人魚シリーズ感想 1
怖くてきれいで切なくて 〜人魚シリーズ
6年前、アニメ「犬夜叉」第1回目の放送を見て夢中になり、その後全ての高橋作品を網羅すべく漫画を読んで、アニメを見た私。
中でも「うる星やつら」に対する期待は大きかった。
「高橋留美子」という名前は知らなくても、虎縞ビキニの鬼娘ラム(宇宙人とまでは知らなかったが)の存在容姿やしゃべり方、怒ると電撃(ヤキモチのせいとまでは知らなかったが)、あたるという平仮名名前の男の子が恋人?くらいはなぜか知ってる有名漫画だったからとても楽しみにしていた。

実際は、破天荒でそれでいて周到に計算されたギャグ、ほのぼのしたラブコメディ、さりげない日常生活に垣間見えるブラックなユーモアなど読んで(見て)唸らされることは多かったが、作品としては「普通におもしろい」が総体的な感想で、自分の中でもショックは大きかった。
たとえば一気に全巻揃えたり、サイトで感想を書きまくったり、そういったエネルギーやパワーが爆発するほどののめり込みが全くなかったという・・・。
強いてあげれば「めぞん一刻」後半の響子さんと五代くん(敬称付けが固有名詞に付き)の恋が本格化する頃から本腰入れて読み始めたくらいだろうか。

集大成である「犬夜叉」を読んでから逆行したこと、時代の変化、何よりも私がギャグ漫画というジャンルにあまり関心がないこともあるだろうが、それにしても残念な話。
残ったのがホラーとSFとシリアスなテイスト。
そしてそれらがぎっしりみっしり詰まっていた作品が「人魚シリーズ」と「高橋留美子劇場」から「炎トリッパー」他数作品だった。

だから「犬夜叉」は別格として好きな高橋作品は?と聞かれたら「1位 人魚シリーズ、2位 炎トリッパー、3位 めぞん一刻」と答えている。
今回取り上げたいのが「人魚シリーズ」だが、最初に惹かれたのは「人魚」と「不老不死」の部分だった。

アンデルセンの「人魚姫」、かぐや姫の「不老不死」で育った世代にとって人魚や不老不死といえばどちらかといえばロマンチックな趣がある。
人魚といえば岩に腰かけ、長い髪には貝殻の髪飾り、ハープなどかき鳴らす美しいお姫様がイメージとして浮かぶし、永遠に老いることなく朽ちることなく若く美しいまま幸せに生き続ける「不老不死」は幸せの象徴だった。

そもそも「若く」はともかく「美しく」など人それぞれで、美しくもない当方としては不老不死を得たとしても「永遠に(これ以上は)老いることなく、美しくもないまま生き続ける」ことが果たして幸せか?と疑問も残る。
理不尽な事故や病気によりその命を失うことは辛いけれど、全ての人が永遠に今のままの状態で生き続けることにはどんな意味があるだろうか。
今愛し合っている恋人たちの愛は永遠に続くだろうか。

「十二国記」で王になると不老不死となる設定があるが、その中で500年800年生き続けている王が出てくる。
王としての激務の中にいながら、その口からは時々「飽いている」という言葉が出てくる。
人生に飽いても辛くても生きなければならないのもまた不老不死、でもその言葉にはやはりロマンの香がする。

それをぶち壊してくれたのが「人魚シリーズ」だった。
人魚の肉を口にしてうまくいけば人は不老不死になるけれど、それは決して幸せへの道ではない。
異端者として疎まれ、その死を望まれ、肉を欲して狙われる。
失敗すれば「なりそこない」として見るもおぞましい姿となり、人の心も失い(例外はあるが)、それでも死ねない運命が待っている。

人魚、不老不死という現代ではとりあえず虚構のテーマを描きながら、これまでの物語にはまるでなかった痛烈な現実感が、そしてその人魚と不老不死者の描かれ方の怖さと美しさと切なさにまずは惹かれた。
(2006年10月3日の日記)  
人魚は笑わない 〜人魚シリーズ
「犬夜叉」で高橋留美子という名前を知ってアニメの「うる星やつら」「らんま1/2」をちょっと見て「犬夜叉」の歴史伝承やシリアスな部分とのギャップに驚いた。
次に「めぞん一刻」を読み切ってギャグがメインの初期はさほど興味はなかったが、五代と響子の恋、大人の部分に酔いしれて。
そして手に取ったのが「人魚の森」だった。
高橋先生のカラー、特徴を今ひとつ掴みきれない状態で「人魚」が出てくる「不老不死」の物語、知っていたのはそれだけ。

ちなみに1200円もする豪華本!の漫画があることを知ったのもこれが最初。
和紙のような手触りの表紙に犬夜叉やらんまのキャラとは違う、漫画と言うより「絵」と表現したくなるような実写的なイメージの真魚がいる。
さらに開くと美しき日本画のような色を抑えた人魚たち。
人魚と言えば「人魚姫」「赤いろうそくと人魚」の私だから、きっと人魚と人間の青年との美しく切ない恋物語だろうくらいに考えていた。

第1話「人魚は笑わない」では主人公湧太がすでに人魚として登場する。
「男の人魚もいるんだあ」とまずびっくり(笑)。
しかも生きてる時代が今ってので二度びっくり。
本籍だの身分証明だの人間が人間として根づくことに厳しいこの時代、500年前ならいざ知らず、今根無し草として生きることは可能なのか。

住む場所を探すにも仕事を探すにも身分証明は必要。
たとえば「BLOOD+」のハジも同様の立場だったが、彼には組織がついていて、おそらくその時代に合った身分を与えていたのだろうと思われる。
しかし湧太は本当にただの青年だ。
やがてそういった細かいことも気にならなくなるほどこの物語に引き込まれたのだが。

