「蟲師」感想(原作)1
7月28日 緑の座
私の故郷は、特に都会でも田舎でもない小さな町だ。
けれど人間関係は濃厚で、私は常に監視されていると感じ、息づまる思いで生活していた。
(今思えば、自意識過剰なだけだったのかもしれない。)
逃げるように上京して仕事を探し、結婚して私はこの地に根っこを張った。

家族と友達、それ以外は希薄で曖昧な人間関係は、私にとって妙に居心地がいい。
同時に故郷を思う時、私は心のどこかに後ろめたさを感じている。

そんな私が表紙の美しさに惹かれて何気なく手にしたのが「蟲師」だった。
読んでいくうちに、作者の人に向ける、自然に向ける視線の優しさに自分を振り返ってせつなくなった。
同時に「人を愛せ、自然を愛せ」と声高々に叫びたてるより、何十倍の説得力を持ってこちらの意識を変えてくる。
なにげない作品なのに、さりげない物語なのに。

第壱話「緑の座」。
1人だけ現代風の?格好をしている蟲師ギンコに純真なしんら、子供でありながら子供ではない廉子(レンズ)。
表情豊かな登場人物でありながら、物語は一切のBGMを拒否しているかのように、静かに静かに進んでいく。
会話以外に聞こえてくるのは、風の音、小川を流れる水の音、茂る木々の葉のそよぎ、そんなものだけ。

コミックなので当然白と黒の世界なのだけど、しんらが描く緑の盃だけが、なぜか濃い深い緑色に見えた。
昔読んだ「緑の館」や「秘密の花園」でも、色とりどりの花や空の青さは思い浮かばなかったのに、伸び行く緑、生え行く緑のイメージだけが頭に浮かんだ。
もしかしたら、これが私の「故郷」のイメージ、故郷の色なのかもしれないと思った。

そう思った時に、今度里帰りをしてみようかと思った。
ここ数年帰ったことのない、もう実家も残っていない故郷だけど。

さて「緑の座」、左手で書いた絵や象形文字が実体化して動き出してしまうという不思議な力を持った少年しんらがいる。
その力ゆえに、祖母廉子はしんらを人に関わらせることなく守り続けたが、4年前に祖母は亡くなり、しんらは1人で生きている。
その力を「調査」しに現れたのが蟲師ギンコ。
しんらは調査は断るものの、人恋しさからかギンコを客として歓迎する。

まだ顔が可愛い?ギンコや1人で寂しいだろうに、どこにもすねたところのないしんらのやり取りが楽しい。
「蟲師」に登場する人物のほとんどが性格にクセがなく、歪んだ欲望に囚われてもいず、水墨画の心象風景のような淡々とした世界が描かれていくのが好もしい。
それだけに彼らを取り巻く自然の緑や空の青、蟲たちの色彩が色鮮やかに浮かんでくる。

眠ったしんらを残し、ギンコは「蟲」のような少女と会う。
彼女は「廉子」、人ではなく、蟲でもない不完全な存在。
廉子はしんらの祖母だった。

しんらの力を守るべく、蟲の世界から宴に招かれた廉子。
しかし廉子は思いがけない出来事により、不完全なままとなり、2人の廉子に別れてしまう。
半分の廉子は普通に成長して孫しんらを得て、4年前に亡くなった。
残された廉子はいつまでも子供の姿のまま、しんらの目に映らない存在として、しんらを見守り続けてきた。

ギンコの導きにより、廉子は実体化し、しんらと共に暮らすことが叶う。
しんらが大人になって年老いて、やがて死んだら廉子はどうなるのか。
そこまで考えるとどこか寂しさも感じるが、廉子は全てを受け入れているのだろう。
勝気で愛らしくて、でも寂しげな眼をした優しい少女。
同じ年頃の少年少女となった祖母と孫にギンコは別れを告げる。

