「蟲師」感想(原作)3
囀る貝
海が好きだ。
でも、この「囀る貝」を初めて読んだ時、なぜか海にまつわる苦い思い出が浮かんでしまった。

大好きだった男の子や友達とみんなで海に行った夏休み。
可愛い水着を買って、ビーチサンダルやバスタオルまで新しく買って(笑)、気合を入れておしゃれした。
「好きです」ってこっそり言ってみようか、ふられたらどうしよう、そんなことばかり考えてドキドキしていた。
大好きだった男の子が友達の一人ともう付き合っていることを知ったのは、その直後だった。

泣けてくるのを見られたくなくて、海の中にざぶんと潜った。
可愛いアクセサリーつけてポニーテールにまとめた髪もあっという間にごわごわぐちゃぐちゃになり、塩で焼けた頬はひりひり痛くて、海水がしみた目は真っ赤になった。
大人になって、もっとつらい恋もしたけれど、なぜかこの時の失恋は特別な思い出になっている。

なぜこんなことを思い出したかというと、ミナが貝を拾って「波の音」を聞いてる場面に、あの日の自分を思い出したから。
潜って見つけた巻貝の殻。
持ち帰って机の上に飾って、そっと耳に当てれば波の音がした。
そのたびに泣いてたなあ(笑)。

今思えば恥ずかしくなるような、恋する自分に浮かれて傷ついた自分に酔いしれる年頃だった。
でもそれだけ純粋だったんだと、懐かしく思い出す。
そして「漆原友紀」という女性は、そんな純粋さを大人になっても失わない人なんだなあと改めて思う。
(2010年9月20日の日記)
夜を撫でる手
ホラーだホラーだ「蟲師」にホラーだと、らしくもなく騒ぎ立てたのは6巻に入り「夜を撫でる手」を読んだ時だった。
とは言っても、この作品をホラーと受け止めるかどうかは人それぞれだろうが。

元々ホラーは好きで、一時期横溝正史の金田一耕助シリーズの映画やドラマ、海外のいわゆるB級ホラーを片っ端から見まくった時期があった。
ホラーには強い方だと自分でも思う。
でも「夜を撫でる手」が問答無用に怖かったのは、この作品が嗅覚に訴えるものだったからだと思う。
普通に腐った匂いではなく、「甘く濃くすえた匂い」。
子供の頃体験し、かすかに記憶に残る「死の匂い」をなぜか髣髴させるこの描写が怖い。

ホラーだスプラッターだと言うけれど、ああいった映画は刺激が視覚や聴覚に来るべく作られているので、慣れてしまえばそれほど怖いものではない。
もしも嗅覚に訴える和製ホラーなど見てしまったら、私は夢でうなされそうだ・・・。
(あるかなあ、そんな映画あったら見てみたいなあ・・・。)

さてこの作品も、まずタイトルありきで好きになった。
次にさっき書いたように嗅覚の部分で怖くなった。
そして「力」を持つ者が獣を、山を、しまいには人を支配しようとする、その傲慢さに恐ろしさを感じた。
最後に圧倒的な自然の前に屈服した人の姿に哀しさとかすかな安堵を感じた。

夜に彷徨う異形の王は、兄弟の消えた父だろうか。
山の向こう側に行くために、人であることをやめさせられたのだろうか。

異形の手を持つ辰も、優しい顔の青年であり、卯助の優しい兄だった。
なのに忠告するギンコに「あんた 自分の立場わかってんのか?」と言い放つ、いつでも殺せる気軽に殺せる、そんな不遜な自信をこめて。
しかしこの後辰は腕に傷を負い、夜の山に一人残される。
「夜がこんなに長いとは 闇がこんなに恐ろしいとは」
圧倒的な山の力の前に初めて人として畏怖の気持ちを取り戻した辰だったが、その血を狙う鳥に腕を喰われる。

けれど兄弟はギンコによって救われた。
失った物も大きかったけれど。

「蟲師」を読んでいて感じるギンコの魅力は、蟲に翻弄される人を救うべく奔走しながら、それでも蟲に対する共感を失わない部分だろう。
同時に蟲と共存する力を持ちながら、人に対する優しさを失わない部分。
怖い物語でありながら、やはり読後感は暖かかった。
(2010年10月21日の日記)
雪の下
東北でも名うての豪雪地帯に育った私には、このエピソードは良く馴染む。

雪は冷たいもの。
普通、人はそう思うだろうけれど、たとえば重く湿って長靴がずっしりめり込むような雪は暖かい。
根雪の上に積もった、細かくさらさら乾いた小雪の上に思いっきり飛び込めば、舞い上がった雪の花が溶けて頬にはり付くまでの間、それはまるでティッシュで作った紙吹雪のように乾いて肌に柔らかい。

キーンと凍てついた冬の朝、音もなく降りしきる雪は肌を刺す。
風が強ければ、雪はさらに冷たさを増し、時には頬を切られるような痛みと熱さを感じる。
雪だるまを作る時は、芯となる小さな雪のかたまりを転がして、雪がしっかりくっつくかどうか真剣に議論する。

雪の日の夜中に車を運転するのは怖い。
真夜中のドライブ、重すぎる雪にワイパーがきしんで動かなくなることがある。

吹雪だと、闇と飛び交う無数の白い切片(今だったら蟲のようなと表現したい)に、このまま走ってったらどこか知らない世界に通じる入り口に入っちゃうんじゃないかと気になってくる。
高速だと、一定間隔で現れる灯りとスピードを調整する必要もなく、人や信号を気にする必要もない単調なドライブに、ふと自分が車の運転をしていることを忘れそうになる。

人は雪の中で、あるいは凍てつく水の中で限界を超えると冷たさを感じなくなるという。
暖かい雪に包まれて眠りにつく、なんて美しく、恐ろしい世界、でも魅せられる。
なんてことを故郷の友人に話したら、「そんなこと言えるのも雪に縁なくなったからよ。相変わらず雪寄せ雪降ろしは大変だし、何にもいいことないんだから」と一刀両断された。

