北区以外のお気に入り(一)


根津神社(文京区)
将軍の氏神となった日本武尊創建の神社

一説によると「根津」という地名は日本武尊が根津神社を創建した際に「ここは国の根、国の津たり」と言ったことによるという。
根は尾根の麓、津は港を意味する。
つまり根津は海に突き出した尾根の麓にある港ということになる。
交通の要衝であったに違いなく、大田道灌が社殿を寄進いたというのもこのことと深く関わるであろう。
鳥越神社・寄木神社・吾妻神社など少なからぬ日本武尊創建神話を持つ東京の神社が、水運に関わる場所に鎮座しているというのは興味深い。

しかし、近世まで根津神社は小さな社であったらしい。
大社に変貌するきっかけは第5代将軍徳川綱吉が世継ぎに定めた家宣の氏神となっていたことであった。
綱吉はこれを将軍にふさわしい神社とすべく諸侯に命じて造営を行い、現在見られる華麗な社殿群を造った。

社殿は徳川綱吉によって1706年(宝永3年)に造営された社殿群はその華麗さなどから重文に指定されている。
つつじ苑は訳2000坪の苑内に100種3000株のつつじが植えられている。
花の期間のみ開苑。
(渋谷申博著「歴史さんぽ 東京の神社・お寺めぐり」株式会社G.B.参照)

東京都文京区根津1丁目28−9
仲見世通り(台東区)
約250mの通りに和菓子屋や飲食店、和小物の店など、90もの店舗が軒を連ねる。
1年中を通して多くの人々で賑わいを見せる。
浅草のメインストリートだ。
日本で最も古い商店街の一つとして、その歴史は江戸時代からと言われる。
戦災で一度は全焼したものの、仲見世の人々の努力によりいち早く復興を遂げ、浅草寺への参道として常に活気づいている。
(枻出版社「東京散歩江戸下町歩き」参照)

いつ行っても大勢の観光客で賑わっていますが、特に年末年始は凄い人出です。
あげ饅頭に舟和の羊羹、お煎餅に雷おこし、食べたい物があり過ぎて困ってしまいますね(笑)。

★東京都台東区浅草1丁目20
雷門(台東区)
浅草寺の山門で浅草のシンボル。
初めて浅草を訪れたら、まずここで記念撮影がお決まり。
幾度となく焼失し、現在のものは昭和35年(1960年)に松下幸之助の寄進で造営されたもの。
左に風神、右に雷神が安置され、門の下に下がる提灯は周囲3.3m、高さ3.9m、重さ700kgというビッグサイズ。
(交通新聞社「散歩の達人 東京下町散歩」参照)

          ☆           ☆          

「雷門」と書かれた赤い大提灯。
浅草のシンボル・雷門の前は、記念写真におさまる国内外の人びとでいつも賑わっている。
雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風来神門」という。
その創建年代は詳らかではないが、平公雅(たいらのきみまさ)が天慶5年(942年)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わる。

風来神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることかに由来する。
総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。
風神と雷神は名の通り風雨を司る神であり、風水害を除け、伽藍を鎮護するために祀られた。
同時に、風雨順時と五穀豊穣の祈りも込められている。

風来神門がなぜ「雷門」と呼ばれるようになったかは不明であるが、文化年間(1804年〜1818年)の川柳に、「風の神雷門に居候」という句が見え、この頃には雷門という名称が一般化していたようである。
雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返している。
寛永12年(1635年)に建立された門が寛永19年(1642年)に焼失したのち、徳川三代将軍家光の発願により慶安2年(1649年)に再建。
旧来の門を上回る美観を呈した。
しかし、この慶安の雷門は明和4年(1767年)に駒形町からの失火で焼失。
やがて寛政7年(1795年)に再建され、この頃から提灯の奉納が行われるようになった。

寛政の雷門は、歌川広重、渓斎英泉、歌川豊国;魚屋北渓などの浮世絵師の好画題となり、今に作品が伝えられている。
しかし、幕末の慶応元年(1865年)、浅草田原町からの失火により雷門まで延焼してしまう。
この慶応の消失により実に95年間も雷門は再建されなかった。
現在の門は、昭和35年(1960年)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建された。

当時、松下氏は関節痛を患っていたが、それを聞いた当山(浅草寺)中興第24世清水谷恭順(しみずだにきょうじゅん)貫主がご本尊に祈願したところ快復し、その御礼の意を込めて松下氏個人で寄進されたものである。
江戸時代の様式を生かした造りであり、堂々たる風格を漂わせている。
慶応の火災の際、風神、雷神像は頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874年)に身体部分を補った。
昭和35年(1960年)の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意により、補修・彩色されたのが現在の像である。

(「浅草寺公式サイト」参照)
★東京都台東区浅草1−2
池波正太郎生誕地碑(台東区)
池波正太郎は、大正12年(1912年)旧東京市浅草区聖天町61番地で誕生しました。
現在の東京都台東区浅草7丁目3番付近、「待乳山聖天」の南側にあたります。
関東大震災によりこのあたりは焼失し、生家は残されていませんが、「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ」と記し、 作品には待乳山や近くの今戸、橋場などをたびたび舞台として描いています。
平成19年(2007年)11月、台東区立待乳山聖天公園に生誕地碑が建立されました。
(「池波正太郎公式サイト」参照)

          ☆           ☆           ☆          

池波正太郎生誕の地、台東区浅草聖天町(旧東京市浅草区聖天町61番地)に、平成19年(2007年)に記念碑が建立されました。
生家は、待乳山聖天の南側(現台東区浅草7丁目3番付近)にありましたが、関東大震災で焼失しました。
(「台東区文化ガイドブック」参照)

★ 東京都台東区浅草7丁目4−9
すがもん(豊島区)
すがもんは鴨の国からやってきた12歳の男の子。
今や巣鴨地蔵通り商店街のシンボルカラーともいえそうな真っ赤なハッピを着て、縁日やイベントなどに現れる人気者だ。
彼のお尻に触ると恋愛成就するとかしないとか・・・・・・。
(株式会社交通新聞社「散歩の達人No.263」参照)

          ☆           ☆           ☆          

いつもいるわけではなくてイベントの時だけ出て来るすがもん。
自力で動けないのか?台車に乗せられて移動しているのを見かけたこともあります。
とにかく可愛くて今一番お気に入りのゆるキャラです。
巣鴨地蔵通り商店街はすがもんグッズで溢れていますが、さすがに買い集めるほどじゃないかな(笑)。

郵便局前にあるポストの上にも乗っかってて、外人さんとか大喜びで写真を撮ってますね。
すがもんの巨大なお尻も飾ってあって、さわると御利益があるとの事でみんな触って行くので今ではなんだか黒くなってきました。

