北区以外のお気に入り(二)


黒門跡・蜀山人歌碑(台東区)
上野戦争ゆかりの地で激戦の傷痕をたどる

・新政府軍、わずか1日で彰義隊を完全制圧

西郷隆盛と勝海舟の階段二より、江戸城無血開城が実現したものの、抗戦派の旧幕臣達は 開城前から不穏な動きを見せていた。
新政府に対抗するため旗本や各藩の脱走兵らを集め、彰義隊を結成したのである。
その本拠地は、徳川慶喜が謹慎していた上野の寛永寺。
勢力は2000人〜3000人にまで膨らんでいたという。

西郷ら新政府首脳は、当初、江戸に戦火が広がるのを恐れて懐柔を模索していたが ちゅしゅう出身の大村益次郎が京より派遣されると、方針は一気に武力討伐へと傾いた。
そして慶応4年(1868年)5月15日、上野の地でついに戦いの火ぶたが切って落とされたのである。

かつて寛永寺の境内だった上野恩賜公園を歩いてみると、上野戦争を今に伝える史跡が数多く点在する。
当時の弾痕が残る寛永寺旧本坊表門や、実際に使われていた砲弾を展示する寛永寺清水観音堂はその代表例。
闘いはわずか1日で決着したが、各史跡をたどればいかに激しい戦闘が繰り広げられたのかが実感できるだろう。

・上野戦争最大の激戦地
上野恩賜公園の南に広がる一帯は、西郷率いる薩摩軍と彰義隊が激突した地。
ここが突破口になり、彰義隊は総崩れとなった。
かつては寛永寺の黒門(正面口)がこの地に建っていたが、現在は円通寺に移築されている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区上野公園1
大久保公哀悼碑(千代田区)
近代日本の名残と文明開化の足跡をたどる

・激動の時代を経て生れた西洋建築が連なる町並み

明治政府は、はじめ京都を根拠地にしていたが、首都機能の面から新都「東京」へ還り、中央集権 国家作りに着手した。
西洋の技術や文化を次々に取り入れ、文明開化や殖産興行政策を促進。
さらに「富国強兵」を掲げて軍備にも力を入れた。

また、明治4年(1871年)には廃藩置県を断行し、武士の秩禄(給与)も廃止。
これにより収入を失った士族は各地で反乱を起こし、西郷隆盛を首領とした西南戦争などが勃発した。
乱は無事鎮圧したものの、東京でも政府高官を襲撃する事件が多発。
明治11年(1878年)、新政府の実質トップ・大久保利通が、不平士族の凶刃に倒れた。

急激な西洋化により街の景観にも大きな変化が起こる。
現在の霞が関や丸の内周辺には、明治中期頃から次々と西洋建築が建てられ、鹿鳴館や三菱一号館、 さらには東京駅などが完成。
日本は本格的な近代化の道を進んで行くことになる。
今も残る西洋建築の数々を眺めるとき、時代を拓いた人々の姿を思い浮かべると、実に趣き深い。

・大久保公追悼碑

明治11年(1878年)、赤坂御所へ出仕尾中だった参議兼内務卿・大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」 を偲ぶ石碑。
明治21年(1888年)、明治政府の官僚らによって、暗殺現場近くのこの地に建設。
台座部分も含めると高さは6.27mにも及ぶ。

・散歩のコツ

事件現場の紀尾井坂へは碑から徒歩約3分。
清水谷公園の北西に延びる坂で暗殺された。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区紀尾井町2-1
松の大廊下跡(千代田区)
赤穂浪士 四十七士が本懐を遂げた仇討ちの道を巡る

元禄15年(1703年)12月14日、江戸市中を騒がす大事件が起こった。
赤穂浪士47人が、主君の仇討ちのため吉良上野介義央の屋敷を襲撃し、首級を挙げたのだ。
「忠臣蔵」で知られる、赤穂浪士討ち入り事件である。

事の発端は元禄14年(1701年)3月、赤尾藩主・浅野内匠頭長矩が高家の吉良に侮辱を受け、 江戸城松の廊下で刃傷事件を起こす。
5代将軍綱吉は内匠頭に即日切腹を申しつけ、浅野家は断絶。
吉良には何のお咎めもなかった。
これは当時の武家社会の慣習である「喧嘩両成敗」に反するものだった。
赤穂藩家老・大石蔵助良雄は、裁きを不服として御家再興に奔走するが叶わず、仇討ちを決意。
そして前述の討ち入り事件を起こし、見事本懐を遂げたのである。

江戸市民は、この仇討ちを義挙として称賛した。
幕府内でも賛否が分かれ、紛糾したという。
しかし切腹が言い渡され、主君が眠る泉岳寺に葬られた。

太平の世に徒花を咲かせた赤穂浪士。
ゆかりの地を巡り、その面影を探してみよう。

・松の大廊下跡

元禄14年(1701年)、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった場所。
当時は本丸御殿の大広間から、将軍との対面所である白書院へと続く全長約50mの大廊下だった。
襖には松と千鳥が描かれていたという。
現在は石碑のみが残る。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区千代田1-1 皇居東御苑内
高幡不動尊 金剛寺(日野市)
新選組 土方歳三をはじめ誠を貫いた隊士達の故郷へ

桜田門外の変などにより、幕府の権威は失墜。
全国の血気盛んな志士たちは「尊王攘夷(天皇の権威を尊び異国を排外する思想)を掲げ 朝廷のある京に上り、暴力による主張をはじめた。
このとき京の町を警護し、志士たちを取り締まったのが新選組。
中心人物は、多摩の百姓から天然理心流を継いだ近藤勇と、日野出身の土方歳三ら。
いずれも日野宿問屋の佐藤彦五郎宅に開かれた「天然理心流佐藤道場」に通い、腕を磨いていた。
つまり新選組にとって日野は、故郷とも言える土地なのだ。
池田屋事件などで名を上げた新選組だったが、戊辰戦争により衰退。
しかし、日野の人々は最後まで新選組を支援し続けた。
甲陽鎮撫隊と名を変え新政府軍と戦った甲州勝沼の戦いにおいても、佐藤彦五郎が中心となって 最新式の鉄砲を用意。
日野の若者の多くが部隊に加わった。
剣の腕を磨き、激動の時代に挑んでいった隊士達。
日野の町には今でも「誠」の文字を掲げた資料館や寺社が残り、彼らの偉業をたたえている。