ちなみに私は雪国育ちだけれど、スキーやスケートはからっきしだったりする。
何の自慢にもならない(笑)。

今回の「雪の下」も人の温もりと雪の冷たさがしっとり溶け合ったとてもいい話だったけど、一番印象的だったのが布団被って雪の観察してるギンコの姿。
やったなあ、あれ。
黒い紙に雪片をはらりと落とすと雪の結晶が見える。
とても綺麗だった。
(2010年11月12日の日記)
野末の宴
最近はあまり飲むこともなくなったけど、独身時代はとにかく飲んだし、強かった。
何でも飲んだが、ただひとつ日本酒だけが飲めなかった。
理由は簡単、まだお酒の飲み方もわからない頃に日本酒で悪酔いしてひどい目に合ったから。
今でも日本酒が目の前に出ると一瞬軽い何かが胸の中に沸き立つことがある。

でもこの「野末の宴」を読んでから冷酒は少しだけ飲めるようになった。
いいお酒だとおいしいとさえ思えるようになった(笑)。
私の夢は温泉でお風呂につかりながら熱燗、だけどさすがにそれは無理っぽい。

それほど「野末の宴」のお酒はおいしそうで野末の宴は楽しそうだった。
(カラーのページでは卵酒に見えたけど)
闇に揺れる炎、黄金色の光を帯びた、えも言われぬ芳しい匂いのする酒、父の残した盃、踊り痴れる蟲たち、そして男たちの静かな宴。
物語の中では説明役のギンコでさえも闇に溶け込む。

親子に通じる酒造りへの想いもいいし、イサザとの再会も懐かしい。
禄助はもうあの酒を造るのはやめたようだが、もったいない。
できた酒を売りつくしたら、禄助を蟲に誘うものはなくなる。
ギンコに言わせるなら、その方が幸せなんだろうが。

光酒のようで光酒ではない、不思議な酒を造り続けて欲しい。
私もいつかこの蔵元を訪れて禄助の酒を飲んでみたいから。
蟲と戯れるひと時を楽しんでみたいから。
(2010年12月4日の日記)
花惑い
「花惑い」を読み始めてすぐに、子供の頃読んだ童話を思い出した。
タイトルは覚えていないが、おばあさんを助けた優しい少女が、お礼に喋ると口から花が零れ落ちる体質?に変えてもらったのではなかったか。
逆に意地悪な少女は口から蛇とかカエルとか、そんな物が飛び出す恐ろしい体質になってしまったような・・・。

内容とは関係ないのだが、木に育てられる少女の失われない若さ、衰えない美しさをうらやましく感じたことからの連想だと思う。
人間が「生き物」であることに嫌悪を感じる時期があって、この少女が穢れない、理想の姿に見えたものだった。
いわゆるファンタジーの世界を夢見る年頃だったのだろう、妖精に憧れるような。
(ここで言うファンタジーは、「指輪物語」などの物語のジャンルではなく、あくまでも夢見る世界、仮想現実の意味)。

ところが「花惑い」は途中から一転ホラーに入る。
美しい佐保、蟲に憑かれた佐保に憑かれた一族が、若い女を殺して佐保の命を繋ぎ止めていた。
新たな犠牲者が出るのを阻止しようとするギンコ、だがアクションの部分が惜しい。
常に「静」を描き続けてきた作者の苦手な部分なのだろうか、描写のぎこちなさと迫力のなさに思い入れを抱くことが出来難かった、残念。

高橋留美子著「人魚」シリーズの「最後の顔」を思い出した。
ストーリーは全然違うのに何故だろう、「激情」という言葉と共に思い出した。
「激情」を描くのに、高橋先生は「動」をもって描く。
漆原先生は「静」をもって描くべきだったろう、これまでのように。

憑かれた女のために人を殺し続ける、そんな世界が綺麗であってはならないと思う。
ただ後書きの桜に心ざわめく気持ち、わかるなあ。
お花見の桜なら集団もいいけれど、ただ桜を見たいと思うなら、やっぱり一人の方がいい。
(2011年1月15日の日記)
鏡が淵
水彩画の「蟲師」の世界に、一点パステルカラーがひらめいたような、異色のエピソード「鏡が淵」。
なんといっても真澄、こんな現代っ子(作者曰く瞬発力で生きている)なヒロインは後にも先にも出なかった。
読んでいてなんという親近感!惚れっぽいとこ、立ち直りの早いとこ(笑)。
もうひとつ、蟲として生きているだけのモノ(蟲)に対する、ギンコの「そんなさびしそうにしてるなよ」という台詞も印象的。

人の見方ひとつで意志を持つモノとなり得る蟲の世界、その危うさ。
その蟲に対するギンコの視線の、その優しさ。

最初に「現代っ子なヒロイン」と書いたけど、もちろん真澄は芯の通った娘だ。
哀しくても、明るくても、時には身を滅ぼしても、「蟲師」に登場する人物は、最後までぶれなかったと思う。

真澄は惚れっぽいとはいえ、恋する時は一途でひたむき。
寂しさのあまり、一時は投げやりになっても、最後は意志の強さで生き延びる。
最後に蟲との対決に打ち勝ち、安心する両親の前で、

「・・・・・・今まで気が付かなかったけど あんたよく見ると男前だね・・・・・・
 髪の色とかヘンだけど血筋?郷里はどこ?」とのたまった(笑)。
「・・・・・・本当にもう治ったみたいですな」「さようで・・・・・・」

ギンコと両親の掛け合いも爆笑もの。
こんなヒロインがもう一人出ていたら、「蟲師」の世界も危なかったなあ。
そのぎりぎりのラインで最高に笑わせてもらった。

それから、「そんなさびしそうにしてるなよ」のギンコの台詞のせいだけじゃないと思うけど、「水鏡」はとても感情移入しやすい存在だった。
確かに寂しそう、優しくしてあげたい存在に見える、「付いて来ていいよ」と言ってあげたくなる。
魅入られる、その怖さ。

真澄をふった青年、名前すらない青年、本当に影が薄かった。
真澄とギンコと水鏡、その前には存在感すらないに等しい。
(2011年2月7日の日記)
雷の袂
母を愛する子と子を愛せない母の物語。
最初「哀しい物語」と打って、すぐに「哀しい」を消した。

他に愛する人がいながら、無理矢理他の人の元へ嫁がされた娘、しの。
愛せない男の子供、レキをやはりしのは愛せない。
最初に思いやったしのの辛さが薄らいでしまったのは、しのの心が凝り固まってしまったから。

愛せなくて苦しんで、それでも愛そうとする母ならば、読んでいても深い共感を覚えたかもしれない。
けれど母であることを放棄したかのようなその無表情は、読んでいても辛いだけだ。
それでもギンコは母と子を和解させようとする。

