北区の日常(二)


赤羽一番街
昔ながらの雰囲気が漂う赤羽駅前の商店街で、昼夜問わず多くの人で賑わっています。

数々の人気商店が建ち並び、脇道に入るとOK横丁や一番街シルクロードなど店舗が密集し、 下町風の雰囲気を味わうことができます。

★東京都北区赤羽1-61,62〜1-14,16
赤羽馬鹿祭り
1956年(昭和31年)に地元商店主たちが4月のエイプリルフールにちなんで開催し、 始まりました。

赤羽駅周辺では、神輿のほかにも大規模なパレードや野外ライブ、フリーマーケットなど、 様々な催しが行われ、多くの人が参加する盛大なお祭りです。
★東京都北区赤羽1丁目、赤羽駅前他
赤羽駅東口広場のイルミネーション
赤羽駅東口広場では、毎年11月から2月末までバス停の上や街路樹に飾られた イルミネーションがさまざまな色に点灯し、広場を華やかに演出し、にぎわいのある 空間を創出いています。


★東京都北区赤羽1-1
カトリック赤羽教会
昭和26年(1951年)、戦争中の空襲で焼けた工場跡のこの地に教会が建設されました。

高いビルに囲まれた尖った屋根が特徴のゴシック調の教会です。
庭には四季折々の花や樹木が植えられ、風格のある教会は街に溶け込み、人々の心を 和ませてくれます。

★東京都北区赤羽2-1-12
赤羽公園
商業施設や工業施設、中高層のメンション等に囲まれた緑豊かな公園です。

キリンの滑り台や噴水が特徴的で、公園内の砂場や広場で多くの子どもたちが遊んでおり、 にぎわいのある場所となっています。

★東京都北区赤羽南1-14
北清掃工場と元気ぷらざ
北清掃工場の灰色の煙突は高くそびえたち、地域の目印になっています。

また、その余熱を利用した施設の元気プラザは、ウォータースライダーもある温水 プールで子どもたちにも人気の場所です。

★東京都北区志茂1-2
赤羽体育館
隅田川に面して建つ体育館で、白を基調とした建物に大きなガラス窓、側面緑化が 特徴的な建物です。

トレーニングルームからは隅田川沿いの景観を一望することができ、水と緑に 親しむ空間づくりが行われています。

・赤羽東地区〜歴史と特徴

水面を渡る川風に吹かれながら荒川河川敷に向かうと、目の前に自然溢れる広々とした 景色が広がり、「近代化産業遺産」である旧岩淵水門(赤水門)や岩淵水門(青水門)が 雄大な川の流れの中に自然に溶け込んでいます。
河川敷では、サッカー・野球・ゴルフ等のスポーツやサイクリングも楽しむことができます。

また、岩淵町には、日光御成道の最初の宿場町・岩淵宿から川口宿に向かうため渡船場 があり、奥州との交通の拠点として古くから多くの人に利用されていました。
江戸時代には、将軍の日光東照宮参詣のために専用道が整備されました。
この渡船場は明治以降にも利用されていましたが、自動車等の交通量が増えたことにより、 新たに新荒川大橋が架けられ、渡船場は撤去されました。

その他にも赤羽駅東口に建つ尖った屋根が特徴的なゴシック様式のカトリック赤羽教会は、 エキゾチックなムードが漂う風格があり、映画やドラマの撮影にも取り上げられています。

この地域は、赤羽一番街の「せんべろの町」のイメージが強いですが、自然豊かな場所で あるとともに、歴史やその時代の名残・雰囲気が多く残っており、魅力的な地域が形成されています。

★東京都北区志茂3-46-16
星美学園のマリア像
赤羽西地区

・地区の概要・特性

赤羽西地区は、江戸時代までは水に恵まれず原野や粗放的な畑などが土地利用の中心である 農村地帯でしたが、明治時代以降、赤羽駅の解説を経て軍用施設が多く立地しました。
終戦後、軍用地は解放され、大規模団地や病院、公園、スポーツ施設等に転用されました。

地域の大部分は台地ですが、北側や東側の低地が台地部分に入り込み、起伏のある地形を 形成し、変化の豊かな景観をもたらしています。

星美学園のマリア像や国立スポーツ科学センターなど「魅力的な建物や地域のシンボルとなる景観」 や清水坂公園・赤羽駅西口など「人々のふれあいやまちのにぎわいのある景観」が多く占めている ことが特徴的です。
その他、「自然を肌で感じる景観」といった特徴も見受けられます。

・星美学園のマリア像

両手を広げ赤羽の街を見守る姿からはとても優しい印象を受けます。
正門からも見ることができ、星美学園の前を通る多くの人を見守っています。
夜はライトアップされ、夜空に美しく輝いています。

★東京都北区赤羽台4-2-14
師団坂
旧陸軍の近衛団と第一師団に所属した2つの工兵大隊に向かう坂道で、「工兵坂」 とも呼ばれていました。

現在では、赤羽八幡神社脇から星美学園に続き、坂の上からの台地からは、赤羽の 住宅街等を望むことができます。

★東京都北区赤羽台4-2,3013〜4-1,3-11
赤羽八幡神社と周辺の風景
赤羽八幡神社は、昔より武士の信仰が篤く、「勝負の神」として広く信仰されています。

この神社は武蔵野台地の東北端にあり、境内からの眺めは良工で神社に続く 坂道を登り、後ろを振り返ると鳥居越しに電車を望むことができます。

★東京都北区赤羽台4-1-6
赤羽台団地と季節の風景
春には白や桃色の梅の花や八重桜、秋にはイチョウ並木の黄葉を 楽しむことができます。

現存するスターハウスは赤羽台団地の象徴とも言え、今昔両方の雰囲気を 楽しむことができます。

★東京都北区赤羽台1・2丁目辺り
赤羽駅西口
商業施設に囲まれた駅前広場は、歩道がカラフルに舗装され、多くの人たちが 行き交い、賑わいのある場となっています。

緑豊かな広場で、商業施設周辺には七福神のモニュメントも設置され、冬の時期は イルミネーションが広場を彩ります。

・北区全体の骨格的な景観である台地・崖線について
北区の地形は、北の桐ヶ丘、赤羽台から十条、飛鳥山を経て、南の田端まで 連なる標高20〜30mの武蔵野台地(本郷台)と、標高10m以下の沖積平野である 荒川低地に分けられます。

この変化に富んだ豊かな地形が、自然を活用した公園や庭園、樹林地などの 土地利用へとつながり、北区の個性を生み出し、特徴的な台地・崖線の景観を 形成しています。
また、豊かな景観の変化を楽しむことができる坂道もたくさん見ることができます。

・赤羽西地区〜歴史と特徴〜

赤羽西地区の東部には、鎌倉から奥州に向かう「奥大道(日光御成道、岩槻街道)」が通っており、 室町時代には大田道灌によって稲付城(現・静勝寺)が築かれ、この一帯が古くから重要な 場所だったことがわかります。
この附近には、法真寺、鳳生寺(ほうしょうじ)、普門院等の古い寺があり、自然の面影と 歴史が調和した景観をつくりだしています。
また、冬の好天時、富士山とスカイツリーとが同時に見ることができるスポットでもあります。

明治時代に入ると、赤羽の台地上には、陸軍の火薬庫ができ、工兵隊や被服本廠、 兵器補給廠等の施設が建てられるなど、この一帯では数多くの軍事施設がつくられるようになりました。
戦後、これらの軍事施設は次々に開放され、桐ヶ丘団地や赤羽台団地、聖美学園、国立 スポーツ科学センター、東京北医療センター、赤羽自然観察公園、赤羽スポーツの森公園 など広大な土地を活用した施設が建設され、現在区内外の人たちが利用する場所に生まれ変わって います。

また、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災発生後、人々は郊外に家を求めて住むようになり、 この地域の人口は急激に増加しました。
政府は、心材後の住宅不足改善のため、赤羽西や十条仲原などに賃貸住宅が建設されるとともに、 地元住民による宅地開発の動きにより、桜並木で有名な西が丘や赤羽西の台地上に宅地が造られ、 現在に続く閑静な住宅街が形成されています。

1995年(平成7年)には、赤羽駅西口地区の再開発が完成し、大型の商業施設が建設され、 現在でも多くの人が行き交うにぎわいのある場所となっています。

このように、赤羽西地区は時代の変遷とともに発展し続けており、その時代ごとで特徴的な景観を 作り出してきています。

★東京都北区赤羽西1-6 辺り
静勝寺(赤羽西)
東京として行旧跡である稲付城跡に寺を建てたのが静勝寺の始まりです。

稲付城跡は静勝寺境内一帯にあtり、戦国時代の城跡です。
静勝寺の長い階段を登ると、その先には自然があふれる境内が広がっています。

★東京都北区赤羽西1-21-17
亀ヶ池弁財天(赤羽西)
かつてこの一帯には大きな池があり、「亀ヶ池」と呼ばれ、稲付城の天然防御 として機能してました。

この池はその名残といわれており、現在でも無数の亀が暮らしています。
赤い構造物が印象的で地域の人たちに親しまれている場所です。

★東京都北区赤羽西1-29
大恩寺(赤羽西)
文京区向丘に創建されましたが、関東大震災による被害のため、大正14年(1925年) 5月に現在の場所に移りました。

道路に面した入口に立っている二体の重厚な仁王像が印象的なお寺です。
ほかにも数多くの仏像がきれいにまつられています。

★東京都北区赤羽西6-15-19
赤羽スポーツの森公園競技場(赤羽西)
サッカーを中心に、フットサル、ゲートボール、グランドゴルフなどに利用できる 人工芝のグランドを有する競技場。

約300人が座ることができ、大会中は多くの人で賑わっています。

★東京都北区赤羽西5-2
味の素フィールド西が丘(西が丘)
夜間用の大きな照明塔がコートの四隅にそびえたち、青々とした美しい天然芝が 印象的な競技場です。

サッカーコートは多くの観客を収容することができ、試合の際は熱い声援が聞こえてきます。

★東京都北区西が丘3-15
国立スポーツ科学センター(西が丘)
外観のフレームを構成する鉄骨トラスは、スポーツの力強さを感じることができるデザインと なっており、象徴的な建築物です。