★東京都豊島区18 巣鴨4丁目22−8(巣鴨地蔵通り商店街)
江戸東京博物館(墨田区)
敷地面積が東京ドームの約2.4倍という広大な博物館。
2フロアからなる常設展示は江戸、東京、通史の3ゾーンに分かれており、数々の復元模型や実物資料、複製資料を展示する。
とくに江戸ゾーンにある実物大の日本橋(北半分)や芝居小屋、長屋などの模型は臨場感たっぷり。
ほかに文明開化期や東京大空襲などの展示もあり、江戸時代から現在にいたる東京の歴史・風俗を学べる。
平成5年(1993年)に開館し、年数回の企画展も開催。
地下1階から7階までの館内には、映像ライブラリーやミュージアムショップレストランなども。
(昭文社「東京下町を歩く」参照)

          ☆           ☆           ☆          

東京都江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として平成5年(1993年)3月28日に開館しました。
高床式の倉をイメージしたユニークな建物で、開館以来、東京を代表する観光スポットとして、多くのお客様にご来館いただいております。
常設展は、徳川家康が江戸に入府してから約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介しています。
さらに、1階展示室で開催される年5〜6回の特別展に加えて、講座や体験教室など様々な活動を展開しています。
東京の新しい文化創造の拠点として、また皆様の憩いの場として、大いに活用していただけることを願っています。
(公式サイト参照)

★東京都墨田区横網1-4-1
入谷鬼子母神(台東区)
散歩のスタートは入谷駅。
まずは、江戸中期の狂歌師・大田蜀山人の作とされる「恐れ入り谷の鬼子母神」で有名な「鬼子母神」こと真源寺へ。
入谷のシンボルの参拝を済ませたら、言問通りを西進して、三冬が住む「和泉屋」の寮(別荘)をさっそく目指そう。
(朝日新聞出板「池波正太郎が愛した江戸をゆく」参照)

☆ ☆ ☆

夜叉神の娘・鬼子母神は人の子を食っていたが、釈迦に自分の子を隠されて改心し、安産・子育ての神となる。
境内には、鬼子母神が右手に持つザクロの木が植えられている。
ザクロは人肉の味にもっとも近いとか。
(朝日新聞出板「池波正太郎が愛した江戸をゆく」参照」参照)

★東京都台東区下谷一丁目12番16号
高木屋老舗の草だんご (葛飾区)
まずおそれぞれを味わい、からめて本領発揮の箱入り団子。
葛飾・柴又で100余年、変わらぬ人気の草団子。
毎日、その日に使う分のコシヒカリを挽いて粉にした生新粉を使うため、もちもちとやわらかく伸びがいい。
筑波山麓で栽培したヨモギの新芽を使っているため、爽やかな香りも抜群!
蒸気でふっくらと蒸し上げ、うまみを凝縮した北海道産の小豆のつぶ餡とからめて食べれば、一層みずみずしい味に。
(マガジンハウス「ananNo.1890」参照)

★東京都葛飾区柴又7-7-4
護国寺(文京区)
・・・・・・近藤勘四郎が久栄に指定してよこした「よしのや」という茶店は、護国寺前の西端、 西青柳町の子育て稲荷のとなりにあった。
勘四郎の指定どおり、翌日の四ツごろ、久栄は供の者もつれずに只一人、よしのやの前へあらわれた。 (むかしの男)

☆☆☆

護国寺は、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺。
神齢山悉地院大聖護国寺と称する。
天和元年(1681年)2月7日、徳川綱吉は母、桂昌院の願いをうけ、高崎の大聖護国寺住持であった亮賢に高田薬園の地を与え、 桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じた。
本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。
本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。
江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。
江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があった。(Wikipedia)

★東京都文京区大塚5-40-1
清水観音堂・上野公園(台東区)
この岡場所にいる娼妓は「けころ」とよばれてい、二間間口の格子戸をつけた店構えで、妓たちは素人ふうの着つけをして 見世にならぶ。
目と鼻の先の、将軍家の菩提所である東叡山・寛永寺の僧たちも、隠れ遊びに来る岡場所だけに、町奉行の監視の目も ゆるやかだし、妓たちの収入(みいり)も他の岡場所にくらべると、なかなかによいらしい。
(五月闇)

☆ ☆ ☆

清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536〜1643)によって建立されました。
天海大僧正は寛永2(1625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。
これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。
そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺を見立てたお堂です。
清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、 初めは上野公園内の「摺鉢山」に建てられました。
しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。
上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。
(寛永寺ホームページ)

★東京都台東区上野公園1-29
「白蝮」より谷中霊園(台東区)
谷中は、徳川将軍の菩提所であり、天台宗の関東総本山でもある東叡山・寛永寺をひかえた上野の台上にあり、市中の雑踏を離れた別天地といえよう。

この遊所を、長谷川辰蔵に教えたのは、おそらく忠吾(うさぎ)であろう。 (白蝮)

こちらもなかなか生臭さのある、それでいて凄烈な話。
日暮里駅から毎年夏になると向かう全生庵(幽霊画を見に行く)、その道筋に谷中霊園はあります。
なので私が谷中霊園を訪れるのはいつも夏。
いずれにしてもこの界隈に辰蔵や忠吾が戯れた場所の面影はありません。

余談ですが、私はこの「白蝮」をずっと「しろなまず」と思い込んでいました。
語感の気味悪さがだいぶ愛嬌者のイメージに変わってしまっていたのですが、物語全体の雰囲気はそのままに読んでいたように記憶しています。
思い込みって怖いですね。

★東京都台東区谷中7-5-24
吉良上野介屋敷跡(墨田区)
討ち入りの舞台となった吉良邸は、間口70メートル、奥行き150メートルもある広い屋敷で、回向院に隣接していた。
現在、敷地内の一部が本所松坂町公園として整備されている。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

☆ ☆ ☆

本所松坂町公園 (ほんじょまつざかちょうこうえん)は、東京都墨田区両国にある区立公園。
高家肝煎を引退後に吉良義央の邸宅があった跡地。
赤穂浪士によって吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久ら二十余人が討たれた(元禄赤穂事件)現場である(本所松坂町は当地の旧名)。
(Wikipedia参照)

★東京都墨田区両国3-13-9
首洗い井戸(墨田区)
本所松坂町公園内に残る井戸。
ここで吉良の首を洗ったと伝えられている。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区両国3-13-9
小泉商店(港区)
泉岳寺門前にあるみやげ店。
店頭に掲げられた山鹿流陣太鼓が目印。
おすすめは山鹿流陣太鼓2700円〜や陣太鼓キーホルダー400円、起き上がり大石600円など。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★ 東京都港区高輪2丁目1−30
大石内蔵助良雄銅像(港区)
内匠頭が留守の際、城を守っていたのが家老・大石内蔵助。
泉岳寺山門そばには元禄羽織を着て、連判状を手にした内蔵助像が立つ。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)


