長谷川平蔵住居跡 |
池波正太郎氏の一番好きな本といえば、最初に出会った「真田太平記」。 しかし真田家の本拠地は長野県上田市で、一度行った事はあるものの漠然とした記憶しかないため後回しになってしまいそう。 おそらく一番人気がある小説といえば、テレビ人気もあやかって「鬼平犯科帳」ではないだろうか。 長谷川平蔵、実在する人物である。 真田昌幸、信幸、幸村も実在する。 しかし池波氏は、実在する人物をご自身の中で膨らませて、もしかしたら本物の鬼平や幸村以上の魅力的な人物像を作り上げておられるような気がする。 特に「真田太平記」において、「草の者(忍び)」の痛みや息づかいが、そして脂にまみれて匂い立つ汗までが感じられるような感覚を始めて感じたことは大きかった。 真夜中の暗い静かな部屋、スタンドだけつけて読んでいると、家康を狙って舞い上がる忍びお江、大阪夏の陣、幸村最後の桧舞台で「紅の旗、吹貫きを、あたかも躑躅の花ざかりのごとく群れなびかせた(真田太平記より)」赤備えの真田幸村、玉砕覚悟、戦国最後の千両花火。 大袈裟かもしれないけれど、後にも先にもここまで生々しく人が息づく小説は読んだことがない。 来年になったら上田の地を訪れてみたいと思っている。 さて本題。 今回のテーマは「鬼平犯科帳」。 ただし池波版鬼平ではなく、実在した長谷川平蔵の方。 最初ということもあり、オーソドックスに住居跡を見てきた。 東京都墨田区都営新宿線菊川駅。 こぎれいな駅の中を歩いてA3出口。 →「こちら 」 目の前は小さな駐車場と大通り。 予想に反して墨田区教育委員会による小さな小さな看板だった。 →「こちら 」 後に「遠山の金さん」で有名な遠山金四郎宅になっていることが記されている。 看板に書かれてあることをそのまま載せておこう。 長谷川平蔵住居跡 所在 墨田区菊川三丁目一六番 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。 平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました。 長谷川家は三方ヶ原の合戦以来の旗本で家禄四〇〇石でしたが、将軍近習の御書院番組の家として続いてきました。 天明六年(一七八六)には、かつて父もその職にあった役高一五〇〇石の御先手弓頭に昇進し、加役である火付盗賊改役につきました。 火附盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場」です。 当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。 寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。 この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました。 平成九年三月 墨田区教育委員会 ちなみに「三方ヶ原の合戦」とは上洛しようとする武田信玄と徳川家康が戦った合戦で、家康の後には織田信長が控えていた。 家康は負けはしたものの、その激しい戦ぶりで信長の信頼を勝ち取り、同時に配下の「三河武士」がみな敵に向かって倒れるようにして死んでいたことからその勇猛さが伝えられている。 長谷川家は家康に味方したが、何人かの戦死者が出たと伝えられる。 「池波世界を辿る道」では今後もこのように行ける範囲の池波名所を巡ってみたいと思う。 (2005年12月1日の日記)
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松平屋敷から見た風景 |