施設内には、スポーツ医・科学の研究施設やトレーニング施設があり、多くの選手に 利用されています。

★東京都北区西が丘3-15
西が丘住宅街の桜並木(西が丘)
区を代表する閑静な住宅街の道路に約80本の桜が植えられており、春になると 色鮮やかな桜色の花が咲き誇り、多くの人が散歩に訪れ、地域の人に親しまれた場所となっています。

★東京都北区西が丘1丁目あたり
東十条商店街(東十条)
王子東地区

王子東地区は、稲作を中心とする古くからの農村でしたが、明治時代以降、王子駅の 開設や工場の進出が進み、日本の製紙業発祥の地となりました。
高度経済成長後は市街化が進展し、隅田川沿いなどに工場が立地しました。
高度経済成長期後は工場跡に住宅団地が立地しました。
地下鉄や首都高速道路の開通により利便性が高まり、王子駅周辺は業務・商業を 中心としたにぎわいの拠点になっており、様々な要素が混在する複合市街地が形成 されています。
王子駅周辺の文化施設や各商店街・公園などが選定され、「人々のふれあいやまちの にぎわいのある景観」が際立っています。
その他、魅力的な建物や地域のシンボルとなる景観も多く有している地域です。

・東十条商店街

各店舗で陳列された商品、看板やノボリが道路に面した場所に設置されるなど、地域の 活気を感じ取ることができる商店街です。
メイン通りではイベントも多く開催され、地域の人々で賑わっています。

★東京都北区神谷1-31、東十条3-12〜東十条4-21,3-17
神谷堀公園(王子)
かつての「甚兵衛堀」の跡で神谷堀とも呼ばれていました。

岩でできた遊び場が印象的な公園で、緑も多く水遊びもできる公園です。
目の前には大規模な集合住宅があり、多くの人で賑わっています。

★東京都北区王子5-28
新田橋からの眺め(豊島)
新田橋の真ん中からは、堤防で囲まれ蛇行してゆったりと流れる隅田川、その両側に 建ち並ぶマンション群を望むことができます。

夜は、マンションの明かりが水面に映し出され、ゆったりと夜景を楽しむことができます。

★東京都北区豊島7-33先
新豊橋(豊島)
白を基調とした味わいのある曲線は、美しい側面のシルエットです。

地域住民とともに意見交換を行い、新豊橋のデザイン等(橋梁形式、材料・色彩、橋名)は 決められました。
歴史と品格のある隅田川に架橋する橋としてふさわしいデザインとなりました。

★東京都北区豊島6-15先
(株)トンボ鉛筆本社ビル(豊島)
両側のガラス張りの階段が特徴的な建物で、この地域のシンボルとなっています。

広々とした空間に建つ姿は周囲との調和を図り、良い景観をつくり出しています。
2008年(平成20年)にはグッドデザイン賞を受賞しました。

★東京都北区豊島6-10-12
ココキタ(豊島)
元の中学校校舎を改修して建てられた区民の文化芸術活動を応援する施設です。

愛称「ココキタ」は区民による投票で決められ、白を基調としてところどころカラフルに 塗られた壁が印象的です。

★東京都北区豊島5-3-13
隅田川(志茂〜堀船)
岩淵水門で荒川から分岐した隅田川は、はるか昔から人々の文化や生活に深く 結びついており、自然豊かな場所となっています。

また、空がひらけ、開放的な空間が創出されており、川に面して様々な建物の顔を 見ることができます。

★東京都北区志茂5丁目〜堀船4丁目
豊島公園(王子〜豊島)
道路に面した細長い公園です。

夏になると公園内で水遊びを楽しむ子供たちの歓声が絶えず賑やかです。
盆踊りの会場にもなっており地域住民からも親しまれている公園です。

★東京都北区王子6-3〜豊島2-12
柳田小学校の土俵(豊島)
小学校の校庭には土俵があり、秋になると相撲大会が開催され、子どもたちの 賑やかな声援が聞こえます。



★東京都北区豊島2-11〜20
北とぴあ(王子)
北とぴあは北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的に建設された 北区のシンボルです。

館内には多彩な施設があり、最上階の17階からは、北区の景観を一望でき、眼下には 鉄道車両や飛鳥山を眺めることができます。

★東京都北区王子 1-11-1
王子カルチャーロード(王子)
王子駅の高架下の道路で、絵画、写真、書など芸術作品発表の場が設けられ、 様々な作品が展示されています。

この道路を通る人たちは、展示されている作品を立ち止まっているなど、地域の方々に 親しまれています。

★東京都北区王子 1-10
王子駅(王子)
京浜東北線や東京メトロ南北線、東京さくらトラム(都電荒川線)の3路線が 乗り入れ、バスのターミナルもあることから、交通の要となっており、多くの人が 行き交う駅です。

飛鳥山や北とぴあ等に向かう人の拠点となる場所です。

★東京都北区王子1-10辺り
サンスクエア(王子)
駅前にあるゴルフ練習場、テニスコート、ボウリング場、バッティングセンター、 スーパーマーケットなどが入る複合型商業施設です。

目の前の広場では、イベント等が開催され、多くの人で賑わう場所になっています。

・王子東地区〜歴史と特徴〜

江戸時代、隅田川は、千住より上流を荒川と呼ばれていました。
浅草あたりでは、浅草川と呼び、両国橋から下流は、大川と呼ばれていました。
現在、隅田川の始まりは岩淵水門からで、王子を流れる石神井川や神田川などの 支流河川と合流して東京湾まで23.5km(一級河川)の長さになります。

このように、豊富な水資源に恵まれた王子東地区では、明治6年(1873年)、王子の地に 抄紙会社(現・王子製紙会社)が、明治8年(1875年)、大蔵省紙幣寮抄紙局(現・国立印刷 局王子工場)が建設されました。
その他にも隅田川沿いには、大正5年(1916年)、日本最初の民間火薬工場として発足した 日本化薬や同年設立された大同特殊鋼が操業しています。
一方、昭和40年代から大きな工場が郊外へ移転しはじめ、明治30年(1910年)に開設した 日産化学王子工場跡は豊島5丁目団地として生まれ変わり、大勢の方がこの地に移り住み、 現在でもにぎわいのある場所を形成しています。

★東京都北区王子1-4-1
梶原銀座商店街(堀船)
東京さくらトラム(都電荒川線)梶原停留所の北側に面し、下町風情たっぷりの 商店街でレトロな雰囲気が感じられます。

午後3時からは歩行者天国になるため、多くの人たちが行き来する商店街です。 ★東京都北区堀船3-24,40〜3-20,31
十条銀座商店街・十条富士見銀座商店街(十条)
王子西区

地区の概要・特性 王子西地区は、岩槻街道が江戸時代に整備され、明治に入り音無川(石神井川)沿いの 王子七滝が行楽地としてにぎわった歴史を有しています。
軍施設が立地したことに伴い市街化が進み、十条銀座などの商店街が形成されました。
地域の南側軍施設跡には自衛隊、学校、公園等の大規模な施設が立地しており、大きな 景観要素となっています。
また、崖線に緑地、公園、神社などが見られます。

王子神社や王子稲荷神社が選定され、「歴史が感じられる景観」、「魅力的な建物や 地域のシンボルとなる景観」が特徴的です。
これらの景観資源に人が集まり、「人々のふれあいやまちのにぎわいのある景観」を 形成しています。

・十条銀座商店街・十条富士見銀座商店街

十条銀座商店街は明治30年代後半に軍関係施設の整備に伴い店が建ち始め、 十条富士見銀座商店街は戦後の闇市から安島吏、現在では隣接する2つの商店街は、 北区最大規模の商店街で、歴史と人情と活気にあふれた場所になっています。

★東京都北区十条仲原2-7,8 上十条2-24,30
冨士神社・十条冨士塚(おふじさん)(十条)
冨士塚にある階段を登った先にある神社であり、地域住民からは「おふじさん」として 親しまれています。

毎年山開きの日に祭礼が行われ、脇の道路沿いには、露店が建ち並び、多くの人で 賑わいます。

★東京都北区中十条2-14-18
篠原演芸場(十条)
昭和26年(1951年)に開館した大衆演芸場で、赤い建物に白い提灯が並ぶ 入口が印象的です。

演芸場通りにある商店街の中央にあり、人気のある身近な演芸場で熱いファンは 数多く、公演日は多くの観客で賑わっています。

★東京都北区中十条2-17-6
電車の見える風景(東北線井頭踏切)(十条)
京浜東北線や湘南新宿ラインなど6つの路線が通っています。

間近で左右から勢いよく走り抜ける様々な電車を見ることができるため、電車好きの 人が写真を撮りに訪れる魅力的なスポットです。

★東京都北区東十条1-7-19,岸町2-9
ちんちん山児童遊園(岸町)
かつて軍施設を結ぶ軍用列車が通る土手があり、その電車が「チンチン」と 鐘を鳴らしていたことが、名前の由来となっています。

高架下にある公園で、真ん中に公園名を記した大きな石と、石のアーチがある 小さな公園です。

★東京都北区岸町2-1先
パノラマプール十条台(中十条)
十条台小学校のプールで、屋根がガラス張りの開閉式ドームとなっており 印象的なデザインの建物です。

学校使用時間以外の時間帯は、誰でも利用することができ、活気のある場所に なっています。

★東京都北区中十条1-5-6
名主の滝公園(王子)
名主の滝公園は、滝と緑豊かな斜面を巧みに利用して自然の風景を取り入れた 回遊式庭園です。

滝によって涼し気な空間となっていることから、夏になると多くの人が この庭園を訪れます。

★東京都北区岸町1-15
王子稲荷神社(王子)
「王子狐の行列」の終着地点となる神社です。

関東稲荷総社の格式を持ち、江戸時代より庶民に親しまれて来ました。
境内にある「狐の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなっています。
毎年2月には「凧市」が開催され、大勢の人で賑わっています。

★東京都北区岸町1-12-26
王子狐の行列(王子)
大晦日の夜に大勢の見物客に囲まれながら、狐のお面や化粧をして、行列をなして 装束稲荷から王子周辺を練り歩き、王子稲荷へ参詣する行事です。

