京極堂と仲間達(一)

8月20日 久保竣公、雨宮典匡、そしてやっぱり関口巽
★凄絶にネタバレを含みます★

「魍魎の匣」は、たくさんの事件が絡み合ってひとつの物語を形作っているが、その中で一番惹かれるのが久保竣公、雨宮典匡、関口巽の「彼岸にいざなわれた」人たち。
物語だからこそ、の共感だけど、これだけ残虐な事件を描きながら、どこかうらやましい。
軽く行ってしまった雨宮、行きたくてあがいた久保、そして今回も行きそこなった関口。
京極堂シリーズ、特に初期の作品は、関口なくしては存在しない、何度読み返してもそう思う。

よりによって匣に囚われた久保が雨宮に会ってしまった、そして見てしまった、匣の中身を。
関口は見たかったけど止められた、でも結果的に見てしまった。
それは哀しいほど卑小でおぞましいものだった。

彼らの前には京極堂の正論も、美馬坂の狂気も、陽子の悲しみも木場の想いもことごとくが光を失ってしまう。
箱の中身を得たかった久保は少女たちを斬って匣に詰めるが、彼女たちは皆死んでしまう。
誰も久保に微笑んで「ほう」とは言ってくれない。

ならばと久保は、自らが斬られて匣に入ることを選ぶ。
久保は死ぬことも腐ることもなく、匣の中で意識を保ち続ける。
しかしそれは望んでいたような幸せではなかった。
「ほう」としか声の出ない意味も知る。

久保が会った匣の中の加菜子は本当に微笑んでいたのか。
それすらも久保の夢ではなかったか。
最後には「真っ黒い干物みたいなの」とまで言われてしまった加菜子。
それでも雨宮の目には愛しい加菜子の笑顔に見えるのだろう。

なんて哀れで、なんとうらやましい。
「人間であることをやめる」ことが、こんなに簡単にできるなら、それは時として耐え難い魅力を持つ。
けれどそれはやはり、はたから見たら、哀れで哀しい。
久保の事件が発覚せず、仮に物語が完成していたらどうだろう。
もちろん発売されることはなかったろうが、人が読む物語として存在していたならば。

未完に終わってしまった物語。
最後に久保自身の意識がその死の間際までの文章を綴って終わるが、改めてひとつの作品として読んでみたい。

京極堂シリーズで一番常人の感性を持つ青年?として気になるのが青木刑事。
敦子や鳥口以上に「普通」という言葉が似合う青年だが、今回久保のせいでひどい怪我を負ってしまう。
久保に毒されたかと心配になったが、彼は彼の普通さを失わずに京極堂シリーズに登場し続ける。
これは嬉しい誤算だった。
(2013年8月3日の日記)
8月3日 魍魎の匣 1
★凄絶にネタバレを含みます★

「姑獲鳥の夏」で京極夏彦と出会った私、その衝撃も大きかったが、2作目の「魍魎の匣」を読んだ時は、もっと凄かった。
今でも一番好きな作品。

ところで「魍魎の匣」は唯一アニメ化&実写化された作品だが(他には「姑獲鳥の夏」が実写化だけされた)、この後はとんと音沙汰がない。
正直言って実写化はキャストは良かったものの、内容があまりに原作と違い過ぎてこりゃ駄目だと思ったが、アニメは良かったと思う。
かなり残虐な部分もしっかり描いていたし。
今後他作品がアニメ化されることはないんだろうか。
見たいなあ。
アニメ「魍魎の匣」を作ったスタッフさんなら他のも作れると思うんだけどなあ。

さて「魍魎の匣」。
最初は猟奇的な事件や、京極堂たちの活躍ぶりに気が取られたが、何度も読み返すうちにちょっと変わってきて、次の3つの柱ができてきた。

・久保竣公を中心とした猟奇的殺人事件。
・美馬坂幸四郎を中心とした柚木加菜子失踪事件。
・楠本頼子の人間関係。

特に2つ目は初読ではたぶん出て来ない柱だと思う。
一度最後まで読み切って、それから再読して「ああ、これにはこんな意味があったのか」と確認しながら読むと出てくる。
木場修太郎と柚木陽子の淡い、でも熱い想いも最初は惹かれたが、何といっても楠本頼子が気になる。

主人公、ヒロインではない。
後で被害者となって途中退場してしまう少女、なのに彼女の持つ陰の存在感は最後まで作品の中に色濃く残っていた。
ひとつの事件の犯人だからという意味だけではなく。

最初の頼子と加菜子の友情(と書いて良いものか)にはびっくりした。
少年のような喋り方をする加菜子。
美しく、頭も良く、優しく気高い。
なのに加菜子は友達として頼子を選ぶ。

有頂天になる頼子。
加菜子がなぜ頼子を選んだのか、その真意に気づくこともなく、加菜子を崇め奉り、偶像化してしまう。
私も少女時代はそれなりに乙女な部分もあって、ロマンチックな想いに涙したこともあったが、前世だのなんなのと言われて舞い上がるようなことはきっとなかったと思う。
特に私が現実的だったわけではないだろう。
普通はそんなこと言われたって信じない。

けれど頼子は加菜子の言葉を盲目的に信じ込み、その関係を守るために取り返しのつかないことをしでかしてしまう。
この頼子という少女にまず驚いた。
あり得ない、と思った。

ところが話が進むにつれて頼子の家庭環境が見えてくる、そして加菜子の家庭環境も見えてくる。
加菜子が頼子が信じ込んでいたような少女でなかったこともわかってくる。
冷めた目で見れば、加菜子は寂しがり屋のちょっと変わった子、ただそれだけだ。

頼子以外の少女に頼子に語ったようなことを言っても、変わり者扱いされて終わりだろう。
でも「魍魎の匣」はそれでは終わらない。
実は一番現実的な少女、そんな自分の目を自ら覆うために、加菜子を祀り上げてその言葉を信じ込もうとする頼子だった。

