定軍山


黄忠は勝利に酔いしれていた。
目の前わずかのところを、一人の男が必死で馬を走らせている。
張郃字は儁乂、勇猛果敢な将として名を轟かす魏の猛将。

距離を測るかのように振り向いたその顔が、かすかにゆがんでいるのを見て黄忠は心 に叫んだ。
「―見たか 諸葛亮!」

儂が年すでに老い、とても夏候淵の相手にはならぬと言った。
あるいはそれは、諸葛亮のいたわりであったかも知れぬ。
しかしこの黄漢升、誰にも老いて衰えたなどと言わせはせぬ。

年寄りと言われて怒る、その心持ちがすでに老いの証拠であったが、黄忠は気づいて いなかった。
暗闇の中、なだらかな坂を駆け抜ける2頭の馬、松明の灯りを頼りに逃げる張郃、追 う黄忠。
敵も味方もその勢いに気を呑まれ、道の両側に馬を寄せてただ見守るのみ。

定軍山の戦い。
建安24年、本格的に天下統一を目指す曹操は、手始めに漢中を手に入れた。
その漢中に打って出たのが劉備軍。
定軍山に陣取る夏候淵はいかなる挑発にも動じず、業を煮やした黄忠はその西側の山を攻め奪った。

この山は定軍山より高みにあり、夏候淵の陣が丸見えになる。
勢いに乗った黄忠は逆落としに攻撃を仕掛けたが、夏候淵より先に迎え撃ったのは張郃軍。
火花を散らす攻防の後、さしもの猛将も身を翻したかに見えた。

ゆるやかなカーブの続く山道を、息も乱さず黄忠は駆け抜けた。
勝利への確信は油断となり、その先には奈落の闇が待っているが、黄忠は気づいていない。

腕を伸ばせば剣の先が張郃の背に触れるか触れないかの距離まで近づいた時、不意に張郃の姿が消えた。
瞬時に身をかわし、細いわき道に入り込んだのだと見定めることもできぬ間に、目の前に弓を番えて待っていたのは馬上の夏候淵。

「しまった!」
咄嗟に身を伏せるその胸板を、一条の矢が貫いた。
心臓の僅か上、なんとか急所をはずすことができたのは、さすがの黄忠身のこなしだが、激痛に耐え切れず、どうと馬から崩れ落ちる。

死ぬのは戦場でと決めていた。
ここで死ぬのに悔いはない。
しかし己の愚かさゆえにむざむざ命を落とすのはあまりに悔しかった。
歯噛みした黄忠の目尻から悔し涙が滲み出る。

霞んだ視界に、夏候淵がゆっくりと歩み寄ってきた。
「わりいな、あんたに恨みはねえんだが・・・。」
思わず顔を上げ、夏候淵の表情を覗き込む。

黄忠の命を惜しむ、その切なげな視線に、黄忠の心の中で何かが溶けた。
自分は愚かだが、それでもこの男なら殺されるに不足はない。
胡坐をかいてにやりと笑ってみせる。

「こわっぱが。
儂が死んだら、やっと弓の一人者になれるじゃろうが、もっと喜べ。」
「へん、あんたがいたっていなくたって、弓の一番手は俺なんだよ。」
どこかほっとしたように笑った夏候淵の顔が瞬時に凄みを帯びた。
「その首もらうっ!」
振り上げた大刀の下に首を差しのべ、目を閉じる。

黄忠の頭上を鋭く風が通り過ぎ、首を切り裂く刃(やいば)の代わりに、自分のものではない 「ぐっ」とくぐもった声が迸った。
驚いて目を開けると、夏候淵がゆっくりと馬から崩れ落ちていく。
その胸にはやはり一本の矢。

あわてて振り向くその目に映った男は趙子龍。
今は亡き公孫瓚にその武勇を愛され、贈られたという白地に青の戦闘服。
馬上ですでに第二矢を番え、その矢はぴたりと夏候淵を狙っている。

「黄忠殿の命、この趙子龍が預かり受ける!」
覇気に満ちた声が空気を切り裂き、夏候淵に駆け寄ろうとしていた兵士たちが動きを止めた。

趙雲愛用の槍は、独自の工夫で白馬の胴体に平行に差し込むように鞍に細工をしてあり、腰には長坂で夏候恩より奪った名刀青釭、引き絞る強弓にひと筋ほどの揺るぎもない。
誰よりも黄忠がその覇気に圧倒されていた。

侮っていたわけではない。
長坂での勇猛ぶりは噂に聞いていたし、槍にかけては並ぶものなしと心の中では認めていた。

しかしこの若者はいつも物静かで、関羽や張飛が炎のようなオーラを常に放っていたのに比べ、あまりにも影が薄かった。
劉備に降った黄忠と魏延のために、何くれとなく世話を焼いてくれたのも趙雲だった。
酒の席でも、豪傑共の武勇談を静かに聞いているだけで、決して自分から語ろうとはしない。