昔の言い伝えを今に残そうとする王子の人たちの粋な心が感じられます。

★東京都北区2-30-14(装束稲荷)〜岸町1-12-26(王子稲荷神社)
中央工学校(王子)
建築家・林雅子が設計したスタイリッシュな施設で、建物内に誘導するような階段と 庇が入口となっています。

300名収容のホールや学生の作品展示スペース、貴重な椅子を展示したコレクションルームなどが あります。

★東京都北区岸町1-7-19
王子神社とイチョウ(王子)
王子神社は、東京を守る「東京十社」のうちのひとつであり、開運や厄除け、 安全、健康などのご利益があります。

また、王子神社から音無親水公園に続く境内には、東京都指定天然記念物 であるイチョウがあり、かなり遠方からでも見ることができます。

★東京都北区本町1-1-12
王子神社の熊手市(王子)
都内では年内最後に行われる酉の市で、様々な大きさの熊手が色鮮やかに 飾られ、商売繁盛、家内安全を願って熊手を買い求める多くのお客で賑わっています。

熊手が売れた時に行われる手締めの音が境内に響き渡り、 大いに盛り上がります。

★東京都北区本町1-1-12
33 江戸年中行事(巻之七所収)

〇2月
・彼岸中
六阿弥陀参詣多し

〇7月
13日王子祭 別当金輪寺
氏子とも竹にてさまざまの鉾を作り、拝殿の四面に建て置く、具足着たる法師1人、先を警固し、別当金輪寺、大童子・小童子を供(ぐ)し、烏帽子・素袍の侍を率いて、社壇にて拝礼し終わって、椽(えん)の上に座す、その後仕丁(昔の官庁や貴族の家の雑役夫)金輪寺より社頭まで走る事七度半なり、その後物具したる法師2人、長刀を携え、刀を七腰左右に帯して来る、その後より踊り手8人、一様の装束にて面をかけ、頭に作り花をさし、楽器を携え、拝殿にて踊る、囃しものは笛・太鼓のみにて、至りて古雅なる神事なり、これを若一王子の典薬踊りという、踊りの番数12番あり

34 近在名物並びに近国土産(巻之七所収)

・田端瓜
越瓜(しろうり)なり、上方にてあさ瓜と言い、田端村より出る、上品にて味甚だ美なり

(解説)
奥村玉華子(ぎょっかし)撰、7巻13冊。
寛延4年(1751年)正月、江戸の藤木久市によって版行された。
「江戸鹿子」に菱川師宣の挿絵を入れた「増補江戸惣鹿子名所大全」が元禄3年(1690年)に版行されたが、本書は、この版木が磨滅したために改訂したとある。
しかし、書冊・文字ともに若干大きくなり、編集方針も、巻一(上・下)が神社類聚、巻ニ(上・下)から巻三(上・下)巻四の上までが仏閣類聚、巻四の下が江府霊仏類聚、巻五(上・下)が名所古蹟類聚、巻六(上・下)が名所古蹟雑集(名所・古蹟・町・町小路の小名)、巻七が江都年中行事(江都諸家名物並びに市中売薬類聚・諸細工物・江府名物並びに近国近在土産)となっている。

また、内容の点でも「江戸鹿子」や「増補江戸惣鹿子」とは大きく異なっている。
惣鹿子とは一般の鹿子の絞り方とは異なり、絞りが全体に行き渡り、もう絞る余地がないという意味で、名所について網羅し尽くしたという撰者の気持ちを表現したものといえる。

撰者の奥村玉華子は本所に生まれ、著述の内容から僧侶・神道者・意志のいずれかだったのではないかと推定されているが、それ以上は詳らかではない。
また、本書を執筆したのは、正・続「当世(いまよう)下手談義」を宝暦2年(1752年)正月に出版し、この時期以後の談義物の先駆者となった静観坊子阿(ぼうこうあ)の勧めに力を得たからであると推定されている。

北区については、「神社類聚」に七の社・平塚大明神・王子神社が、「神社類聚附録」に王子稲荷が収められている。
また、「江府霊仏類聚」には九品仏・六阿弥陀・観音霊場・不動尊霊場・弁財天霊蹟に該当する寺院が、「名所古蹟類聚」にも、当時、珍しいと考えられた滝・松・桜・諸木・山・川・原野が紹介されている。
「名所旧蹟雑集」は「いろは」順に編集されているが、此処では犬追物旧跡・西ヶ原・梶原塚・梶原屋敷・竈壇塚・田畑村・滝野川・飛鳥山・石神井川・装束畑が掲載されている。
また、「江都年中行事」の項には2月の彼岸中の六阿弥陀参詣や7月の王子祭が取り上げられている。
最後に「近在名物並びに近国土産」の項では田畑瓜が上品であると説明されていて興味深い。

(底)国立国会図書館所蔵。(参)花咲一男編「再板増補江戸惣鹿子名所大全」渡辺書店、1973年=昭和48年)。

飛鳥山博物館古写真展2019-1
古写真は、わたしたちに何を伝えるのか?

1、幕末維新期の王子の料理屋

花見客や、王子稲荷社への参詣客の舌を楽しませた王子の料理屋は、天明から文化年間(1781〜1818)にかけて発展し、なかでも海老屋と扇屋の2軒は、江戸の料理屋番付で大関や小結など、上位を占めて名声を誇った。
やがて王子の料理屋は華美な建築のため、天保の改革によって取り締まりの対象になったが、改革の失敗後は以前にも増して繁盛し、幕末には23軒もの料理屋や茶屋が軒を連ねた。
音無川とも呼ばれた石神井川沿いに建ち並ぶ料理屋の様子は、「江戸名所図会」や多くの浮世絵にも描かれている。

これらの絵画表象とともに、王子の料理屋の繁栄を今に伝えるものに写真資料がある。
浮世絵の視点とは異なる地点から撮影されたものが多く、見る者を約160年昔の世界に誘う不思議な魅力を湛えている。
飛鳥山博物館古写真展2019-2
・解説
北区最古の写真は3Dだった!?

ステレオ写真とは、専用スコープ(ビューワー)を通して画像を立体視するもので、写真史のなかでも比較的初期に登場している。
現在のところ北区最古の写真とは、この王子の料理屋・扇屋を写した一枚である。
撮影者ピエール・ジョゼフ・ロシェ(1829年〜1872年、文政12年〜明治5年)は、スイス・フリブールの出身で、ロンドンのネグレッテ&ザンブラ社に雇用され、ステレオ写真師としてアジアに派遣された。
彼は1859年(安政6年)、英国艦船サンプソン号で長崎を経て品川に来航、江戸、神奈川各所を撮影した。(斎藤2004・2009)

さて、同時期の王子の料理屋建築を描いたものに、万延元年5月3日(1860年6月21日)に王子を訪れた英国軍艦カミーラ号艦長コルヴィルの書簡アルバムに貼られた版画がある。
これは明らかに写真から木口木版に起こしたもので、同じものは「スミス 日本における十週間」(1860年=万延元年に王子来訪、国際日本文化研究センター所蔵)にも見られる。
王子の料理屋の評判は、訪れる外国人の評判となっていたに違いない。
この時期に王子の料理屋を対象にした写真資料はロシェ以外には知られておらず、おそらく彼のステレオ写真をもとに木版画が制作されたものと推測される。
飛鳥山博物館古写真展2019-3
ロシェの写真と、ベアトの「王子の料理屋」はよく似た印象を与える。
両者に共通するのは、まず撮影ポジションとアングル位置であり、次いで扇屋の建築が2階建であることだ。
明治以降の扇屋の写真が、すべて3階建築の大楼である事とは対照的である。
しかし、このことから直ちにベアトの撮影時期がロシェと同時期かといえば、扇屋の奥にある海老屋が、3階建築となっていることからも容易に否定されるであろう。
すでにフェリーチェ・ベアト(1832年〜1909年、天保3年〜明治42年)は文久3年(1863年)段階からスイス全権大使エメ・アンベール使節と同行することで、外国人遊歩 区域外の江戸の各地をカメラにおさめているとはいえ、慶安2年(1649年)の「町触」による3階建建築禁止令が解除されたのは、慶応3年(1867年)のことである。
ロシェ撮影の写真では、海老屋は石神井川から一段高く基壇を築きその上に2階建を建築しているが、ベアトの写真ではこれを3階建に改築したことが示されている。
撮影の下限は「ファー・イースト」所収の写真撮影段階である明治5年(1872年)であろう。

なお、写真裏面には英文で、幕末の万延元年(1860年)に王子を訪れたプラント・ハンター、ロバート・フォーチュンの著作から「王子は日本のリッチモンドである」という言が引用されている。
ロンドン近郊の景勝地、リッチモンドに見立てられた王子のイメージはその後、王子を訪れる外国人たちの認識形成に大きな影響を与えたのであった。
反射炉関連ー1
反射炉について

反射炉とは、江戸時代に大砲を築造する時、鉄を溶かす時に使われた溶解炉です。
お鍋で煮込む時のように、直接炎をあてるのではなく、一度隣りの部屋(ドーム)の天井に熱を反射させて鉄を溶かすことから「反射炉」と呼ばれています。
江戸時代後期、日本近海に相次いで欧米諸国が来航し、海防の必要性が叫ばれるようになりましたが、韮山反射炉のきっかけとなったのはペリー来航。
幕府は韮山の地方行政官である江川太郎左衛門に命じて、今のお台場を造らせ、太郎左衛門はここに供える反射炉を韮山で作ることになりました。
余談ですが、この韮山と後に続いた滝野川だけが幕府による管轄だったそうです。

最初は下田で反射炉建設に取りかかったものの、ペリー艦隊の水夫に見られてしまったため、急遽韮山に移したという気の毒な逸話も残されています。
韮山反射炉のガイダンスセンターに隣接するお土産物屋のおばあさんのお話によると、韮山古川の水を利用して大砲を造り、馬二頭に曳かせて狩野川まで運び、 そこから船で江戸まで運んだそうです。
韮山は静岡県ですから江戸から遠く、その後武田菱三郎(あやさぶろう)が責任者となって滝野川に反射炉が作られることになりました。
滝野川は江戸近郊で石神井川は水量も豊富、まさに理想的な条件を備えていました。