「魍魎」は様々な所に現れる。
頼子自身も魍魎の餌食となる。
でも頼子もまた魍魎を内に飼っている人間だった。
そこまで大げさに捉えなくても、大人の立場から読むと彼女はかなり痛々しく、同時に怖い。

少女、女性の描き方がうまいなあと思う。
一番うまいと思ったのは「絡新婦の理」だが、「魍魎の匣」もうまい。
ただうまいからと言って好きかというとそういうわけでもなくて(笑)、やはり私が好きなのは、それぞれの作品のメインヒロインとなる久遠寺涼子や佐伯布由のようなミステリアスな大人の女性かな?
(2013年8月3日の日記)
7月4日 木場修太郎と榎木津礼二郎
おそらく京極堂の仲間たちの中で一番の常識人、半径50キロの円の中に1人はいそう。
見た目は怖いけど、声は高くて神経質、意外ロマンチストのフェミニスト。
「姑獲鳥の夏」では京極堂の仲間の一人として登場し、有能な刑事としての面しか見せていない。
木場が真価を?発揮するのは「魍魎の匣」。

警察手帳に美波絹子の写真が挟んであったり、絹子のために暴走するところは、女性としてはかなりときめく(笑)。
しかも女性は苦手と言いながら、猫目洞のママとはハードボイルドな恋物語の雰囲気を醸し出しているところがかなりいい。
なのに実写映画ではなんだか小物っぽくてがっかりだった。
アニメは変に美化してなくて良かった、声も渋く落ち着いていて良かった。

戦時中南方の戦線で、あの関口巽の下に付きながら、関口を先導し、支えた話とか、梅屋商店に聞き込みに行った時の様子とか、京極堂のややこしい話に関口と二人して混乱するところとか、容易にイメージできておもしろい。
最後には「久遠寺家の事件に関する報告書を一体どう書いたものか、皆目見当がつかぬといって嘆いていた」らしい。
手伝いに行きたいくらいだ(笑)。

ところでこんな無骨な木場修太郎にも恋人?想い人?はちゃんといる。
さっきも書いた池袋の酒場「猫目洞」のママ、お潤こと竹宮潤子(「姑獲鳥の夏」には出て来ない)。
美人なだけでなく気も強く、店が荒らされた時もひるまず応戦するところなどかなりかっこいい。
「普通の」女性を苦手とする木場に対し、いろいろアドバイスするなどお似合いの2人なのだが、今のところは微妙な関係以上のものではない。

京極堂が潤子と木場に関して語る部分はかなりおもしろかった。
レギュラーとしてもう一人、榎木津礼二郎がいるのだが、彼の場合変わり者ぶりがいろんな意味で突き抜けていて、一人だけ異世界の住人のように思える。
榎木津の持っている特殊な能力と相まって、ちょっと引いた目線で見てしまう。
この能力について京極堂が彼なりに解説していたが、本人はそれで納得していても、何度読んでもつい「京極堂さん、そこが不思議だと思いませんか?」と突っ込みたくなる。

榎木津に私なりに感情移入ができるようになったのは「邪魅の雫」から。
彼の場合は短編集の方が、複雑でおかしなキャラが暴走してもいい感じ。

他にも準レギュラー格で青木、鳥口、里村他変わり者もそうじゃない人も続々登場し、さらに登場人物がひとつの作品にとどまらずあっちこっちに顔を出すという複雑ながらおもしろいことになるのだが、もちろん「姑獲鳥の夏」を読んだ時点ではそんなこと知る由もない。
「姑獲鳥の夏」ではまだ「久遠寺涼子」くらいかな?気になったのは。
でも「姑獲鳥の夏」では登場人物の1人に過ぎなかったある人が「鉄鼠の檻」に意外な形で登場し、人懐っこく可愛い?おじいちゃんに変貌しつつも再び大変な目に会うという展開には「やられたっ!」と思った。
「鉄鼠の檻」は映画化アニメ化しないのかなあ・・・。
(2013年7月4日の日記)
6月13日 中禅寺敦子
京極堂シリーズには魅力的な女性がたくさん登場する。
というより魅力的な女性ばかりだ。
特に各作品のヒロインというべき女性のミステリアスな魅力は本当に素晴らしい。

そして彼女たちと対極に位置するのが中禅寺千鶴子、関口雪絵、そして中禅寺敦子。
千鶴子と雪絵は京極堂や関口を日常に繋ぎ止めておくための存在で、事件にはほとんど関わらないから、印象は薄いがそれでも好きだ。
敦子だけが日常と事件、その両方にどっぷり浸かり、かつ自分を見失うことのない稀有な存在。

「塗仏の宴」に入るまでは、敦子自身の心情はほとんど描写されなかったので、余計その凛々しさが際立っていたように思う。
なのに映画では凛々しいじゃなく、煩いキャラになってしまった、とっても残念。
田中麗奈さんというぴったりのキャスティングをしながらなぜ壊す(涙)。
田中さんだったら原作通りの敦子を好演できたろうになあ・・・。
実写映画もあまりに難しさに挫折したのか、「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」以降とんと話を聞かないし。

話がそれたが、時に陰鬱、時に小難しい物語の一服の清涼剤が中禅寺敦子。
男性である京極さんが描く女性、それぞれモデルはいるのだろうか、とても気になる。

「姑獲鳥の夏」で初登場した敦子の、事件と記事に関するメディアの立場に対する考え方には驚いた。
関口がそれを知って、何やら反省していたが、むしろ関口派が多いんじゃないだろうか。
メディアに関わる立場の人なら特に。
出来過ぎなくらいできた娘だが、それでいて清々しい魅力がある。

