北区以外のお気に入り(三)


薩摩藩上屋敷跡(港区)
慶応3年(1867年)12月、「江戸薩摩藩邸焼討事件」が起こった地。

幕府との武力衝突による決着を目論んでいた西郷らは、幕府を徴発するため放火や 掠奪を実行。
激怒した幕府の命を受けて、庄内藩らが焼き討ちを行った。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都港区芝5-7-1 NEC本社内
田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)
薩摩藩の蔵屋敷が建っていた地で、幕末期は海に面し、目の前に砂浜が 広がっていた。

明治元年(1868年)3月14日、勝と西郷はこの場所で最終会談を行い、合意に至った。
現在は石碑のほか、西郷と勝海舟の会見を描いた銅板が設置されている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都港区芝5-33-8
金田一耕助のモノローグ
正直のところ私は昭和20年(1945年)3月頃まで、疎開しようなどという意思は 毛頭なかった。

現在でこそ武蔵野市吉祥寺といえば、大きなデパートも2、3進出してきているようだし、 ギッチリと人家に埋まっており、たいへん繁栄をきわめていて、若いひとたちのあいだに、 ジョージという陰語まで出来ているそうだが、私の住んでいた20年ごろは、まだまだ 東京郊外の一町村に過ぎず、空地などくらでもあった。
だから敵がそんな場所へ向かって、焼夷弾攻撃を加えて来ようとは思えなかったし、 たとえ加えてきたところで、都心の密集地帯とちがって避難場所はいくらでもあった。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都
二の丸庭園(千代田区)
寛永7年(1630年)、三代家光の命を受けて、小堀遠州が手がけた回遊式庭園 。

かつては秀忠や家光もお茶会を楽しんだという。
明治以降荒廃していたが、昭和43年(1968年)に、9代家重時代の絵図をもとに復元。
5月にはショウブやツツジが咲き誇る。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区1-1皇居東御苑内
土方歳三資料館(日野市)
歳三の生家跡に建つミュージアム。

愛刀の和泉守兼定をはじめ、歳三が池田屋事件で使用した鎖帷子、稽古に用いた 天然理心流墨東、土方家家伝薬である石田散薬に関する資料まで約70点を展示。
いずれも「鬼の復調」の素顔を覗ける貴重な資料群だ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都日野市石田2-1-3
元枢密院庁舎(千代田区)
大正10年(1921年)に完成した建物で、天皇の諮問機関である枢密院の庁舎。

現在は皇宮警察が管理しており、非公開。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都千代田区1-1
飛鳥山公園(北区)
八代吉宗が「享保の改革」の施策のひとつとして約1200本のサクラを植樹した地。

水茶屋の建設を許可し、庶民の行楽地として開放した。
他の行楽地では禁止されていた酒宴や仮装が許可されていたため、特に花見の 時期には大いに賑わった。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都北区王子1-1-3
貨幣博物館(中央区)
日本銀行分館内には、日本の貨幣史などを照会する博物館も併設。

入館料無料なので気軽に覗いてみよう。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★東京都中央区日本橋本石町2-1-1
川越一番街(埼玉県川越市)
船運によって栄えた商人の町を歩く。

小江戸・川越と謳われた街並みに感じる歴史

室町時代にこの地を治めた上杉持朝(もちとも)は、家臣の太田道真・道灌や子に川越城 および支城として江戸城の築城を命じ、長禄元年(1457年)に完成すると、この川越城 を中心に城下町が発展。
武蔵国最大の人口を数える街へと成長していった。

特に発展のきっかけになったのが寛永16年(1639年)、島原の乱鎮圧の功により武蔵忍 3万石から川越6万石に転封(てんぽう)された松平信綱が治めた時代。
川越城の拡張に加え、城下町の町割りを英微視、領内を流れる新河岸川を利用して「舟運」を 起こしたのである。
この新河岸川は隅田川に通じており、江戸との物流が活発に行われ、かつ江戸の最新文化が 川越に入ってくるようになった。
こうして川越えは小江戸と呼ばれる一大商人町として成長を遂げていった。

その後、明治26年(1893年)に起こった大火によって、町の3分の1が消失したことを契機に 耐火性に優れた蔵造りの商家が建てられた。
その蔵造りの街並みを歩いて、川越の長い歴史を体感してみてはいかがだろう。

川越一番街

江戸後期から明治にかけて建てられた蔵など、歴史ある建物が保存されている商店街。
みやげ店や飲食店なども多く、平日でも多くの観光客で賑わう川越一のメインストリート。
時の鐘や大澤家住宅など歴史的なスポットも点在するので、散策しながら小江戸情緒を 楽しもう。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★埼玉県川越市幸町
井上源三郎資料館(日野市)
八王子仙人同心の家柄に生まれ、後に新選組六番隊隊長となった井上源三郎。

生家の土蔵を改装し、貴重な書簡や天然理心流免許の資料などを展示している。
ちなみに新選組の後援者・佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したのは源三郎の兄・ 松五郎だったと言われている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★日野市日野本町4-11-12
佐藤彦五郎新選組資料館(日野市)
最後の日野宿名主・佐藤彦五郎は、新選組結成前の浪士組時代から 支援を続けていた人物。

深い親交により残された膨大な資料を展示し、近藤勇が密偵を捕まえた時の手紙、歳三が 京のみやげに贈った茶器などラインナップも幅広い。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★日野市日野本町2-15-5
玉ひで(中央区)
鳥を知り尽くした職人の熟練の技と経験が光る鳥鍋。

