北区の日常(一)


王子権現社
・徳川家康は、江戸に入ると、1591年(天正19年)には王子権現社へ200石の所領を与えました。
そして、三代将軍徳川家光のとき、王子権現・王子稲荷の両社は、幕府の手によって大造営(大規模な建築)が行われました。
(「はじめの一歩 王子西地区編」参照)

・鎌倉時代、領主豊島氏が紀州熊野より若一王子宮を勧請。
王子の地名の由来となる。
大銀杏が茂り、末社の関神社は髪の神として理容業界の信仰が篤い。
(「北区時間2011」参照)

飛鳥山
・飛鳥山の桜は、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が江戸の人たちが楽しめる場所をつくろうと植樹したもので、以来、桜の季節には多くの花見客が飛鳥山に訪れるようになりました。
現在でも飛鳥山は都内でも有名な花見場所の一つに数えられています。
北区では、桜の時期にあわせて毎年「さくらSAKASO祭り」が開催されており、会場ではさまざまな催しも行われています。(「はじめの一歩 王子西地区編」参照)

・JR王子駅を降りると目の前に緑したたる丘が迫る。
ここが飛鳥山だ。
かつて飛鳥明神が祀られていたことでこの名がある。
八代将軍徳川吉宗が享保5年(1720年)9月に1,270本の桜を植え、武士だけでなく庶民にも開放して、やがて江戸屈指の観光名所となった。
桜は今もなお健在。
その後数々の施設ができ、老若男女が楽しめる公園となっている。

駅からまずは園内の西北端に設置されたミニモノレールのアスカルゴで山頂へ。
ここから東へ伸びる園内は昔ながらの桜の林。
桜花の春ばかりでなく、緑濃い夏、紅葉の秋と、季節を通して豊かな自然を楽しめる。
樹間を縦横に縫って遊歩道が続いており、散策の楽しみは尽きない。
点在する飛鳥山の歴史を伝える石碑も見どころ。
さらに南側の低地部分には野外能舞台の飛鳥舞台や、巨大な噴水、人口渓流などが設けられ、特に夏は涼を求めて訪れる人が多い。

ここから東へ進むと児童エリア。
西洋の城を模した巨大なすべり台を中心に、ジャングルジム、砂場、動物模型、SLや都電の実物展示などが点在しており、子供たちには魅力いっぱいのスペースだ。

児童エリアを含む東側一帯は、明治時代を代表する実業家・渋沢栄一の自宅跡地。
当時は広大な母屋や茶室などを備えた2万8000?もの敷地を誇る大邸宅だった。
現在はその業績を顕彰する渋沢史料館や、飛鳥山博物館、紙の博物館が建つ。
最東端一帯は、王子の面影そのままの渋沢庭園が今も残り、現存する西洋建築の青淵文庫と晩香盧は、国の重要文化財に指定されている。(「北区時間2011」参照)

地下鉄 赤羽岩淵駅
・地下鉄南北線の赤羽岩淵駅は、1991年(平成3年)に開業しました。
むかし、ここには都電の赤羽停留所がありました。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 赤羽東地区編」参照)

・東京都北区赤羽一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・埼玉高速鉄道の駅である。
東京メトロの南北線と、埼玉高速鉄道の埼玉スタジアム線が乗り入れている。
この駅は前者の終点かつ後者の起点であるが、両路線は当駅を介して相互直通運転を行っている。
そのため、当駅は東京メトロと埼玉高速鉄道の共同使用駅となっており、駅管轄は東京メトロが行っている。
また、埼玉高速鉄道の運営する鉄道路線では唯一埼玉県外に所在する駅でもある。
(「Wikipedia」参照)

★〒115-0042 東京都北区赤羽1-5-28
JR赤羽駅
・赤羽駅がつくられたのは、1885年(明治18年)でした。
むかしは、今よりも北にありました。
現在の場所に移されたのは、1927年(昭和2年)です。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 赤羽東地区編」参照)

・鉄道の開通

はじめて北区に鉄道がとおったのは、1883年(明治16年)のことでした。
東京の上野駅と埼玉県の熊谷駅のあいだに、蒸気機関車が走ったのです。
この時に、王子駅がつくられました。
赤羽駅は、それから2年ほど後の1885年(明治18年)に置かれました。
当時の赤羽駅は、今よりも北にありました。

しかし、困った問題も起こりました。
1903年(明治36年)赤羽で大火事があり、多くの家や岩淵小学校(今の赤羽小学校)などが焼けてしまいました。
人々は、機関車の出す火の粉が、燃え移ったのだと考えました。
蒸気機関車は便利な乗り物でしたが、近くに住む人々にとって、迷惑なものでもあったのです。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 赤羽東地区編」参照)

★〒115-0042 東京都北区赤羽1-1-1
芥川龍之介 小説家
夏目漱石の弟子です。
「蜘蛛の糸」という小説が、国語の教科書や道徳の教材として使われることがあります。
「鼻」や「芋粥」のような、おもしろい作品も書いています。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 滝野川西地区編」参照)

      ☆           ☆          

見た目から陰気で内向的な人物を想像していましたが、田端文士村記念館の資料を見ると、木登りをしたり、 楽しい面もあったことが伺えました。

北区は今後、芥川龍之介が晩年に暮らした田端の旧居跡地の一部を購入し「芥川龍之介記念館」(仮称)を整備すると発表したそうです。
書斎を再現して自筆原稿など関連資料を展示する予定で、2023年(令和5年)の開館を目指しているそうです。

★東京都北区田端1丁目19−18(芥川龍之介旧居跡)
石神井川
石神井川は、王子東地区と滝野川東地区の境になっている川です。
王子・豊嶋と堀船のあいだを流れています。
堀船三丁目で隅田川に合流しています。
音無川とも呼ばれます。
たびたび、洪水の原因になってきましたが、飛鳥山の地下に水路をつくったので、以前より、水があふれにくくなりました。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 王子東地区編」参照)

☆ ☆ ☆

流れが変わった石神井川

北区を流れる石神井川は、もともと王子付近で南に曲がり、上野方面に流れていたと考えられています。
今から6千年ほど前、海面の上昇により王子付近の崖がけずられ、その結果、そのまま低地部へと流れる現在の石神井川のかたちになりました。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩王子東地区編」参照)

王子神社
王子神社は豊嶋氏が紀伊国熊野から勧請(神仏を分けて別の場所に遷すこと)したもので、「王子」の地名の由来となったといわれます。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 王子西地区編」参照)

☆ ☆ ☆

かつては「若一王子宮」と呼ばれました。
王子の地名ともなった古い神社です。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩王子西地区編」参照)

☆ ☆ ☆

王子神社は夏の田楽舞、大銀杏、熊手市などでも有名です。
「若一王子絵巻」は飛鳥山博物館に展示されたこともあり、由緒ある資料です。
秋の飛鳥山薪能では王子神社の宮司さんが毎年お祓いをするなど、王子にとって欠かせない神社です。
神社の境内を抜けて石段を下りて行くとそこは音無親水公園。
春の桜、夏の青葉、秋の紅葉、冬の雪と四季の風景を楽しむことができます。

★東京都北区王子本町1-1-12
飛鳥山公園
八代将軍徳川吉宗が江戸庶民の行楽のために桜を植えたのが始まりで、明治6年(1873年)には日本最初の公園に指定されました。
約600本の桜が植えられており、今も花見客で賑わいます。
桜だけでなく、つつじや紫陽花、新緑、紅葉など、四季折々の風景に癒されます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

☆ ☆ ☆

懐かしのSLと都電に出会える公園
飛鳥山公園には蒸気機関車のD51や、昭和53年(1978年)まで都電荒川線を走っていた6000型が静態保存されている。
「D51は大人にも子どもにも大人気!
飛鳥山公園を訪れたら、ぜひここで記念撮影がお勧めです。
6000型は車内が開放されているので、木製の座席に座ってくつろぐこともできますね」、と豊岡さん。
(枻出版社「赤羽本」参照)

★東京都北区王子1丁目1-3

飛鳥山3つの博物館
飛鳥山公園内には、北区の歴史・自然・文化を紹介する「北区飛鳥山博物館」、世界有数の「紙」専門の博物館である「紙の博物館」、 日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一に関する資料を展示する「渋沢史料館」の3つの博物館があり、それぞれ 異なるテーマ・趣向で楽しませてくれます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

☆ ☆ ☆

1998年(平成10年)3月27日、東京都北区飛鳥山公園に博物館ゾーンが誕生しました。
紙の博物館は、世界有数の紙専門のユニークな博物館です。
北区飛鳥山博物館は、北区のことがなんでもわかる博物館です。
渋沢史料館は、近代に日本を創ったリーダー・渋沢栄一の志を伝え続ける博物館です。

飛鳥山の緩やかな稜線に沿って建つ、飛鳥山3つの博物館(渋沢史料館・北区飛鳥山博物館・紙の博物館)は、 おかげさまで、開館以来たくさんのご来館者をお迎えしています。
33万人が生活する東京都北区から全国へ、たくさんの方々との出会いや語らいを大切にしながら、 いつもさまざまな情報を発信し続ける親しみやすい博物館であり続けたいと思います。
飛鳥山3つの博物館は、「独自性と相互連携」を軸にこれからも情報を発信していきます。
(「飛鳥山3つの博物館」公式サイト参照)

★東京都北区王子1丁目1-3

旧醸造試験所跡地公園
旧醸造試験所第一工場。
春には満開の桜が咲き誇る公園の隣りに、趣のある赤レンガ造りの酒造工場を見ることができます。
日本橋の 意匠装飾をした建築家・妻木頼黄(つまきよりなか)がドイツのビール醸造施設などを応用して設計した煉瓦造工場建築で、 日本酒の研究を行って醸造技術と品質の向上を図るため、醸造試験所として明治37年(1904年)に創立されました。
平成26年(2014年)には、国の重要文化財(建造物)にも指定されています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区滝野川2-7-17

中央図書館
都内でも有数の規模を誇る図書館。
約40万冊の蔵書、約500席の閲覧席、インターネット利用席などを備えています。
大正8年(1919年)に建造された赤レンガ倉庫を利用した建物は、重厚でありながらモダンさを合わせ持ち、「赤レンガ図書館」と呼ばれ 親しまれています。
また、授乳室を完備した子育て情報支援室があり、ユニバーサルデザインを採用したバリアフリーの施設で、誰もが利用しやすいことも特徴です。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区十条台1-2-5

十条銀座商店街
北区最大の店舗数を誇る十条銀座商店街は、品ぞろえや安さにも定評があります。
長いアーケード街は、いつも買い物客でにぎわっています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

☆ ☆ ☆

昔ながらの懐かしさがある商店街です。
ドトールやコージーコーナーなどのお店もありますが、ファミレスなどはなく、ほとんどが個人商店。
そして「お洒落ではない」チェーン店。
でもその分浮いたお店もなく、くつろげます。

とにかく長いので、お店を選ぶのにかえって迷うほど。
北区中央図書館に寄って本を返した後十条銀座で買い物をして、帰りにまた図書館に寄って本を借りて 帰る、そんな行き方のできる場所です。

★東京都北区十条仲原1丁目ほか
篠原演芸場
昭和26年(1951年)に開館した都内では現存最古の大衆演劇専門劇場。
「演芸場通り」と、通りの名になるほど地元に愛されており、熱いファンは数多く、公演日は毎回長蛇の列ができます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

