版権物(二)

かっぱのおん返し(一)
作画・保垣孝幸

カッパのおん返し
むかしむかし、まだ北区に田んぼや畑がたくさんあった頃のお話です。
岩淵に住んでいる人の多くは、田んぼや畑を耕すかたわら、その合間に荒川で魚を獲って暮らしていました。

河童の話が生まれる水のまち 北区

河童は、日本に伝わる妖怪の中でも鬼や天狗と並んで、最も有名な妖怪の一つです。
また、伝説上の動物とも、未確認生物とも言われます。
日本全国に伝承があり、呼び名や形状も各地方によって様々ですが、標準的な和名である「かっぱ」は、「かわ(川)」 に「わらは(童)」お変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したものと考えられています。

宝暦4年(1754年)の序を持つ「日本山海名物図会」(以下「図会」)には「豊後河太郎」として次のように紹介しています。
形は5,6歳の子どものようで、全身に毛が生え、猿に似ている。
目は鋭い。
いつも浜辺へ出て相撲を取っている。
人を恐れることはないが、近くに寄ると水中へと逃げてしまう。
また、人を水中へ引き入れて殺してしまうことがある。
(河太郎と)相撲を取れば、たとえ勝ったとしても正気を失い、その後、大病になるという。
しきみの抹香を飲ませれば正気に戻る。
河太郎は豊後(大分のあたり)国に多く、そのほか九州の所々に棲息している。
関東にも多い。
関東では河童という。(現代語訳)

これによると、河童は5,6歳の子どものような大きさで、全身に毛が生え、猿に似ているといいます。
河童が子供の姿をして吏、頭の上に水を貯えた皿があるというのは、概ね全国的に共通しています。

河童が相撲好きだという伝承も各地で伝わっています。
「図会」では、たとえ勝ったとしても正気を失い、後に大病になることを記していますが、この他にも負ければ問題ないが、 勝つと不機嫌になり危害を加えるという話も残っています。

人を水中に引き込み殺してしまうという恐ろしい伝承もありますが、一方で人に友好的で義理堅く、 田植や草取りの手伝いを行ったという話は各地に残っています。

こうした河童の伝承をみていくと、古くから川の水霊、水神の化身とみていたことは明らかで、 川や湖、沼など水と関係が深い場所では、各地で河童にまつわる話が残されています。
北区域にも、関東屈指の大河川である荒川が流れ、中央には石神井川が貫流します。
農業用水も各所に張り巡らされており、こうした地域と水との関わりが、河童にまつわる話を生んだものと 思われます。
かっぱのおん返し(ニ)
ある暑い夏の日のことでした。
きょうも岩淵の弥平が、魚を獲りに荒川に行くと、川岸で誰かが倒れているのを見つけました。
「こりゃ大変だ」
弥平が急いで駆け寄ると・・・。

荒川(隅田川)の河童

「カッパのおん返し」は、荒川に住む河童の話ですが、これ以外にも荒川の河童が登場する話があります。
「あかばね漫歩」138号に掲載された「カッパの贈りもの」やも、そんな話の1つです。
ある日、百姓与八のもとに1匹の河童が馬の尻尾の毛を盗みにきます。
あっさり見つかってしまいますが、訳を聞くと、最近さっぱり魚が捕れなくなり、人間の真似をして釣りを してみようと、馬の尻尾を捕りに来たのだといいます。
特別悪さを働くのではないとわかった与八は、河童に尻尾の毛を2,3本抜いて渡してあげました。
すると、翌日、 河童は大判小判がたくさん入った袋を持ってお礼にきたのでした。

「ふるさとに伝わる民話」と題されたこの話でも、親切に接すれば親切で返してくる、義理堅い河童の姿が描かれています。

・石神井川の河童

一方で、石神井川では、人を水中に引き込み殺してしまうという、河童の恐ろしい側面が伝わっています。
扇屋13代目当主である早船彦三氏は、かつて石神井川にも河童がいて、人々は川の主だといっていたこと、そして、 毎年夏になると必ず1人の娘を水の中へと引き込んでいったことを語っています。
その代わりといっては何ですが、1人の娘が犠牲になると、その後は川で死ぬ者は1人も出なかったといいます。
(早船彦三「王子扇屋物語」)。