★ 東京都港区高輪2丁目1−30
長谷川平蔵住居跡(墨田区)
平蔵宣以が19歳の時に父の屋敷替えで本所・菊川に移転した。
屋敷は1238坪の広さで、三之橋から南に延びる三ツ目通りに面していた。
現在は地下鉄菊川駅の出口周辺にあたる。
長谷川家は三方ヶ原の戦い以来の御家人で、家禄は500石。
天明6年(1786年)に平蔵は火付盗賊改方に昇進、以来8年間務めた。
このとき加増され1500石。
寛政7年(1795年)に、この地で病没している。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区菊川3-16
戒行寺(新宿区)
戒行寺はかつて長谷川家の菩提寺で、今は移転のために墓は見られないが、境内の右手奥に 長谷川平蔵宣以供養之碑がある。
秩父産の鬼石を使った石碑で、左下には歴史作家の釣洋一氏が記した平蔵の略歴が刻まれている。
この碑は平成6年(1994年)7月17日、ファンの声で建立された。
今も鬼平ファンが訪れる戒行寺。
境内に立つ供養碑は、鬼平にちなんで、埼玉・秩父産の鬼石を使っている。
鬼平の功績が記されている。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★ 東京都新宿区須賀町9-3
回向院(墨田区)
吉良の首級をあげた浪士達は回向院の前を通り、両国橋へ向かったという。

(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区両国2丁目8-10
石川島灯台(中央区)
平蔵は火付盗賊改方として取り締まりと同時に、捕まえた罪人を有効に利用し、更生させる方法も 考えていた。

それが老中松平定信に提案した「石川島人足寄場」。
現在は模して造られた灯台が立つ。

・人足寄場の跡に立つ石川島灯台。
わずかに昔風の面影を残す。

・灯台周辺はマンションや高層ビルが立ち並び、近未来的な雰囲気。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都中央区佃1丁目11-4
笹乃雪(台東区)
江戸で初めて絹ごし豆腐を出した店。

上野東叡山の輪王寺宮に献上いたところ、「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と絶賛した。
ここでは豆腐を豆富と書き、良質の地下水を使って、必ずその日の朝に作ったものだけを出す。
コース5000円、まず豆富だけが出され、続いて創業以来の名物であるあんかけ豆富、シイタケや 鶏のササミ入りのかけ醤油豆富など、独自の豆富料理が味わえる。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都台東区根岸2丁目15-10
いせ源(千代田区)
東京で唯一、あんこう鍋を専門に出している。

もともと茨城県の郷土料理なので、現在も鹿島や大洗などで獲れた大ぶりのあんこうを使う。
これを泥を抜き、骨を1本ずつ抜いて鍋にする。
鍋は肝、皮、白身、卵巣、胃袋、ヒレとほぼ全身を使い、三つ葉、ウド、キヌサヤ、ギンナンなどの 野菜と一緒に煮る。
ツユは醤油味。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都千代田区神田須田町1丁目11-1
玉ひで(中央区)
創業以来、御鷹匠仕事と東京軍鶏にこだわった鶏料理を出している。

東京軍鶏はよく運動するので筋肉質で身が締まっているんです。
鶏では一番いしいと思います」と、8代目の山田耕之亮さん。
名物の軍鶏鍋は、割下を入れて胸肉、モモ肉、レバー、砂肝、手羽を煮込む。
柔らかく歯ごたえのある味だ。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都中央区日本橋人形町1丁目17-10
江戸東京博物館(墨田区)
両国国技館の東側に建ち、中世の高床式の倉をイメージした造りが独特の雰囲気を創り出している。

地上約62mは、かつて江戸八百八町の中心にそびえていた江戸城天守閣と同じ高さという。
館内には常設展示室と映像ホール、ライブラリー、図書室などがある。常設展示は江戸、東京、通史の3ゾーン。
江戸ゾーンでは再現された日本橋、芝居小屋などが見どころ。
・外観
未来映画に登場しそうな建物は高床式を連想。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区横網1丁目4-1
両国橋西詰(墨田区)
江戸時代を代表する盛り場だったのが隅田川に架かる両国橋の西側。

芝居小屋が並び、にぎわう様子を30分の1のスケールで紹介。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区横網1丁目4-1
寛永の大名屋敷(墨田区)
江戸城大手門前にあった越前福井藩主・松平伊代守忠昌の上屋敷の30分の1模型。

桃山風の豪壮な造りで、明暦の大火以降は姿を消したという。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区横網1丁目4-1
歌舞伎の仕掛け(墨田区)
「東海道四谷怪談」の舞台のからくりを紹介する模型。

提灯抜け、仏壇返し、壁抜けなどの仕掛けの裏側が見えるようになっている。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区横網1丁目4-1
芝居小屋・中村座(墨田区)
境町(現在の日本橋人形町3丁目付近)にあった芝居小屋を原寸大で復元。

まねきが並び、顔見世興行のにぎわいを伝えている。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区横網1丁目4-1
絵草紙問屋(墨田区)
芝明神前三島町(現在の港区芝大門)にあった和泉屋市兵衛の甘泉堂という店をもとに構成。

当時は事件を絵入りの草紙で紹介していた。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区横網1丁目4-1
助六の舞台(墨田区)
江戸歌舞伎を代表する演目が「助六」。

衣装や大道具、小道具など、江戸時代後期の典型的な造りを舞台の上に再現した。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都墨田区横網1丁目4-1
江戸東京たてもの園(小金井市)
小金井市の小金井応援内にある江戸東京博物館の分館。

江戸から昭和初期にかけての建物を屋外展示している。
7万平方メートルの敷地に25棟の建物がある。
平成12年(2000年)には35棟になる予定。
江戸時代のものでは農家や組頭の家など、6棟が展示されている。
(旅行読売出版社「江戸散歩」参照)

★東京都小金井市桜町3-7-1
大手門(千代田区)
江戸城を巡り開府の面影をたどる。
(江戸時代前期・慶長8年〜慶安4年・(1603年〜1651年・初代家康〜三代家光)
幕府が開かれ、江戸城を中心に街づくりを開始。
幕藩体制の整備も進められた。

天正18年(1590年)、徳川家康が江戸城に入った頃、江戸一帯は湿地が広がる片田舎にすぎなかった。
しかし、直後から城の修復工事がはじまり、城下町も建設。
さらに慶長8年(1603年)、江戸幕府が誕生した頃からは、天下普請による本格的な拡張工事が推し進められ、全国一の巨大城郭へと進化した。

本城は、現在の皇居の内堀に囲まれた部分で、その面積は約30万坪(東京ドームの建物21個分=1個46000平方メートル)。
慶長12年(1607年)には最初の天守閣が建てられこの時期に本丸や二の丸などの石垣工事も行われた。
工事は三代家光の時代まで続き、ひととおり完成したのは寛永期(1630年代)だった。

現在の皇居周辺には、江戸時代初期の史跡が多数残っている。
天守閣の石垣をはじめ、大奥の名残を留める遺構、寛永年間(1624年〜1644年)に築かれた城門、さらには城内警備を司っていた番所……。
いずれも開府時代の面影を色濃く残すスポットだ。
260年余続いた江戸幕府。
その中心地を訪ねれば、栄枯盛衰の歴史の源流が見えて来るだろう。

大手門。
数々の大名を迎え入れた江戸城の正門。
大小2つの門が枡形に配置されており、敵に侵入されても応戦しやすい構造になっている。
常に鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋(すじ)、持筒2挺、持弓2組の警備が配置されるなど、非常に厳重に守られていた。
(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区千代田1-1
宮内庁三の丸尚蔵館
皇室ゆかりの国宝級展示品が並ぶ。

