その他の話題を語る道(三)

12月22日 ミス・マープルとインテント
長いことかかってミス・マープルシリーズと「LAW & ORDER:犯罪心理捜査班(クリミナル・インテント)」見終わりました。
ゴーレンさんにもう会えなくなるのは寂しいけれど、いい終わり方でしたね。
その後、「LAW & ORDER:性犯罪特捜班」にエイムズさんが特別出演して、ゴーレンさんが辞職、エイムズさんも転職したことが語られます。
ゴーレンさん、今幸せだったらいいなあと思いますが、さてさて、これまでこの2つのシリーズはなかなか最後まで見る気にはなりませんでした。

海外ドラマが好きな方はご存知かと思いますが、ミス・マープルシリーズはジョーン・ヒクソン、ジェラルディン・マクイーワン、ジュリア・マッケンジーと3人の女優がミス・マープルを演じます。
インテントでは主役がロバート・ゴーレン(ヴィンセント・ドノフリオ)とアレクサンドラ・エイムズ(キャスリン・アーブ)でしたが、途中で主役が交代、マイク・ローガン(クリス・ノース)、 ザック・ニコルズ(ジェフ・ゴールドブラム)と回って最後にまたゴーレンさんに戻ります。
パートナーの女優さんも変わって行きますが、やはり最初の2人が好きでした。

マープルはヒクソン、インテントはドノフリオ&アーブコンビが好き過ぎて、他のキャストでは見たくなかったんですよね、ずっと。
こんな人、意外と多いんじゃないかな?

でも見るのがなくて、仕方なく見始めたミス・マープル。
シナリオも改変(というより改悪)されてる部分が多くて、結局挫折。
その後ずっとほったらかしだったんですが(ヒクソン版だけ何度も見てた)、たまたまスカパーでマクイーワン版を見て、「マープルと思わなければおもしろい」ことを発見。
さらに若い女性に、「どうすればあなたみたいな素敵な女性になれますか?」って言われて「それはね、歳をとることよ」って言ったマクイーワン版マープルがとても素敵でした。

どうしても年を取ることに恐れを感じてしまうのですが、こういった番組を見ることでこんな風に年を取りたい、こんな風になりたいって憧れ、目標ができます。
マッケンジー版も、もしかしたら一番マープルっぽいかもしれないと思って見ました。

うるさい、ガチャガチャかき回す、危なっかしい(笑)。
ヒクソン版が一番好きなことに変わりはないけど、3人は3人とも魅力的なマープルでした。

インテントも元々ジェフ・ゴールドブラム好きだし(「ザ・フライ」とか「ジュラシック・パーク」とか)。
これもインテントだと思わずに見るといいのね。
いつの間にかインテントじゃない別ドラマを見てるつもりになって、知らないうちにインテントに戻ってる。
あまりこだわらず、時間を置いて見るのがいいのね。

せっかくの良いドラマ、先入観に囚われるのはもったいないかも。
(2017年12月22日の日記)
1月12日 邪悪
★パトリシア・コーンウェル著「邪悪」に関してネタバレ含みます。

クリスマスにはクリスティならぬコーンウェルを、がお約束だったが、2017年(平成29年)は出なかった。
本国では2016年(平成28年)に24作目「Chaos」が出ているので、通常ならばもう日本でも出ておかしくない時期。
ただ翻訳が間に合わないだけならいいのだが。

なんだかんだ言って全作読んでいるけれど、現時点での最新作は「邪悪」。
再読して、やはり冒頭11ページから25ページまではおもしろい。
昔のシリーズに戻ったような緊張感を感じた。

ところがそれからが長かった。
事件現場で携帯電話に気を取られ、揚げ句の果ては職務を放棄して別の場所に向かう。
もちろんやるべきことはちゃんと手配したとケイなら言うだろうが、突き放してみれば公私混同と言いたくなる。
ケイほどのプロがなぜそんな事をしたか、ルーシーが関わっているから、キャリーが関わっているから。

検屍官シリーズに限らず、海外のドラマや小説を見たり読んだりしていると、プライベートへの比重の掛け方が 日本では考えられないくらい強くてびっくりすることがある。
日本だと職場に家庭は持ち込まないのが定説で、それが良いか悪いかはともかくとして私も慣れるまでしばらくかかった。

この本は評価が驚くほど別れているようだが、それは

1、ルーシーに対してどう思っているか。
2、作者の癖である過去を変えることをどう思っているか。

によって感想が変わって来るからではないだろうか。
小説、ミステリとしての出来不出来より、私はコーンウェルにいつもそれを感じている。

たとえばベントン、たとえばフィールディング。 作者がいくらこれは作者のはかりごと、と宣言していても、私はベントンは死んだと思っていたし、フィールディングは良い仲間だと 思っていた。
後になって実はベントンは生きていたのよと、実はフィールディングは良い仲間の仮面の下で、こんな奴だったのよと言われても、 どうももやもやしたものが残る。

前作でも死んだはずのキャリーが生きていて、さらに超天才と化して登場するのにはうんざりした。
何よりも天才でありながら人格的に問題のあるキャリーが、人とうまく付き合える設定は出来過ぎ感が強い。
エキセントリックなルーシーの性格も、度が過ぎると物語のおもしろさを削ぐものでしかなく、ジャネットもあまり存在感がないのは辛かった。

でも今回はいつもより「心理戦」がおもしろく、ネットの恐怖を押さえて読み応えのあるものなのは嬉しかった。
総体的に私の評価は★を4つはつけたいところ(昔にくらべると甘いかも)。
さらに日本の「TBSコメディドラマ」や「貝印のシュン・フジ三徳包丁」が出て来たのも嬉しかった(笑)。
料理のプロ、ケイが認め、ルーシーにプレゼントした包丁、これは日本が誇っていいですよ。
ただサイトで見た限り、「フジ」はなくて、「Kaji」「Hana」「Nagare」などがあったので、「Kaji」の間違いか、当時は「Fuji」もあったのか、詳しい事はわからない。

TBSのコメディドラマは201年か2015年に執筆しながら見たのだろうか。
私は日本の現代のドラマは「相棒」と「科捜研の女」しか見ないので(逃げ恥は見た)、リストを見てもどれがコメディだかわからないが知りたいな。
もひとつおまけ、ハイド巡査がダンキンドーナツに行く場面。
日本にもダンキンドーナツがあったと思っていたら1998年(平成10年)に日本から撤退していたらしい。
そういえば名前は知ってたけど、実物も店舗も見たことなかったことに今気がついた。