私の中での人気投票、1位は京極堂に揺るぎはないけど(笑)、2位は関口巽と中禅寺敦子、悩むところ。
京極堂シリーズは読みつくしてしまったので、早く新作読みたいのだが、京極堂シリーズの新作、いつ出るんだろう。
「鵺の碑」も出版社を変えてすぐ出るような雰囲気だったのに、音沙汰ないもんなあ。
京極さん、お忙しい毎日でしょうが、「鵺の碑」一日も早く出して下さい。
出してもらえないと、「百鬼夜行―陽」の「墓の火」が読めません。
一日も早く読みたいのに・・・。
(2013年6月13日の日記)
5月27日 姑獲鳥
谷中にある全生庵では、毎年8月になると所蔵している幽霊画を公開している。
有名な円山応挙の幽霊図を初め50幅ある掛け軸のうち毎年選んで展示するのだが、さすがに応挙クラスになると毎年会うことができる。
残念ながら京極さんの小説に登場する「姑獲鳥」(南海)や「小幡小平次(幽霊画ではこはだ小平次)」(歌川国蔵)は幽霊画としてあまりメジャーじゃないのか、2,3年に1度しか見ることができない、ちょっと不憫。
(有名な幽霊画をまず選び、残った中からさらに選んで展示するため、毎年50幅全部見れるわけではない)

私はここの幽霊画が大好きで、毎年2,3回見に行くため、50幅全部見たが、姑獲鳥に関しては「姑獲鳥の夏」掲載の鳥山石燕の絵の方が好きだ。
なんてて言うか、愛嬌がある。
南海の姑獲鳥は素人の私が言うのも何だが、南海の姑獲鳥はあまり悲しそうには見えず、怖くもない。
資料によると、南海という江戸時代の有名な絵師は存在するが、その絵師の絵という確証はないそうだ。
ここの姑獲鳥や小平次の絵を見るたびに、京極さんもここの絵を見に来たことはあるのかなあ、きっとあるだろうなあとほのかにときめいてしまうことは内緒である(笑)。

ところで私の大好きな漫画「犬夜叉」にも姑獲鳥をモチーフとしたような妖怪「無女」が登場する。
姑獲鳥が基本的に子供を亡くした女性の悲しみを体現化した妖怪でありながら、子供をさらうバージョンよりも子供を預けようとするバージョンの方が一般的なのがずっと不思議だったが、「犬夜叉」の無女の場合、犬夜叉、つまり他人の子ではあっても子供(半妖だったり少年になってることは置いておいて)を自分の中に取り込もうとすることは、ある意味一番姑獲鳥の本来の姿に近いものがあるのではないかと思った。
高橋先生は作品内に登場する妖怪は自分のオリジナルと語っていたが、やはりかなりの知識があってこそのオリジナルであり、妖怪の「本来の」姿とはそんなに離れていないと思う。

辻惟雄著「幽霊名画集」内の高田衛さんの論によると、この姑獲鳥が近世の一般的な幽霊の原型だという。
白帷子や三角巾などの死装束によって現れる幽霊、それが姑獲鳥の姿であったなら、それ以前の幽霊の姿は?といえばしっかり足があったり落ち武者姿で出てきたりとなかなか現実的な姿だったりした。
そもそも足が描かれなくなったのは円山応挙の幽霊画以来という説もこの本には掲載されていてなかなかおもしろいし、何より姑獲鳥や小平次を初めとした全生庵所属の全幽霊画がカラー写真で掲載されていうので、幽霊好きには?お勧めである。
といっても実際に全生庵に足を運んで生の絵を見る迫力には到底及ばない写真ではあるが。
絵の黄ばみや染み、傷すらも幽霊画の生々しさ、迫力の添え物となり、たとえ怖さは感じなくても気がつけば鳥肌が立っているような、別世界に踏み込んでしまったような気持ちになること請け合いである。

話がだいぶそれたが、その姑獲鳥が当然のことながら「姑獲鳥の夏」のモチーフ。
以前に書いたように、私はこの小説のヒロイン久遠寺涼子が大好きなのだが、涼子は「姑獲鳥の夏」では本当にミステリアス、神秘的でその内面の何物をも伺わせることなく、最後まで姑獲鳥として死んでいった。
だが後に読んだ短編集「百鬼夜行 陰」の「文車妖妃」にはそこに至るまでの涼子の心理が描かれる。
おもしろく読んだが、実はこれを読んだために、涼子の神秘性が薄れ、ただに人間に戻ってしまった気がした、ちょっと残念。

などと思っていると、京極堂シリーズにおいて私が一番感情移入しやすい人物は、やはり関口巽だということに気づく。
もちろんあそこまで極端ではないし、関口自身自分で言っているような凡人ではもちろんないのだが。
余談だが京極堂シリーズは「姑獲鳥の夏」と「魍魎の匣」が映画化され、「魍魎の匣」がアニメ化されている。
アニメや映画について語り出すと全く別の話になってしまうのでまた別の機会に書きたいが、ほとんどのキャラに不満はなかったが、アニメや映画の関口は物足りなかった。

清潔感があり過ぎるのである(笑)。
我ながらずいぶんな言い方だが、関口に清潔感があってはいけないと思う。
なんだろ、関口の「魅力?存在感?」は清潔感のなさにあると思うんだけど。

でも最後、そんな関口が涼子を救う、そこがいい。
涼子を想っていたからではなく、涼子とあんな形で関わっていた、こんな人物だから、そして単色の姑獲鳥の絵に血に染まった下半身を見るような男だから。
決して美しい結末ではなく、綺麗な最期ではない、でも涼子は救われた。
これもまた変わった愛の形だろうか。

あまり存在感のない女性だが、関口の妻雪絵はそんな関口の何もかもをわかってて受け入れているように描かれている、そこもいい。
関口はそんな女性とどうやって知り合い、結婚「できた」のだろう。
姑獲鳥からいささか俗っぽい話で締めるが、2人の出会いも読んでみたい。
京極堂は・・・あまり興味がないな。
あちらは夫婦として完璧すぎる(笑)。
(2013年5月27日の日記)
3月17日 京極さんのトークライブー2
途中でお祭りなどのイベントで写真を撮ってる多田さんの姿がいかに凄いかがおもしろおかしく語られて、そこは爆笑でした。
多田さんって見た目は物静かなイメージですが、イベントとなると人が変わるらしい(笑)。
テレビカメラに必ず多田さんの後姿が映ってるってことは、カメラを越えて多田さんが割り込んでるってことですよね、凄いパワーです。
あの京極さんが凄いと言うのだから本当に凄いのです。