☆ ☆ ☆

何度か通りかかったことはありますが、入ったことはありません。
嫌いじゃないけど敷居も高い(笑)。

★東京都北区中十条2丁目17−6
北とぴあ
北区の産業振興と区民の文化の拠点として建設された区のシンボルです。
館内には、ホールや各種会議室など多彩な設備が整っています。
「北とぴあ国際音楽祭」や「北とぴあ国際音楽祭」など、北とぴあならではの催しも見どころ。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区王子1-11-1
浮間公園
約4万平方メートルの広さを誇る浮間ヶ池を中心に、水と緑がひろがる公園です。
春は桜並木が道行く人の心を和ませ、夏にはじゃぶじゃぶ池で水遊びをする子どもたちの歓声が聞こえます。
秋には紅葉を楽しむことができ、冬はカモなどの渡り鳥が飛来します。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区浮間2丁目、板橋区舟渡丁目
文化芸術活動拠点ココキタ
「文化の創造と人々の交流を育むまち」というコンセプトのもと、閉校した中学校の校舎を 改修して誕生した文化芸術活動を応援する施設。
音楽、ダンス、演劇、美術など、様々な創作活動が行えるよう、スタジオやアトリエなどを 貸し出しています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区豊島5-3-13
荒川河川敷、旧岩淵水門(赤水門)
広々と開放感あふれる景色の中で、散歩はもちろんバーベキューやランニングなど、家族で リフレッシュできる憩いのスポットです。
その中でも目を引くのが旧岩淵水門(赤水門)で、大正13年(1924年)の竣工以来、洪水から 人々の暮らしを守って来ました。
現在は新たな岩淵水門(青水門)に役割を引き継ぎ、平成21年(2009年)に近代化産業遺産に 認定され、「赤水門」の愛称で親しまれています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区志茂5-42-6付近
荒川知水資料館
荒川治水の歴史や自然を親子で体験しながら学べるほか、荒川の周りに生息する魚や、昆虫などの生き物を 見ることもできます。
また、年間を通して様々なワークショップやイベントを行っています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区志茂5-41-1
赤羽自然観察公園、北区ふるさと農家体験館
谷状の地形や湧水を利用し、この地域に本来生息する植物を保存・植栽しています。
水鳥の池やどんぐりの森(雑木林)、多目的広場、バーベキューサイトも整備しており、自然と ふれあいながら楽しむことができる公園です。。
また、園内には区指定有形文化財の旧松澤家住宅(北区ふるさと農家体験館)が併設され、 長い間使用されてきた道具を展示し、座敷に上がって見学などもできます。
もの作り・年中行事の再現などの体験講座や、建物のガイドも行っており、 昔の生活文化を体験することができます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区赤羽西5-2-34
赤羽スズラン通り商店街(ララガーデン)
高さ、幅ともに北区内で1番のアーケードを有している商店街です。
雨の日でも安心してお買い物を楽しむことができます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区赤羽2丁目
赤羽一番街商店街
古きよき昭和の香り漂う居酒屋など、名店の魅力を求めて遠方からも人が集まる、賑わいあふれる商店街です。

(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区赤羽1丁目
国立スポーツ科学センター
日本のスポーツの国際競技力強化のため、スポーツ医・科学の分野から競技者・ 指導者等への支援を行っています。 競技などの専用練習場の他、「サッカー専用競技場(味の素フィールド西が丘)」、一般利用可能な フットサルコートと屋外テニスコートがあります。

(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区西ヶ丘3-15-1
味の素ナショナルトレーニングセンター
日本のトップレベル競技者の国際競技力の向上を図る施設として平成20年(2008年)に 開所しました。
競技別の専用練習場である「屋内トレーニングセンター」「屋内テニスコート」及び、 宿泊施設の「アスリートヴィレッジ」で構成されています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区西ヶ丘3-15-1
旧古河庭園(北区)
鹿鳴館などの設計を手がけたイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルによる英国風の洋館と洋風庭園、京都の庭師 ・植治こと七代目小川治兵衛の手がけた日本庭園とが美しい調和を生み出しています。
平成18年(2006年)1月に国の名勝に指定されました。
春と秋には、約100種類200株のバラが咲き誇り、遠方からも多くの人が訪れます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区西ヶ原1-27-39
赤紙仁王
東覚寺前にある一対の仁王像は、「赤紙仁王」と呼ばれています。
寛永18年(1641年)に僧の宗海が疫病を鎮めるために建てたといわれる石の金剛力士像で、 病のる部位に赤紙を貼って祈願すると病気が治るといわれ、病気の癒えた人はわらじを 奉納するならわしがあります。
北区指定有形民俗文化財です。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区田端2-7-3
霜降銀座商店街
細い通りをはさんだお店には、生鮮品などの食材や日用品が豊富に並んでいます。
春には、西ヶ原周辺を歩きながら謎を解くイベント「名探偵★浅見光彦の住む街ミステリーウォーク」を開催し、 全国から大勢の参加者が集まります。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区西ヶ原1丁目
田端文士村記念館
明治中期まで田端は閑静な村でしたが、上野に東京美術学校が開校し田端駅開業で 交通の便が整ったことで、芸術家たちが田端に集いました。
画家・小杉放庵、陶芸家・板谷波山が草分けとして転入、画家の社交場「ポプラ倶楽部」も誕生するなど、 田端はさながら「芸術家村」でした。
やがて大正期には、小説家・芥川龍之介、詩人・室生犀星も田端に暮し始めました。
文壇に華々しく登場した2人を中心に、友人、後輩が集まり、田端は「文士村」となったのです。
記念館では文士・芸術家の作品や肉筆原稿などを展示し、功績を紹介する他、散策会、講演会などの 催事も行っています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区田端6-1-2
文化センター
区民の知識及び教養を高める場を提供することで、教育、文化の発展を図ることを 目的として設立された施設です。
利用申し込みは各文化センターの窓口で受け付けます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区十条台1-2-1
図書館
近年、私たちが日常生活を営むうえで、各種の情報や知識の必要性が一段と重要視されています。
区立図書館はそうした需要にお応えするため、多数の資料(図書、CDなど)を用意して区民の皆さんの ご利用をお待ちしています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区十条台1-2-5
北区飛鳥山博物館
地域の風土や歴史を、実物資料や復元模型、再現映像などでわかりやすく紹介している常設展のほか、 北区にゆかりのある美術館・伝統工芸品の展示などを見ることができます。
さらに北区の歴史、文化に関する企画展や講座等を開催しています。 また、北区の歴史や文化財に関するお問い合わせにお答えしています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区王子1-1-3
赤羽スポーツの森公園
区民のスポーツ・健康づくりn拠点として開園した公園で、人工芝のグランドを整備した「屋外競技場」は サッカーやゲートボールなどのスポーツを楽しむことができます。
また、集会や会議、健康体操と言った屋内軽スポーツなど、多目的に利用できる屋内施設「ふれあいホール」も 併設しています。
園内にある「くさっぱら広場」はウォーキングできる周回園路、健康遊具、自動・幼児用遊具などを備え、防災 機能も有しています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区赤羽西5-2-32
飛鳥山3つの博物館
平成10年(1998年)3月に飛鳥山公園内に3つの博物館が隣接して設置され、博物館ゾーンが誕生。
3館で連携・協力しての事業開催や情報発信なども行っています。
三館共通券(720円)での入館・観覧もできます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

北区ふるさと農家体験館(旧松澤家住宅)
浮間地区に所在した古民家「区指定有形文化財 旧松澤家住宅」を赤羽自然公園内に 移築復元した施設です。
この施設は、古民家を文化財として保護していくと共に、歴史文化の学習施設として、 民具の展示や生活体験・年中行事などの体験事業を行っています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区赤羽西5-2-34
田端文士村記念館
芥川龍之介をはじめ、田端に暮した文士・芸術家約100名の功績を通じて、「田端文士芸術家村」という 歴史を展示・散策会、講演会で紹介しています。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区田端6-1-2
荒川治水資料館
荒川に関するさまざまな学習、製作物の発表、情報交換ができます。
(北区役所「北区くらしのガイド」参照)

★東京都北区志茂5-41-1
旧岩淵水門(赤水門)
旧岩淵水門(赤水門)は氾濫を繰り返した関東第二の大河である荒川の要として、 大正13年(1924年)に竣工しました。
8年間に渡る建設では、関東大震災sにも見舞われましたが、多くの人の力を合わせ、 見事、完成しました。
工事を監督した青山士(あおやまあきら)は、パナマ運河建設に携わった唯一の 日本人であり、建設工事を開始する際は洪水を起こさない川の流れの研究も 行いました。
完成以来、荒川下流域に住む人々の暮らしが洪水から守られてきました。

昭和30年(1955年)代の改修工事で赤い色に塗り替えられたことから「赤水門」と いう愛称で地元の人々に親しまれているこの水門ですが、現在は役目を終え、 下流にある青い岩淵水門が隅田川の洪水を防いでいます。
また1999年(平成11年)、歴史的建造物として東京都より選定されています。

春には土手に咲く桜、秋には夜空に上がる花火と共に、北区を象徴する景観の ひとつとなっています。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区志茂5-41 先
北区花火大会
「北区花火大会」は、北区を代表する民間団体が中心となり、地元の人々の協力の元、 開催する秋の花火協働事業です。
北区民ひとりひとりが力を合わせて盛り上げる手作りの催しのため、「花火大会」とせず、 親しみを込めて「花火会」と名付けられています。
子どもからお年寄りまでが、今まで以上に「地域への愛着」を感じ、荒川の地域資源を 活用した新しい観光事業として「北区の地域振興」と「地域イメージアップ」、併せて地域の「絆」を深めることを目的としています。

秋祭りのフィナーレとして花火を打ち上げたことにはじまり、第5回からは花火の質を高め、 北区の歴史や関連する人物、音楽とコラボレーションしたストーリー性のある花火会へと発展しています。
特に「日本煙火芸術協会」所属の有名花火会社が自慢の花火を披露するステージは 花火好きからも好評を得ています。
また、秋開催の花火大会の先駆けでもあり、現在では赤水門越しに観る花火が 北区花火会を象徴する景観となっています。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区志茂5-41 先
赤羽桜並木と赤羽台さくら並木公園
赤羽駅西口から赤羽台トンネルを抜けると、区立八幡小学校付近から諏訪神社前の交差点にかけて、焼く700mの桜並木が続いています。
この通りにある約100本の櫻が満開になると、幅20mの道路を覆う圧巻の桜のトンネルが、行き交う人々を魅了します。
通り沿いには、赤羽台さくら並木公園という崖線をうまく活用した、細長い公園があります。
また、北区には軍関係の施設が多かったことから、公園内に防空壕跡が今でも保存され、地域の歴史を体感することができます。
そして、桜が散り始めると、桜吹雪が舞い、道路は悪らのカーペットが敷かれたかのようにピンク色になります。
その頃には青葉も顔を出し始め、夏には新緑、そして秋には紅葉御それぞれの季節で私たちに安らぎと潤いを与えてくれます。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区赤羽台4-17
赤羽自然観察公園とふるさと農家体験館
赤羽自然観察公園は元自衛隊十条駐屯地として使用されていた土地の一部に整備された公園です。
当該値は谷状の地形を有し、湧水が存在しており、この湧水の保全・活用をするため、北区では、「自然とのふれあい」をテーマに 公園づくりを行っています。
もともと自衛隊用地として使用されていた経緯から、緑の多い公園ではありましたが、本来この地域に生息する植生の回復のため、 在来種に馴染まない樹木は撤去し、この地域に本来生息する植物もしくは生息していた植物を植栽し、長期的に自然の回復を図っています。
また、計画の段階から住民参加による公園づくりを進めており、現在も植生等の維持管理をボランティア団体と共に行っています。

