版権物(一)

北区の部屋
・「北区の部屋」は誰でも利用できる北区専門の空間

旧赤レンガ倉庫と一体になった外観が美しいと評判の北区立中央図書館。
1階フロアの一角に「北区の部屋」がある。
北区の前身である旧滝野川区・王子区の区史や古地図、古文書といった歴史資料を陳列するエリアだ。
それだけを聞けば、ほこり臭くて重たい本が押し込められた書架が並ぶ、ひと毛のない片隅めいたイメージが浮かぶ。
確かに、他の区市町村図書館の郷土資料コーナーには、そういうところが少なくない。

しかし「北区の部屋」には、単なる「郷土資料室」を超えた明るさと、「初心者から上級者まで」をコンセプトにした、充実の展示に満ちた空間が形づくられている。

メインフロアと陽光こぼれる総ガラス張りの渡り廊下でつながれた「部屋」の中には、大きな古地図をいっぱいに広げても十分な大きさに思える6人掛けのテーブル。
机上面の中央部はガラス張りで本が収められ、ショーケースとしての意味合いも持っている。奥の壁面には色鮮やかに「王子不動之滝」など、近隣の名所を描いた浮世絵のパネルが計6枚、展示されている。
現状の写真や地図も添えられ、説明文も簡潔でわかりやすい。
関連の本も十数冊、表紙を向けてゆったりと並べられている。

もちろん「北区史」「北豊島郡史」「岩渕町郷土誌」といった硬めの本もずらりと並んでいるが、書架の高さが抑えられていたり、天井寄りに区内在住だった人気作家・故内田康夫氏のサイン入りポートレートあ飾られたりしているせいか、圧迫感は全くない。
パネル展示は毎月更新される。
また、「北区こぼれ話」をメインとした月刊の「北区の部屋だより」も平成30年(2018年)1月現在、102号まで発行されている。

「北区の部屋」の他にない特徴として、司書とは別に「地域資料専門員」が常駐(調査などで不在時あり)していることが挙げられる。
専攻が江戸時代の保垣孝幸さんと近現代の黒川徳男さんで、コアな利用者によると「二人に聞けば、北区の歴史に関する疑問はすべて解決する」ほどだそうだ。
書架に並ぶ「〇〇家文書」などと背表紙に記された書籍も、主に二人が1枚1枚古文書を厳選して複写したのち、製本されたものだ。

平成10年(1998年)、中央図書館の現地移転に併せて開設された「北区の部屋」だが、もとは区史編さんのために収集した資料の整理・保存を目的として、総務課に置かれた行政資料センターが母体となる。
保垣さんも黒川さんも当時から旧家を訪ね、多くの古文書の読み解きなどに当たって来た。
「いまも区民の方から『古い文書が出てきた。
見に来てくれないか』など、しょっちゅうご連絡をいただきます」

保垣さんが言う。
傍らで黒川さんは、歴史好きな区民からの質問電話にかかりきり。
中央図書館の利用者は1日約2500人。
そのうち「北区の部屋」を訪れる人は20人ほど。
いかにも、もったいない。

「歴史に興味がなくても、読書や受験勉強の合間にふらりと訪ねてみてください」と、保垣さん。
リフレッシュに加えて「へぇ〜」と思わせる「北区トリビア」もゲットできる。
「北区の部屋」はそんな存在だ。
もちろん、きちんと学びたい人には、二人が全力でサポートしてくれる。
(東京商工会議所「TOKYO北区時間2018」参照)

★東京都北区十条台1-2-5北区立中央図書館内「北区の部屋」
朝日新聞黒川先生
朝日新聞2021年(令和3年)8月24日
北区立中央図書館「赤レンガ棟」
「軍都」の記憶 証言する手紙・写真

・北区と戦争遺跡

北区や板橋区にかけては終戦まで、旧陸軍の兵器関連の製造所や倉庫などが数多くあった。
軍用地が区域の1割を占め、「軍都」と呼ばれていたほどで、今も区内にはその名残をとどめる場所が数多くある。
旧軍関係の建物は空襲で焼失したり、空襲を逃れても戦災復興の過程で多くが撤去されたりした。
だが、北区では戦災を逃れた軍関係の施設の多くは米軍が接収。
その後、自衛隊が使用するなどしたため、戦争遺跡として残った施設がある。
区立中央図書館の一部に再利用された「赤レンガ棟」もその一つだ。



JR王子駅から歩いて10分ほど。
高台に上がると、赤茶けたれんがや黒ずんだ鉄柱の建物が見えて来る。

東京第一陸軍造兵廠の弾薬類の製造工場を再利用した北区立中央図書館(北区十条台)の一部だ。
この戦争遺跡は2008年(平成20年)に再利用され、図書館の「赤レンガ棟」と呼ばれて親しまれている。

「北区の部屋」。
館内にはそう名付けられたエリアがある。
保管庫には、近現代の郷土資料や、住民からの寄贈資料など数万点が保存されている。
太平洋戦争関連や戦後復興期の資料だけでも数千点にのぼる。
ここで資料の保存や分析などを任されている黒川徳男さん(54才)の20畳ほどの研究室には段ボール箱が所狭しと置かれている。

机の上には、シベリアに抑留された人が戦後、収容所から家族に宛てた手紙が。
生きている事だけを短く伝えている。
出征兵士が肩にかけた日の丸の寄せ書き。
慰問袋を満載したトラックの写真。
「何がなんでもカボチャを作れ」と書かれた回覧板。
防空・防火訓練に参加する女性たちの写真・・・・・・。
当時を物語る数多くの資料がここに眠っている。



「ここには霊魂が漂っている気がする」。
資料であふれかえるこの部屋を、同僚の職員たちがよくそう言う。
「託された手紙や写真などの一つひとつに、その人その人のそれぞれの思いが込められていますからね」。
黒川さんはそう言って笑った。

黒川さんは栃木県下野(しもつけ)市出身。
大学院生だった30歳の時に、北区史の編集に関わり、以来、20年以上にわたって街に出て資料収集にあたったり、住民から資料の寄贈を受けたりしてきた。
区の職員ではないが、区から13年前に「地域資料専門員」の肩書を与えられた。
当時、近現代史に詳しい学芸員が区にいなかったからだという。
國學院大學で近現代史の講師なども務めている。

家族から戦争体験を聞いたことはほとんどなかった。
東京大空襲の際は栃木からも東京方面が赤く燃えている様子がわかり、恐ろしかったという話を母がしてくれたくらいだ。

北区の戦争関連の資料の収集にのめり込むようになったのは、地域の人たちとの出会いや交流がきっかけだった。
区に資料の寄贈を申し出た人や、「北区の部屋」に直接電話して来た人達一人ひとりと会って来た。
涙を流しながら、戦争の記憶を数時間語ったお年寄りもいた。
戦後76年を経て、戦争体験を直接聞く機会は確実に減っている。

戦争関連の資料は定期的にパネル展示している。
戦争遺跡を巡るツアーでは案内役をこなし、希望者には戦争遺跡の歴史を説明する「語り部」の役割も務めている。
数々の資料や遺跡、遺構は「無言の証言者」だ。
「その目で直接見てもらい、平和を考えるきっかけにしてほしいから」

図書館で戦争関連も含めて近現代の資料を保管している一体は都内でも数少ない。
戦争の記憶を証言する人が少なくなった今、使い勝手の良い身近な図書館の資料は重要になっていると考えている。

戦後80年では何を使って、どんな方法で、あの時代を伝えたらいいのだろう。
今それを考えている。
月の影 影の海
アルバムを捲るように様々のことが思い出されて、陽子はしばらく押し黙っていた。

ふと息をついて我に返ると、楽俊が2,3歩離れたところでじっと陽子を見上げている。
ひどく途方に暮れたように見えた。
「どうかした?」
「・・・・・・した」
首をかしげる陽子を見上げたまま楽俊は呟く。
「ケイキってのが台輔と呼ばれていたんなら、そいつは、ケイ台輔だ・・・・・・」
「それが?」
呆然としたように見える楽俊の様子が不思議だった。
「ケイキがケイ台輔で、それで何か不都合でも?」

風の海 迷宮の岸〜泰麒
「・・・・・・タイキ」

半獣の女はそう言ったが、それが何を意味する言葉なのか、彼にはよく分からなかったし、 ましてやそれが彼女が10年ぶりに発した言葉であることなど、分かるはずがなかった。
「泰麒」
彼女の柔らかな手が髪を撫でて、同時に丸い眼から澄んだ涙が零れた。
彼は、いつも母親にするように手を握ってその顔を覗き込んだ。
「悲しいことがあったの?」
彼が言うと、彼女は首を横に振った。
いいえ、と否定するよりは、気にしなくていいのよ、と言いたげなそのしぐさが母親のそれに よく似ていた。
営繕かるかや怪異譚「奥庭より」
ーまた、開いている。

祥子は茶の間を出たところで止めた。
祥子がたったいま開けたばかりの障子は、縁側のような袖廊下に面している。
大きなガラス戸を隔て、目の前には奥行きのある中庭があった。
露地ふうの庭を越えた向こう側には同様の袖廊下があって、そこには古い桐箪笥が 並んでいる。
祥子の身の丈よりっや低い箪笥が二棹。
その後ろには二枚引きの襖が見えていた。
つまりは、箪笥が襖を塞いでいるのだ。
白い無地の唐紙を貼った襖は、上の三分の一ほどが覗いている。
その襖の片側が、わずかに透いていた。
百鬼夜行・陰「小袖の手」
杉浦隆夫は箪笥に仕舞ってある妻の着物を凡て処分することにした。

もう妻が戻ることもあるまいし、志立て直しをして再利用することも考え難かったから、 殆ど躊躇うこともなかった。
ただ、抽匣を開けるという行為自体には大層抵抗があって、杉浦はその刹那、恐怖の あまり指先の力が抜けて、取っ手の金具をかたかたと鳴らしてしまったのだった。
そのかたかた云う音が。
杉浦の恐怖心を一層逆撫でした。
ー馬鹿馬鹿しい。
本当に馬鹿馬鹿しいと思ったから、杉浦は勢い良く抽匣を開けた。
私刑
セントラルパークに深くふり積もった雪の中を、男は確かな足どりで歩いていった。