気持ちのいい青年だとは思っていたが、武将として一目置くような存在ではなかったのだ。
だが今この瞬間、趙雲の覇気はこの場にいる全ての者を圧倒し、誰一人身動きできずに、ただ魅せられたように趙雲に目を据えているだけだった。

異様な静けさの中、かすかなうめき声が聞こえ、夏候淵が身動きする。
ちっ、と黄忠は心の中で舌打ちした、はずしたか。
これだから若造は・・・、思いかけたその視線が夏候淵の胸に吸い寄せられる。
心臓の僅か上、黄忠と寸分たがわぬその場所に矢は深々と突き刺さっていた。

趙雲をにらみつけていた張郃が、少しの時をおいてゆっくり馬から降りた。
同時に趙雲配下の兵士が一人、やはり馬から降り立った。
二人は互いの怪我人に寄り添い、肩を貸して立ち上がらせる。
その張郃の顔が屈辱に赤らんでいるのを見て黄忠は唇を噛み締めた。

冷静に考えれば気づいたはず。
逃げると見せかけ誘い込む、戦法の初歩の初歩。
これが老いの愚かさか・・・、黄忠は力なく兵士の方にすがって立ち上がった。

不意に張郃らの後方で大きなどよめきがわき立った。
兵士達の間から小柄な、しかし圧倒的な存在感を持つ一人の武将がやはり馬に乗ったまま姿を現す。
「ひさしぶりだな、趙雲。」

黄忠は目を見開いた。
魏軍総大将曹操が、何の備えもなく一番前に出てくるとは。
腰に剣を佩いてはいるが、護衛からも離れ、全く無防備に見える。
黄忠は必死で趙雲を見上げた。
曹操の首を取る、最初でもしかしたら最後の機会を無駄にしてはならぬ・・・。

そして唖然とした。
弓を置いた趙雲が、馬から素早く降りると曹操に対して礼を取っていた。
曹操を見上げる顔に、かすかに人懐かしげな表情が浮かぶ。

「夏候淵は儂にとっても大事な身内。
この勝負、痛み分けとしてもらおうか。」
笑みを含んだ曹操の声音に趙雲は一礼すると、再び馬上の人となった。

胸に刺さった矢もそのままに、黄忠は兵士の馬に抱え上げられ、歯噛みしながら曹操をにらみつける。

「黄忠殿、御身大切にされよ。
そなたと夏候淵の弓はまさに双璧。
どちらも失うのはまだ惜しい。」
曹操の口調は皮肉でも嘲笑でもなく、ただ静かなだけだったが、黄忠にはこの上ない屈辱に聞こえ、ただ苦しいだけだった。

魏軍に背を向け、趙雲を先頭に数里走って後、黄忠は趙雲の馬に移された。
その馬の揺れの少ないこと、それでいて走る速さの速いことに今度は驚く。
いかにして黄忠に負担をかけずにしかも早く運ぶか、馬も人も熟知しているかのようだった。

「老いぼれと笑ってくだされ・・・。」
痛みに耐えつつ、黄忠は呟いた。
「・・・?」
問いかけるように趙雲が見おろす。
「己の老いを認めることもできずに、こんな奸計にはまってしまった・・・。」

「黄忠殿が、老いを愚かと言うならばそうなのでしょう。
しかし、それは人が生きていれば必ず通る道。
黄忠殿のみが恥じることではない、私はそう思います。」
静かな口調で趙雲が言う。

黄忠は目を閉じた。
「そうか・・・、そう言われればそうなのかも知れぬ・・・。。」

そのままさらに数里走って後、黄忠は再び口を開いた。
「なぜ曹操を討たなかった。
無念に思いますぞ、将軍。」
趙雲は答えなかった。

その目は油断なくあたりに気を配りながらも、まっすぐ前方を見据え、揺るぐことがない。
「将軍は長坂の戦いで曹操に命を助けられたと聞いた。
だから討てない、そうなのか・・・?」
「さて・・・。」
趙雲が軽く首を傾げる。

「この若者は曹操が好きなのだ。
劉備に対してと同じ想いを曹操に抱いているに違いない・・・。」
黄忠は暗澹たる気持ちになった。

しかしそれでは・・・、
なおも言いつのろうとしたが意識が途切れ、黄忠は静かな闇の中に落ちていった。

-------------------------------------------------------------------------------

「三国志」とは全く異なりますが、無双3の「定軍山の戦い」で黄忠があっという間にピンチに陥り、趙雲が「ご老体、あまり無理をなされるな。」と出てくるところが好きだったので書いてみました。
あの台詞、大好きです♪
ちなみに無双の趙雲は、援軍のくせに(笑)逆落としの道の真ん中(点心がある所の辺)まで来ると動かなくなるんです。
だから援軍としてあまり当てにならないです・・・。
史実ではこの時は黄忠が圧勝、夏候淵の首を取ります。
でも無双夏候淵も好きなので、痛み分け・・・。(^_^;)



「猛き国にて」にもどる

ホームへもどる