招雷子と呼ばれる蟲を体内に取り込んでしまったレキ。
そのために雷が落ちやすい体質に変わってしまった。
それ以来、レキは自ら望んで落雷の時は高い木に登り、待つ。
母しのは、それはレキがしのを罰しているのだと言う。
しかしギンコは、レキが母たちに被害が及ばないよう、そして母が「気がついてすぐに駆けつけてくれるよう」、そこで待っているのだと諭す。

なんて哀しいレキの心だろうと思う。
両親に愛されていないと気づきながら、それでも愛されたいと願う心を捨てることができないレキ。
その心を知ってなお、レキを愛することができないしのだったが、せめてレキと一緒に死んであげようと心に決める。
「・・・・・・今度はきっと ちゃんと子供を愛せる母親に生まれてきてあげるからー」
こわばっていたしのの心が、母としてではなく、人として溶けた瞬間。

結果的に2人は助かり、その後は離れて暮らすことになった。
そういう形での結末しかなかったのかと思う、そしてやはりなかったのだと思う。
私が感じた違和感は、普通であれば「無理矢理嫁がされた夫は愛せなくても、子供ならば愛せるはず」という先入観があったためだろうか。
それとも「蟲師」の世界にこういう女性が、母親が登場するとは、と思ったせいだろうか。

あとがきでは、雷に関してのコメントはあるけれど、人物に関しては触れておらず、結局しのの心を思いやったり反発したりの狭間をうろうろしているだけのような読後感となった。
まずはまっすぐ向かってくる雷ありきの物語だったせいなのかな?
アマゾンの書評を読んで、「母と子のすれ違い」と一言で表現してしまったいいのだろうか、と思ったりもした。
しっとりとした世界でありながら淡々と物語が進む「蟲師」だが、「雷の袂」ばかりは小さな棘のように、いつも心に引っかかる。
(2011年5月24日の日記)
棘の道
初めて読んだ時、「棘の道」を「とげのみち」と読んでしまい、後で一人赤面したことを覚えている。
「棘(とげ)」と書いて「おどろ」と読ませる、何か意味はあるのだろうか。
ギンコとクマドが入り込んだ「おどろおどろしい世界」とクマドが生きなければならない「荊の道」をかけた当て字なのだろうかと最初思った。
荊には棘があるし、なんて考えていたのだが、Yahoo辞書によると、「棘」でちゃんと「草木が乱れ茂っている所。やぶ。また、乱れ茂っている草木。」とある。

「あとがきにも「草葉の陰はは死者の国とつながっているのだそうで、茂みを見るとときめきます。
草木の生い茂った道をおどろのみち、おどろのした、などというそうです。」とメッセージがある。
前述のYahoo辞書にも後鳥羽上皇の「奥山の おどろが下も ふみわけて 道ある代ぞと 人に知らせん」という短歌が紹介してあった。
日本の歴史の中でも後鳥羽上皇は興味のある人物なので、ここで「蟲師」とリンクして嬉しくなった(笑)。

イキナリ話が脱線したが、脱線ついでにもうひとつ。
「棘の道」を読んでいて、頭の中に「Xファイル」のイメージが重なっていた。
不可思議現象は被るが、片やアメリカの最先端組織FBI、片や古き良き時代の日本の田舎(あくまでもイメージ)で全然違う、なんでだろってずっと思ってた。
ドラマとしての構成が似ているのだった。

「Xファイル」は幼い頃に妹を宇宙人に攫われたと信じるモルダーが基本にあって、その基本に沿ったエピソードと、それとは全く関係のない不思議な事件や不思議な人物を扱った番外編的なエピソードが描かれていく。
初期の頃は、特に番外編の方がメインで、私自身も政府の陰謀に関わるメインのエピソードよりも、実は番外編の方をおもしろく見たことを覚えている。

「蟲師」も初期はギンコの背景はほとんど描かれてなくて、淡幽登場篇などで少しずつ描かれるようになるが、本筋とサイドストーリー的な物語があまり絡むことなく展開される形だと思う。
そして今回の「棘の道」でギンコやクマドを含む蟲師やたまを含む薬袋家、淡幽を含む狩房家の内情が明かされ始める。
切ないのは「薬袋の家には 時に何かが欠落してしまっている者がいる」の淡幽の台詞。
「何か」とはたましい、「欠落した者」とはクマド、でもそれは強いされてなったもの。

それを強いてしまったのは薬袋家であり、淡幽の意志ではなくても狩房家の意志。
彼らの抱える「業」が見えてくる、そして今回は描かれていないが、たまの想いもまた切ない。
淡幽の願いによってクマドについて行ったギンコは核喰蟲に襲われることによってクマドを救うというとんでもない展開に。
それでも全てを終えて野点をする3人の穏やかな表情は嬉しい。

同時にこれから向かうべき運命に対するそれぞれの覚悟も。
最後に淡幽とギンコの掛け合いでちょっとだけ笑わせて、「棘の道」は静かに閉じる。
(2011年6月7日の日記)
潮わく谷
「蟲師」の中でもわけもなく好きな話、感覚的に好きな話のひとつ。
いつも人を助ける側のギンコが助けられるというちょっと変わった展開のせいか、それに伴って、ギンコのおとぼけっぷりも際立つせいか。
それもあるけど、やっぱりしっとりした質感と、優しい読後感が好きなのだと思う。

7巻の桜の表紙も素晴らしかったけれども、8巻に入って雪景色の表紙も好きだ。
7巻では桜を見上げていたギンコが8巻では雪を見下ろしている。
2冊並べて眺めていると、このどうしようもない蒸し暑ささえ溶けてなくなる気がするから不思議だ。

足に怪我して雪山で遭難しているギンコは、豊一に助けられる。
登場人物の名前に漢字が増えてきたことは、作者の視線が蟲から少し人間寄りになりつつ証しだろうか。
目覚めたギンコは3人の子供に囲まれていた。

「母ちゃーん 生き返ったよォ」
「何言ってんだ 死んじゃいないよ」

グッゴゴゴゴと鳴るギンコのおなかに
「あっはは そう急かすでないよ すぐに力のつくもん出してやっから」と母ちゃん。
「・・・・・・ありがてぇ まるで桃源郷にでも来た気分だ」とギンコ。

