「蟲師」感想(原作)2
虚繭取り
理由付けをしなくても、ただただ好きな作品がある。
私にとって「虚繭取り」もそのひとつ。
「蟲師」の他作品に比べて、特に秀でているとか、そういう風には思わないけれど、初読してああこれ好きだ、と思った。
蟲に関わる者たちの導き手、ギンコももちろん登場するが、今回はギンコさえも背景に溶け込んでしまう。

綾と緒(いと)、ふたりの少女がとても愛しい。
ウロ守の一族に双子で生まれて普通に育ち、けれどウロが見えたためにウロ守に選ばれる。
10歳で2人は家族から離れ、ウロ守の仕事を学び始める。
その不思議な世界は危険が伴うものとはいえ、驚きに満ちており、読み手も綾と緒と同じように目を輝かせてウロ守の仕事を見つめてしまうだろう。
とっても不思議なとっても素敵な蟲師の郵便配達業。

けれどある日、綾の些細なミスから緒はウロと一緒に虚穴に取り込まれてしまう。
虚穴をさまよい続ける緒同様、綾もまた心の中に「でっかい空洞(ほら)」を抱えて生きている。
ただひたすらに、緒を探し、虚穴に文を出す日々、この時2人の師である老人は生きていたのだろうか。
綾の深い孤独が心に寂しい。

けれど緒を失って5年、泣いて泣いて心の中の虚穴を閉じて数年、緒は帰ってきた。
消えた頃の10歳のままで。
虚穴をさまよい続けた年月は、緒の意識にはなかったのか。
幼いままの、言葉を忘れた緒を綾はどのように迎えたのだろうか。

やはり、泣いて泣いて迎えたのだろうか。
双子だった姉を、今度は年の離れた妹として守りながら、共に生きていくだろう。
2人の再会、読みたかったなあ。
けれどここで描かれないことの切なさが、また好きなのかも。

きっとギンコもあんぐり口をあけて驚くんだろうな。
それから2人の娘のために喜ぶんだろうな。
おそらく蟲師の歴史の中でも異例なこと。
嬉々として淡幽に知らせるだろう。
淡幽もきっと喜んで記すだろう、心の中があったまる。
そんな作品だから好きだ。
(2009年10月20日の日記)
一夜橋
子供の頃、山奥のひなびた温泉に連れて行ってもらったことがある。
その温泉のさらに奥には吊り橋があった。
もちろん「一夜橋」の吊り橋よりはずっと立派で丈夫だったけど、私はこの吊り橋が大好きで、よく遊びに行った。
幼いから怖いもの知らずで橋の真ん中でぴょんぴょん飛んで、周りの大人が怖がったり怒ったりするのを見て喜んだものだった。

そんな思い出がふと蘇ってきた。
渓谷、そして吊り橋には不思議な魅力がある。
谷底を、斜め上(崖上)から見るのではなく、真上から見下ろす。
高所恐怖症ではないつもりだけど、真上から見下ろす直角の谷底には、時として吸い込まれてしまいそうな、飛び込みたくなるような魅力がある。

そんな感覚に囚われたことに気づいて一瞬産毛が逆立つような、その感覚がとても好きだ。
けれど「一夜橋」に出てくる吊り橋、かずら橋は本当に怖い、そして哀しい。
心を残して渡る者は落とされてしまう、囚われてしまう。
その哀しい橋が、本能のみで生きる蟲たちによって形作られることが恐ろしい。

断れぬ縁談で苦しむ若い恋人たち。
ただ二人で生きようとしただけなのに、異形の橋に翻弄されていく。
本人たちも辛いだろうが、否応なしに関わってしまうギンコもまた辛いのだろう。
蟲師を生業とするギンコの蟲に対する興味や関心は尽きないが、それは時としてギンコ自身を苦しめる。

人を喰おうなどと、人を苦しめようなどと思わぬ蟲の所業であることが余計やるせない。
「蟲師」は最後に不思議な余韻を持たせる作品が多いが、この「一夜橋」でも、ハナを失ったゼンが、今度は「谷戻り」になって村に戻ってくる。
ゼンはこの村でどのように生かされていくのだろうか。
ギンコが20年たつ前に戻ってきて、ゼンに会うことはあるのだろうか。
その時ギンコはどう思うのだろうか。

