(あま翔ける龍となれ 


―この国の夏は暑い。
湿り気を帯びた熱気は、まるで粘液のようにまとわりついて、毛穴のひとつひとつを 塞ぐ。
ねっとりと濡れた皮膚が呼吸できずに息苦しく、下手をすると卒倒しかねない危険な暑さ。

特にこの日は暑かった。
風景もぎらつく陽射しに黄色く染まり、揺らめく陽炎の中を歩く人の姿はない。

しかし、申し訳程度の木陰に、熱気の塊を切り裂くかのように槍を振る青年の姿があっ た。

身の丈八尺あまりのがっしりした体に不似合いな童顔の持ち主で、大きな目は黒々と 冴え渡り、引き結んだ唇が生真面目さを感じさせる。
たくましい外見にもかかわらず、その体は柔らかく動きはしなやかで俊敏だった。
激しい動きと共に飛び散る汗が、足元に小さな水溜りを作っている。

時々水を含みつつ、もう何時間もこうして槍を振り続けているこの青年、名を趙雲、字を子龍という。
いまだ18の若さにして槍の天才とその名も高い。
幼い頃に飢饉で両親を失い、孤児となった趙雲を拾って育ててくれたのは1人の老人で、名を劉 秀、字を伯真という。
趙雲を槍の使い手に育て上げたのも、この劉秀なのである。

趙雲は劉秀の身の回りの世話をしながらさまざまなことを学んだが、この老人の素性については何も知らなかった。
成長してからは近くの小さなあばら家に移り、こうして槍の修練に通っているのだった。

やはり小さなあばら家につつましく暮らしている、この鶴のように痩せた老人がふらりと外に出てきた。
ふと足を止め、額にかざした手の下からまぶしそうに空を見上げた後、無心に槍を振る趙雲の姿に満足そうに目を細める。
小屋の中は陽射しが入り込まないとはいえ、汗もかかずに立つ姿はまるで暑さを感じていないように見えた。
不思議な老人である。
劉秀の視線に気がついた趙雲が、槍を振る手を止め、にこりと笑んだ。

「先生。」
「そこまでにしておくが良い。
時間をかけた分上達するものではなかろう。
気が萎えてきておるようじゃ。」
劉秀の言葉に、額の汗を粗末な着物の袖で無造作に拭い、濡れた髪をかきあげながら趙雲が 歩み寄ってきた。
師弟の礼を取ろうとするのを制すると、劉秀は趙雲を小屋の中に誘った。

劉秀が優雅な動作で淹れた茶をすする。
どんなに暑くても、劉秀は冷たい水をは口にしなかった。
冷気は体を冷やして心地よいが、同時に体から生気を奪う。
水を飲む時は少しずつ口の中に含み、暖めてから飲み下すようにと趙雲に教えたのも劉秀だった。

2杯目の茶を飲み終えた趙雲が居ずまいを正した。
「もう行くか・・・?」
「はい。」

趙雲がどこへ何をしに行こうとしているのか、それには少し説明がいる。
趙雲が飢饉で両親を失ったように、後漢も末期のこの時代、国は勢力争いにうつつを抜かす輩ばかりが跋扈する魔殿と化して、誰一人民を省みることがなかった。
ゆえに国は荒れ、天災が多く、人心も荒み、人々は食べる物も着る物もなく、暑さ寒さに飢えと渇きで痩せ衰え、毎年数多くの死者を出していた。

そんな時に泥沼を這う浮き草のように浮かび上がってきたのが、「太平道」の教えを説く張角であった。
自らを大賢良師と称し、信仰によって病人を救う張角はたちまち人の心を捉え、信者は膨れ上がった。
これが後の「黄巾の乱」につながっていくのだが、今はまだその時期ではない。

未だ18の趙雲が劉秀の家で茶をすすっているちょうどこの頃は、張角人気が最高潮に達し、10万単位で信者が増えていると言われる時期だった。
張角によって救われたと錯覚する庶民が浮かれ騒いでいる中で、すでに心ある者はその正体を看破しつつあった。
いや張角がもともと天下取りを目指していたのかどうか、それはわからない。

生き神様と祀り上げられて慢心に取り憑かれたのかもしれないし、もともと人の心理に付け込んだインチキ治療を施す詐欺師だったのかもしれない。
それはわからぬが、張角の慢心が救いを求める信者の心を少しずつ濁らせていったのは事実だった。
普通には見えぬその変化に気づいた人々の中に、劉秀がいた。

百万を越える大集団に膨れ上がった太平道を、国が放っておくはずはない。
すでに激しく崩れつつあるこの国にとって、張角の大勢力は危険な存在だった。
逆に浮ついた群集心理をうまくさばいて、張角が何かをしでかすかもしれない。

今はまだ庶民が太平道をお祭り騒ぎで敬い奉っているから、劉秀達にもどうすることもできない。
何かが起きて、太平道がその正体を現すのを歯噛みしながら待つことしかできなかったのだ。
今でこそ世捨て人のような生活を送っている劉秀だが、今はまだ明かせぬ過去によって裏ではかなり状況をつかんでいた。

そして劉秀は、趙雲を修行の旅に出すことに決めたのであった。
幼い頃から趙雲の体も心も鍛え上げ、誰と戦っても負けない強さを身につけさせたが、この素直で従順な青年はあまりに世間知らずで純粋過ぎた。

張角がいようといまいと、やがてこの国は滅びるだろう。
そしてその後に戦乱の世がやってくる。
血で血を洗うその時代、清らかだけの心で生き抜いていくことは難しい。
趙雲も世の荒波に揉まれて清濁併せ呑む、そういった意味での強さを身につける必要があった。

逆にどんな状況になっても天性の純粋さ、清らかさを失うことなく生きていけたら、そしてそんな主君に巡り会えたら、この青年は底知れぬ強さを持って世に羽ばたくだろう。
そう、天(あま)翔ける龍のように。

「そろそろわしの元を離れて1人で生きてみるが良い。」
突然劉秀に言われた時は驚いたように目を大きく見開いたが、すぐに「はい」とうなずいたこの若者に迷いはない。
「どこへ行くつもりだ?」
軽く聞くと「海の方へ行ってみたいと思います。」と答える。

劉秀は目を細めた。
遼西令支、公孫瓚。
清廉の人と呼ばれ、成り上がりながら力をつけつつある、音に聞こえし果敢な武将、そこを目指すか。

悪くはない、だが惜しむらくは何かが足りない。
ならば誰を、とは劉秀にはまだ言えない。
後の混乱を見越して力をつけつつある武将は数限りなくいたが、これはと思う人間はまだ現れていない。

だが行くしかあるまい、劉秀は薄く笑うと趙雲を送り出した。
礼儀正しく一礼して歩み始めた趙雲が振り向いた時、そこにはすでに劉秀の姿はなかった。
そしてその日以来、この近辺で劉秀の姿を見た者はいない。

劉秀もまた、趙雲とは違った形でこの物語に深く関わっていくことになる。

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