松平越中守定信、「鬼平犯科帳」2巻「蛇の目」で長谷川平蔵が願い出た人足寄場について話し合う場面などで登場する人物。 「剣客商売」で秋山小兵衛と親しむ田沼意次との確執は有名だが、おかげでほとんど交わることのない秋山小兵衛から長谷川平蔵への流れを推察することができる。 田沼意次全盛期に秋山小兵衛は意次の娘三冬を通じて田沼意次と知り合い、その衰退まで見守ることになるが、意次に代わって老中となり、権勢を振るうのが定信。 世に「賄賂政治」と言われ、評判の悪かったとされる田沼意次の反動で定信が行った倹約、清貧政策の厳しさに 「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」 と歌われたことが小説内にも記されている。 池波氏は田沼意次も松平定信も悪人とせず、意次を小兵衛の目から見て清濁併せ呑む深みのある人物と描き、定信も平蔵を評価する見識眼のある人物として描く。 はっきり調べたわけではないが、平蔵は小兵衛より30年くらい後に生まれたと設定されていると思う(死んだのは平蔵が先)。 ただ「剣客商売」が描かれるのはほとんどが老後の小兵衛の生活で、表面上は隠退していたため、その時期に活躍する平蔵との接点が全くないのが残念。 さて、その松平定信の屋敷があったのは今の皇居の中、桜田門のそばである。 桜田門と言えば井伊直弼暗殺の「桜田門外の変」があまりに有名だが、もうひとつ小編ながら大好きな小説がある。 内田康夫著「十三の墓標」。 日本全国に散らばる和泉式部の墓を巡るミステリーだが、黄色い傘をくるくる回しながら桜田門(警視庁)を訪れる女の子から始まるこの小説は、まるで映画のワンシーンを見ているようで、いかめしい警官と、黄色い傘の女の子のコントラストの鮮やかさが忘れ難い一品となっている。 ところでその松平屋敷。 今私は古地図を2つ見ながら書いているのだが、1冊目「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳 雲霧仁左衛門(人文社)」では屋敷は皇居にあり、「江戸散歩・東京散歩(成美堂出版)」では築地市場のある場所にあったとされているのだ。 「江戸切絵図にひろがる〜」でも築地の同じ場所に「松平越中守」とあるのだが、これは老中の地位にあった時は皇居内の松平屋敷(下総守、肥後守などとある)に住み、自認してからは築地に移ったのであるらしい。 そこで天気のいい秋の昼下がり、皇居に向かった。 東京にいて広さを感じる場所と言えば幕張メッセか東京ドームくらいしかないと思っていたが、皇居内はほんとに広い。 当然とはいえ贅沢な地面の使い方、うらやましい。 すぐそばにはビルが立ち並び、車がひっきりなしに往来しているのだが、一歩踏み入れただけで時間の流れがゆったりと変わるようなそんな雰囲気。 修学旅行?や国内外の団体ツアーのお客さんも多いけれど、賑やかな話し声も広さの中に吸い込まれていくようで、ぶつかる心配もなく歩けることがとても新鮮。 桜田門、桔梗門初めいくつかの門、二重橋などかつての江戸城や武家屋敷の名残は残っているが、今この豊かな空間と緑の中に佇んでいると、ここが城や屋敷で埋め尽くされた風景を想像するのは難しい。 辛うじて時代劇で見た武家屋敷のセットが部分的に頭に浮かぶくらいか。 かつてこの地にあった江戸城や武家屋敷は「明暦の大火」と呼ばれる大火事により焼失した。 そこへ東京遷都により皇居として定められたのだが、この明暦の大火、いわゆる「振袖火事」としても知られている。 若い娘が美しい若侍に恋をし、その若侍が着ていたのと同じ色や柄の振袖を着て恋い慕っていたが、二度と会うことはかなわず、悲しみのあまり死んでしまう。 売りに出された振袖を買った娘たちも次々とやつれ果てて死に、最後にある寺に納められたが、その振袖を焼こうとしたところ、火に包まれた振袖は空を飛んで江戸中を火事にしたという有名な物語である。 