時間は遅かったが、どれくらい遅いのか正確なところはわからない。
ランブル(散歩道)の方を見やると、星空の下に岩が黒く浮かびあがっている。
男は自分の息づかいを聞き、それを見ることができた。
彼はほかのどんな人間とも違う。
まるで人間の肉体を持つ神のように、テンプル・ゴールドには不可思議な力が備わっていた。
たとえば、だれもが足をしべらせるに違いないこんな道を歩きながら、彼は一度もすべらなかった。
それに彼は恐れというものを知らない。
野球帽のひさしの下の目が、あたりを見まわした。
接触
ダブリンの町はすっぽりと夜のとばりに包まれていた。

寒い夜だ。
部屋の外では風が吹きすさび、無数の笛がなっているようにきこえる。
亡霊がとおりすぎていったかのように、突風にあおられた古い窓ガラスが、がたがたゆれる。
私はもう一度枕の具合をなおし、よじれてしまったアイリッシュ・リネンのシーツの上に横になった。
だが寝つけない。
昼間見たものが頭に浮かんだ。
手足と頭のない死体が目の前にちらつき、冷や汗をかいておきあがった。
明かりをつけるとシェルボーン・ホテルの室内がうかびあがった。
業火
真夜中近くに、自宅のそばの守衛の詰め所で車の速度をゆるめると、勤務中の 守衛がでてきて、止まるように合図した。

めったにないことなので、どきっとした。
うちの警報器が鳴りつづけていたとか、またどこかのおかしなやつがここを通りぬけて 私が家にいつかどうか見ようとした、といったところだろうか。
マリーノは1時間ほど前からいねむりをしていたが、私が窓をあけると目をさました。
「こんばんは」と、守衛に言った。
「元気、トム?」
「ええ、おかげさまで、ドクター・スカーペッタ」
警告
遅い朝は青空とあざやかな紅葉に彩られていたが、私にとってそれらは何の意味も なかった。

いまや日光と美は他の人たちのために存在してるにすぎず、私の人生は荒涼として歌声もきこえない。
窓に目をやり、落ち葉をはいている隣人を見つめた。
気が滅入り、どうしようもなくつらかった。
ベントンの言葉は、心の奥に抑えこんでいたおそろしい光景をまざまざとよみがえらせた。
びしょびしょのごみと水のなかに散らばる、高熱のために砕けた骨を光のすじがとらえるのが目に浮かんだ。
怪しいスライス
「ミスショットをしてもくよくよしない。

すぐに忘れてプレーを続けること」
ええ、その通り。
リーは絡まったアイスプラントの中から澄ました顔を無邪気にのぞかせている、表面に いくつもの窪みがついたゴルフボールを責めるようにじっと見つめた。
なじみの教訓はもっともだが、この日7度目のお粗末なショットとなると、くよくよせずにいるのは ぐんと難しくなる。
もちろん、いつだって数回はひどいショットを打つ。
それもゴルフのうち。
悪夢の優勝カップ
18番ホールを見おろすテレビ中継塔の席で、ボイド・マリナーは3羽のハゲワシが 頭上をゆっくり旋回するのを見ていた。

指のように見える広げた羽の先が砂漠の明るい空に黒くくっきりと浮かんでおり、まるで 下でプレーしている選手の1人が今にもばったりと倒れて死ぬことを予期しているかの ようだった。
あいつらは私が知らないことを知っているのかもしれない。
ボイドはむっつりした顔でそう思った。
そうであってほしいと願ってしまいそうだ。ゴルファーの死をおおっぴらに願ったりはできないが、 どのみち割り当てられている人生の衣冠が終わるのであれば、いずれそう遠くない将来に 死を迎えるのであれば、数百万ものテレビ視聴者が夢中になって見守っているなかでー おそらくは、この世で最後のパットをはずしたときに=死んだとしても本人にとってそう悪く ないのではないか?
邪悪なグリーン
深淵から浮かびあがってくる黒い怪物のように、男が泡を背後に残しながら 暗い海のなかからあがってくる。

ヴァージニアII世号の看板から見ていると、雨粒が穴を開けている灰色の海面に 近づいてくる波は、まるで泡を吹きながら成長し、ついに目のまえで開花した大きな 海の花のようだった。
波が上を向き、甲板の天幕の下にいたふたりの男たちにも、水のなかd喜びをあふれさせている 顔が見えた。
彼はまだ海面に出ないうちからマスクとマウスピースをはずし、船べりのはしごを手探りしながら、 一度に笑ったりむせたり話そうとしたりしている。
疑惑のスウィング
「マイスターズ2勝ー」

スターターは見事な成績にふさわしい厳かな調子で、マイクに向かってささやいた。
「ー全英オープン2勝、ツアー通算43勝、1988年、90年、95年アメリカツアー賞金王、 生涯獲得賞金歴代9位・・・・・・ご来場のみなさま、この美しく晴れたアリゾナ州スコッツデールにある、 美しいトルーンノース・ゴルフクラブの、美しく名高いピナクルコースに、ロジャー・フィンリーを お迎えしましょう。
ミスター・フィンリー、こちらへどうぞ」
悲劇のクラブ
ウォーリー・クロフォードは、食後のフレンチバニラフレーバーのコーヒーを最後に ひと口飲みほし、椅子をうしろに押しやって、これ見よがしに伸びをしながらあくびをすると、 驚いた顔をした。

少なくとも、本人はそう見えることを期待していた。
「あれ?きょうは木曜日かい?」
「ええ、そうよ。
朝からずっと」
妻のクッキーもコーヒーを飲み終えると、夕食を食べていたテーブルから立ちあがった。
「まいったな。
明日は金曜日か」
クッキーはウォーリーを見た。
「そうだとしても意外じゃないわね」
精霊の木
その不思議な光がナイラ星にあらわれたとき、最初にそれを発見したのは、 第四チタン鉱山の夜間監視員だった。

彼はその時、朝7時の勤務終了のベルを聞きながら、いつものように、窓辺の椅子で、 熱いコーヒーを楽しんでいた。
この鉱山には、彼のほかには人間はいなかったので、ベルが鳴りおわると、耳が痛く なるような静けさがもどってきた。
遠くでかすかにゴゥンゴゥンと機械がうなっていたが、その音になれっこになっている 彼には、耳鳴りほどにも聞こえていなかった。
窓の外にひろがる、荒れはてたさびしい景色をながめて、彼はため息をついた。
なんともまあ、どいなかの星という風景だ。
鉱物資源にめぐまれているという理由だけで開発され、鉱山がすべて完成して、資源が 自動的に星間輸送ベルトにのってしまうと、活気までベルトにのって消えてしまったような、辺境の惑星ナイラ・・・・・・。
地球滅亡のあとに、人類文明の中心地となった中央太陽系あたりでは、ナイラ出身です と言うと、
「ああ、あの鉱山の数のほうが人の数より多いって星ね」などと言われるそうだ。
恐ろしき四月馬鹿
4月1日の午前3時頃、M中学校の寄宿舎の一室に寝ていた葉山という一学生は、恐ろしい夢からふと目覚めた。

彼の肌着はべっとりと汗に濡れていた。
彼はその心持悪さに寝返りを打とうとした。
その瞬間、彼はふと部屋の中に怪しい気配を感じて思わず息をひそめた。
それは満月に近い夜で、カーテンを引き忘れた窓を通して、美しい葡萄色の月光が 部屋一杯に流れ込んでいた。
その月光の下に、寝ている葉山とは1間も離れていないところに、1個の黒い影が 恐ろしくも静かに蠢いている。
喉を絞めつけられるような息苦しさを感じながらも葉山は薄闇の中に凝視を続けた。
あやかし草紙「開けずの間」〜神田
神田の町筋を、この冬最初の木枯らしが吹き抜けてゆく。

早朝、お店のまわrを掃き掃除した丁稚の新太は、寒気に鼻の頭を真っ赤にしていた。
腰痛持ちの番頭の八十助は、寝床から起き出すのが辛かったと、ひとしきりぼやいていた。
「ああ、いい季節が来たねえ。
一年で、あたしは冬がいちばん好き」
そう言い放つお民は、三島屋の縫子と職人たちを束ね、自分も先に立って針仕事をしているので、 絹物をひっかけちゃいけないからと手荒れには人一倍気をつけているけれど、それでも冬場には あかぎれだらけになる働き者である。
「おばさん、どうして冬がお好きなんですか」
「あったかいご飯が食べられることの有難みが身に染みるからさ」
「へそ曲がりなんだよ、おっかさんは」

★千代田区神田
魔性の子
雪が降っていた。

大きく重い雪片が、冷えた空気の中を沈み込むようにして降りしきっていた。
天を仰げば空は白、そこに灰色の薄い影が無数に滲む。
躍るように舞い落ちたそれは、染み入る速度で宙を横切り、目線で追うといつの間にか白い。
彼は肩に軟着陸したひとひらを見る。
綿毛のような結晶が見て取れるほど、大きく重い雪だった。
次から次へ、肩から腕へ、そうしてまっ赤にかじかんだ手に留まっては、水の色に透けて溶けて行く。
東の海神 西の滄海
彼はふと、話し声で目をさました。

暗闇の中を、ぼそぼそと声が這う。
父親と母親の声が家の外から漏れ聞こえているのだ。
家といっても、四本の棒の間、壁と屋根の代わりに筵を張っただけの粗末なものだ。
寝床は土の上、虫の音が盛んなころだけれども、くるまる布の一枚さえない。
身を寄せ合って眠る兄弟の体温だけがよすがの寝床だった。
以前住んでいたのは、もっとましあ家だったが、その家はもうない。

