシリーズに関していえば漫画に軍配を上げてしまうのですが・・・。
これは原作が苦手というより漫画が凄過ぎるということで。
(2016年10月7日の日記)
10月11日 「ゴーストハント 悪夢の棲む家」3巻
★「ゴーストハント 悪夢の棲む家」に関する重大なネタバレを含みます。★

「ゴーストハント 悪夢の棲む家」3巻読了。
今日は2016年10月10日。
「ゴーストハント 悪夢の棲む家(以下ゴーストハント)」原作が出たのは1994年なので、今日は22年ぶりの悪夢の日という事になります。
余談ですが、今日は漫画家の高橋留美子さんの誕生日でもあるので、とてもおめでたい日でもあります。

実際私、夜食にケーキを食べてお祝いしてから「ゴーストハント」読みました。
おもしろかったけど、終わってしまいました・・・。
小野不由美さんといなだ詩織さんのあとがき、ああ小野さんお元気ですね、でも新・ゴーストハント書く気はないんですね。
いなださんも完全完結宣言ですね。

広田さんがスマホを使い、ナルがノートパソコンをいじっていても何の違和感のない光景。
これなら今でも書ける!「ゴーストハント」ってちょっぴり期待しちゃったんですが・・・。
これは原作通りなんですが、ジーンがナルと麻衣の前に姿を見せても、その時は緊急事態、感慨にふける暇もありません。
でも解決後、ナルはジーンと話をしたけど、麻衣は蚊帳の外というか、なんかノータッチなのが寂しい。

当然これは、続編が設定されてたからでしょう。
つまり、ジーンはまた眠りについただけで、今後も登場する予定があったから、ここで麻衣と会話がなくてもおかしくない。
実際麻衣は、ジーンに微笑みかけるナルを「ホンモノのナルシス様だ・・・」なんてのんきなこと言ってます。
でもこの後、「ゴーストハント」は断絶、麻衣もナルもジーンに会うことはなく、私たち読者も彼らに会うことは二度とないのでしょうか。

読者がこれほど求める作品、「ゴーストハント」と「十二国記」。
2作品もあるという事は、むしろ作家冥利に尽きると思うのですが、心底寂しいです。
前にも書きましたが、大人になったナルや麻衣の物語でいいから書いてもらえないかなあ。
って小野作品の感想になると、いつも愚痴っちゃいますね、すみません。

いなださんの絵もだいぶ変わりましたね。
劇画っぽくなってシリアス味が増した気がする。
初期の可愛い絵から、いなださん自身も、作品と共に深化を遂げて来たんでしょうね、お疲れ様でした。

(2016年10月11日の日記)
3月2日緑の我が家
私の部屋は本その他で本棚から何からぎっしり埋まってて入れる場所がなくなったので、思い切って服の断捨離決行!
空いたチェストを書籍用にしました。

一段目はミステリ、二段目は小野不由美、三段目は京極夏彦、四段目は宮部みゆき、五段目は池波正太郎、一番下はコミック。
これでいくらか片づきました。
そして小野不由美引き出しの整理していてふと手に取ったのが「緑の我が家」。
図書館のリサイクルで幸運にも手にした本です。

懐かしいなあと思い、読み始めたら止まらない。
小野さんとしては初期の作品だし、後期の「残穢」「鬼談百景」といった作品群や「屍鬼」「鬼談百景」に比べてもこなれてない感じはします。
でも小野さんのホラーの中でも結末が気に入っている作品です。
怖さもかなりのものがあります。

日常の怖さを描かせたら小野さんは本当にうまいですね。
小野さんは自分の初期作品に対する愛ってほとんどなくて、ファン泣かせにもほどがある作家なんですが、この「緑の我が家」と「過ぎる十七の春」は お気に入りらしく、イラストを変えてこれでもかと出してきてます。

極端ですよね(笑)。

おもしろいのが主人公の少年もサブ?の少年もいわゆる「いい子」じゃないこと。
1人はいい子に見えて傲慢だし、1人はいい子に見えて卑屈。
でもそれぞれ抱えているものはあって・・・。
だからこそファンタジー要素も強いホラーでありながら、リアルな怖さが引き立つのでしょう。