滝野川反射炉は1864年(元治元年)に計画され、建設が開始されました。
その後、開国と明治時代の始まりと続いて反射炉は壊され、完成したのかしなかったのか、大砲は作られたのか作られなかったのか、詳細はわかっていません。

ただ、安井息軒が記した「北潜日抄(ほくせんにっしょう)」には、「飛鳥山の下を過ぎると闃(げきとして=静まり返って)人影はなく、桜また開かず。
左に反射炉あり。
廝(僕、下男)の溝は水を板橋より引く。
功を費やすこと十万、而して未だ一砲を造るを聞かず。
慨かうべきかな(嘆かわしいの意味?)」
やはり反射炉は完成していたと思いたいですね。

反射炉に関する資料

★「北区の歴史 はじめの一歩 滝野川西区編」(北区立中央図書館)
・大砲製造所の建設

1864年(元治元年、幕府は諸外国に対抗するため新たに滝野川村に大砲製造所を建設することを計画しました。
滝野川村が選ばれた理由は、石神井川を利用して物資の利用ができること、そして近くを流れる千川上水から水を引き入れて利用できること、があげられます。

・大砲製造所に必要な施設

1、反射炉
当時の大砲は、反射炉と呼ばれる溶鉱炉で大量の鉄を溶かして、まず穴のあいていない状態の大砲を鋳造します。

2、錐台水車(きりだいすいしゃ)
先に錐の付いた機械(穿孔機=せんこうき)で大砲の砲身部分に穴をあけ、仕上げをして完成させます。

(写真は静岡県伊豆の国市に建設された幕府の反射炉)
九 南向茶話・同追考 酒井忠昌撰 寛延4年(1751年)2月成稿

35 王子村脇の鎌倉海道

問曰く、王子村の脇に谷村と申す所ありて、畑道の間を鎌倉海道申し伝え候、古くへ当国の往来筋の由申し候、如何承度候

答曰く、仰せの通りにに予も承り候、この処谷村と呼び申し候、付く畑道も鎌倉海道と唱え候哉と被存候所に、古老の説に、当国東の方池沼多くして足入りの地成る故か、
往古の道筋は、今の青山百人町の西北の方原宿と申す所を経て、千駄ヶ谷八幡の前(この地今に所の小名に鎌倉海道と呼ぶ)大窪へ杉、高田馬場より雑司ヶ谷法明寺脇通り、
護国寺後通り、只今の中仙道の道を横切り、谷村・滝野川村を経て、豊島村より千住の方へ古の道筋なりといえり、右物語を案るに、その間の道筋3ヶ所まで旧名残り候へばそこなきにあらず、
只今青山百人町より直に相州(相模の国)小田原へ往来道を俗に中道と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで18里のよしなり、

また豊島村に往古豊嶋左衛門という士ありと六阿弥陀縁起にも見えたり、治乱記にも豊嶋左衛門と申すし上杉菅領(かんれい)家へ使え、近隣の合戦ありし事見えたり、
あんするにこの豊島村は元この郡の府なるべし、又この近所堀之内村に梶原塚あり、予若年の刻ここを過ぎるに、杉の木立ありて古き石碑ありしなり、
後年数奇者に盗られたりける故に、村民又印の石碑を建て改めけるに、またまた紛失しける由、今は荒川の端、畑の中に少々土地残れり、
案にこの梶原は鎌倉時代の儀にあるべからず、中古太田の一類梶原美濃守なるか、あるいは北条分限帳にも梶原日向守という人見えたり、

この第の一族たるべし、この地の古老の物語にこの塚の所は昔寺あり候所に、川へ土地欠け入り総牢に付き土地狭まり、寺は敗壊仕り候由なり、
且つまたここ元木村のうちに熊野権現社あり、社司は鈴木氏なり、旧説に言う、この神社紀州より相移され候時、神職も紀州より来たれる末葉なるよし、
今の王子権現と同伝に相移されるよしなり、この村の内に寺あり、その寺に古く伝われる木像あり、束帯(平安時代以降、天皇および文武百官が朝廷の公事(くじ)の際に着た、正式の服装)の形なりし由、
昔ここの領主にてその姓名等委(くわ)しく伝わり候所に、彼ら自火ありて悉く焼失しける由可惜し事、右に付いて案るに、王子は右の熊野と同社にして、後に別当と神職と会い分かれ候哉と、そんしられ候

「王子村の脇に谷村という所があり、畑道の間道が昔の当国の往還道であったため鎌倉海道と呼び伝えられているそうですね、と質問した。
これに対し、そのとおりです。私(酒井忠昌)もそう聞いています。
この谷村という所ではそのように呼ばれており、畑道も鎌倉海道と呼ばれています。

谷村の古老の方に拠れば、当国の方には池沼が多くぬかるみの土地柄のため、現在の青山百人町の西北の方、原宿という所を経て、
千駄ケ谷八幡の前(この土地では今も地名の小名として「鎌倉海道」と呼んでいる)、大窪を過ぎ、高田馬場より雜司ケ谷法明寺の脇を通り、
護国寺の後ろを通り、現在の中山道を横切り、谷村、滝野川村を経て、豊島村より千住の方へ向かうのが、いにしえの道筋です、とのことです。
この説を考察するに、その間の道筋に三箇所も旧名鎌倉海道が残っていることから、何の根拠も無いことではありません。現在の青山百人町から
真っ直ぐに相模国の小田原への往還道を俗に中道と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで十八里であり、・・・(後略)」(Wikipedia参照)

(写真は王子神社)

36 梶原塚(追考所収)

梶原堀内村梶原塚の事、この地の名主に名兵衛と申す者物語る由にて、梶原塚は古来寺にて、しんせう寺という寺ありけるが、川へ欠けいりて地所狭りて没しぬ、後に寺号は他へ譲りて、今は谷中辺に有る之候由なり
37 豊嶋村熊野権現(追考所収)

・豊嶋村熊野権現の事

当時は紀州大明神と称し、当村の鎮守にて神主は鈴木伊賀守という、さてこの村に清光寺という真言宗あり、
寺僧の言う、昔豊島清光の建立せしによりて清光寺と号するよし、元は豊嶋代々菩提寺にて元祖康家・清光の衣冠像もありしに、
先年自火ありて焼失しけるよし、清光の墓の松とて大木松一株ありて、土民豊嶋の大松と称するなり、
只今権現の社、左の方に康家の社・清光の社とて両末社あり、又この村の庄屋大原与兵衛と言い、本は新井氏にて先祖は 紀州の産にて豊嶋氏の家臣なりと申し伝う
考えるに康家・清光両人いずれのこの人にや

東鑑治承4年(1180年)庚子(かのえね)10月2日辛巳(かのとみ)武衛相乗に常胤・廣常等なり、舟檝(しゅうしゅう、舟と楫=かじ)済大井・ 隅田両川精兵及び三万騎赴き、武蔵国豊嶋権現頭清光・葛西三郎清重最前に三條す下畧(おさめる)とあり、若此れ清光か

(写真は清光寺)

38 箱根早雲寺什物(追考所収)

(省略)

(解説)
本書は、撰者の酒井忠昌(生没年不詳、底本では茅屋向陽故名亭が、江戸及びその周辺の古跡をニ・三の友と見聞した様子を問答形式で書き記したものである。
その後、本編の補足という形で「南向茶話追考」を著した。
書名の由来は、撰者の住居が南向きであり、別名を南向亭と号していたことから、その名がついたものと考えられている。
別代として「東都古跡之物語」がある。

引用箇所の「王子村脇の鎌倉街道」の項では、往来上にある古跡を紹介している。
この周辺には豊島氏ゆかりの豊島村や梶原塚・熊野権現などの中世以来の古跡が数多く存在するが、撰者はそれらについて他の文献などを用い、 事細かに書き記している。
また、街道の道筋が詳細に記載されていることも注目される点である。

「追考」に収められている「梶原塚」・「豊島村熊野権現」・「箱根早雲寺什物」は、前項の内容を補足する性格を持ち、また「北条分限帳」の写本(金輪寺本)を 紹介したものである。

(底)東京都公文書館所蔵「東京都文献叢書」甲集第16冊。(刊)「日本随筆大成」第3期−第6巻。
十 紫のゆかり 山岡浚明(まつあけ)撰か 宝暦8年〜9年(1758年〜1759年)頃成稿 39 飛鳥山

北に飛鳥山あり、おおきなる社、神あいものふりて、昔より王子権現と崇め奉る、
近き頃、おおやけより、その山を神祭る料になして、金輪寺に賜わり、仰ことにて碑(いしぶみ)を建てさせ給う、
賢きみかけによりえ、千代よろつをもくちせぬためし、人みなあふき奉りぬ、
山には限りなく桜を植え渡して、花の頃は、雲もおよふましうみゆれは、たかきいやしき、袖をつらね袂をまじえて、おのかしし歌遊ぶところとす

(解説)
本書は、徳川氏入府から江戸城内・品川・芝・赤坂・青山・飛鳥山・日本橋・芝居町・ 角田川・浅草寺・吉原・東叡山・湯島聖堂などの江戸市中の繁栄ぶりを江戸めぐりの形で記したものである。
一冊、奥書に「素より表題もなきまま、仲慶翁是に名づけて紫のゆかり」とあることから、「紫のゆかり」が原題ではなかったことがわかる。
底本の外題は「むらさきのゆかり」。
撰者とされている国学者の山岡浚明(まつあけ)(1726〜1780、享保11年)は幕臣で、初めは林道春のもとで漢学を、後に加茂真淵にしたがい和文を習作した。

薙髪後は明阿弥と称し、詠歌をもって余生をおくった。
通称佐次右衛門、字は子亮。
しかし近年、本書の撰者を浚明(まつあけ)とすることには疑問が示されている。
それは、本書が成立した宝暦8・9年段階では、浚明(まつあけ)は33歳で、本文中に「よわいやや四十路(よそじ)にかたぶきて」という語と相違するためである。

なお掲載箇所は飛鳥山と王子権現・金輪寺の部分である。
当時における王子権現の規模の壮大さや多くの人々の信仰をあつめていた様子、また桜の季節に人々が遊宴するさまなどを窺うことができる。

(写真は飛鳥山)

(底)東京大学総合図書館所蔵「東京都文献叢書」甲集第16冊。 (刊)「続日本随筆大成」第8巻。
昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)-1
昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)