その多田さんが撮った「火車が来る!」の写真が私の一番のお気に入り。
竜巻が発生した場所から2キロくらい離れた場所にたまたまいて、その時の雲の様子を撮ったもの。
もくもくと渦巻いている雲の中から本当に火車が飛び出してきそうな、前に漫画で見たことあるような、迫力のある写真でした。
これも私の姿が写り込んでしまって失敗・・・。

雲の中から私の顔が飛び出してましたよ(涙)。
ある意味火車より怖いかも・・・。

ところで京極さんたちは、写真を撮る時デジカメではなく、昔ながらのカメラが良いのだそうです。
私はカメラに関しては全くの素人だけど、その感覚はなんとなくわかるな。
フィルムもあまり売らなくなり、撮ったのも焼き付けるという「無駄な」行為も必要だけど、それをする「バカ」がおばけに通じると。
でも今の人たちはそのカメラを使いこなせなくて、フィルム入ってなかったり、入ってても回って?なかったり、ピントが合ってなかったりと、デジカメでは考えられないミスもするので、かなり笑ってました。

藁人形の話も出て、京極さん曰く藁人形は所詮藁で作った人形に過ぎない。
けれどもそれを作った人のシチュエーションがおもしろいと。
ここで言う「おもしろい」は「興味深い」という意味だと思いますが、こういった呪いは背景に民俗、文化、暮らしといったものがないと発動しない。
それらがそこで生きている証拠が「藁人形」になるということを語ってました。

ここで思い出したのが「軌跡体験!アンビリーバボー」だったかで以前見た呪いに関する特集。
私たちの感覚としても、藁人形なりなんなりが、本当に憎い相手に病気や不運を運ぶわけではない。
呪われた相手が藁人形の存在を知って、恐怖、不快、憎悪などの負の感情を持ってしまえば、それは呪いとして成立するのだということ。
そこでストレスを感じたり、それが高じて病気や神経症になれば、呪いは無事?成就したことになります。

遠い昔より安倍晴明など陰陽師やその他の人々がかけてきた呪いやいい意味での奇跡の数々の根源はそこにあると解説してたように思います。
京極さんは、そこまでは言及しませんでしたが、作品の中で京極堂が常々口にすることを思い合せれば、共通項は多いなと思いました。

展示写真を見ながらの解説で、素人写真も多いが、そこには素人ならではのおもしろさがあるとも語っていました。
プロならわかる法則を知らない素人は、プロには想像もつかないようなことをしでかす(失敗も多いが)。
プロは知ってて外すが、素人は知らずに外す、そこにおもしろさがある。
「鉄鼠の檻」の将棋を思い出しますよねえ。

でもおばけを愛し、おばけ探しの小さな幸せを積み重ねて行けば、人生変わる、運命変わる発言はおもしろかったなあ。
まあおばけに限らず、でしょうがおばけ大好きな京極さんたち「バカ親父」なだけに、そのこだわりには圧倒されつつ強烈に惹かれるものがありました。
残念ながら質疑応答はなし。
あったところで「『鵺の碑』はいつ頃出るんでしょうか?」なんて聞いたらトークライブの趣旨に反します、なんてお叱りを受けそうだったけど、気になります〜。

★「大極宮」の「京極さ んのブログ」でも紹介されています。
(2013年3月17日の日記)
3月9日 京極さんのトークライブー1
★「ひとりごと」で写真を紹介しています。

          ☆           ☆           ☆          

もう終わってしまいましたが、2月26日〜3月3日まで神楽坂の「アートガレーカグラザカ」で「お化けの居そうな場所」のテーマで写真展が開かれました。
京極夏彦さん他27人が写真を出品、初日の26日にはトークライブも開催です。
初日に行って来ました。

神楽坂は行きやすい場所なのですっ飛んで行ったら、まだお客さんが誰もおらず。
トークライブが7時半からなので、皆さんそれに合わせてご飯でも食べてゆっくり来るつもりなのでしょうか。
私はご飯抜きで来たけど、おかげでスタッフさんの許可を得て写真を撮りながらゆっくり見ることができました。
途中で絵がガタッとずれたりして、来てるよ、何かが・・・(笑)。

そして7時半、満員の熱気に包まれた会場にいよいよ生京極さん登場です!
他には村上健司さん、郡司聡さん、多田克己さん、いすれも妖怪研究の第一人者です。
実は私、多田さんのひそかなファンでもあります(笑)。

さて私が一番見たかったのはもちろん京極さんの写真。
みんなが平均4枚出すという形で京極さんの写真の少なさにがっかりしましたが、京極さんの写真は恐山の水辺の風景と、草鞋や着物?を干してある?柵の色鮮やかな写真。
それと何故か古本屋さんの写真が2枚。
「京極堂」のイメージかな?
「源氏物語」や「北條太平記」の文字が見えます。
凡人の私は思わす古本屋の写真の中にお化けがいるに違いないと探してしまいました。
それじゃあ心霊写真だよ・・・。

京極さんいわく、今はお化けを探してあちこち歩き回る時間がないから、本からお化けを見つけているのだそう。
そういう意味か・・・。
恰幅のいい中禅寺秋彦のイメージですが、話上手で声もいいので、話を聞いてると恍惚状態になって来ます(笑)。
一応4人のトークですが、郡司さんはあまり喋らず、多田さんは一気にばーっと喋ってあとは沈黙型、ほとんどが司会進行も兼ねた村上さんと京極さんが喋ってました。
これが本に囲まれた狭い部屋で、座卓を挟んで京極さんと2人きりだったら(あり得ませんが)、京極堂並みに喋りまくるんだろうな。

作品中でみんなに馬鹿にされている関口さんですが、揚げ足取ったり言い返したり、実は凄いことなんじゃないかと思えてきます。
あまりに流暢なトークに理解するのが精一杯になりそう。
でも話し上手でおもしろかったです、もちろん。