また何年かしたら引き出しからついと出して読んでみよう、そんな気持ちになりました。
(2018年3月2日の日記)
9月9日 営繕かるかや怪異譚その弐(一)
★内容に関してネタバレを含みます。

「営繕かるかや怪異譚その弐」を読みました。
大事に、大事に1日1話を目指していたのですが、やっぱり一気読みしてしまいましたよ(笑)。
漆原友紀さんの絵も久しぶりに見ました。

第1話「芙蓉忌」。
先日、道を歩いていてまさに芙蓉の花を見つけました。
殺風景な道筋にあるさりげない花。
それから「芙蓉忌」を読んで思い出したのが竹久夢二。

花街、料亭、検番、置屋、そして芸妓。
そして夢二の描く絵を彷彿させる儚げな女性。
首をかき切った弟のリアルなイメージが全く浮かんで来ないほど、その世界は朦朧としており、そして怖い。

第2話「関守」。
これはハッピーエンドに振り分けた方がいい話なのかな?
まあ「ハッピーエンド」なんて言葉がふさわしい物語ではないけれど。
私は夕暮れの細道、神社やお寺の裏に続く暗い道、たまらなく好きです。
さらに急な坂、坂上にあるお寺や神社が見えないような石段もたまらなく好き。

怖いと言うより不思議な感覚。
その先に異なる世界があって欲しい、そんな感じでしょうか。
現実にどっぷり浸かり、あり得ないとわかっているから欲する生粋のリアリストの感覚、でしょうか。

第3話「まつとし聞かば」。
このタイトルで、百人一首に興味がある方ならば、すぐに在原行平の 「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」を 思い出したのではないでしょうか。

そんな方にとっては、この話はタイトルの時点である意味ネタバレしてます。
でも作者はそれを想定した上で、二段重ねで攻めて来ます。
ホラーとしてはよくあるテーマです。

私はこの話はむしろ「匂い」にやられました。
極端ではありませんが、私は匂いに関して神経質な方です。
それだけに「日常の匂い」が彷彿させる怖さが苦手かな。

第4話「魂やどりて」。
これはね、最初違和感があったんですよ。
怪異に悩まされる女性に。
こういう芸術家タイプの人って憧れるなあって思いながら読んでいたのですが「あれ?」。

「この品物をそういう使い方するの?」
ちょうど畠中恵さんのしゃばけシリーズを読み返していたこともあって、箸置きを踏むの?箪笥をそんなふうにするの?
いらない部分は捨てるの?
むしろ反感を覚えました。

道具屋が怒る気持ちも周りが怒る気持ちもわかる、ただ本人だけがわかってない。
物には魂が宿る、いえたとえ宿らなくてもそんな使い方をしていいはずがない。
そんな彼女は「報い」を受けます。
これは「営繕かるかや怪異譚」の中でも異質な物語です。
結末にちょっとだけすっきりした私は意地悪なのかなあ。

でも彼女はこれからは周りのサポートも得てやり直して行けるはずです。
そんな優しい終わり方です。
作者は彼女を突き放したりはしません。
それが尾端の役割だから。
そういう意味で「営繕かるかや怪異譚」はホラーでありながら優しい物語です。

この項続きます。
(2019年9月9日の日記)
9月日 営繕かるかや怪異譚その弐(二)
★内容に関してネタバレを含みます。

第5話「水の声」。
子供が被害者になる痛ましい事件が多発する現在、この物語はホラーであると同時にそんな世の中に警鐘を鳴らす 社会派小説であると思います。
作者はかつて、ほとんどの読者が望んでいる形の「十二国記続編」ではなく、当時始まった裁判員制度に絡ませてか 「落照の獄」を書きました。

あの重さ、後味の悪さ、嫌でも首を掴んで現実(裁判員制度)に向き合わされるような威圧感。
未だに忘れません。
今回はもっと自然な形で描いているように思います。
向き合うには重いけど、「営繕かるかや怪異譚」の、尾端の優しさに救われ、かつ自然な形で向き合える。
これもある意味作者の「深化」ではないでしょうか。
だからこそ新作「十二国記」にも期待してしまうのです。
もし「落照の獄」の後に続くのが十二国記新作だったらどうなっていたのでしょうか。