・飛鳥山の西側の明治通りを走る路面電車
・飛鳥山前を走る都電 昭和47年(1972年)5月1日
・江戸時代から桜の名所と知られる飛鳥山
・音無橋と舟串橋 昭和30年代

昭和30年代、40年代の北区の特徴
北区立中央図書館「北区の部屋」地域資料専門員黒川徳男

地形の観点から北区を見れば、京浜東北線を境界に、西の台地と東の低地に分けられます。。
主に、台地は住宅地として、低地は工場の街として発展してきました。

戦後、台地部には旧陸軍が使用していた広大な国有地が残っていて、一時的にアメリカ軍が使用し、後に日本に返還されます。
その土地は、桐ヶ丘団地、赤羽台団地、西が岡サッカー場公園、学校などの公共施設に生まれ変わったという経過があります。
特に団地建設は、北区に人口増加をもたらしました。

(写真は飛鳥山と京浜東北線の線路。
ここが高地と低地の差となっています。)

一方、低地部は、戦前から工場の街となっていました。
中でも化学工場が多く、豊島、志茂、神谷に日産化学、日本化薬(医薬品や農薬などの薬品のほか火薬なども製造)、理研関連などの工場がありました。

北区は、高度成長と共に人口が増え、昭和40年(1965年)には約43万人とピークに達します。
しかし、それ以降は減少傾向に転じていくのです。
この時期には、光化学スモッグや低地部の地盤沈下などの公害問題が発生しています。

工業用水を地下水に頼っていたことが、地盤沈下の原因となり、大規模な工場を運営する企業にとっては、地盤沈下と工業用水の確保との矛盾が課題になりました。
さらに、化学工場の爆発、ガス流出などの事故も起き、加えて、地価の高騰による固定資産税の増加も企業の負担を重くすることになります。

そこに、工場の地方移転を促す法律が制定されます。
国の政策で、首都圏100キロ以内の人口を適正に配置するという「首都圏整備法」が昭和31年(1956年)に制定され、工場が東京から周辺の衛星都市に移っていくことになります。
地方では、工業団地が造成され、しかも税制上の優遇もある。
そんな動きが進む中、昭和40年(1965年)には「首都圏整備法」が改正され、対象範囲が関東の1都6県と山梨県にまで拡大されます。

工業用水の問題、公害問題、地価の高騰などが、大工場を東京から押し出す要因となり、一方、首都圏整備法などによって生まれた地方の工業団地は、大工場を引きつける要因となりました。
このプッシュ要因とプル要因の両方がこの時期に現れたことが、北区からの工場の流出を加速することになります。
昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)−2
例えば、昭和40年(1965年)には、堀船にあった宝酒造の工場が千葉県の松戸に移転、昭和44年(1969年)には豊島にあった日産化学の工場も千葉県へ移転するなど、大きな工場が区内から次々に姿を消していきました。
(写真は現在堀船にある読売新聞東京北工場)
それまでは、団地の建設などにより、人口は増加する一方でしたが、工場で働く住民の転居などで、人口は減少に転じていきます。

行政の面でいえば、戦後の民主化の中で、昭和20年(1945年)代の東京23区では、区民が口調を選ぶ区長公選制をとっていましたが、昭和30年(1955年)に、区議会が区長を選ぶという区長選任制に変わります。
しかし、昭和49年(1974年)、地方自治法改正によってふたたび区長公選制に戻ります。

大きな災害として言及せずにいられないのが、昭和33年(1958年)の狩野川台風です。
石神井川などの氾濫によって、区内では6,115戸が床上浸水となるなど大きな被害が記録されています。
これがきっかけとなって、石神井川の改修が計画され、飛鳥山の下にバイパスを掘って石神井川の水を通す大工事が行われました。

また、高度成長と共に、マイカーが増え、トラック輸送も盛んになると、新たな問題が浮上してきました。
ちょうど砂利道がアスファルトへ改修された時期にもあたりますが、その頃、区内では交通渋滞が激しくなります。
昭和40年代になると、自動車の騒音や大気汚染、交通事故の問題が出てきます。
それらが、特に顕著だったのが環状7号線でした。

以降、環境問題への大作や、徐々に姿を現しつつあった一人暮らしの高齢者への対応などが、課題として、その後の年代へつながっていきます。
このように、北区にとって、昭和30、40年代とは、急激な右肩上がりの発展を経験するも、すぐに下降に転じるという、急激な変化を経験した時代だったと言えるでしょう。
昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)−3
なつかしい昭和の記録
昭和30・40年代の北区

浮世絵が示す北区は江戸時代から続く名所
(左)江戸名所道戯尽 十六 王子狐火 歌川広景(ひろかげ)安政6年(1859年)
(右)名所江戸百景 王子不動之滝 歌川広重(初代) 安政4年(1857年)
江戸高名会亭尽 王子扇屋 歌川広重(初代) 天保9年〜11年(1838年〜1840年)
東都名所王子滝野川 歌川広重(初代)天保11年〜13年

北区の生い立ち
スタートは戦後の復興から始まる

東京都では、戦後、人口の減少に応じて、行政の整理統合が必要となった。
そこで都は1区あたりの人口を20万人、面積を10万平方キロメートルという基準を設け、昭和22年(1947年)3月15日に、当時は35区だったのを22区に統合した。
(23年に練馬区が板橋区より分離して、現在の23区となる)。
これが北区の誕生で、王子区と滝野川区が統合して、新たな出発となった。

区の名称については、王子、滝野川両区とも区会で「北区」とすることが決められていた。
この決定がされる前に東京新聞では新しい区名を募集している。
都民の関心を引いたこともあって24万通を超える応募が集まり、「飛鳥」「飛鳥山」「赤羽」「城北」といった名前に人気が集まった。
しかし、区会ではわかりやすいということで、「北区」が決定した。

(写真は空から見た赤羽近辺の旧軍用地)

北区役所については旧王子区役所を使用し、滝野川区役所は支所とすることとなった。
また新生北区の区長や区議会議員も新たに選出するため、昭和22年(1947年)に選挙が行われた。
新区長には3人が立候補して田口安蔵氏が当選。
区議については、以前の王子区議会の定数40人、滝野川地区36人だったことからみれば、北区議員の定数40人は大幅な削減となり、競争率3倍という激しい選挙戦となった。

新しい区が成立したものの、戦後復興に向けての問題が山積みだった。
復員者や引揚者による人口の増加とそれに伴う住宅不足、戦火によって焼失した校舎の対処、危険な状態にある道路や橋の対策などさまざま。
そこで議会がスタートすると、区議会は復興委員会を設置し、戦災処理と戦後復興についての協議・活動を中心に取り組むことになった。

まず取り組んだのが都内でも有数の悪条件下にあった道路や橋の緊急整備で、昭和22年(1947年)9月には早速新田橋の補修工事が着工した。
戦前5万戸あった住宅のうち40%も失った住宅不足も深刻だった。
都営住宅が徐々に建設されていても、入居できる人数は限られていたため、申し込みの倍率は高く、中には230倍に達する住宅もあった。
昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)−4
また、旧軍用地・軍用建物の転用も大きなテーマだった。
北区の総面積のうち軍用地は8.2%を占め、23区で一番大きかった。
しかも民有地の借り上げ分を加えると区の面積の10%にものぼっていた。
(北区立中央図書館もかつては旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟と呼ばれていました。) そこで厳しい住宅事情の中、旧軍用施設に注目し、旧陸軍赤羽火薬庫を引揚げ者を中心とする人々の住宅として使用した。

昭和22年(1947年)には教育制度の六三制度が実施された。
それにともない、中学校がつぎつぎと新設され、建設用地の確保が問題となった。
このような公共移設の新設にはまとまった敷地面積が必要なため、国有地となっていた軍用地を活用することが望ましいが、高いハードルがあった。

以降、戦後の復興に限らず、将来の展望を描く上では、旧軍用地の開放は、北区にとって最大の課題だった。
昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)−5



浮世絵が示す 北区は江戸時代から続く名所



(左)江戸名所道戯尽 十六 王子狐火 歌川広景(ひろかげ)安政6年(1859年)
(右)名所江戸百景 王子不動之滝 歌川広重(初代) 安政4年(1857年)



江戸高名会亭尽 王子扇屋 歌川広重(初代) 天保9年〜11年(1838年〜1840年)
東都名所王子滝野川 歌川広重(初代)天保11年〜13年



商店街

北区の商店街は急増した区民と隣の埼玉県民などの、大きな消費人口に支えられて発展した。
区内の商店数は昭和27年(1952年)で5,470店、従業員は13,337人であったのが、昭和41年(1966年)には8,532店、35,317人にまで増えている。
デパートなど大型店舗が無かった北区においては、ほとんどが中小の小売業や飲食店で、多くの商店街が結成されていった。
夕方に商店街を通ると活気があり、一通り歩けば必要なものはほとんど入手できた。
しかし40年代になると大型スーパーなどの出店、人口の減少などで、商店街の苦労も増えて行った。

・赤羽復興商店街昭和28年(1953年)
赤羽1番街商店街の前身。
荒川を越えて川口から来る買い物客も多かった。



・(左)赤羽根1番街昭和37年(1962年頃)
七夕の頃。
商店街の内側から撮影。
(右)おいらん道中 昭和30年(1955年)
赤羽復興復興商店街が区画整理の完成を記念して行ったイベント。
当時はお祭り以外のイベントが無かったため、道路に隙間がないほど多くの人が集まった。

・(左)赤羽1番街 昭和37年(1962年頃)
駅前から赤羽1番街を望む。
写真右にあるのはボンネットバス。
(右)現在の赤羽1番街 平成21年(2009年)
昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)−6



(左)赤羽スズラン通り商店街 昭和33年(1958年)7月7日
写真はちょうど七夕の頃。
昭和24年(1949年)に商店街を結成、協同組合を経て昭和38年(1963年)に振興組合に。
(右)志茂町橋戸通り
現在の志茂銀座商店街。



(左)滝野川銀座通り 昭和37年(1962年)頃
(右)現在のスズラン通り 平成21年(2009年)
現在は通称ラ・ラガーデンといわれている。
平成9年(1997年)に約300mの天蓋アーケードが完成。