風の万里 黎明の空
この顛末を聞いて、当の延王尚隆は大笑いした。

「陽子も苦労しているな」
「・・・・・・玄英宮はいいですね。
理解があって」
王ともなれば、男でもさすがに袍とはいかないものらしい。
なのに尚隆の身なりは概ね、慶国の高官より簡素だった。
とんでもない、と四阿の手摺に腰を降ろした延麒六太は顔を顰める。
「三百年戦って、やっところで折り合いがついたんだ」

陰摩羅鬼の瑕
そんなことを考えているうちに。

―彼奴なら何と云うか。
こうした話題には多分乗る男である。
彼奴は多分否定するだろう。
そう思った。
彼。
ー中禅寺秋彦。
古本屋京極堂主人にして武蔵晴明社の神主。
そしてー憑き物落としの拝み屋でもある男。

モデル探偵事件録
階段を上がってるんだわ、とベルは背中を押されながら確信した。

「もたもたするんじゃない」
背後からしゃがれ声が言った。
「シャネルでウィンドウショッピングでもしてるつもりか?」
答えようにも、答えられるはずもない。
口をガムテープで塞がれた状態では。
一歩、また一歩と上がって行く。
図書館長の休暇
話を2ヵ月前に戻そう。

ぼくの名はジョーダン・ポティート。
テキサスの小さな田舎町ミラボーで、図書館の館長をやっている。
このおおむね静かな中町は、ヒューストンとオースティンのあいだのなだらかな山並に あって、コロラド川が大きく湾曲するその懐に位置する町だ。
だいたいどの家も手入れが行き届いていて、下段は製図工が線を引いたようにかっちり と縁取りされ、通りには楽しそうに遊ぶ子どもたちの笑い声が絶えない。
しかし、この静けさに騙されてはいけない。
ぼくは1年ちょっと前にこの町に戻って来たけれど、ここ何ヶ月かは、人生観の変更を 迫られるほどの驚愕事件の連続だった。
流れ行く者
その知らせを、最初に持ち帰ってきたのは、隣家に湯をもらいにいっていたチナだった。

「たいへんよ、たいへん!
<山畑>のネェやが、山犬に食われたんだって!」
土間に駆けこんで来るなり、裏返った声でそう叫んで、チナは草履を蹴るようにして脱ぐと 、上がりがまちにあがってきた。
土間に突き出している上がりかまちにすわって、草鞋を直していたタンダは、思わず、 脱ぎ捨てられてひっくりかえった妹の草履に手をのばし、表に返してやった。
妹が脇をすりぬけたとき、湯上りのいい匂いが、ほわっと鼻をさすった。
チナは、トタトタと軽い足音をたてて母に駆け寄るや、その首にしがみついた。
書楼弔堂 破暁
葉桜は夏の季語だそうだ。

道の両岸の桜樹の繁り具合は真に旺盛である。
青青と誇らしく繫り、もう葉桜と呼べるような状態ではないが、まだ世間は暑くはない。
夏までにはまだ間がある。
過ごし易いと云えば聞こえは良いが、天候が不順なだけなので、気が晴れることは殆どないのである。
鈍鈍と漫ろ歩きで幅広い坂を下ると、手遊屋が一軒ある。
何度通っても唐突な感を覚える。
屍鬼
村は死によって包囲されている。

渓流に沿って拓けた村を、銛の穂先の三角形に封じ込めているのは樅の林だ。
樅の樹形は過ぎに似て端正、しかしながら幾分、ずんぐりしている。
杉が鋭利な刃物の先なら、樅は火影だ。
灯心の先にふっくらと点った炎の輪郭。
直通の幹、こころもち斜め情報に向かってまっすぐに伸ばされた枝と樹冠が作る円錐形、 葉は単純な針葉で、それが規則正しく並ぶのではなく羅生するところだけが、わずかに複雑だ。
ー総じて淡々とした樹だと思う。
荒神
つんのめるように駆ける、駆ける。

裸足の指がつかむ土の感触が変わった。
小平山を登り切るまで、あと少しだ。
蓑吉は足を緩めた。
走るのをやめると身体じゅうの力も抜けてしまい、よろめいて地面に倒れ込んだ。
ようよう腕をついて頭を上げ、胸をあえがせて息をつく。
夜の森に、聞こえるのは己の激しい呼気ばかりだ。
ホワイトコテージの殺人
夕方の4時をわずかにすぎたころ、ジェリー・チャロナーはケント州の海道で小さな スポーツカーのハンドルを巧みに切ってカーブを曲がると、「自動車協会」の警告に そって速度をゆるめたまま、小さな村の通りを静かに進みはじめた。

まさに絵のように愛らしい村だった。
ただし、通りの左右に点在する赤煉瓦とモルタルの真新しい家々のせいで、その景観は すでにいくらか損なわれている。
近ごろではロンドン周辺の諸州はどこもこんな調子だ。英国南東部の全域が巨大なベット タウンと化していることを思い、その冒涜行為に彼はかぶりをふった。
ジェリーは小柄だが均整のとれた体格の好青年で、常に楽し気な驚きの表情を 浮かべている。
目下のところ、彼は人生に大いに満足していた。
ドライブはごく順調で、残りわずか30マイル、少しも急ぐ必要もない。
桜ほうさら
今日は珍しいものを持って来ましたよー。

戸口から呼びかけられて、古橋笙之介は目が覚めたようになった。
振り返ると、戸口に村田屋の治兵衛が立っている。
手ずから風呂敷包みを抱え、小僧も連れずに一人で来たようだ。
笙之介は不思議でならない。
立て付けのよくないこの出入口の障子戸を、どうして治兵衛はこう音もなく開け閉て することができるのだろう。
おかげでこちらはいつも不意打ちを食って、緩んでいるところばかりを見られてしまう。
地の日 天の海
国境の峠を越えて、半時(約一時間)ほども来ただろうか。

前方の暗い森の奥から、叢雲のような殺気が近づいてくるのを感じて、随風は足を停めた。
左右は灌木の疎らに立つ薄の原。
道はうねりながら森へ通じる。
視界に入っているのは谷間の森の風景のみである。
風が梢の葉をそよがせる程度で、ほかに動くものはない。
しかし、気配ははっきりと随風の脳裏に映じた。
ハゲタカは舞い降りた
「<ミュータント・ウィザーズ>です」とわたしはいった。

「少々お待ちいただけますか?」
包帯が巻かれて不格好な左手に受話器を持ち替え、左耳にあてると、別の回線の電話に 出るためにボタンを押した。
「<イート・ユア・ウェイ・スキニー>です」とわたしはいった。
「少々お待ちいただけますか?」
残穢
すべての端緒となる一通の手紙が私の手許に届いたのは、2001年年末のことだった。

私の生業は作家だ。
普段は小説を書いている。
最近では大人向けの小説を書くこともあるが、主な居場所はライトノベルで、そもそもの 出自は少女小説だった。
かつては、小学生から中学生向けの文庫レーベルにホラーのシリーズを持っていた。
この文庫では、作品の最後に「あとがきを付けることが義務づけられていた。
作者自らが読者に対して語りかけ、できるだけ親近感を得るべく営業をせよ、という試練 の場だったが、私はそこで読者に対し、怖い話を知っていたら教えてほしいと呼びかけていた。
きたきた捕物帖
深川元町の岡っ引き、文庫屋の千吉親分は、初春の戻り寒で小雪がちらつく 昼下がり、馴染みの小唄の師匠のところで熱燗をやりながらふぐ鍋を食って、 中毒って死んだ。

いい女と旨い酒肴に目がなかった人だから、これは大往生だ。
一番下の子分だった北一はそう思う。
おまえみたいな半人前にそんなことを言われてたまるかと、あの世の親分は 笑うだろうけれど。
享年四十六、親分は役者のようないい男で、若いころからもちろん女たちに 好かれたが、四十路を過ぎて渋みが増して来てからは、さらに もてはやされるようになったとか。
本人もわかりやすい女好きだったから、艶っぽい噂が切れることはなかった。
「千吉親分は本物の女たらしだよ。」
百鬼夜行 陽
私には、きょうだいが居た。

そんなー気がするのだ。
そんな気がするとは、何ともあやふやな云い様ではあるのだが、そう云う以外にない。
わからない、からである。
否、判らないことはないのだ。
私には兄も弟も、姉も妹も居ない。
嘗て居たと云う事実もない。
塗仏の宴
あれは。

あれは私だ。
私が樹の下に立っている。
いったい何をしているのだろう。
虚ろな眼をして、ただ突っ立っている。
あれは何の樹なんだろう。
とても、とても大きな樹だ。
邪魅の雫
殺してやろう、と思った。

殺すべきだと思ったと云うのが正しいか。
否、矢張りその時私は、殺してやろうと思ったのだ。
この手で其奴の息の根を止めてやろう、息の根を止めたいとーそう瞭然と思ったのである。
それは間違いない。
あんな男は生きて居るべきでない死ぬべきだとか、そんな無責任な批評家が語る感想な 想いを抱いた訳では決してないのだ。
その瞬間、私の中には、ある明確な意思が芽生えていた。
真田太平記(六)
慶長4年(1599年)も、間もなく終わろうとする1月初旬のある日の夕暮れ近くなって、 上州・沼田は雪になった。

今年の冬は暖かく、これまでに雪はなかった。
上州の冬の厳しさはよく知られているけれども、山々に囲まれている沼田城下だけに、 さほど強くは吹き下ろしてこない。
雪は粉雪が多く、積雪も多量ではなかった。
その初雪の中を、伏見屋敷の留守居役をつとめている鈴木右近忠重が、突然、 何の前ぶれもなしに沼田城へあらわれた。
栗毛の馬に乗った右近は、これも騎乗の従者1人をしたがえたのみで、伏見から 急行して来たのである。
異常のことといってよい。
真田太平記(七)
一説には・・・・・・。

