宮部みゆきと時代物(ニ)

2月15日 完本初ものがたり
★軽くネタバレ含みます。

以前「初ものがたり」の感想を書いた時に、続きを書いて欲しいのに書いてくれないと泣いてたら(笑)、宮部ファンのCさんからメールが届いた。
な、なんと!「初ものがたり」に続編があるというのだ!
「完本初ものがたり」、出たのは知ってたが、装丁だけ変えて中は一緒だとばかり思っていた。
宮部さん、ごめんなさい!
PHP研究所さん、ありがとう!

さて、追加されたのは「糸吉の恋」「寿の毒」「鬼は外」の3編。
あれ?読みやすくなった?
内容が軽いのではなく、文章が読みやすくなった気がする。
宮部さんの成熟がより強く感じられる。
成熟したから文が簡潔になったというのも変だけど、前よりすっきり感が強い。

・「糸吉の恋」
糸吉が恋をした。
「白魚の目」でもずいぶんロマンティストだなあと思ったが、それだけに「騙される」糸吉。

騙す方の辛さ、騙される方の切なさ。
若い2人の悲しい心を、綺麗な菜の花が癒し隠していく・・・ことができる・・・のか?

・「寿の毒」
福寿草が意外な使われ方をする。
ちょっとクリスティーを思い出した。

・「鬼は外」
鬼が悪や不幸の象徴として払われる節分。
でもかつて鬼は自分たちとは異質の存在を卑下する言葉だった。
(大江山の鬼退治で退治された酒呑童子が土着の勢力の象徴だったように)。

そうでなくても罵られ、豆をぶつけられる立場の弱い人たちに、屋台の親父が居場所を作ってやる。
目新しさはないが、宮部さんが書くとやっぱり心が暖かくなる。
新作3編の中で一番好きなのがこの「鬼は外」。

他に嬉しいのが日道こと長助が、相変わらず不思議な力を持ちつつも、親しみやすい存在として出て来ること。
痛々しいまま終わっていたので、ちょっぴり子供らしさも見られて嬉しい限り。

そして屋台の親父も謎っぽさが薄まった。
謎がないわけではないが、すっかり物語に溶け込んで、謎はもういいや、いてくれるだけでいいやっていうまったりした気分になれる。
「初ものがたり」の絵図が掲載されているのも嬉しい。
先日池波関係で取り上げたばかりの弥勒寺や、宮部さんと言えばここ、富岡八幡宮、私が大好きな亀戸天満宮など、この絵地図を 見ながらまた宮部さんの物語をたどってみたい。

2013年(平成25年)刊行だが、宮部さんがあとがきでこれからもゆっくり語り広げて行きたいと書いているので、今後も期待できそうだ。
(2015年2月15日の日記)
2月3日天狗風
★軽くネタバレ含みます。

実はきのう、感想すでに書いてあるのを忘れて、「震える岩」の感想をアップしてしまった (慌てて消した)。
すぐに気づいて消したけど、内容が前に書いたのとまるっきり同じで笑ってしまった。
読むたびに感想がころころ変わる作品もあるけれど、宮部物は違うなあ。
それだけ安定しているし気軽に読める。
例えて言うなら「水戸黄門」のテレビドラマみたい。

今度こそ「天狗風」。
霊験お初4作目にしてお初の長編にしてこの時点で最後のお初物。
私が一番惹かれるのは冒頭部分、政吉とおあきのくだり。
娘を嫁に出す父親の寂しさと葛藤を魔に魅入られてしまった政吉。

それでも政吉はおあきを殺さずにすんだのだけれど、殺そうとした、その所業に自分を許せず、 自殺してしまう。
この恐怖と悲しみは、かなり強烈に読む側に迫ってくる。

冒頭部分が終わってお初が出て来ると、そこから先はいつもと同じ宮部ワールド。
年齢を一つ重ねても相変わらずちゃきちゃきしたお初に気弱な右京之介。
そしてその2人の間に育ちつつあるほのかな想い。

そのお初、右京之介、六蔵達が新たな霊、政吉を追い詰め、さらに若く美しい娘たちをかどわかした 霊と対決して行く。
正直途中はストーリーよりも、可愛い猫たち(鉄、すず、和尚)に夢中になってしまった(宮部さん、ずるい、笑)。
子供を書かせたら右に出る者なしとうたわれる宮部さんだが、小動物を書くのもうまいと絶賛しておこう。

今回の霊もまた人の業に囚われた、ある意味哀れな存在だったが、私としては「震える岩」の方が感情移入しやすかったかも。
確かに若さと美が衰えることに対する恐怖、私も女性だけにわからないでもないけど、ここまで極端だとやはり「普通ではない」 方へと思いが行き過ぎて、共感はできない。

その意味でも赤穂浪士で別解釈を取りあげた「震える岩」に一票投じたい。
お初に関しては、ネタがなくなるはずがない(耳袋もあるし)ので、是非続きを書いて欲しい。
超能力に関しても「ある人間が、あるとき、あること(超能力)ができるとわかる瞬間、それは高揚感と同時にものすごい孤独感との 背中合わせ」という宮部さんのスタンス(あとがき参照)がとても好きなので。

今回出番は少ないが、車屋のお美代という娘に好印象を持った。
続編があるなら彼女とも再会したい。
現代物と違って時代物は、時間がたっても書けることが大きな強み。
現代物は、時間がたつと社会情勢も変わるし、基本的に登場人物も年を取らないとリアリティという意味で違和感が出る。

その点時代物は、全ては過去なのだから、書きやすいのではないかと思ってみたり。
宮部さんは何かの対談で、現代は犯罪ひとつにしても複雑化していてついて行けないと語っていたので、そんな時は是非時代物に 戻って欲しい。
(2015年2月3日の日記)
1月21日 勘忍箱
宮部好きな友達とお喋りしたり、メールやチャットでやり取りしてた頃、不思議に名前が出なかったのがこの「勘忍箱」。
私はしばらくその存在を知らなかったほど。
その後読んでみて、納得した。
刊行当時リアルタイムで読んだのならともかく、完成した宮部物を読んだ後だと印象が残らないというか、限りなく薄いのだ。

とても宮部さんに失礼な言い方で申し訳ないが、書いた当時の宮部さんなら絶賛もわかる。
でも遡って読んでいくと印象が薄い。

特に表題作「勘忍箱」や「十六夜髑髏」などホラー風味の話で、宮部さんが明かさない部分が余韻を残すというよりうやむやに終わった感じで 読後感もうやむやになってしまう。
むしろ「敵持ち」などの普通の?話がいかにも宮部さんらしいが、たとえば「本所深川ふしぎ草紙」「幻色江戸ごよみ」とシリーズ物の合間にぽつんと 入った小品という感じ。
おもしろくないわけではないのだが。