とにかく新作出てくれますように。
(2018年1月12日の日記)
1月31日 出世花
「みをつくし料理帖」が有名な高田郁(かおる)さんのデビュー作。
私は「食べ物を扱う→死を扱う」と作品を昇華させていったのだろうと勝手に解釈して、みをつくしの方を 先に読んでしまいました。
馬鹿ですねえ。
でも未熟な時代の作品に戻ってがっかりするのでは、なんて心配は無用。
デビュー作からしてさすがの高田作品でした。

流れで言えば、「出世花」でデビュー。
「みをつくし料理帖」完結。
「出世花 蓮花の契り」出版となっているので、デビュー作からみをつくしをはさんで7年後に続編を出した形になりますね。
デビュー作の「出世花」でストーリーもきっちり完結しているので、あらかじめアナウンスしておかない限り、2作目が出るとは 読者も思っていなかったのではないでしょうか。

みをつくしがタイトルからして料理人の物語であることは想像できましたが、「出世花」は読み始めるまでどんな人物のどんな物語か 全く予想がつきませんでした。

数年前に「おくりびと」という映画が公開されましたが、その納棺師の仕事を江戸時代に持ってきた形です。
遺体を湯灌して清め、衣装を整えるなどの儀式を行って亡くなった人をお送りする。
本人はもちろん、残された家族にとっても心を慰められる高潔な仕事でありながら、世間では蔑まれることも多い。
この物語をよくデビュー作に持って来た、そして見事に書き上げたものです。

高田さんの作品はみをつくしと出世花しか読んでいませんが、共通するのはその清冽な雰囲気。
出来過ぎでしょっていうくらい主人公や周りの人々に出来物が多いのですが、それが上滑りしないのは彼らが抱えている悩みも迷いも きちんと描き切っているからでしょう。
特に正念と正縁の関係は出世花において見事でした。

そんな感想を持っていたので、続編「蓮花の契り」は読まなくても良かったかな?という気もします。
清冽さも、悩みも救いも前作と変わらないのに、どこかこなれてしまった感じが残念でした。
たぶん高田さんじゃなかったらそうは思わなかったと思います。
蓮花もまた良い作品、だけど・・・と出世花で与えられた結末がいかに素晴らしかったかを認識する結果になりました。

ただ高田さんはこの後も良くも悪くも「気の抜けないはりつめた物語」を書き続けていくのでしょうか。
新シリーズ「あきない世傳 金と銀シリーズ」はまだ読んでいないのでわかりませんが、このまま突っ走るのではなく、ふと気の抜けた 物語も読んでみたい、そんな気がしました。
(2018年1月31日の日記)
2月18日 あきない世傳 金と銀
★「あきない世傳 金と銀」に関して重要なネタバレあります。

「出世花」「みをつくし料理帖」に続く高田郁さんの長編3作目。
4巻まで出ています。

おもしろいです、怒涛のおもしろさ。
とりあえず1巻買ったものの、1巻を読み終える前に残り3冊注文していました。
まずね、1巻読み終えた時点で幸は3人と結婚するなってピンと来ました(笑)。
私が鋭いわけじゃなく、誰でも気付くと思います。
だってこの本は幸のための物語なんです。

風景の美しさ、着物の美しさ、あきないのおもしろさを語る上でも絶品。
私には着物、というより美しい物に関する感性も語る知識も全くないのですが、高田さんの描く着物が美しいんだろうということはわかります。
もう一度書きます、この本は幸のための物語なんです。

で、作品としてはおもしろいけれど、何かが引っかかる・・・。
何て言うのかな、たとえば重箱に隙間なく美しいご馳走がが詰め込まれた豪華な花見弁当、そんな感じ。
綺麗なんだけど、おいしそうなんだけど、お箸突っ込む隙間もないほど完璧で手が出ない。

ふと思い出したのがジョアン・フルーク著「ピーチコブラーは嘘をつく 」。
いわゆるコージーミステリーで「あきない〜」とは全く違うタイプの本ですが、ヒロインハンナの親友が結婚するので、ハンナはウェディングケーキを作ります。
もう1人、別の友だちもケーキを作ります。
でも友達の作るケーキはまるで「装飾用」で、あまりに綺麗で完璧なケーキだから誰も食べようとしないだろう、だからハンナは食べておいしいケーキを作ってね。
ハンナと友達はそんな会話をするのです。

そうなんです。
完璧すぎて共感や感情移入や、そういったことができない。
物語に?じゃなくて幸に。

幸を囲む人物たちも幸のために作られ、ストーリーも幸のために作られ、幸自身はあまりに完璧で近寄りがたい、出来過ぎ感が強いのです。
もちろん幸は優しい人だし我慢強いし、そう言った意味では「みをつくし〜」の澪や「出世花」の縁もそうでした。
主人公が立派でそれが作品に良くも悪くも独特の清冽さを与えているのは高田さんの特徴だと思います。
主人公を中心に人物設定やストーリーが練り上げられていくのも普通のこと。

でも澪や縁はもっと恋に振り回されたり、心に迷いができたりもっと人間味があった気がします。
幸の場合、揺るぎがなさ過ぎて、さらにあえて?心情描写がされないので何があっても全く影響を受けない。
怒涛のおもしろさは、幸の回りを駆け巡っているだけ、そんな気さえします。

そんな幸のキャラクターを小気味良いと見るか近寄りがたいと見るかでこの本の評価は変わって行くと思いますね。
私は澪や縁の方が好きかな。
もちろん最終話まできっちり読み切るつもりですけど。

ところでこのシリーズを読んでた頃に、ちょうどスカパーで十朱幸代さんの「芸者小春姐さん奮闘記」が放映され、録画しました。
芸者さんや着物について少し勉強しようと思ったからですが、着物の美しさもそうですが、十朱さん始めとした女優さんたちの立ち振る舞いの美しさには ため息が出ますね。
着物を着こなす、難しいなあ・・・。
私には無理です。
(2018年2月18日の日記)
2月25日 〆切本
一般人は「〆切」という言葉に縁はないけど、遠い昔の受験の前の日、面接の前の日、さらに遡れば期末テストの前の日など、それぞれに葛藤はあった。
いっそ開き直って最後の夜は寝て、すっきりした頭で臨むべきか、1分1秒を惜しんで備えるべきか。
最近でもそこまで追い込まれはしないものの、なんやかやと切羽詰まることは多い。