人魚探しの湧太は不老不死を求めているのかと思っていたら、実は湧太は死ぬことを求めている不老不死の者だった。
ここでずっと抱いていたロマンチックな人魚や不老不死のイメージがまず崩れた。
なにしろ湧太も真魚も作品を通して何度も殺される、あるいは死ぬような目に合わされる。
不老不死だからと言って痛みは苦しみは常人並みに感じるわけだからたまったものではないだろう。

しかも2人とも強さや戦闘能力の上ではごくごく普通の人間だから、犬夜叉や乱馬のように敵と闘えるわけでもない。
必死の抵抗で辛うじて逃げ延びたり敵を倒したりするだけだ、これはかなり悲惨である。
現在は科学の力で可能にしようとしている不老不死だが、私はずっと別の形の不老不死を考えていた。

「犬夜叉」の逆髪の結羅編で、結羅は犬夜叉に胸に穴をあけられても血が出ることもなく平然としていた。
あれは不老不死でもなんでもなく、魂移ししていたのだから当然なのだが、仮にあそこで結羅が勝っていたらどうだろう。
結羅の胸の穴は再生することなく、結羅はあの姿でけろっとして生きていくのだろうかと思った。
実は私が想像していた不老不死はあの形。

あれ?なんか違う、って思ったのは定かではないがたぶん「十二国記」だったと思う。
麒麟との契約により不老不死となった陽子だが、妖魔に襲われれば怪我をし、血が出る。
普通の人と違うところはその傷が完治することである。
常人ならば死に至る傷でも痕も残さず消え、首を切られない限り死ぬことはない。

つまり「十二国記」や「人魚」シリーズで記される不老不死は「再生」の能力なのである。
陽子や真魚はたとえば髪を5センチ切っても爪を1ミリ切っても元通りに伸びてしまうんじゃないか、そんなことまで考えた(笑)。
不老不死は「壊れても死なない能力」ではなく「壊れても元の形に戻ろうとする能力」だとすれば、細胞の再生からなる化学力が生み出す不老不死、決して不可能ではないだろう。
近い将来ではないにしても。

人魚同士の湧太と真魚が出会うのが「人魚は笑わない」だが、興味深いのは湧太は普通の人間として死ぬことを望み、真魚は不老不死の者としてであっても生きることを望む部分だろう。
不老不死とは言え、真魚は生まれたばかり。
15歳になるまで拘束されて人里離れた場所で女ばかりの手で育てられた。

生きた年月は普通の人とまだ同じ。
不老不死の過酷さを知らないゆえと言えないこともないが、それでも46ページで光の中よろめきながらも自力で立とうとする真魚の姿は清々しい。

もうひとつ明らかにされるのは、たとえ人魚を見つけ、その肉を食べたとしても誰もが不老不死になれるとは限らないということ。
人魚の肉が合わなければ「なりそこない」と呼ばれる怪物になり、恐ろしい姿で生きることを強いられる。
泣いているところを見ると人間としての意識はあり、同時に人間を襲う怪物の意識も身につけてしまったのかな?と思った。

村人総がかりで襲われる湧太と真魚だったが、何とか助かり村から脱出することになる。
真魚と湧太はわずかばかりの成功例、残された村人も悲惨だが、真魚と湧太にも決して幸運とは言えない運命が待ち構えることとなる。
今回は顔見せと高橋先生流人魚の説明に終始した物語だったが、やはり一番印象深かったのはいつまでも若い湧太と一人年老いていく女房。
共に老いるのはいい、けれど自分だけが老いていく悲しみと恐怖。

「犬夜叉」につながる大きなテーマだけに忘れられないシーンとなった。
もしも「犬夜叉」より先に人魚シリーズを読んでいたらどうだったろうか。
刊行順に「うる星やつら」を読んでから人魚シリーズを読んでいたら・・・。
その衝撃はずっと大きかったのではないだろうか。

人魚シリーズとの出会いが「犬夜叉」まで高橋作品を知らなかったことを心底悔いた瞬間だった。
(2007年1月20日の日記)
闘魚の里 〜人魚シリーズ
「闘魚の里」は人魚シリーズの中でも好きな作品。
やっと人魚らしい人魚が出てくるし、砂(いさご)という女性の名前とキャラにすごく惹かれた。
彼女はいわゆる悪女なのだけれど、人間社会の善悪というしがらみからかけ離れた世界を生き、あっさりと去って行った人魚。
物語の中でそれまで出てきた人魚は男性だったり、人型だったり、やっと出たかと思えば顔が人じゃなかったりとちょっと寂しかったのだが、砂が海に飛び込むと、やっとイメージ通りの人魚となる。

ところが最初に出てきた海賊の若頭が少女と思わず、昔の湧太と信じて読んでたうつけ者(笑)。
表紙で銛を回してるカットの足の線のすべらかさはどう見ても女性なのだけど。

さて、「闘魚の里」は鳥羽、逆髪の2つの島の海賊が登場する。
鳥羽市は三重県、というより伊勢志摩地方と言った方がわかりやすいかも。
九鬼嘉隆で有名な九鬼水軍発祥の地で、近辺に離れ小島も多く、そのためにモデルにしやすかったのかな?などと考えてみた。
他にも「十二国記」に登場する「村上水軍」や有名な「雑賀衆」雑賀孫市など、海に近い場所ゆえに発達したのか、なぜか惹かれる。

子供の頃読んで憧れた「ロビンソン・クルーソー」「十五少年漂流記」「宝島」や「海底二万里」など、どこか海に対しては憧れの気持ちを抱いている。
女の子らしくと言えば「人魚姫」「赤いろうそくと人魚」だろうか、心に残っているのは。
これが山、山賊となると途端に蛇がイメージされて泣いてしまうのだが(笑)。
小さい頃両親に連れられて山登り、涼しい木陰、小川のそばにシートを敷いて涼んでいたら、上から蛇が落ちてきた、この記憶は絶対消えない。