・(左)十条銀座 昭和37年(1962年)頃
買い物客でごった返す。
(右)チラシ 昭和48年(1973年)
お中元にあわせて行なっているイベント。



・(左)十条銀座 昭和40年代
年末の福引きセールの様子。
(右)十条銀座 昭和45年(1970年)頃
この頃はまだ車が普通に走れた。



・(左)現在の十条銀座 平成21年(2009年)
(右)東十条商店街 昭和37年頃(1962年)



・(左)東十条商店街 昭和37年頃(1962年)
(右)東十条銀座通り 昭和26年(2014年)頃
年の瀬の様子。
昭和24年(2012年)に東十条銀座商店会を結成。



・(左)田端銀座通り 昭和37年(1962年)頃
(右)現在の東十条商店街 平成21年(2009年)

昭和30・40年代の北区(1955年〜1974年)−7



(左)第1回馬鹿祭り宣伝隊 昭和31年(1956年)
馬鹿祭りの宣伝のため、扮装して新宿、上野、新橋まで行った。
(右)車両パレード
飾り付けを施した車両とユーモアに富んだ演出で、2階の窓から見学する人に笑い顔が。



(左)馬鹿祭りの仮装
テーマは忠臣蔵の「松の廊下」。
(右)歌謡ショー
馬鹿祭りでは著名な歌手の歌謡ショーもあった。
このときは淡谷のり子。



・歌謡ショーの観客
舞台の前は観客でびっしり。

浅見光彦の住む街
北区の南西部の西ヶ原は、作家・内田康夫氏が生まれた街。
氏は北区アンバサダー(大使)を務めている。
西ヶ原は作品に登場する「名探偵・浅見光彦が住む街」として注目されている。
(東京商工会議所北支部「TOKYO北区時間2011」参照)

          ☆           ☆           ☆          

2019年(令和元年)で20回目となった「名探偵☆浅見光彦の住む街 ミステリーウォーク」は、内田さんが 生まれた西ヶ原に近い、霜降商店街が主体となって毎年5月に行われるイベントです。
私ももう10年くらい参加してます。
内田さんが亡くなってもこうして続けてくれることは、本当に嬉しい、ありがたいことです。

★東京都北区西ケ原1丁目55−10
名探偵★浅見光彦ミステリ―ウォーク
毎年、5月中旬頃より霜降銀座商店街を中心に、名探偵浅見光彦をモチーフにしたミステリ―ウォークが 行なわれています。

浅見光彦とは、作家・内田康夫氏の小説に登場する主人公で、参加者は、ミステリー手帖を片手に、謎を解きながら 地域を歩き回ります。
2002年(平成14年)にはじまった新しいイベントですが、今ではすっかり北区の初夏の風物詩になっています。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 滝野川西地区編」参照)

          ☆           ☆           ☆          

写真は2008年(平成20年)の「飛鳥古代伝説」の時の紙の博物館前のキーワード。
渋沢邸にある「青淵文庫」から「せいえん」がキーワードになっています。
これなら渋沢史料館前に置いたら良かったのにと思いましたが、何か順番でもあるのでしょうか。

★東京都北区王子1-1-3(紙の博物館)
青山士(あきら)
荒川放水路の工事が始まったのは、1911年(明治44年)でした。
工事の中心になったのは、青山士(あきら)(1878年〜1963年、明治11年〜昭和38年)という人です。
彼は、アメリカで勉強し、有名なパナマ運河の工事に関わった技術者でした。

荒川放水路の工事中、台風におそわれたり、関東大震災という地震で、工事している所がくずれるなど、 青山たちはとても苦労しました。

そして、ついに、旧岩淵水門は、1924年(大正13年)に完成しました。
荒川放水路のすべての工事が終わったのは、1930年(昭和5年)でした。
約20年もの時間がかかった大工事だったのです。
なお、当時の水門の色は、赤ではなく灰色でした。
(北区立中央図書館「北区の歴史はじめの一歩 赤羽東地区編」参照)

          ☆           ☆           ☆          

1982年(昭和57年)に青い岩淵水門が完成し、旧岩淵水門はその役目を終えましたが、 今でも荒川治水資料館(アモア)そばに赤い水門の美しい姿を見ることができます。

★〒115-0042 東京都北区志茂5丁目41
北区の100年(郷土出版社「目で見る北区の100年―写真が語る激動のふるさと一世紀」参照)
北区の100年



旧古河庭園
明治時代には陸奥宗光の屋敷だったが、その子潤吉が古河家の養子となったことから古河家の所有となった。
戦後、占領軍が使用する中で区への解放運動が展開されるが、日本への返還後、都立公園として開園している。
写真は庭園のシンボルともいえるジョサイア・コンドル設計の大谷美術館本館。
ドナルド・キーン氏が同庭園を気に入り西ヶ原に居を構えたことは有名。

(陸奥宗光)天保15年7月7日(1844年8月20日)〜明治30年(1897年)8月24日。
日本の武士(紀州藩士)、外交官、政治家。
明治初期に行われた版籍奉還(明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地=版と人民=籍を朝廷に返還した政治改革)、廃藩置県、 徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた(Wikipedia参照)。

(ジョサイア・コンドル)1852年(嘉永5年)9月28日〜1920年(大正9年)
イギリスの建築家。
お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物の設計を手がけた。
また工部大学校(現・東京大学工学部)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。
のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。
日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、 趣味に生きた人でもあった(Wikipedia参照)。



浮間ヶ原桜草圃場
かつて荒川の川岸には多くのさくら草が自生しており、浮間はさくら草の名所として広く知られていた。
その後、荒川の改修工事などで自生地は全滅するが、地元有志の人々が保存会を結成し、栽培を続けている。
平成元年(1989年)、都立浮間公園内に新しい圃場が完成し、毎年、さくら草の季節には「浮間さくら草まつり」として圃場の一般公開が行われている。

平塚神社
平安時代以来、北区を含む一帯を支配していた豊島氏の城であった平塚城の跡に建てられたとされ、社殿裏には源義家が贈った甲冑を埋めた甲冑塚がある。
平塚城は、文明10年(1478年)に大田道灌に攻め滅ぼされ落城、その後、社殿が建立された。
江戸時代には上中里村の領主として同村内50石を支配しており、近隣には元別当寺の城官寺がある。



音無親水公園
石神井川の改修工事にともない旧流路を整備して開園した公園。
日本の都市公園百選に選ばれているが、中では一番小さい。
園内に架かる橋は、土地の名士舟串氏が私費で架けた舟串橋を復元したもの。
この改修及び親水公園の整備で、江戸時代以来、王子の名所ともなっていた王子大堰が姿を消した。

都電荒川線
明治44年(1911年)に王子電気軌道がし気切した路線を継承する都電荒川線は、昭和40年代後半、次々と都電が廃止になるなかでも、路線の大半が専用軌道であることなどを理由に存続した。
平成23年(2011年)8月に創業100周年を迎え、その記念として10月の5日間、33年ぶりに花電車が走った。
写真は、明治通りに沿って飛鳥山公園横を走る花電車。
旧275号棟から赤レンガ図書館へ−1
旧275号棟から赤レンガ図書館へ





赤レンガ図書館年表

明治38年(1905年)12月 東京小石川から「東京砲兵工廠銃包製造所」が十条台に移転・開設される

大正5〜8年(1916年〜19年)施設の拡張、大正8年に現中央図書館となる赤レンガ棟が建設される
大正12年(1923年)4月 組織改正により「陸軍造兵廠化工廠 十条兵器製造所」と改称
大正12年(1923年)9月 関東大震災による罹災

昭和11年(1936年)8月組織改正により「陸軍造兵廠東京工廠 銃包製造所」と改称
昭和13年(1938年)  王子区役所庁舎移転跡(岸町1丁目)に「東京市立王子図書館」開設
昭和15年(1940年)4月組織改正により「陸軍造兵廠 東京第一陸軍造兵廠 第一製造所」に改称
昭和20年(1945年)4月城北地域への空襲により第一製造所も一部被災
昭和22年(1947年)頃 第一製造所が米陸軍東京兵器補給廠T.O.D 第IV(4)地区となる
昭和25年(1950年)10月都立図書館の委譲にともない「北区立王子図書館」と改称
昭和34年(1959年)3月 陸上自衛隊武器補給処十条支処・十条駐屯地が開設される
昭和35年(1960年)   北区役所庁舎4階に図書館移転、同年「北区立図書館」と改称する
昭和42年(1967年)4月 旧陸軍二造王子工場跡地(王子3丁目)に北区立図書館新館落成
昭和52年(1977年)4月 北区立図書館設置条例の改正により本館を「北区立中央図書館」に改称

平成2年(1990年)    十条駐屯地内の施設の解体・新築工事が計画される
平成5年(1993年)    十条駐屯地内の煉瓦造建築物の解体が始まる
平成5−10年度     北区社会教育課文化財係により建造物調査実地
平成11年(1999年)   十条駐屯地の跡地を公園および新中央図書館用地とすることが決定
平成12年(2000年)3月 「北区基本計画2000」において「新中央図書館建設計画」事業化
平成13年(2001年)12月「新中央図書館建設検討懇談会」を設置、翌年、提言が出される
平成16年(2004年)3月 「北区立新中央図書館建設基本計画」を策定
平成16年(2004年)11月 プロポーザルにて新中央図書館設計者が決まる
平成17年(2005年)3月 北区新中央図書館基本設計完了
平成17年(2005年)5月 「区民とともに歩む図書館委員会」を設置
平成18年(2006年)3月 新中央図書館実施設計完成
平成18年(2006年)5月 新中央図書館建設記念イベント「内田康夫と赤レンガまつり」を開催
平成18年(2006年)7月 新中央図書館建設着工
平成19年(2007年)10月 協働型図書館のパートナーとして「北区図書館活動区民の会」設立
平成20年(2008年)1月−3月愛称アンケートを実施、「赤レンガ図書館」の愛称決定
平成20年(2008年)3月 新中央図書館建物完成、引渡し
平成20年(2008年)3月 新中央図書館「赤レンガ図書館」が開館、オープニング記念イベント実施
平成21年(2009年)11月中央図書館が「グッドデザイン賞」受賞
平成23年(2011年)10月中央図書館が「日本図書館協会建築賞」「日本ファシリティマネジメント大賞」受賞
平成25年(2015年)   図書館活動区民の会地域資料部が第1回中央図書館ナイトツアーを実施
平成31年(2019年)   中央図書館建物建造100周年
かっぱのおん返し(一)
作画・保垣孝幸