ギンコがただの風来坊ではなく、蟲を呼ぶ体質であること、後で描かれる事情により蟲師となることなど、その背景も深い。
また蟲師としてのアフターケアも万全で、一度訪れた村にまた来て、そのまま話が続いていくところなども興味深かった。
ギンコによって語られる蟲には「もののけ」とはまた違った楽しさ、味わい深さがあり、読んでいて楽しい。
作者の手や足の描写へのこだわり?もおもしろかった。
(2008年7月28日の日記)
9月8日 柔らかい角
「蟲師」を読むのは本当に心安らげる楽しい時間だけど、時折試練が訪れる。
最初の試練がこの「柔らかい角」だった。
初読時「緑の座」の美しさにどっぷり浸かって堪能して、「蟲師」っていいな、楽しいな、蟲って好きだなってルンルン気分。

そのまま弐話目の「柔らかい角」に入ってページをめくっていって、突然ばーっと鳥肌が立った。
鳥肌が立ったことは何度もあるけど(寒いとか怖いとか)、その音まで聞こえてきそうなほどの勢いで立ったのはこのときが初めて。
1巻66ページの「吽」の群れ(巣)。
カタツムリが無数に集まって蠢いている状態を想像して頂ければいいのだけれど、今こう書いてるだけで寒気と鳥肌がざわざわ出ている状態。

考えてみれば、元々虫だのなんだの、小さな物がごちゃごちゃ蠢く姿に弱い私、決して美しいだけではない蟲の姿に生理的嫌悪を感じることも多く、未だにもう開けないページもいくつかあるほど。
「蟲師」をじっくり読むには邪魔以外のなんでもないのだけれど、もしも実際にあんな無数のカタツムリを一度に見たら私はどうなってしまうのだろう。
そんな風に思ってしまったことが、実は感想の全て(笑)。

ただし「柔らかい角」で初めて登場した「女性(真火の母)」の儚げな美しさには惹かれた。
「蟲師」の女性は大体2通りあって、髪が長いか短いか、気が強いかそうではないか、だがこの母のような髪の長い儚げな姿の女性がとても好きだ。

母は蟲の声に悩まされ、死んで行った。
今息子の真火も同じ現象に悩まされている。
静けさを求めて耳を覆えば柔らかい角が生えてくる。

他の村人たちは「吽」のせいで聴力を失っていたが、(ナメクジみたいに)塩水を使うことで吽は溶けて消えた。
けれど真火親子に巣食っていたのは「阿」。
母の想いを汲み取ったギンコが真火を救う。

自分も両手で耳を覆ってみれば、遠い海鳴り血液の流れる音がする。
ギンコは腕の筋肉の運動する音だと言う。
母は昔夫と共に見た、火を噴く山の溶岩の流れる音だと言う。
真火の耳にはどんな風に聞こえたのだろうか、聞いたことのない溶岩の流れる音、と真火は言う。

無数の蟲が囁く声は、人を衰弱死させてしまうほど恐ろしいけれど、同時になくなれば恋しくてたまらなくなるほど、ぞっとするほどきれいな音だという。
恐ろしいけれど美しい。
人が人として一番惹かれるものではないだろうか。
蟲の世界に絡め取られて、蟲と同化してその一部になってしまうのはどんな気持ちになるのだろうか。

家からこっそり抜け出すところをギンコに見つかる瞬間の真火の可愛さと、まだまだ可愛いギンコも楽しい第弐話だった。
それと白と黒だけの世界で、降りしきる雪の美しさも素晴らしかった。
漆原先生ってどんな方なのだろう・・・。
(2008年9月8日の日記)
10月15日 枕小路
ホラーと銘打っている作品は、どうしても読む前、あるいは見る前から構えてしまう。
文章の中に、映像の中に怖さの度合いを測る。
けれど「蟲師」シリーズ3話目、「枕小路」を読んで虚をつかれた。

鮮やかで瑞々しい第壱話、静かで優しい第弐話と続いて、第参話は怖く哀しいホラーだった。
「蟲師」という作品は、その絵のようにどこまでも優しく、常に静かなハッピーエンドを迎えるのだろうと勝手に思っていたから。
誰が悪いのでもない。
登場するのは皆善人ばかりで悪意のかけらもない人々、なのに男は追いつめられる、その恐ろしさ、その哀しさ。