将軍家に御鷹匠として仕え、将軍の前で血を見せずに鶴を裁く御鷹匠仕事を 披露した初代山田鐡右衛門が開いた軍鶏料理専門店がはじまり。
以降、江戸屈指の鶏料理店として名を馳せたこの店の看板メニューが上質な 軍鶏を使った「鳥すき」だ。
熟練の庖丁技と丁寧な下処理を施した逸品をぜひ。

徳川家治
初代が御鷹匠として仕えたのが十代将軍家治。
将軍家の前で肉にうれずに調理する格式高い家伝の技を披露。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★中央区日本橋人形町1-7-10
おんなごろし〜雉子神社
品川台町の通りを南へ下った左手に、「雉子の宮」の社がある。

ものの本に、
「このあたりは北四奈川領、大崎という。
慶長のころ、将軍御放鷹のとき、この社へ雉子一羽飛び入りたり。
そのとき神名を問わせられしに、このあたりの百姓たち、山神の祠なるよし申しあげれば、 以後は雉子の宮と唱え申すべきむね、上意ありてより、かく号(なづ)くるという」
などと、しるしてある。

★品川区東五反田1-2-33
春雪仕掛針〜浅草
小舟は、浅草・平右衛門町の船宿「井口屋」のものだ。

中年の侍はなじみの客で、名を、川村佐十郎といい、昌平橋に屋敷を構える二千五百石の 大身旗本・戸田弾正の用人をつとめている。
川村は、この日、井口屋から小舟を仕立て、今戸の二文字屋へ向い、舟を待たせておいたのだ。
船頭は、川村が顔見知りの若者であったが、月も星もない暗夜の大川へ漕ぎ出してから、 「旦那、お寒くはございませんか?」と、声をかけてきた。
その声を背中にきいたとき、川村佐十郎は、
(はて・・・・・・?)
妙な気がした。

★台東区
日本橋(中央区)
徳川家康によって架けられ、人馬の往来が多かったことから「人馬の足音 雷鳴のごとし」という言い伝えが残る。

火災などにより幾度となく改架が行われ、現在の石橋は20代目。
橋の上に鎮座する獅子の像は守護を表し、麒麟の像は吉兆を表している。

★中央区日本橋1〜日本橋室町1
銀杏落葉〜浅草寺(台東区)
彦次郎がつくる楊枝は、歯を掃除する「ふさ楊枝」と「平楊枝」で、これを、浅草 観世音(浅草寺)の参道にならぶ卯の木屋という楊枝屋が買い取っている。

卯の木屋の楊枝といえば、江戸でも有名なものだし、その卯の木屋の主人(あるじ)が、
「彦さんの楊枝でないと、買ってはくれぬ客が多い。
お客は正直だねえ」
というほどに、彦次郎はよい腕をしているらしい。
「そうか。
それでは先へ行っていよう」

★台東区浅草2-3-1
日野宿本陣(日野市)
元治元年(1864年)、佐藤彦五郎が日野宿の本陣兼自宅として10年の 歳月をかけて再建。

切妻造りの瓦葺屋根を冠し、建坪は約100坪にも及んだ。 敷地内には、近藤らが通った「天然理心流佐藤道場」が併設されていたが、 現在は石碑が残るのみ。

★日野市日野本町2-15-9
梅安雨隠れ〜増上寺(港区)
関口孫四郎の死体を乗せた小舟が岸をはなれたとk、藤枝梅安と彦次郎は、早くも 将監橋を北へわたり、増上寺の門前町へ入っている。

「おどろいたねえ・・・・・・」
と、梅安が、
「関口孫四郎、あれほどに正々堂々とやるとはおもわなかったよ、彦さん」
「人は見かけによらねえと、百も承知のお前さんが、いまさら、そんなことをいいなさるのは、 ちょいとおかしい」
「・・・・・・・・・・・・」 「どうしなすった?」
ぴたりと、梅安の足がとまった。
「梅安さん・・・・・・」
「いや、何でもない」

★港区芝公園4-7-35
天魔の夏〜真田太平記(上田市)
新府城へ引きあげてきた武田勝頼に、すぐさま、「いさぎよく、この城を、お捨てなされ」 と、すすめた武将がいる。

これが、真田安房守昌幸であった。
「それがしの城、岩櫃へお立ち退きなされば、どのようにも御身をおまもりいたす」
昌幸の声は、自信にみちみちていた。
上州の岩櫃城は吾妻の山岳にかこまれていて、ここに立てこもり、精通した地形を利用し、 たがいに信頼し合っている諸方の豪族や地侍を動員すれば、
「一年、二年は、かならず、もちこたえて見せましょう」

★長野県上田市
ももんじや(墨田区)
享保3年(1718年)に創業した猪鍋専門店。

現在も創業当時の味を守り、味噌仕立てのすき焼きにして提供している。
猪肉は兵庫の丹波などから取り寄せたもの。
「猪鍋コース」などで、煮込むほど味わい深くなる逸品をご賞味あれ。

★墨田区両国1-10-2
秘密〜真田太平記(上田市)
真田昌幸が、館を出ると、霧のような雨がふりけむっていた。

「お供を・・・・・・」
という館の草の者へ、
「かまうな」
いい捨てて、昌幸は馬にまたがった。
いま、昌幸は、ここからも近い砥石城にいる。
織田信長の死後、信濃が騒擾し出したので、沼田や岩櫃にいたのでは、
「いざとなったとき、間に合わぬ」
からであった。

★長野県上田市
上田攻め〜真田太平記(上田市)
このような徳川・北条両軍のうごきは、草の者によって、あますところなく 上田城へもたらされていた。

壺屋又五郎は、京・大坂から近江にかけて配置しておいた配下のものたちの大半を、 よびあつめたらしい。
彼らは、旅商人や巡礼、旅僧、山伏などに変装し、浜松や駿府から小田原にかけ、 潜入しはじめている。
徳川方の甲賀・伊賀の忍びの者も上・信二州へ入って来ているにちがいない。
このとき、真田昌幸は、相手の探るままに、
「まかせておけ」
という態度であった。