本編には湧太が仲間入りする「鳥羽」衆と砂がいる「逆髪」衆が登場する。
ここでは「さかがみ」と呼ばせている逆髪衆は同じ海賊でありながら残虐非道、通行する船を襲っては皆殺しにして積荷を奪っている。
ヒロイン鱗(りん)の鳥羽衆は船は襲うが、通行料として積荷の一割を受け取るだけ?の温厚な海賊集団、もちろん殺戮は好まない。
後に「犬夜叉」に「逆髪の結羅」が登場するが、古来より伝わる「逆髪」の物語が高橋先生の興味を引いたのだろうかと考えるとおもしろい。
砂に雇われた湧太は「死んで」鳥羽島に打ち上げられ、生き返って鱗と出会うことになる。

この鱗も砂とは正反対の清々しい魅力を見せる。
かよわい肩に父親代わりの若頭の重責を負いながらがんばり、同時に湧太に対して女らしい一面も。
湧太も不老不死であることを悟られなければ、それほど痛い思いもせずに済むだろうに、そこは物語だから行く先々でトラブルに巻き込まれる。
戦国時代ですでにこれほどの苦しみと孤独を感じながら生き続けた湧太、真魚と会うまでの長い年月がどのようなものだったのか、物語では部分的にしか描かれないが、それでいてどこか飄々とした雰囲気を醸し出しているところがさすが高橋先生。

ギスギスして人を憎んで恨んで、自己愛に溺れてばかりいるのは「普通の」人間の方だ。
特殊な人間である湧太を普通に描き、普通の人間が湧太と出会うことで陥る醜さ、そのおぞましさ。
時々見られるグロテスクな描写以上に恐怖を感じた。

愛した男の子を産むために、男を殺した逆髪衆の頭のものになり、操る砂。
常に気を張って生き抜くも、湧太の前では涙を流す鱗。
鱗に惹かれながらも人として生きる道を探そうとする湧太。

残念ながら真魚というキャラにはそれほど惹かれるものを感じなかった私だが、この「闘魚の里」の3人は印象が強い。
せめて鱗が生きている限り、一緒にいてやれなかっただろうかと思う。
湧太は鱗の眼差しに年老いてゆく自分への嫌悪と、いつまでも若い湧太への恐怖を見るのが怖かったのだろうか。
全てのしがらみを捨て、恨みを晴らし、何もかも捨てて海に帰って行く砂だけが幸せそうだ。

砂のように生きていけたら、そんなうらやましさを感じる。
最後には砂のように海に帰れたらいいなと思う。
(2007年2月10日の日記)  
人魚の森 〜人魚シリーズ
人魚シリーズのアニメは放映時に一度見ただけなのだけど、そのほとんどが原作のイメージと同一化していて、アニメとしての印象があまり残っていない。
そんなアニメ人魚シリーズの中で一番印象に残っている作品がこの「人魚の森」だった。

いえ作品そのものがどうこうじゃなくて(笑)、「犬夜叉」の楓役京田尚子さんが佐和を演じておられたから。
佐和は若くて(白髪ではあるが)美しい「異形」の姉を持つ老婆、その設定が楓と同じで、京田さんがどんな感想持たれたのかなあなどと興味津々だった。

声優さんに興味を持ち始めの頃は、特に声優さんの個人サイトやファンサイト、公式サイトなど見ることもなく、「犬夜叉」は山口勝平さんっていう人なんだ、「かごめ」は雪乃(現在は雪野)五月さんって声優さんなんだくらいの知識で満足していた。
声優さんはあくまでも声優さんで、舞台で俳優として演技したり時には歌手として歌を歌ったりすることなどなく、あくまでも「声」の仕事だけする人、みたいな。
その後、俳優でありながら声優でありといった掛け持ちされる方がほとんどであることを知ったきっかけが京田さんだった。

さて「人魚の森」だが、もちろん原作としても完成度の高い心に残る作品の一つ。
人魚シリーズを読んでいると、主役の不老不死の2人よりもいわゆるゲストとして登場する人物の印象が強く、湧太と真魚は狂言回し、というより語り部としてのイメージしか湧かない。
それは湧太と真魚がすでに不老不死にもはや振り回されることもなく、共に生きる人生を作り上げてしまっているからだろう。
湧太はもしかしたら真魚に会う前に孤独に耐え切れないか、不老不死を渇望する者たちの餌食になっていたかもしれない。
真魚にしても湧太に会わなければ、育てられた者たちの犠牲になっていたのかも。

湧太は古い物語(闘魚の里など)でもすでに人間として出来上がってしまっているし、真魚も湧太と出会ってすぐに心の成長を遂げてしまっている。
その意味で、私はむしろ「人魚」に振り回され、時には死んでいく愚かと言っていいのか、哀れと言っていいのか、そちらの人物の方に惹かれるものを感じる。
「人魚の森」で言うなら、当然登和と佐和の姉妹だろう。
最初は不老不死になりたくて人魚の肉を食べて「しまった」姉登和と、そんな姉を哀れと思っているのか、虐げられても従順な妹佐和にしか見えなかった姉妹。

しかし実際は、登和が病で死の床に就いた時に佐和が人魚の血を登和に与え、効き目を「試して」みたのだという。
佐和はこれまで人魚の肉を口にして無事だった者がいなかったことを知っていた。
血だったせいか、体質が半端に合っていたせいか、登和は「なりそこない」にこそならなかったが、手は怪物化し、見た目は若いものの佐和と同様に年老いていく悲劇となる。
執拗に人魚の肉を欲しがる登和、佐和も湧太たちも登和がもう一度人魚の肉を口にして、今度こそ本当の不老不死となりたかったのだろうと思っていたが、登和の願いはただひとつ、佐和への復讐だった。

だが果たして佐和の行為は悪意だけのものだったのか。
姉の命を助けたい気持ちはなかったのか。
確かに姉の体で試してうまくいったら自分も口にする。
いつまでも若く美しい姉妹として生き長らえる、そんな願いはなかったか。