吊り橋、あんな怖くて不思議な吊り橋、日本のどこかにまだ残っているだろうか。
怖いけれど渡ってみたい、そんな吊り橋。
読後感はやるせない、でもふと人気のない山の奥に旅に行きたくなる、そんなエピソードだった。
(2009年12月5日の日記)
春と嘯く
「蟲師」は蟲の怖さと不思議さと美しさと愛しさとが、人間の寂しさや哀しさや優しさと溶け合ってひとつの世界を形作ることで完成されている。
作品によって上記のエキスが少しずつ混じり合ってそれぞれの世界を作るが、今回の「春と嘯く」にはその全てが凝縮して完成したひとつの世界になっていると思う。
「春と嘯く」自体が「蟲師」そのものといっても過言ではない、そんな気がする。
「蟲師」の中でも特に好きな作品のひとつだ。

「春と嘯く」、タイトルからして不思議なニュアンスを感じさせる。
あまりいい意味で用いられることがない言葉だが、本来は口笛を吹く、小さな声で歌うといった意味なのだそうだ。
今回はむしろ「とぼける、知らないふりをする」といった意味の使い方をしているが、蟲が「もう春だよ」ってとぼけてみせる、そんな愛らしさがある、語感もいい。
(作者もあとがきで『タイトルありきで出来た話。ひびきが好き。』と書いている)

蟲に騙され、春と騙され、人は雪の中眠りに落ちる。
周りには花、山菜、そして蝶。
人は冬籠りする獣と化して眠りに落ちる。
ミハルが眠り、ギンコまで囚われてしまう。

すずが可哀そうな展開だが、読んでいると空気は優しく、雪は暖かい。
ギンコに惹かれるすず、懐くミハル、そして心のよりどころを感じてしまうギンコ。
許されることではないのに。
今度来るなら「冬じゃねえときにな」ギンコは笑う、寂しそうに。

冬は人恋しい季節、温もりが欲しい季節。
定住できないギンコにとって、すずとミハルの姉弟は限りなく暖かいけれど、求めてはいけない存在。
とっても哀しい、でも空気は優しい。
すずとミハルが可愛い、愛しい。

友人にはなれない奇妙な隣人、蟲もまた愛しい。
ギンコの旅は寂しいものかもしれない。
けれどギンコの言葉は限りなく優しい。

   凍山に芽吹く幻の春 雪路に灯る家のあかり

                        それらは逃れ難く長居を誘う


       誰もが目覚めを謳う頃 まがいものは眠りに就く

                    そして また 冬山でひとり 春と嘯く

(本編より特に心惹かれた文章を引用させて頂いた。)
(2009年12月21日の日記)
籠のなか
独身時代、2年に一度は京都にひとり旅をした。
特に目的もなく、ぶらぶら歩き回るだけだったが、必ず訪れたのが嵯峨野。
竹を見るのが好きで、竹の匂いをかぐのが好きで、竹林を歩くのが好きで、そんなことを思い出した。

とても綺麗で静かで優しい物語、けれどこの物語は悲劇だ。
蟲と関わったばかりに、ここでもまた悲劇が生まれた。
夫を想う妻と、妻を想う夫の優しさが更なる悲劇に広がる。

妻子を失ったキスケ、最後に2人の墓から新たな産声が上がる。
一見キスケの孤独が埋まるハッピーエンドに思えるが、実はまた竹に、蟲に囚われた者が一人増えただけ。
キスケが育てて年老いて、やがて朽ちたらまた一人竹林から出ることのかなわぬ者が残される。
孤独を癒したいなら、またひとり、竹から取った水を飲ませて捕らえなければならない。

蟲に悪意はなく、人に悪意もない。
なのに関わっただけでこれほど哀しい物語となる。
なのに不思議に綺麗で静かで優しさを感じる物語だ。

ギンコはここにもまた帰ってくるだろうか。
子供を得たキスケに喜び、未来を案じるだろうか。

綺麗で静かで優しくて哀しい、とても不思議な物語だ。
けれど向こうが見えないほどの竹に囲まれていたら、あの青臭い、でも清冽な匂いに囲まれていたら、そんなこともあり得るような気がする。
嵯峨野で竹に囚われたかったな、一瞬でも。
ふとそう思った。
(2010年2月2日の日記)
草を踏む音
ギンコの子供の頃の話(着物姿のギンコが見られる)。
といってもギンコはあまり出て来ず、ワタリのイサザとある山の「主」の子、沢(タク)が中心となって話が進む。
きかんきな2人の少年が喧嘩をしたり仲直りしたりしながら、実は定住する側は放浪する者を、放浪する者は定住する者を羨んでいる。
彼らは1度別れ、1年後に再会するが、その後会うことはなく、沢は噴火を起こした山のそばに暮らし続ける。