北区ふるさと農家体験館は、北区有形文化財(建造物)に指定されている旧松澤家住宅を、移築・復元した体験学習施設です。
旧松澤家住宅は、かつて浮間地区に所在し、江戸時代後期に建てられた建物です。
現在では、区の歴史や文化を伝える貴重な文化遺産として親しまれています。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区赤羽西5-2
清水坂公園
清水坂公園は、北区を南北に走る武蔵野台地の崖地を利用した立体的で変化に富んだ公園です。

公園高台からの開放感あふれる眺めは、多くの方から人気を集めています。
また、芝生広場は約4,500?程の広さを誇り、子どもたちや親子連れで賑わっています。
ローラー式の「すべり台」は、全長52mあり、緑の中をすべりぬけていくダイナミックなすべり台です。
山間の渓流をイメージした水遊び場とともに子どもたちから人気の高い遊び場となっています。

園内の景観は、鯉のぼりやあじさい、桜、梅など、季節の訪れを感じさせ、訪れた人を魅了します。
また、自然に関するパネルや生物の目から見た北区の自然を映す映像が展示されている「自然ふれあい情報館」や 小さな池や田圃などがある「自然園」では、楽しみながら自然環境への理解を深めることができます。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区十条仲原4-2
中央図書館(十条台)
中央図書館は、かつて、東京砲兵工廠があった場所に立地しています。
敷地内に現存していた銃砲製造所で使用されていたレンガ倉庫を保存活用し、平成20年 (2008年)に完成しました。
愛称である「赤レンガ図書館」は公募により決定し、現在では多くの区民に親しまれています。
平成25年(2013年)には、北区の名誉区民で北区アンバサダーの日本文学研究者ドナルド・ キーン氏のコレクションコーナーが開設し、キーン氏から寄贈された書籍や絵画の公開も行っています。

館内は段差がなく、通路をしっかりと確保し、だれでも利用しやすい高さの書架にするなど、 バリアフリーにも対応することで、だれもが使いやすく、快適に過ごすことができます。
また、内壁にも赤レンガを使用しているため、館内からもレンガ倉庫として使用されていた 歴史を感じることができます。
外観はレンガ造りの建物と打ち放しのコンクリートや壁面に多用されたガラス等が調和し、 美しい景観をつくりだしています。
景観の配慮のみならず、住宅地に立地することから、プライバシーにも配慮しており、敷地の 高低差を活用することで建物の高さを抑えています。
また、前面に広がる開けた芝生の講演では、近所のこどもたちの元気な姿が見られます。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区十条台1-2-5
音無橋と親水公園(王子本町)
昭和5年(1930年)の架橋以来この地域の交通の要として、多くの区民に親しまれてきた音無橋は、3つのアーチ型の橋脚と、優雅な曲線美を誇る欄干が 印象的な景観をつくりだしています。
「日本の都市公園100選」に選ばれている音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。
石神井川名は、北区付近では「音無川」と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。
しかしながら、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となり、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和30年(1955年)代から始まった 改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。
昭和58年(1983年)に完成した改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路の直線化が行われ、残された旧流路に、「かつての 渓流を取り戻したい」として音無親水公園ができました。
公園内には、純和風の木橋「舟串橋」とはじめ、水車、東屋、行灯などが配されています。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区王子本町1-1先
飛鳥山公園の風景と飛鳥の小径(王子)
江戸時代から庶民に花見の名所として親しまれてきた飛鳥山公園は、北区を代表する公園として、区内外から多くの人が訪れます。
享保5〜6年(1720年〜1721年)に徳川八代将軍吉宗が1,270本もの苗木を植えたことに始まり、現在では桜の名所として知られ、 ソメイヨシノやサトザクラなど約600本のサクラが3月下旬から4g津上旬に見ごろとなります。
また、明治6年(1873年)には我が国最初の都市公園に指定されています。

平成21年(2009年)には、公園内をゆっくりと動く、自走式モノレール方式の斜行昇降施設「あすかパークレール」が整備されました。
現在では「アスカルゴ」と呼ばれ、区民に親しまれており、高齢者や障害者、ベビーカー利用者でも気軽に飛鳥山を登ることができます。

桜のみならず、約10種類、1,300株ほどのアジサイが飛鳥山の山裾に沿って咲き乱れる「飛鳥の小径」など、季節を彩る花々が訪れる人を魅了し、 一年を通じて楽しむことができる公園です。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区王子1-1
まちを走る都電
北区を走る都電荒川線は、王子電気軌道が明治44年(1911年)に大塚〜飛鳥山上 (現在の飛鳥山停留場)間2.3kmを開業させたのが始まりです。
その後、順次延長され、昭和49年(1974年)に三ノ輪橋〜早稲田間12.2kmの現在の荒川線 となりました。
当時、都電の大半は廃止されていましたが、道路上をほとんど走らない荒川線は例外的 に存続され、東急世田谷線とともに都内では貴重な路面電車として走っています。
沿線には多くの桜が咲き乱れる飛鳥山公園があることから、「東京さくらトラム」としても 親しまれています。

区内では、「梶原・栄町・王子駅前・飛鳥山・滝野川一丁目・西ヶ原四丁目」の計6か所に 停留所があり、通勤や通学、観光など様々な目的で利用されています。
また、営業用や装飾電車などの様々な車種があり、それらが走る姿はまちの景観を彩る とともに、我々御まち歩きを楽しませてくれます。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区堀船3-31〜西ヶ原4-65
旧古河庭園
総面積約3万 ?を誇る旧古河庭園は、武蔵野台地の傾斜地を巧みに利用した、大正初期を 代表する庭園です。
日本近代建築の父と呼ばれる英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された洋館と 洋風庭園は、コンドルの最晩年の作品であり、大正6年(1917年)に竣工され、古河財閥の 古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、洋風庭園、日本庭園)に整えられました。
洋風庭園は、現在、バラの名所として親しまれており、毎年5月中旬〜6月、10月中旬〜 11月には、咲き乱れるバラを楽しむために多くの来訪者で賑わいます。

近代庭園の先駆者とされる作庭家小川治兵衛によって作庭された日本庭園は、心字池を 中心に枯滝、大滝、中島を配し、茶室、渓谷の滝など見どころが多く、数少ない大正初期の 庭園の原型を留める貴重な存在です。
伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で 代表的な例であり、極めて良好に保存されている数少ない重要な事例であるとして、平成18年 (2006年)に国の名勝指定を受けています。
また、4月中旬〜5月中旬のつつじ、11月下旬〜12月上旬の紅葉も特に見応えがあり、遠方からも 多くの人々が訪れます。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区西ヶ原1-27-39
都立浮間公園
浮間地区

・地区の概要性・特性

浮間地区は、大正時代に埼玉県から北区に編入されました。 古くから農村地域でしたが、戦後に入って、工場の進出や住宅化が進みました。
その後昭和60年(1985年)に埼京線が開通したことで、住宅地化が一層進みました。
荒川と新河岸川に囲まれた水辺の潤い豊かな地域であるとともに、工場跡地や農地の 土地利用転換などにより、住宅立地が進み、住宅と工場が混在している地域と なっています。

2つの桜並木をはじめとする、「地域の人々に親しまれている並木などの景観」、「水辺や 崖線の景観」が多く選ばれています。
その他、子どもたちやその家族が集う「人々のふれあいやまちのにぎわいのある景観」も支持されています。

・都立浮間公園

浮間ヶ池を中心に豊かな自然が残っています。
春は満開の桜を見に来た多くの花見客、夏にはじゃぶじゃぶ池で遊ぶ親子で賑わい、秋は木々の葉が 黄色く染まるなど、各季節に応じて様々な世代が楽しむことができる公園です。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区浮間2-31
浮間ヶ原桜草圃場
地元の人々の保存活動により今も自生に近い状態でさくら草が保存されており、
春には圃場の一面に薄いピンクや白色の花が咲きほこり、多くの見学者を魅了しています。 (「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区浮間2-30
浮間二丁目の桜並木
浮間4丁目の王さ点から土手に向けて北へ伸びる道の両側に街路樹として植えられた桜は、 春になると道路上を覆い咲きほこります。
歩く人の目線からあけでなく、土手の上からも桜並木を楽しむことができます。 (「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区浮間2-3
新河岸東公園(浮間子どもスポーツ広場)
浮間水再生センターの上部空間を利用した開放的な公園。

園内はカラフルな遊具や野球場、サッカー場、フットサル場があり、多くの人が楽しめる広場となっており、休日は親子連れの方々で賑わっています。

・北区全体の骨格的な景観特性である河川について

北区の東側の低地には荒川、新河岸川、隅田川が流れています。
また、台地には西側から石神井川が流れ、隅田川へ合流しています。
古くから河川は、農業用水として恵みをもたらすなど生活に密着していました。
これらの河川が、起伏に富む北区の地形をつくりだし、特徴的な景観を形成しています。
(「北区景観百選2019」参照)

★東京都北区浮間4-7
北区史資料編近世1
江戸名所記 浅井了意撰 寛文2年(1662年)5月刊

1 金輪寺(巻之七所収)

七 金輪寺

豊島郡(こおり)王子村禅夷山金輪寺(こんりんじ)東光院の社は若一王子の宮なり、これ熊野権現の別宮たり、元亀元年(1570年)に熊野をここに勧請あり、中興(名君)東照権現ふかく御帰依ありて、社領二百石を御寄附ありけり、これよりこのかた代々の御朱印あり、寛永11年(1634年)きのえ戌 将軍家家光公御再興ましましけり、この時儒官羅浮氏道春(林道春、儒者で羅浮は号)、宮社の縁起をつくりて社頭におさめられたり、当寺に万病妙応の五香湯あり、近国の人民これを信服するに諸病をいやす、7月13日に祭礼あり、寺中の十二坊より踊り子を出だして風流の踊りあり、見物の貴賤はなはだ多し

稲荷大明神はこれ同じく王子の寺内なり、若一王子の社よりは一町(約109メートル)計り傍らにあり、当社は関東所々に勧請して崇め祭る稲荷明神の棟梁なり、毎年12月晦日の夜は、関八州の狐どもこの所にあつまり狐火をともす、この地下人らは狐火の灯りようによって田畑の良しあしを知るとなり、2月の初午の日は、諸人参詣して祈り申すとかや

七 金輪寺

・王子村の 稲荷の狐 鳴くこゑは
こんこんりんじ さいわいわいと

【解説】

江戸の名所案内としては最も早い時期に書かれたもので、寛文2年(1662年)5月に刊行された。7巻7冊。
版本で多く伝わり、中には外題を「江戸名所物語」とするものもある。
撰者は、浅井了意(?〜1691年)であると推定されている。

了意は、京都本性寺の僧で、別号に松雲・瓢水子・羊岐斎などがあり、仮名草子類30部余、仏書15部余を著した。
元禄4年(1691年)正月1日に死去し、享年は不明であるが80歳前後ではないかといわれる。

本書の内容は、江戸の名所を友人と2人で巡覧するという設定で、最初に武蔵国を説明し、次いで江戸城以下、日本橋・上野・駒込・神田・浅草・本所・芝・品川・池上・目黒・赤坂・牛込・小石川・渋谷・吉原などの各名所につkて、79項にわたり説明を加えるものである。
また、各項目ごとに挿絵があり、撰者が作ったものとみられる歌を添えている。