カッパのおん返し
むかしむかし、まだ北区に田んぼや畑がたくさんあった頃のお話です。
岩淵に住んでいる人の多くは、田んぼや畑を耕すかたわら、その合間に荒川で魚を獲って暮らしていました。

河童の話が生まれる水のまち 北区

河童は、日本に伝わる妖怪の中でも鬼や天狗と並んで、最も有名な妖怪の一つです。
また、伝説上の動物とも、未確認生物とも言われます。
日本全国に伝承があり、呼び名や形状も各地方によって様々ですが、標準的な和名である「かっぱ」は、「かわ(川)」 に「わらは(童)」お変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したものと考えられています。

宝暦4年(1754年)の序を持つ「日本山海名物図会」(以下「図会」)には「豊後河太郎」として次のように紹介しています。
形は5,6歳の子どものようで、全身に毛が生え、猿に似ている。
目は鋭い。
いつも浜辺へ出て相撲を取っている。
人を恐れることはないが、近くに寄ると水中へと逃げてしまう。
また、人を水中へ引き入れて殺してしまうことがある。
(河太郎と)相撲を取れば、たとえ勝ったとしても正気を失い、その後、大病になるという。
しきみの抹香を飲ませれば正気に戻る。
河太郎は豊後(大分のあたり)国に多く、そのほか九州の所々に棲息している。
関東にも多い。
関東では河童という。(現代語訳)

これによると、河童は5,6歳の子どものような大きさで、全身に毛が生え、猿に似ているといいます。
河童が子供の姿をして吏、頭の上に水を貯えた皿があるというのは、概ね全国的に共通しています。

河童が相撲好きだという伝承も各地で伝わっています。
「図会」では、たとえ勝ったとしても正気を失い、後に大病になることを記していますが、この他にも負ければ問題ないが、 勝つと不機嫌になり危害を加えるという話も残っています。

人を水中に引き込み殺してしまうという恐ろしい伝承もありますが、一方で人に友好的で義理堅く、 田植や草取りの手伝いを行ったという話は各地に残っています。

こうした河童の伝承をみていくと、古くから川の水霊、水神の化身とみていたことは明らかで、 川や湖、沼など水と関係が深い場所では、各地で河童にまつわる話が残されています。
北区域にも、関東屈指の大河川である荒川が流れ、中央には石神井川が貫流します。
農業用水も各所に張り巡らされており、こうした地域と水との関わりが、河童にまつわる話を生んだものと 思われます。
かっぱのおん返し(ニ)
ある暑い夏の日のことでした。
きょうも岩淵の弥平が、魚を獲りに荒川に行くと、川岸で誰かが倒れているのを見つけました。
「こりゃ大変だ」
弥平が急いで駆け寄ると・・・。

荒川(隅田川)の河童

「カッパのおん返し」は、荒川に住む河童の話ですが、これ以外にも荒川の河童が登場する話があります。
「あかばね漫歩」138号に掲載された「カッパの贈りもの」やも、そんな話の1つです。
ある日、百姓与八のもとに1匹の河童が馬の尻尾の毛を盗みにきます。
あっさり見つかってしまいますが、訳を聞くと、最近さっぱり魚が捕れなくなり、人間の真似をして釣りを してみようと、馬の尻尾を捕りに来たのだといいます。
特別悪さを働くのではないとわかった与八は、河童に尻尾の毛を2,3本抜いて渡してあげました。
すると、翌日、 河童は大判小判がたくさん入った袋を持ってお礼にきたのでした。

「ふるさとに伝わる民話」と題されたこの話でも、親切に接すれば親切で返してくる、義理堅い河童の姿が描かれています。

・石神井川の河童

一方で、石神井川では、人を水中に引き込み殺してしまうという、河童の恐ろしい側面が伝わっています。
扇屋13代目当主である早船彦三氏は、かつて石神井川にも河童がいて、人々は川の主だといっていたこと、そして、 毎年夏になると必ず1人の娘を水の中へと引き込んでいったことを語っています。
その代わりといっては何ですが、1人の娘が犠牲になると、その後は川で死ぬ者は1人も出なかったといいます。
(早船彦三「王子扇屋物語」)。

河童は、尻子玉を抜いて人を殺してしまうといい、水難死を河童の仕業に見立てる話は、石神井川に限らず全国各地で 確認されます。
かっぱのおん返し(三)
それはなんとカッパの子どもでした。
「ありゃ、これはカッパの子どもじゃねえか。」
弥平はそっと抱き起しますが、カッパはぐったりしています。
「おい、大丈夫かい。しっかりしろ。」
声をかけてもピクリとも、うごきません。

・小柳川(小梛木川=おなぎがわ)の河童

小柳川とは、石神井川から分流した農業用水のことで、これを志茂地域では小柳川と呼んでいました。
そもそもこの農業用水は、江戸時代に開削されたもので、下板橋宿根村(現双葉町)の堰で石神井川から 分水し、下板橋宿・十条村・稲付村・赤羽根村・岩淵宿・下(志茂)村・神谷村の7ヶ村が利用していました。
一般的には上郷七ケ村用水といいますが、地域によって様々な異称があり、板橋では中用水、十条・ 稲付では稲付川、岩淵では北耕地川などとも呼ばれています。
現在は暗渠になってしまっていますが、1960年代後半まで水路が残っていました。

さて、この小柳川が流れる志茂地域の糸人は、その年に初めて収穫したきゅうりは、カッパへのお供え物として、 川に流したと言います。
これは、河童が川で遊ぶ子どもたちへ危害を加えないよう祈ってのことだといい、大正8〜9年(1919年〜 1920年)頃まで行われていたといいます(「北区史民俗編2」)。

こうした習俗も、河童は人を水に引き込み危害を加えるという話が前提にありますが、一方でお供え物をして 安全を祈願するという、ある種、河童を水霊・水神としてみていた地域の意識を見て取ることができます。

先にも記した通り、川や湖、沼など水と関係が深い場所で河童にまつわる話が残されています。
「図会」の中で、関東に河童が多いことを記していたのは、中小の河川を含め水上交通が発達し、水と共存して 暮らして来た関東周辺の農村の実態を端的に示しているものと考えられます。

実際に河童が存在したかどうか考えることも面白いかもしれませんが、こうした話が伝わっていることの意味を考えることが、 地域にとって重要だと思います。
かっぱのおん返し(四)
「さあて、どうしたものかな・・・」
弥平が困っていると、ちょうどそこに静勝寺の和尚さんが通りかかりました。
「おや、弥平さんじゃないですか。どうかしましたか。」
「あっ、和尚さん。いま魚を獲りに来たらカッパの子どもが倒れていて・・・」
弥平は、これまでのことを和尚さんに話しました。

・河童あるところに水あり

水界に住み、様々なかたちで人と接触するとされる河童。
知名度抜群の有名妖怪とあって、現在でも、様々なかたちで取り上げられます。
例えば、北区豊島地域で毎年夏に開催される「豊島かっぱ祭り」。
会場では、祭りのキャラクターである河童のカッピーの国、カッピーランドがつくられ、 多彩な催し物が行われます。
会場となっている豊島公園が、水の流れる公園として地域の人々に 親しまれていることにもよりますが、そもそも、この豊島公園自体が、かつて豊島ドックと呼ばれた 運河の跡を埋め立てて造られた公園で、水とは非常に関係の深い場所なのです。

水のあるところに河童の話が伝わるように、逆に河童のいるところには、川や池、沼など何かしら 水にまつわるものがあるのです。

現在では埋め立てられた吏、暗渠になったりと、姿を消してしまった水の痕跡を河童をたよりに 探し出すこともできるのです。
かっぱのおん返し(五)
「どれどれ」
和尚さんはカッパを抱き上げ、じっと様子をみました。
そして何かに気づいたように弥平の方へ向き直ると
「これは頭の皿の水が乾いて動けなくなっているのかも知れません。
弥平さん、川の水を汲んで来て頭にかけてやりなさい」
そう、弥平に告げるのでした。

・「カッパのおん返し」の舞台(一)
江戸時代〜明治初年の岩渕宿

現在の北区岩淵町の一帯は、江戸時代には、武蔵国豊島郡岩淵宿に属していました。
「宿」という名の通り、岩淵宿は、日光御成道の宿場で、日本橋からの距離は、三里十五町 (約13.4km)。
江戸を出発して最初の宿場になります。

宿内には、公用の通行者の宿泊所となる本陣一軒、脇本陣一軒と、人馬の継ぎたてを扱う 問屋場のほか、沿道三町三十一間(約384m)にわたって家並が続いていました。
江戸にほど近いことから宿場の規模は小さく、幕末期の段階で旅籠屋として若松屋の一軒が、 茶屋としては亀屋・大黒屋・加納屋の三軒が確認できるのみとなっています。
一方、家並みが続く街道沿いを除けば、岩淵宿の多くは田畑が広がり、「岩淵村」「本宿村」 などとも記されるように、実際には農村の体をなしていました。

安政2年(1855年)の岩渕宿の状況を確認すると、石高は408石2斗8合で、家の数は115軒。
男319人・女290人の計609人の人々が暮らしていました。
主な産物は、穀物の他に瓜・茄子・牛蒡・三つ葉を生産しており、これを江戸へと出荷して います(「北区史資料編近世2」)。

さて、もう少し詳しく岩淵の人々の暮らしぶりをみていくと、明治期に刊行された「東京府村誌」 には、物産として米のほか、酒・醤油・酢、そして魚のボラを記しています。
兵制に入っても23区唯一の造り酒屋として営業していた小山酒造に代表されるように、岩淵は 昔から米や大豆、麦などを発酵させる醸造業が盛んでした。
江戸時代の終わりごろには「亀屋 吉右衛門」という醤油の醸造家が活躍していたことが知られて おり、明治時代から大正時代でも岩淵では醤油の生産が盛んでした。
また、醤油以上に岩淵で盛んだったのは酢の生産です。
明治時代のはじめには、醤油の生産が1400樽ほどだったのに対し、酢はおよそその3倍、4000樽を 生産していました。
こうした醤油や酢の醸造は岩淵の一大産業だったのです。
かっぱのおん返し(六)
弥平は急いで川辺に行き、水を汲んできました。
そして、頭の皿に水をかけ続けると、カッパはみるみる元気を取り戻していきました。