・高幡不動尊 金剛寺

関東三大不動のひとつに数えられる古刹であり、「高幡のお不動さん」の名で親しまれている。
境内には土方の銅像が立つほか、両勇士を讃えるために建立された「新選組両雄の碑」もある。
毎年5月11日の土方の命日(GW以降で最も命日に近い土・日曜)には法要も行われる。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都日野市高幡733
梅若公園(墨田区)
最後まで主家を支え続けた英傑の士を訪ねて

幕末・維新の英雄といえば、薩摩や長州、土佐の志士たちを思い描きがちだが、実は 幕臣にも高潔の士が存在した。
その代表が勝海舟。
下級旗本ながら独学で蘭学と軍学を修め、私塾を開設。
上申書が幕府高官の目に留まり、海軍奉行並や陸軍総裁へと上り詰めた。
幕府全権を担い、江戸無血開城をまとめ上げた手腕は偉業といえよう。
箱館戦争で最後まで新政府軍に抵抗した榎本武揚も忘れてはならない。
英語に精通し、オランダ留学で見識を広げた榎本は、国際法の知識などに長けた 数少ない日本人の1人だった。
箱館戦争で降伏後、明治政府の要職を歴任したことからも、その能力をうかがい知ることができる。
他にも、台場の建設に尽力した江川太郎左衛門英龍、外国奉行として諸外国と渡り合った川路聖謨 (としあきら)、富国強兵のため横須賀製鉄所(造船所)を造った小栗上野介忠順など、近代の 礎となった人物は数知れない。
落日の主家を支えた男達ゆかりの地を訪ねて、幕臣の観点から維新を振り返るのもおもしろい。

・梅若公園

公園の入口に戊辰戦争で最後まで官軍に抗戦した旧幕臣・榎本武揚の銅像が立つ。
晩年を向島で過ごした武揚は、しばしば馬に乗って墨堤での散策を楽しんだという。
奥には、謡曲などの題材となった悲劇の少年・梅若丸の塚もある。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都墨田区堤通2-6-10
夏目漱石生誕の地碑(新宿区)
夏目漱石

東京帝国大学で教鞭を執るかたわら「吾輩は猫である」を発表し、一躍注目を集めた漱石。
わずか10年の作家生活ながら、文学史に残る名作を多数残した作家の足跡をたどる。

・夏目漱石生誕の地碑

漱石が少年時代を過ごした生家跡。
1歳で養子に出され、9歳のときに戻って以降、少年期をここで過ごした漱石。
生家跡に立つ記念碑は、生誕100年を記念して1966年(昭和41年)に設置されたもの。
隣りの「小倉屋」は、漱石の随筆「硝子戸の中」にも登場する江戸時代創業の老舗酒店。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都新宿区喜久井町1
森鴎外住居跡(墨田区)
森鴎外

夏目漱石と並ぶ明治の文豪・森鴎外。
小説家だけでなく、評論家や軍医、官僚、医学博士など多彩な活動を続けた作家としても 知られている。
さまざまな顔を持つ作家の実像に迫る旅へ。

・森鴎外住居跡

津和野藩の典医の家に生まれた鴎外は、10歳の時、父に従い旧藩主亀井家の下屋敷が あった向島へ移り住む。
その後、上京した家族と共にこの地へ転居。
明治12年(1879年)に千住へ移るまでの4年間、鴎外はここで生活した。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都墨田区向島4-25-16
青山霊園(港区)
明治7年(1874年)に開かれた日本初の都営墓地で、広さは約26ヘクタールに も及ぶ。

明治以降の政治家や作家の墓が多く、一画には外国人墓地も広がる。
園内は緑豊かな環境になっており、南北にのびる道路沿いには樹齢50年以上の サクラ、青山陸橋から園内へと続く道路沿いにはエンジュの並木なども屹立している。
園路沿いのサクラの木々がすがすがしい。
龍の顔をした亀を台座にあしらった大久保利通の墓。
南青山のビル群にほど近い一等地に広がる。

(麻生太賀吉・市川団十郎・犬養毅・上野英三郎・ウィリアム・K・バートン・大久保利通・
岡本綺堂・尾崎紅葉・国木田独歩・志賀直哉・東国茂徳・星新一・宮本百合子・
森永太一郎・湯浅一郎・吉井勇)

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都港区青山2-32-
ガーデンレストラン人形町今半池上本門寺店
すき焼きやしゃぶしゃぶなどに定評がある日本料理の名店。

無血開城の会見が行われた「松濤園」は立ち入り不可だが、もっとも庭園内を眺めやすいのがこの店。
国産黒毛和牛を用いる「すき焼き定食」など。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都大田区池上1-2-1朗峰会館1F
西郷隆盛像
上野の森にたたずむ維新回天を成した英雄の素顔。

・維新の功績を称えた銅像。

上野恩賜公園のシンボル的銅像。
西郷の死から21年を経た明治31年(1898年)、上野戦争で指揮をとったことにちなみ この地に立てられた。
着流し姿の西郷は彫刻家・高村光雲作、愛犬のツンは後藤貞行作。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区上野公園1
大觀堂学塾跡
長崎でシーボルトに医術を学んだ高野長英は、天保元年(1830年)にここで 町医者を開業する。

門人育成や蘭学研究にも励むが、幕府を批判して投獄された後、自刃して 生涯を終えた。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区平河町1-6-13
夏目坂
早稲田駅付近から大久保通りへ至る700mほどの坂道。

命名は名主だった漱石の父・直克によるもので、随筆「硝子戸の中」にもその旨が 書かれている。
一帯の喜久井町という地名も、夏目家の家紋「井桁に訊く」にちなんで名づけられた。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区喜久井町-1
長谷寺
花が咲き誇る鎌倉の西方極楽浄土。

天平8年(736年)に奈良の長谷寺を開山した徳道上人により開かれたという古刹。
御本尊は高さ9.18mの十一面観世音菩薩像で、木彫仏としては日本最大級。
「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ばれ、境内には1年を通して花が咲き誇る。
特に5月下旬〜6月下旬に見頃を迎えるアジサイは圧巻。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★神奈川県鎌倉市長谷3-11-2
萬年橋(江東区)
小名木川にかかる橋。