人魚シリーズには頑なに不老不死を欲する者たちが描かれる。
けれど不老不死になった後のことを思い描く者はいない。
寿命ある者たちの中で、永遠に年を取らずに生きることの辛さを誰も考えない。
佐和の行為は愚かだけど、その気持ちはなんとなくわかるような気もする。

同時に死んだものとして隔離され、何十年も生きなければならなかった登和の恨みも。
佐和も決して幸せな人生ではなかっただろう。
家を継ぎ、結婚して子どもを生む、登和が決して望めなかった人生だけど、登和の存在は常に佐和の枷となり、重荷となって佐和を苦しめ続けたのだろう。
人魚に関わらなければ普通に生き、普通に死ねた。

最後に人魚の肉を口にするように迫られ、心臓麻痺で死んだ佐和と虚脱して死んでいった登和。
不老不死とはそこまでして願わなければならないものなのだろうか。
理不尽な死、病気や事故やそんな原因である時突然奪われる命は辛い、悲しい。
けれど十分に生き切って、年老いて死んでいくならそれでいい。

今不老不死の問題を今を生きる人たちに投げかけたら、おそらくほとんどの人がそう答えるのではないだろうか。
今20歳の人がこれ以上1歳も年をとりたくないと答えるだろうか。
今80歳の人に「20歳の体に戻れますよ。」と言ったらどうだろうか。
体は若返るけど寿命は変わらないのか、寿命もさらに60年追加されるのか。

不老不死の難しさはここにある。
その線引きが難しい。
今の時代、今の私にとってあまりに難しいテーマなのは、あまりに現実離れしたテーマだからなのだろう。
時折テレビの科学番組なので取り上げられているが、やはり人魚シリーズのような不老不死には追いついていないようである。

不老不死が夢でなくなる時代は来るのだろうか。
その時、その時代の読者に人魚シリーズはどのように読まれるのだろうか。
その時代まで生きて見届けたいものだけど(笑)、あと何十年かかるだろうか。
(2007年3月18日の日記)
夢の終わり 〜人魚シリーズ
不老不死を望むことが罪なわけではない。
しかし人魚の肉を口にし、不老不死になれなかった時の代償はあまりにも大きい。
なりそこない、恐ろしい姿となって死ぬこともままならず生きるその姿には深い悲しみがまとわりつく。

死によって救われた男、真魚に抱きしめられて幸せに死んだ男。
人魚に関わったばかりに不幸になってしまう人々の姿は、時に主役のはずの2人を超えた強い印象を残す。
人魚シリーズがこれほど読むものの心を打つのは、このなりそこないの存在にあるのではないだろうか。

真魚と共に生きたいと願いながら、自分の中に潜むものの恐ろしさを知る男は、真魚に湧太の元へ帰れと言う。
何度読んでも涙が出る。
誰が悪いだけではないのにここまで苦しめられる。
成功者ともいえる湧太と真魚でさえその生き様は楽ではない。

そこまでして望むべくものなのだろうか、不老不死は。
事件や事故、病気などで断ち切られる命は辛い。
けれど誰もが不老不死とは言えぬまでも、200歳までは若くして生きる。
そして電源が切れるかのように終わりが来る、どうだろう。

老衰があるから人は死への覚悟ができる。
理不尽に命を断たれることは辛い、けれどただ生き長らえる命の価値はどうだろう。
人魚シリーズを読むたびに同じ問いが頭に浮かび、答えは出ない。

仮に今目の前に人魚の肉があったらどうだろう。
なりそこないへの恐怖で口にはできないだろう。
それ以前に自分だけが不老不死となる異様さに、やはり口にはできないだろう。
不老不死があるなら、それは全ての人のものでなくてはならない。

考えてみても現実離れしすぎてピンとこないのだが、人魚シリーズの中には現実の生々しさがある。
やはり怖い、そして哀しい。
その中で真魚の清々しさがとても好きだ。
湧太もがんばっているのだけれど、真魚に振り回されてすっかり印象が薄くなってしまった。

こうした「犬夜叉」以前の作品を読むと、「犬夜叉」が過去作品の集大成であることがとてもよくわかる。
高橋先生の次回作の中では「犬夜叉」でさえも過去の作品となるのだろうが、「犬夜叉」や「人魚」シリーズのように惹かれることはあるのだろうか。
「犬夜叉」が終わりに近づいている今、次回作への大きな期待と小さな不安が時々頭をよぎるけど、感想だけは書き続けていくことになるんだろうな。
「らんま1/2」みたいな作品だったら楽しく読むだけだろうけど(笑)。

高橋作品に出るお年寄りもいつもいい味出してるが、今回の老いた猟師も好きだった。
生き残ることができて良かったと思う。
残りの人生を「大眼」を弔いながら生きていくのだろうか。
(2007年4月21日の日記)
約束の明日 〜人魚シリーズ
哀しい恋物語が、人魚が絡むとここまで凄絶なものとなる。
殺され、無理矢理蘇らせられ、恐ろしい夢を生きた苗。
嫉妬のあまり苗を殺し、蘇らせた苗を前にしながら孤独から逃れることはできなかった英二郎。
苗を慕っていた草吉も老人となって狂った苗を見守り続ける。

得られるべきでないものを望むから報いを受けるのか。
望まずして不老不死の者となった湧太や真魚だから狂わずにいられるのか。

最初に読んだ時は、英二郎が悪いと単純に思った。
けれど湧太の腕の中で苗が言い放つ

「とてもやさしいいい人・・・
 でもそれだけ。」

の惨さ。

英二郎に直接聞こえてなくても、苗のその気持ちは十分に感じていただろう。
そんな「やさしいいい人」が嫉妬に狂って許婚を殺す、それはそれで恐ろしいことだけど、普通ならそれは一つの事件として終わりを告げる。
英二郎は法から、天から、あるいは己の心から裁きを受け、贖罪の人生を送っていただろう。
愛しい苗も、憎い苗も、愛しいなりに、憎いなりに過去の存在としてその心に生き続けるはずだった。