★長野県上田市
愛宕神社(港区)
標高約26mの天然の山・愛宕山の頂上に建つ神社。

初代家康の命により、防火・防災の守り神として創建されて以来、江戸市民から厚い 信仰を得て発展。
かつては江戸市街はもちろん江戸湾まで一望できた立地から、行楽地としても大いに 賑わった。
桜田門外の変当日の朝、水戸浪士はこの地に集結し、宿願成就を祈願したという。

★港区愛宕1-5-3
甲賀問答〜真田太平記(上田市)
上田城へ到着した壺屋又五郎を迎えて、真田安房守昌幸が、 「何ぞ、異変か?」。

すぐに、問いかけてきた。
むりもない。
上田から下久我へ去ったばかりに又五郎が、あわただしく引き返してきたのだから・・・・・・。
上田城・本丸内の居館の「地炉の間」で、二人きりになって、
「実は・・・・・・」
又五郎が、すべてを告げた。
「まことか?」

★長野県上田市
秀頼誕生〜真田太平記(上田市)
「父上は、このたびの戦を、いかがおもわれます?」

いきなり、問いかけてきたものだ。
昌幸は、呆気にとられたように長男の顔をながめやり、
「それがわからぬ、おぬしでもあるまいが・・・・・・」
その席に、幸村はいなかった。
ちょうど名護屋城中へ出仕していたのである。
「父上・・・・・・」

★長野県上田市
川越城本丸御殿(川越市)
川越藩主松平斉典(なりつね)が嘉永元年(1848年)に建築した本丸御殿の 一部が現存。

元々は16棟、建物面積3万388?の規模を誇る建物だったが、明治維新に解体され、 現在は大広間や玄関、家老詰所のみが残る。
室内は装飾を抑えた質素な造りだが、杉戸絵や玄関などは必見。

★埼玉県川越市郭町2-13-1
品川浦の舟溜まり(品川区)
江戸時代は、江戸城への魚を納める「御菜肴八ヶ浦」のひとつだった品川浦 。

特に海苔の名産地として知られていた。
現在は、漁船や海苔場(養殖場)の代わりに、多くの釣り船や屋形船などが 係留され、漁村だった頃の風情を留めている。

★品川区東品川1-7-1
田安門(千代田区)
北関東方面への玄関口にあたる門 。

旧江戸城建築遺構のうち最古のもので、築造されたのは寛永13年(1636年)。
当時は門の周辺を北丸と称し、代官屋敷や大奥に使えた女性の隠遁所でもあった 家康の孫・千姫や春日局の屋敷も周辺に建っていたと伝わる。

★千代田区北の丸公園1-1
鬼平犯科帳「麻布ねずみ坂」〜清水門
あの「土蜘蛛の万五郎事件」が解決をしてから、まだ、いくらも日が経っていない 2月上旬の或日のことで、宗仙はすでに三度ほど、清水門外の役宅へ治療に あらわれていた。

老盗・万五郎の重病を軽快にみちびいたほどの腕前なら、
(ひとつ、ためしにおれも・・・・・・)
と、平蔵が、同心・山田市太郎を麻布・飯倉片町の宗仙宅へ迎えにやったのだ。
「それにしても、とんだ御縁でございましたな」
宗仙は六十をこえているが、平蔵でも見上げるほどの大男で、あざやかな血色に 彩られた腕を差しのべ、たくみに指圧の治療をおこないつつ、
「盗賊改方の御用というので、はいめは、よい気もちがいたしませぬでした。

★千代田区北の丸公園1-1
鬼平犯科帳「霧の七郎」〜巣鴨
では辰蔵、どこへ金を借りに行くかというと、巣鴨村の大百姓・三沢仙 右衛門の ところへであった。

巣鴨の三沢家は、長谷川平蔵の生母・お園の実家であり、当主の仙右衛門は平蔵の従兄に あたる。
いまも長谷川・三沢の両家は親交がふかいし、三沢仙右衛門はまことに善良な人物で、 辰蔵が子供のころは姉や妹と共に、一夏を三沢家にすごし、巣鴨の田園生活を味わった ことが何度かある。
(三沢の小父なら、一両ぐらい、かならず貸してくれよう)

★豊島区
「日本橋魚市場発祥の地」記念碑(中央区)
森孫右衛門一族とその配下らの漁民が摂津国(大坂・兵庫)から江戸に移住してきた 際、家康らが彼らを日本橋に住まわせて、将軍家や各大名に献上する魚を獲らせた 。

その後一般客への魚介の販売が許可されたことで、この地に魚河岸が誕生。
現在は石碑のみが立つ。

★中央区日本橋室町1-8(乙姫広場内9
鬼平犯科帳「深川千鳥橋」〜浅草寺
その夜。

万三は、浅草寺・境内・奥山にある「大黒や」の茶汲女でお元というのを、上野・不忍池の ほとりにある出合茶屋「ひしや」へつれこみ、泊りこんでいたのだ。
万三は、この寛政元年(1789年)で51歳になる。
まだ一度も、女房をもったことがなく、したがって子もない。
お元は、万三のむすめといってもよい年ごろなのだが、痩せこけていて肌の色は あさぐろいし、双眸(りょうめ)だけが大きくぬれぬれとそているけれども、低い、ちんまりとした 鼻すじといい、ぼってりと厚い唇といい、そのころの女としては、およそ、
(見栄えのしない・・・・・・)女なのである。