第6話「まさくに」。
「営繕かるかや怪異譚その弐」は、好きな物語を一つ選べと言われても選べないほど全部好きですが、「まさくに」の終わり方が 一番好きかも。
最後に樹が言った「正邦さんー」に続く言葉。
想像すると怖いのに微笑んでしまう。
途中でやはり小野さんの「悪夢の棲む家」を思い出しました。

まさに小野不由美の真骨頂という気がします。
「ゴーストハント」ほど派手ではない、「屍鬼」ほどグロテスクじゃない、でもしっかり怖い。
怖さを押し付けるのではなく自然に怖いと感じてしまう。

こういう日常ホラーがホラーとして本当は一番難しいのかもしれません。
さて読み終えての感想は、おもしろさはもちろんですが、尾端の印象の薄さに物足りなさを感じました。
大事なところにすっと出て来て、大げさなことは言わず、大げさなこともせず、さりげなく直してすっと去ります。
特に前作は尾端ってどんな人物?どんな役どころ?とかなり彼を意識しながら読んだので2作目が余計印象が薄いのかもしれません。
最近京極夏彦著京極堂シリーズや内藤了著よろず建物因縁帳シリーズを再読したので、つい比較してしまいますね。

表紙が「蟲師」を描かれた漆原友紀さんであることも大きいかな。
尾端の視点で、というのは手法としてきついかもしれませんが、第三者の視点で描かれた本作も読んでみたい、そんな気持ちになりました。
(2019年9月日の日記)
11月1日 「白銀の墟 玄の月」2巻までの感想
★内容に関して触れている部分があります。

ネタバレを避けるために感想は書かないでおこうと思ったけれど、3、4巻が出るまでのこの時期しか書けないこともあるので書くことにしました。
どうしてもネタバレする部分がありながら、なるべくネタバレを避けるというものすごく中途半端な感想になっております。

さて、新刊を待ち望んでいた読者の想いはまず、泰麒は?驍宗は?李斎は?阿選は?という彼らのあれからの物語でしょう。
さらにできれば陽子や尚隆など戴に直接関係ないけれど思い入れの深い人物も元気な姿を見せて欲しい。
そこでまず表紙を見て、泰麒の立派な姿にこれは公式のネタバレか?と一瞬思ってしまいました。
あの絶望的な旅に出た泰麒がこんな盛装してるなら、ハッピーエンドの展開になってるんじゃ?
もちろんそんなはずはなく、うまく考えられた表紙イラストだったと思います。

かつての「十二国記」を思い返せば、それは王の、麒麟のそして楽俊や鈴、祥瓊など王に関わる人々(半獣含む)の物語であり、読者は 彼らと一体になって苦痛や感動に共感しながら物語を読み進めて来ました。
「丕緒の鳥」あたりからその手法が変わって来ます。
王や麒麟よりも名もなき人々、主人公よりも群像劇。
物語を進めるよりも深く掘り下げる、深化する小説。

新作「白銀の墟 玄の月」は2つの手法のちょうど中間になったように思います。
2巻までで驍宗がまだ出ないのは予想されたこととはいえ、決して無数ではないのに無数と言いたくなる登場人物、新しい言葉、読めない言葉、意味の分からない言葉の多さ。
その中に泰麒が、驍宗が、阿選が埋もれています。

それでも泰麒は想像し難いその行動ゆえに、埋もれた中でぎらりと光る存在感を見せますが、李斎などは読者同様置いてきぼりです。
行動の上でも気持ちの上でも。
(私はそんな李斎の常識人なところが好きなのですが。)

阿選の存在も雲を掴むようで、逆に黒幕候補の1人だった?琅燦がこれまた不思議な輝きを見せています。
でもその輝きは硬くとがった黒いダイヤのようです。
もしかしたら悪なのか、悪を超越した善なのか。
阿選を操っているのか、泰麒を守っているのか。
さすが作者は読者の予想を超えた展開を見せてくれます。