お初が出て来たり幽霊が出て来たり、七不思議が関わったり、といったインパクトがあったり、話そのものが練られて成熟するまでの 間に書かれた感が強いが、やはり当時読んでいれば凄いなあと感服していたと思う。

新しく作家を知った時に、デビュー作から遡って読むのが私の癖だが、未熟ゆえのおもしろさを感じることもあれば、続けて読む気力を 失ってしまうこともある。
宮部さんはもちろん前者。
(2015年1月21日の日記)
1月7日 荒神
朝日新聞で連載が始まった時、後でまとめて読みたいと思い、連載時は読まなかった「荒神」。
出版された「荒神」を読み終えて、「孤宿の人」を思い出した。
爽やかだけど寂しい、そんな読後感が似ている。
スケールはもちろん「荒神」の方が大きいのだが、リアルさという点では「孤宿の人」か。
どちらも大好きな作品となった。

最初のぐいぐい読ませる引き付けっぷりがまず半端でない。
私はホラーやサスペンスもよく読むので、怖さにかけては耐性がある方だが、それでも蓑吉になり変わったように 息をするのも忘れて引き込まれた。
まあ9ページなので苦しくなる前に読み切ったが(笑)。

その後登場人物の立ち位置や背景がそれぞれの側から語られる。
冒頭のインパクトが強くて、初読した時は第一章の印象がなかったが。
宮部さんの時代小説に出て来る主要人物は、属性が「清廉」と言っていいような人が多い。
それが宮部さんの時代物を時にファンタジーに位置づけたくなる一つの要因。

「荒神」もその流れかと思ったが、おっ?と心の中で身を乗り出したのが「主人公」小日向直弥と、「悪役」曽谷弾正。
弾正はともかく、なぜ直弥かというと、主人公っぽくなく、頼りなかったから。
何かが足りなかったから。
読んでいくうちに直弥が主人公でない事がわかって行くのだが、最初に出て来るので勘違いしてしまった。

あとはとにかく一気に読み切った。
おもしろかった、勢いがあった。
ただ終わり方、どうだろう、評価の別れるところだろう。
敵があのような存在なだけに、物理で退治できなかったというのはわかる。

たとえば八岐大蛇を酒で酔い潰して退治したように、あるいは朱厭を火で攻めて退治したように、細工はできない存在だろう。
だがあのような終わり方をしたことで、一気にファンタジー色が強くなったような気もする。
私はむしろ楽しみにしていた弾正が、最後にちょっと小物っぽくなってしまったのは残念か。
究極の悪でいて欲しかった、あの過去を背負うだけに。
朱音だけが突き抜けてしまった。

「荒神」を読む前に、そもそもタイトルに意味は?と思ってWikipeiaを見たら、「日本の荒ぶる神、悪神の一種と書いてあった。
しかも「日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した」が、その後者の部分が荒神であると書かれている。
なるほど、「荒魂」と書くと、「犬夜叉」にも出て来る「四魂」と関わって来るのか。
なになに?荒神信仰は瀬戸内海沿岸で盛んだった?なるほど。
あらかじめ得たこの知識で、私はもしかしたら大きな間違いを犯してしまったのかもしれない。

読後、アマゾンの書評を読んでいて、あの大震災を彷彿させるという感想を読んで愕然とした。
帯にも「東北小藩の山村が」と書いてあるのに、完全に目が素通りしてしまった。
宮部さんが実際に意識して書いたのか、あるいはインタビューなどで語ったのかはわからないけれど、大震災を意識して読み返すと、作品の印象ががらりと変わる。

人では到底かなわない恐ろしい存在(事象)、それでも人は必死に戦い、乗り越えようとする。
その凄絶な姿が読む側(見る側)に与える悲しみと苦痛と感動。
宮部さんは「荒神」の姿を借りて、語りたかったのだろうか。

ところで「三島屋変調百物語」の「泣き童子」に掲載されている「まぐる笛」、「荒神」はこの作品を改めて長編に仕立て直したのだろう。
横溝正史著「迷路荘の殺人」なども好きだが、ひとつ間違えば単なる焼き直しになるところ、全く別の物語に仕立て上げるところが凄い。
だが実は、「まぐる笛」も作品としては「荒神」に負けない迫力がある。
特に結末のつけ方に関して言えば、むしろ「まぐる笛」の方がきっちりまとまっていて好きかも。

「荒神」も「三島屋変調百物語」も時代小説ではあるけれど、「ぼんくら」シリーズなどとはまた違う味わいの素晴らしい作品。
そばに置いて時々読み返したい。

          ☆           ☆           ☆          

追記。
本読みのプロたちが選ぶ本誌の恒例企画「歴史・時代小説ベスト10」。
6回目となった2014年のランキングで1位は「荒神」が選ばれた。→「こちら
そのインタビューで震災について触れられている。

──東北を舞台に暴れる怪獣は、福島第一原発事故の暗喩では?

宮部:作品自体は原発事故の前から構想していました。
山が舞台で、雪解けの頃に事件が起きて、すべてが解決して本当の春が来るという流れにしたかったので、最初から東北が念頭にありました。
その後、東日本大震災があり、自然の前に人間が無力だということを私も思い知らされましたので、やはり意識はしました。
とはいえ、現実に起こった恐ろしい事実は、この程度の分量の小説一冊に押し込めてしまえるほどのことでは到底ない。
連想される部分がほんの一部ある、といった程度でしょうか。
ただ、連載が始まると、投書欄に「福島第一原発事故を思い出す」という投稿をいただいたりもして、身が引き締まる思いで書いていました。

(2015年1月7日の日記)
12月3日 遺恨の桜
「初ものがたり」最終話。
日道こと長助が襲われて大けがをしたことで、回向院の茂七が長助の親、長助、梶屋の勝蔵、 屋台の親父との関わりに大きく踏み出したところで中絶している。
中絶と言っても、「遺恨の桜」自体は、「初ものがたり」自体は一応短編集として、それらがまとまった 長編として完結しているので、著者の側でもごり押ししてでも書くわけにはいかないのだろう。

ただ担ぎ上げられているだけではない長助、ただの悪党ではない勝蔵、茂七が「火付盗賊改」ではないかと 「看破」した屋台の親父。
どんどん魅力が増しているだけに本当に惜しい。
桜は綺麗な話、惨い話、哀しい話、心温まる話、どんな話にも合うようにできている。