掲載箇所は、王子の金輪寺について述べた部分出る。
若一王子宮の由緒や名物の五香湯、7月13日の祭礼、王子稲荷などについて説明を加えている。
(国立公文書館内閣文書所蔵。「日本名所風俗図会」第3巻角川書店)

【北区文化財リスト】

江戸時代の金輪寺は、本堂が北区役所第二庁舎付近にあり、禅夷山東光院金輪寺といい、王子権現社・王子稲荷神社を管理する別当寺でした。
万延元年(1860年)12月の火災により焼失し、そのまま明治初年の神仏分離をむかえ、廃寺になったといいます。

その後、明治36年(1903年)2月真言宗霊雲寺第十五世正行が地元檀徒とはかり、残っていた藤本(ふじもと)坊・弥陀(みだ)坊のうち、藤本坊が金輪寺の名跡(みょうせき)を継ぎ、王子山金輪寺としました。
これが現在の金輪寺で、真言宗霊雲寺派に属します。

弥陀坊は、北区役所第四庁舎西隣りの金輪寺境外仏堂阿弥陀堂になります。
現在の金輪寺境内には、阿弥陀堂境内の歴代住職の墓所から、5基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が本堂前に移設されています。
これは中興開山の宥養、元禄5年(1692年)正月に高野山高室院(たかむろいん)の「小田原衆所領役帳」を筆写した宥相、飛鳥山・王子の由来などを記した飛鳥山碑を元文2年(1737年)11月に建立した宥衛、宥存・宥雄の墓石です。

また、本堂前に阿弥陀仏の種子(しゅじ)を刻み弘安7年(1284)6月に造立された板碑や、門を入った左側に正徳2年(1712)11月に王子村の庚申講中が造立した庚申塔である「石造青面金剛立像」なども移設されています。
墓地には、王子村の名主で、現在の区立名主の滝公園の基礎を築いた畑野孫八家の墓所もあります。

【感想】

金輪寺の御住職からおもしろい話を伺いました。
戦後の混乱期、金輪寺のお墓も当然めちゃくちゃになったのですが、ある日扇屋十三代当主の早船彦三氏始め、町の名士がぞろぞろやって来て、自分たちで区画整理を始めたのですが、整然と、というわけにはいかなかったようでかないごちゃごちゃした墓地になったそうです。 (写真は十二坊)

二 むらさきの一もと 戸田茂睡撰 天和2年(1682年)12月成稿

1 塚は(下巻所収)

・「〇(朱筆)」亀塚
三田(補記1)の上二本杉の近所にあり、また谷中道灌山の手前にもあり、王子のあたりにもあり、方々にこの名あり、あるいは亀井塚とも言う、これ皆誤りなり、かのへ塚(補記2)なり、庚申を信ずる者、庚申講を結んで5年も10年も待ち、その願い成就する時、塚をつきて庚申を祀りて、これをかのへ塚(補記3)と言うを、今誤まりて亀井塚、亀塚と言うなり

(補記1)「(前よりの書入れ)三田済海寺と土岐伊与守(頼熙=よりおき)の屋敷境の亀塚の事、一説に言う、昔増上寺と金地院の間に大きなる亀死んであり、それに付き、 その所を亀死(きし)と言い、それゆえ増上寺の門を岸大門と言い、その死にたる亀を右の所に塚に埋めて、塚をつきし故に亀塚と言いとそ。」

(補記2)「を見るに猿を三匹ずつ彫り付けあり、しからばかのえ(庚=かのえ)塚を言い誤り、亀井塚と言い、亀塚とも言うなるべし」

(補記3)「ゆえなり、又聖坂松平紀伊守下谷式裏門の内に亀塚大明神と額を打ちし稲荷の社あり、これはいかなる故か知れず」

・「〇(朱筆)」梶原塚
豊島と言う所の近所におぐ(尾久)という村あり、その所にあり、又板橋の手前池ふくろ(池袋)という所の内に梶原堀之内と言う所あり、これは上杉菅領の時分か、又相州(そうしゅう=相模の国の異称、現在の神奈川県の大部分)北条関八州を治めし時に梶原名字の士住みたる所なり、その梶原氏尾久にて討死せしを塚に突き込め、梶原塚と言うと言えり、実名誰と確かならず、定めて上杉の一類なるべし

・「〇朱筆」鎧塚
駒込の先王子の手前に平塚の大明神と言うあり、これは八幡太郎義家出羽山北の夷の長清原武則か子供武衡・家衡を滅ぼし、帰陣の折節、この所に鎧を埋めらるる、その塚を鎧塚と言うなり、その後この所に八幡太郎義家を平塚大明神と祝い奉る、新羅三郎義光・賀茂の次郎義綱をも共に祝い、平塚三社の神と号す、右鎧塚は社の後の高き所なり、塚の分に住連をはりて印としてあり

(写真は北区福生寺の梶原塚宝篋印塔)

1 雪は(下巻所収)

・「〇朱筆」王子金輪寺

駒込の先、岩渕の手前の若一権現の宮あり、江戸の地離れて五十余町、人家少なく人まれなり、寺の後は深き谷にて清き水流れ、古木生い茂りて竹藪高く、世を逃れ静かに住むには心止まるべき所なり、花の時は訪ね来る人もあれど紅葉には見る人もなし、霜下り木の葉落つれば人目も草も枯れ果て、寂しさいわんかたなし、雪の頃はなおさら哀なるべしとて、陶々斎と遺佚(いいつ)と行って酒飲む、雲西の日を隠して淡くして影なく、竹北風を帯びては少しき声ありて、ちらちら降る雪ようやく庭白く、草の上には蝶舞い、樹より落ちては花をなす、その興心詞も及ばれず、されども神の光にもあらず、祖寝にもなければ、肌へ寒く身凍ゆるまま差し請引きうけ呑み、盃の重なりて、何の憂さ辛さも忘れ、若かりし時を思い出して小唄を唄う、折節紫檀の竿に麻から転手(てんじゅ=棹の頭部に横から差し込んである、弦を巻きつける棒)、花林の胴(花林を使った三味線の四角い部分の枠)に八つ乳の皮(表裏とも猫皮を張った)、とうづきねをかけ、転手のしととめ金銀をもって散りばめたるに、柏やが糸に水牛のこま、象牙の撥を差し込みたる三味線あり、遺佚がこれを取って引者陶々斎は懐より宗薫か切たる一よきり、秋の野に虫尽くしの高蒔絵、葛の葉風と銘ありとおっとり出て音取りを吹く、とてものことのなくさみに小唄「医など唄うものは」なきかと尋ぬれば、生まれは京の者、今浅草に住居をなす呉服屋たおれの善右衛門と言うも幸い茶の間にあり合いを罷り出て、唄ふたり、渡り比べて世の中見れば阿波の鳴門に波嵐と言う、京にて流行るなけぶしを、声も惜しまず唄いければ、飛鳥も翼たるみ、地を走る獣も岡をつき、梁(うつばり=屋根の重さを支えるための横木)のちりも手拍子を打って踊る、遺佚が詠む

聞く人の首なけ節の唱歌にも波嵐とは良き小唄ゆえその折節、かの毘沙門山にて郭公(かっこう=鳥)の歌詠みたりし男来たりて、戸塚山の暑かりしに、今日の雪の寒さ、その時の琴の音は雲井に響き、今の小唄は心沈みて泣いていようにおもしろしと言う、しからば歌詠めと言う、則書つくる

声の色の身にしむばかり聞こゆるはなけの情けのなけぶしや

これそもそもなけぶしと言う事、往古(大昔)にもなきことにあらず、呈曲にもこれあり、逍遥院殿の御歌に

思うことなけふし声にこたうなりめでたや松の下にむれいて

若一王子より手前に大猷院(だいゆういん=家光)様の御茶屋の跡あり、この御茶屋の南にて、正保4年(1647年)11月13日、島津薩摩守光久の犬追物を御目にかけし所有、犬追物の馬場東西四十二間・南北四十間なり、四方皆四尺五寸の竹にて垨(かみ?もり?)をゆう、牓示(ぼうじ=掲示)・大縄・小縄・犬塚口などいうて様々の作法有事ながら、ここにいらざることゆえ略之


(解説)歌学者の戸田茂睡撰と推定され、伝本は天和2年(1682年)12月を年代上の初見とする。上・下の二巻。
奥書には光融入道という人物の遺作を、遺佚入道を名乗る人物が天和3年(1683年)5月に書写したとある。

だが、これは本書を著述した茂睡が光融入道という人物が著述したことにしたのだと理解すべきであり、内容的にも、延宝8年(1680年)5月、第4代将軍家綱が没する以前に成立し、これが、その後に浄写されたと推定されている。

ここでの底本は「正徳4年(1714年)甲午(きのえうま)歳9月中旬杏英子(花押)写之」とある写本である。
これは現在、知られている中では最も古い史料である。
戯作(げさく)作家の柳亭種彦が文政6年(1823年)から8年の間に上巻と下巻を別々に入手したと添書している。

上巻の裏表紙には、この本の内容は流布本と少なからぬ異同があり、欠けている内容もあるので、別本をもって校合(きょうごう=基準とする本文に照らして、本文の異同を確かめること)する必要があるとも説いている。
また、朱筆の記述は種彦が入手する以前の持ち主が書き入れたもので、種彦の記述したものではないが、文政8年(1835年)頃、古写本の下巻を得て自分でも校合したので、前の持ち主の書入れには改めて印をつけておいたと言う。

これが「前よりの書入れ」という記述に該当し、表記が繁雑になるので、本文とは別に補記1に翻刻(ほんこく=写本・版本などを、原本どおりに活字に組むなどして新たに出版すること)した部分である。
したがって、こうした記述のない書入れが種彦の古写本との校訂の部分だと判断される。

なお、この種彦の校合箇所は、掲載した部分に関するものとしては、補記2に記したように本文についての部分及び小見出しの肩に「一本なし」と記されているところや朱筆で丸が記されている部分がある点をつけくわえておきたい。

(写真は平塚神社、残念ながら鎧塚は立ち入り禁止区域にあります。)

内容は、浅草に住んで遺佚を称する茂睡が四谷に住む親友の陶々斎と府内および近郊を見物して歩いたという設定で、古城・山・坂・谷・窪・谷(やつ)・川・嶋・堀・井・池・橋・渡・船・野・小路・塚・馬場・花・郭公・月・紅葉・雪・祭・時鐘及び武蔵名所について記している。

北区については、塚の項で、亀塚、梶原堀之内村にあった梶原塚、上中里村の平塚神社の鎧塚が、また、雪の項では、王子金輪寺の情景が紹介されている。
殊に金輪寺の付近については、江戸の地を離れて五十町余で人家も少ない。
花の季節には花見に訪れる人もあるが、紅葉の季節には訪れる人もなく、霜が降って木の葉も落ちる季節には草も枯れ果て、どうしようもなく寂しい。

だからこそ雪の時は「なおさら哀れなるべし」と語り合って雪見酒を決め込んで金輪寺付近を訪れ、酒を酌み交わした。
以前は呉服屋だったとう京都生まれの善右衛門という人物が、当時、京都で流行っていた投節をうたい、2人は三味線や尺八で囃したとある。

深々と降る雪に、静まり返った江戸北郊の王子の地の鄙びた情景が、このように懐述されていて味わい深い。

撰者と推定される戸田茂睡(もすい)は、寛永6年(1629年)5月、駿府城内(現静岡県静岡市)で生まれた。
父親は、幕府から駿河大納言忠長の付家老として派遣された六千石の旗本渡辺監物忠であるが、寛永9年(1632年)、忠長が改易となったため、茂睡大関家に預けの身となった父に従って黒羽(下野)の地で幼年から青年時代までをすごした。