8月24日の夜の美濃・赤坂へは、藤堂高虎の部隊のみが進出していただけで、他の東軍は、 呂久川のほとりに野営をしていたともいわれる。
とすれば、宇喜多秀家の提言によって夜襲作戦が決行されていたなら、おそらく赤坂の 藤堂部隊を追い退け、ここへ西軍の陣地を構えることができたのではあるまいか・・・・・・。
ともかく、翌25日には、東軍の大半が赤坂へ集結してしまった。
赤坂の宿駅の南に、小高い丘があって、これを岡山(現在の御勝山)とよぶ。
ここへのぼって南方を見わたせば、一里余の彼方の大垣城を中心とした西軍の陣営は、 ことごとく目に入ってしまう。
福島正則は、徳川家康の軍監・本田忠勝と井伊直政へ「この岡山を内府公の本陣に されるがよかろう」と、いった。
真田太平記(八)
大阪城から伏見の真田屋敷へもどった伊豆守信幸が、徳川家康との会見の模様を語るや、

「かような事を、それがし、かつて耳にいたしたことがありませぬ」
鈴木右近は、非常な感動を受けたらしい。
家康が、本家の真田父子の助命を許可したことについてではない。
主人・伊豆守の岳父にあたる本田忠勝が、
「わが一身の安否を、いささかもかえりみずに・・・・・・」
娘婿の伊豆守信幸へ、武士の義理をつらぬこうとした気概の強さにおどろいたのである。
真田太平記(九)
加藤主計頭(かずえのかみ)清正は、海路、大坂の港へ着くと、そのまま伏見の屋敷へ直行した。

清正は、二十余騎にまもられ、他の家来たちに先行して伏見へ向かった。
清正が伏見城へ入ったのは日暮れに近かったが、間もなく、老臣の飯田覚兵衛が 屋敷を出て、浅野幸長(よしなが)邸を訪れた。
幸長と 覚兵衛との談合は、さして長居ものではなかった。
加藤屋敷へもどった飯田覚兵衛は、すぐさま主・清正の居間へおもむき、清正の酒の 相手をしながら密談に入った。
この密談は長かった。
覚兵衛が、清正の居間を出たとき、夜半に近かった。
真田太平記(十)
草の者の小助は、仲原丈助が連絡にあらわれた翌日の夜に、高台院屋敷から消えた。

この日の午後。
小助が中庭の掃除をしていると、彼方の渡り廊下を高台院が通りかかった。
侍女2人を従えた高台院を見るや、小助は箒を置き、膝をついて頭を下げた。
「おお小兵衛・・・・・・」
高台院が笑いかけてきて、
「久しゅう顔を見なんだの」
真田太平記(十一)
このたびの戦で、滝川三九郎一績は、まず二代将軍・徳川秀忠の東軍に加わって 出陣をした。

ところが、大御所・徳川家康に、
「わしの使い番をせよ」
と、命じられ、家康の陣所へ詰め切っていたのである。
家康の使い番は、むろん、三九郎一人ではなく、十五名ほどいた。
使い番は、家康の命令を諸方へつたえるのが役目といってよい。
いわゆる「大坂冬の陣」およばれる、このたびの戦陣では、滝川三九郎に格別の功名は なかった。
真田太平記(十二)
関ヶ原戦後の信州上田城は、一応、徳川家康に没収された。

家康は依田肥前守を「城番」として、上田へ在城させた。
慶長9年に至り、徳川幕府は上田城の城郭を取り壊してしまい、同時に「城番」を廃している。
真田昌幸・幸村の父子が紀州の九度山へ配流となった折に、徳川家康は、沼田城に分家していた真田伊豆守信之へ、
「今度、安房守(昌幸)別心のところ、其方、忠節を致され候儀、まことに神妙に候」
と、証文を出し、父・昌幸の所領の内、小県郡六万八千石(この内の三万石は後年の加増)を、信之へゆずりわたしてくれた。
ゆえに、沼田領二万七千石を合わせ、真田信之の所領は九万五千石(九万石との説もある)であった。
剣客商売(新妻)
身長六尺に近い大きな体で、色白の、鼻うじの通った立派な顔の、髭の剃り跡が 青々と冴えた三十三歳の剣客渡部甚之介が、秋山小兵衛宅へあらわれると、。

「あれ、色男が来ましたよう」
おはるが大声で、小兵衛に告げるのが例であった。
「だけど、あの色男の先生。
もうすこし、目がぱっちりしていると、いいのだけれど・・・・・・」
と、おはるが指摘するように、渡部甚之介の両眼は、たれ下がった瞼の中で、
「笑っているのだか、泣いているのだか・・・・・・」
剣客商売(隠れ蓑)
無頼どもに誘拐されかかった子は、まさしく、神田明神前の蝋燭問屋(越後屋 半兵衛)の孫にあたる伊太郎(八歳)であった。

伊太郎につきそって殺害されたのは、下男の藤八といい、越後屋には二十年も奉公している実直な男である。
この日は、伊太郎が藤八にせがみ、不忍池から上野山内の桜ケ岡へまわり、茶店で白玉を食べたりしてから、 本覚院前の道へ出たところへ、突然、二人の無頼者があらわれ、伊太郎を背負った藤八を木立ちの中へ引き摺り込んだらしい。
藤八は死んでしまったし、そのときの状況を語ったのは八歳の伊太郎なのだから、
「様子がよくわからないらしいのでございますよ」
と、翌々日に鐘ヶ淵の隠宅へあらわれた御用聞きの文蔵が小兵衛へ報告した。
上野の北大門町に住む文蔵は、四谷の弥七とも親しく、秋山小兵衛もよく知っている。
剣客商売(狂乱)
翌朝。

杉本道場の前を、いちばんに通った土地の者が、
「うわ・・・・・・こりゃ、大変だ」
同情の門前へ目をやり、根津権現門前に住む御用聞きの万七の許へ駆けつけて、 異変を知らせた。
万七が杉本道場へ駆けつけて見ると、五人の 浪人刺客が、それぞれ、土中へ埋め込 まれた太い杭に縛りつけられているではないか。
その傍に、大きな札が立てられてあった。
札に、こう書きしたためられている。
剣客商売(待ち伏せ)
夜の闇が、まるで冬のような冷気を含んでいた。

時刻は、五ツ半(午後九時)ごろであったろう。
いまにも雨が落ちて来そうな暗夜であった。
いま、秋山大治郎は、本所の堅川と深川の小名木川をむすぶ六間堀川の南端に かかる猿子橋へさしかかった。
借り受けて来た提灯を右手に持ち、長さ五間、幅二間の猿子橋の中程まで来た 大治郎の足がぴたりと止まった。
橋の向こうの西たもとは、右が公儀の御樅蔵。
左は深川・元町の町家だが、いずれも表戸を閉て切っている。
剣客商売(春の嵐)
その日の午後に、。

「夫婦して、遊びに来ぬか・・・・・・」
と、鐘ヶ淵の隠宅にいる父・小兵衛からのさそいのことばを持ち、おはるが大川 (隅田川)を得意の小舟で渡って来たので、
「何ぞ、御馳走してくださるのでしょうか?」
三冬が言うと、おはるは、
「へえ、ちょいと、お祝いのお裾分けがあってのですよう」
「まあ・・・・・・どのような、お祝いの?」
百鬼徒然袋ー風
「さっきから右だと云ってるだろうがこの愚か者が!」。

扉を開けた途端に怒鳴り声が聞こえた。
僕はてっきり榎木津だと思ったから慌てて首を竦めたのだが、残念乍らと云うか幸いにもと云うか、 叫んだのは本物の探偵助手である益田龍一だった。
益田は探偵の大きな机の前に立って、馬用の鞭で客用ソファの方を指し示し、 その格好のまま僕に顔を向けた。
「あら本島さんどうしました」
益田は面喰ったような顔をしてから、いつもの調子でけけけと短く笑った。
照れ隠しだろう。
黒祠の島
その島は古名を夜叉島と言う。 九州北西部に位置する変哲もない島で、「夜叉」という一見禍々しい名も、島にある火山を 夜叉岳と称したことに因んでいるに過ぎない。
火山を鬼神に喩えることは決して珍しいことではないし、そこには懼ればかりではなく、畏敬の 念もまた含まれている。
事実、この夜叉島は古来、近辺を航海する海上民からは尊崇を受けていた。
航行標識の未整備だった時代においては、海上に勃然として聳える標高400メートルの山は 格好の目標物だったからである。
だが、その名も地図の上から消えて久しい。
島が消失したわけでは、勿論ない。
悪魔が来りて笛を吹く
ほんとうをいうと、私はこの物語を書きたくないのだ。

この恐ろしい事件を文字にして発表するのは、気が進まないのだ。
なぜならば、これはあまりにも陰惨な事件であり、あまりにも呪いと憎しみにみちみちていて、読む ひとの心を明るくするところが、微塵もないからである。
第1回 赤羽でドカーン 工兵隊の水中爆破ショー
「北区の部屋だより」創刊号2009年(平成21年)8月発行

ドカーン!巨大な水の柱が立ち上がり、続いて雷のような音がとどろいた。
巻き添えをくった魚たちは、空中高く舞いあがり、そして水面に降り注いだ。

魚が降って来るといっても超常現象ではありません。
明治25年(1892年)4月29日、明治天皇臨席の下で行われた工兵隊による水中爆破の様子です。
場所は、赤羽の荒川河川敷でした。

当時、区内には2つの工兵隊(陸軍における戦闘支援兵科の一種であり、歩兵、砲兵、騎兵に並ぶ四大兵科の一つ)がありました。
現在の星美学園のあたりに、第一師団の工兵大隊があり、北社会保険病院のところに近衛師団の工兵中隊がありました。
工兵隊の仕事は、道路や橋、陣地などを作ったり、逆に壊したりすることです。

水中爆破を行ったのは、第一師団の工兵隊でした。
一方、近衛工兵中隊でも、火薬を使って木を切ったり、地雷を爆破したり、とにかく派手な演習を行いました。
この日、明治天皇の御前で行われたものは、演習と言うより、むしろ爆破ショーでした。