古来から皇室に受け継がれてきた美術品・工芸品など約9800点を展示。
いずれも昭和天皇から寄贈されたもので、国宝級の品々ばかり。
江戸時代初期に描かれた「唐獅子図屏風」なども見られる。
香淳皇后、秩父宮家、高松宮家、三笠宮家の品々や、国内外からの寄贈品も収蔵。
(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区千代田1-1
御成門(港区)
華やかな建造物に将軍家の威光を見る。

ゆかりの寺社を歩いて徳川家の隆盛を体感。 初代徳川家康は旗印に「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という浄土宗の言葉を掲げるほど、仏教に帰依していた人物。
江戸の町を造るにあたっても、菩提寺である寛永寺と増上寺を鬼門と裏鬼門の方角に置き、町を災いから守ろうとした。
さらに菩提寺を守護するように東照宮を建て、鬼門鎮護を厚くしている。
これらの寺社には、徳川家繁栄への願いが込められているとともに、権力者が持つ財力や威光が透けて見える。

とりわけ増上寺の権勢はすさまじく、往時の面積は約24万坪を誇り、壮大な伽藍(がらん)を屹立。
庶民には近づきがたい絢爛豪華な境内が広がっていた。
そのため庶民が通ったのは愛宕山(愛宕神社)や芝大神宮、日枝神社など。
芝・虎ノ門一帯には、権威の象徴だけでなく、行楽地も混在していたのである。

現在も、増上寺をはじめとする寺社の数々は、往時の姿を留めている。
彫刻美をたたえる建造物を眺めるもよし、緑に囲まれた古社を巡るもよし。
江戸の縮図ともいえる警官が、この地には残っている。

御成門。
東京プリンスホテルの敷地の北側に建つ。
明治25年(1892年)に現在の日比谷通りが整備されるまで、この門は100mほど北東の御成門交差点付近にあった。
将軍が参詣する際に使われたことから、御成門と呼ばれるようになった。
(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区千代田1-1
黒江屋(中央区)
大店が連なる江戸きっての商人町へ。

全国から商店が集まった商取引の中心地・日本橋

慶長8年(1603年)に橋が完成し、翌年にのちの五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の 起点に定められて以来、全国の交通網の中心地となった日本橋。
幕府が、駿河や大阪、伊勢などから呼び寄せた商人・職人を一帯に住まわせ、さらに日本橋川などの運河も 整備したことで、江戸最大の商人町・問屋町が連なる都市へと発展していった。

特に日本橋の活気を象徴していたのが橋のたもとに広がっていた魚河岸。
幕府や大名たちに納めていた魚の残りを庶民に販売しはじめたことで近海諸地方から漁船が集中。
一日に千両もの取引があったという。

さらに陸でも、越後屋(現在の日本橋三越本店)が「店前現金掛け値なし」を謳い人気を博す。
掛け値とは高く釣り上げられた値段の事。
この商法いより、江戸の庶民達は従来より安く品物を買えるようになった。

現在の日本橋周辺には、当時から続く老舗店が数多く残っている。
かつての風景を想起しながら散歩するのも楽しい。

黒江屋。
創業者は元禄2年(1689年)、紀伊国の黒江村より江戸の日本橋本町へ出て漆器商をはじめた。
店頭には万治元年(1658年)に作られた日本橋の擬宝珠(ぎぼし)を展示している。
かつては諸大名相手に高級湿気を販売していたが、現在は一般向けの漆器も手頃な価格で提供する。
(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区日本橋1-2-6
小石川後楽園(文京区)
大名庭園と行楽地に残る江戸の雅を訪ねて。

将軍と大名達の思惑が宿る美しい景観の数々。

参勤交代により、江戸と領国を1年おきに往来していた大名達は、江戸在勤中に住む屋敷にさまざまな意匠を凝らすようになった。
特に将軍と縁戚関係にある藩主や信仰の深い藩主は、将軍が屋敷へ訪問する「御成」などに備え、競って豪華な庭を造園した。
例えば小石川後楽園は徳川御三家・水戸家の上屋敷。
六義園は五代綱吉の御用人を務めた柳沢吉保の下屋敷。

いずれも将軍家に親しい面々だ。
美しい庭園を所有することは、大名達にとって権威の象徴でもあった。

さらに八代吉宗の時代になると、将軍や大名達が享受していた美の世界が、庶民へと広がっていく。
将軍が鷹狩りを楽しんでいた地(鷹場)に桜を植え、庶民が行楽地として活用できるよう整備したのである。
これにより生まれたのが飛鳥山公園など。
将軍が行楽地を庶民に下賜したことで、幕府への信任が厚くなり権威はいっそう高まった。

今も残る庭園や行楽地の背景には、こうした権威の誇示が隠されている。
往時の側面を知る貴重なスポットといえよう。

小石川後楽園。
水戸徳川家の祖・頼房が造営し、二代藩主光圀の時代に完成。
庭園の中心に池を配した回遊式築山泉水庭園になっており、湖や山、川、田園などの景観を表現している。
春のサクラや夏のショウブ、秋のモミジなど四季折々の彩り画楽しめる。
(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都文京区後楽1-6-6
浅草寺(台東区)
庶民文化が花開いた娯楽三昧の下町を歩く
見世物、寄席、大相撲・・・
庶民の娯楽文化が発展

江戸時代に町人達の心の拠り所となっていたのが「盛り場」。
すなわち繁華街のことである。
その一大拠点となっていたのが、浅草寺界隈。
古くから信仰を集める寺社はおのずと人が集まるため、その周りにはさまざまな店が立ち並んだ。

なかでも庶民の好奇心を刺激したのは見世物小屋。
曲芸やサーカス的なおのから、珍動物や精巧な細工などを見せるミュージアム的なものまであり、実に多彩だった。
さらに歌舞伎に代表される芝居小屋が人気を博し、江戸落語の発祥にyり寄席も生まれると、さらに「盛り場」は繁栄。
浅草は江戸随一の行楽地へと発展した。

また、貞享元年(1684年)に富雄k八幡宮で幕府後任の勧進相撲(寺社の修復費用を賄う目的で実施)が行われると、 空前の相撲ブームへ。
明和5年(1768年)には両国の回向院境内でも勧進相撲が開催され、庶民を熱狂させた。
浅草・両国の寺社を中心に散策し、江戸時代の娯楽を体感してみてはいかがだろうか。

浅草寺。
創建は7世紀までさかのぼる都内最古の寺院。
江戸時代には、初代家康から徳川家の祈願所に定められ、厚い庇護を受ける。
観音霊場として庶民からも親しまれ、貞享2年(1685年)頃には仲見世と呼ばれる商店が誕生。
一大行楽地として人気を博した。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区浅草2-3-1
長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡(墨田区)
鬼平ゆかりの捕物の舞台へ

水運で栄えた新興地に鬼平スポットが点在

池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で知られる「鬼平」こと長谷川平蔵は、深川界隈で活躍した 実在の人物。
火付盗賊改役として約8年間にわたり数々の凶悪事件を取り締まった。