妻をもらい、子供を授かり、けれど子供は弱く、生活は苦しい。
そこにやって来たのがやはり成長したギンコ。
(ギンコと沢も子供の頃1度会っているのだが、ギンコは忘れていた)。
光脈筋の恩恵もなく、また、蟲のせいで子供が弱っているのだと話し、薬を置くギンコ。
2人のとりとめのない会話の中にイサザの名も出てくる。

沢を忘れず、心配してくれたイサザのことを懐かしく思い出す沢。
後でナマズの影を見てギンコも沢を思い出す。
なんて瑞々しい物語だろう。
必死で生きてて、でもきらきら輝いている少年の日。
けれど成長した彼らは自分の運命を受け入れ、それぞれの道を歩き出す。

「蟲師」4巻を読み終わるといつも、「スタンド・バイ・ミー」を見たくなる。
青春時代、どこか懐かしい響きだ。
いろんなことがあったけど、少女と少年では、青春時代の辛さや切なさや輝きもきっと違うんだろう。
女性である私に少年時代の輝きを束の間見せてくれるのが「草を踏む音」や「スタンド・バイ・ミー」なんだと思う。
(2010年2月22日の日記)
沖つ宮
輪廻再生というよりはクローンに近いテーマの物語だが、「蟲師」の世界にそんなカタカナ言葉は似合わない。
高橋留美子著「人魚」シリーズなどにもつながるこの擬似不老不死のエピソード。
失った者を蘇らせることのできる島。
けれどその島に住むのは良識ある人々だ。

6歳で蛇にかまれて死にかけ、生みなおされた男の子。
結婚してすぐ鱶にやられて生みなおされた女性。
夫は十何年も待って、また祝言を挙げたという。
死の病にかかった澪の母も澪の娘として生みなおされた。

けれど、たとえば澪の父、老人が亡くなったからといって生みなおされることはないだろう。
若くして、不慮の事故で死にかけたものだけが新たに生みなおされる。
澪のように悩み、迷う者もいるかもしれないが、良識ある者だけが住むからこそ平和に存在できる島。

島を訪れ、澪とイサナの親子と関わりながら、ギンコはそのまま去ってゆく。
いかにも「蟲師」の世界観にふさわしい、蟲と人間の共存の典型的な結末だが、ことこのテーマに関して言えば、私には物足りない。
人間にとってこれほど重いテーマをあえて取り上げるなら、ここまで綺麗にまとめて欲しくはなかった、そんな気がする。
けれどこれ以上踏み込むことは、「蟲師」の世界観を壊しかねず、それもまた危険だ。

「人魚」シリーズと比べることがいけないのか、親子の想い胸を打たれながらもさらりとした結末に「蟲師」の中でも印象の薄い作品になってしまったのは残念だ。
(2010年3月27日の日記)
「沖つ宮」追記
前回書いた「沖つ宮」の感想に対してYさんから次のようなメールを頂いた。

蟲師の「沖の宮」には一種異様な感動を覚えました。
言葉に落ちてきませんが、そうですね。人には魂の記憶とは別に、肉体の魂の記憶というものが
あるんじゃないかという実感を衝かれたと言うか・・・中々に深いものがあると思います。

これを読んで、なるほどと思った。
Yさんは実生活ではお子さんをお持ちの「母親」で、「輪廻転生」の視点で読んだ私とは異なり、「親子の絆、つながり」といった視点で読まれたのかな?と思ったのだ。
上記の部分を紹介させて頂きたく、Yさんにお願いしたところ、さらに次のような文章を付け加えて下さった。

あの作品には「自分が生んだ子への誰何感」という微妙な感情が描かれてる以外「母の視点」はあまりなく、むしろ、私の場合、母を看取った経験があの「沖つ宮」への思いいれに繋がってるのではないかということです。
母に対する娘の気持ち、ですから「母の視点」とは言えないみたいです。