名前は馮(たのむ)、養子となって戸田恭光(やすみつ)、通称を茂右衛門、この後に茂睡・茂妥と名乗った。
ニ十歳代に伯父戸田政次の養子となり、また、岡崎藩(三河)本多家に仕官したが、晩年は出家して浅草や本郷に住み、歌学者の生活を送った。

伝統歌学を批判する「百人一首雑談(ぞうだん)」・「僻言(ひがごと)調」・「伊勢物語雑談」などの歌論書を著わし、「まこと」の精神に立った自由な表現や「情」をよびさます作品を詠むべき点を主張した。
歌論書のほかにも、政治・社会状況を記録した「御当代記」が著名である。

馮雲寺・露佚軒・不忘庵・最忍法師などと号し、宝永3年(1706年)4月、78歳で没した。
(底)国立国会図書館所蔵。(刊)「戸田茂睡全集 全」(図書刊行会叢書)。

三 故郷帰りの江戸咄 貞享4年(1687年)6月刊 撰者不詳

4 王子村金輪寺(第二巻所収)

(第十八)王子村金輪寺

程は遠けれども、いざこれより王子へ行かんとて、急ぎけるに、程なくかしこにつきたり、ここも豊嶋の郡(こおり)にて、王子村禅夷山金輪寺東光院と言う、この社は熊野権現の別宮、若一王子の宮なり、元亀元年(1570年)に、この所に勧請あり、中興 東照権現様深く御帰依あって、社領200石を、御寄付ありけり、それよりこの方、代々の御朱印あり(朱印地=江戸時代に幕府・大名より神社・寺院の領地=寺社領として安堵=領有権の承認・確認された土地のこと)、寛永11甲戌年(1634年)、将軍家家光公御再興ましましけり、この時、儒官の羅浮氏道春(どうしゅん=林羅山)、宮社の縁起を作りて社頭に納められたり、当寺に万病妙応の五香湯あり、近国の人民、これを信服するに、諸病をいやす、いつの頃何者の言い出しけるぞや、案内の乞いよう、小声なれば、弟子の私に合わせたる、薬を与える故に、その妙すくなし、大音に案内を乞えば、住持の耳に通じる故に、弟子の私ならざると言うによりて、かしこへ五香望みて行う者は、おこがましく大音声にて、案内を乞いいる事おかしけり、しかればいつかたより来る者にも、湯漬飯に奈良漬けの香の物を、添えて出しもてなすなり、7月13日に、祭礼あり、寺中十二坊から?踊り子を出して、風流の踊りあり、見物の貴賤群衆なり、稲荷大明神これも同じく王子の寺内なり、若一王子の社からは一町ばかりかたわらにあり、当社は関東所々に崇める、稲荷の棟梁なり、毎年12月晦日の夜は、関八州の狐ども、この所に集り、狐火をともす、ここの地下人らは、狐火のともりようにて、田畑の善悪を知るとない、2月の初午の日は、諸人参詣して、祈り申すとかや

きつね火に 王子田畑のよしあしを 知らんとここへこんりんぢかな

(解説)貞享4年(1687年)6月の開版である。
6巻8冊で第5巻と第6巻が上・下の2冊よりなっている。
序文によれば、久しく江戸に住んでいた撰者の許に故郷から迎えが来た。
その人物はついでに江戸の町や寺社の案内を撰者に頼んだ。

そこで、撰者は故郷に帰った時の土産話の種にでもと思い立ち、本書を変述したという設定にされている。

撰者は明らかでないが、第5巻の下第15「三十三間堂付き矢数の事」の項に、撰者の親が吉田印斎流の流れをくんで弓を嗜んだが、撰者はその器量に乏しいので射芸を好まず、若年より数術を好んだ。
しかし、これにも見切りをつけ、はなはだ役に立たない仕事をしているとプロフィールを述べている。

北区については、第2巻の第18で、王子金輪寺が立項されている。
王子権現・王子稲荷の縁起や霊験・年中行事、両社の別当である金輪寺の再興経過、および、この寺院の名物ともいえる五香湯という妙薬、奈良漬けを添えた湯漬け、芸能の田楽踊りが演じられる7月の祭礼、これらが説明されている。

本書は、本文も挿絵も「江戸名所記」や「江戸雀」に倣った記事が多いと言われており、王子金輪寺の項についても同様であると評価しなければならない。
北区史資料編近世2 (底)国立国会図書館所蔵。(刊)「古板地誌叢書」10〜11(芸林社)。

四 江戸鹿子 貞享4年(1687年)11月刊 藤田理兵衛撰

(北区関連の記事のみ抜粋) 5 塚(巻の一所収)

梶原塚 豊嶋郡王子村

(写真は福性寺の弘法大師像)

6 町中年中行事(7月)(巻のニ所収)

13日 王子祭り
寺中十二坊から踊りを出す

7 六阿弥陀(巻のニ所収)

六阿弥陀
一番 豊島郡本木 三縁山長福寺(現西福寺 北区豊島2-14-1)
二番 沼田村 甘露山延命寺(現宮城山恵明寺 足立区江北2−4−3)
三番 西ヶ原仏宝山長福寺(現仏宝山無量寺 北区豊島2-14-1)
四番 田畑村宝玉山与楽寺(現宝珠山与楽寺 北区田端1−25−1)
五番 下谷延命山長福寺(現福増山常楽院 調布市西つつじヶ丘4−9−1)
六番 亀戸浄光寺(西帰山常光寺 江東区亀戸4−48−3)

8 名稲荷(巻のニ所収)

稲荷豊島郡王子村

9 神社(巻の三所収)

若一王子宮 豊島郡王子村
これ熊野権現の別宮なり、元亀元年(1570年)に熊野をここに勧請したまう
寛永11年(1634年)将軍家家光公御再興ありて、羅浮氏道春この縁起を記してこれを納る
社領二百石 別当金輪寺

王子村稲荷大明神
そもそもこの稲荷大明神と申すは、関東八州の稲荷大明神の棟梁にして、毎年12月晦日の夜は、関八州の狐この社の前に集り、狐火をともし、所の人はこの火のともりようのよろしきをもって、田畑のよろしきを考え知るよしなり 別当金輪寺

10 諸職名匠諸商人(薬品)(巻の六所収)

五香湯
  豊島郡王子 金輪寺

(解説)撰者は藤田理兵衛。6巻6冊。
貞享4年(1687年)11月に江戸京橋南新両替商の書林小林太郎兵衛によって刊行された。
タイトルの「江戸鹿子」は、序文によれば、武蔵野は高台なので、これを本当に細かに表現することは難しい。

そこで、鹿の子の斑の模様のようだが、所々の概要をもって説明に代えるという意味でつけたとある。
また、貞享・元禄期に活躍した若女形伊藤小太夫が、鹿子模様の衣装をつけて芝居に臨んだので小太夫染という言葉が生まれるほどに市中で流行した。
このことから江戸鹿子という書名がつけられたとみる考えもある。

第1巻は、坂・堀・池・瀧・井・水・木・山・石・谷・川・原・岡・台・森・橋・時鐘・渡・淵・野・沖・磯・嶋・堤・馬場・的場・塚、第2巻は、江戸城での年中行事・町年中行事・山王神事作物次第、諸大名茶湯名物記、神仏の名所、第3巻は神社、第4巻は仏閣、第5巻は江戸の東・西・南・北・外通の名称と通りにある町の名称、町々の諸職売物の大概および町の異名の説明、第6巻は諸師諸芸・諸職名匠諸商人・問屋大概からなっている。

ここでは、塚・六阿弥陀・名稲荷の項の前文と、町年中行事・神社・諸職名匠諸商人のうち北区に関係する部分を抜き出して収めた。
北区については、梶原塚・王子祭・六阿弥陀、王子権現の別称である若一王子宮が取り上げられ、王子稲荷については名稲荷の項と神社の項の二か所に掲載されている。
また、王子権現と王子稲荷の別当である金輪寺の妙薬五香湯が諸職名匠諸商人の部で取り上げられているのがおもしろい。
(底)国立国会図書館所蔵(刊)「古板地誌叢書」八(すみや書房)

五 江戸砂子 享保17年(1732年)5月刊 菊岡沾凉撰
(北区関連の記事のみ抜粋)

11 駒込・染井・西ヶ原・田畑・平塚・王子(巻の三所収)

・六阿弥陀 三番目 仏宝山西光院無量寺 真言 西ヶ原 母衣さくら 阿弥陀堂の前にあり、大木の糸さくら也

・末木観音  補陀山昌林寺 禅宗 西ヶ原
開山行基菩薩六阿弥陀彫刻の砌(みぎり=節)、末木をもって刻み給う本尊なり
往古は補陀洛寿院と号、応永年中昌林寺とす、同18年鎌倉持氏の母堂深く信じ、七間四面の堂を建てらる、文明年中大田道灌二十四町の田を寄付あり、大永5年(1525年)火災によって堂院灰燼となる。

・昌林寺の関 昔当寺領地の跡なり、今以尓云

・五石松 光明山円勝寺 増上末 中里
慶長の頃の御腰掛け松と言い、里諺に曰く、この松に五石の知行あり、いつの頃なるか松に領知ある事しかるべからずとあげられしに、この木俄かに枯れたり、さるによりてはしめのごとく領を下されければ、松もまた緑をなすと言えり、又寺僧の言う、この御朱印の五石は、全く松の知行にはあらずとなり、寺の御朱印なりと

・田端八幡宮 別当白竜山東覚寺 田畑
文治5年(1189年)源頼朝公勧請と言い伝えたり

・六阿弥陀四番目 宝珠山地蔵院与楽寺 真言 同所

・平塚大明神 別当平塚山安楽院城官寺 真言 平塚
当社は八幡太郎義家奥州征伐の時、御鎧を納め給う所の旧跡にして、八幡太郎・賀茂次郎・新羅三郎の三連枝(貴人の兄弟を指した敬称)を祭る所の三社なり、平塚村の鎮守、社領五十石

・本地仏 十一面観音、八幡太郎の御持仏と言う、作知れず

・鎧塚 八幡太郎の鎧を納め給う所なり、本社の後なり
日本武尊秩父の峯に武具を納め給う先例を引かせ給うとなり

・当寺初めは安楽寺と言いしなり、寛永の頃、山川城官と言う検校は当所の産なり、誉れある人にて年久しく仕え奉り、君辺に近し、一とせ御不例(貴人の病気)ありし時、城官の氏社なれば、御全快の御願の書をこめたり、早速御機嫌常にならせ給う、その後この事きこしめさせられ神領御寄付ましまし、城官にも所領を下し賜う、時に城官社頭修造う、また名誉の人の本土なればとて、城官寺とあらたまりしと言ったえたり、山川氏の末葉今にありしそ

・平塚城 豊嶋左衛門の城跡と言う、その所は不詳

・犬追い物の地
城官寺の辺なりと言う、御奉行は朽木民部太輔殿のよし、その時御寄進の石灯篭とて明神にあり、正保4丁亥年(1647年)11月13日、松平薩摩守光久公の犬追い物(鎌倉時代から始まったとされる日本の弓術の作法)の一つを、上覧に備えられし所あり、その馬場東西四十二間・南北四十間なり、四尺五寸の竹にて埒(馬場の周囲の柵)をゆい、傍らに大縄・小縄・犬塚など言って様々作法ある事なり、御茶屋跡の南と記せり、この時の事なるか