当時の深川は、江戸市民の生活ゴミや火災の焼土によって埋め立てが行われ、併せて運河が整備 されたことで一大水運都市として賑わっていた地。

岡場所(幕府非公認の遊郭)も数多く、一時は吉原に迫るほどの活況を見せていたという。
しかし、天明の飢饉(1782年〜1787年、天明2年〜天明7年)を境に治安は乱れ、凶悪事件が 多々勃発。
そこで鬼平が活躍することになるのである。

現在の深川周辺は、かつての新興地の面影を色濃く残し、道は碁盤の目のように走り、ところどころに水路も 流れている。

町を歩けば、長谷川平蔵屋敷跡や二之橋おはじめ、「鬼平犯科帳」に登場する名所がそこかしこに見られる。
物語の世界と史実の捕物の舞台、両方を見て回ることができる町なのだ。
鬼平気分で街を闊歩してみてはいかがだろうか。

・長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡

鬼平こと長谷川平蔵が暮らした屋敷跡。
19歳のとき築地からこの地に移転。
若い頃は放蕩三昧だったが、火付盗賊改役となってからは、盗賊逮捕に実績を上げ、町の治安に貢献した。
その後、江戸町奉行・遠山金四郎もこの地に居宅を構えた。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都墨田区菊川3-16
湯島聖堂(文京区)
江戸の若者達が闊歩した学問所や私塾集まる町へ

・立身出世を夢見た武士達が行き交った町

旗本や御家人のほか、全国から藩士達が集まった江戸。
中期ごろには学問で身を立てようとする学者の多くも江戸に出て来、教育に対する土壌が醸成された。
市内には読み書きを教える寺子屋(手習塾)から高水準の学問を指導する私塾まで、多彩な塾が誕生。
最盛期には4000軒以上の塾が存在したという。

こうした学問所の頂点に君臨していたのが、湯島にあった幕府直轄の昌平坂学問所。
朱に旗本・御家人の指定を対象に官僚育成教育を行い、筆記試験なども実施。
好成績を修めると役職への登用や昇進などがあり、立身出世の貴重な手段でもあった。

湯島一帯を歩くと、昌平坂学問所が置かれた湯島聖堂をはじめ、剣術道場跡地や蕃書調所 (洋学研究教育研究機関)跡など往時の学舎跡が点在。
湯島は現在の学生街に近い土地柄だったことがわかる。
また、安政期に蘭方医達が日本初の予防接種を行った種痘所跡など、学問で身を立てた偉人達ゆかりの地も 点在。
往時の若者達が抱いた志に想いを馳せながら、散策してみよう。

・湯島聖堂

初代家康に仕えた儒学者・林羅山が上野に建てた聖堂が起源。
元禄期に現在地に移され、寛政9年(1797年)に幕府直轄の昌平坂学問所が開設された。
敷地内の大成殿は昭和10年(1935年)に再建されたもので、当時の規模を再現している。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都文京区湯島1-4-25
台場公園(港区)
異国の波が寄せた開国前夜の時代を訪ねて

・江戸防衛のため築かれた台場や砲台跡をひと巡り

嘉永6年(1853年)、浦賀(現在の横須賀市)沖に4隻の黒船が現れた。
乗船していたのは、アメリカ東インド艦隊司令長官・ペリー。
幕府は、長崎へ回航するよう求めたもののペリーに拒否され、浦賀から程近い久里浜でアメリカ大統領の親書を受け取った。
内容は、通商条約締結を求めるもので、ペリーはその回答を得るため翌年来航する旨を伝えて去っていった。

これに慌てた幕府は、急ピッチで江戸の防衛体制を強化する。
こうして造られたのが、台場(砲台を置くための海上要塞)や、品川の海岸沿いに跡が残る砲台である。
ちなみに築造に要した額は約75万両。
現在の価値に置き換えるとやく75億円に相当する。
幕府がいかに異国を警戒していたかがわかるだろう。

また、西洋式の調練も導入され、築地に講武所や軍艦教授所(後の軍艦操練所)も開設。
軍制改革に着手しはじめる。

お台場や築地周辺に残る砲台跡などの史跡を訪ね歩けば、太平の世から動乱の時代へと移りゆく過程を追体験できるだろう。

・台場公園

嘉永7年(1854年)に築かれた台場(海上の砲台)跡。
江川太郎左衛門英龍の手により、約8ヵ月という短期間で築造。
もともと11ヶ所造る予定だったが、資金の関係で完成したのは5ヶ所。
そのうち第三台場が史跡公園として開放されている。
(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都港区台場1
近江彦根藩井伊家屋敷跡(千代田区)
幕末動乱の引き金となった二大事件の舞台を巡る

・天下を揺るがした桜田門外・坂下門外の変

安政7年(1860年)3月3日、季節外れの雪が舞う日に、幕府を震撼させる事件が勃発した。
時の大老・井伊直弼が、水戸藩及び薩摩藩の浪士18人に襲われて落命したのである。
いわゆる「桜田門外の変」。
この事件により、幕府の権威は地に落ちた。

さらに、わずか2年後の文久2年(1862年)、井伊直弼死後の幕政を取り仕切っていた老中・安藤信正を、またしても水戸浪士6人が坂下門外で襲撃。
老中を負傷させるに至った。
この事件により安藤信正は老中を罷免され、所領も減封されている。

この二大事件は、幕府がすでに絶対的な存在ではなくなったことを世に知らしめた。
そして、政治闘争を武力によって解決しようとする新たな動きは、この後一気に加速し、幕末の動乱期へと突入していく。

今も当時と変わらぬ姿で立つ桜田門と坂下門。
歴史のターニングポイントとなった地に立ち、往時の「熱」を体感してみてはいかがだろうか。

・近江彦根藩井伊家屋敷跡

井伊家の中屋敷が広がっていた地。
中屋敷とは、大名が隠居後に暮したり、嗣子(しし)が住む屋敷のこと。
天明年間(1781年〜1789年)に井伊家の庭園に植えられていたというイヌマキとカヤの木あ残っており、往時を知る貴重なスポットとなっている。
(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区紀尾井町4-1ホテルニューオータニ東京内
池上本門寺(大田区)
江戸城無血開城ゆかりの地を歩く

・江戸の危機を救った2人の英雄の足跡をたどる

慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで惨敗を喫した旧幕府軍。
徳川慶喜は武力による対抗に限界を感じて主戦派の重臣を退け、勝海舟ら恭順派を中心にした 組織編成を行った。
慶喜自身は上野の寛永寺に謹慎し、恭順の姿勢を内外へ明確にした。

しかし、西郷隆盛らが率いる新政府軍は、徳川家並びに慶喜を徹底的に叩くことで新政府の基礎を確立しようと考えていた。
江戸城総攻撃を3月15日と定めて進軍し、強硬方針を貫く構え。
交渉は難航必至だった。
慶喜の命を受けた勝海舟は、まず天岡鉄舟を通じて西郷に会談を申込、何とか直接説得する機会を得る。
勝は交渉が決裂した場合、江戸中を焼土にする準備まで整え、決死の覚悟で会談に臨んだという。
総攻撃の中止が決まったのは3月14日。
いかにギリギリの交渉だったのかがわかる。