ただいかんせん読み辛い。
「月の影 影の海」前半の読み辛さとはまた異なります。
「月の影ー」前半の読み辛さは、その鬱々とした展開にありましたが、少なくともそれは陽子の物語だったので、読者は陽子に感情移入しながら一緒に苦しむことができました。

「白銀ー」の読み辛さはむしろ「屍鬼」に近いです。
様々な人物の行動や心理描写が延々と続く。
でもその中に重要な伏線が組み込まれているので読み飛ばすことは許されない、その読み辛さ。
さらに場面が頻繁に切り替わるので、なかなか登場人物に自分を落とし込むことができない。

若かりし頃書かれた「十二国記」を読んでいた若き読者に、今の作者の成長と同様の成長を要求する厳しい作品です。
それをどうとらえるかは読者次第でしょうが、私はもう少し話を進めて欲しいと思いました。
話が進んでいないわけではないのですが、ホップからステップを飛ばして3,4巻で、いえ4巻で一気にジャンプする計算でしょうか。
溜めが長すぎるように感じるのは、クライマックスの感動を爆発させるための計算でしょうか。

ストーリーに関しては、あっさり戴に着いたなというのが第一印象でした。
確かに雲の上を行けばと言った会話が以前あったので、もっと、それこそ「月の影ー」の陽子のように、妖魔や人間の襲撃に苦しむかと思ったのですが、 その辺がスムーズです。

そして驚いたのが泰麒の決断。
角のない麒麟の性、能力についてうまく把握できない部分もあり、李斎と一緒に振り回されています(笑)。
主人公は最後まで生き残るはずという暗黙の了解?が通用しないこともある小野ワールド。
それでも私は泰麒が驍宗に再会し、戴を立て直すハッピーエンドを信じたいです。

2巻最後の衝撃すらも感動のクライマックスへの伏線として後半を待ちたいと思います。
(2019年11月1日の日記)
11月5日 「波」より小野不由美「十二国記」インタビュー
先日神田古本祭りに行ったら、書店に新潮社の情報誌「波」が置いてあったのでもらって来ました。
表紙が泰麒のイラストで、「おまたせしました。小野不由美」と小野さんの筆跡でメッセージが。
小野さんの字って可愛いですよね。
文章が難しいので、なんとなく硬い字を書く方のイメージありますが(笑)。

小野さんにとって「十二国記」の世界設定は「魔性の子」を書いた時から、戴国についても当時から考えていて今も変わっていないそうです。
その他の話は依頼が来てから考えるとか。
私は「魔性の子」は後で読んだので、どうしても陽子を基本に捉えてしまうんですが、泰麒が初登場?だったんですよね。

そしてまず物語を先に作って着眼点を決め、そこに至る道行を考えてから、必要なキャラクターやシーンを用意します。
もしかして「図南の翼」の供麒なんて、「王として会った瞬間引っぱたく」ためにあんなキャラになったのかな?なんて想像してしまいますね。

登場人物の名前は中国の人名事典」や「漢和辞典」から。
私も以前十二国記用語を調べるために、図書館に行って大漢和辞典を読み漁りましたが、あれは楽しかったなあ。
この名前を誰かに付けたいとか、作者になったつもりで書き抜いてました。
一つも当たらなかったけど。

世界設定(地形、地図、政治や軍事、生活様式など)は大まかなところを漠然と考え、細かいところは必要に迫られてから詰めて行きます。
「あらかじめ詳細に決め込んでしまうと、説明しなきゃ!」という衝動が生じる」には笑いました。
小野さんらしいなあ。
ただし場当たり的に設定すると齟齬が生じるので、大きなところから細かいところへ考えていくため迂遠な工程になります。
それで執筆に時間がかかるのだと説明があります。

獣に関しては基本的に「山海経」から。
でも獣というより怪物なので、生物っぽくなるよう改変したり、騎獣の場合鞍を置けるようにします。

「十二国記」シリーズに影響を与えた作品は「銀河英雄伝説」、「ナルニア国」シリーズ、「西遊記」や「水滸伝」。

子供の頃一番好きだった物語は「小公子」。
言われてみればちび泰麒はセドリックの影響受けてますね、たしかに。

新作「白銀の墟 玄の月」に関しては物語全体の構図は執筆前から決まっていて、削って行くのだそうです。
登場人物も削ったりまとめたり。
下書き段階の「十二国記」原稿、読んでみたいですねえ。

