−犬夜叉。

闇の中から声がする。
深い眠りを貪っていた犬夜叉は弾かれたように飛び起きた。
地面に身を伏せ、油断なくあたりを見回す。

「女・・・?」
闇の中に白い顔がひっそり浮かんでいる。
年齢は定かでない。
この時代にしては不思議なほど色白で、顔の輪郭すら闇の中に溶け込んでしまいそうな得体の知れない影。

身構えながら犬夜叉は心につぶやいた。
「・・・どうして俺は気づかなかった?」
野に生き、迫害される者として犬夜叉の神経は常に研ぎ澄まされている。
どんなに深く眠っていても、こんな近くに来るまで気づかぬはずがない。

だが・・・

「心配するな、おまえの敵ではない。」
女はひっそり笑った。
「私はおまえに会いに来た。」

「俺に・・・?」
頭の中は疑問符だらけだが、女の穏やかな口調にとりあえず緊張を解く。

「これから物語が始まる。」
遠くを見るような眼差しだった。
「この時代、この場所で。」

「それが俺に何の関係があるんだよっ!」
驚かされたことに対する照れが犬夜叉の口調をよりぞんざいなものにしていたが、女の表情は変わらない。
「ずっと探していた。
おまえのような存在を・・・。」
夢見るような口調で女は続ける。

「凛々しい巫女にも会った、巫女に邪な想いを寄せる男にも会った、妖怪退治屋にも若い法師にもな。
狼妖怪、子狐妖怪、さまざまな魑魅魍魎、それに。」

初めて女の目が犬夜叉に向けられ、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「おまえの兄にも。」

「俺の兄・・・、殺生丸かっ?」
「似てない兄弟だな。
同じなのは銀の髪、金色の瞳だけか。
・・・だが、おまえたちの奥底に流れているものは同じだ。
外から見えないかすかな優しさ・・・」

「やかましいっ!
俺とあいつを一緒にすんな!
あいつのせいで俺が昔からどんな思いをしてきたか・・・。」

「おまえには見えていないか、犬夜叉。
まあいい、そのうち気づかせてやろう、少しずつ少しずつな。
これから始まる物語は果てしなく続くのだから。」

「だからそれが俺に何の関係があるってんだよ!」
「今まで会った者たちにはなく、おまえだけが持つもの、それはおまえの血だ。」
「俺の血・・・?」
「おまえの体で混じり合う人間の血と妖怪の血・・・。」

「てめえも俺を蔑みに来たのか?半妖だと!」
「犬夜叉、半妖ゆえに辛い思いをしてきたのだろう。」
「なっ・・・」

我を忘れてつかみかかろうとした犬夜叉の爪が空を切る。
女の体に触れたはずなのに、そこには何の手ごたえもなかった。
あっけにとられた犬夜叉に、女は寂しげな笑顔を向けた。

「犬夜叉、おまえはこの世で自分だけが差別されていると思っているだろう?
それは違う。
いつの時代、どの場所にも差別は存在する。
おまえは半妖だからという理由で差別されている。
だが人は、どんな小さなことにも差別の理由を見つけることができるものなのだよ。」

言葉もない犬夜叉。

「だから救いの物語を書きたいと思った。
差別される側にありながら、己の強さと優しさと、さまざまな出会いの中で癒されていく存在の物語をな。」

「もちろんその道のりは険しい。
命がけの戦いもあろう、魂を毟り取られるような悲しみもあろう。
だがな犬夜叉、私はおまえを選んだ。
おまえのその、蔑まれる血の運命(さだめ)ゆえ、な。」

「俺は夢を見ているのか・・・?」
「忘れるな、犬夜叉。
もうすぐ最初の出会いが始まる。
私が作り出した四魂の玉の因果ゆえ。」

「四魂の玉・・・?」
「今は静かに眠るがいい・・・。」
女の影が少しずつ薄れ始めた。
「ま、待て、待ちやがれ!」

あわてて伸ばした手も空を切る。
消えつつある女の笑顔は優しかった。
白みつつある空の下、犬夜叉はいつまでも呆然と立ち尽くしていた。


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