★台東区浅草2丁目3−1
日野市立新選組のふるさと歴史館(日野市)
幕末期の歴史の流れとともに、新選組について解説するミュージアム。

通史的に見ることで、歴史的な意味や役割などを紐解く。
隊士の手記など貴重な資料を所蔵。
一角には、新選組の羽織などを身につけて記念撮影できるスポットも。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★日野市神明4-16-1
有栖川(ありすがわ)宮記念公園(港区)
かつて有栖川宮家の御用地が広がっていた、敷地面積約6万7000?の公園。

丘の傾斜を生かした回遊式庭園があるほか、新政府軍の総大将・東征大総督に 任命され、江戸総攻撃の中止を決断した有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像もたたずむ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★港区南麻布5-7-29
川越市立博物館(川越市)
古代から近現代の川越の歴史を一挙に展示する博物館。

特に充実しているのが、川越藩の成立から近・現代にいたるまでの川越の発展の歴史。
幕末期の城下町を再現したジオラマや、川越の大火後の蔵造りの街並みを再現した 模型などもあり、楽しみながら学べる。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★埼玉県川越市郭町2-30-1
あほうがらす「火消しの殿」〜吉良邸跡
翌元禄十五年十二月十四日未明に、赤穂浪士が吉良邸へ討ち入り、上野介の 首をあげたことを知ったのは、信州飯山城下に落ちついてからであった。

飯山藩・松平家にいた親類の世話で何とか暮らしているうち、久馬は、酒問屋の奈良屋七右衛門方へ婿入りした。
親類のすすめもあり、父の精助も、
「世の中がこうなってはなあ。
これからは何と言うても町人の力が物を言う世になろうから、それもよいだろう」
こう言ってくれたし、久馬は、むしろこれをよろこんだのである。
三年後に父がなくなり、五年後に養父が亡くなった。

★墨田区両国3丁目13−9
乳房「倉ヶ野の旦那」〜不忍池
庭の向こうに不忍池が見わたせるので、せまい庭がひろくおもわれる。

左手に、渡り廊下が曲りくねって奥へ消えていた。
「こっちだよ」
長次郎は渡り廊下の途中に設けてある沓脱ぎの石の上へ履物をぬぎ、渡り廊下へあがった。
この間、長次郎はだれかに目礼をしたようだが、その相手の顔も、お松は見ていない。
まったく、人の気配もないようだった。
長次郎は、お松をうながし、渡り廊下を奥へ向った。

★台東区上野公園5-20
品川区立品川歴史館(品川区)
模型やシアター「浮世絵しながわ紀行」などで品川宿を紹介。

国指定文化財の大森貝塚についてのコーナーも充実。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★品川区大井6-11-1
力餅屋(鎌倉)
江戸中期に創業した和菓子店。

鎌倉と江の島を繋ぐルート上に立ち、江戸時代には茶屋として観光客をもてなしたという。
名物は、昔ながらの製法で作った「力餅」10個入り670円。
つきたての餅になめらかなこし餡をのせた力餅はやさしい味わい。
「福面まんじゅう」1個170円も人気。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★神奈川県鎌倉市坂ノ下18-18
日本橋 神茂(中央区)
元禄元年(1688年)に蒲鉾専門店として創業。

当時中国への輸出品として重宝されていたサメのヒレは日本橋の魚河岸に揚がっていた。
その余りの身を使い、はんぺんを製造しはじめ、人気を博した。
現在販売しているはんぺんもサメのみで製造されている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★中央区日本橋室町1-11-8
百人番所(千代田区)
同心100人とその指揮にあたる与力20人からなる幕府直轄の精鋭部隊・鉄砲 百人組を配置した番所。

百人組には甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組という鉄砲の扱いに秀でた 4つの集団があり、それぞれ昼夜交替で大手三之門の警備にあたった。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★千代田区千代田1-1 皇居東御苑内
日曜日の万年筆「真田幸村の隠し湯」〜刀屋
「刀屋」の、あたたかい店の中で、歯に染みとおるような白菜や野沢菜の漬け物や、 天ぷらなどで酒を飲むうち、痛みも忘れてしまったし、いつもながら、この店のあたたかい もてなしに、同行のH社のTも大よろこびで、カレー南ばんにかけるカレーを御飯に かけて食べたりした。

蕎麦屋のカレーは、スプでつくるのではなく蕎麦に使う汁(つゆ)をベースにしているから、 一種独特の味わいがあるのだ。
「そんなことして、食べられますか?」
「刀屋」の娘さんが心配そうに聞くのへ、私たちは、きれいに腹の中へおさめることによって、 そのこたえとした。
そのあとで、手練の切れ味を見せた「刀屋」のもりを食べてから、益子屋の茶室へ寄って、 茶をたててもらう。
安藤信正屋敷跡(千代田区)
大老・井伊直弼が暗殺された後に老中に就任し、公武合体を進めて皇女和宮の 降嫁を実現させた安藤信正。

屋敷は現在の皇居外苑内にあり、江戸城の目と鼻の先という位置だった。
現在、往時の面影は残っておらず、石碑なども立っていない。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★千代田区千代田1-1 皇居外苑2-1
川越大師 喜多院(埼玉県川越市)
天長7年(830年)に創建した無量寿寺がはじまり。

慶長4年(1599年)に徳川家康から厚い信頼を受けていた名僧・天海僧正が入寺し、 名を喜多院と改めた。
寛永15年(1638年)の川越大火で被害を受けた際に、徳川家光により江戸城の 別殿が移築されたため、現在も家光誕生の間、春日局の化粧の間などが残る。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★埼玉県川越市小仙波町1-2-1
芝大神宮(港区)
伊勢神宮の二柱である天照大御神と豊受(とようけの)大御神を祀る、寛弘2年 (1005年)創建の古社。