自分で「あ〜あ」って思ったのが、私が気に入った写真はたとえば廃墟とか、夜の神社、崩れた鳥居など、いかにもそれっぽい写真だったんですね。
後はいかにも遠野風な(遠野じゃなかったですが)〇〇のいる場所みたいな。
お化けというより妖精が出そうな、コナン・ドイルを思い出すような雰囲気のある「綺麗な景色」の写真。
道具を使ったのは私としてはいまいちでした。
お化けっぽさの演出に見えてしまいました。
でもこれってと〜っても現実的で常識的な、お化け探しには向かない感性らしいです(笑)。

まず廃墟など怖い写真は、下手をすれば心霊写真につながってしまう。
心霊写真を越えたお化け写真として見せるのはとても難しいことで、なるほど私もお化けというより幽霊を無意識に感じていたように思えます。
京極さんの心霊写真全否定があまりに凄くて、やはり京極堂を思い出しました。

京極さんたちはむしろ、なにげない日常や、都市の風景の中にお化けを見出す写真をほめていて、中でも「自分の部屋の隅っこ」を写した写真を絶賛していました。
私は「なんだこれ?」で通り過ぎた写真だったので、ここでもまた情けなく・・・。
写真がうまく撮れなかったので紹介できませんが、掛け軸のように作られた2枚の写真も好きだったけど、それには触れられてなかったな。

参考出品として水木しげるさんの写真も3枚ありましたが、これが凄かった。
「水木しげる」とか「お化け」とか意識せずに見てもその迫力に圧倒されます。
ただの切り株が、葉っぱと青虫が何かを語りかけてくるんです。
私は「ゲゲゲの女房」を見るまで、水木さんが隻腕の方だと知らなかったのですが、にもかかわらず重いカメラを持って歩き回り、凄まじい量の写真を撮り、とその熱意を熱く熱く熱く語る京極さんたちの熱気に圧倒されました。

ただの景色を切り取ってるだけなのに、できた写真を見るとそこにはお化けがいる、精霊がいる。
私は写真も素人だし、前述の通りお化けの感性もないに等しい人間ですが、それでも名前やタイトルの前に写真を見て凄いと感じたのですから、いかに写真が素晴らしいかがわかると思います。
おもしろかったのが、妖怪が「ドーナツの穴」という表現。
食べる部分、つまり周りが風景で、本来なら見えない妖怪はその穴の部分、それこそが妖怪の本質であると。

つまり何もないところで何を見るかが肝心で、それで水木さんは背景(景色)を丹念に描くのだそうです。
私は申し訳ないことに、京極さんの本は読みますが、水木さんの漫画は読まないので、でも言いたいことはわかるなあと写真を見て思いました。
あっ、漫画は読まないけれど水木さんの妖怪図鑑みたいなのはよく見るので、なんとなく納得できました。
(2013年3月9日の日記)
2月15日 この世に不思議なことなど何もないのだよ
「この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口君」

この言葉は京極堂の口癖である。
いや、座右の銘といっても良い。

          ☆           ☆           ☆          

「姑獲鳥の夏」冒頭関口と京極堂の会話に出てくる京極堂の台詞である。

二十箇月間も子供を身籠っていながら生まれる気配のない女性について関口が話した時に返したこの言葉は京極堂こと中禅寺秋彦の、そして京極堂のシリーズを通した幹となっている。
実はこの時、女性なら「想像妊娠」を頭に浮かべた読者は、(女性なら)意外と多かったのではないかと思う。
実は私もその一人。
だから2人の会話にその言葉が全く出て来ないことにむしろ驚いた。

それはともかくとして、京極堂はともかく、関口は確かに「想像妊娠」に思い至るような人間ではなさげだから 、不思議がるのは当然として京極堂まで説明なしなのには首を傾げ た。
仮に最後の種明かしで原因が別だったとしても、この時の京極堂が口にして当然の言葉だったから。
「姑獲鳥の夏」が最初に読んだ京極小説で、そのインパクトは強大だったものの、一番印象に残るとは言い難いのはこの辺に無理を感じるからで、たとえば後で榎木津が梗子の部屋で何を見たのか、口にしない方が不自然な感が強い。

ただこの「不思議なことなど」の台詞は前述した通り、関口の問いかけに対してだけじゃなく、全ての作品全ての話に通じるテーマであることは確か。
なのに私の頭の中ではこの台詞が出るたびに「この世に不思議なことなどいくらでもあるのだよ」と変換されてしまう。
だって不思議ではないか。

梗子の長すぎる妊娠はともかく、榎木津の能力などは説明されても不思議としか言いようがない。
関口などはそれなりに納得しているようだが、丸め込まれているように見えないこともないし。
京極堂の長饒舌は、悪く言えば時には詭弁にもとれ、その詭弁に酔わされる。
時にはもっともな理屈に聞こえ、なるほどとうなづくこともある、その繰り返し。
だからこそ読んでも読んでも飽きることがない。

もちろん京極堂はこの世に起こるすべての事象を理論づけて解明し、あるべき事象に変えているわけだが、だが不思議自体は否定しない。
相手が関口だから「なんとなく」納得させられているけれど、説明を聞いても十分に不思議だし。
京極堂の聞き手が関口というのは、ホームズのパートナーはワトスンしかいないのと同じくらいぴったりだ。
あまりに常識人だったり、負けない理屈の持ち主だったり(後にそんな人物も登場するが)すると、京極堂の魅力が成立しない。

言葉の傀儡師京極夏彦言葉の奇術師京極堂、そのスタンスは初読当時から変わっていないが、願わくば「鵺の碑」始め新たな京極堂シリーズも書いて欲しい。
(2013年2月15日の日記)
1月24日 久遠寺涼子
「やっとお会いできました。久遠寺涼子さん」
京極堂はまったく音を立てずに私を通り越して前に出ると、京極堂です、と名乗った。「あなたが・・・・・・陰陽師・・・・・・なのですか?」