私も何を読んだわけでもなくこの話を知っていたが、もうひとつ有名な「八百屋お七」の物語とごっちゃになってて、振袖火事で避難したお七が避難先の寺でその寺の小姓と恋に落ちるのかと思っていたら全然違ってて振袖火事は1657年、八百屋お七が最初に巻き込まれた火事は天和の大火(1683年)のことだった。 お七の話は実話で、以前白山神社に行った時、迷った先でお七のお墓を見つけたのでいつか書いてみたい。 振袖火事の方は「消防防災博物館」の「こちら」で明暦の大火の様子を記録した「むさしあぶみ」の資料で火事の様子を絵で、小池猪一著「火消夜話」からの引用で話を紹介している。 ここが一番わかりやすい。 こちらは政治的な状況もあり、俗説、いわゆる作られた話のようである。 けれども私にとってもっと印象が強いのは、この春松江で買い求めたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著「怪談・奇談」。 有名な「耳なし芳一」「雪おんな」初め42編が収められているのだが、その中に「振袖」という題でこの物語も収録されていたのである。 「振袖火事」「小泉八雲」「白川候(松平定信)」「東京遷都」、知識としてはあったものの、それらが今回の皇居探索でひとつにつながった。 勉強になるなあと思う反面、いかに今まで自分が本を漠然と読んでただけなのか思い知らされる。 さて、大火で更地になってしまった松平他武家屋敷や江戸城の地は皇居と定められ、今となっては江戸城や武家屋敷の名残を残すものはほとんどない。 けれどもたぶんこの辺にあっただろうと思う場所に立って桜田門を眺めるとなんとなく「鬼平犯科帳」で部屋から庭を眺める鬼平(私のイメージだと中村吉右衛門さんだ)の姿がふと浮かんでくる。 いえ松平定信像がイメージないから平蔵なのだけど(笑)。 ★今日の一枚。 松平屋敷があった(と私が勝手に思ってる)場所から見た桜田門。→「こちら」 (2006年12月15日の日記)
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麹町から半蔵門へ |
「鬼平犯科帳」に登場する京極備前守高久の屋敷は22巻の長編「迷路」で麹町に設定されている。 長谷川平蔵の部下が、家族が、知り合いが次々に得体の知れぬ悪党の凶刃にかかり、手も足も出ない火付盗賊改方。 平蔵解任の動きの中で平蔵を必死で庇う若年寄京極備前守。 鬼平シリーズの中でも好きな作品ベスト3に入るおもしろさだが、私が見ている鬼平関係の古地図によると、京極屋敷は現在の国立劇場のあたりとなっている。 JR四ッ谷駅から新宿通りを皇居に向かって新宿通りをまっすぐ歩くと、麹町を通り抜けて半蔵門に突き当たる。 でも麹町はオフィス街、正直歩いて楽しい道でもないので、今回は千鳥ヶ淵から半蔵門に向かうことにした。 桜の開花間際の休日、来週にでもなればこの道も人が一杯でまっすぐ歩くも容易でなくなるだろう。 そんな千鳥ヶ淵だが、この日は薄曇のちょっぴり肌寒く、お堀の緑も色濃く、疲れた目に心地よい。 ダイエット中の私にはお馴染みの散歩道(笑)。 さて半蔵門、伊賀忍者として有名な服部半蔵が近くに住んでいたから半蔵門と名づけられたのは有名な話。 私が今夢中なゲーム「戦国無双」「無双OROCHI」のシリーズでもかっこいい寡黙な忍者服部半蔵が活躍している(使いづらいけど)。 ただし「服部半蔵」は代々の服部家当主の通称で、一般的に言う服部半蔵は服部正成のことだと言う。 池波氏は作品の中で忍び(忍者)とは歴史に登場しない闇の部分を生きた者たちであるから、資料などないのが普通」と書かれているが、忍者物を見たり読んだりするにつけ、本物の忍者たちが超人的な体力と技でどれほどのことができたのか、どこまで歴史に関わったのか、考えてしまう。 逆に知られていないからこそ多々の作家が様々な忍者像を作り上げて楽しませてくれたわけだけど。 ちなみに服部半蔵のお墓が四ッ谷西念寺にあるらしい。 