・御殿山 寛永の頃、御茶屋のありし時時よりの名と言う

・朝香山(飛鳥山)
王子権現のこなたなる芝山なり、この山上より眺めれば、荒川の流れ白布を引き、足立郡の広地目を限りにして佳景の地なり、近年御用の桜樹千株植えられて、盛りの頃は風景ますます優れたり、片山陰に茂たる一森なり、第六天と言えり、社もなく、ただ茂りたる小さき森なり

・一里塚
朝香山の手前にあり、追分より一里、日本橋から二里なり、日光 御成道なり

・岩屋弁天 金剛寺 真言新義 滝野川
巌窟は前に王子の川を受けて、風景江の島の面影あり、傍らに滝あり、高さ二丈ばかりにして、清冷として潔し、これに不動の尊形あり

・王子神社 王子村 寺領二百石 別当禅夷山金輪寺
熊野三所勧請、「神名帳」紀伊国牟婁郡(むろぐん)熊野早玉の神の社
若一王子は天照大神なり、第一の御子なるゆえに言うとあり、これ新宮なり、文亀元年(1501年)当社建立、寛永11甲戌(1634年) 厳命により御造営あり、この時儒宗羅浮子、当社の記を書きて社頭に納む

毎年7月13日祭礼ある、于?時寺中十二坊より踊り出すなり、これ熊野祭礼に歌いまいて祭るという遺風(風習)なるべし
「神代巻」(略、踊りや演奏の様子について書かれています。)

・万病妙応の五香、当院より出る、万民信服するに寄特あり、いつの頃何者言い出せるか、この五香を乞うに、小音なれば弟子の私に合わせたる薬を与うる、大音に案内すれば住職の耳に通じるゆえ、私ならずと流布して、今もって大声にて乞うなり、おこがましくとぞ、薬を乞う者へ湯漬け飯に奈良漬けの香物をもってもてなすなり

五香よぶ木碗の上をほととぎす 菊岡沾凉

当山は江都にて雪の名所なり、又桜珞寺とも言う

・石神井川 王子村に堰あり、大場の用水なり
・梶原塚 王子村にありと古書にあり、尋ぬれども不知(しれず)

★この記述に関して保垣先生が「北区こぼれ話第12回 梶原塚が見つからない?!」というおもしろい記事を書いてくださいました。(2018年=平成30年11月発行)
ちょうど11月10日に梶原塚ゆかりの福性寺さんで先生が講演され、その関係で取り上げられたのかと思います。
私も先日お邪魔してお世話になった御住職の感想も書かれています。

「歴史講演会では、堀船の町の成り立ちをお聞きしました。
特に子供の時に聞きました旧、字(あざ)名(郷戸、寺前、堂の前など)を久しぶりにお聞きすることができて、楽しかったです。」

(北区こぼれ話第112回 「梶原塚」が見つからない?!)

―(前略)―
江戸時代の俳人菊岡沾凉が享保17年(1732年)に記した江戸砂子温故(昔のことを調べる事)名跡志」(以下「江戸砂子」には「梶原塚」について、「尋ぬれども不知(しれず)」、
すなわち、行ってみたけれども見つからなかったと記されています。

「梶原塚」とは、鎌倉時代の御家人梶原景時を葬った塚(これを小田原北條家家臣の梶原氏とするなど諸説あります)との伝承を持ち、梶原堀之内村という村名の由来ともなった塚です。
「江戸砂子」は、名所旧跡を実際に訪ね歩いて刊行したものとされ、地図やその近傍の目印になるようなところまで紹介している、まさに観光ガイドブックです。
その作者が「梶原塚」を見つけられなかったというのです。

実は、その理由も同書からわかります。
「江戸砂子」には「王子村にありと古書にあり」と記されており、菊岡は王子村を探し回っていたと思われるのです。
北区の歴史に詳しい方はご存知かと思いますが、「梶原塚」は王子村の隣り、梶原堀之内村にありました。
そう、彼は探す場所を間違えていたのです。
では、この「古書」とは何を指すのか疑問が残りますが、たぶん貞享4年(1687年)に刊行された案内記「江戸鹿子」のことではないかと推察します。
この「江戸鹿子」では「梶原塚」について「豊島郡王子村」と記されており、「江戸砂子」の「王子村にあり」という記述とも一致します。
すなわち、菊岡は45年前に書かれた案内記(=「古書」)の記述を頼りに、王子村を探し回ったのでした。

さて、その後、菊岡は「江戸砂子」の補遺・校訂版として享保20年(1735年)に「続江戸砂子温故名跡志」を刊行しました。
彼は、ここでようやく「梶原塚」を探し出すことができました。

そこには「前編の頃、王子村を訪ねても知っている人がおらず、ついにその場所に辿りつくことができなかった。
その後、再び王子村近辺に行って地元の人に尋ね、やっとその場所を見つけることができた。(現代語訳―筆者(保垣先生))と記しています。
同書によれば、その頃の「梶原塚」にはもう土盛りしたような塚はなく、荒川沿いの田んぼの中の平地に日本の松が生えていたといいます。(地域資料専門員 保垣孝幸)

・衣装榎・装束畑 共に権現の前田中にあり
十二月晦日の夜、八州の狐、この地にて衣裳を改めると言う、俗説

・王子稲荷社 金輪寺のニ・三町わき 金輪寺持
当社は関八州稲荷の統領ないと言い伝う、毎年12月晦日の夜八ヶ国の狐、この所に集まり狐火をともす、この火に従いて田畑の良しあしを所の民占うことありと言う

狐火に王子田畑の良しあしを知らんとここにこんりんしかな

年毎に刻限同じからず、一字ほどのうえいなり、宵にあり暁にありなしとして、遠方より出がけに行者、むなしくして帰る者多し、一夜とどまる心なれば慥に拝すと言えり

(解説)
江戸の名所旧跡を「江戸雀」や「江戸鹿子」にならって記したもの。6巻6冊。
外題は「江戸砂子」であるが、内題は「江戸砂子温故名跡志」、版心には「江戸名跡志」と記されている。

撰者の菊岡占凉(1680年〜1747年)は、延宝8年(1680年)7月に伊賀国上野の飯束政安の次男として生まれ、後に同国福居町の両替商菊岡行商の養子となり菊岡姓を名乗った人物で、名は房行、通称を藤右衛門という。
元禄期に江戸へ出て神田鍛冶町1丁目に住み、金属彫刻と表具を家業としたが、俳諧を好み、内藤露沾(ろせん)門下で占凉と号して、ついには家業を廃し、俳諧の点者(評点し、その優劣を判定する者)となった。

また博識をもって知られ、本書をはじめとして「続江戸砂子温故名跡志」「諸国里人談」「日本道中行程記」など、風俗及び地理に関する著作も多い。
延享4年(1747年)10月、享年68歳で没した。

本書では、湯島・谷中・駒込・小石川といった地域を単位に、その各々に小見出しを付けて、寺社・名所旧跡・坂・橋・井戸・堀・川など、その近傍の目印となるようなところを紹介しているが、武家地は武鑑、町地は町鑑に譲り、工商の部・名物に関する記述は省略している。

また巻が改まるごとに、その巻の地図を付け、本文中にも境内図や近傍図を入れている。
占凉は、本書の編集にあたって前後8年間も江戸中を歩き回って取材をしたといわれるが、誤謬(ごびゅう=あやまり)や記載不十分な箇所も少なくなく、そのため3年後の享保20年(1735年)には、自ら「続江戸砂子温故名跡志」を著してこれを補っている。

掲載箇所は、北区に関する部分が掲載されている「駒込・染井・西ヶ原・田端・平塚・王子」の項である。
記述は、寺社に関するものが中心となっているが、五石松・犬追物の地・御殿山・一里塚といった近世初期よりのいわれを有する事項も記載され、より内容が豊かなものになっている。
(底)東京都中央図書館所蔵。(刊)小池章太郎校訂「江戸砂子」(東京堂出版)。

六 板新江戸名勝志 享保18年(1733年)刊 内藤之廉撰
(北区関連の記事のみ抜粋)

12 江府地名綱目註解 (巻之上所収)

・田畑(田端)村 駒込の北にあり
・染飯(染井) 巣鴨の北にあり、花木を作って売る者多し、植木屋伊兵衛と言う者尤大(ゆうだい=最も優れている)家なり、つつじ・さつき甚だ多し
・西が原(西ヶ原) 染飯の隣郷なり、ここにも植木屋少々あり

・鎧塚 平塚明神の社辺にあり、往昔(おうせき=過ぎ去った昔)源義家鎧を納められし所なり
・御殿山 平塚明神の近所なり、寛永の頃御茶屋有し所なりといえり、正保4年(1647年)島津家の犬追物を上覧し所はその南にありとなり

・浅香山(飛鳥山) 王子権現の手前なる芝山なり、遠望の景尤も勝れたる所なり、近年公儀から桜数千株植えさせられて、春花の景殊に美なり、山陰に第六天という森あり、社はなし

13 江府事始年表(正保年間) (巻之中所収)

・甲申(きのえさる)正保元年(1644年) 
・乙酉(きのととり)2年(1645年)天海僧正に仰せ付けられ、一切経を板行あり
・丙戌(ひのえいぬ)3年(1646年)源家光公の三男綱吉公御誕生
・丁亥(ひのとい)4年(1647年)王子村にて島津光久公犬追物興行

14 神社略記(駒込) (巻之中所収)

・富士神社
別当本郷4丁目冨光山瑞泉院真光寺兼帯
当社昔は本郷にあり、寛永年中に当所に移さる、旧地は今加賀の屋敷の内にあり、山の形富士に似たり、その地にも社を建て置きたり、前なる亭を富士書院と称すとぞ 祭日六月朔日

・神明宮 駒込本村にあり 別当松光山大泉院
文治5年(1189年)源頼朝草剣なりと伝う、その後中絶して神木の松の下に小祠のみありしを、慶安年中堀丹後守利直再興ありしとなり

・田端八幡宮 別当白龍山東覚寺
この社も駒込神明宮と同時に源頼朝勧請と言い伝う

・平塚大明神 別当平塚山安楽院城官寺
八幡太郎義家・加茂次郎義綱・新羅三郎義光の霊を祭りて三社とす 社領五十石

・鎧塚 
本社の後にあり、義家の鎧を納められし所なり、当寺初めは安楽寺と言い、寛永の頃幕下御不例の事ありしに、山川城官と言う検校、数年君辺に近侍せしか、当所の産なればすなわち御快然の事を当社に祈る、程なく御平癒の後、これを聞きしめされ、神領御寄付ありて、城官にも所領を下し賜うゆえ、城官当社を補修し、これによって城官寺と改称すと言い伝う

・王子社 別当禅夷山東光院金輪寺 寺領二百石
文亀元年(1501年)建立 熊野三所の神を勧請す
寛永11甲戌(きのえいぬ)年(1634年) 公儀より御造営あり、林道春その記を作る、祭礼毎年7月13日、寺中十二坊より踊りを出す

・稲荷社 王子社より二・三町傍にあり、金輪寺の持なり

15 寺院略記(駒込) (巻之下所収)

・補陀山昌林寺 西ヶ原
末木観音あり、当寺往昔は補陀洛寿院と号す、応永年中に昌林と言う僧中興せしより今の名にあらたむ、鎌倉足利利持氏の母堂、応永18年 (1411年)に七間四間の堂を建立あり、文明年中大田道灌二十四町の田を寄付す、大永5年(1525年)火災によって焼亡すとぞ、
北区史資料編近世3 昌林寺の関と言う所あり、昔当寺領分の地なりと言う