池上・田町周辺には、2人が会談を重ねた地が点在している。
江戸を戦火から救った勝海舟、そして西郷隆盛の英断に思いを馳せながら、各史跡を訪ねてみてはいかがだろうか。

・池上本門寺

創建は弘安5年(1282年)までさかのぼる日蓮宗の大本山。
幕末期、江戸城総攻撃をひかえた新政府軍は、この地に本営を置いた。
境内の庭園「松濤園(非公開)」で西郷と勝が会談したとあれ、西郷の甥・従徳の揮毫による石碑が立っている。 (ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都大田区池上1-1
日本銀行金融研究所貨幣博物館(中央区)
日本の貨幣の歴史とそれにまつわるさまざまなエピソードをわかりやすく展示。。

物々交換の時代から国内最初の貨幣、江戸時代の大判小判、近代以降の通貨のほか、海外の 各種貨幣、外地発行通貨など、ここでしか見られないものも多い。
花かんざし 松坂屋商店(台東区)
芸者用の花かんざしをはじめ、べっ甲や季節の花をあしらったものなど、数々の かんざしが揃う。

明治時代から続く、かんざし屋の老舗。
美幾女(みきじょ)の墓(文京区)
日本人初の解剖のための遺体提供者。

近代医学の発展に貢献した。
煉瓦亭(中央区)
1895年(明治28年)の創業以来、次々と新しいアイデア料理を世に送り出した洋食屋の 草分け的存在。

当時の作り方をかたくなに守りながら、老舗の味を手ごろな値段で食べさせてくれる。
看板商品のポークカツレツは、柔らかくてキメの細かい良質の肉と、カラッと揚がった衣の 歯ごたえが絶妙なコンビネーション。
これにキャベツの千切りを添えたのも、この店が発祥だ。
ハヤシライスは、6日間煮込んだドミグラスソースのコクと玉ねぎの甘さがポイント。
ちなみに、ポークカツレツは天ぷらを、ハヤシライスはハッシュドビーフをアレンジした 料理だったというから驚く。
浅野内匠頭邸跡(中央区)
赤穂藩主浅野家の上屋敷は8900坪。

明石町聖路加国際病院付近にあり、西と南は築地川に面していた。
内匠頭は刃傷事件当日に切腹。
浅野家は領地没収の上断絶。
上屋敷は別の大名に与えられた。
カフェテラス古瀬戸(千代田区)
壁画「浮遊する桃」を

眺めてゆっくり過ごしたい。
下谷神社(台東区)
現在の社殿は昭和9年(1934年)に落成したもの。

横山大観筆の天井絵がある。
日本銀行本店本館(中央区)
明治29年(1896年)創立。

日本人による最初期の本格的な洋式建築。
羽二重団子(台東区)
1819年(文政2年)の創業。

なめらかで絹のような舌触りの団子は、正岡子規の歌や夏目漱石の「吾輩は猫である」などにも登場した。
庄内米を自家製粉してひとつひとつ手で丸められた団子は、生醤油つけ焼きとこしあんの2種。
ガラス越しに庭園が見え渡せる茶席スペースもあり。
みつばち(文京区)
小倉アイスはこの店から全国に広がった。

小倉アイスと寒天、特製の黒みつのハーモニーが絶妙な小倉あんみつや、ほっくりした小豆と コシのある白玉の小倉白玉など、味わい深いメニューが揃う。
アイスやあんみつ、みつ豆、小倉白玉などは持ち帰りも可能。
湯島聖堂(文京区)
1630年(寛永7年)、林羅山が上野忍岡に建てた家塾が始まり。

5代将軍綱吉によって湯島に移され、大成殿とその周りの建物を合わせて聖堂と称した。
関東大震災で入徳門だけを残して焼失してしまい、現在の聖堂は昭和10年(1935年)に 再建したもの。
蓮玉庵(台東区)
1860年(安政6年)の創業以来、6代にわたってのれんを掲げる。

高原地帯の「霧下そば」に小麦粉を少量加えて打つそばは、歯ごたえがあり、ツルッとしたのどごし。
カツオとコブのだしでとったつゆがそばとよく合う。
森鴎外の作品にも登場する店として広く知られている。
歌舞伎座(中央区)
1889年(明治22年)に建てられた最初の歌舞伎専用劇場。

その後、芯材と戦争を経て、昭和26年(1951年)に現在の劇場が完成した。
桃山様式という建物は、日本の伝統芸能の殿堂にふさわしい風格が漂い、館内の濃朱漆塗りの 丸柱や緋色の絨毯が、絢爛豪華な歌舞伎の演目をより引き立たせる。
話の進行に合わせ、あらすじから配役・衣装についてまで解説してくれるイヤホンガイドが あるので、初心者でも安心して鑑賞できる。
ひと幕だけを観劇できる一幕見席は4階にあり、開演20分前から発売される。
志乃多寿司
明治初期に初代が考案したといういなり寿司が有名。

当時から、砂糖、しょう油、みりんで甘辛く煮付けた少し濃いめの味付けが評判を呼んでいた。
今でも機械はいっさい使用せず、手作りにこだわっている。
ほかにかんぴょうのり巻、押し寿司などもある。
竹久夢二美術館
夢二ゆかりの菊富士ホテルの塔屋部分を模して建てられた。

大正ロマンあふれる夢二の芸術と生涯を、2800点もの所蔵作品の中から、年4回テーマを決めて 企画展を通じて紹介する。
隣接する弥生美術館には、挿絵画家・高畠華宵らの作品を展示。。
日本橋(中央区)
1603年(慶長8年)架橋。

東海道の出発点であり、江戸商工業の中心。
浜町藪そば(中央区)
1904年(明治37年)創業のそば屋。

近年の改装でモダンなビルになったが、細くてのどごしのよいそば、辛口のそばつゆなど、 伝統の味は変わらぬまま。
明治座が近いだけあって役者さんの常連も多い。
ゴマ油でカラリと揚げられたエビ天が2本付く天せいろも人気。
湯島天神(文京区)
学問の神様・菅原道真公がまつられている。

創建は1355年(文和4年)と古いが、たび重なる火災を経て1885年(明治18年)に現在の 形に改築された。 泉鏡花の「婦系図」の舞台としても有名で、境内には鏡花の筆塚がある。 2〜3月には300本もの梅が満開になり、多くの人が訪れる。
甘酒横丁(中央区)
水天宮の参詣客に人気のあった甘酒の店が角にあったことから名付けられたといわれる 横丁。

しっとりとした下町情緒の残るしもた屋が残る一角には、竹籠に和紙を貼って作る、つづら店、 備長炭を使う手焼き煎餅の草加屋など、昔ながらの下町の伝統を守る老舗が軒を連ねる。 目や舌はもちろん、五感すべてで下町情緒を堪能できるおすすめスポットだ。
不忍池(台東区)
蓮の葉が生い茂る池にはカモやウなどの水鳥が数多く集まり、昭和61年(1986年)には 鳥獣保護区に指定された。