−(中略)−

黒衣の男と、モノクロオムの女。
この世界から色彩は消えていた。
そして私はなんとなく悟った。
この男だけはここに連れて来てはいけなかったのだ。
京極堂と涼子は、引き合わせてはならない種類の人間なのではないだろうか。

          ☆           ☆           ☆          

講談社ノベルズ208ページの京極堂と涼子の対面の場面。
できることなら4分の1ページ丸ごと引用したいくらい好きだ。
私にとっての「姑獲鳥の夏」のクライマックス。
久遠寺涼子が関口、榎木津、そして京極堂と初めて会う場面は、淡々と続いていた文章がふと止まって、全く異なる雰囲気を醸し出す。

京極作品には、レギュラー的な女性が3人登場する。
京極堂こと中禅寺秋彦の妻千鶴子、関口巽の妻雪絵、そして京極堂の妹敦子。
おっとりした千鶴子、物静かな雪絵、活発な敦子と私の中でキャラ付けされているが、魅力的ではあるが、まあ普通の女性という感じがする。
個人的には関口と雪絵の結婚に至るいきさつが知りたい。
雪絵さんは、関口さんのどんなところに惹かれたのですか?(笑)

そして京極堂シリーズには、ほとんど毎回ヒロインともいうべき女性が登場する。
「姑獲鳥の夏」の久遠寺涼子、「魍魎の匣」の柚木陽子、「狂骨の夢」の一柳朱美、「絡新婦の理」は織作茜、「塗仏の宴」の佐伯布由。
「鉄鼠の檻」「陰摩羅鬼の瑕」と「邪魅の雫」はちょっと違うかな?
いずれも京極界の住人。
中禅寺や関口の普通界の住人では、これらの物語は成り立たない。

そしてその中で私が一番好きなのが久遠寺涼子。
まず名前がいい、名前の響きもいい、字面もいい。
そして関口、榎木津、京極堂との出会いの場面がいい。
最後は限りなく悲劇的な運命に陥る結果となるが、それだけにその凄絶さが心に残る。

さらの「あの」関口が久遠寺涼子とこのような関わり方をすることになるとは、と思う。
彼女の体質、心理的特質は、不謹慎な言い方だが彼女をより魅力的に見せていると思う。
昔から「24人のビリー・ミリガン」などの小説はよく読んでいるので、特に気になった。
余談だが、実在のビリー・ミリガン、Wikipediaによると、現在も生きているはず(57歳)だが消息不明となっているそうだ。

久遠寺涼子、中禅寺秋彦ではなく、京極堂の記憶に留め得る女性の筆頭だろう。

          ☆           ☆           ☆          

「斬りつけてみればただの五位鷺だ、とおっしゃるのですか。
しかし、もしかしたら本物の化け物かもしれませんわ」
「どちらでも同じことです」
京極堂は眼光鋭く涼子を見ると、笑った。
出典を知らぬ私には、まったく珍粉漢な応酬であった。

          ☆           ☆           ☆          

ところでここで出てくる「珍粉漢」の言葉。
「ちんぷんかんぷん(話の意味がわからないこと)」のことだろうとは思ったが、なぜ「ちんぷんかん」で止めるのか。
パソコンで打っても漢字が出て来ない。
そしたら元々が「ちんぷんかん」でリズミカルな響きを持たせるために「ちんぷんかんぷん」にしたのだそうだ。
漢字は他にもいくつかあり、当て字らしい。
(2013年1月24日の日記)
12月27日「 姑獲鳥の夏」感想
「姑獲鳥の夏」は関口と京極堂の妖怪談義から始まる。
初めて読んだ時、京極堂が黒衣の陰陽師姿で事件を解決する話くらいの知識はあったから、おそらく主人公でありながら謎めいた人物として描かれるだろうと思っていた。
いわゆる「正義の味方」で、日常生活など見せない人物。

だからいきなり岡持ち下げて帰ってきたり、妻子持ちだったり、「仏舎利」と言って干菓子を食べてみせたりする姿に驚いた。
なんか普通の人じゃない?
確かに薀蓄は語るし、事件の謎解きをする時は、一部の隙もなくびしっと決めてくれる人だけど。
私は何を期待してたんだろう(笑)。

また、とってもかっこいい素敵な人だと勝手に決めつけていたのだが、実はそんな描写もなかったりする(笑)。
ちなみにアニメ「魍魎の匣」はイメージ通りの京極堂、映画の京極堂(堤 真一さん)もちょっと恰幅良さげだが気に入っている。

さて、この時の関口との会話で一番気になったのが徳川家康に関するくだり。
関口の曽祖父は本当に実在したかと尋ね、では徳川家康が実在した確証はあるのかと尋ね、関口が記録として残っていると答えると、ならばダイダラボウシもムカシバナシヤお伽話としてではなく、伝説として記録に残っているから実在していると言い出す。
このダイダラボウシについては、「栃木のふるさと学習」というホームページにその伝説が掲載されており、出羽羽黒山に住んでいたダイダラボウシが、この山の土をもっこにのせ、東に向かって歩き出した。
やがて疲れたダイダラボウシは下野の河内郷で休み、そのまま土を忘れて行ってしまった。
これが現在の羽黒山で、休んだ時ひじをついたのが肘内、足跡が残って沼になったのが芦沼となったという。

なんてスケールの大きな楽しいお話ではないか。
ちなみに地名を現代に置き換えると、山形県にあった羽黒山の土をダイダラボウシが持ってって、栃木県の宇都宮市に置いてったということになる。
私は山形県の羽黒山しか知らなかったが、栃木県にあるのを知ったのもダイダラボウシのおかげ、機会があったら行ってみたい。
宇都宮市にある羽黒山神社には「藤原宗円が宇都宮城の築城に際し、祈祷修法中に出羽三山との関連を意識し勧請されたものとされています」と由来が記されており、実際に「でいだらぼっちが羽黒山に腰かけて鬼怒川で足を洗った」という伝承も残されているらしい。
「ダイダラボッチ」と「でいだらぼっち」、名前も微妙に違うし、伝承も異なるが、こんなところがおもしろいのだと京極堂は言いたいに違いない。