特に、お供の人々の反応は「奇観この上やあるべきと供奉の人々が喝采の声ここにも波立ちて湧き返れり」(「東京日日新聞」明治25年4月30日「袋村近衛兵営の行幸」)というものでした。
工兵隊の門前には、近隣の小学校から子供たちが集められていましたが、彼らも黄色い歓声をあげたことと思われます。
日本が、最初の近代的戦争たる日清戦争を経験するのは、この2年後でした。(黒川)

・工兵隊と赤羽・浮間

赤羽の工兵隊は、町の緊急事態に出勤し、様々な作業にあたりました。
そのため、周辺の人々から親しみを持たれていたようです。
赤羽周辺の民家で火事があると、工兵隊が消火にあたったという話が伝えられています。
関東大震災で、東北線の荒川鉄橋が被害を受けた時も、工兵隊が復旧活動に活躍したと言います。

星美(せいび)学園や北社会保険病院以外にも、工兵隊ゆかりの場所があります。
浮間と赤羽北の間の新河岸川に架かる浮間橋です。
現在の浮間橋は、埼京線建設工事の時に設けられたものですが、最初の浮間橋は、昭和3年(1928年)に近衛工兵隊が作りました。

その費用については、浮間の人々が6,000円を出し合いました。
そこで「6000円橋」とも呼ばれていました。
浮間橋の歴史については、橋のすぐ近くにある「浮間橋の碑」に刻まれています。

浮間橋の少し下流には、中の橋があります。
現在の橋は、架け替えられたものですが、以前の橋は、工兵隊が架けたもので工兵橋と呼ばれていました。
橋を製造した横河橋梁という会社の「八十年史」(昭和62年=1987年)には、これについて「軽便鉄道用としては日本最初の可搬式溶接橋」とあります。
もともと、組み立て式の鉄道橋として製造されましたが、戦後は、木の板を敷いて周辺の人々に使用されていました。

(写真は荒川河川敷の旧岩淵水門)

第2回 「北区」はどうして「北区」なの??
「北区の部屋だより」第3号2009年(平成21年)10月発行

テレビのニュースで流れる「・・・北区で・・・」という言葉につい反応して画面を食い入るように見つめると「大阪市北区」だったり・・・。
そんな体験したことありませんか?
そう、実は「北区」という地名は全国にあり、政令指定都市(日本の大都市制度の1つ、2018年現在、全国に20市が存在する)では、札幌市、さいたま市、浜松市、名古屋市、大阪市、堺市、京都市、神戸市、岡山市、新潟市の10ヵ所に上ります。

また、広島市安佐北区や北九州市小倉北区といった地名の一部に「北区」が含まれるとなるとその数はさらに増えます。
そんなどこにでもあるような名前の我が街「北区」ですが、区名決定にいたるまでは様々な議論が重ねられました。

候補として挙がっていたのが「飛鳥区」で、東京新聞が都民にとった懸賞付きアンケートでも一番目に記載されています。
当然、議会でも議題となりましたが、「飛鳥」という読みが当用漢字表に入っていない事などを理由に却下され、「城北区」や「京北区」といった名称が有力となりました。

それなら、「何の来た」ではなく、単に東京都内での位置関係を示せばいい、そして「北」であれば東京市編入以前の「北豊島郡」の「北」にも繋がるといった理由が支持され、正式に「北区」という名称が決定しました。
当時は賛否両論が交錯していましたが、それから60余年を経てさすがに定着し、愛着を持つ人々も増えてきているのではないでしょうか。

当然のことながら、特別区として存在しているのは東京都北区だけ。
ちなみに、先の10の政令指定都市の場合、全て南区もあり、南区がなく「北区」だけのというのも東京都北区だけです。(保垣)

・「北区」という区名は好きですか?

古くからお住まいの方の中には「北区」という称をあまり好意的に思っていない方もいました。
十条地域に住んでおり、王子町時代には吏員として役場に勤めていた高木助一郎という人がいます。

その助一郎氏は、昭和22年(1947年)3月15日、北区が誕生したその日の日記に、「何ら意味なき下劣な名称と云うなり」と手厳しく記しています。
(昭和22年「高木助一郎日記」)

本文でも紹介しました新聞の記録や昭和26年(1951年)刊行の「北区史」等を見ても、区名を巡って議論が重ねられていたことは明らかですが、一方で新区誕生の日付は決まっており、時間との勝負であったことも事実でしょう。

こうした点について、当寺王子区に勤めていた北本正雄氏は、直接その部署にいたわけでないので詳しいことはわからないが、と前置きした上で、「何かまぁ期限切れみたいに・・・、(中略)いろいろな名前が挙がったと思うんですけど、結局、まとまらない。
それじゃあ北区ということだったように聞いております。」と語っています(北本正雄述「北区を想う」、北区立中央図書館、2012年=平成24年)。

北区が誕生して60余年。
本文の方では、愛着を持つ人々も増えてきているのではないかと記しましたが、みなさんはいかがでしょうか。
「北区」とう区名はお好きですか?

(私にとって北区と言えば王子、王子と言えば飛鳥山がイメージです。)

第4回 江戸ってどこまで!?
「北区の部屋だより」第5号2009年(平成21年)12月発行

「江戸」といっても江戸城を中心に武家屋敷や商家が建ち並び、熊さん、八っぁんが裏長屋で生活している、そんな風景ばかりが「江戸」ではありません。
実は田園風景が広がる北区も「江戸」の一部だったのです。

そもそも幕府は「江戸」という市域の範囲を明確に決めてきませんでした。
したがってさまざまな場面で登場する「江戸」の範囲がみんな異なっていたのです。
例えば江戸時代の刑罰である「江戸払い」。
この時は品川・板橋・千住といった街道初宿とともに四谷大木戸、深川・本所の外に追放することと規定されています。

すなわちこの範囲が「江戸」なのです。
寺社奉行が諸国寺社に「江戸」での勧化(仏の教えを説き、信心を勧めること)を許可する場合、その範囲は東は砂村や亀戸、西は代々木、角筈、上落合、南は南品川、大崎で、北は千住や滝野川と各川限りで区切られていました。
城下に住んでいる旗本・御家人らが「江戸」から出る時の届け書きに規定する範囲は曲輪内(東は常磐橋、西は半蔵門、南は外桜田門、北は神田橋)から4里(およそ15.7km)いないとしています。
町奉行所の支配範囲はこうした範囲とも異なっています。

こうしたなかで幕府自身も「江戸」の範囲がわからなくなり、文政元年(1818年)になってはじめて正式に「江戸」の範囲を決めました。
それが有名な「江戸朱引図」というものです(「北区史」資料編近世1口絵)。
この図において「江戸」の北側の境界線(朱引き)は石神井川に引かれました。
したがって北区でいえば滝野川村や西ヶ原村など、現在の滝野川地区の一体が「江戸」に区分されるようになったのです。
そうなんです、滝野川地区の方々は「江戸」の住民だったのです。
だから何って言われても困りますが。
まあ、私が「東京」在住と言い張るのと同様に「江戸」の住民だって言い張ればいいじゃないですか!(保垣)

・本郷も「かねやす」までは江戸の内

江戸の範囲の話をすると、「かねやす」までが江戸の範囲だったのでは?!という質問をよく受けます。
「かねやす」とは、中山道沿いにある雑貨店で、現在でも文京区本郷3丁目に所在しています。
表題とした江戸時代の川柳は、ここまでが江戸だと表現しているのです。


これには理由があります。 享保15年(1730年)、町奉行大岡越前守忠相が防火上の理由から江戸の家々の屋根を瓦葺とすることを命じた際、中山道ではこの「かねやす」が指標となり、それ以南の家々に瓦屋根が徹底されたというのです。
実際、江戸の中心部から郊外へ向かう際、「かねやす」を過ぎると、沿道には田園風景が広がっていたのでしょう。

現代で言えば、「東京って呼べるのも、まぁ高層ビルが立ち並んでいるあたりじゃないの?!」といった感じなのでしょうか。

★2009年(平成21年)時点の「こぼれ話」ではお店も営業しているようですが、現在はいつ行ってもシャッターが閉まっている状態です。
公式に閉店のアナウンスはされていないようですが・・・。

第5回 陸軍造兵廠の車が飼い犬をひいたら
「北区の部屋だより」第6号2010年(平成22年)1月発行

防衛庁の防衛研究図書館には、旧日本軍に関する様々な公文書が保存されています。
その中には、中央図書館や十条駐屯地の土地にあった陸軍造兵廠に関する文書も残されています。
かつて、北区では「北区史」編集のために、その調査を行いました。
そこに、ちょっと変わったエピソードが載っていたのでご紹介しましょう。

時代は大正15年(1926年)、名所は陸軍造兵廠近くの道路(中央図書館の近く)です。
自転車に乗った御主人様(近所に住む畳屋さん)と飼い犬が、一緒に散歩をしていました。
交差点に差し掛かったときのことです。
主人の呼ぶ声に振り返った犬は、後からやってきた造兵廠の車にひかれ、可哀想なことに亡くなってしまいました。
そして、運転手は、これから陸軍造兵廠に用があることを主人に伝え、その場を立ち去りました。

これが、戦争を題材にしたテレビドラマであれば「国家非常時に犬など!」と叫ぶ怖い軍人の登場となったことでしょう。
しかし、当時は大正デモクラシー(政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思想の総称)(民本主義とは主権の所在を問わず、人民多数のための政治を強調する主義の事。「democracy」の訳語)の時代でした。
海軍ワシントン軍縮条約の締結(大正11年=1922年)や、陸軍の宇垣軍縮(大正14年=1925年、陸軍の師団数を減らす)などを背景に、軍を「無用の長物」と見るような雰囲気があった時代です。

造兵廠は、被害者宅に職員をつかわして、わびを入れたのです。
さらに、板橋憲兵隊が事故について調査をしました。
その結果、犬の購入価格が15円、埋葬料や獣医謝礼などで、合計36円50銭の損害があった事が判明しました。
そこで、造兵廠側は、見舞金10円を飼い主に贈り弔辞を述べました。
畳屋さんが、商売で造兵廠に出入りしていたという縁もあり、この一件は円満に解決したそうです。