架橋年代は不明だが、延宝8年(1680年)に描かれた江戸図には「元番所のはし」と 記されている。
当橋のtもとに小名木川を航行する船を取り締まる通船改めの番所が置かれていた (後に中川口へ移設)。
「鬼平犯科帳」の「蛇毒」の話にも登場。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都江東区常盤1・清澄1
八坂神社(日野市)
汗を流し、腕を磨いた道場跡、やがて男達は京でその名を轟かせる。

里の老翁が多摩川からいろいあげた牛頭天皇像を祀る。
創建は700年ほど前で、繊細な彫刻が施された本殿は寛政12年(1800年)に建造。
近藤勇や沖田総司の名が連ねられた天然理心流の奉納額があり、例祭(9月敬老の日の 前日)と新選組祭(5月)の2回のみ一般公開される。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都日野市日野本町3-14-12
「蘭学事始の地」碑(中央区)
前野良沢が藩医を務めていた中津藩の中屋敷があった地。

ここで前野良沢や杉田玄白らを中心に、オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」が 翻訳された。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都明石町11先
赤穂義士休息の地(江東区)
浪士が討ち入りの疲れを癒した甘酒。

元禄元年(1688年)創業のちくま味噌が店を構えていた地。
初代の竹口作兵衛は赤穂義士の大高源吾と俳諧の友だったよしみで、討ち入り後 泉岳寺へ引き揚げる途中の一行を招き入れ、甘酒粥をふるまったという。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都江東区佐賀1-6-2 乳熊ビル敷地内
勝海舟生誕の地(墨田区)
1823年(文政6年)、現在の両国公園にあった幕末の剣客・男谷(おたに)精一郎の 屋敷で生まれた勝海舟。

父・故吉は旗本だった男谷忠恕(ただひろ)の三男で、この地に居を構えていた。
海舟は7才までの幼少期を男谷邸内で過ごした。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都墨田区両国4-25-3
坂下門(千代田区)
時代の荒波を象徴する白亜の門 今はただ、静かに時を刻む

坂の下にあったことから命名された門。 もともとは高麗門と渡櫓門を備えた枡形門だったが、明治時代に高麗門が撤去され、 現在の形になった。 この門のすぐ外で、老中安藤信正が水戸浪士に襲撃される「坂下門外の変」が勃発した。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区皇居外苑1
大正寺(台東区)
慶長9年(1604年)に創建され、寛永8年(1631年)に盛林山大正寺と号する。

勘定奉行兼海防掛として、米国のペリーや露国のプチャーチンらとの交渉にあたった 川路聖謨ゆかりの寺として知られる。
聖謨が江戸開城時に自害した後、埋葬された。
本道の裏手に広がる墓地。
ちょうど本堂の真裏にあたる一角に聖謨の墓がある。

・川路聖謨

下級武士に生まれながら勘定奉行兼海防掛に出世し、諸外国との折衝にあたった。
日露和親条約に調印した際は、北方領土の領有権を主張し、ロシア使節プチャーチンを黙らせる。
江戸開城直前にピストルで自害し、幕府に殉じた。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区池之端2-1-21
夏目漱石旧居跡
明治36年(1903年)、英国留学から帰国した漱石が住んでいた場所。

この地で帝国大学の教鞭を執りながら「吾輩は猫である」を執筆。
当時の漱石宅は、「猫の家」と呼ばれていたといい、石碑のかたわらにはかわいい猫の像も あしらわれている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都文京区向丘2-20-7
浜川砲台跡(品川区)
嘉永7年(1854年)、土佐藩抱屋敷(大名が土地を求めて屋敷にしたもの)に8門の 大砲を備える砲台を設置。

警備陣の中には、若き日の坂本龍馬もいたという。
現在は埋め立てられ、当時の面影は残っていないが、近隣の新浜川公園に復元された 砲台が設置されている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都品川区東大井2-26-18
見返り柳(台東区)
江戸の花街、吉原へ

江戸唯一の公認遊郭・吉原。
大名や豪商も訪れた事から社交場としての役割を担い、流行の最先端を発信する 町でもあった。
現在も残る吉原(新吉原)の面影を訪ねる旅へ。

・衣食住全てにおいて一流を誇った「遊女の城」

元和4年(1618年)、江戸の私娼を1ヶ所に集めた吉原が開業した。
最初は日本橋葺屋町(元吉原)に設けられ、昼のみの営業だったが、明暦3年(1657年)の 大火で全焼すると、浅草の千束村日本堤に移転(新吉原)する。
しかし、移転地は田んぼを造成した辺鄙な場所だった。
そのため幕府は大小として夜の営業を許可。
これにより町人の客が飛躍的に増え、町人文化が花咲く一大流行都市に進化していった。
実は武士には、夜に在宅する義務があったためである。
やがて大名や豪商まで訪れるようになり、遊女も太夫・格子・端と3ランクに分けられた。
特に太夫は一流の文化人を相手にするだけの品格、教養、芸事への精通が求められ、 庶民の手の届かない存在として輝いた。

・見返り柳

新吉原帰りの客の多くが、後ろ髪を引かれる思いでここから遊郭をふり返ったことから命名。
京都の島原遊郭の門口の柳を模したもの。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区千束4-10-8
靖国神社(千代田区)
幕末の志士から先の大戦まで、国事に殉じた戦没者246万6000余柱(よばしら= 神の単位、246万6000あまりの霊)を祀る社で、明治天皇が創建した「招魂社」が 起源。

南門のそばには、幕末期に江戸の三大道場のひとつとして栄えた、練兵館(桂小五郎 =木戸孝允)の跡地を示す石碑がある。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区九段北3-3
六義園(文京区)
五代綱吉の寵愛を受けた川越藩主並びに御用人・柳沢吉保が、下屋敷として 与えられた地に造園した回遊式築山泉水庭園。

設計から指揮まですべて吉保自身が行い、7年の歳月をかけて完成させた。 漢詩や和歌の世界観を景観に落とし込んでいる。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都文京区本駒込6-16-3
浅草演芸ホール(台東区)
江戸時代に生まれた寄席を今に伝える、浅草唯一の落語定石。