ジンは予知夢を見る男。
夢の中で水脈を見つけ、崖崩れを予言する。
ジンの能力に素直に感謝し、喜ぶ人々、喜ぶ家族。
けれどジンだけが「まるで俺がしでかした事のように思えるんだ」と不安に思う。

そんなジンを蟲師ギンコが訪れた。
ギンコは予知夢の回数が増えたら飲むようにと薬を置いていく。
「放っておけば夢から醒めなくなっちまう・・・」
その言葉を残して。

しかし一年余りたって、再びジンの元を訪れたギンコが見たものは荒れ果て、無人となった町とたった一人生き残ったジンのやつれた姿だった。
ギンコが去ってから、薬を飲むようになったジン。
そのせいかジンはその後起こった津波を「予知できなかった」。
津波でジンは娘を失う。

こんな大災害を予知できなかったジンを責めるわけでもなく責める人々。
町人たちのジンへの信頼は過度な期待と化し、それが裏切られたと思った時に、失望ともしかしたら恨む気持ちが生まれたのかもしれない。
そして誰よりも薬を飲んでしまった自分自身を責めるジン。
ジンは薬を飲むのをやめ、再び予言は当たり始める。

しかし大切な妻が、そして町の人々が「ジンの見た夢の通りに」死んで行くのを見たジンは気づいてしまう。
ジンが見ていたのは予知夢ではなかった。
ジンの見た夢が「現実になるのだった」。
あまりに残酷な真実。

ギンコはそれが蟲のせいとは教えていたが、断つことができないゆえ真実を告げなかった。
宿主としてのジンが、自分の創り出すものの大きさに耐えられなくなるから。
けれどもしジンが真実を知っていたら、少なくとも津波を予知できなかった自分を責めて薬の服用をやめることはなかっただろう。

「夢野間(いめのあわい)」、宿主の夢の中に棲むが、時折夢の中から出て宿主が見る夢を現(うつつ)に伝染させる媒体となる。
蟲に罪はなく、人に罪もない。
けれどその所業はあまりに恐ろしく哀しく、一人の男を追いつめる。

結局ギンコはジンを救うことができなかった。
夢野間の巣である魂の蔵=枕に刀を突き立て、自らを斬ってしまったジン。
いっそこのまま死なせてあげたら、そう思えるほどのその後のジンの闇、そして狂気。

ジンの夢の中で蘇った妻きぬが娘まゆと共にジンを迎え、「あなたのせいじゃない あなたは悪くないわ・・・・・・」と囁くその夢こそが現実となって欲しかったと思わずにはいられない。
(2008年10月15日の日記)
11月24日 瞼の光
「蟲師」の世界は闇と緑と眩しい光。
アフタヌーン1998年冬のコンテスト四季大賞を受賞した「蟲師」第1作「瞼の光」は闇の世界を司る。
私が審査員だったとしても、ギンコと名乗る謎めいた魅力的な青年の正体を知りたくてたまらなくなるだろう。
蟲の世界をどんどん描いて欲しいと願うだろう。

受賞が当然と思える素晴らしい作品だ。
作者は巻末のエッセイで作品創作の苦労を語っているが、作品の中にその苦労や気負いは全く感じられず、静けさと優しさに満ちている。
ストーリーも台詞も、そして絵も。
特徴的なのはギンコに無精ひげがあるため老けて見えることくらいか(笑)。

ギンコは最初に盲目の少女スイの目の中に現れる。
闇の中流れる光の河に近づくなと警告する片目の男。

スイは光が当たると目が痛む病を持つ少女。
ビキの家の蔵に閉じこもって暮らしているが、ビキだけがスイの遊び友達。
不思議な名前、不思議な世界だ。
現代のような顔をした和装の人々、その中にただ一人洋装で入り込むギンコ。

人と交わって暮らしていけないギンコは異端の者だ。
けれどギンコは蟲と人間の世界の仲立ちをし、両者が共存できるように力を尽くす。
その飄々とした物腰とは裏腹に、その視線は限りなく優しい。