しかし苗は若く美しい姿で蘇り、しかし英二郎に心開くことなく、操られることもなく、湧太だけを求めて生き続ける。
一方英二郎自身は大金持ちとなり、人生の成功を収めたが、その心は常に空ろで苗を求め続ける。
苗が目の前にいてさえその心は孤独だろう。

永遠の人生をやはり孤独に生きる湧太が、たまたま住みついた村で苗に心を惹かれ、共に生きる気もないまま愛する気持ちもわからないではない。
けれど「約束の明日」の主人公は苗と英二郎、そして苗が追い求める苗の心の中の湧太だ。
それでも最後、救われて本当に死んだ苗の笑顔は美しかった。

そんな中、真魚はたくましい。
湧太が必死で運命と戦いながら、どこかその生き方が受身なのに対し、真魚は真っ向から挑む強さがある。
何もわからず、何も考えず、ひたむきに湧太だけを見つめて生きる者の強さだろうか。
恋心を意識せぬまま、苗にやきもちを焼く真魚、その心を投げ捨てて苗を守ろうとする真魚。
その幼さ、ひたむきさは湧太の心をも救う。

ところでこうして高橋先生の「犬夜叉」以前の作品を読むと「犬夜叉」がこれらの作品の集大成ということが改めて実感できる。
今回の死に望む際の苗の笑顔は神楽の死に際を連想させるし、次回「人魚の傷」で湧太が蘇ったことを知る真魚の横顔と涙は桔梗そのものだ。
いえそんなひとつひとつのカットだけじゃなく、英二郎の歪んでしまった報われぬ恋は奈落をイメージさせるし、「舎利姫」のなつめは、りんや桔梗を髣髴させる。

「報われぬ恋」は永遠のテーマ、数々の苦難を乗り越えて幸せに結ばれるハッピーエンドよりも、こういった報われぬ恋や人生に涙する物語に惹かれるようになったのは、やはり「犬夜叉」の影響なのかもしれない。
(2007年5月18日の日記)
人魚の傷 〜人魚シリーズ
幼子が、幼子のままで800年生き続ければどうなるのだろう。
普通の子供が持てない強さもつくだろう。
経験を経て大人が太刀打ちできない知恵もつくだろう。
けれど変わらないものがひとつだけある。

人は成長し、母を求めていた心が自分と共に生きる人を求めるようになる。
どちらも「愛」ではあるけれど、それぞれの愛の形は違う。
成長しない心はいつまでも母を求め続ける。

湧太より幼い真人は確かに生きにくいだろう。
世話してくれる、守ってくれる保護者が必要だ。
だがそれ以上に幼い心は愛してくれる母を求め続ける。
ゆえに真人は出会った女性に人魚の肉を与え続ける。

非情な殺戮者となってなお真人は母を求め続ける。
いつか人魚の肉がなくなった時、真人はどうするのだろう、どうなるのだろう。

その点湧太は大人だ。
湧太は人と関わることで迎える否応ない別れを、自分から去ることで避けようとしている。
湧太の若さを恐れ、自分の老いを悲しんだ妻の記憶がトラウマとなっているのかもしれない。
鱗のようにわかってくれた女性もいたが、苗のように悲劇を迎えた女性もいる。

それでも湧太は真人よりは終わりのない人生にうまく立ち向かい、うまく処理している方だと思う。
共に不老不死を生きてくれる真魚とも出会った。
大人で不老不死となった湧太と幼子のまま不老不死を迎えた真人。
普通の人間に湧太の苦しみがわからないように、湧太にも所詮真人の苦しみはわからない。

「おれたちみたいなのがいちいち人を好きになってちゃ、たまらねえじゃねえか・・・」
大人の口ぶりで話す真人。
いちいち人を好きになっているからこそ出てくる台詞なのだろう、いつもたまらない想いをしているからこそ出てくる言葉なのだろう。

最後に真魚をあきらめ、後始末をして、自分自身の死も演出して去って行った真人。
車で事故を起こした真人の遺体は見つかったのだろうか。
未来の見えない真人と、湧太の生を確認して嬉し涙を流す真魚の美しい横顔のコントラストがあまりに切ない。

以前人魚シリーズの感想を読み漁っていた頃、一番印象の強い人物として新吾をあげている人が多かったが、私の中で一番の衝撃度はこの「人魚の傷」の真人だった。
同時に新吾であれ真人であれ「犬夜叉」の奈落であれ、100%の悪人はいないのだと再認識されたのも人魚シリーズだった。
少年漫画界を生き抜く高橋先生の強みはこの根本にある優しさなのかもしれないと思う。
何かがあるから悪に染まってしまう。

許されるかと言えば許されまい。
しかし憎むかと言えば100%は憎めないほんの少し垣間見える辛さや悲しみや苦しみや。
それが高橋作品に深みを与えているのだと思う。
私は高橋先生のそんな部分に強く惹かれる。
(2007年7月21日の日記)
舎利姫 〜人魚シリーズ
最初に「舎利姫」を読んだ時、「あっ、りんの原型だ。」と思った。
別に深い意味はない、年恰好や髪型や、そんな見た目から思っただけ。
けれど読み進んでいくうちに、「ああこれは桔梗だ・・・。」と思いが変わっていった。
魂をしまい込んだまがい物の体、無理矢理蘇らせられた偽りの生。

「舎利」とは遺骨のこと、舎利姫と言えば聞こえはいいが、要は遺骨の入れ物だ。
全くなんてネーミングだろう。

時は戦国。
天下を誇った関白秀吉が死んで、徳川家康が台頭した頃。
大阪の陣の直前あたりの話だろうか。
冒頭登場する百姓たちの話に出てくる「豊臣のお殿様」はおそらく秀吉の遺児秀頼だろう。