それが作家(漫画家)と来たら、作品として世間に出す、しかもお金で売るから評価もされる、批判もされる。
それを前提として書くなんて、考えただけでも胃が痛くなりそうだ。

しかも書いているのは錚々たる顔ぶれ。
読んで感動し、「こんな作品を書ける人は人間じゃない!」とすら思わせた大御所ばかり。
それが書けない言い訳、説明、悩み、想い、葛藤の羅列羅列・・・。
吉川英治さんの手紙を読んだ時は涙が出そうになった。

私がよく読むエッセイは池波正太郎さんだし、人として関心あるのは高橋留美子さん。
池波さんはこの本でも書いているが、〆切に決して遅れない、むしろ早い。
小説ではないが、年賀状に取りかかる早さでも有名だった。

高橋さんは、「漫画と結婚した」人だから、これも早い。
そんな人ばかり知ってたから、この本での書けない作家と、待つ編集者の告白は、だんだん胃が痛くなってくるほど悲惨である。
でもこの本を読んで、これまで神様のように思っていた日本文学の大家の人間味を知ることができた。
私は日本文学、純文学のジャンルはあまり読まないが、これからは作者の裏の想いを意識しながら大切に読ませて頂きたい、そうとすら思った。

不思議なのが、作家はどうしてそんなに注文を受けるんだろうということ。
仮に、だが私が作家になっても一度に2冊も3冊も書く自信なんてない。
1冊書いて、できたら出版社に持ってって引き受けてもらう。
そしたら次に取りかかる、そんな書き方をする人はいないのだろうか。

連載?とんでもない。
書けなくなったらどうするの。
途中で中断、連載中止になる未来しか見えない。
書けなくても書けるのがプロの作家なのだろうが、なぜそこまで、とは思う。
私が思うような書き方をしている作家は実在するのだろうか。
と思ったら、出版社の依頼を断ったら、もうそこから仕事が来なくなるのだそうだ、そうだよなあ・・・。

とにかくこの本はお勧め。
〆切に限らず、世の中辛いのは自分だけじゃない、ということを切実に教えてくれる。
人によっては自虐のユーモアを交えて教えてくれる。
(2018年2月25日の日記)
8月7日 名探偵ポワロ「カーテン」
遂に観ました、というか観てしまいました、ポワロの「カーテン」。
ドラマのポワロに愛着があり過ぎてどうしても観れなかったポワロの死。
でもごっちゃに録画していたBDを観ていたら始まってしまった・・・。

原作の「カーテン」はポアロの死を悲しみつつも何度も読んでいますが、ドラマは二度と観ないだろうなあ。
しかも「カーテン」の後に「あなたの庭はどんな庭?」が入っていて、まだ若い陽気なポワロが出ていたりして、余計悲しくなりました。

原作ではエキセントリックな部分もあるポアロですが、ドラマではデヴィッド・スーシェが茶目っ気たっぷりに演じていて、ヘイスティングス大尉、 ジャップ警部、ミス・レモンとの掛け合いも原作以上に楽しかったです。
今Wikipediaを読んでいて気がついたんですが、この3人は第9シリーズ以降登場しなくて、最終13シリーズお「ビッグ・フォー」で12年ぶりに 勢揃いしたんですね。

もう何度も観ているのに、特にヘイスティングスは全作品に登場しているイメージがありました。
原作もずっと勘違いしてたんですよね、ヘイスティングスは常にポアロと共にあると。
それだけポアロとヘイスティングスは、ホームズとワトソンに匹敵する名コンビだったと思います。

さて、ドラマ「カーテン」ですが、原作の大きな改ざんはありません。
ヘイスティングスがもしかしたら殺人者になっていたかもしれないのに、そこで笑わせてくれるところくらいですかね(笑)。

他に印象的なのが犯人像。
今回の犯罪は、「心理的に人を煽って、その人に犯罪を犯させる」という、いかにもクリスティらしい、犯人を追い詰めるには証拠がない 難しい犯罪です。
なのに犯人がいかにも実際その辺にいそうな、変哲のない人物なのです。

私は原作を読んでいますから、「こいつが犯人ね。」とわかった上で演技を観ていますが、そうじゃなかったらだまされていたかも。
ちょっとオーバーアクションな気味はあったかな?
でも正体を現してからの演技があまりに対照的で、ポワロに犯罪を犯させるほどの、ある意味「好敵手」ではあったと思います。

あと原作ではポアロは正義のため、友のため、あまり迷いのない感じでしたが、ドラマでは最終シリーズに入った辺りからポワロの苦悩が表現されていて (特に「オリエント急行殺人事件」)、私は絢爛豪華な映画版も好きですが、ドラマ版の「オリエント急行殺人事件」のストイックさにも強烈に 惹かれました。

それにしても若い娘というものは、父親に対して残酷な存在ですね。
昔の自分を思い出して、亡き父にもっと優しくしてあげればよかったなと反省してみたり・・・。

でもポワロの死は切ないです、悲しいです。
「さよならポワロ!?世界が愛した名探偵・25年の軌跡?」を観て、ポワロは死んでもスーシェ氏として笑顔で生きて行く、そんな風にも思えましたがそれでも寂しい。
ひげを取ったスーシェ氏(ドラマ内でもポワロが取っていましたが)は驚くほど男前でしたが、それでもポワロでした。
「ポワロ役に縛られたくない。」
そんな言葉を口にせず、24年間という長い年月をポワロに捧げてくれたスーシェ氏に心から感謝を。
でもやっぱり「カーテン」だけは二度と観れないな・・・。
(2019年8月7日の日記)
11月6日 海街diary最終巻「行ってくる」
吉田秋生著「海街diary」最終巻、ずっと前に読んでいたのですが、感想は書かずにいました。
今書き始めたのは、新連載が「海街diary」のスピンオフと言っていいのかな?「詩歌川百景」だったからです。
(まだ読んではいません。)