池に浮かぶ中之島にある弁天堂は谷中七福神のひとつで、そこに立つ不忍池由来碑に よると、かつてはここまで東京湾が入り込んでいたという。
池の周囲は1.7km、広さは都心部最大級で、手漕ぎボートや遊歩道での散歩を楽しむ人で 年中賑わう。
竹むら(千代田区)
下町とともに生き続けるこだわりの自家製甘味

下町の風情が残る神田の一画。
昭和5年(1930年)から汁粉屋を営むこの店の名物は、創業したまもなく売り出したという 栗ぜんざい。
あわはおもに10月〜12月にかけて収穫されるため、冬場にしか味わえない季節限定商品だ。
また、黒砂糖入りのあんを使い、独特のコクと苦みが後を引く?あんしるこも冬季のみ。
季節を問わず人気のあんみつは、黒砂糖と上白糖だけで作った黒みつと甘さを抑えたあんが絶妙。
それというのも、あんから蜜、餅に至るまですべて自家製だからこそ。
添加物はいっさい入っていなおので、いずれの商品もその日のうちに食べるのが基本だ。
日本橋 長門(中央区)
徳川家の御菓子司として江戸風の和菓子を製造してきた老舗で、もとは神田須賀町にあった。 

50年ほど前に日本橋に移転、名物の葵最中をはじめ、生菓子、抹茶菓子、半生菓子は すべて手作り。
千代紙でラッピングされた半生菓子など、見た目にも華やかなものが多く、贈答品としても 喜ばれている。
樋口一葉菊坂旧居跡(文京区)
一葉は明治22年(1889年)から明治27年(1894年)までこの路地に住んだ。 

近眼で針仕事の不得手な一葉は、小説で収入を得ようと決意。
井戸は現在も使われている。
なお、路地裏の案内板に「見学は近隣の迷惑にならないように」とある。
常にその気持ちを忘れずに。
みの家(江東区)
著名人のファンも多い甘味噌仕立ての桜鍋。 

1897年(明治30年)以来、4代続く馬肉料理の専門店。
場所柄、多くの咄家たちがひいきにしていたことでも知られる老舗だ。
食事どきともなると、籐畳が敷き詰められた広々とした座敷は、名物の桜鍋をつつく人々で 埋め尽くされる。
脂肪分が少なくヘルシーな馬肉は、こってりした味噌仕立ての鍋との相性抜群。
好みで、薄口と濃口の2種類の割下を足すこともできる。
このほか、極上のロース部分だけを使った馬刺しもおすすめ。
おろしたショウガでいただくさっぱりとした味わいは、馬肉のイメージを一新するはず。
鮮やかな桜色にも食欲をそそられる。
横網町公園(墨田区)
陸軍被服廠の跡地。 

関東大震災のような惨禍が2度と起こらないようにと、平和を願って建てられた公園。
園内の慰霊堂には、関東大震災とその後起こった太平洋戦争の被害者など16万3000人の遺骨が 納められている。
このほか、関連資料を保存する復興記念館や記念日本式庭園、さまざまな碑などもある。
甘味処初音(中央区)
砂糖が貴重だった1837年(天保8年)に創業。

北海道の小豆、沖縄の黒糖、新島の天草など、国内の食材を厳選して使用。
保存料はいっさい使用せず、作ったその日のうちに食べてもらうという姿勢を貫いている。
鉄釜で沸かしたお茶が、豊富な甘味メニューをいっそう引き立てる。
亀井堂(台東区)
1890年(明治23年)に上野広小路で創業。

厳選された良質の小麦粉と卵、砂糖を、カステラ風に焼き上げた瓦せんべいが有名な 和菓子の老舗だ。
江戸庶民の伝統文化をかたどった文楽人形焼は、コクのあるこしあんとぜいたくなタネを使い、 何十年も受け継がれてきた昔ながらの手焼きで焼き上げる。
柴又帝釈天(葛飾区)
1629年(寛永6年)に創建された、柴又を代表する歴史圧古刹 。

寺号は経栄山題経寺で、日蓮上人が刻んだという帝釈天が本尊となっている。
境内には開山堂や鐘楼など見事な七堂伽藍が配され、総ケヤキ造りの帝釈堂に刻まれた 木彫りから、別名彫刻の寺とも呼ばれている。
回遊式の庭園・邃渓園(すいけいえん)も見逃せない。
人形焼 山田屋(墨田区)
東京みやげの代表といえる人形焼の専門店。

狸や紅葉などの形がある。
深川江戸資料館(江東区)
江戸時代の。

深川佐賀町の街並みや暮らしぶりを実物大セットで再現。
アメヤ横丁(台東区)
JR上野駅から御徒町駅までを結ぶアメヤ横丁。

戦後のヤミ市から発展したもので、もともとは食料品が多かった。
現在は食料品・海産物をはじめ、衣料品、靴、貴金属・時計、ブランド品まで、約5000円が 軒を連ねる。
各国のミリタリーグッズが格安で手に入る中田商店と、チョコのたたき売りで有名な志村商店は アメ横の名物ショップ。
ほかにもアウトドア派に人気のトレジャーや、有名ブランドの化粧品や香水が安いシルクロード化粧品、 プラダやヴィトンなど人気のブランド品が揃うハトヤなど、見逃せないショップが目白押し。
現金主義の店が多いので、値段交渉もアメ横ショッピングの楽しみ方のひとつだ。
亀戸餃子本店(江東区)
飲み物以外のメニューは餃子のみというこだわりの店。

口コミで広がったその餃子のおいしさから、毎日1万個以上が作られるという。
薄めの皮の中にはたっぷりのキャベツが入っており、ニンニクは控えめなので女性でも 気を使うことなく味わうことができる。
からし醤油につけていただくのが、この店流だ。
柴又門前 大和家(葛飾区)
1885年(明治18年)創業の老舗で、現在は5代目と6代目。

もとは寿司店だったことから、天ぷらの素材を選ぶ目も確かだ。
人気の天丼は、揚げたてのサクッとした歯応えと秘伝の天つゆのうま味で人気が高い。
素朴な草だんごは、おみやげにおすすめ。
凧の博物館(中央区)
レストランたいめいけんの5階にあり、初代オーナー茂木心護氏と2代目雅紹氏の凧に 関するコレクションを展示。

江戸錦絵凧、日本各地の伝承凧をはじめ、世界各国の珍しい凧が見られる。
ちなみに心護氏は昭和40年、パリで初めて日本の凧を高々と揚げてパリっ子を驚かせた というエピソードの主でもある。
深川宿(江東区)
江戸時代に深川で家庭料理として親しまれた深川めし。

東京湾でアサリが取れなくなり、一度は消えかけた味を復活させたのが深川宿のご主人だ。
アサリとネギを入れた味噌汁を白いご飯にかけるだけのシンプルな料理だが、シンプルだからこそ 素材の良さが味に出る。
プリプリっとした大粒のアサリは、全国から厳選した末に伊勢湾から毎日仕入れ、味噌はオリジナル ブレンドを使用する。
懐かしいおふくろの味だと、遠くから訪れる深川出身のお年寄りも多いとか。
深川にも足をとめてほしいと、店を「深川宿」と名付けたことからも、ご主人の町に対する思い入れが 伝わってくる。
宮沢賢治旧居跡(文京区)
大正10年(1921年)、宮沢賢治が、上京後すぐ住んだ長屋跡。