大阪の陣は1614年(慶長19年)から1615年(慶長20年)にかけてだから、今から400年ほど前の話。
「九十九の蝦蟇」の信長を頼りにざっと計算すると、犬夜叉の時代からは60年ほどたっている。
かごめが戦国時代で生きていれば75歳くらい、犬夜叉は30代後半から40代くらいかな?私の計算だと(原作アニメ比較1「犬夜叉一族 〜殺生丸登場」参照)。
湧太がもしも犬夜叉に会っていれば、こいつも人魚の肉を食ったんじゃ?なんて勘違いしそう。
残念ながら湧太の生きる戦国時代と犬夜叉の戦国時代はリンクしなそうだけど。

話がそれたが、舎利姫なつめは戦乱の中で死んだ娘。
悲嘆にくれる父親を哀れに思ったある僧が、人魚の肝と「反魂」という秘術を用い、蘇らせた。
しかし娘は動物ばかりか生きた人間をも襲い、生き胆を食らう浅ましい姿に成り果てていた。
娘を元に戻そうとした僧の前から男は娘と共に姿を消す。

それがなつめと父親。
不老不死となり、年をとらないなつめに対し、父親だけが年老い、まるで孫と祖父のようになって再び姿を現す。
優しい父親と優しい僧、優しさだけの行為があまりに惨い結果となった。
責任を取ろうとする僧は自分のしてしまったことの本当の惨さを理解していたのか。

娘のために人殺しも厭わぬ父親は、人の良さげな笑顔の下に陰惨な素顔を垣間見せる(287ページ)。
しかしあまりに哀れなのは、そこまでして守ろうとしたなつめに生前の記憶がなく、父親に対して肉親としての情愛が全くないこと。
だからなつめは簡単に父親を捨てて湧太について行こうとする。
父親と湧太と3人で、という意識のなさが父親にとって何より残酷な罰だろう。

なつめ自身が自分を不幸だと思っているような描写はないが、猿と魚の骨で作ったまがい物の人魚を弔う描写が印象に残る。
「ゆっくりね・・・
 疲れただろう。」
まるで終わりを迎えた者をうらやんでいるかのようなその横顔。
なつめもまた、疲れているのだろう。

未来を見据え、これから生きていくことを考えているなつめと、どんな姿でもいい、なつめに生きていて欲しい父親、2人の想いがどこですれ違ったのだろう。
娘なしでは生きていけない父親と、父親を必要としない娘。

この「舎利姫」でも湧太は傍観者に過ぎず、物語はなつめ親子と僧の優しさと哀しさと苦しさで織り上げられていく。
人魚シリーズにおける湧太の役割は、各時代、各地に生きる不老不死の者たちに結末を与えることだ。
湧太の結末はまだ描かれていない。
先日「1ポンドの福音」が20年ぶりに完結した。
人魚シリーズも湧太と真魚に結末を与えて欲しいと思う。

最初の頃は、現実になりつつある(科学による)不老不死に警鐘を鳴らすためのシリーズなのかな?と思っていたが、高橋先生はただ、人間の優しさと悲しさとそれゆえの残酷さを描きたかっただけなのかもしれないと思うようになった。

なつめに手を切り落とされてもなおなつめの供養をしようとする僧、湧太と一緒に行きたいけれど、父親の想いを悟って命を与えたなつめ、救われて欲しいと思う。
けれど一番切実なのは、「かわいそうだ」から姫を「起こしちゃいけない!!」と泣き叫ぶなつめ、それこそがなつめの本心だったのだろう。
(2007年10月1日の日記)
夜叉の瞳 〜人魚シリーズ
Amazonで人魚シリーズを取り寄せた時、「夜叉の瞳」のカスタマーレビューで「人魚シリーズ史上最悪の人物・新吾」が登場すると書いてあったので奈落と比べてどうなのか、奈落が新吾の進化形?となるのか興味津々だった。
なんたって「夜叉」だし、一番「犬夜叉」に近い作品なんじゃ?なんて期待も大きかったし(笑)。

いざ読み始めた時はちょっとがっかりしたというのが正直な感想。
たしかに新吾はとんでもない悪党なんだけど、前に読んだ「人魚の傷」の真人の印象があまりに強かったせいか、なんか薄っぺらな悪党という印象を受けたのだった。
その印象が後で激変するのだが、それは後回しにして、読み進めながら「あれ、これとよく似た話、どっかで読んだことあるような気がする・・・。」と気になって仕方がなく、しばらく思い出せずに歯がゆく感じていたらなんとアニメ「犬夜叉」の後釜「ブラックジャック」で感激の?再会。

ただしアニメはストーリーが大きく変えられているので見なかったことにして、必要なのは原作の「春一番」。
ブラックジャックによって角膜手術を受け、目が見えるようになった少女(千晶)。
しかし千晶は目の中に見も知らぬ男性の姿を見てしまう。
千晶はその男性に恋するのだが、不安を感じたブラックジャックは調査を開始、角膜提供者が3ヶ月前に殺された女性のものであることを知る。

千晶の幻の男性は元の角膜の持ち主を殺した男であり、千晶の角膜は元の持ち主の女性が殺される瞬間に「犯人」の顔を焼き付けていたのだ。
千晶と犯人が出会い、千晶は殺されそうになるが、間一髪ブラックジャックが助けに入るという話。
「ブラックジャック」シリーズは子供の頃読んだのでどんなエピソードが揃っていたのかほとんど覚えてないが、今読み返してみてもこの「春一番」はいい。
で、その「春一番」が「夜叉の瞳」の下地となったのだろうか?と思ったわけである。

「夜叉の瞳」が発表された頃、そんな話は出なかったのだろうか。
私が「遅れてきた高橋ファン」であることが歯がゆくなるのはこんな時で、もしかしたら発表当時ファンの間で盛り上がったかもしれないなあなんて思うと、どうしてもっと早く高橋作品を読み始めなかったんだろうと悔しくてたまらなくなる。
まあ悔しがっても仕方がないので話を進めると、この「春一番」を思い出したこと、「夜叉の瞳」という物語自体が不思議な余韻を残すことでさまざまなことを考えさせられた。