(1年中落語が聞ける所。
狭義には新宿末広亭、上野鈴本演芸場、池袋演芸場、浅草演芸ホールの4か所。)
落語をはじめ、漫才やものまねなど、演目の種類は多彩。
当日登場する芸人が張り出されているので、気になる芸人がいたら、木戸(寄席の入口) でチケットを購入して空いている席へ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区浅草1-43-12
勝海舟銅像(墨田区)
西郷隆盛との談判で江戸無血開城を実現させた勝海舟。

墨田区民を中心とする市民グループが全国から資金を募り、生誕180年にあたる 2003年(平成15年)、墨田区役所の敷地内に建てられた。
銅像のそばには勝海舟の偉業をたどる年表も展示。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都墨田区吾妻橋1-23
桜田門(千代田区)
現存している枡形城門の仲では、最も広い規模の門。

高麗門の奥に渡櫓門(わたりやぐらもん)が建っている。
小田原街道の起点になっているため、小田原口とも呼ばれていた。
井伊直弼は約60名の供を従えて入城しようとしたところ、門外で討たれた。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区皇居外苑1-1
(千代田区)
江戸時代、本丸御殿台所前三重櫓が立っていた地。

文久3年(1863年)の本丸火災時に類焼し、現在は白鳥濠を囲む石垣のみが残る。
石垣の頂上部は展望台として公開され、眼下には皇居東御苑や丸の内のビル群が 一望できる。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区皇居外苑1-1
夏目漱石文学碑(千代田区)
市ヶ谷学校から金華学校小学尋常科へ転入し、半年で卒業した漱石は、 翌年東京府第一中学(現・日比谷高校)へと進学した。

現在お茶の水小学校となった金華学校の跡地には、「吾輩は猫である」の冒頭文を 刻んだ石碑が残る。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区神田猿楽町1-1-1
浜離宮恩賜公園(中央区)
隅田川の河口に造られた回遊式庭園で、歴代将軍が御庭(別邸)として憩いを 得ていた。

海水を引き入れた「潮入の池」は、潮の満ち引きにより趣きが変わるという造り。
将軍が賓客をmてなした復元茶屋や、水鳥を遊猟するための鴨場なども残る。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都浜離宮庭園1-1
三菱一号美術館(千代田区)
明治27年(1894年)、ジョサイア・コンドルの設計により建設された三菱一号館。

昭和期に解体されたが、当時の建物を可能な限り忠実に復元し、2010年春に 美術館として開館。
19世紀後半〜20世紀前半の近代美術を主題とする主題とする企画展を年3回 開催している。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区丸の内2-6-2
谷中霊園(台東区)
谷中の寺町に広がる約10ヘクタールに及ぶ巨大霊園。

春のサクラ、夏の新緑、秋の紅葉と四季折々の表情を見せる地としても知られ、園内には 「さくら通り」と名づけられた散策路も延びる。
幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった天王寺五重塔跡や、スカイツリーが見られる ポイントなどもある。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区谷中7-5-24
陸橋(三鷹電車庫跨線橋)(三鷹市)
太宰治

現代作家にも多大な影響を与え続けている太宰治。
自殺未遂や心中を重ねたことでも知られ、謎多き人物でもある。
亡くなるまでの9年間を暮らした三鷹を訪ね、名作が生れた舞台裏へ。

明治42年(1909年)、青森県生まれ。
本名は津島修治。
東京帝国大学仏文科に入学した後、井伏鱒二に師事。
共産主義運動や女性問題などにより自殺未遂や心中未遂を繰り返すが、「走れメロス」 などにより作家の地位を確立。
戦後は「ヴィヨンの妻」や「斜陽」などで人気を博すが、昭和23年(1948年)に玉川上水で 自殺。
死後「人間失格」が発表され話題となった。

・陸橋(三鷹電車庫跨線橋)
昭和4年(1929年)に造られた全長約90mの跨線橋で、眼下にはJR中央線が走っている。
太宰が気に入っていた場所のひとつで、友人をこの場所に案内することもあったという。
生前、この地で撮影し黒マント姿の写真も残っている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都三鷹市上連雀2-21
浅草神社(台東区)
浅草寺の本堂隣に広がる、平安時代末期に創建された神社。

三代家光公によって建立された権現造の社殿が今も残り、国の重要文化財に 指定されている。
毎年5月に行われる「三社祭」で、神輿の宮入りと宮出しが行われる神社としても 名高い。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区浅草2-3-1
割烹 嶋村(中央区)
嘉永3年(1850年)に創業した割烹店。

徳川家への御用仕出しを務め、江戸時代の料理番付で最高位を獲得したほか、 伊藤博文や井上馨など明治期の偉人も通った名店。
格式ある店ながら、「日替わり定食」900円や「金ぷら丼」1200円などお手頃な メニューもあり、肩肘張らずに訪れられる。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区八重洲1-8-6
佐々木印店(中央区)
三代家光の時代から江戸幕府の御印判師として仕えた。

将軍や徳川御三家の印象を作り、歴代将軍の印章はおぼすべてこの店が手彫りしたもの。
店内には徳川家の印章作成に関する資料を展示し、当時の字体や印材なども知ることができる。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区日本橋室町4-3-3
竹の台噴水(台東区)
元禄11年(1698年)に寛永寺の根元中堂(本堂)が建立され、上野戦争時は彰義隊の 本陣が置かれた。

現在は当時の面影はなく、噴水広場として憩いの場になっている。
「竹の台」の名前は、比叡山延暦寺の根分けの竹が植えられたことにちなむ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都上野公園6
日本銀行本店(中央区)
明治29年(1896年)、江戸時代の金座があった地に竣工された。

設計は日本近代建築の礎を築いた辰野金吾。 旧館(本館、2号館、3号館)・新館・分館からなり、本館は建築当時のまま。 石積みレンガ造りのネオバロック様式が採用されている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区日本橋本石町2-1-1
蕃書調所跡(千代田区)
ペリー来航を受け、洋式軍事技術の導入や外交官養成の必要に迫られた 幕府が、安政3年(1856年)に設けた洋学研究機関。

当初は洋書の翻訳、洋学研究、語学教育を柱としていたが、後に数学、科学、 洋画なども扱うようになり、対象も幕臣の子弟中心から一般有志に広がった。
(蕃書=江戸時代に、欧米、特にオランダの書籍・文書をさしていった語)