まるで水墨画の淡い背景のようだった、ギンコが出会う人たちの姿が、だんだん生き生きとした色彩を帯びてくる。
その分蟲の影が薄れる向きも確かにあるが、私はそれはそれで好きだ。
以前の「蟲師」に還りたかったら、また1巻から読み返せばいい。
「緑の座」の深い深い味わいに戻ったらいい。

話がそれたが、この後ギンコが豊一の異常に気付くところから、いつもの「蟲師」の物語が始まっていく。
蟲が、乳潮と呼ばれる蟲が母千代の命を削り、豊一を救った。
豊一は眠れぬ体、疲れぬ体を持ち、休むことなく働き続ける。
ゆえに豊一の畑は冬にも関わらず、緑豊かだ。

理由も知らず、働き続けていた豊一は、理由を知って今度は自分の意志で働き始める。
見守るしかない父とギンコ。
でも物語はその後の数年を描かれないまま終わる。
そして最後に厳しい冬が訪れるようになった谷を描いて終わる。

普通の人間として生きることを選んだ豊一。
ギンコが会った時は、母ちゃんの背に負われていた子も親の手伝いをしする年になった。 母ちゃんのおなかにさらに一人いるように見えるのは気のせいか?
ギンコがいつか戻って来て見たら、喜ぶような風景だ。
その足で淡幽の元へ報告に行きそうな風景だ。

蟲は正義でもなく悪でもない、ただそこに存在するだけ。
蟲に関わってしまった人々の喜怒哀楽が淡々と描かれている「蟲師」。
その中でも柔らかい余韻を残して終わるから、私は好きだ。
(2011年6月23日の日記)
冬の底
ギンコ以外の人間が登場しない、ギンコの一人芝居のようなエピソード。
ただし亀が出て来る、ヌシである。
おおこの亀、喋るかギンコとテレパシーで会話でもするか、いやいや凄いスピードで動き回るかもしれないと期待満々で読んでいったが、最後まで置物のように微動だにしなかった(笑)。
でもサイコキネシスのように、見えないところでなんらかの力が働いて山を閉じ、開いたらしい。
全てがギンコのひとりごと、推理の形で描かれる。

作者が後書きで「亀を描けて本望」と書いているが、確かに「冬の底」は亀が全てで、「蟲師」の中では番外編的な意味合いが強い気がする。
でも深い深い沼の底でヌシに守られながら眠る動物たち、その中で共に眠りにつくギンコは、人もやはり生き物の一部なのだと感じさせる。
人がもし春に起き、冬に眠る生物だったらどうだったろう、ふと思った。
人は自然に対してあまりにも傲慢に生きてきた。

時に悲劇的な形でその報いを受けざるを得ない。
人がもし冬眠する生物であったなら、否応なしに自然に守られていることを意識せざるを得なかっただろう。
自然は優しい、でも自然は恐ろしい。

以前朝日新聞に「水怖し水の尊し春に哭く」という句が掲載されていた。
その慟哭に胸を突かれた。
自然を守り、人を守るために何かできないだろうか。
もっともっと、もっと役立てることはないだろうか。

普通に生活を送ることに罪悪感を覚えながら、それでも精一杯できることをするしかないのだろうか。
自問しながら、苛立ちながら、こうして毎日を過ごしている。
そんなささくれた心でも、作者の自然に向ける優しい眼差しに少しだけ湿り気をもらった気がした。
(2011年7月12日の日記)
隠り江
「蟲師」の世界には信じられないほどいい人ばかりが住んでいるが、それが白々しくないのは、やはりそれぞれにリアルな存在感があるからだろう。
「隠り江」に出て来るのも、好きになれそうな人ばかり。
そして舞台は水路のある町、小舟をこいで渡る町。
やっぱり好きな作品だ。

「隠り江(こもりえ)」も造語だと思っていたら、ちゃんと「木などに隠れている入り江」という意味の言葉があるそうだ。
そして参考にしたのは柳川の景色だそう。
福岡県柳川市は、市のサイトによると

「柳川地方に人が住み始めたのは、およそ2千年前と推定されています。
そのころから人々は、有明海の湿地の溝を掘り、その土を盛り上げて開拓し、灌漑と排水を担うクリーク網を形成していきました。
市内外に残る条里の遺構や地名はその営みの古さを物語っており、この縦横に走るクリークは柳川地方の景観の特徴です。
慶長6年(1601年)から田中吉政が、元和6年(1620年)から立花宗茂がこの地を治め、治水・干拓事業により2000町に及ぶ干拓地の造成など、今日に伝えられている地域の社会的、物的環境の基礎が整えられました。」

という歴史を持つ。
なるほど、この水郷は人工的に作られたものなわけだ。
さらに

「寒暖の差が比較的少なく温暖多雨な九州型気候区」

であるために、木々に包み込まれたようなこの水の風景が出来上がったのか。
福岡県はあまりに遠く、おそらく訪れることはかなわないだろうが、物語の中に、夢の中に、この緑と蒼に包まれた夢幻の世界をイメージしておきたい。

今回登場する蟲は「舟」に「少」と書いて一語、「かいろぎ」と読む。
パソコンでも出てこないので、これこそ造語だろうか。
一反木綿の切れ端のような愛嬌のある蟲だが、その力もある意味うらやましい。

「妖質」の豊かな者の意識に棲み 主と同調し 自由に「水脈(みお)」を往来し 望む相手に思いを届ける事ができる。
「水脈」とは、ヒトとヒトの意識の間にある見えない通路で、ゆらの住む 町に張り巡らされた水路のように、裏庭ですべての水路はつながっているのだという。
「妖質」は水脈を流れるモノで、「五識を補う」のだという。
でも水かさが少ない所も多く、入り組んでいて地図もない。
それでも水路はつながっているので望む相手に会えることもたまにある、それがいわゆる「虫の知らせ」。