初めて読んだ後、長命寺の桜餅を買いに行って、隅田川墨堤に座って食べながら読み返したことを思い出した。
とてもいい天気で気持ち良かったけど、長助が可哀想で、続きが気になって仕方がなかったことを覚えている。

それにしても宮部さんの「初ものがたり」、京極さんの「鵺の碑」、小野さんの「十二国記」、私の好きな作家は どうしてこう待たせてくれちゃうのだろうか・・・。
(2014年12月3日の日記)
11月26日 凍る月
今日みたいな寒い夜は、「凍る月」を読んでいると体がきーんと冷えて来る。
寒いけれど、冷たいけれど、冴え冴えした読後感はいい。
日道も出て来るが、今回はちょっとだけなのでそれほど気にならず、うまくいかない恋の行方に いろいろ思ってしまった。

松太郎の情けなさ、おさとの強さ、現代でも、実際の世界でも読んでいて思い当ることはいろいろ出て来そうな。
ただ身も焦がれるような?恋はしたことなく、ずっと共に歩いていた人と、自然に結婚した私にはやはり 究極の所までは理解できないのかもしれない。

でもこの話、とても好き、タイトルも好き。
茶わん蒸しの中にうどんを入れた小田巻き蒸し食べてみたいと思ったが、未だ果たせず。
茶わん蒸しなら作ったことあるけど、ふんわりできないんだよなあ・・・。
(2014年11月26日の日記)
11月11日 太郎柿次郎柿
私はこの話を読むまで「太郎柿」も実際にあるのだとばかり思っていた(笑)。
タイトルが可愛いので、なんとなくほのぼのした話だろうと思っていたら、とんでもなく苦かった。

そしてこのタイトルの妙、甘い次郎柿があって、もし太郎柿というものがあるならそれはきっと渋柿だろう と茂七が考える、そのストーリーと見事に絡まって秀逸だと思う。

この話から新しく日道=長助という少年が加わる。
不思議な力の持ち主で、日道様と祀り上げられ、茂七はその少年に、というよりその扱いに苦い思いを 抱く。

基本的に茂七が主人公の連作短編集だが、この後の話には日道も関わって行く。
未完結の「初ものがたり」に屋台の親父の謎はどこか楽しみに待てる部分があるが、日道に関しては 事情がどうあれ放り出された感が否めないのが辛い。

日道が今も心にそぐわない?役割をずっと演じ続けているような気がするから。
能力をかさにきた傲慢な少年ではなく、ごくごく普通の、むしろ常識ある少年であるところが余計哀れに感じる。
(2014年11月11日の日記)
10月27日 鰹千両
この話も当時は無条件におもしろかったけど、今読むと凝り過ぎたかな?と思ってしまう一編。
ただしそれはあくまでもミステリーの部分だけであって、茂七を中心とした日常や、屋台の親父に関わる謎に 関しては完璧、そう思っている。

捨ててしまった子供を取り返しに来る話は時代小説の中ではよくあるテーマだ。
そこで生みの親が取り返しに来てすったもんだのあげくやっぱり育ての親がいいとおさまるのは大岡越前に 倣わなくともよく聞く話。

そこで宮部さんが考えたのが、生みの親が育ての親である魚屋の角次郎から鰹を千両で買おうとする。
奥にある理由を知らないものの、あまりにうますぎる話に不安を覚える角次郎夫婦。
そこまではいいのだが、鰹に千両という話が突拍子もなさすぎる。

生みの親伊屋側にも同情の余地は十二分にあるわけで、ここは王道を書きこなして、角次郎夫婦はもちろん、 伊勢屋にも救いを与えて欲しかったと思う。

今回出て来るのは鰹の刺身(たたき)。
江戸っ子とは切っても切れない初鰹、食べ物の部分はいつものことながら宮部さんも本当にうまい。
(2014年10月27日の日記)
10月14日 白魚の目
「初ものがたり」の楽しい謎モチーフだった「稲荷寿司」がこの話では悲しく惨いモチーフとして使われる。
宮部さんの子供を見る目は優しいが、だからと言ってこの物語では優しく扱うわけではなく、その優しさは最後に かすかな余韻として残るのみ。
宮部さんの真骨頂。

ただやはり今読むと初期?宮部さんだなあと思ったところがひとつ。
「人殺しの病」を背負った娘をある意味ぽんと投げ出している。
殺された子供たちも可哀そうだけど、この娘もある意味哀れである。

茂七に何とかして欲しいと言うのではないが、この調子だと、娘の親たちには座敷牢ぐらいしか道はないのではないかと 思わせる。
今は良くても娘の病はまた再発するだろう。
娘も親もそれほど追い詰められている。
というように描かれている。

親に償わせ、それきりという終わり方。
親がいない、住む場所もない子供たちを助けるという意味でうまい終わり方ではあるが、切りが良すぎる。
今の宮部さんだったらどう書くだろう。
この娘に対してもなんらかの余韻を残してくれるのではないだろうか。
(2014年10月14日の日記)
10月1日 「初ものがたり」より「お勢殺し」
「初ものがたり」ほど全国の宮部みゆきファンをやきもきさせている本はない。
新潮文庫版の宮部さん自身のあとがきによれば、「初ものがたり」は「いかにもまだまだ続きますという体裁を とった作品集でありながら、事実上この一冊で作品の刊行が停まっているという、大変中途半端な形になって しまっている」本なのだ。

もちろんそれだけで読者の首が日に日に伸び続けているわけではない。
作品としてのおもしろさ、魅力的な登場人物(特に謎の多い屋台の親父)など宮部時代物の魅力満載で、しかも おいしい物がたくさん(これも大事!)出て来るのだから待たないはずがない。

当時連載していた「小説歴史街道」の休刊→廃刊、さらに宮部さん自身の事情で他誌に移ることもできず、という ややこしい流れで「書くに書けない」作品になったらしい。
茂七は、この後他作品にも登場するが、あくまでも「いる」と明記されるだけで、茂七本人が出て来ることはない。 会話や説明の中に名前が出るだけである。

これだけでも茂七本人を出せず、名前だけを出すのがやっとな「事情」があるのかなあなどと当時はかなり悩んだものだ。
このあとがきが平成11年のもので、現在は平成26年、15年たった現在でも続編は出ていない。
「業界の事情」を乗り越えてでも出してくれないかなあと未だに希望は捨てていないのだが、そんな諸々があるから 余計この作品が愛しいのもまた事実。