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区九段南1-6
南町奉行所跡(千代田区)
北町奉行と同様、行政・司法・警察を担った奉行所跡地。

定員2名で南北両奉行所に別れ、月ごとに交代していたという。
名奉行・大岡越前守忠相もこの地で執務。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区有楽町2-9-18
吉原神社(台東区)
吉原神社に鎮座していた5つの稲荷社(玄徳稲荷社、榎本稲荷社、明石稲荷社、 開運稲荷社、九郎助稲荷社)並びに弁財天を合祀した神社。



(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区千束3-20-2
龍源寺(三鷹市)
人見街道沿いにある近藤勇の菩提寺。

門前に近藤勇の胸像があり、本堂裏手に進むと墓石がひっそりとたたずむ。
樹齢300年を数えるイチョウの大木も見事。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都三鷹市大沢6-3-11
浅野内匠頭終焉の地(港区)
松の大廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭は、十分な吟味もされない まま、その日のうちに切腹の裁断が下った。

そして田村右京太夫の上屋敷があったこの地に送られ、切腹して果てた。
現在は石碑と立て札のみが立つ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都港区新橋4-31
割烹とよだ(中央区)
幕末期の日本橋に寿司屋台を構え、その後寿司と和食の2店舗を開き、 現在まで日本料理一筋で営業を続ける。

宮中の公式料理行事に従事したこともある店主は、基本に忠実に旬食材の持ち味を 丁寧に引き出す。
和食に合うワインも開発するなど新しい試みにも積極的に挑戦している。
寿司屋台だった頃、あかべろべろのしょっぱづけ(マグロの漬け寿司)を食べに 西郷隆盛がよく通ったとか。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区日本橋室町1-12-3
笹巻けぬきすし総本店(千代田区)
元禄15年(1702年)創業の寿司店。

食品の長期保存手段がなかった江戸時代に、強めの塩と酢を効かせ、殺菌作用のある 笹で巻いた寿司を提供。
「10ヶ折詰」2214円。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区神田小川町2-12
太宰治文学サロン(三鷹市)
短編小説「12月8日」に登場し、太宰一家もたびたび訪れたという「伊勢元 酒店」の跡地に作られた文学交流施設。

館内には直筆原稿の複製や初版本が展示されているほか、愛用の火鉢も見られる。
オリジナルの太宰グッズも多数揃う。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都三鷹市下連雀3-16-14
二之橋(墨田区)
万治2年(1659年)に架けられた橋の跡地。

当時は長さ18m、幅5.4mの大橋だった。
「鬼平犯科帳」では二ツ目橋という名前。
鬼平行きつけの軍鶏なべ屋「五鉄」や茶店「笹や」へ立ち寄る場面では 頻繁に登場する。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都墨田区両国4-1
日枝神社(千代田区)
江戸城を築いた室町時代の武将・太田道灌が勧請し、幕府開府後、現状地に遷宮。

「江戸城の鎮守」、「徳川歴朝の産土神」として、徳川家に篤く崇敬された。
歴代将軍が参拝したのはもちろん、国家時のあるときは必ずここで祈祷いたという。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区2-10-5
弥勒寺(墨田区)
鬼平行きつけの茶店「笹屋」がこの寺の門前にあり、「笹屋」の名物店主 お熊と、弥勒寺で働く下男・茂平を描いた「お熊と茂平」など、たびたび 物語に登場する。

境内には、盲目の鍼医として活躍した杉山検校の墓もある。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都墨田区立川1-4-13
吉原弁財天(台東区)
江戸時代以降も営業を続けていた吉原。

関東大震災のとき、遊女がこの地で多数亡くなったことを偲び、建立。
社殿や観音像が建つ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都台東区千束3-22-20-2
鹿鳴館跡(千代田区)
海外からの賓客をもてなす社交場として、明治16年(1883年)に建てられた鹿鳴館。

設計はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの手によるもの。
明治23年(1890年)、宮内庁に払い下げられ華族会館に。
戦後取り壊され、今は石碑のみが立つ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区内幸町1-1-7
浅野内匠頭邸跡(中央区)
現在の聖路加国際大学の敷地内にあった浅野家の上屋敷は、広さ約 9000坪もあり、西と南は築地川の水路に面していた。

討ち入り後、泉岳寺へ向かう四十七士はここに立ちより、取り上げとなった屋敷の前で 涙にくれたという。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区明石町12先
桂川甫周(ほしゅう)屋敷跡(中央区)
将軍の侍医を代々務めた桂川家の屋敷跡。

四代目の甫周は、杉田玄白や前野良沢とともに「解体新書」の翻訳に参加。 顕微鏡を日本で初めて医学に応用した人物としても有名。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区築地1-10-6
根津 柳家(文京区)
あんは熱くしっとり、皮は薄くパリッと仕上がったたい焼きが大人気の店。

十勝産の特選小豆と良質の砂糖を使ったあんは、ほど良い甘さで、頭から尾までたっぷり入る。
毎日、開店と同時に出来立てを求めて行列ができる。
売り切れしだい閉店なので早めに。
福聚院(文京区)
1775年(安永4年)創建。

喘息が治る、「とうがらし地蔵」がある。
もんじゃ 麦(中央区)
自慢は具がたっぷりのスペシャルもんじゃ。

クレープ風の記事の麦焼きもぜひ。
石川啄木の碑(台東区)
「一握の砂」で知られる歌人。

浅草の夜の寂寥感をうたった碑がある。
神田古書店街(千代田区)
地下鉄神保町を出た一帯は、日本でも屈指の古書店街。

それぞれの店で得意とする分野が異なり、個性的な店が並んでいる。
店頭でもらえる神田古書店街地図帳を片手にじっくり探索したい。
彰義隊の墓(台東区)
1868年(慶応4年)、