スイと同じ病に感染してしまったビキを救う形でギンコは登場する。
ギンコはスイの治療を始める。
月の光の下に佇むスイ。
ビキに病気をうつしてしまったことを悲しむあまり、「闇に目玉が喰わせてしまった」スイ。

蟲がスイの眼窩から溢れ出す場面のおどろおどろしさ、でも奇怪な美しさ。
眼球を失ったスイに自らの目玉(義眼)を与えるギンコ。
義眼であっても液体の蟲を注射することで義眼は眼球の機能を持つ。
蟲とスイの共存だ。

幸せに笑うスイと優しいビキ。
彼らと別れたギンコはただ一人、光の河に背を向けて蟲煙草を吸い続ける。
孤独であって孤独でないのはギンコに優しさがあるからだろう。
人と共に生きることはできなくても人と関わって生きることはできる。

1巻は「緑の座」から始まっていて、これはこれで好きな作品だが、できればこの「瞼の光」から読みたかったな、と思う。
(2008年11月24日の日記)
1月15日 旅をする沼
物語に色彩を求めるようになったのはいつの頃だろう。
両親が本好きで、書棚には大人向け子供向けの本がぎっしり詰まっている家に育ったが、その中で異彩を放っていたのがC.L.ムーア著ノースウェスト・スミスシリーズとジレルのシリーズだった。
すでに変色してぼろぼろになった本だったが、松本零士氏のイラストに惹かれて読み始めた。

主人公のノースウェスト・スミス(ハーロックのような・・・)は凄まじい原色に、女戦士ジレル(メーテルのような・・・)は漆黒の闇に囚われ、異形の者との死力を尽くした精神の戦いを強いられる。
今読み返すと「官能的な」と表現してもいいような描写なのだが、子供の手の届く高さに普通に置いてあったように、そこには壮大なスペースファンタジーの世界があった。
そしてそれ以来新たな本を読むたびにそれらの物語に色彩を求め、色彩豊かな物語を好むようになった。

そんなムーアに出会った時と同じ衝撃を感じたのがこの「蟲師」のシリーズだった。
「蟲師」の色合いは淡く、けれど描かれる物語は雪の真白、山の深い深い緑、そして今回の「旅をする沼」は海の蒼に色付けされている。
自分がその色彩の中に溶け込んでいくような錯覚を起こさせてくれる、豊かな物語だ。

「旅をする沼」は「緑の座」と共に1巻で1番好きな物語。
ギンコはいおが蟲の側に行くことを止めるが、むしろ水蟲に溶け込んで海の一部になってしまいたい、そんな気持ちにさせられる。
「沼の水で芯まで染めた様な」異様な緑(あお)さの髪、少女は沼の一部になろうとしている。

結果的にいおはギンコに救われ、普通の人間として生きていくことになる。
髪は黒に戻り、少女はもう水の中で生きることはできない。
ギンコは「緑の座」の廉子の話をする。
人として生きることのできない廉子、それは「想像を絶する修羅」だと言う。

しんらが死んだら廉子はどうするのだろう。
それでも死ぬこともできず、生きていくしかないのだろうか。
海に溶けたらいおはどうなるのだろう。
救いのない孤独なのだろうか。

それでもなぜかうらやましいと感じてしまう。
それが「蟲師」の魅力だ。
さらにギンコや化野、村の人たちの優しさもまた心地よい。
とっても自然で明るくて、とても心地よい。

本当に、こんな物語を紡いでいく作者はどんな人なのだろう。
あとがきのように書いてくれるちょっとしたエッセイも楽しくて、しみじみと懐かしく思いながら読んでしまった。
(2008年1月15日の日記)
2月26日 やまねむる
「やまねむる」から2巻に入るが、読んでて少し戸惑った。
本編の持つスケールの大きさが6話目にはまだ早かったのではないかと。
私の場合、8巻まで一気に買って一気に読んだのだが、2巻に入って話が一気に広がりを見せたような気がした。
もう少し後になってから描かれてもいいかなあと思う。
特に最終10巻最終話を読んだ後では。