同じ陸軍でも、大正時代と第二次世界大戦中では、だいぶ様子が違うようですね。
(防衛研究所所蔵「大正15年=1926年度昭和元年度 陸軍造兵廠史」参照)(黒川)

・造兵廠の鉄道事故

陸軍造兵廠では火薬を扱っていたので、しばしば爆発事故が発生しました。
その規模は、作業机の上での軽微なものから、死亡事故まで様々でした。

造兵廠では、鉄道事故も起こりました。
電動車や貨車、小型客車が往復する専用の軽便軌道があり、街中の道路を横切る踏切もあったからです。
例えば、大正15年(1926年)王子の軽便軌道踏切において、電動車通過後に、突然、遮断棒が滑車からはずれて落下しました。
運悪く、そこに豊島在住の女性が通りかかり、頭部を負傷するという事故が起こりました。
被害者は、すぐに造兵廠の診療所に運ばれて治療を受けました。
そして、造兵廠は、全治までの通院を約束し、慰謝料5円を支払いました。
これを機会に、遮断棒は廃止され、鎖に代えられたということです(防衛省防衛研究所所蔵「大正15年度昭和元年度(1926年) 陸軍造兵廠歴史」)。

また、車両火災も発生しました。
昭和2年(1927年)造兵廠の王子倉庫から硝酸ソーダの空き袋を十条に輸送中、十条の構内において、架線の火花が、積載されていた空き袋に引火し、貨車3両のうち2両と袋1500枚を焼失するという火災が起こっています(防衛省防衛研究所所蔵「昭和2年度(1927年) 陸軍造兵廠歴史」)。

(中央図書館は陸軍造兵廠の建物をそのまま使用しています。)

第6回 飛鳥山って「王子」?!「滝野川」?!
「北区の部屋だより」第7号2010年(平成22年)2月発行

北区で一番の観光スポットといえば飛鳥山。
言わずと知れた桜の名所です。
某テレビ番組の「北区と言えば・・・」ランキングでも堂々1位を獲得しています。
では、ここで質問ですが、みなさんは飛鳥山の住所を御存知ですか?
正解は北区王子1-1、「滝野川」ではなく「王子」なのです。
しかし、よく考えてみれば「滝野川」と「王子」は石神井川を境に別れているはず・・・なぜ「王子」あのでしょうか。
実はこれは八代将軍徳川吉宗の植桜政策が深く関わっているのです。

そもそも江戸時代の中頃までは、飛鳥山は滝野川村の領主である旗本・野間家の持ち山でした。
したがって飛鳥山も滝野川村の一部だったわけです。
ところが、吉宗は飛鳥山に植桜した後、元文2年(1737年)には野間家から上知(あげち=召し上げること)して石神井川対岸にある金輪寺(当時は北区役所第二庁舎の横にありました)に寄進してしまいました。
以後、飛鳥山派金輪寺の持ち山として多くの観桜客を集めることになるのですが、金輪寺は王子村に所在していますから、この寄進によって飛鳥山も王子村の一部となったのです。

その後、明治にいたり金輪寺の所領が上知となっても、飛鳥山が王子村の一部であるという認識が動くことはありませんでした。
そして、明治、大正、昭和と時代は移り、現在でも飛鳥山は石神井川以南で唯一の「王子」として北区に所在しています。
何気ない住所一つとっても実は深い歴史があるのです。(保垣)

・植桜以前の飛鳥山

八代将軍徳川吉宗が金輪寺に寄進する前の飛鳥山は、滝野川村を知行していた旗本野間家が拝領していた「御林(おはやし)」でした。
滝野川村から下草代、薪代として金銭を徴収しており、飛鳥山が、滝野川村の人たちにとって、領主に代金を払い下草や薪などを採取する、まさに里山だったことが知られます。
こうした場所に、吉宗は桜を植え、召し上げていったのです。

飛鳥山が召し上げられると、それまで里山として利用していた滝野川村の人たちはどうしたのでしょうか。
大変困ったはずであることは想像に難くありませんが、資料がなく現在でもわかっていません。
地域を考える上で大変興味深いテーマの一つです。

・飛鳥山が描かれていない王子村の絵図

ここに一枚の王子村の絵図があります(「旧王子村 大岡家文書」参照)。
享保4年(1719年)、王子村の農民たちの間で秣場(まぐさば=肥料となる下草の採取場)をめぐる争論が起き、その決着にともなって作成された裁許絵図の写しです。
王子権現社など、三給の領主ごとに色分けされており、裁許の内容以外にもさまざま注目される絵図なのですが、改めて見てみると飛鳥山が描かれていない事に気づきます。

そうなんです。
当たり前といえば当たり前なのですが、享保4年の段階では、飛鳥山はまだ滝野川村の一部で、王子村の絵図には描かれていないのです。
第7回 赤羽に住んでいた「男装の麗人」
「北区の部屋だより」第8号2010年(平成22年)3月発行

・川島芳子(1907年〜1948年、明治40年〜昭和23年)といえば、男装の麗人・日本軍の女スパイ・悲劇の王女など、様々な言葉で表されます。
彼女は、清朝の王族、粛親王の第14王女として生まれ、日本で育ち、清朝の復興を目指して満州事変に協力、終戦後に反逆者(漢肝)として中国で処刑されました。
その数奇な人生は、様々な小説にえがかれ、テレビドラマになったり、宝塚で上演されたりと、不思議な人気があります。

しかし、川島芳子が北区に住み、毎日、赤羽駅を利用していたことを知る人は、あまり多くないようです。
芳子の家は、東京府北豊島郡岩淵町大字稲付の鹿取神社の近くにありました(現、赤羽西2丁目)。
養父でアジア主義者の川島浪速や、その妻と共に、ここに住み、小学生時代を過ごしました。

川島芳子や川島邸のことは、石川倫さんの「あかばね昔語り」(近代文芸社、昭和63年(1988年)に詳しく書かれています。
石川さんによれば、この地に川島芳子が住み始めたのは、大正4年(1915年)頃だそうです。
そして、川島芳子の遊び相手を頼まれたのが、近所の商店の娘だった石川さんでした。
二人は、よく歌をうたい、オルガン、お手玉、まい、竹馬などで遊んだといいます。
当時、小学生だった芳子は、地元の小学校ではなく池袋のほうにあった豊島師範学校付属小学校に通学していました。
芳子には、専用の運転手と豪華な自動車がありましたが、校則により通学に利用することはなく、赤羽駅から鉄道で通っていたそうです。

また、髪を洗う時は、自宅の風呂を使わず、赤羽駅に隣接していた銭湯「亀の湯」を利用したそうです。
近所の商店へも、養母と一緒によく買い物に来ていたといいます。

王女様として生まれた川島芳子でしたが、赤羽に住んでいた頃には、意外に庶民的なところがあったようです。(黒川)

・田園調布か赤羽か

赤羽駅南西側の高台は、高級住宅街というイメージで語られていた時期がありました。
赤羽西や西が丘は、かつての地名で言うと岩淵町大字稲付です。
戦前にさかのぼると、この附近には、川島邸の他に講談社社長野間清治の別邸もありました。
現在、その場所は稲付公園となり、すぐ横にある坂道は野間坂と呼ばれています。

昭和初期には、西が丘に同潤会(内務省によって1924年=大正13年に設立された財団法人)分譲住宅が造られました。
その広告には、土地高燥(土地が高く湿気が少ないこと)、空気清浄の地であるのに、水道やガスが整備され東京市内と同様の生活できるとあります。
そして、その周辺には、玄関わきに洋間をしつらえた、いわゆる「洋館付住宅」も点在していました。
当時のサラリーマンは、このような家に憧れていました。
同潤会の住民だった方に「赤羽にするか田園調布にするか迷った」というお話を聞いたことがあります。

(写真は稲付の名を残す稲付神社。)

第8回 江戸ってどこまで
―石神井川以北在住区民のために―
「北区の部屋だより」第9号2010年(平成22年)4月発行

(前略)

そもそも徳川家康が関東に入封(にゅうほう=土地を与えられて大名がその領地に入る事)し、政治の拠点を江戸に定めたのは天正18年(1590年)のこと。
後に世界最大の土地となる「江戸」も当時は鄙びた漁村であったとされ、それ故に、家康はなぜ「江戸」を拠点に選んだのか、多くの先学たちが議論してきました。
ところが、近年、特に中性史研究の立場から当時の「江戸」は東国屈指の湊町であり、まさに物流の拠点であったことが明らかにされています。
すなわち、家康が江戸を選んだのも至極当然の結果であると語られるようになっているのです。

そして、家康入封以前に関東一帯を治めていた戦国大名・小田原の北条氏(通称、後北条氏)も「江戸」という場所を重視しながら領国経営を進めていました。
そんな後北条家の家臣の所領を書き留めた「北条氏所領役帳」という史料には、江戸周りを統治する「江戸衆」という家臣たちが書き留められているのですが、そこには「江戸」として「岩淵五ケ村」(岩淵・赤羽・袋・下・稲付と推定される)といった記載も確認されます。
こうした範囲を「江戸」とするのであれば、実は戦国時代の「江戸」は江戸時代のそれよりもかなり広く、北区域はもちろん、世田谷区や西東京市の方にも及んでいるのです(長塚孝「戦国期江戸の地域構造」)。(保垣)

・広範な戦国時代の「江戸」

「北条氏所領役帳」に「江戸鷺沼」「江戸屋中(谷中)」、そして「同(江戸)岩淵五ケ村」「同(江戸)平塚本郷」などと記されていることから、「江戸」が広域名勝の一つであったということが知られます。
ではどこまでが・・・という範囲を略図として示したのが本図です。
東は隅田川から本所近辺、西は杉並区や東久留米市、さらに神奈川県川崎市多摩区のあたりも含まれます。
正確な輪郭を引くことはできませんが、現在の23区域をも越える広大な範囲が「江戸」であったことが知られます。