第1話「お勢殺し」は物語よりも、茂七を初めとした登場人物の紹介が印象が強い。
特に「屋台の親父」が茂七においしい料理をふるまい、茂七は親父の前身を見抜き、同時に親父の何気ない言葉に 事件のヒントを得る。

もう「初ものがたり」の持って行き方がきっちりついており、それだけにストーリーが印象に残らないのは仕方がないところか。
お勢自身より、その父親の言葉がせつなかった。
(2014年10月1日の日記)
7月25日 紙吹雪
「幻色江戸ごよみ」最終話。
春、夏、秋と綴って来て最後の「紙吹雪」は読んでいてやるせない。
ぎんが感情を表すことなく、淡々と行動しているところが恐ろしさも感じるし、「その時」に至るまでの 3年間もまた、淡々と綴られている。

でもその3年のぎんの生活、そして「その時」に犯してしまったこと。
むしろ感情をむき出しにして暴れ回った方がまだ救われたのではないかと思えるほどだ。
宮部さんの時代物、というと「優しい」イメージがあるので、時折こんな作品を突き出してくることをつい忘れてしまう。
もう少し何とかならなかったのか、ぎんのために。
そしてぎんのこの後はどうなったのか。

周りがどんなに同情しても、ぎんはおとがめを受けるのだろうな、それは宮部さんが一番知っているだろう。
知っていて突き放す、怖い。
本当にやるせない、後味の悪い、でも美しい最後だった。
もう誰も苦しむことのない証の紙吹雪。

作品としては好きだけど、「紅の玉」、「神無月」「紙吹雪」はやるせない。
私はむしろ最後に「器量のぞみ」を最後に読んで、終わりたい。
(2014年7月25日の日記)
7月14日 侘助の花
嫌われても嫌われてもやって来る女、おゆき。
まじめな男の作り話を捉えて、男の娘だと名乗って出る。
誑かしなのか、正気を失いつつある頭で信じていたのか、何もわからないままおゆきは消え、話は終わる。
厄介な女、なのに憎めない。

迷惑をかけられた要助も巻き込まれた友人吾兵衛も、最後はおゆきを憐れんでいるようだ。
そんな「女」を描くのが本当にうまい。

侘助の花、この本で初めて知ったが、茶人笠原侘助が好んだから侘助と名付けられ、椿の一種だと言う。
カラー写真で見れば、なるほど椿に似てるが、この話の寂しい雰囲気ではない。
写真で見ちゃいけないな(笑)、この話をじっくり味わうには・・・。

ところで宮部さんの時代物と言えば、おいしそうなお料理がたくさん、と言うイメージがあったが、これまで読んだ、 つまり初期の作品には意外と出て来ない。
この「侘助の花」で初めて加世が作った味噌がゆいおいしそう、って思った。
これ作ってみたんだけど、きっと味噌そのものの香ばしさが違うんだろうな、普通のおかゆだった(笑)。
生姜の辛さがとんがってるのも気になった。
う〜ん、残念。
(2014年7月14日の日記)
7月3日 神無月
「神無月」を読んで、池波正太郎著「正月四日の客」を思い出した人も多いのではないだろうか。
年に一度の、そして味わい深い食べ物が絡み、しみじみした会話が交わされ、最後の悲劇につながる。
悲劇の予感だけでフェイドアウトして行く宮部版と、せっかくの心の交流がむき出しの憎悪で終わる池波版。
宮部版がせめて優しく終わるのは、宮部さんが若かったからだろうか、女性だからだろうか。

「正月四日の客」は「鬼平外伝」でドラマ化されているが、私は見たことがない。
ストーリーも知らないが、主役(盗賊)が松平健さんなら、もしかしたら宮部版のような「後味のいい話」に なっていたかもしれないなと思う。

あちらは「さなだ蕎麦」だったがこちらで印象的なのは「納豆汁」。
なんとなく地方の郷土料理のイメージがあったが、江戸時代から江戸=東京にあったんだと驚いた。
スーパーでインスタントの納豆汁も見かけたことがある。
神無月、居酒屋の隅で納豆汁をすする岡っ引き。

親父との会話を読んでいると、あの「初ものがたり」を思い出す。
「初ものがたり」はもう書かれることはないのだろうか。
宮部さんの意志ではなく、業界の事情?だったらしいが・・・。
(2014年7月3日の日記)
6月27日 首吊り御本尊
タイトルが凄まじく怖いが、いかにも宮部さんらしいとってもいい話。
奉公が辛く、家に逃げ帰ったものの、すぐに連れ戻された捨松。
大旦那様に呼ばれて首吊り御本尊の話を聞く捨松。
奉公は辛いけど、捨松はいいお店に奉公に入ったなと思う。

この「幻色江戸ごよみ」は映像化も合うんじゃないだろか。
短編なだけに話もシンプルだし、アニメ、実写どっちでも良さそう。

宮部作品に限ったことではないが、現代物より時代物より映像化が楽にできそうな気がする。
知ってるようで知らない時代だけに、ある意味ファンタジーの要素が入るせいかと私は思っている。
内容は現代に通じるものだし、昔の時代の生活はそれだけで新しい経験だし、もののけ要素は いいキーアイテムになると思う。

宮部物はどちらかというと現代物が渾身の気合い付きで映像化されることが多いけど、 私はあまり見続けることがない(ごめんなさい)。
時代物だったらバンバン見るんだけどな。
(2014年6月27日の日記)
6月13日 小袖の手
京極堂シリーズ感想では触れなかったが、京極夏彦著「百鬼夜行―陰」にも「小袖の手」という短編がある。
ただ京極版は「絡新婦の理」の外伝とも言うべき作品で完全にオリジナル。
一方宮部版は正統派怪談で内容は全然違うのだが、オフィスも同じで親交のあるお二人が、あえて同じタイトルで 短編を書いたのがおもしろい。

調べてみたら

「幻色江戸ごよみ」は1994年(平成6年)7月
「百鬼夜行―陰」は1999年(平成11年)7月

にそれぞれ刊行されている。
ちなみに「大沢オフィス」が設立されたのは2001年(平成13年)だが、もちろんその前からお互いの存在は知っていただろう。
京極さんが「小袖の手」を書く時に、宮部さんの「小袖の手」を意識したかどうか語ったことはあるのかなあ。
どう思って「小袖の手」にしたのか知りたい。
知らなかった、あるいは何も考えなかったという可能性もなきにしもあらずだけど。