最終巻の本編は、チカの妊娠や浜田さんの遭難よりも、福田さんが全部持ってったなって感じ。
偏屈だけど好きなおじいちゃんだったので嬉しかったけどびっくりしました。

最後は海街らしく、爽やかに凛々しく潔く終わってすっきりしましたが、その後は寂しかったです。
特に佳乃と美海さんのカップルが好きだったので、その後どうなったのかなあとか、幸と佳乃の2人暮らしを見たかったなあとか、 幸とヤス、すずと風太が将来結婚したらこの家はどうなっちゃうんだろうとか想像してました。
何より福田さんには帰って来て欲しいし。

それだけにコミックの番外編は嬉しかった。
嬉しかったけど、読んで寂しさが増しました。
「BANANA FISH」が、英二やシンや暁や、何よりアッシュにそれこそ暖かい光が降り注ぐような番外編「光の庭」で締めくくられたのに比べ、 すずと風太の結婚などの情報は少し与えられますが、あまりにもそっけない。
幸は?佳乃は?チカは?

みんな幸せでしょう。
すずを見ていればそれはわかります。
でも作中で全く触れられていないのが寂しい。

そう思っていたのですが、新連載が「詩歌川百景」と聞いて納得しました。
あの番外編は「海街diary」のエピローグではなくて、「詩歌川百景」への繋ぎであり、「詩歌川百景」のプロローグなんだ。
「海街diary」という河が流れ、「詩歌川百景」という河が今流れ始め、いつか合流して大河となって海に流れ込むんだ。
少なくとも私はそう信じたい。

その時に幸が、佳乃が、チカがまた笑顔で喧嘩しながら登場してくれる。
吉田作品は意外に甘ったれた感傷を受け付けない厳しさを感じることもありますが、少なくとも私はそう願っています。
(2019年11月6日の日記)
11月13日 神田古本まつりと「エリカ」閉店
今年も神田古本祭りに行って来ました。
古本祭りは毎年行くけど、神保町は来なくなったなあとちょっと反省。

昔は(10年ほど前は)、本との出会いを求めてしょっちゅう訪れていた神保町。
今は欲しい本があってそれを探すことが多いので、どうしても通販やブックオフの方がお手軽です。
それでもそういったお店で扱っていないような本を探して古本祭りには通っています。

ちょうど小野不由美著「十二国記」シリーズの新作「白銀の墟 玄の月」の1、2巻が発売され、間もなく3、4巻が出るその間だったので、 普通の書店でもさまざまなディスプレイを工夫していて、歩いているだけでも楽しいです。
お目当ての本は見つからなかったものの、古い文庫本を何冊か買って一休みしようと、数年ぶりに喫茶店「エリカ」へ。

懐かしい黄色い看板が見えて来ました。
でもこういったイベント時にはいつも長蛇の列ができるお店なのに、閑散として誰もいません。
そしてドアに貼り紙が・・・。

「閉店のお知らせ
此の度エリカ神保町店を3月29日をもって閉店することに相成りました。
これまで皆様には長い間ご愛顧いただいた事を心より感謝申し上げます
店主」

ここも閉店してしまいました。
小さめだけど分厚いトーストおいしいコーヒー、物静かなマスター。
有名なお店なので、入る時はいつも緊張していたけど、買って来た本を読みながらコーヒーを飲んでると、肩の力も抜けて読書に没頭してしまう。
お昼時を除けば、みんなそんな常連さんばかりなので、時間を気にせずのんびりできる、そんな素敵なお店でした。

当時は今のようにいつでもどこでも写真を撮れるような雰囲気じゃなかったし、私はエリカで1枚も写真を撮ったことがありません。
内装やメニューは覚えているけれど、申し訳ないことにマスターの顔はうろ覚えです。
去年の古本祭りの時来ていれば間に合ったのに、今年3月まで来ていればまだ間に合ったのに、後悔ばかり噛みしめながらとぼとぼ歩き続けました。

アンジェラス、エリカ、大好きだったお店がなくなりました。
古い話ですが、万惣フルールパーラーも一度も行かないうちに閉店してしまいました。
大事なお店は大事にしたい、それにはやっぱり通わなきゃ。
そんな想いを感じた一日でした。
(2019年11月13日の日記)
6月6日 香君
何年前のことでしたか、ダスティン・ホフマン主演の映画「アウトブレイク」を観ました。
恐るべき致死性と感染力を持つウィルスが蔓延し、追いつめられた国は、感染した街を 焼き尽くそうとします。

ホラーやSFの感覚で観ながらも、どこか他人事だったこの恐怖が、現実世界でも起こってしまいました。
実際にあってもおかしくないことなのに、いつか起こり得るだろうとは夢にも思わなかったのどかな時代。
今思えば、あの映画はどこまで意識していたのかはわかりませんが、未来に向けての警鐘だったのかもしれません。

そしてまた、上橋菜穂子著「香君」もまた、現実への警鐘を鳴らす物語です。

なるべく前知識を得ないように気を付けてはいたのですが、それでも主人公が「特殊な嗅覚」を持つ少女で あることは知っていました。
彼女の持つ特殊な力を、おそらくうらやましく思う物語ではないのだろうとも思いました。
「獣の奏者」のように、特殊な力を持つがゆえに、さらに著著者の作品が常に持つ強い正義感とまっすぐな生き様 ゆえに、おそらく少女はあえて重荷を背負い、運命に立ち向かうのだろうと思いました。

まさにその通りでした。
今回彼女たちが翻弄されるのは「飢餓」。
私たちにとってかつては他人事だった地震やウィルスが、現実になったように、いつかは「飢餓」が現実になることが あるかもしれない。
作品のような極端な形でなくても。

その時に私たちはどうするべきか。
個として社会として国として世界として。
そのまっすぐな問いかけに私たちはどう答えるべきか。
何気ない日常の中で、そんなことを考えさせられる作品でした。

だからといって小難しい本ではありません。
読みやすく、おもしろい。
真正面から問題提起しているわけではなくて、登場人物たちの言葉や行動、心情から読者が読み取るようにできています。
さすが児童文学者であり、ファンタジー作家の肩書を持つ方だと思います。