江戸時代に入ってからは徳川家から庇護を受けて発展。
関東における伊勢信仰のシンボルとなり、「関東のお伊勢さま」の名で庶民からも 親しまれた。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★港区芝大門1-12-7
千鳥ヶ淵(千代田区)
江戸に移った家康が飲料確保のために小河川を堰き止めて造ったダムが千鳥ヶ淵。

江戸時代には武家屋敷や、将軍を警備する大番組の屋敷が立ち並んだことから、 一帯は番町と呼ばれた。
桜並木が約700mにわたって続くさまは壮観。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★千代田区九段南2丁目〜三番町先
日本橋三越本店(中央区)
伊勢松坂出身の三井高利が、延宝元年(1673年)に呉服店の越後屋を創業。

その後三越と名前を変え、呉服から食品まで多彩な商品を扱い、日本初の百貨店となった。
「店前現金掛け値なし」という、店頭で現金売買する新商法を確立した店としても有名。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★中央区日本橋室町1丁目4−1
表慶館(台東区)
明治42年(1909年)、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して開館。

設計はジョサイア・コンドルの弟子・片山東熊が手がけた。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★台東区上野公園13-9
井伊掃部頭(いいかもんのかみ)邸跡(衆議院憲政記念館)
井伊家の上屋敷(藩主の邸宅)が建っていた地で、現在は衆議院憲政記念館 が広がる。

幕末期は井伊直弼が居住し、桜田門外の変当日も、ここから江戸城へと向かい凶刃に 倒れた。
記念館の敷地内には邸宅跡などを示す碑が立っている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★千代田区永田町1-1-1
川越祭り(川越市)
江戸時代初期から続く祭り。

毎年10月第3週の土・日曜に開催され、蔵造りの街並みを豪華絢爛な山車が巡行する 様子は圧巻。
数台の山車が向かい合い、囃子が響く「曳っかわせ」は必見だ。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)

★埼玉県川越市
剣客商売「女武芸者」〜鐘ヶ淵
小兵衛の家は、堤の道を北へたどり、大川・荒川・綾瀬の三川が合する鐘ヶ淵をのぞむ田地 の中の松林を背に在った。

わら屋根の百姓家を買い取って改造したもので、三間ほどの小さな家である。
秋山大治郎は堤の道を左へ切れ、松の木立を抜け、裏手からまわって父の居間の縁先へ あらわれた。
父の小兵衛は、寝そべっていた。
ならんで立つと、大治郎の胸のあたりへ、小兵衛の白髪あたまがようやくにとどく。
大治郎の体格が特別にすぐれているからではない。
剣客商売「鬼熊酒屋」〜回向院
武家屋敷がたちならぶ通りを、回向院の北側へぬけ、小泉町の角を藤堂 和泉守・下屋敷へ突き当り、土塀に沿って右へ折れ曲がると、前方に、 津軽越中守・下屋敷の大屋根が、闇の中にもくろぐろと浮いている。

道の右側が横網町で、その先が松前伊豆守の本邸であった。
その松前屋敷と道をえだてて、津軽屋敷の北面の三角地帯の突端に、居酒屋「鬼熊」がある。
ここは、横網町の飛地というわけだ。
店の中は、さよう、七坪ほどもあろうか・・・・・・。
土間に、入れこみの畳座敷きが十畳ほど。
それだけのものであった。
芝東照宮(港区)
もともと増上寺の社殿のひとつだったが、明治初期の神仏分離令で分かれ、東照宮に。

家康が秘仏(黒本尊)を尊崇していたことから、江戸時代初期より勝運・厄除けの 仏様として親しまれた。
境内に三代家光手植えの大イチョウが残る。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)
★港区芝公園4丁目8−10
待乳山・聖天宮(台東区)
今戸橋を待乳山・聖天宮の下へわたりきった小兵衛の頬を掠めて燕が一羽、 矢のように大川(隅田川)の方へ飛んで行くのを見送り、

「もう、すぐ夏か・・・・・・」
と、小兵衛がつぶやいた。
小兵衛は、浅草・駒形町に、ささやかな店を出したおもと・長次の夫婦を訪ねようとしている。
このはなしは、急にまとまった。
料亭・「不二楼」の料理人である長次と座敷女中のおもとの仲は、主人夫婦もみとめるところとなって、
「こうなったからには、仕方もないことだ」

★台東区浅草7丁目4−1
剣客商売「箱根細工」〜小田原
相模の国・小田原は、江戸から東海道を二十里二十町。

大久保加賀守・十一万三千石の城下町である。
秋山大治郎は、江戸を発った翌日の夕暮れには、早くも小田原城下へ入っていた。
横川彦五郎の道場がある宮の前というところは、小田原城の東面にあたり、東海道に 面した繁華な商店街だが、横川道場は、海道から裏手へ二筋ほど入った場所にあった。
そのあたりは、御幸の浜と呼ばれる海岸へ近く、相模湾の汐の香りが夕闇の中に、 濃く漂っていた。

★神奈川県小田原市
築地本願寺(中央区)
浅草横山町に西本願寺の別院として建立されたが、明暦の大火により消失。

幕府による区画整理により現在地に移った。 文政11年(1828年)のシーボルト事件(シーボルトが日本地図などを国外に持ち出した 事件)に連座した、波布玄碩の墓(石碑)も残っている。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)
★中央区築地3-15-1
剣客商売「白い鬼」〜日本橋
正月21日の昼下がりで、あたたかく晴れわたった日本橋の上は人びとが織るがごとくに 行きかわっている。