さてこの宮部さんの「小袖の手」は話そのものはよくあるパターンだが、母親の一人語りというのがいい。
いかにも宮部さんらしい語り口、宮部さんの朗読で聞きたい。
一人語りなのに、生意気盛りの娘の心情の変化と、いわくつきの古着を安く売りたたく悪徳?古着屋の顔までも見えてくる。
この話の怖さは、買った人に取り憑く小袖そのものよりも、その小袖に取り憑かれてしまった人の方にあると思った。
宮部さんの庶民物としてお勧めするならこの一作かも。
(2014年6月13日の日記)
5月25日 だるま猫
「幻色江戸ごよみ」の怖さは、たとえば階段を下りててもう一段あると思っていたのになくて、 ふわっと体が浮いた瞬間の、あの曖昧なもの。
そこが何とも言えない味になっているのだが、この「だるま猫」だけは駄目だった・・・。
いえ作品がどうとか、小説としてどうとか言うのではない。

私はこの本を読む前に映画の「となりのトトロ」を見ていたのだった。
で、この「だるま猫」のクライマックス、恐怖を感じるべき瞬間に、私の脳内に浮かんだのは 猫バスのあの顔!
ぶわっと吹き出してしまったのだ・・・。

宮部さん、ごめんなさい。
最後がちょっと可哀そうなことになるが、そこに至ってなお笑いが止まらず、「だるま猫」の しみじみとした味わいを感じることなく終わってしまった・・・。
宮部さん、本当にごめんなさい・・・。
(2014年5月25日の日記)
5月1日 まひごのしるべ
とても切ない話。
3人の母親の悲痛な想いに気持ちを揺すぶられる。

ただ、ちょっと失礼な言い方になるが、よくある話でもある。
宮部さんなら、これをかそけき者、その世界で織り上げて欲しかったと思う。
「幻色江戸ごよみ」の一編であれば。
宮部さんに対しては欲深い私です、ごめんなさい。

さておもしろいと思ったのが「盆市」。
朝顔市、ほおずき市など未だに行われているから、盆市も現役だろう。
それが本所なら是非行ってみたいと思っていたけど、残念もうすたれてしまったらしい。
「江戸時代の行事」として紹介されている。

まあ今ならお店でいくらでも買えるからなあ。

でも形だけでもやってくれたらいいのにと思う。
もうひとつ、題名にもなっている「まひごのしるべ(今なら迷子の標と書くのだろうか)」。
これも実際にあったもの。
子供を見失った親や、迷子を見つけた人が名前や特徴、住所などを書いた紙を貼っておく。

悲しいことだが、これは形を変えて今なお行われている。
数年前に日本で、最近は隣国韓国でも使われた。
時代は変わっても、大切な人の安否を気遣い、探し歩く、再会を待ちわびる気持ちは変わらない。
「まひごのしるべ」が必要でなくなる世界などあり得ないのだろう。

とても痛ましく、とても悲しい。
(2014年5月1日の日記)
4月15日 庄助の夜着
「幻色江戸ごよみ」の中ではあまり評価していない話。
おゆうに恋してしまった庄助が、おゆうの縁談が辛くて、そこを幽霊に付け込まれる、だとありきたりだから このような結末にしたのかな?と思ってしまう。

でも庄助は、やはり幽霊の恋人ができて嬉しそうなお芝居も無理だろうし、おゆうが嬉しいなら自分も嬉しいと 割り切るのも無理な気がする。
五郎兵衛もおたかもおゆうもいい人で、雰囲気は好き。
それに「幻色江戸ごよみ」自体が、怪異を扱っている部分もあるので、幽霊ものにして欲しかった。

貧乏だけど気立てのいい働き者の家族。
人情物、時代物にはよくあるパターンだけど、宮部物はわざとらしさがなくて好き。
何が違うかというと、やはり親しみやすい文体と台詞のうまさだろう。
(2014年4月15日の日記)
3月31日 器量のぞみ
ずっと前に内田康夫著「後鳥羽上皇殺人事件」という本を読んで「醜女」という言葉を知った。
名探偵浅見光彦初登場の記念すべき作品。
ある女性が「醜女」であることが重要な伏線となるのだが、また残酷な言葉を使ったものだなあと思った。
小説だし、別に怒りを感じたわけではないが、強い言葉を使いながら、描写が妙に遠慮がちで かえって女性に哀れを感じてしまう形になっているのが気になった。

ちなみに作品自体はシリーズ化される予定もなかった頃で、浅見の存在もシリアス、浅見シリーズの中でもっとも好きな作品のひとつである。
これは作者が男性だからだろうと当時思ったが、その後この「器量ごのみ」を読んでやっぱりそうだったのかもしれないと 思った。
この作品にも「醜女」が出て来るが、宮部さんは遠慮などせず、醜いものは醜いとずばっと書き上げている。
あまいにあからさまで、かえって気持ちがいいというか、「醜女」がひとつのキャラとして確立しているのだ。
ここはやはり同性ならではのことではないかと思う。

さらにスパーンと書き上げた終わりがまた良かった、気分爽快。
怪異を描く短編集で、「器量ごのみ」も怪異はあるのだが、他作品に比べてハッピーエンドで気持ちがいい。
落ち込み気分の作品が多い中での一服の清涼剤。
私のお気に入りである。
(2014年3月31日の日記)
3月9日 春花秋燈
「春花秋燈」と書いて「しゅんかしゅうとう」と読む。
こちらはちょっと凝り過ぎかな?

読後感が悪くてせつない「紅の玉」の後で、ちょっといじわるなユーモアを交えた古道具屋の主人の一人語りを読むと なんだかほっとする。
というか、この話は口調が、そして内容がとてつもなくおもしろいのだ。
ちょっと下世話でいやらしい(笑)。

でも眉をひそめるのではない、そのぎりぎりのラインで笑わせてくれるし、その中にちょっとばかりの悲しみや怖さも 感じられる。
私はこれ、読むより耳で聞きたい。
宮部さんの声で聞きたい。

先日宮部さんがビブリオバトルで熱く他の作家の本を語っているニュースを読んだが、他にも自作の朗読会を時折 行う宮部さん。
この話も読んでくれないだろうか、万難排して行くのだけれど。
(2014年2月10日の日記)
2月10日 紅の玉
宮部さんの時代物は作品のタイトルもいいと思う。
「幻色江戸ごよみ」のタイトルは特に好きだ。
「紅の玉」と書いて「べに」の玉と読む。
これが「くれない」の玉と読めばまた別の物語になりそう。