今度探して行ってみよう。 (前に行ったことのあるお岩さんの神社の近くのようだ。) そんなことを考えながら半蔵門をぼんやり眺めていると、にわかに警備員さんたちの動きが慌しくなった。 車止めを寄せ、半蔵門の交差点に出て交通整理を始める。 開かれた門からは2台の黒塗りの車。 どなたか皇族の方が外出されるらしい。 車が通り過ぎた後、何枚か写真を撮り、その場を離れた。 でもこの日は本当に気持ちが良くて、皇居の周りを半周してしまった。 ただし千鳥ヶ淵などは気持ちがいいけど、けっこう車の往来の激しい場所も多いので、帰ってからはげほげほ咳が止まらず、往生してみたり。 ★今日の一枚。 遠くから見た半蔵門。 数日後には桜が満開。→「こちら」 (2007年4月12日の日記)
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御宿稲荷神社 〜内神田一丁目 |
御宿稲荷神社、楽しい縁のある神社である。 3年ほど前、サイトのトップページに飾る素材を探していて、TSUKURUさんの 「素材散策」で赤い鳥居の素敵な写真を見つけ、お借りしたことがある。 その後、TSUKURUさんにいろいろお話を聞いて、その鳥居が東京内神田の御宿稲荷神社であることを知った。 当時は御宿稲荷神社が「鬼平犯科帳」に登場することも気づいていなかったが、カメラを片手に見に出かけ、綺麗な色とおもちゃ箱のような可愛い神社にすっかり魅せられてしまったのだった(「鳥居の色は秋の色」参照)。 いつも参考にしている「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳(人文社)」でも取り上げていないこの神社が登場するのが「鬼平犯科帳」22巻特別長編「迷路」である。 おまさは、この日の四ツ半(午前十一時)ごろに、神田・三河町一丁目の蕎麦屋〔松露庵〕へ入り、急いで腹ごしらえをした。 それから二丁目の御宿(みしく)稲荷の境内へおもむいた。 此処で、それとなく、役宅から出て来た長谷川平蔵と落ち合うことになっている。 間もなく、平蔵があらわれ、おまさの姿を笠の内からみとめるや、声もかけずに境内を通りぬけて行った。 その後から、おまさも境内を出た。 引用文だと、なんとなく広い境内があって、その中を平蔵とおまさがさりげなくすれ違うようなイメージがあるのだが、実際はこの神社、三方を幅1メートル、奥行き2メートルくらいに囲われていてとても狭い。 本殿や灯篭、稲荷狐の像や手水鉢をのぞけば、歩けるスペースは畳一畳分くらいか。 ここで平蔵とおまさが落ち合ったとすれば、さりげないどころか、逢引みたいで限りなく怪しい(笑)。 もちろん当時は周りがこんなに細かく囲われていたわけでなくて、あたりは木々が立ち並び、神社の境内もずっと広かったのかもしれないけれど。 ところがこの神社が昨年9月に壊されてしまったのである。 TSUKURUさんからメールを頂いて慌てて見に行ったが、そこに神社は(当然)影も形もなく、唖然としてしまった。 特に赤い鳥居の前にせり出していたみごとな梅や、綺麗な花を咲かせていた山茶花の木もあっけなく切り倒されていたのは、とても寂しかった。 近くの尾嶋公園にいたお年寄りに御宿稲荷神社の事を聞いてみたら、神社は神田明神に移されたと言う。 しかもいつかまた戻ってくるとか。 どうやらすぐそばのビルの工事が関係しているらしいが、その足ですぐに神田明神に向かう。 たくさんの参拝客に混じってうろうろしていたら、向こうから神職の方がやってくるのが見えた。 慌てて駆け寄る。 その方のお話によれば、御神体は神田明神に暫時お祀りしているけれど、いずれは前の場所にお戻りになりますとのこと。 一安心して(甘酒を飲んで)帰ったっけ。 天正18年関東に移封になった徳川家康が一泊した屋敷にあった神祠をお祀りしたのが始まりと言われ、昭和8年に今の姿となった御宿稲荷神社。 