まず前述した新吾だが、彼は最初に思ったような薄っぺらな悪党ではなかった。
確かにその性格は残虐で、およそ良心というものを持たない破綻者のような印象を受ける。
その新吾が姉から奪った眼球にやきついた自身の姿。
姉の目玉をえぐりとろうとしている浅ましく恐ろしい「夜叉の」姿だった。

新吾は姉晶子が自分を責めているかのように感じ、苦しむ。
故に物言わぬ人形と化した晶子の体を探し出し、首を落とそうと(完全に殺そうと)する。
晶子が「確実に」死ねば新吾自身その夜叉の自分から解放されると信じて。

湧太は晶子が新吾と心中しようとしたことを思い起こし、浮かばれない晶子の辛さを思いやって、晶子を解放するためにその首を落とす。
真魚は晶子はすでに死んでいたのだと言う。
その言葉は湧太を慰めるために出たものだったが、私も案外そうじゃないかと思った。

晶子は死んだがその体だけが人形と化して生き続ける。
生き残った者たちが勝手に晶子の幻影を作り上げて怯え、哀れみ、苦しむ、それだけのことだったのだと。
新吾はその生来の残虐さはともかくとして、美しい姉晶子を慕っていたのではないか。
その姉が自分のために苦しむことに歪んだ喜びを見出し、姉が他の男の物になろうとすればその男を殺す。

晶子が自分を殺そうとした時、新吾は姉が自分を裏切ったと感じたのではないか。
姉の眼球を奪って新吾は姉とひとつになる。
しかしその瞳には修羅と化した己の姿がやきついていた。
新吾がただの悪党なら「それがどうした」と嘯くだろう、もしくは普通に壊れるだろう。

幻影を見るのが嫌ならもう一度姉の眼球を自分の眼窩から抉り出せばいい。
眼球を自分の眼窩に埋め込み、姉と同化した瞬間から、今度は新吾自身が姉千晶に束縛されたのではないかと思う。
わずかばかりの良心の咎めと見ることもできるだろう。
姉に良く似た女を探し、付き合って殺す。
新吾の妄執が晶子とは関係のないところで新吾を追いつめていったのだと思いたい。

晶子は最早そこにはいない。
残っているのはただの抜け殻。
新吾はそこに恨みを探し、湧太はそこに苦しみを見出す。
新吾と湧太の晶子に対する想いが強いだけに、彼らはそこに「心」を見出そうとする。
真魚はむしろ晶子が生きていた頃に関わっていないために晶子に振り回されることなく見据えていたんじゃないかと思う。

晶子の首を打ち落としても見えてしまう夜叉と化した己の姿。
それは新吾自身が己の瞳に焼きつけたものだから。
新吾は自ら望んで姉に自分を苦しめさせる。
苦しければ苦しいほど、新吾は姉と強く結ばれている自分を感じていたことだろう。
姉を憎いと感じる心の底で。

姉を本当に殺して新吾は救われたか。
救われはしなかった。
新吾を縛るのは新吾の心だから、姉に対する妄執だから。
己の手で己の首を打ち落として始めて新吾は安息を得る。

床の上、血にまみれて寄り添う2つの首。
目を閉じた新吾の表情は安らかだ。
残虐に生まれて残虐に生きて、それゆえに苦しんで死によって救われる。

2人の遺体を湧太は一緒に埋めてやったのだろうか。
真魚がいなかったら、湧太はそんな2人をうらやましいと感じたかもしれないなあと思った。

さて新吾、後の奈落と進化する可能性は十二分にあっただろうか。
いえやはり新吾は新吾、奈落は奈落だ。
極端にデフォルメされているとはいえ、浅ましい妄執に囚われる危険性は人であれば誰にでもある。
殺すの殺さないの、そんな極端なものではなく。

そういった意味で新吾はたしかに残虐だけど、限りなく人間的なキャラだったと思う。
奈落もまた新吾とは違った意味で人間的だ。
そして高橋先生はもしかしたらシリアスな部分で、正義のヒーローよりどっぷりと妄執に囚われた限りなく人間臭い悪党を描く方が上手なのではないかと思った。
ヒールに魅力があってこそ主役も輝く、奈落や新吾、真人(人魚の傷)はその典型的な例かもしれない。

最初に書いた「春一番」とはモチーフが似てるだけで直接意識はされていないのかもしれない。
けれど千晶の「瞳」に焼きついた男が単に「犯人」として告発されたのに比べ、自分の心が自分を「告発」したのだと考えれば「夜叉の瞳」は「春一番」を意識して描かれたものだと信じておこう、信じるのは自由だ(笑)。
ヒロインの名前が「千晶」と「晶子」で「晶」つながりだし。

ちなみに姉弟心中事件が起こるのは日露戦争の少し前と設定されているので1904年(明治37年)より少し前の話となる。
湧太と新吾が再会するのは1992年(平成4年)。
真魚と湧太が出会うのはその間か・・・。

重要キャラではないが気になるのが鬼柳家の持ち主の老婦人。
事故とはいえ新吾を何度も殺し、杉子に振り回されながらも杉子に対する優しさを失わず、守ろうとする。
新吾もなんだかんだ言って殺そうとしなかったのは一応自分の子孫という気持ちでもあったのだろうか?
殺されてしまったら話が続かないとはいえ、陰湿な物語の中で不思議な立ち位置にいる人ではあった。

感想はあと一話(最後の顔)残っているが、一応全部読み通して一番印象に残ったのは「人魚の傷」、そして二番目がこの「夜叉の瞳」かもしれない。
(2008年1月18日の日記)
最後の顔 〜人魚シリーズ
現在出ている人魚シリーズの最終話。
一読した時は、母の愛の哀しい暴走だと思った。
次に読んだ時はただのエゴだと感じた。
愛する息子をあえて異常の世界、自分の世界に引きずり込む。

もしかしたら息子がなりそこないになるかもしれない、そんな危険もあえて冒す。
それでもそれは愛だ、歪んではいるけれど、哀しい形ではあるけれど。
子供を持つ読者はこの物語を読んでどう感じたのだろうか。
母の行動に怒りを感じただろうか、共感を覚えざるを得なかっただろうか。