赤門前の印刷所で働きながら布教活動と創作に専念した二軒長屋は平成2年に取り壊し。
横山大観記念館(台東区)
大観が1909年(明治42年)から制作活動を行っていた邸宅を美術館として公開し、 彼の作品を中心に近代の日本画などを多数展示している。

晩年使われていた画室や、道具類なども興味深い。
大観の好みに従って造られた、四季おりおりの自然が美しい庭園も魅力のひとつだ。
新井文扇堂(台東区)
手作業で作られる。

ぼかしの白竹、持扇子、舞扇子などのほか、匂い袋やお香も販売している。
亀戸天神社(江東区)
学問の神様として知られる菅原道真をまつる神社。

広々とした境内には心字池や太鼓橋、藤棚などが配され、日本情緒満点の風景を楽しむことができる。
毎年1月24・25日には今までのうそを幸運に変えるという「うそかえ神事」が、4月下旬から5月までは 江戸ばやしなども出る、藤まつりが行われ、毎年たくさんの参拝者が足を運んでいる。
太宰春台の墓(台東区)
江戸時代の経済通で儒者。

近世中国語にも詳しいなど多彩であった。
ねぎし三平堂(台東区)
昭和の日本にお笑い旋風を巻き起こした名落語家・故林家三平師匠の記念館。

入口から3階の展示室へ向かう途中で、三平師匠のギャグが流れたり、高座の前で 拍手をすれば落語が始まるなど、面白い仕掛けも盛りだくさん。
三平師匠の笑いの精神が今もここにあふれている。 。
深川 華(江東区)
熟練技で作られる江戸駄菓子の老舗で、店内には季節商品も含め常時400種類以上の こだわりのアイテムが並んでいる。。

見事な細工の寿し飴、北海道産の小豆を使用したつぶしあんのきんつば、しょう油の 香りの炭焼きせんべいなどが人気。
明神男坂(千代田区)
神田明神の境内から東へ下る階段。

イチョウの巨木が有名であった。
アンヂェラス(台東区)
昭和21年(1946年)開店の老舗喫茶店。

苦みがない水出しのダッチコーヒーをぜひ味わいたい。
チョコレートとホワイトチョコの2種類あるアンヂェラスなどのケーキもおいしい。
そのほか梅酒を入れた梅ダッチや梅アイスティーは夏季限定メニュー。
梅酒の量はお好みで調節したい。
川むら(荒川区)
明治時代から谷中に店を構えるそば店。

厳選したそば粉を使い、そば職人歴25年のご主人が丹精込めて打つ。
細打ちで色白のそばは、コシがあってのどごしもさわやか。
温かい合鴨肉とネギのつゆに、冷たいそばをつけていただく鴨せいろをはじめ、 夏は香りそば、冬はカキそばがおすすめ。
志”満ん草餅(墨田区)
隅田川の船着き場で船を待つ客に、草餅とお茶を出したのが130年ほど前。

それ以来続く草餅は、素材へのこだわりがおいしさの秘密。
ヨモギは1年を通して天然ものの新芽だけを使用し、なんともいえない香りが楽しめる。
また十勝産の小豆を使ったあんもおいしい。
草餅のほか、草大福や草柏もある。
谷崎潤一郎生誕の地(中央区)
耽美派の代表的作家。

明治19年(1886年)、谷崎活版所に生まれた。
根津神社(文京区)
およそ1900年前に、日本武尊が創始したと伝えられる古社で、文明年間(1469年〜 1486年)には太田道灌が社殿を奉建した。

権現造りの社殿など7棟は1706年(宝永3年)、徳川5代将軍綱吉が建立したもので、国の 重要指定文化財に指定している。
いずれも総漆塗りの見事なもので、現在残る江戸の神社兼特としては最大の規模を誇る。
深川不動堂(江東区)
徳川5代将軍綱吉の母桂昌院が成田山新勝寺への参詣を願い、1703年(元禄16年) 富岡八幡宮の別当寺として建立された永代寺で江戸出開帳(有名社寺の本尊を出張 展覧する)を行ったのが縁起。

正しくは成田山新勝寺東京別院という。
無縁坂(台東区)
坂の上に無縁寺があったため名がついた。

森鴎外「雁」にも登場。
イシイの甘栗深川八幡店(江東区)
中国河北省の最高峰の栗を直接買い付けて製造しているので、十分な甘さ、柔らかさがある。

手さげバック入り、化粧箱入りがある。 肉まん、あんまん、野菜まん、水餃子など、自家製の手作り点心も販売している。
寛永寺(台東区)
家康、秀忠、家光と3代の将軍が帰依していた天海僧正が、1625年(寛永2年)に建立。

正式には東叡山寛永寺(関東の比叡山の意)という。
15代慶喜に至るまであつい信仰を集め、江戸の象徴的な存在であった。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争で諸堂の多くが焼失。
現在は清水堂、将軍霊廟などが当時の姿のまま残る。
松栄亭(千代田区)
1907年(明治40年)創業。

初代が考案し漱石も好物だったという名物の洋風かきあげは、玉ねぎと細切れ肉を卵で溶いた 小麦粉で揚げたもの。
5日間煮込んで作られたハヤシライスやロールキャベツも見逃せない。
北区以外のお気に入り
虎ノ門・金刀比羅宮(港区)

五條天神(台東区)

軍鶏なべ屋「五鉄」跡(墨田区)

吾妻橋(墨田区)

・吾嬬神社(墨田区)

・御行の松(台東区)

・御宿稲荷神社(千代田区)

・御嶽神社(豊島区)

・公文書館(世田谷区)

・功徳林寺(台東区)

・向島(墨田区)

・広島県

・庚申塚(豊島区)

・江戸東京博物館(墨田区)

・小栗上野介屋敷跡(千代田区)

・皇居(千代田区)

・講談

・明治座(中央区)

・高田馬場(新宿区)

・高島平(板橋区)

・高輪神社(港区)

・合羽橋(台東区)

・根岸(台東区)

・根岸(台東区)

・鷺宮(中野区)

・染井よしの桜の里公園(豊島区)

・笹乃雪(台東区)

・雑司ヶ谷(豊島区)

・山梨県笛吹市

・観音坂と戒行寺坂

・子安稲荷(豊島区)

・根津神社(文京区)

・子規庵(台東区)

・市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮(新宿区)

・慈眼寺(豊島区)

・本所七不思議(江東区)

・柴又帝釈天(葛飾区)

・根津神社(文京区)

・芝大神宮(港区)

・板橋郷土資料館(板橋区)

・亀戸(江東区)

・秋葉原(千代田区)

・春慶寺(墨田区)

・勝鬨橋(中央区)

・将門塚(千代田区)

・小金井

・根津神社(文京区)

・雑司ヶ谷霊園(豊島区)

・小伝馬町(中央区)