そして今回は「戴の話」と決めていましたが、後日出る短編集で「落穂拾い」をするそうです。
ただし全ての国の王と麒麟を出すつもりはないとの事。
「王と麒麟の顔が見えてしまうと、それらの人々がずっといる、という形で世界が固定されてしまう気がする」とおっしゃっていますが、 ここはちょっと違うんじゃないかなと思いました。

作者としての想いはそうなのでしょうが、読者はもっと柔軟ではないでしょうか。
たとえば巧では塙王が倒れ、才では采王が倒れ、芳では峯王が倒れました。
巧では王不在、芳は仮王、そして才では新たな王が「風の万里 黎明の空」で重要な役割を果たしています。
はっきりしない柳の劉王でさえかなりの存在感を持っています。

十二の国を懇切丁寧に描写しなくても、書いては欲しいなあ。
でも小野さんが書きたいのは「市井の人」。
「丕緒の鳥」あたりからこの傾向が顕著になって来ましたね。
私は小野さんの「深化」と呼んでいますが。

使ってみたい宝重は、重い責任がついてまわりそうなのでないとのことです。
妙なところで律儀です(笑)。
だから「宝重」なのか。
私は碧双珠が欲しいです。

最後にメッセージ。
お待たせしました。
喜んで頂ければ幸いです。
喜んでいますとも!

ただ盛んに「十二国記」関連の更新していた頃とはパソコンも変わり、久々に「十二国記」に関して書いてると、文字登録が大変です。
それだけ長い時間がたってるんだなあと思います。
それでも私はほとんど一気読みできましたが、リアルタイムの読者は18年・・・。
本当に小野さんも読者さん方もお疲れ様でした。
(2019年11月5日の日記)
12月9日 「ダ・ヴィンチ」より小野不由美インタビュー
「ダ・ヴィンチ」1月号掲載の「BOOK OF THE YEAR 2020小説ランキングTOP50」に おいて十二国記「白銀の墟 玄の月」が1位に輝きました。
小野不由美さんのインタビューも掲載されています。
冒頭部分は受賞の驚き、喜びなので省略します。

まず1991年(平成3年)刊行の「魔性の子」には、すでに十二国を思わせる記述がありますが、 この時点で十二国の物語はどの程度構想されていたのか。

世界の概略は、当時に作ったもので、変っていません。
ただし、戴以外の話は、まったくありませんでした。

私は「華胥の幽夢」まで読んでから「魔性の子」の存在を知り、読んだので最初違和感がありました。 私にとってのシリーズ主人公は、陽子であり慶だったので。
アニメの影響もあるかと思います。
当時シリーズ主人公である陽子が出ていないために「図南の翼」はアニメ化しにくいという記事を 読んだ記憶があります。

でも後で知ったのですが、「図南の翼」始め短編などもアニメ化の予定があったのだそうです。
原作が未完でキャラクターを生き生きと描きづらいことなどが挙げられていたそうですが(Wikipedia 参照)、泰麒と李斎が旅立つところできっちり終わらせても良かったと思います。

オリジナルの結末よりはアニメ化しない方がいいとの判断だったのでしょうか。
アニメの内容は正直改変も多くて絶賛できるものではありませんでしたが、王や麒麟が映像化されて 実力派の声優さんにより演じてもらった幸福感はありました。

ただ戴編が(一応)完結したからといってアニメ化できるものでもなさそうですね。
「白銀の虚 玄の月」は難解です。
さらに入れ替わり立ち代わり登場しては退場する人物をきっちり整理して、「誰にでも」理解でき、かつ 楽しむことができるアニメを作るのは、おそらく不可能かと思います。

泰麒が無事戴に付き、驍宗とも再会し、戴を立て直すこともできそう。
筋だけ追うならシンプルなんですけどね。

話がちょっとアニメにそれてしまいました。

(この項続く)
(2020年12月9日の日記)

十二国記感想

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