とは言っても、ここで京極堂が関口にこんな話をしたのはもっと深い理由があったからだが、今はそこまで踏み込まずにいたいと思う。
関口は、徳川家康は実在したと主張し、ダイダラボッチはただの伝説と切り捨てるが、京極堂いわく、あまり昔のことで、実際に彼らに会った人が残っていない以上、彼らが存在する可能性も存在しない可能性も同様に五分となる。
とんでもない話だと思った。
私が京極堂と話していたら、全て関口と同じ答えを口にし、同じように煙に巻かれていただろう。

「歴史教育をまったく受けていない江戸時代の山村の人々には、<家康>より<山姥>のほうが現実感があったはずだよ。」にはやられたと思った。
もちろん京極堂は、家康の存在を否定しているわけではないのだが、関口との話になると万事がこの調子でややこしく、だからこそおもしろい。
何度読み返しても詳細を忘れるので、読むたびに新しい発見があるという無限のループ。
もしも徳川家康が存在しなかったら、そんなことすら考えたことのない私、つまり凡人にとって、京極堂というより京極夏彦さんの頭の中がどうなってるかが一番知りたいところ。

ところがこの会話の中にもう1か所、気になる部分がある。
私が関口が京極堂に勝ったと捉えている部分。
関口は一色刷りの姑獲鳥の絵に流れている血を見る。
常識人の京極堂には見えなかったもの、その世界。

「関口君、君はひょっとしたら、今では失われているウブメを解析する倫理をまだ持っているのかもしれないな」
京極堂の言葉は関口への最高の賞賛であり、また物語の大きな伏線となっているのだが、おそらくこの時点で気づいた読者は1人もいまいと断言できる。
なぜならこのミステリーは、常識外のところに存在するのだから。
(2012年12月27日の日記)
8月27日 姑獲鳥の夏と鬼子母神
「姑獲鳥の夏」に登場する久遠寺医院は雑司ケ谷、それも鬼子母神のそばにある。
初めて読んだ時からここはポイント高かった。
「京極堂」や眩暈坂は場所の特定(仮定)が難しいが(おそらく実在する場所ではない)、雑司ケ谷鬼子母神のそばなら雰囲気はわかる。
私の大好きな場所だ。

関口は雑司ケ谷に行くのに早稲田行きのバスに乗って早稲田で都電に乗り換えているが、雑司ケ谷に行くなら、池袋から歩くのがお勧め。
JR池袋、池袋西武の前の明治通りを40分も歩くと新宿に着くが、その途中に雑司ケ谷がある。
歩くうちにあの繁華街の喧騒が徐々に落ち着いた下町の佇まいに変わるさまはまさに一見の価値あり。

鬼子母神は入谷と雑司ケ谷が有名だが、入谷はとてもきれいで新しくて、どうも鬼子母神のイメージにそぐわない。
逆に鬱蒼と樹が生い茂り、カンカン照りでも薄暗い雑司ケ谷の鬼子母神は、未だに「姑獲鳥の夏」の世界を彷彿させる、そこがいい。
鬼子母神の境内に立ち、あたりを見回していると、その奥にまだひっそりと壊れかけた病院があり、久遠寺一家が身を潜めるように暮らしていてもおかしくないような気持になる。
謎めいた女性、久遠寺涼子の姿は鬼子母神にも似て・・・。

「衝立の後ろに榎木津が立っていた。」
「まるで希臘彫刻のようである。」

「久遠寺涼子もまた、突然出現した探偵に驚いた様子もなく、毅然とした、それでいて能面のような捕らえどころのない眼差しで榎木津を見ている。」
「間に挟まれる格好になった私は、蝋人形の館にでもいるような奇妙な感覚を抱いた。」

涼子と榎木津の出会い。
そして

「どちらでも同じことです」
「京極堂は眼光鋭く涼子を見ると、笑った。」
「黒衣の男と、モノクロオムの女。
この世界から色彩は消えていた。」
「京極堂と涼子は、引き合わせてはならない種類の人間なのではないだろうか。」

最初は物静かな涼子が鬼子母神に見えるのが不思議だったが、やがてその内に秘めた激しさを知るにつれ、涼子こそ鬼子母神であり、同時に姑獲鳥であることが明確に見えてくる。
現在のところ「京極堂」シリーズに出て来る女性の中で、私が一番好きなのが久遠寺涼子。
「姑獲鳥の夏」を読んでから、雑司ケ谷の鬼子母神を訪れるたびに、以前とは違った気持ちになる。
京極堂に会いたい、久遠寺涼子に会いたい、関口巽に会いたい、そんな気持ちになる。

余談だが、私が初めて生の無花果を見たのもここ雑司ケ谷だった。
鬼子母神の近くのどこかのうちで、庭に木を植えてあり、何個か実がついていた。
当然生で食べたこともない。
いつも茶色く甘く煮込んであるお菓子のような無花果しか食べたことがなかった。

何年かのち、確か新宿高野のフルーツパーラーでフルーツプレートに4分の1くらいちんまりと載っていたのを食べた。
想像していたような野趣溢れる味ではなく、それほど甘みもない印象のない味だったことに驚いた(笑)。

無花果はやはい甘煮にした方がおいしいのかも。

★「雑司ケ谷の鬼子母神」。
豊島区雑司が谷3丁目15?20
(2012年8月27日の日記)
6月11日 京極堂と関口巽
京極堂シリーズで一番好きなキャラはご多分に洩れず、京極堂こと中禅寺秋彦。
いわゆる探偵ではないのだが、作品がミステリーの立場をとっていることもあり、一応事件の謎を解く人物として存在する。
一番好きなわけではないが、一番気になるキャラは関口巽。
彼がいなければ、事件は事件として成立しない。