その中に、いましも日本橋の北詰から橋をわたりかけようとしている男の横顔をみとめて、 竜野庄蔵は背すじに寒気が疾った。
(か、金子伊太郎・・・・・・まさに・・・・・・)
であった。
たしか、もう三十をこえているはずだが、依然、その美貌はおとろえていない。
総髪をきれいに梳きあげ、透きとおるような色白の顔に細く濃い眉。
隆い鼻すじ、切れ長の両眼。
大小を帯した細身の体躯に一つ紋の黒い着物、茶の袴をつけ、何かの台上に乗っていて、 その台をだれかに引いてもらっているように上体がうごかず、すっすっと金子伊太郎が橋上へ かかるのを見とどけて、
「さて、どうしよう・・・・・・?)
一瞬おもい迷った竜野庄蔵だが、
「金子を見たからには・・・・・・)
あとをつけて、その居所をたしかめねばならぬ。

★東京都中央区
にんべん日本橋本店(中央区)
雑穀商を営んでいた高津伊兵衛が、元禄12年(1699年)に日本橋の土手に戸板を 並べてかつお節や塩干類を売りはじめた。

雑穀商j醍、上方出張をした際に独自のルートを開拓し、良質な鰹節を入手したそう。
現在もだしの利いた商品を秘録揃えるかつお節専門店として人気。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)
★中央区日本橋室町2丁目2−1
深川江戸資料館(江東区)
天保年間(1830年〜1844年)の深川佐賀町の街並みを再現した町並み展示が人気。

大店や土蔵、船宿、長屋などが並ぶだけでなく、各家屋内部に入ることも可能。
鬼平が活躍した時代から約50年後の庶民の生活を垣間見られる。
館内の小劇場では不定期に寄席なども実施。

(ぴあMOOK「東京歴史さんぽ」参照)
★東京都江東区白河1丁目3−28
喫茶 蔵(足立区)  
定番のブレンドコーヒーのほか、

ツナ、ハム、リンゴの3種セットの焼きサンドが人気。
スターの広場(台東区)  
浅草公会堂の前にあるスターの広場には、森進一、藤田まこと、高橋英樹、田中邦衛 などの芸能人、噺家、作家などの手形が並ぶ。

大衆芸能が盛んな浅草ならではのスポット。
佃島渡船の碑区(中央区)
正保2年(1645年)から

昭和39年まで続いた、隅田川最後の渡し。
ぼたん(千代田区)
昭和30年ごろ創業の鶏すきやきの専門店。

昭和初期の建物は純和風の雰囲気で、全室座敷で頂く料理は昼も夜も変わらないメニュー。
使い込んだ鉄鍋に正肉、もつ、皮、焼き豆腐、しらたき、ネギが盛られ、伝統の味を損なわないよう 火力の強い備長炭で煮る。
鶏は毎日丸ごと仕入れ、新鮮で柔らかい歯応えだ。
ウール倶楽部(墨田区)
店内には30席がゆったりと配置され、ウエッジウッドやジノリなどティーカップにも気を配っている。

ロールハムサンド、ケーキセットのほか、夜にはカクテル30種類などアルコールが豊富。
毛糸の卸会社の経営で、大きな窓のある個性的なビルの1階。
喫茶去 快生軒(中央区)
1919年(大正8年)8月8日、モダンな社交場としてオープンした喫茶店。

3代目の御主人は生粋の江戸っ子、いまも毎日蝶ネクタイ姿で変わらぬ味を守っている。
自家焙煎にこだわったコーヒーは4種類、やや濃い目で酸味と苦みとコクのバランスが 絶妙だ。
バターとママレードの厚切りトーストは各200円。
住吉神社(中央区)
摂津国佃村の漁民が、本能寺の変の際に徳川家康を助けた功にによって江戸に呼び寄せられた とき、摂津国住吉神社(大阪市住吉区)を分社され、氏神として信仰を集めた。

2,8,11月の祭りのほか、4年に一度、8月6日前後の3日間にかけて催される大祭は 地元の一大イベント。
壺屋総本店(文京区)
江戸末期創業の老舗の和菓子店。

現在の御主人で17代を数える。
今も伝統の手法で手作りする和菓子は、どれも繊細な味わい。
看板商品は壺々最中。
もち米だけで作った最中に十勝産の小豆を使ったあんが入り、口に含むと最中とあんがいっしょに とろけるよう。
ボタンの博物館(中央区)
世界各地から収集されたボタンのうち、約1700点を素材、デザイン、年代、国別に 分類・展示。

ひと口に素材と言っても金、銀、真鍮、陶器、象牙、ガラスなどさまざまで、その精緻なデザインは、 ミニチュア工芸品の趣さえある。
ボタンに関する文献資料も閲覧することができる。
上野精養軒(台東区)
創業は1872年(明治5年)。

その4年後にこの地に移転し、本格的な西洋料理店としてスタートした。
濃厚な味わいで当時から人気の高いハヤシライスをはじめ、フランス料理を基本とした、 季節の素材を取り入れたさまざまなメニューを、週替わり、月替わりで提供する。
喫茶ルオー(文京区)
40年変わらぬ味の

セイロン風カレーライスが評判。
相撲博物館(墨田区)
明治から

現代までの相撲史を見ることができる。
本郷給水所公園(文京区)
水道局の貯水槽上に造られた公園。

和・洋2つの庭園から成る。
上野の森美術館(台東区)
国際展や企画展のほか、

独自の展覧会も多数行っている。
紀伊国屋門左衛門の墓(江東区)
享保(1718年)、54歳で没した豪商の墓。

成等院内にある。。
相撲博物館(墨田区)
力士に関する。

資料200点などを展示。
デックス東京ビーチ(港区)
大型客船をイメージして建てられた、話題のレストランから雑貨まで、50以上の専門店が 揃う複合施設。

雑貨ではとくにアウトドアグッズが充実しており、小物から衣類、レジャー用品まで各種 取り揃えた店舗が集まっている。
レストランはお台場の景色を眺める展望が魅力の店が多い。
上野風月堂(台東区)
明治時代から日本に洋菓子のおいしさを広めてきた風月堂。