ネタバレを避けるために内容には触れませんが、主人公のアイシャは前述した通り、特殊な嗅覚を持つ少女です。
人の感情も匂いで感じ取る、植物の発する匂いで植物のメッセージすら感じ取る。
何度も書かれているのが、葉をアブラムシに食べられる植物が、匂いでアブラムシの天敵であるテントウムシに助けを求める 描写です。

これは上橋先生が作った設定ではなく、実際にあるのだそうです。
本の最後に参考文献、ではなく上橋先生が読んで感動した本のリストが掲載されています。
いずれ読んでみたいと思います。

話がそれましたが、テントウムシを呼ぶ植物の匂いをアイシャは植物の「悲鳴」と感じ取るのです。
また、相対する人物の怒り、悲しみなど発する感情も匂いで感じます。
香りはアイシャにとって心地よいものばかりではない。 また、苦痛であっても鋭すぎる嗅覚ゆえに遮断することも時に難しく、アイシャにとっては相当なストレスです。
その力と向き合いながら、アイシャはやがて人を、国を、世界を変えていく。

上下巻を一気に読んでしまいました。
ただ上橋作品にしては最後は穏やかに終わったなとも思いました。
最後の一山、クライマックスを越えてすんなりとフェイドアウト。
暖かく気持ちのいい余韻はありますが、ちょっと意外な気がしました。

これはもしかして続編があるかも。
期待します。

最後に私がとても好きな部分を引用したいと思います。
ストーリーには関係ない、けれどもとても美しい描写です。

☆   ☆   ☆

大崩渓谷には、<神々の口>と人々が呼びならわす不思議な池が点在している。
雪解け水が涸れ谷を流れる頃には、美しい水をたたえる小さな池が現れるが、谷の水が涸れる頃、その池は 忽然と姿を消し、池があったところには地の底に通じる深い穴が現れる。

大崩渓谷の底におわす神々が、夏が近づくと、永い眠りから目覚めて口を開き、池の水を飲みほしてしまうのだという。
そして、神々が雪解けを夢見る春になると、また美しい池が姿を現すのだ。
(2022年6月6日の日記)
7月1日 真夜中の図書館
谷山浩子さんはシンガーソングライターのイメージが強いですが、本も書かれるんですね。
私も子どもの頃読んだ絵本や童話について、思い出語りや解説、とは違うかな?
とにかく語ってくれるエッセイ本です。

私は子どもの頃の方がこだわりなく何でも読んだし、感受性も豊かだったと思いますが、 やはり「泣いた赤おに」の印象は強いです。
そして谷山さん同様、私も最後の部分ではなく、一生懸命もてなしの用意をして待っていたのに、 誰も来なかった場面で泣きました。

自分の気持ちがむくわれない、わかってもらえない時の悲しさ寂しさ、裏切られた思い。
大人になっても、現代においても本当によくあることで、今でもそんな時は「泣いた赤おに」の この場面が浮かぶことがあります。

大人になってからの私は、本は読むために読むというか、脳に本を読んだという記録とその内容を しまうために読んでいるような気がします。
あっ、もちろん泣いたり笑ったり、その時々の感動やおもしろさも感じますよ?
でも新しい本を読む時のときめきよりも、そこに本があるから読むというような(笑)。
だから最近は資料を読むことが多くなったような気がしますねえ。

ミヒャエル・エンデ著「モモ」のページで、谷山さんは「本の読み方」について書かれていますが、 その文がとても心に響きました。
「一日一冊以上本を読もう」と決めたら、それで本当の意味で本を読むことが できるでしょうか。
谷山さんはそう綴ります。

一年に一冊の本でもいい。
その本から受け取った物を一年あれこれ考え続けるのでもいい。
気に入ったページを何度も読んだり、前に戻ったり、立ち止まって物思いにふけったりするような 本との付き合い方、できたら素敵ですね。

私は本を読みながら、常に次の本を意識してるようなところがあるからなあ。
本との付き合い方に関していろいろ考えさせられたエッセイでした。
(2022年7月1日の日記)
12月7日 東京駅うら交番〜万世橋交番
後になって「実はあの時・・・」なんて書くのはみっともないとはわかっていますが、 書かせて下さい!

初めて「MASKおもてうら交番 堀北恵平」に東京駅うら交番が出て来た時、「江戸東京たてもの園」 にある「万世橋交番」に似てるなあと思いました。
でもすぐに、「違うよね、だって万世橋交番は秋葉原だし!」って。
あの時の私を叱ってやりたいです。

ここがプロの作家と凡人の違いでしょうね。
モデルなんですから、どこにあろうと関係ない。
昭和レトロな建物で、ひさしの下に丸くて赤いライト、地面から腰の高さまでが石造り。
そこから上は焼き煉瓦風のタイルが貼られ、凝ったデザインの窓は木枠。
入口ドアは白く塗られた木製で、その上にアーチ型のひさしがあって、屋根は銅葺き、交番の名前は 彫金です。
たてもの園の万世橋交番と違うのは、万世橋交番のドアや窓枠は白ではなく水色っぽい色であること。
それから交番名はありません。

「新 江戸東京たてもの園物語」には、移築前の交番の写真が掲載されていますが、確かに交番の 奥半分が高架橋下にめり込んで見えます。

私がたてもの園に興味を持ったのは「千と千尋の神隠し」を見た時。
釜じいのボイラー室がたてもの園にある文房具屋「三省堂」をモデルにしていると知り、見に行ったのです。
その後何度か通ったものの、万世橋交番は、可愛いなあと思ったもののそれほど印象がなく、当時撮った 写真も見当たりません。

そこで早速調べに行きました。
が、残念ながら修繕工事中で立ち入り禁止。
ただ修繕のお知らせのポスターをよく見ると、恵平が見つけた物入れは、奥の宿直室ではなく、手前の執務室に あるようです。
たぶん最後に恵平が見つける場面が盛り上がるように、内藤さんが変更したんでしょうね。
工事が終わったら、交番内をじっくり見てこようと思います。

「LAST」の「主な参考文献」には、「江戸東京たてもの園 解説本 収蔵建造物のくらしと建築」がありますが、 この本におもしろいことが書いてありました。
万世橋交番が移築される時、「曳家」という技術を使ったというのです。
もしかしたら内藤さんは、これを読んで「よろず建物因縁帳」を思いついたのかな?などと考えるのも楽しいです。