(写真は稲付の名を残す表示)

第9回 石神井川から手榴弾発見!
―北区にとっての5・15事件―

「北区の部屋だより」第10号2010年(平成22年)5月発行

五月晴れの下、石神井川の音無橋付近から手榴弾が発見されました。
といっても、昭和7年(1932年)5月24日のことです。
その日、石神井川は石ぜきで流れを止められ、ポンプ車3台によって水が吸い上げられました(「高木助一郎日記」北区の部屋にて公開)。
発見された手榴弾は、ある大事件の証拠品でした。

大事件とは、その9日前に起きた5・15事件のことです。
海軍の青年将校たちが決起し、首相官邸で、犬養毅総理大臣を殺害したことなどが知られています。
「話せばわかる」「もんどうむよう!」という会話があったとか、なかったとかでたまにテレビで取り上げられることがあります。

5・15事件というと、一見、北区とは無関係のようですが、よく調べてみると、関わりがあるのです。
5・15事件で襲われたのは、首相官邸や政府要人だけではありません。
東京周辺にあった変電所も襲撃対象になりました。
東京電燈株式会社の田端・鳩ケ谷・淀橋・亀戸・目白の各変電所と、尾久にあった衣川水力電気の東京変電所です。
変電所を襲ったのは、茨城県の青年たちが結成した「農民決死隊」でした。
彼らは変電所の電気を止め、東京を大停電の混乱状態にした上で、クーデターを決行しようと計画したのです。
しかし、実際のところ、各変電所では、機械の一部を壊されただけで、送電をストップするには至りませんでした。

石神井川で見つかった手榴弾は、この農民決死隊の一人が持っていた物でした。
彼は、5月15日の夕方、王子電車の梶原停留場で下車し、田端変電所へ向かいました。
そして、持参したハンマーで電圧メーターを壊したものの、人の気配がしたため、その場を立ち去りました。
手榴弾を使おうと思い直し、再び変電所に引き返したところ、警戒が厳しかったため、断念して逃げたそうです。

明治通りでタクシーに乗り、飛鳥山まで来たところで警察に止められ、彼は下車しました。
そして、手榴弾を石神井川へ捨て、さらに逃走したということが検察の尋問調書に書かれています。(検察秘録五・一五事件二 匂坂資料2)角川書店、平成元年=1989年)
このように、東京の周辺部に位置する北区は、都心とは異なった形で、歴史的事件に関わっていたのです。(黒川)

・政治史の中の茨城県と北区

茨城県の政治的事件と北区には、これ以前にも何か因縁めいたつながりがあります。
明治17年(1884年)、茨城県で加波山事件が発生しました。
自由民権運動の激化の一つです。
事件で追い詰められた壮士たちが、逃げるときに集合場所としたのが飛鳥山でした。
前年に、飛鳥山で自由党の自由大運動会が開かれていて土地勘があったのです。
しかし、彼らは、次々に逮捕され、結局、飛鳥山で再び顔を合わせることはありませんでした。

(写真は現在の音無橋。
かつて橋の下は石神井川で石堰きがありました。)

第10回 村の全体像を求めて
―北区の村の基本構造―

「北区の部屋だより」第11号2010年(平成22年)6月発行

江戸時代の北区の村を把握する上で、それを難しくさせている要因の一つとして、江戸近郊村々に特徴的な複雑な支配関係が挙げられます。

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入封すると、早速、家臣団の知行割(所領の配置)に着手し、江戸城のまわりに直轄地を集中させ、その周囲に 小〜中規模な家臣を、さらにその外縁部に中〜大規模な家臣を配置しました。
そのうえで、知行所を有する家臣の権力を分散させるため、また年貢収納を平均化させるため、一つの村を2人以上の旗本や御家人が知行する(相給) というかたちがとられました
(一つの村に2人の領主がいる場合を二給、3人いる場合を三給といいます)。
江戸近郊に属する北区の場合、比較的小規模な旗本の知行所が配置され、大半の村は2人以上の領主が支配する「相給」形態となっています。

このような北区の村のうちでも、豊島村の複雑さはその最たるものだったといえます。
豊島村には16人もの旗本が知行所を有しており、加えて異な于三つの代官支配所(直轄地)が置かれていたことから、実に十九給という、「武蔵国」の 中で最も錯綜した支配形態となっていました(「武蔵田園簿」、後に豊島村は直轄地1、旗本15、寺領2の十八給となり、幕舞うに至ります)。
実はこのことが、現在、江戸時代の村の様子を知ることを難しくさせているのです。
そもそも江戸時代の村は、名主・年寄・百姓代といった村役人が中心となって運営されますが、これらの村役人は各知行所ごとに置かれていました。

すなわち、豊島村には、何人もの名主がいて、それぞれが知行所ごとの帳簿を作成し、独自に村運営を行っていたのです。
当然、△△知行所の名主が作成した古文書には、豊島村のうち△△知行所のことしかしるされていません。
したがって豊島村の全体像を明らかにするには、十数給分全部の歴史的事実を明らかにし、その上でそれらを繋ぎ合わせる必要があるのです。
豊島村は極端な例にしても、北区のような複雑に支配が入り組んだ村の歴史を明らかにする場合には、こうした作業が重要となるのです。(保垣)

・複雑な豊島村の実態

安政2年(1855年)の段階で、豊島村の組合村高は774石余。
15人の旗本知行地、2つの寺社領、そして幕府の直轄領と18の知行に分かれていました。
最も大きかったのは139石余を有していた旗本斎藤〇(金偏に冊)六郎知行所で、家数19軒、人数105人。
逆に最も小さいのは、8石の旗本安井平十郎知行所、1軒で2人となります。

写真は、豊島村のうち旗本大屋邦吉知行所の名主を勤めていた武藤家に遺されていた「宗門人別書上帳」です。
表紙に「豊嶋村」と記されていますが、ここには6家、34人分の記録が記されているだけでした。
すなわち、この帳簿は大屋知行所の分のみを記しているのです。

逆にいえば、わずか数家で構成される小さな知行所だとしても、こうした帳簿類は知行所ごとに作成されていたことが知られます。

(写真は「北区」の豊島区民センター)
第11回 工場と焼き鳥と特高警察 
―佐多稲子が見た戦前の王子・十条―

「北区の部屋だより」第12号2010年(平成22年)7月発行

小説家の佐多稲子というと、田端文士村の一員として名前をあげられることが多い人です。
しかし、佐多は、戦前の3〜4年間、十条にも住んでいました。
「私の東京地図」(「佐多稲子全集」第4巻、講談社、昭和53年=1978年)の中で、当時の思い出を語っています。

佐多は、陸軍造兵廠火工廠(現在の十条駐屯地や中央図書館など)の前の通りにある長屋に夫と住んでいました。
十条駅に近い場所です。
当時、夫の労働運動に関わり、彼女自身もプロレタリア文学(虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いた)の作家だったので、工場がある十条を選んだのです。
彼女によれば、十条駅から火工廠へ続く道は、朝夕、火工廠へ行き帰りする人で賑わったそうです。
「この通りは毎日のくらしの用を足す店屋ばかりで、鮭の切り身や、大根の葉っぱや駄菓子屋の紙風船が灯りに映えていた」と書いています。

王子駅前についても「焼き鳥屋の屋台が囲んでいる。
それらの屋台から流れ出る食べ物の匂いや、脂のけむりにけむる往来は、忙しげな不機嫌な足取りや、または何かを求めて心細げな顔つきなどで雑踏している」と記述しています。
昭和初期の王子駅前には、焼き鳥の匂いが漂っていたのです。

現在でも、夕方、王子駅前を通ると香ばしい焼き鳥の匂いがします。
飲み屋さんからだけでなく、駅の東側のお肉屋さんからも、焼き鳥を焼くモウモウたる煙があがっています。
私も、つい買いたくなってしまうのですが、これから電車にゆられる身としては、我慢せざるを得ません。
電車内を焼き鳥の匂いで満たしてしまう勇気はないのです。

勇気と言えば、佐多稲子は、肝のすわった性格だったらしく、王子警察署との間で起きた面白い話について書き残しています。
ある日、王子署の特高刑事が、彼女の家を訪ねて来ました。

ちょうどその時、二人の運動家が部屋の奥にいました。
佐多は、刑事に早く帰ってもらいたくて、求められるままに「無産者新聞」という機関誌を渡したそうです。
後で、そのことを夫にとがめられると、彼女は、王子署の特高室に一人で乗り込み、刑事に新聞を返すように迫ったのです。
その時の会話が傑作です。

「私はうちへ帰れないんです。
さっきの無産者新聞を返して下さい。
牧瀬(夫)におこられたんです。」

「まさか、離縁だとも言いやしないだろう。」

「いいえ、そのくらい、私たちのうちじゃ大ごとなんです。
返して下さい。」

つまり、夫婦げんかの原因になったということで、刑事に新聞を返すように迫ったのでした。
刑事は根負けして「なんだ。しようがねえなあ。」といって返してくれたそうです。

佐多稲子の勇気と天真爛漫さには驚くばかりです。(黒川)

・十条の山茶花

佐多稲子は「私の東京地図」の中で、十条のよい思い出も書いています。
例えば「十条という町の名が美しい」「水がおいしかった」「秋になれば山茶花の花の多い土地だった」などです。
特に、山茶花については詳しく書いています。
よほど、印象深かったのでしょう。

(写真は現在の十条銀座商店街)
第12回 大奥でも大満足?!王子の蛍の輝き
第12回 大奥でも大満足?!王子の蛍の輝き

「北区の部屋だより」第13号2010年(平成22年)8月発行

暑い日が続き、まさに夏本番という感じですが、皆さんは「夏」と聞いて何を想像しますか?
「海」「花火」「ビール」「宿題」などなど、皆さんそれぞれ「夏」のイメージをお持ちかもしれませんが、かつては「蛍」を思い浮かべる人も多かったのではないでしょうか。