河童は、尻子玉を抜いて人を殺してしまうといい、水難死を河童の仕業に見立てる話は、石神井川に限らず全国各地で 確認されます。
かっぱのおん返し(三)
それはなんとカッパの子どもでした。
「ありゃ、これはカッパの子どもじゃねえか。」
弥平はそっと抱き起しますが、カッパはぐったりしています。
「おい、大丈夫かい。しっかりしろ。」
声をかけてもピクリとも、うごきません。

・小柳川(小梛木川=おなぎがわ)の河童

小柳川とは、石神井川から分流した農業用水のことで、これを志茂地域では小柳川と呼んでいました。
そもそもこの農業用水は、江戸時代に開削されたもので、下板橋宿根村(現双葉町)の堰で石神井川から 分水し、下板橋宿・十条村・稲付村・赤羽根村・岩淵宿・下(志茂)村・神谷村の7ヶ村が利用していました。
一般的には上郷七ケ村用水といいますが、地域によって様々な異称があり、板橋では中用水、十条・ 稲付では稲付川、岩淵では北耕地川などとも呼ばれています。
現在は暗渠になってしまっていますが、1960年代後半まで水路が残っていました。

さて、この小柳川が流れる志茂地域の糸人は、その年に初めて収穫したきゅうりは、カッパへのお供え物として、 川に流したと言います。
これは、河童が川で遊ぶ子どもたちへ危害を加えないよう祈ってのことだといい、大正8〜9年(1919年〜 1920年)頃まで行われていたといいます(「北区史民俗編2」)。

こうした習俗も、河童は人を水に引き込み危害を加えるという話が前提にありますが、一方でお供え物をして 安全を祈願するという、ある種、河童を水霊・水神としてみていた地域の意識を見て取ることができます。

先にも記した通り、川や湖、沼など水と関係が深い場所で河童にまつわる話が残されています。
「図会」の中で、関東に河童が多いことを記していたのは、中小の河川を含め水上交通が発達し、水と共存して 暮らして来た関東周辺の農村の実態を端的に示しているものと考えられます。

実際に河童が存在したかどうか考えることも面白いかもしれませんが、こうした話が伝わっていることの意味を考えることが、 地域にとって重要だと思います。
かっぱのおん返し(四)
「さあて、どうしたものかな・・・」
弥平が困っていると、ちょうどそこに静勝寺の和尚さんが通りかかりました。
「おや、弥平さんじゃないですか。どうかしましたか。」
「あっ、和尚さん。いま魚を獲りに来たらカッパの子どもが倒れていて・・・」
弥平は、これまでのことを和尚さんに話しました。

・河童あるところに水あり

水界に住み、様々なかたちで人と接触するとされる河童。
知名度抜群の有名妖怪とあって、現在でも、様々なかたちで取り上げられます。
例えば、北区豊島地域で毎年夏に開催される「豊島かっぱ祭り」。
会場では、祭りのキャラクターである河童のカッピーの国、カッピーランドがつくられ、 多彩な催し物が行われます。
会場となっている豊島公園が、水の流れる公園として地域の人々に 親しまれていることにもよりますが、そもそも、この豊島公園自体が、かつて豊島ドックと呼ばれた 運河の跡を埋め立てて造られた公園で、水とは非常に関係の深い場所なのです。

水のあるところに河童の話が伝わるように、逆に河童のいるところには、川や池、沼など何かしら 水にまつわるものがあるのです。

現在では埋め立てられた吏、暗渠になったりと、姿を消してしまった水の痕跡を河童をたよりに 探し出すこともできるのです。
かっぱのおん返し(五)
「どれどれ」
和尚さんはカッパを抱き上げ、じっと様子をみました。
そして何かに気づいたように弥平の方へ向き直ると
「これは頭の皿の水が乾いて動けなくなっているのかも知れません。
弥平さん、川の水を汲んで来て頭にかけてやりなさい」
そう、弥平に告げるのでした。