もちろんひとつのエピソードとしてはとても好きだ。
ムジカやコダマや朔はその大きな広い世界の中で限りなく個人として必死で生きている。
特にムジカにいて欲しいばっかりに、ヌシ殺しという過ちを犯してしまう朔が好きだ。
死んだヌシの代わりにムジカがヌシとなって山に入る。

共に山に入った朔は長くは生きられなかったと言う。
朔が衰えたのは本当に山の精気だけだったのか、朔は死ぬまでの間、ヌシとなったムジカとどんな気持ちで暮らしていたのか幸せだったのか。
この地に定住するための方法を軽はずみに口にしたのは若き日のムジカ。
その後悔がムジカの人生を常に覆っている。

ムジカと朔、特に朔への個人的な思い入れが強過ぎて、山と人、人と自然、その関わりという作品全体を結ぶ芯のような概念まで気持ちが至らなかった。
ああこれは、私の読解力不足なのかもしれないなあ。

ただ、最終話を読んだ時に、人と自然の関わり、その描写、作者の想いがすとんと胸に落ちた気はする。
初めて「蟲師」を手に取った時「蟲師」は優しい作品だと思っていた。
優しいタッチの色合いとのほほんとした顔したギンコ。

人と自然が優しく触れ合い、ゆっくり溶け合い、読む者はそこに現実には決して得られない安らぎを得る、そんな作品。
でも読んでみたら「蟲師」は全然違っていた。
自然は、その象徴たる蟲は、優しい部分もあったけど、時には厳しく時には惨い。
確かにギンコはのほほんとした青年だったけど、その奥底には限りない優しさと切なさと少しばかりの哀しさと、そして寂しさがあった。

互いに蟲を寄せ合う体質を持つ者同士、ムジカとギンコが出会う。
もしかしたらギンコもムジカと同じ運命を辿っていたかもしれない。
村を去るギンコの心にはムジカが決して忘れられない存在として心に残ったことだろう。

いつかギンコがコダマと再会することはあるだろうか。
あったらいいな、と思う。
ギンコは人を救うが本人はそれを意識していない。

しんらや廉子、真火、ビキやスイ、いおと再会して、その笑顔に触れるギンコの話が読みたかった。
ギンコが救い、あるいは導いた人たちの幸せなその後に触れて大きな喜びを感じることをしたかった。
けどその夢はかなわず「蟲師」は終わってしまうことになる。
(2009年2月26日の日記)
4月8日 筆の海
「筆の海」には印象的な女性狩房淡幽が登場する。

「蟲師」を8巻まで一気に買って一気に読んだ私は、9巻10巻が出ていたことも知らなくて、「蟲師」が10巻で完結したことももちろん知らなかった。
ただ最終話までの間には、ギンコ、そして淡幽の人生に何らかの形で決着がつくのだろうと漠然と考えていた。
だから最終巻を読み勧めて最後に漆原先生からの「蟲師」終了のメッセージを読んで本当に驚いた。
「蟲師」終了の寂しさよりも、驚きの方が先だった。

けれどそこからもう一度読み返してみると、「棘の道」は確かにギンコ、そして淡幽の区切りだったのかもしれない。
彼らの生にいつか終わりは来るかもしれないけれど、それまでは彼らは静かに、毅然と、そして優しく生きていくのだろう。
彼らの物語に終わりはないけれど、漆原先生は48話描いて終わりとした。

話がそれた、「棘の道」そして最終話に関してはそのエピソードを取り上げた時に書くとして今回は「筆の海」。
それまで読んでてギンコは確かに主役であるけれど、飄々としてどこか狂言回し風であり、蟲と関わって悪い方に向かってしまった人の救い主として登場する。
とぼけた物言いやとぼけた表情や(笑)、それでいて人に対する優しい眼がある、蟲に対する畏怖の心がある。
そんな中、どこか孤独な、刹那的な雰囲気もまた漂わせている。

「蟲に憑かれる体質」は漠然と感じていたが、この淡幽との再会で、淡幽が「ちゃんと生きておったのだな」と語る言葉にギンコの本当の姿を見る思いがした。
逆に言うと、もう生きていなくてもおかしくない、ギンコの人生はそんな危ういものなのか。
そして淡幽もまた蟲によって生を遮られる者だった。
だが2人を結びつけるのはその体質でも運命でもなく、蟲と共に生きようとする心。