(写真は田端東覚寺)

真言宗
・白龍山東覚寺 田端八幡別当 金剛院 滝野川岩屋弁財天
・宝珠山地蔵院与楽寺 田畑村 六阿弥陀第四番
・平塚山安楽院城官寺 平塚明神別当 初めは安楽寺という
・仏宝山西光院無量寺 西ヶ原 六阿弥陀第三番
母衣桜 大木の糸桜なり、阿弥陀堂の前にあり
・禅夷山東光院金輪寺 王子社別当 寺領二百石
当寺中に十二坊あり、五香湯当寺より出る、ある説にこの寺を瓔珞寺と略す

武州六阿弥陀仏井道法附
・一番 三縁山長(西)福寺 禅宗 豊嶋村 二番まで九町(一町は訳1.2キロ)
・二番 甘露山応味寺 真言 下沼田 三番まで十五町
(現在は宮城山円明院恵明寺 真言 足立区江北)
・三番 仏宝山長福寺(無量寺) 真言 西ヶ原 四番まで十町
・四番 宝珠山与楽寺 真言 田端 五番まで二十五町
・五番 延命山長福寺 天台 上野麓六番まで一里半
・六番 西帰山常光寺 禅宗 亀戸

(解説)
江戸の名所を尋ね歩く人の便利のために、内藤之廉(1691年〜1740年)が、享保18年(1733年)に書肆稲村儀右衛門の求めに応じて著わしたもの。
本書は、延享3年(1746年、小林重兵衛版)と明和元年(1764年、須原屋茂兵衛版)に後刷本が版行されており、享保18年の初刷本の外題は「江戸名勝志図解」、後刷本では「新板江戸名勝志」になっている。
ない題は「江戸府名勝志」である。

撰者の内藤之廉は、元禄4年(1691年)に八十石取りの旗本内藤重玄(しげはる)の子として生まれ、茂玄の死にともなって元禄6年(1693年)に3歳で家督を継いだ人物で、南陽子と号し、元文5年(1740年)2月、大阪城詰を勤めている時に49歳で死去した。

ここでは明和本を底本とした。
内容は、上巻において、まず武蔵国と江戸の概要を印、以下「江府地名綱目注解」として江戸の名所を紹介し、要所要所に江戸の部分図を配している。
中巻は「江府名勝志付録」と題して、これまで出版された江戸の地誌の誤りを正し、これに天正18年(1590年)8月1日に徳川家康が江戸に入ってから實保3年(1743年)までの「江府事始年表」、江戸の年中行事・暦・潮汐・御蔵米割付・神社略記などを付けている。

下巻は江戸の寺社誌であるが、これは本書編集の途中で内藤之廉(ゆきかど)が大阪城詰となったため、稲村儀右衛門(提要軒)が編集にあたったとされている。

掲載箇所は、「江府地名綱目注解」の内の「駒込」の項と「江府事始年表」の王子村犬追物の記述、及び「神社略記」と「寺院略記」のうち「駒込」の項である。
また「寺院略記」の末尾には、「武州六阿弥陀仏并道法附」が記されている。
(底)国立公文書館内閣文庫所蔵。(刊)横関英一校注「江戸名勝志」(有峰書房)。

七 続江戸砂子温故名跡志 享保20年(1735年)正月刊 菊岡沾凉撰
(北区関連の記事のみ抜粋)

16 江府年中行事(巻の一所収)

「七月」 ・13日 王子祭 毎年あり 若一王子権現 別当金輪寺
氏子共、竹にていろいろの槍を作り、拝殿の回りへこれを差し置き、扨具足着たる法師一人わり竹を持ち、先を警固す、金輪寺、かんざしに作花をさし、装束したる稚児2人左右に供し、その他烏帽子・素襖(室町時代にできた単 仕立ての直 垂=ひたたれ)の者を率い、社檀にて拝礼し、縁上に座す、時に白丁(主に平安時代の下級官人によって着用された衣裳の1つ)を着て、立傘を持ちたる者、金輪寺より社頭まで七度半走りて往来す、)序破急を走るなり、これは神軍の時、七度半の使いありし学びなりと里人の言い伝えり)、その後物具したる法師2人、長刀をたづさえ、刀を七腰左右に帯す、その後より踊り手8人、一様の装束・被り物にて面をかけ、頭に作り花をさせり、大鼓・小鼓・びんささら(竹や細い木などを束ねて作製される道具の一つ)・太鼓〇を持ち、拝殿にて踊る、囃し物は笛・太鼓にみにして、いたって古風なる踊りなり、踊り終わって、最前の警固法師被り物取りて投げすつる時、皆一統に被り物を捨てる、見物の諸人これを拾い取れり、踊り手は金輪寺へ逃げ退く、別当も拝礼して共に入る、これを若一王子の典薬踊りと言う(踊りの番付略)

(写真は王子神社の田楽風景)

「十二月」
晦日 王子稲荷の狐火

17 江府名産并近在近国(瓜)(巻の一所収)

・田端(畑)瓜 越瓜(白瓜) 田端村、江府より二里ばかり丑寅にたる、大きさ尺あまり、肉厚く中子少なし、色青磁なり、糟も蔵して上品なり

18 神社類衆(同じ種類の事柄を集めること)(巻の三所収)

・同社類衆 増補の印なきは来由前集にあり
(補)王子稲荷 関八州稲荷の司なりと言い伝えり、前集に委だねる、王子村にあり

・七社(ななのやしろ) 西ヶ原 正蔵院
七社は京船岡山の東南の方にあり、文徳天皇貞観元年(859年)11月27日、染殿の后の所願(神仏にかける願い)によって春日明神を勧請する所なり、内野・北野・萩野・蓮臺野・紫野・上野・平野等七野の惣社(特定地域内の神社の祭神を集めて祀った= 合祀神社のこと)とす 拾遺 我頼む 七のやしろのゆうたすき かけても六の道にかえすな 慈鎮和尚

19 名所古蹟拾遺(巻の三所収)

(三)浅草・下谷・谷中・本郷・駒込・染井・王子・小石川
(補)梶原塚
古書に王子村にありと記せり、前編の此、王子村に至って尋ねるに、知れる人なく終其所を求めず、その後再び彼の近村に至り里人に古きを温ぬ、ようようにして其所を得たり、王子村より十町あまりこなた、平塚明神より本木六阿弥陀へ行く道、梶原堀内と号す、さいつころの洪水に荒川崩れ入りけるよし、今田の中少の原地に松2本あり、これを梶原塚と言う
・梶原屋 敷平塚明神の後、飛鳥山の麓にあり
・竃壇塚 飛鳥山のこなたにあり、むかしここに長者ありし、その竃の址と言い伝えり、案に豊嶋左衛門の邸宅この辺なりと言い、もし此地か

・逆川 王子山の梺の流れなり、本名石神井川と言う、王子村に堰あり、これより西ヶ原・中里・田端・根岸・金杦・箕輪辺の用水に取るなり、沅湘(沅水=げんすいと湘水=こすいのこと。水の名)日夜東流れ去るなとあるに、この川西へ流るるゆえにしか言うか
(滝野川第三小学校に沿って逆川の名残が残っています。)

・不動滝 滝野川正受院の境内なり 増上寺末

・千川上水の址 玉川より練馬を経て巣鴨に渡り、駒込富士前より本郷・湯島に至り、上野山上・谷中・下谷・柳原・浅草辺へかかる、享保7・8年(1722年・1723年)の頃絶ゆ

20 霊仏類聚(巻の四所収)
(同じ種類の物を集めたもの)

〇九品仏順礼霊場
・上品上 医王山真性寺 真言宗 巣鴨
・上品中 白龍山東覚寺 同宗 田端
・上品下 宝珠山与治寺 同宗 同所六阿弥陀
・中品上 光照山感應寺 天台宗 谷中
・中品中 千年山栄松寺 浄土宗 駒込寺町
・中品下 霞関山大宗寺 同宗 四谷追分
・下品上 光松山放生寺 真言宗 穴八幡
・下品中 黄龍山泰雲寺 禅宗 落合
・下品下 龍光山知済寺 板橋

題田端六阿弥陀九品桜 うえながら奉りけり花桜 坪井千楓

21 名木類聚(巻の五所収)
一 名木類聚并拾遺
(来歴悉く前集にあり)

・相生松(上野吉祥閣の傍ら)
・亀子松(上野寒松院の前)
・頭巾松(御城内にあるよし)
・首尾の松(浅草御蔵の内)
・船松(浅草三社の前)
・霞の松(橋場放源寺)
・斑女か衣懸松(向か岡松平雲州館の内)
・道灌船繋松(日暮里の山岸)
(増)鏡の松 根岸宝鏡山円光寺にあい、根より三尺ほど過ぎて四方へ枝葉栄えて類なき松なり、この寺に名だたる藤あり
・五石松 駒込の先、中里円勝寺
・船繋松 小石川御薬園
(増)千年(ちとせ)の松 つくと八幡の前、その神白旗の下りし松なり
(補)大友の松 牛込天神町の東、組屋敷高野氏の地の内にあり、豊後の太守大友氏は朝鮮の役に武備怠り多きをもって、秀吉公より武州に退く、第宅(邸宅)は今済松寺の所なり、ここは別荘の地、庭前の松と言い伝えり、五・六周(めぐり)の林なりしか回録に失い、今は若木なり

―(以下略)―

・来迎の松(亀戸阿弥陀) ・龍燈の松(亀戸六阿弥陀)

三 桜樹の部
(来歴悉く前集にあり)

・吉野桜 上野にあり ・秋色桜 上野清水の後
・糸桜 上野慈眼堂 ・歌仙桜 深川八幡
・百枝(ももえ)桜 谷中妙林寺 (増)九品桜 田端六阿弥陀
・母衣(ほろ)桜 西ヶ原六阿弥陀 (増)千本桜 浅草寺

―(以下略)―

四 雑樹の部

・衣装榎 王子村 ・太平榎 亀戸梅屋敷
・亀戸の藤 天神のみたらし ・佃の藤 住吉の社
・山王の藤 上野 ・根岸の藤 円光寺

(写真は装束榎)

22 薬品衆方(寺院の売薬)(巻の五所収)

・五香湯 王子 金輪寺

23 四時遊観(巻の五所収)

・花 飛鳥山 王子と平塚の社との間
なだれたる少しの山あり、近年桜樹あまた植えさせられ、盛りの頃は小塩・嵐山の姿あり、梺は岩槻街道にして牛馬の通い路り、頂きはしばらくの平地にて芝生ゆうゆうしく、見下ろせば豊嶋・足立はるかに霞めり、荒川の流れ白布を帯びて真帆・片帆は松の隙間に見がくれ、風景斜めならず

林間煖酒 ちる花の雪て耕せよい桜 中島五百武

・蛍 王子の梺 石神井川

・雪 禅夷山金輪寺 真言 王子村
若一王子の社あり、江戸を離れる事二里の余り、よほど小高き山なり、古枯れの木の間より社頭の甍もれて、神の印は豊年の深く積もれる雪に知ると読み置かれぬ気色、梺は石神井川の流れ清く、こなたは岩槻道中にして、昔の道を迷わぬ駒の往き来絶えず、笠に積もれる雪も我が雪と思えば軽々蓑の雪もはらわで四方を望み皎然(白く光るさま)たるに、雪の一句を吐いて即帰る俳人あり、人間、答えて言う、興に乗りて来れり、興尽きて返るなりと、王子猷の姿を見するも、またたのし