・「カッパのおん返し」の舞台(一)
江戸時代〜明治初年の岩渕宿

現在の北区岩淵町の一帯は、江戸時代には、武蔵国豊島郡岩淵宿に属していました。
「宿」という名の通り、岩淵宿は、日光御成道の宿場で、日本橋からの距離は、三里十五町 (約13.4km)。
江戸を出発して最初の宿場になります。

宿内には、公用の通行者の宿泊所となる本陣一軒、脇本陣一軒と、人馬の継ぎたてを扱う 問屋場のほか、沿道三町三十一間(約384m)にわたって家並が続いていました。
江戸にほど近いことから宿場の規模は小さく、幕末期の段階で旅籠屋として若松屋の一軒が、 茶屋としては亀屋・大黒屋・加納屋の三軒が確認できるのみとなっています。
一方、家並みが続く街道沿いを除けば、岩淵宿の多くは田畑が広がり、「岩淵村」「本宿村」 などとも記されるように、実際には農村の体をなしていました。

安政2年(1855年)の岩渕宿の状況を確認すると、石高は408石2斗8合で、家の数は115軒。
男319人・女290人の計609人の人々が暮らしていました。
主な産物は、穀物の他に瓜・茄子・牛蒡・三つ葉を生産しており、これを江戸へと出荷して います(「北区史資料編近世2」)。

さて、もう少し詳しく岩淵の人々の暮らしぶりをみていくと、明治期に刊行された「東京府村誌」 には、物産として米のほか、酒・醤油・酢、そして魚のボラを記しています。
兵制に入っても23区唯一の造り酒屋として営業していた小山酒造に代表されるように、岩淵は 昔から米や大豆、麦などを発酵させる醸造業が盛んでした。
江戸時代の終わりごろには「亀屋 吉右衛門」という醤油の醸造家が活躍していたことが知られて おり、明治時代から大正時代でも岩淵では醤油の生産が盛んでした。
また、醤油以上に岩淵で盛んだったのは酢の生産です。
明治時代のはじめには、醤油の生産が1400樽ほどだったのに対し、酢はおよそその3倍、4000樽を 生産していました。
こうした醤油や酢の醸造は岩淵の一大産業だったのです。
かっぱのおん返し(六)
弥平は急いで川辺に行き、水を汲んできました。
そして、頭の皿に水をかけ続けると、カッパはみるみる元気を取り戻していきました。

そして、もう一つの代表的な物産品がボラです。
ボラは、ボラ目ボラ科に分類される大型魚で、ほぼ全世界に分布して食用に漁獲されます。
基本的には海水魚ですが、河口や内湾の汽水域(淡水と海水が混在)に多く生息し、幼魚のうちには大群で淡水域に遡上するといます。
岩淵では、このボラが年間で700尾ほど捕獲されました。

同じく「東京府村誌」には、民業として「飲食店そのほか商家20戸、その他はみな農業に従事する、合間に漁業を兼ねる家あり(現代語訳)」と記しています。
かつての宿場町ですので街道沿いにはそのまま飲食店や商売家が軒を並べていたようですが、岩淵の人々の多くは農業従事者で、中には漁業を兼ねる家々があったようです。

北区域で、荒川(隅田川)沿いの村を挙げれば浮間村・袋村・下村・神谷村・豊島村・梶原堀之内村・舟方村になります。
これらの村々を同じく「東京府村誌」(浮間村は「武蔵国足立郡村誌」)で見れば、物産として魚類を挙げてる村はなく、同時に漁業に従事していた家が存在していたことを示す記事はありません。
当然、これらの村も個人的な範囲で釣りを楽しんだり、漁を行う家もありましたが、これを「生業」として記していたことが確認できるのは岩淵地域だけなのです。

こうしたことからも、岩淵地域が荒川の川魚を対象とした、漁猟の盛んな地域であったことをうかがい知ることができます。
かっぱのおん返し(七)
「ほうら、こんなに元気になりました。」
「もう大丈夫だな」
2人は顔を見合わせて喜びました。

・「カッパのおん返し」の舞台(二)
静勝寺(赤羽西1-21-17)