簡単に「優しさ」とは言えないもっと深い共存を求める心だ。
そこには蟲、というより自然そのものに対する畏敬の念があり、悪しき物として退治する傲慢な心、驕りへの否定がある。
「筆の海」を読んでやっと「蟲師」の世界が少しだけわかった気がした。

さて淡幽、全ての生命に死をもたらす強力な「禁種の蟲」を体内に封じている者だが、この蟲を死ぬまでに消せなければ、いずれ淡幽の子孫が引き継ぐことになると言う。
けれど淡幽が人と添って子供を産んで、そんな人生が想像できない。
ギンコと淡幽、愛とも言えない絆で強く結ばれているように見える。
心の奥底で慕い合っているように見える。

けれどギンコには淡幽と添い遂げる資格はないのだろうか。
刹那的な恋は許されぬ2人なのだろうか。

―文字の海に溺れるように

   生きている娘が一人いる

蟲に体を侵されながら 蟲を愛でつつ 蟲を封じる

                そういう娘が 一人 いる

最後にギンコと淡幽が2人だけで語り合う場面。
年老いたギンコが年老いた淡幽を背負って旅をしている場面が浮かんだような気がした。
けれどそれはあり得ないことなのだという哀しみを伴っていたような気もした。

「筆の海」にはもう1人、印象深い女性が登場する。
薬袋たま、老齢の蟲師である。
彼女もまた豪を背負った悲劇のひとだが、その外見と淡幽の陰に隠れていまひとつ目立たない。
この女性をアニメで演じたのは京田尚子さん。
役に更なる重みを与える素晴らしい声だった。
アニメの感想はいずれまた。

(注;)「蟲に体を侵食されながら」の部分を「蟲に体を侵されながら」に変えてあります。
(2009年4月8日の日記)
6月22日 露を吸う群
淡幽初登場の「筆の海」の次だっただけに、初読の時は印象のない「露を吸う群」だったが、ここには蟲に魅せられた少女が登場する。
生き神に祀り上げられ、毎夜死んで毎朝蘇る。
あこやに取り憑く蟲の寿命はわずか一日。

「一日一日一刻一刻が息をのむほど新しくて 何かを考えようとしても追いつかないくらい
 いつも心の中がいっぱいだったの・・・・・・」

たとえ
「蟲を安易に利用し続ければヒトは少しずつ正気を奪われていく
 利用した者もそれに巻き込まれた者も・・・・・・」

であったとしても、それは何と魅力的なことだろう。
あこやは生き神などではなく、蟲のせいで不思議な力を得たのだとわかっていても、再び蟲を得ようとする。
父のためでも村のためでもなく自分の意思で。
そしてあこやを救おうとしていたナギもそれを受け入れる。

「・・・・・・あこやが心底 満たされた表情をするのは 
 生き神でいる時だけだったから・・・・・・・・・」

あこやを見守るナギはこれから何を糧に生きていけばいいかわからないと口にする。
ギンコの答は「普通に生きりゃいいんだよ」だった。
魚が捕れないなら魚が捕れるようにがんばればいい。
お前の目の前には果てしなく膨大な時間がひろがっているのだからと。

けれど蟲と共に生きるのではなく、蟲を憑かせて生きる娘がいる村で、ひずみは生じないのだろうか。
「安易に利用」しなければいいのだろうか。
この状態はギンコが常々口にする「蟲との共存」とはちょっと違う気がするのだが。

それはそれとして私はあこやがうらやましいと思った。
望んで蟲になれるなら、それはたとえば「緑の座」の廉子のような寂しさを味わうこともなく、ただただ毎夜死んで毎朝蘇ることができる。
毎日生まれ変わる感動に慣れることも飽きることもないのだろう。
その生き方を肯定してしまっているギンコがちょっと不思議だったが。