「曳家」と言っても、仙龍たちとは違い、クレーン車で運ばれていました、可愛い(笑)。
解説本にはカラー写真が掲載されているのでお勧めですよ。
あと、たてもの園のホームページに掲載されている「たてもの園だより」56号には、交番のペーパークラフトがあります。
私も作ってみましたが、もっと大きくコピーして画用紙で作ると良いかも。

そしてもうひとつ興味深いのが、東京駅を設計した辰野金吾が万世橋駅をも設計している点です。
「新 江戸東京たてもの園物語」では、確たる証拠がないとしながらも、専門家の目で万世橋交番もまた辰野金吾デザインではないかと 書かれています。
おもて交番とうら交番、どちらも同じ辰野金吾が手掛けたことも、この小説ができるきっかけになったのではないかと思いました。

最後に、こちらは平成7年に出た本なので探すのが大変かと思いますが、「江戸東京たてもの園−見て、触れて、探して、そして楽しんで−」 という本です。
万世橋交番曳家の様子のカラー写真や、高架ができる前の万世交番の大正時代の楽しいイラスト、交番内のカラー見取り図にはトイレまであります。
この本や、万世橋交番の貯金箱など、現在では販売していないようですが、欲しいですね。
「LAST」を読んで一気に盛り上がり、更新を続けて来ましたが、今日で終了です。
一番書きたい感想が書けないのが辛い。
でも、ネタバレせずに感想は書けないし、これは絶対にネタバレしてはいけない小説です。
子供の頃読んだ「アクロイド殺し」以来の衝撃でした。

内藤さんには書いて欲しい。
スピンオフではなく新シリーズとして、堀北恵平の物語を。
是非是非お願いします。 
(2022年12月7日の日記)
12月27日 ポワロと私
デビッド・スーシェ著「ポワロと私」を読みました。
私はスーシェ版ポワロが大好きで、スカパーで放映されると必ず見ますが、逆に見過ぎて テレビに食らいつくようなことはもはやなく、なんとなく見てる感じかな?
でもこの本を読んでからは、もう一度最初から、この本を手に、丁寧に見直したいなあと 思いました。
それからいつも吹替で見ていましたが、今度はスーシェの声と訛り!を聞きながら見てみます。

一番驚いたのは、シリーズが終わると、次のシリーズが未定であったこと。
どんなに人気があっても、次のシリーズが決まるまでは、スーシェは不安を抱えて撮影 再開を待っていたようです。
自信満々で一気に撮り切っていたとばかり思っていたので、俳優という職業の裏側を、その 凄さを垣間見た思いがしました。

シリーズの合間にたくさんの舞台や映画をこなしていたことにも驚きました。
ひたすらポワロと隙間なく演じていたと思っていたので(笑)。
ポワロ色に染まって、他の役を演じにくくなることもないのは、やはりスーシェの実力でしょう。 しかも、ポワロ以外は悪役が多かったそうです。

共演した名優についても語っていましたが、残念ながら日本ではなかなか知られることも見ることもないので わかりません。
ただポワロ絶賛のアリアドニ・オリヴァに関しては、もっとコメディおばさんみたいな人が良かったな。
それと、ドラマについて、これは良作、これはそうでもないと自分で評価しているのも驚きました。
「ものいえぬ証人」、私も大好きです。

来日したこともあるんですね。
日本のファンに関してもかなり書かれており、その熱狂ぶりを驚きつつも喜んでいました。
あとパンダが好きなようです(笑)。

私はあまり映画やドラマのメイキングやコメンタリーなど見ない方で(映画の感動が薄れる)、 こういった自伝を読むのも初めて。
とても参考になりました。
特に「カーテン」のくだりは泣けました。
「カーテン」だけはもう見ることはないかな・・・。
(2022年12月27日の日記)
4月16日 東京駅うら交番と万世橋交番
江戸東京たてもの園の万世橋交番が内藤了著「東京駅おもてうら交番」シリーズでどのように使われているか調べてみました。
ちなみに「万世橋交番」は愛称で、正式名称は「須田町派出所」。
「万世橋交番」の方が可愛くて親しみやすくていいですね。

・「そんなことを考えていると、ちょうど目の前に古臭い交番がある。」(「MASK」より)
最初はずいぶんな言われようです(笑)。

右下の見取り図は江戸東京たてもの園発行の「見て、触れて、探して、そして楽しんで 江戸東京たてもの園」掲載のものを許可を頂いて掲載しています。
「執務室(職務室)」「宿直室」の文字は私が追加しました。
本で読むともう少し広いイメージがありますが、実際はかなり狭いです(6畳)。



・「昭和レトロな建物は地面から腰の高さまでが石造り、そこから上は焼き煉瓦風のタイルが貼られ、凝ったデザインの窓は木枠だった。」(「MASK」より)

恵平がとっさにここまで見切れるわけはないので、ここは内藤先生の観察か資料の引用でしょう。
「江戸東京たてもの園 解説本」によると、この形は不等辺八角形で、下は土間コンクリート、屋根は寄棟造りの鉄板葺きとなっています。

・「入口ドアは白く塗られた木製で、その上にアーチ型のひさしがあって、屋根は銅葺き、交番の名前は彫金だ。」(「MASK」より)

交番の名前は読み取れないと書かれていますが、移動前の万世橋交番の写真を見ても、交番名は読み取れません。
たてもの園の交番にも文字はありません。
これがこの作品にミステリ的なおもしろさを加えています。



「建物内部も古臭く、天井には、これもレトロな丸い照明が点いている。」(「MASK」より)

修復補修工事終了直後なので、中は綺麗過ぎるほど綺麗です。
いつか暗くなってから来てみたいなあ。

・「この交番にはカウンターがなく、小学校で使う教卓のような机をカウンター代わりにしている。
近隣住民が持ち寄ったかのような不揃いの椅子が四つあり、座面に紺色の別珍が貼られていた。」(「MASK」より)

実際の執務室はとても狭いので、机と椅子を四つも置いたら、それだけでいっぱいになる感じです。
少し広めに描写しているようです。
残念ながら椅子には「さわらないでください」と表示があるので、柏村さんの真似して座ることはできません。
壁の形に合わせた机、いいですね。
部屋の狭さに合わせたのか、途中から椅子の数が3つになりました。