「紅の玉」を読んでもなお宮部さんの時代物は優しいと思ってしまうのが不思議だ。
あまりに理不尽な現実に打ちのめされる佐吉とお美代。
二人が本当に救いようのない崖っぷちに立たされたまま話は終わる。
とんでもない奇跡が起こって二人が助かる結末を想像する読者はいないだろう。

なぜこんな物語を書くのか。
現実にあり得るからだ。
そして宮部さんも読者と一緒に悲しんでいる。
そう思わせる何かがあるから宮部さんの時代物はどんなに惨い話でも優しいのだ。

「今年もとうとう、王子のお稲荷さんの初午参りに行けなかったね」
冒頭呟くお美代。
「来年てもんがあるよ。
王子のお稲荷さんは逃げも隠れもしねえ」
佐吉は答える。

王子のお稲荷さんは確かに逃げも隠れもしなかった。
でもお参りに行くべき二人に来年はないのがせつなくて哀しい。
(2014年2月10日の日記)
1月27日 鬼子母火
四季折々の江戸の日常、そして怪異を描く短編集「幻色江戸ごよみ」より第一話「鬼子母火」。
このタイトルを見てすぐ「鬼子母神」を思い出したが、よくできたタイトルだと思う。
子供を想う母の心が怪異を生み出し、娘が働く店に迷惑をかけてしまう。
頼りない主人夫婦に比べ、いい味を出しているのが番頭の藤兵衛と女中頭のおとよ。

宮部作品ではよく出る性格設定の人物だが、話に安心感と安定感を与えてくれる。
泣いているおかつに対し、「悲しくて胸がいっぱいなら、じゃあまずそれを吐き出しちまわないと駄目だね。」 と言う言葉が秀逸。
「幻色江戸ごよみ」の中では優しく、易しい短編だが、宮部さんらしくて私は好きだ。

「幻色江戸ごのみ」に限らずだが、宮部さんの時代物は必ずしもハッピーエンドで終わるわけではない。
悲しい結末もあるし、寂しい余韻を残す物もある。
にもかかわらず、「宮部みゆきの時代小説」という言葉を思い浮かべただけで、心温まる感じになるのはなぜだろう。
現代物よりも遠い昔に生きる人々が身近に感じるのはなぜだろう。

「大極宮」や「平成お徒歩日記」などでうかがえる宮部さんの気さくであったかい人柄だろうか。
すごく気難しかったりすごく神経質な人だったら書けないおおらかさ、どんなシリアスな小説にも感じるこの雰囲気は 宮部さんの性格の賜物かもしれない。

この本を読むまで「幻色」と言う言葉を知らなかったが、これは宮部さんの造語だろうか。
幻に色があるなら、それはどんな色か。
不思議な色、現実的でない色、人によってイメージされる世界が違う色、想像できない。
想像力のない私だと、つい夕焼け色、セピア色の風景が思い浮かぶ。

谷中銀座の夕焼けだんだんや、映画「オールウエィズ三丁目の夕日」のイメージ。
ありきたりだなあ(笑)。
(2014年1月27日の日記)
12月20日 震える岩
「忠臣蔵」をモチーフに書かれた霊験お初シリーズの長編1作目。
この作品は、やはり宮部さんの「平成お徒歩日記」の其ノ壱「真夏の忠臣蔵」と読み合わせるのがおもしろい。
お徒歩日記はファンならご存知だろうが、宮部さんが「忠臣蔵」「本所深川七不思議」などテーマを決めて時代小説の舞台となるような場所を 歩き回ってまとめた「お徒歩ガイド」とも言うべき一品。

こんな風に歴史の舞台をたどれたら楽しいだろうなあと羨ましくなるほど、仲間と大騒ぎしつつ、見るべきところはしっかり見て、語るべきところは きっちり語る、プロの作家の真髄を見せてくれます。
特に「罪人は季節を選べぬ引廻し」がおもしろかった。

さてお初は短編「迷い鳩」や「騒ぐ刀」に比べると、自らの力としっかり折り合いをつけているので読んでいて安心できる反面、その落着きぶりが ちょっと新鮮味がなくなって残念かな?とまことに悩ましい時期。
この後出た「天狗風」で初めて完成品となったかな?という印象。

最初読むまで直次が消えたことを知らなくて、たまたま出ないのかと思っていたが、確かに遠出して探りを入れる人物が必要なくなり、代わりに お初や六蔵の代わりに推理をしてくれる探偵型の人物が必要となると右京之介。
しっかり者のお初がつい手出し口出しで世話を焼きたくなる頼りない右京之介、いかにも宮部さんらしい。

古沢親子の確執や、謎の死霊に憑かれて起こる凄惨な事件に振り回されながら、不思議な特殊能力を持つゆえの覚悟を胸に立ち向かうお初。
普段から気の強い娘だが、死霊や右京之介の父と対峙する時のお初の強さは信じられないほど。

ただ残念ながら「忠臣蔵」、というより吉良と浅野の元禄赤穂事件に関する記述が薄いなあ。
いえこの物語は元禄赤穂事件を描きたいのではなく、あくまでも呪いの刀とその顛末を描くのが目的とは知っているが、せっかく「震える岩」と 芝居「忠臣蔵」を使っているのだから、吉良と浅野の部分ももっと掘り下げてくれれば嬉しかった。
「蒲生亭事件」みたいにお初が時を越えても困るし、どう扱えばいいのかは私もわからないけど、今の宮部さんならこの部分も深めてうまく料理してくれる気がする。

だってお徒歩日記に書かれた元禄赤穂事件のくだりがおもしろかったもの。
むしろお初を離れて元禄赤穂事件をテーマに実録物っぽい小説を書いて欲しいくらい。

お徒歩日記で宮部さんが語っているが、「震える岩」では宮部さんは浅野長矩乱心説を採っているが、確かにこれは弱く感じる。
「いわゆる通り魔的な筋道の通らない狂気の爆発ではなく、勅使供応役を務めるあいだ、しんしんと心のうちに積もり積もっていた吉良義央への不満や反感が、 ああいう形で噴出口を見つけて吹き出した」ものではないかと宮部さんは後で考えるに至ったようだが、むしろこちらの方が定説、常識的にあり得る理由に思える。

ところでこのお初シリーズ、この後出た「天狗風」以降さっぱり音沙汰なし、寂しい。
作家の立場になってもネタがないとか、新しいテーマ、キャラを思いついた、などいろいろ理由はあるのだろうけど、手広くいろんなシリーズ(作品)に手を出して 書かれなくなるシリーズがあるのがとっても不満(笑)。