現在、数ある風月堂の中でも、ここ上野店でしか焼いていないという、東京カステーラはぜひ 試したい一品だ。
このほか、ほどよい甘さのクリームを挟んだ、ゴーフルも大好評。
喜之床旧跡(文京区)
朝日新聞社校正係の職を得た啄木が、明治44年(1911年)に結核で倒れるまで住んだ。

建物は明治村に移築され、王子の姿をとどめている。
聖路加ガーデン展望室(中央区)
隅田川のほとりに建つ、2棟の高層ビルの最上階47階にある展望室。

このビルは、聖路加国際病院の再開発計画の一環として、1994年5月に完成し、オフィスや レストラン、ショップなど、様々な施設が集まる。
隅田川に架かる12橋のライトアップと銀座界隈の夜景が美しい。
伝通院(文京区)
家康の生母の菩提寺となって以来、。

その法名が通り名となった。
本郷 松しん(文京区)
江戸の伝統的な品々を独自の発想で伝承させようと、民芸品の販売はもとより、 企画、製造も行う。

店内には昔懐かしい民芸品が所狭しと並び、手頃なものでは100円から揃う。 商品は季節により変わるが、常に人気なのがいろはカルタ、千社札のネームシールなど。
上野薮そば(台東区)
かんだやぶそばののれん分けした第1号店で、1892年(明治25年)の創業。

国産のそば粉を使った打ちたてのそばは、天然醸造しょう油を使ったコクのある辛めのつゆでいただく。
カキをのせたカキ南蛮や、生ホタテの貝柱を散らしたあられそばなど、季節メニューも好評。
木場公園(江東区)
19万3500?の広大な公園。

木場の木材業者が移転した跡地にできた。
泉岳寺(港区)
慶長17年(1612年)、徳川家康により外桜田に創建。

寛永の大火で焼失するが、家光の命で現在の場所に再建された。
伝馬町老屋敷跡(中央区)
1677年(延宝5年)、常盤橋外から移転した。

斬首の行われた場所。
うさぎや(台東区)
1913年(大正2年)の創業当時は、初代が作った喜作最中で知られ、2代目によって 現在も人気が高いどら焼きが発売された。

どら焼きの皮はケーキのようにきめが細かくしっとりとした舌触りで、あんは北海道の小豆を使った 極上品。
その日に売り切るように作るため、4時以降に買いに行く場合は予約した方がよい。
木村屋総本店 銀座本店(港区)
明治天皇にあんぱんを献上したことで有名なベーカリー。

1869年(明治2年)の創業以来、手作りの味わいを守る老舗だ。
7・8階の工場で焼いたパンが直接店頭に並ぶのでホカホカ。
自慢のあんぱんは、塩漬けの桜がヘソになった桜あんぱんのほか、白、うぐいす、栗など バラエティ豊か。
千住宿歴史プチテラス(足立区)
1830年(天保元年)に建てられた土蔵を使ったギャラリー。

間口2間半、奥行2間半の建物は2階建てで、塔には母屋と棟続きの内蔵として 使われていたもの。
展示のない週末は「やっちゃば展」として、昔の市場などで使われていた民具が展示される。。
天安本店(中央区)
かつては多くの店が建ち並んだ佃島の佃煮屋も今は3軒を残すのみ。

そのうちの1軒、天安はその看板が歴史を感じさせる老舗の佃煮屋だ。
創業は1837年(天保8年)、初代が安吉という名だったことから店を天安と命名。
昔ながらの製法にこだわり、化学調味料や添加物はいっさい使わず、日本近海で捕れた 魚を井戸水で洗い、大きな釜で160年来の家伝のたれで煮る。
味の決め手となる家伝のタレには、砂糖、しょう油に素材のうま味が加わり、一朝一夕には できない深みがある。
佃煮は現在17種類あり、夏場は辛め、冬場は甘めと、季節によって味付けを調整している。
牛嶋神社(墨田区)
自分の体の

悪い部分を撫でると病気が治るという「撫牛」が有名。
木村屋人形焼本舗(台東区)
店頭で次々に焼かれる

人形焼は甘さ控えめのあん入りで、形は鳩、提灯、雷様、五重塔の4種類。
千住ほんちょう公園(足立区)
江戸時代、日光街道の宿場だった千住宿の跡に位置する素朴な雰囲気の公園。

かつての賑わいとは対照的に、今は閑静な雰囲気が漂う。
入り口には重厚な雰囲気の木造の門が、いかにも千住の長い歴史を感じさせる。
園内には千住の史跡・旧跡の案内図があるので、周辺の歴史散策の起点として みるのもいいだろう。
宿場町をイメージしたトイレも面白い。
東叡山寛永寺(台東区)
現在の本堂は明治12年移築したもの。

境内には記念碑も多い。
梅むら(台東区)
柔らかい豆とプリプリした観点が入った豆かんが自慢の甘味処。

自家製の黒みつも上品な甘さで、たっぷりかけても甘すぎることはない。
そのほか、あんみつやところ天などもある。
豆かんとあんみつはテイクアウトも可能だ。
店は浅草寺裏手にある。
旧寛永寺五重塔(台東区)
1639年に建立。

