空の彼方に



長坂での悪夢から20日が過ぎた。
あの日と同じ抜けるような青空の下、趙雲が手に槍携えてふらりと出てきた。
額に手をかざし、まぶしそうに空を見上げる。
無理もない、あの戦いで重傷を負った趙雲が外に出るのはまさに20日ぶり。

本当はまだ起きてはいけないと言われていたが、動けるようになると矢も盾 もたまらず、お付きの目を盗んで忍び出てきたのだ。
小さく笑みをもらすと趙雲は槍を持ち直した。
まずは姿勢を正し、瞑目する。

前に突き立てた槍の穂先が、陽射しを受けてきらめく。
その反射が趙雲の額に触れ、さらに輝きを増す。
そこから暖かい気が体の中に流れ込んだ。
気はゆっくりと降りてきて、傷を負った体の澱んだ血を浄化 し、満たしていく。

手の指先から足の先まで暖かな気で満たされ、体中が暖まった瞬間、不意にそれは鋭 く怜悧なそれへと変化した。
趙雲の体自体が槍に同化したかのように冷たく研ぎ澄まされる。
「よしっ。」
かっと目を見開いた趙雲が深く息を吸い込んだ。

槍を構え直すと、見えない敵に挑むかのように一気に踏み込み、槍を突き出す。
大丈夫だ、痛みはない。
そのまま一気に引く。
もう一度踏み込み、振り向きがてら頭上に大きく振り上げる。

「つっ。」
痛めた肩に激痛が走り、趙雲は顔をしかめた。
槍を取り落としこそしなかったが大きく体勢を崩し、苦笑する。
「やはりまだ早かったか・・・。」

これ以上の鍛錬はあきらめて、趙雲はそばにあった大きな石に腰を下ろした。
冷たい気は去り、体は今度は陽射しを受けて温む、気持ちがいい。
「生きていられるとはな・・・。」

阿斗の命と引き換えに自分の命を差し出した時、こんな日が来るとは夢にも 思わなかった。
故なく囚われたのなら、死に物狂いで戦い、血路を開いただろう。
しかし命を捨てたのは自分、甘んじて死を受け入れるつもりだった。

曹操の気まぐれか・・・。
いや、趙雲は首を振る。
自分は試されていたのだと思う。
曹操は自分を揶揄し、痛めつけ、辱めた。

しかし不思議と怒りや屈辱は感じなかった。
曹操になら殺されてもいい、そう思った。
あの時自分も曹操を、命をかけて図っていたのだと思う。
自分を殺すに足る人物か、答えは「是」と出た。

だから心静かに死んでいけると思った。
だが趙雲は今こうして生きている、いや生かされている・・・。

「やっぱりここにいやがったか。」
突然背後から割れ鐘のような声が響き渡り、趙雲は振り向いた。
「張飛殿か・・・。」
「みんなが探してるんで、きっとここだろうと見当つけてやってきた。
で、どうだ?やれそうか?」

いそいそと蛇矛を突き出してみせるところを見ると、さっそく趙雲相手に一戦交える つもりだったらしい。
「いや・・・」苦笑する。
「まだ早かったらしい、傷口が開いてしまった。」
「そうか・・・。」虎髭共々しゅんと萎たれるのが可笑しい。

「曹操の野郎、今度会ったらぶっ殺してやる。」
全く、負け戦の後でも意気軒昂なのはこの男ぐらいだ。
しかし趙雲は聞いていた。
張飛が、劉備の腕に崩れ落ちた趙雲を死んだと勘違いし、敵討ちだと単 身曹操軍に殴りこもうとしたことを。

何十人もがむしゃぶりついて必死に止めたと劉備がおかしそうに語って聞かせたが、 その目にはうっすら涙がにじんでいた。
「それにしても曹操はなんでお前を殺さなかったんだろな?」
本気で悩む様子に曖昧に笑ってみせる。

「まっ、適当に戻って来いや。
みんなが心配してっからな。」
考えるのをあきらめた張飛が元気づけるかのように肩をぽんと叩き、趙雲は身をすくめた。
全く愛すべき、しかしちょっと間の抜けた男。

趙雲を励ますつもりでわざわざ痛めた肩を叩く。
これでまた三日は完治が遅れるだろう。
それほどに曹操に抉られた傷は深かった。
だが・・・。

「利き腕を避けてくださった・・・。」
もし本気で趙雲を潰したければ、利き腕の右肩に槍を突き刺すだろう。
右肩を傷つけられたら趙雲はおそらく二度と以前のように槍を振るえない。
普通ならそれを狙うところ、あえて左肩に槍を突き刺した。

趙雲を傷つけたのは、夏候惇らの面目を保つため。
その気遣いが嬉しい。
だがおそらく張飛にはわかるまい。
世に奸雄と呼ばれ、畏れられながらも憎まれる曹操に、ここまで細やかな心根が隠されているとは。

同時に張飛のこの豪放磊落な性格も愛しく思う。
自分よりはるかに年上のこの男が、時には弟のように思えるとなどとはとても口にはできないが。
趙雲は大きく息をつき、再び空を見上げた。
この空の下、曹操は今どこにいるのだろう。

あの時曹操に問われ、「魏を倒す」と答えた。
だがしかし、今度戦場で曹操と相対した時に、曹操に刃を向けることができるだろうか。
もし曹操と劉備が戦っていたら、自分は劉備を助けて曹操の首を挙げることができるだろうか。

敵であり、味方であっても想いの深さはどちらも変わるところはない。
その時自分はどうするのだろう・・・。
いや、よそう。

今考えても仕方のないこと。
いずれその時は必ず来る。
どうするべきかその時自ずとわかるだろう。
今はただ、空の彼方に想いを馳せるだけ。

趙雲はゆっくりと立ち上がると、 どことも知れぬ方角に向けて深く頭を下げ、踵を返した。

-------------------------------------------------------------------------------

「長坂」の続編です。
ものすごく緊張して書きましたが、例によって何が何だか・・・。
書きたいことは頭の中から溢れてきているのに、どうしても文章にならない。辛いです。



「猛き国にて」にもどる

ホームへもどる