大政奉還に際して官軍と戦った彰義隊戦死の墓。
玉ひで(中央区)
1760年(宝暦10年)創業、久保田万太郎ら、あまたの文人に愛されたシャモ料理の名店。

東京シャモを一子相伝の割下で煮込んだしゃも鍋定食は甘辛で濃厚な味わいだ。
野見宿祢神社(墨田区)
相撲の神様、野見宿祢をまつって建立された。

奥には歴代横綱の碑も。
ふじ屋(台東区)
店内にある役200種類の手ぬぐいは、すべてこの店のオリジナル。

店のご主人と息子さんのデザインで、季節の文様や江戸小紋など綺麗な柄が多い。
手ぬぐいを飾るための額も販売しており、中の板を濡らしてピンと、貼り付ければ、おしゃれな インテリアになる。
手ぬぐいは手をふくだけが用途ではないということを教えられる。
向島百花園(墨田区)
骨董屋・佐原菊鵜によって。

江戸時代に創設された野趣豊かな草庭。
神田神社(千代田区)
通称神田明神として古くから親しまれている。

創建は730年(天平2年)の聖武天皇の時代。
現在の大手町あたりにあり、社殿から100歩のところに平将門公の首が埋められたという。
1603年(慶長8年)、駿河台に将門公の霊をまつり神田明神と名付けられ、1616年(元和2年げんな)に 当地へ移転した。
食の文化ライブラリー(中央区)
味の素食の文化センターが収集した食に関する単行本や学術論文、文献、雑誌の バックナンバー、古文書など、約2万冊が揃う食文化の図書室。

食材一般から、食品、調理、特別コレクションなど、食文化のあらゆるジャンルを網羅した 蔵書は、閲覧はもちろん、貸し出しもできる。
筑定深川不動店(江東区)
界隈にただ一軒残る佃煮の店で、本店は江東区永代にある。

1918年(大正7年)の創業以来変わらぬ味は、濃いめの江戸っ子好み。
鰻、穴子、アミなどの佃煮は季節によって20〜30種類ほど。
あさり、昆布、にんじん、しいたけ、竹の子、生姜、ごぼうの7品を別々に煮込んで合わせた 五輪煮が名物。
船橋屋(江東区)
創業は1805年(文化2年)。

亀戸天神の参拝客のために茶店を出したのが始まりで、現在は7代目の店主が伝統の味を 守っている。
15ヶ月間貯蔵発酵させた小麦でんぷんで作るくず餅は、シコシコとした歯ざわりで 中は柔らか。
温度や湿度、季節によって仕上がりが違うため、毎日水とでんぷんの割合を調整する。
厳選した大豆を焙煎し、その日のうちに作るきな粉は香ばしく、コクがあってまろやかな 黒蜜と絶妙なバランスを生み出している。
室町砂場(中央区)
江戸庶民の間で評判を博した「麹町砂場」の流れをくむ老舗。

ガラス窓越しに手入れの行き届いた坪庭を眺めながら、こだわりのそばが堪能できる。
名物は、昭和20年代に先代が考案したという天ざる。
芝エビに貝柱のかき揚げをアツアツのそばつゆに入れて、冷たいざるそばと一緒に食す。
甘辛のつゆが染み込んだかき揚げと、シコシコのそばが絶品。
このほか、そばつゆで味付けした玉子やきや焼鳥など、酒の肴も逸品ぞろい。
甘党なら、食後の甘味しるこやそばぜんざいなどの楽しみも用意されている。
伊せ喜  
1887年(明治20年)の創業で、現在の建物は昭和30年代建造の風情あふれる木造建築。

骨の柔らかい関東産の天然ドジョウを使った料理が食べられる。
どぜう丸なべと骨抜きどぜうなべ、どぜうかば焼きのほか、鯉のあらいなども。
神田まつや(千代田区)  
創業は1884年(明治17年)。

大正時代に建てられたという店には、池波正太郎をはじめ数々の著名人が足を運んでいる。
そばは国産そば粉5に対して小麦粉1、つなぎに全卵をしよう。
辛めの濃口つゆで正道を行くのもいいが、ここではぜひ、客の大半が注文するというごまそばを 賞味したい。
すって裏ごしした白ゴマのつゆが、香り高いそばにそばとじつによく合う。
親子丼も、古くからの常連客に愛されている一品。
また、にしんの棒煮た天だねなど酒の肴にも定評があり、のれんをくぐってまずはいっぱい……がまつや流の 楽しみ方だ。
初祖岡埜栄泉(台東区)  
安政年間の創業以来140年、伝統の味を守る。

名物豆大福は、北海道十勝産の小豆で作った自家製のあんがたっぷり入り、塩味が微妙に きいた皮と絶妙にマッチする。
甘皮と白あんの中にかんろ梅が入った湯島の白梅も人気。
喫茶室では、あんみつ、おしるこなどが食べられる。
竹隆庵岡埜(台東区)  
大福が好きだった故ジャイアント馬場さんもしばし訪れたという和菓子店。

名物のこごめ大福は、寛永の時代(1624年〜1644年)に江戸庶民の間で喜ばれていた 菓子を、ご主人が古い文献に基づいて再現したもので、白餅とよもぎ餅の2種類ある。
糯米は新潟の黄金米、きれいな赤紫色のつぶしあんは北海道十産の小豆を使い、白双糖 であっさりした上品な甘味を出している。
独特の縞模様が虎の模様に見えるとらが焼きや、季節のものを使った生菓子も豊富に遊ぶ。
店内の喫茶室では、店頭で販売している4和菓子はもちろん、自家製の栗ぜんざいや山菜 おこわなどが味わえる。
舟和本店(台東区)  
浅草にある本店のほか、デパートなどにも支店がある和菓子の老舗。

名物は、サツマイモを砂糖と煉り合せた芋ようかん。
甘すぎず食べやすいため、若者にも人気がある。
おみやげには、芋ようかんとあんこ玉のセットが人気だ。
そのほか、芋と小倉のきんつばなどもある。
いせ源(千代田区)  
1830年(天保元年)創業の、都内で唯一のアンコウ料理専門店。

千葉、茨城沖で獲れたアンコウを、あん刺しやあんきもなどで味わえる。
豆腐屋野菜といっしょにしょう油だしで煮込んだあんこう鍋も絶品。
シーズンオフの5月〜8月は、うなぎ屋季節料理を用意。
かんだやぶそば(千代田区)  
ビル街の中にあって、今なお下町風情を色濃く残した一角がある。