京極堂や榎木津礼二郎からはひどい言われ方をされている関口だが、普通に見れば、映画で描かれる程度の?性格とビジュアルだろう。
アニメになると綺麗過ぎるが、それでもその性格設定は良くできていたと思う。

最初に読んだ時、京極堂と関口は、ホームズとワトスンだな、と思った。
ホームズか謎を解き、ワトスンが小説に仕上げる。
こちらでは京極堂が謎を解き、関口は小説に仕立てるわけではないが、ほとんどが関口視点で描かれるので、関口が書いているようなものだろう。
ただし何度も読んでいるうちに、それはちょっと違うんじゃないかと思い始めた。

ホームズは京極堂ではなく榎木津だ、いえ肩書が探偵だからではなく(笑)。
ホームズがワトスンの小説をあまりに批判するので、ワトスンから自分で書くようにと言われ、自分で書いた作品が2編あるが(「白面の兵士」と「ライオンのたてがみ」)、ストーリーはともかく、小説としてはあまりおもしろくない。
ワトスンのようにドラマティックに盛り上げることもなく、淡々と書いているのだが、その中でどうしてもホームズにとって「わかりきったこと」をいかにも謎のように記述しなければならない窮屈さを感じるのだ。
実は京極堂シリーズでは、これと同じことを榎木津がやっている。

推理するわけではないが、「魍魎の匣」で榎木津は増岡則之から事件の依頼を受け、説明を受けるのだが、その部分が榎木津視点で描写されている。
これがまたおもしろくない。
関口だったら当然するような(内面での)大げさな反応や思い込み、そんなものがなく、榎木津自身が退屈している。
だから読んでいる方も退屈しながら知識だけ得る。

これが京極堂だったらどうだろう。
これは禁じ手だ。
京極堂が事件を語り始めたら、謎は謎にならず、事件は事件にならない。
「部屋に入ったら〇〇があった。」で終わってしまう、榎木津でもそうだけど。

そう考えると謎をよりややこしくし、事件をよりドラマティックに盛り上げるワトスンや関口のような存在はとても貴重だ。
それでもワトスンはロマンチックに劇的に話を彩る程度だが、関口は、自分自身が事件の当事者となって、周りには思いもつかない世界を作り上げる。
ヒロインとなる女性との関わりもいい。
「姑獲鳥の夏」で久遠寺涼子は希臘彫刻のような榎木津に対して能面の人形ような表情で応える。

京極堂に会った時は黒衣の人形遣いとモノクロオムの人形として相対する。
関口の前でだけ生身の人間として生き生きと輝くのである。
決して笑顔ばかりではないのだが。
涼子と榎木津、京極堂の出会いの場面ではドキドキしたが、涼子と関口の関係が一番好きだ。

榎木津がいなくても、もしかしたら京極堂がいなくても物語はできるが、関口がいなかったら小説にならないだろう。
だから私は京極堂シリーズを読む時、関口巽がどのような形で関わるかが一番気になるのである。
(2012年6月11日の日記)
4月30日 京極堂と仲間達
京極堂シリーズを最初に読んだのはいつだったか定かではないのだが、「姑獲鳥の夏」を読んだ時、「なんてずるい小説なんだ!」が感想で、心の中で本を投げつけたほど。
こう書いても悪口ではないし、仮に京極さんが誰かにそんな風に言われたら、嬉々として「嫌な小説」に続く第2弾、「狡い小説」なんて書きそうだからあえて言う。
本そのものはあの分厚い内容を一気に読み切るほど おもしろかった。

じゃあ何が気に入らなかったかというと、あの「トリック」。
「こんなのミステリーじゃないっ!」と思ったわけ。
もちろん心理的なトリックを用いるミステリーは他にもあるけど、「姑獲鳥の夏」は奇想天外すぎて、ミステリーの枠をはるかに超えてる、だからずるい。
そう思った。

Wikipediaでも長編推理小説とあったし、なんとなく他の本は読まない状態が続いていた。
ところがある日、何かで読んだ「京極夏彦の妖怪小説」の肩書き。
えっ?「姑獲鳥の夏」ってミステリー(推理小説)じゃないの?とびっくり。
元々ジャンル(肩書き)にこだわって読んだ私が悪いのか、とあわてて読み直し、ハマった。

延々と続く薀蓄、登場人物のおもしろさ、クライマックスに一気に駆け上る爽快さ、そしてどんなジェットコースターにも負けないほどの壮絶な「オチ」(笑)。
登場人物がおもしろいと書いたが、京極堂シリーズを全作読んでるいま読み返すと、それでもまだまだこなれてない常識人っぽさも感じられる「姑獲鳥の夏」。
長編では「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」「鉄鼠の檻」が現在好きなベスト3。
好きな主要登場人物は京極堂こと中禅寺秋彦、関口巽、木場修太郎がベスト3。

「姑獲鳥の夏」と「魍魎の匣」は映画化されているが、その内容はともかく、「京極堂」やその周辺の風景、「京極堂」の内部など、ああこんな感じなんだ、とおもしろく見ることができた。
私は池波正太郎の小説に登場する場所を歩き回るのが好きだが、京極作品でも京極堂が住んでいる中野、「姑獲鳥の夏」の舞台となる雑司ケ谷鬼子母神(私の大好きな場所)などが登場する。
ここでは京極堂シリーズの感想や、登場人物の考察と一緒に、作品の舞台となった場所も探してみたい。
ちなみに「京極堂」に続く眩暈坂(もちろん架空の場所)などは、これまでもいろんな人が眩暈坂探しに挑戦していた。
私も中野にこだわらず、眩暈坂のような坂を探してみたいと思っている。

それと「作品の見せ方についても、一つの文がページをまたがることのないように、ページ・見開きの末文で改行するよう構成する」と、これもまたWikipeiaにあるが、私が今持っている講談社ノベルズの「姑獲鳥の夏」は、普通に文章がページをまたがって続いている。
このこだわりもいつ頃から見られるようになったのか調べてみたらおもしろいかも。
(2012年4月30日の日記)

「言葉のかけら」へもどる

ホームへもどる