さて、輪廻転生としてみた場合『沖つ宮』の特殊性は、病人やけが人を“息のあるうち”沖つ宮の蟲に贄として捕食させその生きた細胞を核に新たな“本人の肉体のみ”を肉親の女の体内で再生する。というところにありますね。肉体の死の拒否です。
土着信仰の中に本人を生み直す秘儀として厳しい緘口令のもと守られてきたものの実態はそう。結果的にそれを澪親子とギンコが暴いていくわけです。
魂はどうなのだろう、その生前の執着がその肉体を求めて再び宿るのだろうか。
おそらくは違うのではないか。その魂の復活は限りなく曖昧なのですが、澪の娘は彼女の母とは別個の人間であり、その意志と行動が澪を永遠の閉塞感より救うのですよね。
短いマンガの中にこのほの暗い人間存在の“あわい”の感覚をよく描いてる作品と思います。(そこに効果的に使われるのは「記憶」です。)

人魚の肉を食った人間は魂も肉体(質的変容は遂げるが)もそのまま生きる。
肉体は紛い物であるが、その姿、そしてなにより魂は本物であった桔梗。
同じ生まれ変わりと言っても「魂の記憶」が寸分ゆるぎないものは甦り、一種の“鬼”であってその深刻さは自ずと違ってくるでしょう。
『沖つ宮』は時間の経過と忘却の中にあって肉体が圧倒的な故人の面影を持って立ち上がってくるその乖離感がゾクゾクと面白いような。

ちなみに、「肉体の魂の記憶」というのは遺伝によっても継承されるような気がします。旅をしたとき懐かしい場所が、実は御先祖が長きに渡って住み暮らした土地だったとか。ソレは地から立ちのぼる親近感。なぁんて。

高橋留美子著「犬夜叉」や「人魚」シリーズも比較しながら、Yさん独特の読みやすくわかりやすい文章で、でも作品の深い所を突いてくる鋭さと、人という存在(たとえ架空の人物であっても)に向ける視線の優しさ、そして何よりもお子さんに向ける愛情の豊かさが真っ直ぐに伝わって来るような気がした。
短編だけど絶品、そんな作品を読んだような気にもさせられた。
それにしても一つの作品に対し、いろんな角度から読むことで、いろんな感想が出てくるものだと思う。

これまでサイトを続けてきて、一番おもしろいのがこういった感想や意見の交換。
「犬夜叉」や「蟲師」などは、こうして語りあう上で絶好の題材だったんだなあと今更ながらに思う。

Yさん、ありがとうございました。
(2010年5月10日の日記)
眼福眼禍
まだ「蟲師」を知らなかった頃、何の拍子でかこの「眼福眼禍」のアニメを見た。
普通にホラーだと思ったものの、そのアニメは不思議な情感に満ちていて、ずっと心に残っていた。

にもかかわらず、「蟲師」を読み始めてからも5巻の「眼福眼禍」原作にたどり着くまで、アニメのことを思い出しもしなかったのだから、我ながらあきれる。
ギンコはアニメのままのギンコだし、周(あまね)もアニメのままの周なのに(笑)。
そんな意味でも印象に残るエピソードだが、冒頭の周とギンコの笑えるやり取りや、不思議で過酷な運命を背負いながらもたくましさを失わない周の性格、グロテスクにすら見える描写と、でもその不思議な力の美しさで「蟲師」の中でも好きな一品。

ギンコと出会うことを「知っていた」盲目の周は、琵琶を弾きながら、ギンコを誘うかのように蟲の話を語る。
誘いに乗って近くの旅籠に連れ込まれたギンコ(笑)。
もちろん?心ときめく展開にはならず、仏頂面で杯を手に周の語りを聞いてるギンコが妙におかしい。

やがて周は自らの生い立ちを語り始める。
「眼福」に取り憑かれた数奇な半生。

周の父もまた蟲師。
周の目を治そうと、「眼福を視た」男の眼玉を持ってくる。
しかしそれは、眼福が眼玉に巣食ったからこそ目が見えるようになったもので、眼福は遂に周に取り憑く。
最初は目が見えるようになったことを喜ぶ周。