それが強いのがゆらであり、そのせいで蟲に憑かれたのがゆらなのだ。
なんて素敵な事だろう。
心がつながり、想いが届く、そう思ってしまうその危うさ。

ゆらを思ってスミと引き離す父親や、ゆらと距離を置くスミ。
ああみんないい人だ。
「蟲師」の世界は本当は厳しさをも投げかけてくるのだけれど、時には夢心地になってしまう。
(2011年8月8日の日記)
日照る雨
「蟲師」を読んでいると、最初はモノトーンだったコミックが、少しずつ木々の緑や空の青に染まっていく錯覚を起こすことがある。
最初は薄墨のように、だんだん水彩画のように、そしてまるで実写の世界のような色合いになる。
おかしなもので、ギンコなど登場人物や蟲だけは漫画の白黒のままで、まるでカラー背景の前を白黒のギンコ人形が動き回るパネルシアター状態(笑)。
どうせなら、登場人物も含め、全てが色づいて欲しいものだが、この風景が私の想像力の賜物ではなく、幼い頃見た田舎の風景が蘇っているゆえだろう。

それもどのエピソードでも、というわけではなくて、第1話「緑の座」に始まり、「雨がくる虹がたつ」「春と嘯く」など数話だけ。
緑の鮮やかさや雪景色の白さ、きらめく稲妻、舞う桜など身近にある風景を髣髴させる物語がほとんどだが、今回の「日照る雨」もそのひとつ。
時には欲しがられ、時には疎ましがられる雨。
時には恵みを与え、時には全てを押し流す元となる雨。

その雨を道連れに旅を続ける娘テル。
漢字で書くなら「照」の字でも当てようか、その皮肉。
一つ所にとどまることを許されないその運命は、実はギンコと同じ。
ギンコはそのことをテルには明かしていない。
己のことで精一杯で、そのような余裕のない娘であるからだろう。

これを読んで、ふと「眼福眼禍」を思い出した。
周はテルと同じく当てのない(わけではないが)旅をする娘だが、芯はテルに比べてずっと強い。
ギンコもテルに対してはあくまで蟲師としての態度を崩さず、でも周に対してはむしろ対等のような感じで接していた。
いずれにとってもギンコは優しい。
もっとモテてもいいような気がするのだが(笑)。

ギンコが会う娘たちは、皆感じるのだろうか、ギンコがさすらい人であることを。
(2011年9月5日の日記)
泥の草
実はこのエピソード、「蟲師」の中で唯一感想が書けない話。
というか二度と読めない話。
人間の体から芽が吹き出す描写、と書いただけでざわっと鳥肌立つくらい私の苦手なカットが多く、ストーリーも全然覚えてないという情けない。
「あとがき」で「後味が悪い」って書いてたけど、ストーリーすら覚えてないので後味悪かったかどうかも覚えていない。

最初に読んだ時も、あまりに(私にとって)気味の悪い描写が続くので、薄目で読んだくらい、でも鳥肌立ったくらい苦手だ、こういうの。
むしろアニメの方が平気かも。
ホラーな小説も平気、グロテスクな映画もまず大丈夫、でもこういうさりげない中にうじゃうじゃ系が苦手。
現段階において、漆原友紀先生は、私の一番好きな漫画家の1人であると共に、一番苦手な漫画家の1人でもある。
前も「柔らかい角」とかで鳥肌立ててたけど、この「泥の草」が一番苦手。

だから感想書けないけれど、これだけ抜けるのもなんか変なので、いくつかのブログを回ってあらすじを読んだ。
もうその時点で駄目だった。
体からあんなのがあんなに生えたら駄目だよ・・・。
皆さんもあるんじゃないだろうか、何かが軋る音やら蠢くものやら。
というわけで今日はおしまい、ごめんなさい。
(2011年9月19日の日記)
残り紅
「蟲師」は内容はもちろんタイトルも全て好きだけど、この「残り紅」は「逢魔が時(あるいは大禍時)」というタイトルでもいいように思う。
今回出て来るのは夕暮れ時にのみ現世に現れる「大禍時」。
ギンコが出会った人のいい老夫婦や村人たちとのギャグみたいな掛け合いの裏で、恐ろしい、そして哀しい世界が展開される。
夕暮れ時に、影を踏んだ者と踏まれた者が入れ替わる、でも恐ろしいのは常に一人大禍時にのまれた状態にいること。

新たに誰かの影を踏んで、その者と入れ替わらない限り、大禍時から出ることはできない。
その中で時の流れはどうなっているのか、物語の中では直接触れていないが、アカネは入れ替わる機会がなかったのか、たとえあっても優しさゆえに踏めなかったのか、気の遠くなるような長い時間を大禍時の中で過ごしていた。

そしてアカネをおそらく好きだった陽吉はアカネを失い、代わりにやって来たみかげとやがて結ばれる。
でもその人生は優しく楽しく、そして切ない。
ギンコと会ったことにより、二人は大禍時の存在を知り、それぞれ自分を責める。
それでも二人は幸せだった。

みかげは最後まで幸せに生きることを許され、やがて死ぬ。
その後陽吉はアカネと、いえアカネの影と出会う。
償いのために陽吉はアカネの影を踏み、アカネを現世に戻して消えた。
最後は幼い姿のままのアカネが発見されて大騒ぎ、の図で終わるが、いつかギンコが戻って来たらおそらく全てを知るだろう。

陽吉が消えたその日に現れたアカネ、その因縁を。
たとえアカネに記憶の全てが残っていなくても。

逢魔が時(それこそ大禍時とも書く)、昼でもなく夜でもないその狭間。
夕方の薄暗がりで人の顔も判別し難い頃を指し、昼間の明るさの中では息をひそめて隠れていた物の怪が、いよいよ活動しようと蠢き始める時刻。
神隠しにあったりするのもちょうどこの時で、もののけ界(小説など)ではかなり不吉な意味合いを持つ。
夕焼雲、カラスの鳴き声、長い影、などであろうか、一般的にイメージされるのは。

そこに怖いものは何もないが、確かに壮絶に綺麗な夕焼け、日没の瞬間といった「時」に言い知れぬ寂しさ怖さを味わったことは誰でもあるのではないだろうか。
逢魔が時の怖さは、底知れぬ闇の怖さとはまた違う。
もっと曖昧で言い知れぬ怖さ。

今回作者がこの逢魔が時(大禍時)をこのようなモノに作り上げ、翻弄される一人の少年を二人の少女を描き切ったのは、感動を越えて見事と言うしかない。
陽吉は時の止まった、恐らく死さえ許されない大禍時の中で、永遠に誰の影も踏むことなく生き続けるのだろうか、大禍時自体が死を迎えるその時まで。
もしも大禍時が一体ならば、この後大禍時に人生を翻弄される人間が現れることはないだろう。
そしてそれが陽吉の償いなのかもしれない。
(2011年10月9日の日記)
風巻き立つ
このタイトル、ずっと「かぜ まきたつ」だと思っていたのだが、「しまき たつ」だったことに今気がついた。
「風巻」とかいて「しまき」と読み、「風が激しく吹き荒れること」という意味だという。
「雪風巻」と書けば「吹雪」となる、なんて激しい言葉だろう。
まずこのタイトルに圧倒された。