高い木塀と竹垣に囲まれたその店は、幕末の頃、本郷団子坂にあった「蔦屋」を1880年 (明治13年)に初代が譲り受けて以来、脈々と老舗の味を守り続けている。
俗に「外1」と呼ばれる、最上級のそば粉10、国内産の小麦粉1で打ったそばは香りが 強く、コシの下限が絶妙。
新そばの時期にはそばの実を甘皮ごとひきため薄緑色になるが、この色を通年楽しむために クロレラを混ぜるのも藪そばならでは。
昆布とかつお節でダシをとったコクのある辛めのつゆにサッとつけて、つるっと粋に 味わいたい。
新鶯亭(台東区)  
この店の名物、鶯だんごは、。

甘さを抑えた上品な白、黒、抹茶の3種類のあんを味わえる。
長命寺(墨田区)  
江戸時代の国学者

橘守部の墓のほか、芭蕉の「雪見の句碑」もある。
船の科学館(品川区)  
ウォーターフロントに建つ、船の形をした建物(本館)が目印の、海と船の文化を テーマに造られた総合博物館。

マリンシアターをはじめ、船長気分を味わえる操船シミュレーションなど、体験型の展示物が 盛りだくさん。
一方、南極観測船「宗谷」や青函連絡船「羊蹄丸」など、実際の船の展示も人気が高い。
いせ辰(台東区)  
1864年(元治元年)、錦絵と地張りの団扇問屋「伊勢屋」として日本橋で 創業したのがはじまり。

明治以降、千代紙細工や和紙に江戸風俗を手摺りにしたナプキンが外国人に人気を呼ぶが、 その後震災で店舗を焼失。
昭和17年に谷中へ移転した。
今も江戸千代紙の伝統を守り、彫り師が色ごとに一色一版ずつ丹念に摺り重ねていく、 木版手摺りで丹念に重ねていく、木版手摺りで千代紙を作り続けている。
高度な技術でできあがった江戸千代紙は、年月を重ねるほど深みを増すため、絵として コレクションする人も多い。
千代紙のほかに、ふろしきや小物なども販売する。
甘味処 芋甚(文京区)  
大正3、4年に現在の地で開業。

現在は3代目と4代目が主に店を切り盛りする。
あんみつや、夏にはかき氷も出す甘味処だが、やはり一番人気は毎日仕込まれる小倉とバニラの アイス。
作り方は当時のまま。
バニラは卵を入れず、エバミルクとコンデンスミルクなどを入れたさっぱりとした味。
小倉は、北海道十勝産の小豆を使用し、砂糖を中心に秘伝の味付けをしたほんのり甘いアイス。
専門の最中はパリパリ感が命なのでアイスを挟んでもらったら即食べたい。
新橋演舞場(中央区)  
1925年(大正14年)にオープンした劇場。

その伝統を大切にしながら斬新さも取り入れ、ミュージカルや新派などバラエティー豊かな 演目で幅広い支持を受けている。
なかでも、市川猿之助の演出・主演による「スーパー歌舞伎」は、昭和61年の初演で 話題を呼んで以来、この劇場を代表する演目のひとつとなっている。
長命寺の桜もち(墨田区)  
この店の創業者が長命寺で集めた桜の葉で餅をくるんだところ、花見客に大うけ だったとか。

それ以来、桜もちはこの店の名物になり、現在の14代目までその人気が続いている。
こしあんには北海道産の小豆を使い、桜の葉は伊豆で育てた若木の葉を使用。
3枚の葉をはがしていくと、桜の香りがふわっと匂い立つ。
フランス菓子 ストレル(文京区)  
エクレールと

モンブランほか小型ケーキは20種類。
茂助だんご(江東区)  
みやげとして人気のだんごは、しょうゆ、つぶあん、こしあん。

店内の甘味メニューも揃う。
伊勢屋(江東区)  
創業90年を超える和菓子の老舗。

人気のカステラ饅頭、わっしょいは、カスタードとこしあんの2種類の味がある。
詰め合わせはふっくらと大ぶりの焼きだんご、中身が凝縮されたきんつば、大福など、 豊富な品数を誇る。
おみやげには、もんなかが人気。
レストランではあさり入り親子丼とラーメンの深川セットといったご当地メニューと、あんみつに ラーメン、ザーサイが付くあんみつセットなどのセットメニューが人気。
甘味処 由はら(江東区)  
琴の音が流れる、雰囲気のある甘味処。

良い食材を厳選し、たっぷり時間をかけて仕込む「妥協のない味」がモットー。
10月〜5月限定の栗ぜんざいやみつまめ、深川めしとけんちん汁のセットなどが人気。
富岡八幡宮と深川不動尊の縁日にはとくに混み合う。
水月ホテル鴎外荘(台東区)  
上野公園、不忍池を望むシティホテル。

木の香り漂う、しっとりとしたおもむきの和室と、気軽に利用できる洋室がある。
風呂は、樹齢2000年のヒノキをふんだんに使い、漆で仕上げた「檜乃湯」と、大理石風呂の 「福乃湯」などがある。
重炭酸ソーダの天然温泉で、下町の旅の拠点には絶好。
築地居住地跡(中央区)  
明治初年、外人居留地のあった場所。

文明開化の史跡が数多くある。
アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)(中央区)  
ブリヂストンの創業者石橋正二郎のコレクションを核に、印象派を中心とする ヨーロッパ近代美術と明治以降の日本の洋画を収集・展示。

平成11年(1999年)7月から12月までの半年間、館内改装のため休館する予定だが、 年明けのより充実した展示が楽しみだ。
一円庵(台東区)  
江戸千家の早雪が設計した茶室。

表千家の様式を模している。
神茂(中央区)  
創業が1688年(元禄元年)の老舗の練物専門店。

おでんの種も豊富に揃う。
水上バス(台東区)  
浅草と日の出桟橋を約40分で結ぶ。

隅田川にかかる12の橋が楽しめる。
築地小劇場跡(中央区)  
大正13年(1924年)開場。

歌舞伎座の伝統から離れた新劇の拠点となった。
鴎外記念本郷図書館(文京区)  
明治の文豪、森鴎外の業績をしのび、鴎外記念室を併設したユニークな図書館として昭和37年 (1962年)に開館した。