人魚シリーズは救いの物語だ。
人魚に関わったばかりに悲運に巻き込まれる者たちが主役となるが、最後にはそれなりの結末が用意されている。
「最後の顔」の母も死ぬことが「できた」。
「人魚の傷」の真人もはっきり描かれてはいないが、事故で死ぬことが「できた」ならそれは救いだ。

このシリーズの中で湧太は人魚の肉を喰らった者たちを時には戦い、殺しながら癒し、救っていく。
シリーズを通しての主役としての存在感は皆無に等しい。
むしろ真魚の方が生者の気を強く放っていると思う。
自分の結末を探すためだった湧太の旅はいつか本来の目的を失い、時を越えた放浪者となってしまった。

なぜ人魚シリーズは終わっていないのか。
続きを描く予定があるから、が第一希望なのだけど(笑)。
それはひとまず置くとして、人魚シリーズに結末があるなら、第一は普通の人間に戻り、長い長い人生に終止符を打つことだろう。
SFに走れば湧太たちの正体がばれて人魚の肉による不老不死が一般に知られ、モルモットとして追いかけられての逃避行か捕まる結末。
(身分証明に厳しい現代ではあり得ないことではないと思うが、それだと「E.T.」なみの冒険活劇になってしまう。)

今ひとつぴんと来ない。
やはり湧太と真魚の旅は終わらないのが自然のような気がする。
人の想いには終わりがない。
逆にどんな想いも死んだ時点で全てが終わる。

死ねない湧太と真魚の旅=想いには終わりがないのが妥当だろうか。
終わらせないことにより不思議な余韻を残す人魚シリーズ。
続きを読みたい気持ちが半分、もうこれで十分という気持ちが半分といったところ。
現在まで発表されている全ての作品の集大成が「犬夜叉」だろうが、人魚シリーズからは死ねない者の哀しみとして、想いは桔梗に受け継がれているように感じる。

最終ページ、七生が普通に成長していることに喜ぶ湧太の顔が嬉しかった。
湧太と真魚の旅はまだまだ続く、それこそ続く。
人魚シリーズはそれでいいのかもしれない。
次回からはアニメの感想を書いてみたい。
(2008年2月25日の日記)
4月3日 高橋留美子インタビュー「人魚の旅」
インタビューと言っても2014年(平成26年)に発売された「人魚シリーズ 不死人に旅路」に掲載されたもの。
先日私が人魚人魚と騒いでいたので、旧友(犬友)Wさんが教えてくれた。
いわゆるコンビニコミックで、掲載作品は「人魚の傷」「夜叉の瞳」「最後の顔」の三作品。
その他に「人魚の旅」のタイトルで高橋さんのインタビューが載っている。
これがまたおもしろかった。

人魚のきっかけは、前作「忘れて眠れ」が山だったから海、海だから人魚って何その連想ゲーム(笑)。
主人公の湧太は歳取らないからいつでもどこでも行けるというのが気に入ったとのこと。
「いつ」というのはまさに「どの時代にでも行ける」ということで、たとえばかごめのようにポンとある時代に飛んだわけではなく、 それぞれの時代を生きて来て、今現代にいるという、ある意味でのリアルさにはとても惹かれる。

だから逆に「身元」が重要視される現代は、真魚と湧太が生きるのが難しいから続編が描かれないのかと思っていたが、 「自分の中では終わっていない」「いつかあと1本くらい描ける日が来ることを願っております。」と語っているので、これは気長に 待ちたい。
なにしろ小野不由美さんの「十二国記」、京極夏彦さんの「京極堂シリーズ」他待つのは慣れておりますから。

この作品のおもしろさは、不老不死を求めながら、その不老不死が必ずしも幸せなことではないという、これもリアルさ。
この現代において、不老不死を求める人はいるだろうか。
不老があるなら嬉しいけれど、老いることは、ある意味人が死を迎える覚悟をすること。
いつまでも20代の若さでいて、ある日突然寿命が尽きたらそれは無残なことだろう。

だからと言って若いまま永遠に生きることが幸せなことだろうか。
寿命を自分で決めることはできるのだろうか
ありきたりの不老不死に比べて、このシリーズは本当に考えさせられる。
たとえば事故や事件、病気で突然亡くなったら蘇る、そんな力があったら、とも思うが、やはり命をコントロールすることはあってはならないことなのだろう。

高橋さんが好きな作品「人魚の傷」に登場する真人は、ある意味「夜叉の瞳」のわかりやすい悪党新吾より手強く複雑な存在。
見た目や仕草の可愛さと、「おれは八百年もこの姿で生きてんだ。
図体ばかりでかい青二才に説教されるいわれはねえよ。」
「おれたちみたいのがいちいち人を好きになってちゃたまらねえじゃないか・・・」の台詞が身につまされる。

高橋さんがこの子の所業を「悪」としないところが、さらに最後に「死」という救いを与えたところが感慨深い。
ところが最初に「真人」と打とうとしたら「魔狭人」と登録してあるのが出て来て感動も台無しだよ(涙)。

高橋さんが好きなエピソードは「人魚の森」と「舎利姫」。
桔梗と楓を彷彿させる「人魚の森」では「横溝正史」を思わせるシチュエーション。
それを描いてみたかった、描いてて楽しかったというコメントが横溝好きの私にも嬉しい。
「舎利姫」は犬夜叉に登場するりんのような少女が主人公。
こちらも哀しく恐ろしい物語だった。

そして一番気になっていた続編については、「犬夜叉」の時は雰囲気が被るので描かなかった(楽しめないから)。
では「境界のRINNE」は被りませんよねと聞かれて「それはそうですが、今すぐにとはちょっといえません(笑)」とのこと。
私もいつか描かれるはずの続編を楽しみに待ちたい。

(2017年4月3日の日記)

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