「蟲師」には意外に親子の関係がうまくいかないエピソードが多い。
親子の絆は漫画にしろ小説にしろ映画、ドラマにしろ永遠のテーマだから驚くことでもないのだが、「蟲師」は「優しい」という印象があるからだろう。
でも「蟲師」が描く人の営みは決して優しいばかりではないことを、今回も気づかされた。
寂しいなあ、いい風が吹いたのに・・・。

ところがシリアスな内容にも関わらず、ギンコと化野の掛け合いとか、風を操るイブキを見ている時のギンコとか、意外な笑わせどころがあり、特に呼蠱を操るギンコがハメルンの笛吹きを思い出させて吹き出してしまった
。 (笑う場所ではないのだけれど・・・)。
よってイブキの静けさと寂しさ、ギンコの笑える部分に妙なメリハリが効いて、不思議なおもしろさがあった。
おそらく作者の意図したものではないだろう。

思いがけず蟲に関わってしまった者も大概不幸になるけど、なまじっか蟲を操る力を持ってしまった者はさらに悲惨だ。
ギンコたち蟲師の役割は本当に重要で、それだけに他の蟲師たちの事もとても気になる。
ギンコのような曰くのある者は割と少ないように思えるが。

蟲師の世界は自然を淡く描くが、モノクロのページから湧き上がってくるのは濃い緑や深い蒼、そして今回は渦巻き沸き立つ鳥の群れ。
ヒッチコックの「鳥」を思い出してしまう光景だが、とりかぜの群れはどこか清々しい。
そしてまたまたひえぇ〜っとなりそうな呼蠱の群れ、こちらはいろんな意味で禍々しい。
(2011年10月25日の日記)
壷天の星
座敷童を思い出しながら読んだ。
座敷童は家にいても、気配しか感じられないのが普通。
その家が傾く時、座敷童は家を出るが、その一瞬だけ人に姿を見られるという。
そんなものだと思っていた。

座敷童はもののけだから、寂しいとかそんな感情はないのだと当然のように思っていた。
でももしかしたら座敷童ってとっても寂しい存在なのかもしれないと思った。
「壷天の星」はそんなことを考えさせてくれる、とても綺麗な物語。
井星と同調して、家族とは違う側に来てしまったイズミとイズミの存在を感じる姉と信じる母。

辛さのある物語だけど、ちょっとイズミがうらやましく感じる部分もある。
井戸の底から移った世界、寂しいけれど静かだけれど綺麗な物語。

今回のギンコはちょっとおもしろい。
感情はあまり出さず、プロとしての仕事に徹する。
基本的にイズミたちの側から見たギンコなせいか安定感のようなものも感じる。
まあ今回は他の選択肢などない、イズミの意志など関係ないことだからなのだろう。

井戸の底から覗く世界。
ずっと前「に四谷怪談」ゆかりの場所を尋ねて四谷の於岩稲荷田宮神社に行ったことがある。
お岩さんが実際に使っていたと言われる井戸、普段は覆いをしてあるということだったが、覆いを取って中を見せて頂いた。
四谷怪談のお岩さんといえば怖いが、実在していて平凡な一生を送った女性だったと聞けば親しみやすくなってくる。

現在も飲用はしていないが、普通に使っているとのこと。
それでも覗き込むと吸い込まれそうな怖さがあった。
井戸はある程度の深さがあれば、それだけで異世界に通じる入り口のような、そんな雰囲気を持っているのだなあと思ったことを覚えている。
(当時映画「リング」が大ブレイクしてたこともあるけれど、笑)。

本当はもっと山の中の、深い深い井戸を覗き込んでみたい。
水面に映る月や星に手を差し伸べてみたい。
でも大体井戸自体ないし、たまにあっても危険防止のために頑丈に蓋をしてあって、中を覗くことなど全くできない。
寂しいことではあるけれど、その分「蟲師」でその感覚を体験できてるのかとも思う。
(2011年11月13日の日記)
水碧む
悲しくて哀しくて、淋しくて寂しくなる話。
そして最後に微かに笑む母の表情に切なさも感じた。
そんなに割り切れる話じゃないだろう。
なのに涌太の言葉を思い出し、母は微笑む、その切なさ。
生きていた記憶だけをよすがに生きるしかないその切なさ。

ギンコも時には人を救えず終わることもあるけれど、今回の物語は特に切なかった。
誰も悪くない、でも溺れてしまった、取り憑かれてしまった、その切なさ。
「蟲師」は言葉で感想を語るよりも、しみじみとその想いを味わう、そんな物語だと時折思う。
だから今回も、哀しいだけで、切ないだけで、綴る言葉は見つからない。
(2011年12月10日の日記)
草の茵
「茵」と書いて「しとね」と読む、初めて知った。
「しとね」と言えば「褥」で、字の雰囲気のせいか、あまりいいイメージではなかったが、どちらも敷物の事。
私の妹はいきなり「草の菌(きん)」と読んでいた。
うつけな姉妹なので、「蟲師」の世界観も台無しである(笑)。

それはともかく、「蟲師」を読み始めた頃とギンコのイメージが大きく変わってきている。
人なつっこく、とぼけたところもあるけど、どこか不思議な雰囲気をまとったその外観、その力、その体質。
いろいろな地を歩き回り、蟲と関わりを持ってしまった人たちを救う。
ギンコ自身の印象は乾いていて、その後彼の過去が描かれるとは思っていなかった。

けれど作者は少しずつギンコの過去を描き始める。
乾いた存在だったギンコが、少しずつ生身の人間としての存在感を持ち始める。
それもまた、物語に深みを与えていることだけど、私はもう一パターン、最後まで内面を描かずにプロフェッショナルの「蟲師」としてのギンコの物語も読んでみたい。
現在のストーリーの否定ではなく、二つのパターンの「蟲師」を読んでみたい。
「草の茵」を読んで、よりその想いが強くなった。