実は、北区の石神井川周辺は、江戸時代以来、蛍の名所として広く知られた場所でした。

ある日のこと、江戸城西丸大奥で磯宮(五十宮=イソノミヤとも、徳川家治室)が蛍を所望するので、伊奈半左衛門が江戸周辺の村々に命じて上納させたところ、 海辺の村に生息していた蛍らしく、色合いが悪く磯宮は気に入りませんでした。

そこで今度は本所や目黒周辺の蛍を差し上げたところ、それでも磯宮は満足しなかったといいます。
なんでも、宇治で見た蛍には似ても似つかないというのが理由だそうです。
半左衛門は困ってしまいますが、そこに田安家夫人(近衛通子、田安宗武室)が、王子の麓、石神井川は蛍の名所であり、そこのほたるは宇治の蛍とよく似ていると教えてくれたのでした。
早速、王子から蛍を取り寄せたところ、本当に宇治の蛍に似た輝きを見せ、磯宮は大いに喜んだといいます。

これは、講談師である馬場文耕(ばばぶんこう)が記した「宝丙密秘登津(ほうへいみつがひとつ)」(宝暦6年=1756年序)に記されている内容で、蛍であれば何でも 良いと考えていた無粋な伊奈半左衛門と王子の蛍が宇治の蛍に似た色合いで輝いていることを知っていた田安家夫人とを対照的に描いた内容となっています。

このエピソード自体の信憑性は定かではありませんが、こうした書物にも記されるほど、王子周辺が蛍の名所であったこと、そして、そのことが江戸市井の人びとにも 広く知られていたことは、紛れもない事実だと理解していいでしょう。

今となっては、蛍を見る機会はほとんどなくなってしまい、実は私自身も自然の蛍を見たことがない都会っ子です。
また、石神井川周辺でも多くの蛍が見られるような日が来る事を願いつつ、王子の蛍の話でした(保垣)

・蛍の名所 復活に向けて

1981年(昭和56年)に浮間小学校郷土クラブが編さんした「郷土うきま」では、「むかしは田が多くて、・・・夜はホタルなどもとんできた。」と記しています。
これが何年前まで見られた風景なのか、どの種類の蛍が見られたのかなどの記録はなく詳細は不明なのですが、かつては北区域にも水田が広がり、数多くの蛍が生息していたようです。
しかし、昭和初期になると水田が埋め立てられて工場や住宅などになり、きれいな水域を必要とする蛍は、次第に区内からその姿を消していったと考えられています。

今から25年ほど前に行われた北区の昆虫調査では、蛍の生息調査と同時に、自然状態での繁殖を想定した蛍復活のための調査も行われました(昭和63年=1988年「北区昆虫調査報告書」)。
ヘイケボタルを対象として、その生息条件を満たす環境整備を進めるための調査だったのですが、結論としては「現状ではヘイケボタルの生息の可能性は低い」と、復活の難しさが明らかになっただけでした。

それでも、赤羽自然観察公園の湧水池を生かした蛍復活への試みが地域の人々を中心に行われるなど、現在でも、北区の蛍復活に向け、さまざまな取り組みが行われています。
第12回 大奥でも大満足?!王子の蛍の輝き
第13回 「老農、船津伝次平」ってだれ?

「北区の部屋だより」第14号2010年(平成22年)9月発行

飛鳥山には、様々な石碑がひっそりと建ってます。
今日の私たちの感覚では、まさに目立たず「ひっそりと」ですが、わざわざ目立たないように石碑を建てる人がいるでしょうか。
石碑を建てた人あちは、目立つ場所を選んだつもりなのです。例えば「船津伝次平(でんじべい)」の碑」は 「東都の桜の名所」という理由で、飛鳥山に建てられています。
これを建てるにあたっては、大日本農会(農協の前身の一つ)や大日本蚕糸(さんし)会が発行する雑誌を通じて、 全国的に寄付金が募集されました。
寄付金総額は1948円にのぼったそうです。
明治32年(1899年)のことですから、かなりの大金です。
これだけ大規模な募金によって造られた石碑ですから、目立つところに建てるのが当然です。
昔の飛鳥山は、東京を代表する行楽地の一つであり、目立つ場所だったのです。

話は変わりますが、先ほど名前をあげた船津伝次平を知る北区民は少ないようです。
ところが、群馬県では、よく知られています。
他県民には信じられないことですが、群馬県民なら誰でも暗記しているという噂の「上毛かるた」というものがあります。
そして、その中に「老農 船津伝次平」という一枚があります。
ただし、伝次平あ何をした人なのか、知っている県民は多くないようです。
伝次平を表す「老農」という言葉ですが、農家のおじいさんという意味ではありません。
そんな人なら日本中に大勢いるでしょう。
そうではなく、老農とは、農業のことをとてもよく知っている民間の指導者のことです。

明治時代の初め頃、政府は、駒場農学校(現、東京大学農学部)をつくりました。
そこでは、いわゆる、お雇い外国人による教育が行われていたため、卒業生たちは日本の農業のおとを知らず、 世間の信用を得られなかったそうです。
政府は、民間に伝わる日本の農学を学生に教えるため、地方から「老農」と呼ばれる人々を集めました。
その中の一人で、最も優れていると言われていたのが、群馬県の船津伝次平でした。
伝次平は、大久保利通に見いだされ、内務省勤務を経て駒場農学校の教師になりました。
彼は、農学校で、米や桑の作り方や蚕の育て方などを教え、大きな成果をあげました。
後に、滝野川村大字西ヶ原にあった農事試験場の技師に転じ、巡回講師として全国各地で農民の指導にあたりました。

明治31年(1898年)伝次平は、66歳の生涯を閉じました。
これを惜しんだ教え子あは、農事試験場に近い「東都の桜の名所」たる飛鳥山に石碑を建てました。
石碑の正面は、北を向いています。
郷里の群馬県がある方角です。(黒川)

・歌う老農

船津伝次平が、農民を指導するときに工夫したのは、おぼえやすさでした。
そのような工夫の一つに、チョボクレ節の利用があります。
チョボクレ節とは、幕末から明治にかけて流行した俗謡で、もともと門付芸の一種でした。
門付芸とは、正月などに家々の玄関先を回って行なわれる芸能のことです。
彼は、歌詞を自作し「勧農チョボクレ」や「養蚕の教」などの題を付けました。
「勧農」のほうは、生活を改め農業に励むことを勧めています。
また「養蚕の教」の歌詞は、養蚕に関する迷信を取り除こうとする内容でした。
第14回 江戸時代、北区の村の世帯構成


第14回 江戸時代、北区の村の世帯構成 「北区の部屋だより」第15号2010年(平成22年)10月発行

今年は10年に1度(簡易調査を含めると5年に1度)の国勢調査の年です。
国の最も重要かつ基本的な統計として、人口や世帯構成などに関し調査が行なわれていますが、皆様は調査票の提出はお済みでしょうか?

さて時を遡って江戸時代、こうした世帯構成や配偶の関係など、当時の様子はどうだったのでしょうか。
これは、毎年全国の村や町で作成されていた「宗門人別帳」を見ることで知ることができます。

「宗門人別帳」とは、寺請制度(てらうけ)に基づき、各人の檀那寺(だんな)が檀家であることを保証するために作成された帳簿ですが、 実際には住民台帳、租税台帳といった面が強く、これを調査することで当時の各種データを把握することができます。
当然、資料の残存状況といった制約はありますが、ある程度の傾向はつかめます。

例えば、嘉永3年(1850年)段階の袋村(現・赤羽北および桐ヶ丘の一帯)の様子を「宗門人別帳」から見てみましょう。

当時の家数は44件で、一家族の平均人数は5.9人。
一組の夫婦と未婚の子女からなる家族形態(いわゆる核家族)は16軒(36.4%)で、一組の夫婦に一組の息子(娘)夫婦およびその子女からなる 家族形態(三世代同居)は22軒(50.0%)となっています。

夫婦をみると、判明する31組中、同年齢であるのはわずか1組で、それ以外は全て夫が妻より年上となっています。
年齢差は4歳以下が10組、5歳〜9歳差が10組、10歳以上年の離れた夫婦も10組で、中には27歳差の次郎兵衛のような夫婦もいます。
夫婦年齢と最年長子女の年齢を計算すると、夫で平均27.1歳、妻で同21.9歳となり、この年齢までに第一子が生れていることもわかります。

村の最年長は左五右衛門の85歳で、60歳以上の人数は19名(60歳代8名、70歳代10名、80歳代1名)。
袋村は、奉公人も含めると全270人なので、60歳以上の人の占める割合は7%ほどとなるでしょうか。
ちなみに、現在の北区では60歳以上のあたが32%となっています。

残念ながら1年分しか確認できていないのでデータに限界はありますが、もしこれが数年分残っていたら、例えば平均寿命や結婚年齢なども計算することができます。

どうですか。
これが160年前の北区の様子です。
今と比べてみるのも結構面白いと思いませんか?!(保垣)

・「宗門人別帳」の世界

「宗門人別帳」の記載事項については、各村々で若干の相違が確認されます。
その家の石高を記しているか否か、女性の名前を書いているか否か(名前ではなく、単に「女房」「娘」と書いてある人別帳もあります)などバリエーションは様々です。
また何歳になったら人別帳に記載するかも重要です。
一般に「七歳までは神のうち」といわれるほど、乳幼児の死亡率が高かった鋳台、ある程度子どもが成長してから初めて人別帳に記すこともありました。
したがって、7歳ぐらいから突然人別帳に現れる子どももいます。
ちなみに、袋村の人別帳までは、「当才」という記載があり、その年に産まれた子どもも記載されていました。

「宗門人別帳」という表題からして、宗教的性格が強い帳簿のように見えますが、その家の持ち高(生産力)など、寺請制度とは全く関係のない記述も少なくありません。

今回、取り上げた袋村の人別帳でも各家々で飼っている牛馬の頭数が記されています。
しかし、牛や馬がキリシタンか否かを問題視し、帳簿に記載している訳ではないことは言うまでもありません。
その他
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