ギンコや淡幽なら普通の人間として普通に生きることを望むだろう。
蟲に関わる者として、どんな力を得たとしても、できることなら普通に生きたいと思うだろう。
他との行き来のほとんどない島、だからこそあこやは生きてゆけるのかもしれない。
そして何度か読んだ時には、本当に私の心はあこやに対するいわれのないうらやましさでいっぱいになった。
(2009年6月22日の日記)
7月27日 雨がくる虹がたつ
今日の夕方一時的に大雨が降って、その後二重の虹が出た。
内側の色鮮やかな虹は外側が赤くて内側が緑や青。
外側の色薄い虹は外側が青っぽくて内側が赤。

感想を書こうと読み返したばかりの「雨がくる虹がたつ」を思い出した。
ならばこの二重の虹の外側は、虹蛇だったのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えた。

虹の根っこは私がいつも通る道の辺りにある。
見慣れたマンション、その1階は時々寄るコンビニだ。
今走っていったら虹蛇の虹に触れることができるだろうか。
虹の根っこに触ったら、静電気のようにバチッとくるのだろうか。
根っこのところにギンコは立っているだろうか。

心は蟲の世界に遊べども、現実に囚われた私は部屋を出ることができない。
ただひと時の、あまりに鮮やかな色彩の虹を見続けている。
どんよりした曇り空に、反対側から眩しい太陽。
視界は黄色いレンズのサングラス越しに見るかのように不思議な色に染まり、 虹だけが鮮やかに浮き出ている。

「虹」を名前につけられた男の、蟲の虹に取り憑かれた男の心持ちが、ほんの 少しだけわかるような気がした。

(2009年7月27日の日記)
9月30日 綿帽子
哀しいまでの母の愛と、限りないギンコの優しさがあふれ出て来るようで、これもまた大好きなエピソードのひとつ。
あとがきで「ホラー」と位置づけられてたけど、そんな風には思わなかった。
ギンコが刺されたり、放火で家が焼けたりと事件は起きるが、物語自体はとても静かな雰囲気。

また、今回は思考を持ち、学習する蟲が登場する。
いえギンコは「彼の中に棲むは ただ思考するばかりのくさびら」と定義づけるが、それでもこれまでの「ただ流れるためだけに生じ―何からも干渉を受けず 影響だけを及ぼし―去ってゆく(雨がくる 虹がたつ)」蟲とは大きく異なる。

上記の文章の「流れるためだけに」を「生きるためだけに」とすれば、これまで出てきたほとんどの蟲の定義となるだろう。
けれど、蟲の一部とは言え、意思を持ち、学習し、生きたいと口に出す限りなく人間に近い生き物ならば、そしてそれが自分の子供ならば、命に代えても守りたいと願うのが母の心なのだろう。

これまではこの蟲「綿吐」の子供とわかれば、ただちに全員を殺してきたという。
つまり蟲師が、ということになろう。
綿吐の子は危険とは言え、「わからんものは皆殺し―ってのは大雑把で好きじゃない」とギンコは言う。
この言葉こそがこれまでの蟲師にはなかったもの、淡幽が認めたものだったろう。

同時に皆殺しにすることなく解決することができれば、という蟲師としてのギンコの意識も感じられる。
ふたつ目以降を殺さずに観察することによって、その経過を知る、結果を知る。
殺さずとも解決できれば、救われる親も増えるだろう。
ただ存在するだけなのに、人間にとって悪とされ、蟲が殺されることもなくなるかもしれない。

その結果は、凄絶なまでに哀しく、でも最後に父も母も、そして蟲もやすらぎに包まれる。
どこまでも淡々としているギンコがいい。

「ぼくらはわるくない」
綿吐の子の訴えに「俺らも悪くない」とギンコは答える。
「だが俺達の方が強い」と。

だからお前は死ぬんだとギンコは言う。
つまり人間に殺されるんだと。

「蟲」を「自然」に置き換えても通用する言葉ではないか。
声高らかに「エコ」を叫ぶよりも、こうした静かな訴えの方が深く心に響いてくる。
「蟲師」はそんな作品である、だから好きだ、大好きだ。
(2009年9月30日の日記)

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