(解説)
「江戸砂子」の撰者である菊岡沾凉が、前書で漏れたり、記述が十分でなかった社寺や旧跡、江戸の名産・名樹等について補った続編。5巻5冊
撰者の菊岡沾凉については、「江戸砂子」の項を参照された。

「江戸砂子」では、武家地・町地に関してはそれぞれ武鑑・町鑑に任せ、商工の部を「江戸鹿子」に譲り、あえて記述しない態度をとっていたのに対し、本書では新たにこれらを取り入れ、江戸府年中行事・江府名産(巻の一)、御屋敷並びに御高札場所・江府町名目(巻のニ)、神社拾遺・名所古跡拾遺(巻之三)、浄土宗十八檀林並びに諸宗役寺・寺院拾遺・霊仏類聚(巻之四)、名木類聚(るいじゅう=集めること)・薬品衆方・四時遊観(巻之五)という構成をとっている。

また「梶原塚」の部分の記述に見られるように、菊岡沾凉自身も前書で記述が不十分と判断したところについては、自ら足を運んで調査を進め、記述に生かすように配慮している。
こうした意味からすれば、菊岡沾凉の江戸地誌はこの続編をもってようやく完成したものと言える。

(写真は梶原福性寺)

ここでは、これらの中から北区地域に関する部分を抜粋的に収録した。
特徴的な事項を拾い上げると、「江府年中行事」の部分で王子田楽の記述が前書よりも詳細に記され、「江府名産」では「田端瓜」に関する記述が初めて登場する。
これはそれまでの名所記では見られなかった点であり、この地域における当時の農業生産のあり方を知る上では貴重なものである。

また「神社類聚」では「七社」についての記述も追加され、さあに「名所古跡拾遺(しゅうい=補うこと)」では、梶原堀之内、滝野川周辺に関する六項目が加えられて、前書を補っている。
「薬品衆方」の部分は、江戸の医家や薬屋で扱われる薬品113種を取り上げているが、ここでは王子村金輪寺の五香湯を含め、寺院で売られていた薬品を示した箇所を収めた。

最後の「四時遊観」の部分では桜を植樹して数年を経た飛鳥山のあり様や蛍・雪見の名所としての王子周辺の様子が描かれ、この地域が遊覧の地として位置づけられていく様相の一端がうかがわれる。
(底)東京大学総合図書館所蔵。(刊)小池章太郎校訂「江戸砂子」(東京堂出版)。

八 再販増補江戸総鹿子名所大全
寛延4年(1751年)正月刊 奥村玉華子(ぎょっかし)撰
(北区関連の記事のみ抜粋)
24 神社類聚(巻一之下所収)

・七の社 平塚明神の後に在り 別当正蔵院
いわゆる七のとは伊勢・八幡・賀茂・平野・松尾・稲荷・春日也
また内野・北野・平野・荻野・上野・蓮代野・紫野也ともいう

(写真は七社神社の鳥居)

・平塚大明神 平塚村鎮守 平塚山安楽院城官寺
当社は八幡太郎義家・加茂次郎義綱・新羅三郎義光の霊を祭る、社領五十石
本地仏十一面観音、八幡太郎御持尊の由、当寺初めは安楽寺と言いし也、寛永の頃山川城官という検校。君近に近侍せしが、その頃、幕下御不例の事ありしに、則当所の産なれば、ここ宮居に御快然の事を祈しところに、程なく御快ならせらえ、この由を聞き召され、神領御寄付あり、社頭は城官復せしむ、依之別別当もを安楽寺と言いしを城官寺とあらたむ

・王子神社 王子村 領二百石 別当禅夷山東光院金輪寺
祭所神熊野三所勧請、文亀元年(1501年)建立、寛永11年(1634年)甲戌(きのえいぬ)厳命により、新たに社頭御造営、この時羅浮子当社の記を書きて社頭に納む、毎年7月13日祭礼、寺中十二坊より踊りを出す也
当社より万病妙応の五香湯出る
別当金輪寺は真言古儀関東五ヶ寺の随一なり、いわゆる五ヶ寺は、伊豆の般若院・箱根の金剛王院・鎌倉の荘厳院・大山の八大坊・王子の金輪寺也

25 神社類聚付録(巻之一下所収)

・王子稲荷 金輪寺のニ・三町わき
東武稲荷の神祠、若干(そこばく)の中に、当社は第一の大社にして、霊験殊にいちじるし、世人のしるところなり、詳らかに註すに及ばず

26 江府霊仏類聚(阿弥陀)(巻之四下所収)

・九品仏 珂碩(かせき)上人作 奥沢浄真寺 本尊
・上品上生の弥陀 巣鴨真性寺 真言
・上品中生 田端等覚寺 真言
・上品下生 田端与楽寺 真言
・中品上生 谷中感応寺 天台
・中品中生 駒沢栄松寺 浄土
・中品下生 四谷大宗寺 浄土
・下品上生 穴八幡放生寺 真言
・下品中生 落合泰雲寺 禅
・下品下生 板橋知清寺

六阿弥陀 各行基の作
・第一 三縁山長福寺(現西福寺)禅宗 本木 二番へ九町(1キロが九町くらい)
・第二 甘露山応味寺 真言 下沼田 三番へ十五町
・第三 仏宝山長福寺 真言 西ヶ原 四番へ十町
・第四 宝珠山与楽寺 真言 田端 五番へ二十五町
・第五 宝玉山長福寿寺 天台 下谷 六番へ一里半
・第六 西帰山常光寺 禅 亀戸

27 江府霊仏類聚(巻之四下所収)

(地蔵菩薩霊場)
・とうがらし地蔵 下谷 六阿弥陀
・首切地蔵 小石川 牛天神
・小梅地蔵 小梅 梅林庵
・田端地蔵 田端 与楽寺
・小児(ちご)地蔵 本所 回向院
・業平地蔵 中の郷 南蔵院
・花川戸六地蔵 浅草寺雷門の東、大川へ出る辻にあり

28 江府霊仏類聚(観音)(巻之四下所収)
(観音霊場)
・金龍山浅草寺
・長谷の観音 駒込 光源寺
・清水観音 上野 清水
・清水観音 根津神社内
・馬頭観音 浅草 駒形堂
・瑪瑙観音 大塚 護国寺
・厄伏観音 小石川 善雄寺
・末木観音 西ヶ原 昌林寺
・一言観音 本所 回向院
・櫻観音 駒込 光運山正念寺

29 江府霊仏類聚(不動)(巻之四下所収)

・大山不動作不動 駒込 願行寺
・滝不動 日暮里道灌山より三町余北の方、田端六阿弥陀の東二町ばかりに小さき丘あり、御用屋敷という、ここに少の滝あり、下に石仏の明王あい、諸の病難を祈るに必ず応験あり

・満足不動 両国橋米沢町 明王院 やげん堀不動ともいう

30 江府霊仏類聚(弁財天)(巻之四下所収)

・四十二 高田穴八幡社内
・四十六 小日向 護国寺
・四十九 小石川 伝通院
・五十一 駒込 円林寺
・五十二 飛鳥山 金剛院
・五十三 王子稲荷社内
・八十六 三囲稲荷社内
・九十一 本所 回向院
・百社 深川八幡社内

31 名所古跡類聚(巻之五上・下所収)

〇瀧

・不動瀧
王子滝野川正受院の境内に在り

〇名木類聚・松の部

・五石の松
中里円勝寺にありて尤も由緒ある名木なりしが、享保年中類焼せり、おしむべし

・桜の部

・ほろ(糸偏に晃)さくら
西ヶ原六阿弥陀堂前

・諸木類聚

・衣装榎
王子村にあり、俗に言う、この所に狐あつまりて、装束をこの木の下にて着し、稲荷の鳥居を飛びこゆるなと、里の童の古く言い伝うままにかくは名づけぬなり

〇山の部

・飛鳥山
王子と平塚の宮との間なり、この所の来由、石碑に記されたるがごとし、此うえに委しく註せず、近年桜を数多植させられ、貴賤恩沢に浴し、仁徳の花の雲はあつく国民の上に覆い、 樽(そん)の前に酔いを進むる、春風は枝を鳴らさず、鶯のさえずりも泰平の歌を奏す、あすかの山も万歳を呼ぶべきは今この時なり

・御殿山
王子平塚明神の社辺にあい、寛永の頃、御茶屋有し所の跡也、正保4年(1647年)犬追物を上覧ありし所はここの南にありと言い、同じ名所々にあり、所をもって別つべし

〇川の部

・隅田川
浅草川の上なり、中古武総(武蔵と上総)と、しもつふさ(下総)の中にあるといえる、物語の文を証として、人皆誤り、川下の橋の名も両国橋と名付けたり、 然るに元禄の頃郡の境を改め、河の源を正し給いて、武総の界は利根川なる事再び世に明なり、さればこの河の流れは、水上秩父郡大瀧の上の山、中津川という流れよりおこりて、にへ川・ あかひら川・うら山河などいう、河の末は一つに流れて、荒川という、 この末の流れにて、実に武州の真ん中を流る、又利根川は、水上武州より出て、武蔵の北方より東方を流、江都の東に至り、葛西金町、小岩の東を海へ落ちる、 これ武蔵・下総の界なり、この利根の川筋に御関多し

・逆川
王子山の梺の流れなり、本名石神井川と言い、これより西ヶ原・中里・田端・根岸・金杦・三ノ輪辺の用水となる

〇原野の部

・西ヶ原
染井の隣村なり、六阿弥陀三番目無量寺、その他寺院多し



(無量寺の境内は緑豊かな綺麗な場所です。)

32 名所旧跡雑集(巻之六上・下所収)

・犬追物旧跡
王子平塚の辺なりという、その所定かならず、正保4年(1647年)亥11月13日、松平薩摩守犬追物を 上覧に備え給いし旧跡なり、やぶさめ・笠懸・犬追物は、弓馬の三物と号して、故実さまざま有事とぞ、犬追物の故実、島津家に代々伝われりという

・西ヶ原
染井の続きなり、六阿弥陀三番、仏宝山西光院無量寺あり、その他昌林寺の関という旧跡あり、無量寺に母衣桜という名木あり

・梶原塚
旧梓(し)に王子辺にありと記せしといえども、その所都で慥かならず、近代の 類書には、そのところ知れずと書きたり、王子よりこなた、平塚明神のあたり、田の中にあい、所の名を梶原堀之内と号す

・梶原屋敷
平塚社の辺飛鳥山の梺にあり、又品川鮫洲にもあり、これも近世の梶原氏が住し所なるべし、景時の旧跡とも定がたし

・竈壇塚
飛鳥山の辺にあり、由緒定かならず

・田端村(田畑村)
駒込の北方なり、八幡宮あり、六阿弥陀四番目与楽寺あり

・滝野川
王子の川を前に受けて江の島の景に似たり、坎(いわ)屋(岩屋、坎は「あな」と読む)に弁天を勧請せり、別当金剛院とて真言宗なり

・飛鳥山
王子権現の手前なる芝山なり、近年桜数千株植えさせられ、景色昔に増(まさ)りて、貴賤群集す、委山の部に注す

・石神井川
王子の辺にあり、用水なりという

・装束畑
・王子にあり、伝え言う、12月晦日、関八州の狐、この地に集会して、鳥居を飛び越し、飛び得たる狐は、位階をすすむ由、児女の言う所なり