1年に1冊ずつでいいから宮部さんにはお初シリーズ、茂七シリーズ、ぼんくらシリーズ、三島屋シリーズ、その他の時代物、現代物を出して欲しい(笑)。
お徒歩日記も続けて欲しいなあ。
さらに京極夏彦さんには1年に1冊ずつ京極堂シリーズ、百鬼夜行シリーズ、その他を。
小野不由美さんには1年に1冊ずつ十二国記シリーズ、ゴーストハントシリーズ、その他を。

ファンとはこれほどまでに非情で熱いものなのだ。
(2013年12月20日の日記)
12月5日 騒ぐ刀
時代小説作品集「かまいたち」の最終話にして、お初が登場するシリーズの2作目。
お初物はこれまで、この作品集に収録された「迷い鳩」と「騒ぐ刀」の他、長編「震える岩」「天狗風」と4編発表されている。
「かまいたち」を読んだ後、「初ものがたり」もお初物だと勘違いして大急ぎで手に取り、がっかりした記憶も懐かしい(笑)。
いえ「初ものがたり」も充分おもしろかったのだけど、お初が出る話ではなかったのだ。

私もうかつだが、紛らわしいタイトルですよ、宮部さん?
さて、作品の出来は別として、私がお初物で一番好きなのが、この「騒ぐ刀」だ。
私の好きな「しっぺい太郎」の伝説をモチーフとしたのかな?と思える部分もあり、この後作品から姿を消す直次が大活躍する話でもある。
「しっぺい太郎」は人間を守るために猿神(狒々)と戦ったとされる犬で、やはり私の大好きな「うしおととら」でも使われていた。

人間に忠実と言う意味で犬は本当に大切な存在。
私は残念ながらアレルギーがあるので犬は飼えないが、小さい頃は飼っていたらしく、写真が残っている。
覚えてはいないがとても可愛がっていたらしい。

さて、この話に出て来る犬は名前を小太郎という。
下野国木下河岸は小咲村、坂内の小太郎。
下野国(しもつけのくに)は今でいう栃木県、利根川中流にある木下河岸(きおろしかし)も実際に存在する。
文中にある通り、東京と下利根川流域を結ぶ交通結節点であったようだ。 木下河岸は因幡郡竹袋村内にあるが、その地木下町(きおろしまち)は、千葉県印旛郡にかつて存在した町である。
竹袋も地名として残っているが、だとすれば下野国ではなく下総国ではないだろうか?(200ページの下野国になっているところ)
現在の千葉県印西市の南部に位置しているとWikipeiaにもあるので。
小咲村は見つけることができなかったので、これは宮部さんの創作かな?

あとがきでは宮部さん自身が、後に発表される2作の長編と「かまいたち」収録の2作とは違ったものにしていきたいと書いているが、実際には直次が出るか出ないか くらいで、それほど大きな差はなかったのではなかったような気がする。
もちろん自分の力に対するお初の心構えなど、いくらか違いはあるが。
お初シリーズは大好きな作品なので、これからもどんどん書き続けて欲しい。
宮部さん、お願いします。
(2013年12月5日の日記)
11月23日 迷い鳩
後に「震える岩」「天狗風」の長編に続く 霊験お初捕物控の原点と言える一作。
ただ宮部さん自身のあとがきによれば、基本的な部分はつながりながらも、後の長編とは一線を画す「別作品」とも言える。

私は先に長編2作を読み、それから「迷い鳩」と「騒ぐ刀」を読んだ。
本当ならば、古い物から順番に読むべきで、「迷い鳩」の存在を知った時はかなり悔しく思ったが(笑)、お初に関してはこれでも良かったかもと思える。
長編では幻?を見ても落ち着いて対処しているお初が、初期短編ではおろおろし、見えたものをつい口に出していらぬ誤解を生む、騒ぎを起こす、これが新鮮だった。

長編で存在が消えてしまった直次も、右京之介を活躍させるためなんだなとすんなり納得。
根岸肥前守とお初の連絡係として直次がいれば、右京之介を使いにくいし、お初にほのかな恋心を持たせて、話の幅を広げるには兄より他人の方がいいわけか。
それでも直次が消えてしまったのはちょっと寂しかった。
普通に遠くに住んでてたまに出て来る兄でいいかな?とも思ったが、六蔵、およし、お初の絆が強すぎて、長編で出て来ても結局影が薄いままかとも思う。

さてこのシリーズに登場する根岸肥前守は実在の人物である。
根岸鎮衛(ねぎしやすもり)、江戸時代中期から後期にかけての旗本で勘定奉行、南町奉行を歴任した。
不思議話を集めた「耳袋」の著者として有名で、その辺がお初シリーズでうまくアレンジして使われている。
当然のことながらお初の能力に理解を示し、お初がその力に呑まれないように導きつつ、うまく使いこなすことを教える。

宮部さんには超能力物が多いが、どれを読んでも「特別な力=SF的な世界」を越えて特殊な能力を日常に変えてしまう力がある、そこがおもしろい。
子供の頃、超能力者になりたかった時期がある(笑)。
ちらっと見るだけでテレビがついたらいいなあ、冷蔵庫からコーラが飛んできたらいいなあとか。

瞬間移動もいい。
学校に行くのがめんどくさい時、ちょっと念じただけで私は学校にいる。
でも教室のみんなの前に突然現れちゃったら大変、出る場所をイメージして正確に。
だとしたら行ったことのない場所、知らない場所には行けないな、とか真剣に考えた。

でもその先、たとえばテレパシー、予知、千里眼などの世界はあえて踏み込むのをためらう怖さがあった。
たとえば仲良しだと思ってた友だちの心の中が悪意で一杯だったら、今この瞬間行われている犯罪を見つけてしまったら・・・。
警察に電話したら、私がなぜそんな遠くの犯罪を知っているのか怪しまれてしまう、じゃあ見殺しにするか・・・。

そしてたとえば今私が乗ろうとしている飛行機が落ちることがわかっていたら。
もしここで乗らなければ歴史は変わるのか、変えていいのか、私以外の人はどうするのか。
もし落ちることを教えたら、たとえば点検をし直して落ちないことにできるのか、などなど。

でも私が飛行機が落ちることを知ってしまったことすら歴史の改ざんなのか。
こうしたことを考え始めるともう終わりがなくなり、私は半端なSFマニアへの道を歩み始めたのだった、懐かしい。
子供の頃はもののけより、超常現象の方に気持ちが向いてたんだっけ、そういえば。