・「先を促すような一瞥をして、柏村は交番の奥へ立って行く。
そこにはわずかな畳の部屋と、コンロと小さな流し台がある。」(「COVER」より)

やがて老警官は丸盆にお茶を二つ載せて戻って来た。
恵平の脇にひとつ置き、「どうぞ」と言う。
「私にですか?」
「ほうじ茶だけどね。酔い覚ましにいいと思って」
笑っている。(「MASK」より)

ブリキの急須が似合うコンロと流し台ですね。
ここで入れた香り高いほうじ茶が飲みたくなります。
以前書きましたが、こちらに出て来るほうじ茶は、人形町の森乃園のほうじ茶 だと思います。



・「木枠の窓は上下にスライドするタイプ。
背後に二畳のスペースがあり、寝具が畳んで置かれている。」

「こんばんは」
もう一度呼んだとき、
「ああ。ちょっと待ってくれ」
奥の宿直室から声がした。柏村巡査の声だった。(「TRACE」より)



執務室と宿直室の間には大きな窓がありますが、恵平たちは夜に訪れることもあり、薄暗い 交番の中では宿直室の様子はわからないかもしれません。

・「便所は宿直室の奥にあり、外から入る設計だ。」(「TRACE」より)

トイレには、建物の後にあるこのドアから入ります。
最初、コンロの後の扉からトイレに入るのだろうと思っていました。
でも扉が三段に分かれており、ここはドアではなく物を入れる棚だったことがわかりました。



・「見えた?」
恵平は言葉を失った。
右手にあるのは小さな川と、やっぱり小さな石の橋。
赤くてかわいい郵便ポスト。
そしてポストの後ろには、東京駅うら交番が鎮座している。
アーチ形の庇の下に丸くて赤い電球があり、建物は石造りで煉瓦風タイルが貼ってあり、跳ね上げ式の 細長い洋風窓や、柏村がいつも開け放っていた入口もそのままだ。
「……なんで」(「LAST」より)

ここの文章は、恵平が初めて「江戸東京たてもの園で」万世橋交番を見た時のものです。
恵平の驚きは、内藤先生が初めてこの交番を見た時の驚きだったのでしょうか。
内藤先生にとっての交番の思い出は、万世橋交番ではないようですが、初めて万世橋交番を 見た時の印象は、「あとがき」には書いていません。

私は初めて「東京駅おもてうら交番」シリーズを読んだ時、思い浮かべたのがこの万世橋交番でした。
でもすぐに「違うよね、万世橋交番は秋葉原だし。」とそのイメージを切り捨てた自分を改めて凡人だなあと 思います。



・「コンロの脇は、木製の扉が付いた物入れになっていた。
六つの扉にレトロで丸いノブがある。」(「LAST」より)

執務室にもガラスのついた戸棚がありますが、これは小説には出て来ません。
実は最初読んだ時、恵平はこの戸棚に頭を突っ込んだのかと思っていました。
小説内にはデスクと脇机まで出て来るので、戸棚まで置くと狭くなりすぎるために省略したのでしょうか。
先ほども載せた写真ですが、奥にあるのが「あの」物入れです。
小説だからいい話になっていますが、実際は2人ともとんでもなく常識外れなことそしていたわけで、 そこはちょっと考えてしまいました。



2023年(令和5年)3月に修復補修工事を終えた万世橋交番は、見違えるほど綺麗になっていました。
綺麗過ぎて寂しさを感じるほどです。
今後自然の色がついていくのを楽しみに見守っていきたいと思います。

以前あった黒電話や、小説に出て来る柱時計、パソコン代わりの大学ノートや電話帳、ヨーグルトの空きビンを使った ペン立てなどを置いて欲しいなあ。
こうした情景が自然に頭に浮かぶのは、これも私が大好きな映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の影響かな。
柏村さんが道具箱代わりに使っていた、牛乳の名前が書かれた黄色い小さな木の箱とか。

こうして万世橋交番について調べるうちに、万世橋交番そのものがとても興味深い歴史を持っていることが わかってきました。
次回は万世橋交番そのものについて書いてみたいと思います。
(2023年4月16日の日記)
4月18日 万世橋交番の位置と歴史
東京駅うら交番と万世橋交番を比べているうちに、だんだん万世橋交番そのものについて知りたくなってきました。
秋葉原のどこに、いつからあったのか、どんな歴史を持っているのか、調べてみることにしました。
まず、江戸東京たてもの園に問い合わせたところ、とても丁寧に回答して頂きました。
たてもの園に移築する前の万世橋交番の写真を、許可を頂いて掲載しています。



この写真を見て、すぐに交番があった場所がわかりました。
「ラジオガァデン」という建物はまだ残っているのです。
秋葉原の万世橋のそば、焼き肉がおいしい肉の万世本店の、中央通りを挟んで向かいです。
「ラジオガァデン」と言っても、万世の万かつサンドを売っていたり、自動販売機が並んでいるのしか見たことないのですが。
1950年(昭和25年)に開業した建物で、かつては電子部品のお店がたくさん入っていたそうですが、閉店が相次ぎ、 万世が直売店を置いたりしたのだそうです。
とにかくレトロな雰囲気がたまらない建物で、この隣りに1993年(平成5年)まで、交番はありました。

万世ビルの5階から撮影しました。
下の写真の赤で囲んだ建物がラジオガァデンです。
赤い煉瓦の建物が、東京駅と同じ辰野金吾が設計した旧万世橋駅の煉瓦アーチの高架橋を使用した商業施設 「マーチエキュート神田万世橋」、手前の道路が中央通りです。



ラジオガァデンの脇にあったようですね。
「MASK」には、
「赤いライトが灯る交番は、建物の奥半分が高架橋下にのめり込んで見え」
とありますが、本当にそう見えたことでしょう。

また、作品中に出て来る「軒先に積まれた箱に雑多な部品が入って」いる「みんなのラジヲ」、 交番の脇に立つ小さい店も「ラジオガァデン」もモデルとしているように思えます。
今も残っていたらこんな感じでしょうか。
交番が今もここにあって、交番として機能していたら楽しいだろうなあと思いもしましたが、 「江戸東京たてもの園物語」によると、放置されてからは中に廃材が無造作に置かれた ような状態だったそうです。
残念です。