赤羽西1丁目に所在する静勝寺は、自得山と号する曹洞宗寺院で、寺地は戦国時代の武将である大田道灌の城塁・ 稲付城の跡とされます。
創建年代は定かではありませんが、道灌死後、城跡に道灌寺が草創され、後に静勝寺と改められたといいます。
江戸時代の静勝寺には檀家がおらず、寺院境内以外に所領もありませんでした。
しかし、その境内地は広大で、その収益で経営には困らなかったといいます。(「嘉陵紀行」)。
また、道灌の年忌(ねんき=祥月命日)には太田家から寄付もありました。

村尾嘉陵が著した江戸近郊の紀行文「嘉陵紀行」(文化9年〜天保5年、1812年〜1834年)の記載から江戸時代の 静勝寺の様子をたどると、石段を40段上ると2階部分に鐘を吊るした茅葺の門があり、門を潜ると向かいに大田道灌の祠がある。

その脇に観音堂、本堂が軒を並べみな茅葺屋根だったと記しています。
これを「江戸名所図会」の挿絵で確認すると、日光御成道から続く参道の先に急な石段があり、階上には「楼門」とあります。
楼門を潜り正面にあるのが「御影堂」で、これが「嘉陵紀行」でいうところの大田道灌の祠ということになります。
御影堂の中には、元禄8年(1695年)に像立された木造の大田道灌坐像が収められており、毎月道灌の命日にあたる26日に開扉 (かいひ)されます。
像は、頭を丸めた姿をしており、道灌が剃髪した文明10年(1478年)以降の、晩年の姿を映しています。
現在は、鮮やかな着色が施されていますが、、これは昭和62年(1987年)に行われた修復の際に施されたものです。
御影堂自体は、道灌250回忌にあたる享保20年(1735年)に建立されたもので、座像を収める厨子は、道灌350回忌にあたる 天保6年(1835年)に製作されました。

さて、「江戸名所図会」の挿絵では、境内を囲むように観音堂・本堂が描かれており、これは「嘉陵紀行」の記載とも一致します。
したがって、この図は概ね正確に描かれていると判断して問題ないものと思われますが、この配置は現在の静勝寺境内の 建物配置と一致しています。

寺地は高台にあり、境内への階段脇には「稲付城跡」の碑が建てられています。
周囲の風景は変わってしまっていますが、静勝寺は悠久の景観を今にとどめている貴重な寺院といっていいでしょう。
かっぱのおん返し(八)
元気を取り戻したカッパは、人間におどろいたのでしょう、起き上がるやいなや、一目散に川の中に飛び込んでいきました。
そこかあまた、ちょこんと顔を出すと、何度もなんどもお辞儀をして、川の中へと消えていきました。

・「カッパのおん返し」の背景
御留川と荒川の魚

御留川とは、将軍の漁猟上覧や江戸城内で消費する魚類確保のために設定される禁漁区で、 一般の漁猟活動が禁止されていた河川をいいます。
江戸周辺地域では、多摩川(玉川)と荒川(下流域では隅田川、大川等とも呼びます)が御留川に該当しました。

御留川の制度は、江戸時代初期にまで遡りますが、八代将軍徳川吉宗は改めて須崎村(墨田区)牛御前(牛島神社) 高札場から石神井川との合流地点である北区域の豊島村までの間を御留川に指定しました。
御留川になると幕府が許可した御用猟師以外の漁猟は認められません。
この御用猟師となったのは、小網町白魚役と佃島漁民で、この両者は江戸城へ御用白魚を上納する目的で漁を許されたのでした。
したがって、沿岸部分の村々では、村の地先に川があっても漁業を営むことができなかったのです。

しかし、御留川の範囲が豊島村であったことから、豊島村より上流の村々では、自由に漁猟を行うことができました。
また、荒川に流れ込む石神井川も御留川の対象から外れています。
こうした制度によって、江戸の人々、中でも釣りの愛好家たちは、頻繁に神谷村以北の荒川沿いの村々を訪れることになるのです。

