私の故郷は、特に都会でも田舎でもない小さな町だ。
けれど人間関係は濃厚で、私は常に監視されていると感じ、息づまる思いで生活していた。
(今思えば、自意識過剰なだけだったのかもしれない。)
逃げるように上京して仕事を探し、結婚して私はこの地に根っこを張った。
家族と友達、それ以外は希薄で曖昧な人間関係は、私にとって妙に居心地がいい。
同時に故郷を思う時、私は心のどこかに後ろめたさを感じている。
そんな私が表紙の美しさに惹かれて何気なく手にしたのが「蟲師」だった。
読んでいくうちに、作者の人に向ける、自然に向ける視線の優しさに自分を振り返ってせつなくなった。
同時に「人を愛せ、自然を愛せ」と声高々に叫びたてるより、何十倍の説得力を持ってこちらの意識を変えてくる。
なにげない作品なのに、さりげない物語なのに。
第壱話「緑の座」。
1人だけ現代風の?格好をしている蟲師ギンコに純真なしんら、子供でありながら子供ではない廉子(レンズ)。
表情豊かな登場人物でありながら、物語は一切のBGMを拒否しているかのように、静かに静かに進んでいく。
会話以外に聞こえてくるのは、風の音、小川を流れる水の音、茂る木々の葉のそよぎ、そんなものだけ。
コミックなので当然白と黒の世界なのだけど、しんらが描く緑の盃だけが、なぜか濃い深い緑色に見えた。
昔読んだ「緑の館」や「秘密の花園」でも、色とりどりの花や空の青さは思い浮かばなかったのに、伸び行く緑、生え行く緑のイメージだけが頭に浮かんだ。
もしかしたら、これが私の「故郷」のイメージ、故郷の色なのかもしれないと思った。
そう思った時に、今度里帰りをしてみようかと思った。
ここ数年帰ったことのない、もう実家も残っていない故郷だけど。
さて「緑の座」、左手で書いた絵や象形文字が実体化して動き出してしまうという不思議な力を持った少年しんらがいる。
その力ゆえに、祖母廉子はしんらを人に関わらせることなく守り続けたが、4年前に祖母は亡くなり、しんらは1人で生きている。
その力を「調査」しに現れたのが蟲師ギンコ。
しんらは調査は断るものの、人恋しさからかギンコを客として歓迎する。
まだ顔が可愛い?ギンコや1人で寂しいだろうに、どこにもすねたところのないしんらのやり取りが楽しい。
「蟲師」に登場する人物のほとんどが性格にクセがなく、歪んだ欲望に囚われてもいず、水墨画の心象風景のような淡々とした世界が描かれていくのが好もしい。
それだけに彼らを取り巻く自然の緑や空の青、蟲たちの色彩が色鮮やかに浮かんでくる。
眠ったしんらを残し、ギンコは「蟲」のような少女と会う。
彼女は「廉子」、人ではなく、蟲でもない不完全な存在。
廉子はしんらの祖母だった。
しんらの力を守るべく、蟲の世界から宴に招かれた廉子。
しかし廉子は思いがけない出来事により、不完全なままとなり、2人の廉子に別れてしまう。
半分の廉子は普通に成長して孫しんらを得て、4年前に亡くなった。
残された廉子はいつまでも子供の姿のまま、しんらの目に映らない存在として、しんらを見守り続けてきた。
ギンコの導きにより、廉子は実体化し、しんらと共に暮らすことが叶う。
しんらが大人になって年老いて、やがて死んだら廉子はどうなるのか。
そこまで考えるとどこか寂しさも感じるが、廉子は全てを受け入れているのだろう。
勝気で愛らしくて、でも寂しげな眼をした優しい少女。
同じ年頃の少年少女となった祖母と孫にギンコは別れを告げる。
ギンコがただの風来坊ではなく、蟲を呼ぶ体質であること、後で描かれる事情により蟲師となることなど、その背景も深い。
また蟲師としてのアフターケアも万全で、一度訪れた村にまた来て、そのまま話が続いていくところなども興味深かった。
ギンコによって語られる蟲には「もののけ」とはまた違った楽しさ、味わい深さがあり、読んでいて楽しい。
作者の手や足の描写へのこだわり?もおもしろかった。
(2008年7月28日の日記)
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