ところで資料をいろいろ見ているうちに、ふと違和感を覚えました。
交番が他の場所にあったような気もしたのです。
「見て、触れて、探して、そして楽しんで 江戸東京たてもの園」では、交番が道路に面して 建っています。
交番の位置が違うのです。

下の写真は、旧万世橋駅の煉瓦アーチの高架橋を使用した商業施設「マーチエキュート神田万世橋」内にある 大正初期の万世駅橋のジオラマです。
イラストは「見て、触れて、探して、そして楽しんで 江戸東京たてもの園」から許可を頂いて掲載しています。



赤いランプの可愛い交番を見ることができます。
このジオラマと、現在の地図を照らし合わせて、大正時代の交番は、ラジオガァデンから「記憶の広場」と 呼ばれる筋違門跡地の間に、道路に面して建っていたのではないかと思いますが、確信はありません。
市電の流れなども調べて今後の課題としたいと思います。



資料を探しているうちに、国立国会図書館で「よみがえる万世橋交番 東京都江戸東京博物館制作映像」 というビデオを見つけ、万世橋駅の歴史から、移築の様子までの映像を見ることができました。
本来であれば、関係者以外見ることができないはずの移築の映像を、このような形で残してくださったことは 本当にありがたく思います。

実は私、こんな小さくて可愛い交番をそのまま運ぶなんて楽だったんだろうなあと思っていましたがとんでもない。
ガードレールを越す高さまで持ち上げるのが大変だったとのことでしたが、その様子を映像で見ることができました。
雨だったこともあり、本当に大変だったようです。
特に印象に残ったのが、交番の内側の壁の腰から下の部分にレンガが見えたことで、これは移築してから補強のために セメントで塗り固めたのでしょうか。

また、万世橋交番の移築が「曳家」という形で行われていることが、内藤先生の別作品「よろず建物因縁帳」 シリーズのヒントになったのではないかと思いました。

万世橋交番がいつできたのかはわかっていませんが、辰野金吾設計の万世橋駅が1912年(明治45年)にできているので、交番は 同じ頃ではないかと思います。
東京駅同様赤煉瓦造りの美しい建物でしたが、1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失してしまいます。
その後新しい駅舎が建てられますが、こちらは普通の駅舎で特に印象に残る物ではなかったようです。

1936年(昭和11年)、鉄道博物館ができ、1943年(昭和18年)には駅としての営業を終えます。
1948年(昭和23年)に交通博物館と改称しますが、残念ながら私は行ったことがありません。
2006年(平成18年)に閉館し、その跡地にはJR神田万世橋ビルが、唯一残っている旧万世橋駅の煉瓦アーチの高架橋は 商業施設「マーチエキュート神田万世橋」となって現在に至ります。

万世橋交番も、1931年(昭和5年)には交通待機所となり、その後新たに交番ができてからは、そこに 詰める巡査の休憩所になったりもしましたが、いつしか放置されてしまったことが映像で語られていました。
江戸東京たてもの園に移築されたことは、交番にとってとても幸せなことですね。

JR神田万世橋ビルそばには、「記憶の広場」と名付けられたスペースがあり、江戸時代の「筋違門」、明治から大正に かけての「旧万世橋駅」、昭和から平成にかけての「交通博物館」に関する素晴らしい説明版があります。
また、マーチエキュート神田万世橋には旧万世橋駅の遺構も残っており、旧万世橋駅時代(大正時代)のジオラマも 美しい物です。

万世橋交番を調べているうちに、旧万世橋駅そのものにもとても興味が出て来ました。
こちらも今後も調べて行きたいと思います。

左の写真は万世橋とマーチエキュート神田万世橋、右はその内部です。



建物の中にはこのような遺構が残っています。
古い階段を登って行くと展望デッキと素敵なカフェがあり、昔のホーム跡や、目の前を通り過ぎる電車を見ながら おいしいコーヒーを頂くことができます。



(2023年4月18日の日記)
5月1日 後宮の烏(原作)
★白川紺子著「後宮の烏」に関してネタバレを含みます。

アニメ「後宮の烏」は極端な改編もなく、映像の美しさは時に原作をしのぎ、素晴らしい作品でした。
アニメは(一応)途中までで終わっているので、原作を一気買いして読んでみました。
なるべくネタバレしないようにしますが、一言で言えば、原作もまた読みごたえがあり、素晴らしかったです。
ストーリーはもちろん、色彩の描写も、この原作あってこそのアニメの美しさだったんだなと思えるものでした。
絶賛した上でいくつか気になる点も少し。

神秘的な存在であった烏がその正体を現してから、ちょっと軽いと感じたことが一つ。
まあこれは微々たる印象です

二つ目は、高峻と寿雪の意志があまりにも早く出過ぎたこと。
選択肢としては、これ以外なかったと思います。
高峻には妃が何人もおり、身ごもる妃も複数います。
これは恋愛というより、皇帝としての務めです。

妃たちもそれを受け入れ、仲良く暮らしています。
でも寿雪が高峻の妃となったらどうでしょう。
寿雪はまだ愛、愛によって生まれる嫉妬の感情が曖昧なままです。
ずっと鳥妃として生きて来て、人慣れしていないせいでしょう。

でも幼く、純粋であるだけに、妃の1人としての立場をすんなり受け入れることはできないでしょう。
同時に、高峻も寿雪を真摯に愛することで、1人の皇帝と複数の妃間のバランスが崩れるでしょう。
高峻は皇帝としてそれを理解している。
もちろん2人の縛りたくない、縛られたくないという強い意志も感じられます。

ただそれがあまりに早く描写されてしまったために、最後「やっぱりね。」という納得するしかできませんでした。
読者は誰もが2人が結ばれるハッピーエンドを望みつつも、そうはならないだろうと薄々感じていたと思います。
そこをやはり最後に持って来て欲しかった。

そして高峻と寿雪にあまり印象が残らず、新たな主役が生まれたような最終7巻には違和感を感じました。
寿雪が「出た」瞬間が物語のクライマックスであり、結末であったような。
高峻と寿雪が主役となった8巻が欲しい、もしくは本当の外伝が欲しい。
そう思った読後感でした。
(2022年5月1日の日記)


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