文化年間(1804年〜1818年)に王子の地を訪れた十方庵敬順は、神谷村での遊猟について「装束榎の際から蟹和村(神谷村)へ凡そ14〜15町。
漁猟を愛する人はここに来て漁者を雇い、猟船に乗って釣りを楽しんだ」と記しています。
江戸からやってくる釣り人たちは、御留川の範囲を超えた一番近い場所、すなわち神谷村付近で釣りを楽しんでいたことが知られます。
また、神谷村が釣り人の人気を集めたのは、単に近いからだけではありません。
続いて敬順は、「荒川の魚は格別であり、中でも蟹和(神谷)の鯉は風味抜群である」と記し、神谷村辺りで釣れた鯉を絶賛しているのです。
北区域で江戸庶民の行楽地というと、どうしても飛鳥山の桜や王子神社・王子稲荷神社といった宗教施設を考えがちですが、 実は荒川も人気スポットだったのです。

また、荒川や石神井川の魚は、釣り人たちだけではなく、この地を訪れる多くの行楽客の目的にもなっていました。
大和郡山藩の2代目藩主柳沢信鴻(のぶとき)は、隠居後、文人大名として悠々自適な生活を送っていたことが知られていますが、 彼が記した日記(「宴遊日記」)によれば、信鴻は王子稲荷神社に参拝すると、必ずといっていいほど 茶屋の店先でコイやウナギ、ナマズ、ドジョウなどの川魚類を買って持ち帰り、屋敷の池などに放っていたことが確認できます。
武蔵屋という店では網を打ってコイを捕らせてもいます。
単に信鴻の行楽の一環かとも思いますが、自身が参詣に行けず、代わりの者が代拝したときにも川魚類を持ち帰らせていることを考えると、 こうした川魚の購入自体が王子周辺の地を訪れる一つの目的であったことが うかがえるのです。
かっぱのおん返し(九)
それからというもの、荒川では毎日のように魚がたくさん獲れるようになりました。
岩淵の人たちは、これはカッパのおん返しだろう、とうわさし合ったそうです。

・「カッパのおん返し」の所縁の地を訪ねて
「荒川」の河川敷を歩く

明治3年(1910年)の大水害を契機に、荒川放水路の開削が始まり、岩淵水門が建設されました。
その後も度重なる改修工事が行われ、現在の荒川岸は、荒川岩淵関緑地として整備され、河川公園へと 様変わりしています。
土手には芝生が広がり、道も整備されているので散歩コース・ジョギングコースとしても人気があります。
緑地内にはバーベキュー広場もあり、休日は多くの家族連れで賑わっています。
北区を代表する景観の一つです。

また、岩淵水門の近くには、荒川の自然や歴史について調べる荒川知水資料館(アモア)があります。
中には展示室があり、スタッフによる展示解説なども行われています。
荒川と親しむ人たちの活動拠点であると同時に交流の場であり、ここを拠点として、荒川の生物調査や 歴史調査など様々な活動が展開されています。

かつて河童が生息していたとされる荒川も今ではすっかりきれいになっていますが、往時を想像しながら 河川敷を散策するのも面白いかと思います。
その他
・世界ふしぎ発見(扇屋)

・三國志展

・幽霊・妖怪展

・三國志展

・湯神くんと20000HIT!

・三國志展

・三國志展

・東京マガジン

・犬夜叉新潟

・三國志展

・三國志展

・三國志展

・三國志展

・くまとくま

・三國志展

・三國志展

・玉子の達人

・「JIN−仁−」より中央図書館

・アゲハ

・アド街

・ウルトラ怪獣散歩

・おかしな刑事

・三國志展

・めぞんのお酒

三國志展

三國志展






・るーみっくカフェ


・三國志展




池波正太郎展

長唄

長野剛展

藤田和日郎原画展

内田康夫展

新宿タカノの誕生日ケーキ

怖い絵展

山吹屋お勝

王子神社 

幽霊展

渋沢栄一お弁当とポスト 

鉄のクラウスコーヒー 

アニマックス

カービィ♪

クリスマスマーケット

ぐりとぐら展

飛鳥山薪能 

戦国BASARA

コージー展

スヌーピー展

トムとジェリー展

ナマステ

はたらく細胞展

ハリー・ポッター展

ポワロ展

ポケモン電車

ラスカル

るーみっく 

夏目友人帳展

京極夏彦

犬夜叉

三國志展



京極夏彦