今回は、ちょっとすれてる(笑)ギンコが登場する。
ギンコの人生に大きな影響を与えた蟲師スグロも登場する。
ギンコに蟲師としての知識と生き方を教えてくれた人物。
「この世に居てはならない場所など誰にも無い」
「この世のすべてがお前の居るべき場所なんだ」

今草の茵に横たわるギンコの穏やかな表情をスグロは見ることがないとしても、蟲師ギンコの噂は聞いているだろう、喜んでいるだろう。
ギンコが横たわっているのは、あの場所なのだろうか。

作者が「難題だったが描けてよかった」と言い切った物語。
この前後にもギンコの過去が描かれるが、描かれる順番が興味深い。
(2012年2月3日の日記)
光の緒
「蟲師」降幕の刻。
広大無辺の妖世譚ーその幕がついに降りる。

「蟲師」最終巻。
私は10冊一気に買って一気に読んだのだが、山積みにした「蟲師」が読み終えた物から書棚に移し、どんどん少なくなってきているのに、「最終回」を意識しなかった。
「蟲師」は終わりのない物語、と心のどこかで認識していたのだろう。
最期の一冊、10巻を手にして、ぽっかりあいた机の上を見て愕然とした。
「蟲師」が終わってしまう・・・。

もともと「蟲師」は丹念にゆっくり、その世界を味わいながら読み込んでいくべき作品で、私のように怒涛のごとく一気読み、なんてしてはいけないのだが、我慢が出来なかったのだ。
そしてとうとう10巻。
その第1話は「光の緒」。

このところ寂しい話、哀しい話の多かった「蟲師」において、意外と言っては失礼だけどハッピーエンド。
ゲンの笑顔に心がほっこりあったまる。
蟲が絡まないと、割とよくある話なのだけど、筆者あとがきの「血を分けているとはいえ別の個を持つ命を宿す事は、、これまでの自分でなくなる程大変なすごい事なんだなあと思います。」の一文がこの物語の全てを表していると思う。
出産は自分を削ることなのか、自分の中に新しいものを創り出すことなのか、男性や経験のない人にとってはある意味永遠に解けることのない謎なのだろう。

今回出てくるのもみんないい人。
いい人だけど蟲のためにこんがらがって辛い目に合う。
それをほぐすのがギンコの仕事。
「蟲師」の原点に戻ったようないい話だった。

ちなみに21ページのゲンの指先から何も出て来ないであせるギンコとあきれる?ゲンのカットはちょっと笑えた。
(2012年2月17日の日記)
常の樹
「常」と書いて「とこしえ」と読む。
永久に、永遠に、いつまでも変わらずに、そんな意味。
「とこしえ」の意味は知っていたけれど、こう書くのは知らなかった。
「蟲師」、漢字に関して教えられることも多い。

さてこの「常の樹」だが、「泥の草」ほどではないにしろ、読むのは好きだけど見るのが苦手なエピソード。
足から芽が出て来るカットで鳥肌が立ってしまった。
映像だと平気なんだけどな。
失礼ながら、漆原先生はホラー漫画を描いても大丈夫、そんな気がする。

それはともかく、切られてしまった巨木の哀しさがいい。
自らを守ることはあっても、人を恨むことも祟ることもせず、「あの時」自ら切られた。

幹太(ここで笑ってはいけないがつい笑ってしまった名前)が不幸にもこの樹に取り憑かれるような形になったが、おかげで村人全てが救われる。
ギンコの、蟲師の力の及ばない次元で続いていく幹太の人生と巨木の記憶。
最後まで幹太が治ることもなく話は終わるが、読後感はいい。

幹太が巨木の記憶と想いを受け入れたような形になったことで、巨木も幹太も満ち足りた、そんな気がする。
幹太が村人を救う前の異常な状態であった時から幹太を支えようとする家族もいい。
子供の頃の、老いたワタリに話を聞いているイサザとギンコが可愛かった。

あと幹太とギンコが初めて会った時に、「あんた どっかで会った事があるな」から「いや 違うんだよ おーい」までの会話がおもしろい。
おもしろいけど蟲師たるもの、ギンコももう少し早く幹太の異常に気付くべきだったんじゃないかな?と突っ込みたくなる。
「・・・・・・新手のペテンなら」のところ、言い出す前の表情が思い当るところありそうに見えるのだが。

少なくとも「植物に必要以上に触るな」とか助言できなかったのかな?
無理か・・・・・・。
(2012年3月5日の日記)
香る闇
「蟲師」も最終章、限りない寂しさと共に読み始めた「香る闇」だけれど、途中で一気にアメリカはワシントンまで心が飛ばされた。
「Xファイル」である、「月曜の朝」なのだ。
全く同じ、いえ同じではない。

「Xファイル」では主人公のモルダーが、月曜の朝を繰り返す。
「香る闇」では主人公のギンコではない、カオルの名を持つ男性が、人生を繰り返す。
モルダーは運命ゆえに、カオルは 「廻陋(かいろう)」の名を持つ蟲ゆえに。

廻陋、漆黒の筒状の蟲、この「廻陋」という言葉がおもしろいなあと思って調べてみたら、「陋」という字には、「心が狭い、みすぼらしい、いやしい」などという意味の他に「(場所的な意味で)狭い」という意味がある。
なるほど、狭い、この場合は空間、時間を囚われ人は廻り続ける、それを意味する名前だ。

「Xファイル」ではモルダーの延々と続く同じ朝にブラックな笑いを感じ、毎日繰り返される悲劇の結末に唖然としたが、それをモルダーはその運命を知る女性の助言などから救われる、モルダーの時間は進み始めて終わる。
「香る闇」では、カオルはギンコの助言に従って、自分の人生を取り戻すが、その先に待っていたのは愛する妻の死だった。
妻を取り戻すためにカオルは再び 廻陋に踏み込む。
2人の人生が再び始まるが、今回廻陋に囚われたのは、妻郁だった・・・。

描かれていないが、カオルは廻陋から解放されたように思える。
ならば・・・これは幸せな結末ではないのだろう。
けれど、カオルもギンコもそうとは知らずに何度も何度も生かされる。
郁が疑問を抱き続けない限り、とりあえず影響は受けないだろう。