けれどそれは時と共に「視えるはずのない所までみえ始めた視え始め、やがては遥か彼方の風景まで視えるようになる。
さらに未来が見え、過去が見え、目を閉じていても、見えるようになるに至り、やがて父の死を知る。
「視える目」を手に入れたことで生じた代償の大きさに打ちのめされた周は、琵琶の弾き語りで路銀を稼ぎながら、父を弔う旅に出た。

そんな周がギンコに願ったこと。
それはやがて離れていくであろう眼福を誰の目にも触れない所に埋めてくること。

「何もかも視えちゃいるのに何も動かせない事と 闇の中でも自由に生きられる事・・・・・・
 どっちが恵まれてると思う・・・・・・?」

蟲に関わらなければ出るはずのない問い。
ギンコに答える術はない。
それでもギンコは周のために対処法を探そうとする。
ギンコもまた、闇を知る者だから。

結果的に周は「視える目」を失うが、その表情は穏やかで優しい。

「私は闇の中で光を思い出しながら息てくのも悪くはないと思うんだ・・・」

見えなくなる前にギンコに語った言葉のままに、周は生きていくのだろう。
そして眼福は再び何者かの目となって生き続ける。
ギンコの旅もまた終わらない。
実在しない「蟲」のいる世界、恐ろしいけどなんだかとっても不思議な魅力に満ちている。
(2010年5月6日の日記)
山抱く衣
このエピソードも最初にタイトルありきで好きになった。
次に土に埋もれるギンコに笑って好きになった。
そして出てくる人たちがみんないい人で好きになった。
嘘っぽくなくいい人、素朴でいい人。

絵師として功成し遂げても故郷への想いを忘れない塊。
優しい姉と頑固な父。
塊の才を認めた師匠。
ギンコに羽織を売りつける質屋。

塊の絵を評価する客や勢いのなさを見抜く客。
愛らしいトヨと「冷っこくなった」伯母。
やがて塊を受け入れる故郷の人々。
そして「羽裏に描かれた山に煙が上る」羽織の代わりの絵を塊に描かせるギンコ。

筆を持てなくなっていた塊はギンコのこの策略?で再び絵が描けるようになる。
けれど騙されて偽の羽織を買った化野も「付録」によるとどうやら気づいたらしい(笑)。

一人ひとりの良い人たちが紡いで染めて、「山抱く衣」を織り上げる。
できた衣は故郷の山の匂いがする。

こんなに素直に故郷を思えるなんて、なんてうらやましいと思った。
理屈も何もなく、ただ好きと思える作品が、「蟲師」の中にはたくさんある。
(2010年5月23日の日記)
篝野行
「篝野行」の矢萩は、「蟲師」の中でいちばん身近に感じる女性の一人だ。
生真面目さや余裕のなさや追いつめられた時の対応や。
そんな矢萩がギンコと出会って学んでいく。
ふと足を止めて振り返る余裕、考える余裕。

今回は「蟲師」の話なんだけど、「蟲師」とは別の意味で私も学ぶことが多かった。
その意味でも印象深い作品だ。

作者があとがきで「火というものは、美しくて怖くてはかなくて強くて見てて飽きなくて好き」と書いているが、まさにその通り。
しかも触れても熱くない「陰火」であることがさらに不可思議さを誘う。

そういえば、先日浅田次郎著「あやし うらめし あな かなし」を読んだ。
7話の短編からなる怪談集だが、その中に「虫篝」という一品があった。
蟲ではなく虫を払う篝火だが、こちらも「美しくて怖くてはかなくて強くて見てて飽きない」火が哀しくも怖ろしい、そして不思議な世界を醸し出していた。

「篝野行」は火の美しさ、怖さ、はかなさ、そして不可思議さを絵で描き、「虫篝」は火の美しさ、怖さ、はかなさ、そして不可思議さを字で描いた。
どちらの作品もその世界は静かではかない。
あやしの火、熱い火温い火、「篝野行」と「虫篝」、読み比べてみるのも一興と思う。
(2010年6月21日の日記)
暁の蛇
あとがきに「天然ボケなお母さんが描いてて楽しかったです。息子が気の毒でなりませんが。」とあるが、感想もまさにその通り。
「天然ボケなお母さんが読んでて楽しかったです。息子が気の毒でなりませんが。」の一言に尽きる。
特にカジのくしゃみと自分のおなかが空腹で鳴ったことに対する反応には何度読んでも笑ってしまう。
悲劇、なのだがカジの母さよのおっとりした性格が悲劇を感じさせない部分がいい。