話がそれたが、そうした超能力の「現実」を初めて私に突き付けた小説が宮部物だった。
超能力は決してお得な力ではなく、ある意味ハンディとなり得る力。
まあそのシリアスさはむしろ現代物の方が強いかもしれないが。

「迷い鳩」の内容としては、肝心のお清の印象が薄く、というよりまわりのキャラが良すぎて、しっかりとできあがりすぎて物語としてのインパクトは今ひとつだった。
最後のお清の語りで全てをまとめてしまうなど。
でもこれを最初に読んでたら、これから展開されるお初シリーズに期待が膨らんだろうなあと思う。
(どう見ても続き物を予感させる書き方だ)

2013年現在、「天狗風」以降出ていないお初シリーズ。
宮部さん自身は多作だが、単品、シリーズ共に作品数が多すぎて、なかなかお初にまで手が出ないのだろうか。
続きが読みたい。
(2013年11月23日の日記)
10月13日 師走の客
宮部さんは庶民の人情物を書かせると本当にうまいと思う。
私はテレビで見る人情物はどこか苦手でほとんど見ないが(恥ずかしさを感じてしまう)、読むのは好きで特に時代劇の人情物は好き。
女性作家の人情時代物は特に好き、宮部さんの人情時代物はさらに好き。

その中で「師走の客」はいま読み返すとちょっと凝り過ぎかな?と思う。
発売当時に読んだら目を見張ったことだろうが、すでにベストセラー作家になった宮部物をさんざん読みつくした後だったから。 それでも最後の数行でほんわかした気持ちになることはできたけど。
むしろ中編くらいの長さで書いて欲しかった。
ちなみに千住上宿は今の北千住、千住下宿が南千住だそうだ。

ところで私が「師走の客」を読むといつも思い出すのが、池波正太郎著鬼平外伝の「正月四日の客」。
「にっぽん怪盗伝」掲載の短編だが、こちらも年に一度の客を迎える蕎麦屋の話。
エッセイに綴られた池波さんが愛したような蕎麦屋を訪れる客の正体は・・・。

宮部版での客は善人に見せかけた悪党だった。
池波版では、客は世にいう悪党だったが、その内実は、というもの。
「平成お徒歩日記」で「剣客商売」の舞台を取り上げたこともある池波ファンの宮部さん。
「師走の客」は池波さんへのオマージュかな?と思えばなんだか楽しい。
(2013年10月13日の日記)
9月20日 かまいたち
私は海外のコージーミステリー(以下コージーと略す)が好きだ。
クリスティーのミス・マープルを元祖とする、素人(ほとんどが女性)探偵が活躍する軽く読めるミステリー、かつ食べ物などに関する薀蓄が多いのが特徴、でいいのかな?
とは言っても、マープル以降順調にコージーが出て来てるようでもなく、ジャンルとしては最近一気に出たというイメージがあるのだが。

海外の、と書いたのは、元々日本にコージーが出にくい事情があるからで、探偵がそれほど一般的でもなく、警官と素人が喧嘩しながらも協力し合って犯人捜しをするには、日本の警察機構は生真面目すぎるのだ。
だから日本の推理小説は、金田一耕助の古き良き時代はともかくとして、西村京太郎著十津川警部や内田康夫著浅見光彦のように、刑事だったり、何らかの形で警察と関わりを持っていることが前提となる。
けれども最近、日本にもコージーにジャンル分けしてもいいような作品が続々登場している。
ただし、前述のように、日本では素人探偵が殺人事件を解決するのは難しいから、たとえば三上延著ビブリア古書堂シリーズや大沼紀子著「真夜中のパン屋さん」のように殺人ではない、知的な謎を解く形になっている。
厳密に言えばコージーの定義からはずれるわけだが、私の中ではこれらはコージーの範疇に入る。

ところが日本のコージー、全てとは言わないが、私にはなじみにくい部分がある。
いわゆるライトノベルとも共通する部分だが、文体と会話(口調)の現代風の軽いノリが、致命的に合わない。
漫画だとむしろ平気だが、文章のみで読むのが苦痛。
小野不由美著ゴーストハントシリーズですら、あの文体、口調について行けず、漫画の方が好きなくらい。

これが海外だと気にならないのは、とりあえず会話や文体は普通なこと、とりあえず日本人じゃないし。
そして最近、私が現代物より時代小説を好むのも、実はこの軽さからの逃避じゃないかと思うようになった。
もちろん現代物全てが苦手なわけじゃないし、表面的な部分で作品を評価してしまうのは自分にとっても損だとわかっているのだが。
そんな私が好きな日本のコージーの代表が宮部みゆきである。

時代物をコージー設定するのも私個人の基準、たぶん常識的なジャンル分けではないと思う。
霊験お初や、今回取り上げる「かまいたち」のおようなどは、まさにコージーヒロインの代表と言えると思う。
私は宮部さんの描く町娘がとっても好きだ。
気の強さも正直さも優しさも、完璧だけど嘘っぽくない。
完璧とすら思わせない。

彼女たちには宮部さん自身が投影されているように思う。
宮部さんに10代に戻ってもらってお初を演じてもらいたいくらい。

さて「かまいたち」は宮部さんの9冊目の著作であり、2冊目の時代物である短編集「かまいたち」の表題作。
町医者の娘おようが、世間を騒がせている辻斬り「かまいたち」の犯行を目撃してしまう。
宮部物としては初期の作品だが、すでに完成されているというか、「宮部風町娘」は、おようをそのままお初に変えていいほど見事なワンパターンである。
にもかかわらずどれを読んでも飽きないのは、やはり彼女たちが魅力的だから。

もちろん宮部さんの描く女性キャラには他のタイプもいて、全てが好きとは限らないのだが、とにかくヒロインの持つ爽快な雰囲気と言ったら、まさにストレス解消、何度でも読みたくなる魅力に溢れている。
おようが、かまいたちとみなした男とのやり取りや、惚れっぽい友だちお園、父玄庵との掛け合いもまた楽しい。
もちろん猟奇的な殺人の生み出すサスペンス、おようの推理を描くミステリーとしての部分も秀逸。

とにかくほめまくっているが、これは作品自体の良さもさることながら、相性がいいということではないかと思う。
同じ時代物でも、長編になると途中だれてくることもないわけではないが、宮部さんの短編は切れがいい、だから特に好きだ。
(2013年9月20日の日記)


「言葉のかけら」へもどる

ホームへもどる