構造は三観五重塔、五重銅瓦葺から成る。
全生庵(台東区)
大政奉還期の政治家山岡鉄舟開基の寺。

奥には三遊亭円朝の墓も。
東京鳩居堂(中央区)
銀座の中心ともいえる4丁目交差点にほど近い和小物と和文具の老舗。

創業は1663年(寛文3年)と、江戸時代前期にまでさかのぼる。
1階には千代紙や飾り扇子、一筆箋、ハガキなどが揃う。
小物入れやアルバムをはじめ和紙の風合いを生かしたオリジナル商品も多い。
粋でモダンなデザインのポチ袋も人気が高い。
また、2回は約200種ものお香や香立てなどの関連グッズが揃うほか、筆や硯、墨などの書道用品が 充実している。
土産を求めて訪れる外国人客も多く、エキゾチックなインテリアとしても喜ばれている。
東京国立博物館(台東区)
1872年(明治5年)に創立された博物館。

日本の美術、工芸品を展示する本館をはじめ、重要文化財に指定された洋風建築の表慶館、 アジア各地の美術、考古資料を紹介する東洋間に加え、平成11年夏には法隆寺宝物館が、 飽きには平成館が新しく開館。
映画弁士塚(台東区)
明治、大正期の

活動写真の弁士100名の名が刻まれた碑がある。
旧安田庭園(墨田区)
丹後宮津の藩主である本庄氏の屋敷跡にある名園。

1922年(大正11年)に当時の所有者、安田善次郎氏から東京都に寄付された。
安政年間(1854年〜1860年)、隅田川の水の干満により池の水位を変化させた潮入り回遊式の 庭園を、現在はポンプで水の給排水が行われ人工的の再現をしている。
浅草寺(台東区)
創建は628年(推古36年)、隅田川から引き上げられた観世音菩薩像を、郷司の土師中知が 供養したことにさかのぼる。

その後、多くの文人や武将の信仰を集め、江戸時代のはじめには、家康により幕府の祈願所に 指定された。
それ以来、下町文化の中心的存在となり、現在でも「浅草観音」の名で人々に親しまれている。
真っ赤なちょうちんでおなじみの雷門をくぐると、みやげ物屋や菓子店、衣料品店などが並ぶ 仲見世通り。
1年中参拝者や観光客があふれ、お祭りのような賑やかさだ。
目の前にそびえる宝蔵門の向こうには、急勾配の屋根が印象的な本堂や五重塔院など、雄大な 建物が並んでいる。
東京都恩賜上野動物園(台東区)
パンダでおなじみ上野動物園は、1882年(明治15年)、日本初の動物園としてここ上野公園に 登場した。

現在では年間約320万人の見学者が訪れている。
表門側の東園と不忍池側の西縁に分かれている園内は、イソップ橋で結ばれているが、モノレールを利用して 移動するのも楽しい。
平成8年に完成した、ジャングルを再現した森には、ニシローランドゴリラやスマトラトラなどが、 自然に近い環境で飼育されている。
動物をもっと知りたい人のためにはガイドのサービスも。
数々のイベントも催されているので、家族で是非参加したい。
永昌寺(台東区)
加納治五郎は明治15年、ここで柔道を始めた。

講道館柔道発祥の地。
玉林寺のシイ(台東区)
高さ16m。

市街地における有数の大樹。 都天然記念物に指定
千疋屋総本店(中央区)
1916年(大正5年)に日本初のフルーツパーラーとしてオープン。

創業時と変わらぬクラレットポンチ、パフェの元祖ともいうべき千疋屋スペシャルパフェは 中2階のフルーツパーラーで味わえる。
1階はフルーツ売り場、2階はレストラン。
東京都現代美術館(江東区)
国内外の

現代美術約3600点を収蔵。
回向院(墨田区)
徳川4代将軍家綱が明暦の大火の死者を供養するために建立。

物故力士をまつる力塚など相撲との関りも深い。
清澄庭園(江東区)
三菱財閥を興した岩崎弥太郎氏が隅田川の水を引き、全国の奇岩珍石を集めて造った 回遊式築山泉水庭園。

3万9千?にも及ぶ敷地はそもそも江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門の別荘だったという 円の中心をなす広大な池には大小の島や磯渡りが設けられ、歩いて巡ることができる。
園田民芸品店(葛飾区)
ミニ提灯は「寅さん」や「柴又」など、

ここならではのロゴが入った人気商品が多数揃う。
東京都美術館(台東区)
240を数える、

美術団体の公募展会場として有名である。
東本願寺(台東区)
真宗大谷派の筆頭別院。

明暦6年(1660年)、現在地に移ったもの。
江島杉山神社(墨田区)
真宗大谷派の筆頭別院。

明暦6年(1660年)、現在地に移ったもの。
北区以外のお気に入り
・千鳥ヶ淵(千代田区)

・川口市

・亀戸天神

・善光寺(川口市)

・上田市

・鷲神社(台東区)

・神田神社資料館(千代田区)

・浅草羽子板市

・根津神社

・浅草羽子板市

・三國志展

・浅草芸者祭り

・亀戸天神

・柳橋

・上田市

・染井

・神田神社資料館

・染井霊園(豊島区)

・根津神社

・善国寺(新宿区)

・善福寺(港区)

・亀戸天神

・善雄寺(文京区)福田半香墓

・上田市

・善養寺(豊島区)

全生庵(台東区)

根津神社

素戔嗚神社(荒川区)

早稲田大学演劇博物館(新宿区)

亀戸天神

・曹源寺(台東区)

・上田市

・巣鴨庚申塚(豊島区)

・神田資料館

・東光寺(板橋区)

・根津神社







・根津神社





・志村一里塚(板橋区)


・亀戸天神




・増上寺区(港区)


・根津神社




・池波正太郎記念碑(台東区)

・亀戸天神

大野書房

大阪

王子新道(板橋区)

巣鴨大鳥神社(文京区)

大塚天祖神社(豊島区)

大円寺(文京区)

谷中銀座(台東区)

根津神社

谷中霊園(台東区)

白山神社