さらに忘れたことがある意味幸せにつながる展開を思えば、ちょっとだけうらやましい気もする。
それにしてもかわいそうなのがカジだ。
こんな母親を支えるために、すでに大人のような言動を見せる。
心の奥底には母に甘えたい、そんな想いも秘めているだろうに。

温かな風 花の匂い 機を織る音
こんな宵は 常ならば
深い深い 眠りの淵に 落ちるためにあるんだろうに・・・・・・

静かな呟きはギンコのものか。
はらはら散る桜の花びらが、はかなく消えるさよの記憶と重なって静かな美しさを紡ぎ出す。
それなりに完結した母さよに比べ、これからも全てを抱えてさよを支えていけなければならないカジがやっぱりせつない。

余談だが、ギンコがさよに記憶について説明する場面がある。
記憶は頭の中の箪笥のようなものの中にしまわれているとたとえ、ひとつひとつの記憶は無数の抽斗に区分されて入れられている。
それを抽斗ごと抜き取っていくのが今回登場する蟲影魂であると話は続くのだが、これと似たような文章を子供の頃読んだことを思い出した。

頭の中の知識の入る引き出しだったか物置だったか、その量には限りがある。
だから余計な知識は即刻忘れよう、「推理」するのに必要な知識を蓄えておくために。
そんなニュアンスの言葉を口にしたのか、かの有名な私立探偵シャーロック・ホームズではなかったか。
ほんとか単なる記憶違いかは定かでないが、私の中では意外なところで「日本の江戸と明治の狭間の時代(本作イメージ設定)」と「20世紀のロンドン」がつながった。
(2010年7月17日の日記)
8月29日 天辺の糸
「蟲師」の中でも珍しく「清志朗」という青年と、彼を「セイジロ」さんと呼ぶ「吹」が登場し、漢字の名前を持つ人物が増えて来る。
吹は清志朗の家に子守として雇われた少女だったが、ギンコと同じく蟲を見ることのできる体質で、清志朗と一緒にいた時に、「天辺草」がたらした糸をつかんでしまったために、人の目には見えない存在となってしまう。
幸いギンコに助けられ、清志朗の村に帰ってくるのだが、そんな吹に清志朗はプロポーズする。

吹と同じく蟲が見えると言うギンコに、「それは・・・・・・羨ましいな」と呟く清志朗と、「・・・・・・吹は幸せ者だな」と応えるギンコ、この会話が好きだ。
蟲が見えるという事は、むしろ面倒でトラブルの種になりかねないことを知り尽くしているギンコならではの台詞だろう。
吹の体質を受け入れた清志朗は幸せな結婚をするはずだった。

けれど結婚を前に吹は再び姿を消してしまった。
結婚を反対する親に、蟲の影響で体が浮き上がるようになってしまった吹、その状況は清志朗には大きなプレッシャーとなり、清志朗は吹の体が浮き上がらないように縛り付けることさえしてしまう。
受け入れてもらえない悲しみに吹は再び清志朗の前から消えるが、清志朗を慕う気持ちは吹の体を清志朗のそばに踏みとどまらせる。

ギンコに指摘されてそのことに気付いた清志朗は見えない吹と祝言をあげ、2人だけで暮らすようになった。
清志朗を変人扱いして近寄らなくなった村人たちがやがて見たものは、清志朗のそばに寄り添う吹の姿だった。
そして吹が消えることはもうない。

吹を助けた時のギンコは吹にまずい?薬を飲ませたり吹と一緒に光脈筋や天の川を見たりしているが、全体的に印象は控えめで、場面場面で清志朗に大事な言葉を投げかけるだけの存在になっている。
吹もまた、その心理は行動で表現されているが、存在感は薄い。

「天辺の糸」の主人公は清志朗。
清志朗の吹への想いや心の迷い、揺らぎ、苛立ち、そして決意が物語を織り上げる。
「蟲師」の中では比較的目立たない一遍だが、ギンコと吹が見上げる星空の美しさと共に好きな作品となった。
(2010年8月29日の日記)

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