現在、館内には8000点を超える資料が所蔵されている。
この地は鴎外が永住の地を構えた所でもあり、東京湾の潮路を眺められたという事から、鴎外は 自分の邸宅を「観潮楼」と名付けたという。
この観潮楼で「雁」「阿部一族」「山椒大夫」など数々の名作を発表、1922年(大正11年)に 死去した。
記念室では鴎外の遺品や遺稿、日記、書簡などの貴重な資料を見ることができる。
ももんじや(墨田区)  
創業1718年(享保3年)以来、280余年も続く獣肉料理の店。

ももんじやの「ももんjき」とは、百獣という言葉からうまれた獣肉全般を表す言葉で、江戸時代には 四つ足動物を扱う料理店では、屋号の前にこの言葉を付けていたという。
名物の猪鍋は、三重や滋賀などから仕入れた野生の猪を使い、養殖物は使用しない。
猪料理をはじめ、鹿鍋や鹿ソース焼き、鹿刺身などの鹿料理、狸汁など、他では味わえない 珍しい料理が揃う。
猪佃煮などもおすすめだ。
いなり寿司 松むら(足立区)  
手間ひまかけて作った

いなり寿司とのり巻が人気の店。
菊富士ホテル跡(文京区)  
明治30年(1897年)開業の下宿屋、菊富士楼を大正3年(1914年)ホテル形式に新築。

地上3階地下1階、塔屋上にイルミネーションの建物は、戦災で焼失。
水天宮(中央区)  
1818年(文政元年)、久留米水天宮(福岡県久久留米市)を久留米藩主有馬家の上屋敷 (港区赤羽橋)打ちに分社したもので、当時から毎月5日には庶民にも参詣を 許していた。

1872年(明治5年)にこの地に移り、水難除けのほか、安産、子授け、渡航安全、水商売などにも 御利益があるとされる。
境内には安産の象徴である子宝犬の像などがある。
また、5cm四方の和紙に記されている、5つの神呪文字を順番にちぎって水に浮かべて 飲むと、陣痛がやわらぐといわれる「水天宮御守」、腹帯に縫い付ける「鈴乃緒」は、安産祈願の 定番お守りとして人気が高い。
築地本願寺(中央区)  
浄土真宗本願寺派本願寺(京都西本願寺)の別院で1617年(元和3年)、浅草横山町に 建立されるが、1657年(明暦3年)、振袖火事により焼失。

当時は海だった築地に門信徒が土地を築き移転。
現在の伽藍は昭和6年に起工され、同9年に落成。
インド様式の外観で、本堂内にパイプオルガンも。
法乗院(深川閻魔堂)(江東区)  
寛永6年(1629年)創立。

近年は深川のハイテク「大閻魔」として有名。
入谷鬼子母神(台東区)  
鬼子母神とは、1000人の子を産んだが、他人の子供を奪って食べたという仏教上の 恐ろしい夜叉のこと。

その悪行を見かねたお釈迦様が、鬼子母の最愛の末子を隠して戒めたのを機に改心し、以後、 安産と子育ての守となり、現代まで厚い信仰をうけている。
毎月8の日が祈祷日で、祈祷料は3000円から。
季節の生ジュースの店カド(墨田区)  
シンプルな店名は花街入口の角にあることから。

活性生ジュースはハチミツ、アロエ、セロリ、パセリ、グリーンアスパラ、レモン、リンゴが 材料。
そのほかイチゴ、オレンジなど、季節ごとに6種類がある。
のりトーストや冬季のみのケーキなども試したい。
昭和33年開店で、建物は40年以上変わらないレトロ調だ。
巣鴨地蔵通商店街(豊島区)  
「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる、素朴な雰囲気の商店街。

巣鴨駅から都電荒川線の庚申塚駅まで、約800mにわたって各種の専門店や飲食店が軒を連ねて いる。
なかでも、たい焼きが名物の飛安や、江戸前の佃煮を今に伝える佃宝など、味覚に関する名店が 多いのが特徴だ。
通りとしての歴史も古く、江戸時代に中山道と呼ばれていた時代から、高岩寺の門前町として栄えた。
月島開運観世音(中央区)  
開運、念願成就。

とくに病気の平癒に霊験あらたかといい信仰があつい。
ぼう寿“ 志ゃも(墨田区)  
メニューは8000円の鍋コースのみで、シャモ鍋に蒸し鶏入りサラダ、モツ焼き、シャモ刺しが付く。

味噌仕立ての鍋は、この店秘伝の割下を使用。
具に火が通ったところを卵につけて食べる。
創業は天和年間で、天明は創業者が坊主だったためだとか。
彩り硝子工芸(江東区)  
江戸切子の技を今に伝える。

店内から制作風景も見学できる。
鈴本演芸場(台東区)  
1857年(安政4年)上野広小路にできた軍談本牧亭が1876年(明治9年)に改名。

現存する寄席の中では最古の歴史を誇る。
落語、漫才、曲芸、俗曲、ものまね、紙切り、曲独楽など、バラエティに富んだ番組を 10日ごとに内容を変えて公演する。
北区以外のお気に入り
・亀戸天神(江東区)

・小伝馬町(中央区)

・小田原(神奈川県)

・小梅橋(墨田区)

・松月院(板橋区)

・鐘ヶ淵(墨田区)

・根津神社(文京区)

・上田市(長野県)

・常光寺(江東区・六阿弥陀)

・浄閑寺(荒川区)

・上田市

・浄心寺(文京区)

・心法寺(千代田区)

・根津神社(文京区)

・深川江戸資料館(江東区)

・亀戸天神(江東区)

・深川二社(江東区)

・上田市

・真性寺(豊島区)

・神楽坂

・神楽坂 赤城神社

・神田橋(千代田区)

・根津神社(文京区)

・神田明神(千代田区)

・笠間稲荷神社東京別社(中央区)

・亀戸天神(江東区)

・万年橋(江東区)

・上田市(長野県)

・水天宮(中央区)

・神田明神資料館(千代田)

・水道歴史博物館(文京区)

・数寄屋橋(中央区)

・清水門(千代田区)

・亀戸天神

・清澄庭園(江東区)

・上田市

・清正寺(中央区)

・神田明神資料館(千代田区)

・西新井大師(足立区)

・根津神社区(文京区)

・西蔵院(台東区)

・四谷(新宿区)

・亀戸天神(江東区)

・赤坂

・上田市

・千住大橋(墨田区)

・神田資料館

・千川上水水神様(板橋区)

・千代田区

・根津神社