それでも、カオルがそうだったように、郁も自分の既視感に疑いを持ち、ギンコに相談するだろう。
そして廻陋のことを知り、そして踏み込むことをためらうだろう。
そしてどうする、そしてどうなる。
同じことを代わりばんこに繰り返し、繰り返し、2人は同じ人生を歩み続けるような、そんな気がする。
断ち切ることはできないような、そんな気がする。
それは悲劇だろうか、そうではないのだろうか、わからないけれど。
ストレートに迫ってくる「Xファイル」のおもしろさに比べ、複雑で重厚、それでいて繊細、「香る闇」の味わいは、和に生きる者にしか生み出しえない世界だろう。

作者は春の沈丁花、秋の金木犀の香りに関するメッセージを残している。
「香る闇」は山菜取りの話が出てくるし、樹の描写からしても金木犀だろう。
あの濃厚な香りに包まれて生まれた物語、とても好きだ。

以前、時々通る道の団地の生け垣が全て金木犀で、秋にそこを通るのがとても楽しみだった。
でも住んでいる人たちの立ち話が聞こえたのだが、香りがきつすぎて頭が痛くなるのだそう。
贅沢な悩みだと思ったけど、24時間あの香りに包まれていたら、確かにそうかもしれないなあとも思う。
ところがその団地が壊されることになり、生け垣もほとんど切り倒されてしまった。
哀しかった。

もうひとつ、以前住んでたマンションの向かいが古いけど趣のある一軒家で、近くに狭い石段もあり、当時日テレがまだ近くにあったので、よく撮影に来ていた。
そこにも見事な金木犀の巨木があって、秋には満開の花を咲かせていた。
その家も私が引っ越す直前に取り壊され、金木犀も切り倒された、寂しかった。

「香る闇」は私にとってはこの生け垣への、大げさに言えば鎮魂歌になり得る作品だ。
今年の秋は、夜の金木犀の写真を撮りに行こう。
まずは「大好きな場所」になり得る金木犀のある所を探しに行かなくちゃ。
(2012年3月27日の日記)
4月13日 最終話 鈴の雫
物語はまだまだ続く、そんな終わり方。
ギンコの旅はまだまだ続く、そんな終わり方。
穏やかな余韻を残して「蟲師」は完結した。

何度も何度も読み返すうちに、静かな感動とは別な部分で小さな違和感を感じ始めている。
最終話として描いた物語は、新たな世界の幕開けに思える。
終わるのは仕方がない、でも終わるべきでないエピソードで話をまとめてしまった、そんな気がする。

人間と蟲の新たな関係を描いて欲しい。
そんな欲求を持て余しながら読み終えてしまう。
まだまだ続く余韻を残す物語として終わるにしても、こんな終わり方はあまりにも惜しい。

そんな感想を持ってしまった「鈴の雫」。
一人の少女がヌシとして選ばれた。
人間、ある意味ヌシとして一番不適格と思える「生き物」である。

ヌシになることを受け入れながら、ヒトとしての感情に苦しむカヤ。
妹を苦しめることになるのに人として受け入れたい葦朗。
カヤを救うために自分を差し出すギンコ。

それは犠牲になるというより、蟲の世界に憑かれているようにすら見える。
束の間の異世界、蟲の世界。
しかしギンコは帰ってくる。
再び蟲と共存する日常が始まる。

惜しい・・・。
「もはやヒトにヌシが生まれる事はない」でまとめないで欲しかった。
そこを描きぬいて欲しかった。
そんな風に思う私はよくばりなのだろう。

あんな「蟲師」やこんな「蟲師」を読みたいし、あんなギンコやこんなギンコにも会いたい。
これは私の悪い癖で、好きとなると何度も何度も繰り返して読み、そのうちに感動を超えた欲が出てくる。
これはどうにも始末が悪い。
それでもあっという間の「蟲師」の世界を十分に堪能できた、穏やかな時間が過ごせたと思う。
今更だけど「蟲師」と出会って良かった、そんな風に思う。

「蟲師」を振り返って、一番印象的なのは「雨が降る 虹が立つ」。
ストーリー云々ではなく、感想をアップしようとしたちょうどその日に雨が降り、二重の虹が出た、その驚き。
内側の色鮮やかな虹は外側が赤くて内側が緑や青。
外側の色薄い虹は外側が青っぽくて内側が赤。

一瞬だけ、蟲師の世界とリンクした、そんな気がした。
嬉しかった。

「蟲師」はアニメも素晴らしいので、余裕があったらアニメの感想も書いてみたいと思う。
「アニメ化された中で幸せな原作」トップ3を選んだら、間違いなく「蟲師」は入るだろう。
原作に忠実なストーリー、ある意味原作を超えた映像。
「蟲師」は原作もアニメも素晴らしい作品だった、本当にありがとう。
(2012年4月13日の日記)
11月1日 日蝕む翳
今年4月に「蟲師」の新刊が出ていたのは知りませんでした。
あとがきによると、新連載の準備をしていたら「妊娠が発覚」、取材が出来なくなり、短編しか 描けないので、「蟲師」の特別編を描くことになったのだそうです。

おめでとうございます!
おかげで新しい「蟲師」にも会えました、ギンコにも再会できました!

題名の通り、今回は「日蝕」が大きなテーマです。
大きなニュースになって私もテレビで見ましたが、その時の感想?印象というものはつくづく平凡 だったなあと思います。

「蟲師」本編もだけど、あとがきや合間にちょこちょこ描かれている漆原さんの豊かな感性には いつも目が点になります。
そしてその感動をこんなに豊かに描ける表現力、いいなあ・・・。

ギンコはもちろん、淡幽や化野先生も出て来ます。
主役は黒い髪と白い髪の双子の少女。
陽を浴びてはいけない病のヒヨリと、母の胎内でそのヒヨリに守られたため病を免れたヒナタ。
ヒヨリの辛さとヒナタの負い目を縦糸に、日蝕の影響を受けた蟲を横糸に、ギンコが紡ぐ物語。

確かにこれまでと比べると急ごしらえの感は否めないけど、「蟲師」は終わってなかったんだと実感できます。
そもそも終わりのない物語だったので、連載終了した後もギンコは旅をし、淡幽は書を綴り、他の人たちも それぞれの生活を続けている。

その隙間がぴったりと埋まって大満足。
アクシデントの特別編だったらしいけれど、これからも不定期でいいから描いて欲しいなあと切に思いました。
人はね、いろんなものを抱えて生きているけれど、奥底にはみんな優しさが満ち溢れているんだよ、 そんな声が聞こえて来そうな作品です。
(2014年11月1日の日記)

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