そして、もう一つの代表的な物産品がボラです。
ボラは、ボラ目ボラ科に分類される大型魚で、ほぼ全世界に分布して食用に漁獲されます。
基本的には海水魚ですが、河口や内湾の汽水域(淡水と海水が混在)に多く生息し、幼魚のうちには大群で淡水域に遡上するといます。
岩淵では、このボラが年間で700尾ほど捕獲されました。

同じく「東京府村誌」には、民業として「飲食店そのほか商家20戸、その他はみな農業に従事する、合間に漁業を兼ねる家あり(現代語訳)」と記しています。
かつての宿場町ですので街道沿いにはそのまま飲食店や商売家が軒を並べていたようですが、岩淵の人々の多くは農業従事者で、中には漁業を兼ねる家々があったようです。

北区域で、荒川(隅田川)沿いの村を挙げれば浮間村・袋村・下村・神谷村・豊島村・梶原堀之内村・舟方村になります。
これらの村々を同じく「東京府村誌」(浮間村は「武蔵国足立郡村誌」)で見れば、物産として魚類を挙げてる村はなく、同時に漁業に従事していた家が存在していたことを示す記事はありません。
当然、これらの村も個人的な範囲で釣りを楽しんだり、漁を行う家もありましたが、これを「生業」として記していたことが確認できるのは岩淵地域だけなのです。

こうしたことからも、岩淵地域が荒川の川魚を対象とした、漁猟の盛んな地域であったことをうかがい知ることができます。
かっぱのおん返し(七)
「ほうら、こんなに元気になりました。」
「もう大丈夫だな」
2人は顔を見合わせて喜びました。

・「カッパのおん返し」の舞台(二)
静勝寺(赤羽西1-21-17)

赤羽西1丁目に所在する静勝寺は、自得山と号する曹洞宗寺院で、寺地は戦国時代の武将である大田道灌の城塁・ 稲付城の跡とされます。
創建年代は定かではありませんが、道灌死後、城跡に道灌寺が草創され、後に静勝寺と改められたといいます。
江戸時代の静勝寺には檀家がおらず、寺院境内以外に所領もありませんでした。
しかし、その境内地は広大で、その収益で経営には困らなかったといいます。(「嘉陵紀行」)。
また、道灌の年忌(ねんき=祥月命日)には太田家から寄付もありました。

村尾嘉陵が著した江戸近郊の紀行文「嘉陵紀行」(文化9年〜天保5年、1812年〜1834年)の記載から江戸時代の 静勝寺の様子をたどると、石段を40段上ると2階部分に鐘を吊るした茅葺の門があり、門を潜ると向かいに大田道灌の祠がある。

その脇に観音堂、本堂が軒を並べみな茅葺屋根だったと記しています。
これを「江戸名所図会」の挿絵で確認すると、日光御成道から続く参道の先に急な石段があり、階上には「楼門」とあります。
楼門を潜り正面にあるのが「御影堂」で、これが「嘉陵紀行」でいうところの大田道灌の祠ということになります。
御影堂の中には、元禄8年(1695年)に像立された木造の大田道灌坐像が収められており、毎月道灌の命日にあたる26日に開扉 (かいひ)されます。
像は、頭を丸めた姿をしており、道灌が剃髪した文明10年(1478年)以降の、晩年の姿を映しています。
現在は、鮮やかな着色が施されていますが、、これは昭和62年(1987年)に行われた修復の際に施されたものです。
御影堂自体は、道灌250回忌にあたる享保20年(1735年)に建立されたもので、座像を収める厨子は、道灌350回忌にあたる 天保6年(1835年)に製作されました。

さて、「江戸名所図会」の挿絵では、境内を囲むように観音堂・本堂が描かれており、これは「嘉陵紀行」の記載とも一致します。
したがって、この図は概ね正確に描かれていると判断して問題ないものと思われますが、この配置は現在の静勝寺境内の 建物配置と一致しています。

寺地は高台にあり、境内への階段脇には「稲付城跡」の碑が建てられています。
周囲の風景は変わってしまっていますが、静勝寺は悠久の景観を今にとどめている貴重な寺院といっていいでしょう。
かっぱのおん返し(八)
元気を取り戻したカッパは、人間におどろいたのでしょう、起き上がるやいなや、一目散に川の中に飛び込んでいきました。
そこかあまた、ちょこんと顔を出すと、何度もなんどもお辞儀をして、川の中へと消えていきました。

・「カッパのおん返し」の背景
御留川と荒川の魚

御留川とは、将軍の漁猟上覧や江戸城内で消費する魚類確保のために設定される禁漁区で、 一般の漁猟活動が禁止されていた河川をいいます。
江戸周辺地域では、多摩川(玉川)と荒川(下流域では隅田川、大川等とも呼びます)が御留川に該当しました。

御留川の制度は、江戸時代初期にまで遡りますが、八代将軍徳川吉宗は改めて須崎村(墨田区)牛御前(牛島神社) 高札場から石神井川との合流地点である北区域の豊島村までの間を御留川に指定しました。
御留川になると幕府が許可した御用猟師以外の漁猟は認められません。
この御用猟師となったのは、小網町白魚役と佃島漁民で、この両者は江戸城へ御用白魚を上納する目的で漁を許されたのでした。
したがって、沿岸部分の村々では、村の地先に川があっても漁業を営むことができなかったのです。

しかし、御留川の範囲が豊島村であったことから、豊島村より上流の村々では、自由に漁猟を行うことができました。
また、荒川に流れ込む石神井川も御留川の対象から外れています。
こうした制度によって、江戸の人々、中でも釣りの愛好家たちは、頻繁に神谷村以北の荒川沿いの村々を訪れることになるのです。

文化年間(1804年〜1818年)に王子の地を訪れた十方庵敬順は、神谷村での遊猟について「装束榎の際から蟹和村(神谷村)へ凡そ14〜15町。
漁猟を愛する人はここに来て漁者を雇い、猟船に乗って釣りを楽しんだ」と記しています。
江戸からやってくる釣り人たちは、御留川の範囲を超えた一番近い場所、すなわち神谷村付近で釣りを楽しんでいたことが知られます。
また、神谷村が釣り人の人気を集めたのは、単に近いからだけではありません。
続いて敬順は、「荒川の魚は格別であり、中でも蟹和(神谷)の鯉は風味抜群である」と記し、神谷村辺りで釣れた鯉を絶賛しているのです。
北区域で江戸庶民の行楽地というと、どうしても飛鳥山の桜や王子神社・王子稲荷神社といった宗教施設を考えがちですが、 実は荒川も人気スポットだったのです。

また、荒川や石神井川の魚は、釣り人たちだけではなく、この地を訪れる多くの行楽客の目的にもなっていました。
大和郡山藩の2代目藩主柳沢信鴻(のぶとき)は、隠居後、文人大名として悠々自適な生活を送っていたことが知られていますが、 彼が記した日記(「宴遊日記」)によれば、信鴻は王子稲荷神社に参拝すると、必ずといっていいほど 茶屋の店先でコイやウナギ、ナマズ、ドジョウなどの川魚類を買って持ち帰り、屋敷の池などに放っていたことが確認できます。
武蔵屋という店では網を打ってコイを捕らせてもいます。
単に信鴻の行楽の一環かとも思いますが、自身が参詣に行けず、代わりの者が代拝したときにも川魚類を持ち帰らせていることを考えると、 こうした川魚の購入自体が王子周辺の地を訪れる一つの目的であったことが うかがえるのです。
かっぱのおん返し(九)
それからというもの、荒川では毎日のように魚がたくさん獲れるようになりました。
岩淵の人たちは、これはカッパのおん返しだろう、とうわさし合ったそうです。

・「カッパのおん返し」の所縁の地を訪ねて
「荒川」の河川敷を歩く

明治3年(1910年)の大水害を契機に、荒川放水路の開削が始まり、岩淵水門が建設されました。
その後も度重なる改修工事が行われ、現在の荒川岸は、荒川岩淵関緑地として整備され、河川公園へと 様変わりしています。
土手には芝生が広がり、道も整備されているので散歩コース・ジョギングコースとしても人気があります。
緑地内にはバーベキュー広場もあり、休日は多くの家族連れで賑わっています。
北区を代表する景観の一つです。

また、岩淵水門の近くには、荒川の自然や歴史について調べる荒川知水資料館(アモア)があります。
中には展示室があり、スタッフによる展示解説なども行われています。
荒川と親しむ人たちの活動拠点であると同時に交流の場であり、ここを拠点として、荒川の生物調査や 歴史調査など様々な活動が展開されています。

かつて河童が生息していたとされる荒川も今ではすっかりきれいになっていますが、往時を想像しながら 河川敷を散策するのも面白いかと思います。
飛鳥山公園(北区)
江戸時代の中頃、将軍・徳川吉宗が庶民たちの憩いの場にしようとサクラを植えたのが 始まりと伝えられる由緒ある公園。

広々とした園内の各所には約650本のサクラをはじめ、1万5000株のアジサイが植えられ、 春から初夏にかけて見事な花を咲かせる。
広場には懐かしいSLや都電の展示もある。
紙の博物館(北区)
紙のできる工程や、

実物の紙バルブ製造機械、美術工芸品など、紙に関するさまざまな資料を展示。
北区の日常
・寿徳寺(滝野川)

・十条銀座(十条)

・十条駐屯地(十条台)

・十条富士(中十条)

・渋沢栄一

・石神井川

・金剛寺(滝野川)

・四本木神社(滝野川)

・昌林寺(西ケ原)

・蝉坂(上中里)

・城官寺(上中里)

・四本木神社(滝野川)

・新選組(滝野川)

・清光寺(豊島)

・新豊橋(豊島)

・石神井川

・飛鳥山薪能

・紙の博物館

・須賀線

・飛鳥山(王子)