私が神社について話を聞いたお年寄りは「みしゅくいなりじんじゃ」と言っても話が通じず、「ここにあった神社です。」と言ったら、「ああ、おんやどさんか。」と頷いた。 この辺ではその名前で親しまれているのだろうか。 その神社も今年(平成19年)5月に今までと全く同じ形で完成したと、やはりTSUKURUさんからメールを頂き、その後の引越し騒ぎに取り紛れてはいたものの、先日やっと見に行った。 最初に感じた違和感、鳥居や本殿の色が違う・・・。 ちょうど最近民営化された郵便局、今までの赤からオレンジに変わったように、あれほど顕著じゃないけれど、どこか朱色がかったような・・・。 しかもみっちりセメントで固めて、なんだか違う、何かが違う。 前と同じように小さいながらも梅、山茶花、ツツジを植え直してあったが、梅はなんだか病気のようだ。 しかも隣りのビルの工事の人が本殿に上って仕事してるし。 それでもまた長い年月がたって梅も山茶花も成長してって、やがて古木と呼ばれるようになった頃になってもビルの谷間にひっそりと埋もれて、この神社は立ち続けるのだろうか。 かつて家康が宿泊し、平蔵とおまさがつなぎをつけたこの場所に、参拝に、あるいは見学に訪れる人々によってこの真新しい神社に自然な風合いがついていくのだろうか。 御宿稲荷神社は池波小説がらみの場所の中でも一番愛着があり、毎年梅を見に訪れたい場所でもある。 ★今日の写真。 新しくなった 「御宿稲荷神社」と神社境内に陣取る「お狐さん」。 以前と同じように神田の街を見守り続けている。 ☆ ☆ ☆ 「宝の小箱」で「素材散策」のTSUKURUさんから頂いた以前の御宿稲荷神社の素晴らしい写真を見ることができます。 (2007年11月8日の日記) |
清水門外の役宅 |
都営新宿線九段下駅4番出口を出た先にある千代田区役所は、平成19年(2007年)5月にこれまであった場所から、内堀通りをはさんで斜め向かいに移転した。 現区役所の向かいにあるのが清水門、区役所の向かって右隣に役宅があったされる。 「この写真」で手前の大きな建物が区役所、奥の白い建物が法務局のある九段第2合同庁舎で、ここが役宅となる。 区役所に背を向けて清水門を撮ったのが「この写真」。 残念ながらこの日は天気が悪くてせっかくの桜も映えず、履いてた靴のヒールがぬかるみにはまって泥だらけになるという寒々しい一日だったが、おかげで?この時期たくさんいる花見客も少なく、のんびり歩き回ることができた。 実際は長谷川平蔵の目白台の屋敷がそのまま役宅になるはずだったが、江戸の中心地からあまりに遠いため、清水門外にあった「幕府御用地」を役宅と小説上の設定をしたというのはファンの間では有名な話。 目白台の屋敷は息子の辰蔵が留守を預かっている。 史実の長谷川平蔵の屋敷は現在の都営新宿線菊川駅にある。 この清水門外の役宅を中心に物語が展開していくのだが、私が参考にしている「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳、雲霧仁左衛門」の小川町あたりの古地図でも清水門の反対側に「御用屋舗」が見える。 ちなみに江戸時代初期にはこの地には近江山上藩の屋敷があり、その後幕府の管轄になって厩や馬場があったのだそうだ。 引っ越してからは皇居近辺に来ることは滅多になくなったが、やはり桜の季節は皇居のお堀に映える桜や吹き寄せられた花びらが作る桜筏を見にカメラ片手に歩き回ることは多い。 そのまま皇居を半周してもいいし(一回りはさすがにきつい、笑)、千鳥ヶ淵や北の丸公園の散策を楽しんでもいい。 がんばって飯田橋まで歩いて水上カフェでお茶を飲むのも一興。 お供はやっぱり「鬼平犯科帳」。 役宅が近いだけに、この付近は駕籠屋だの菓子屋だのといった架空の?屋敷や店がたくさん登場するが、それだけにその場所を特定するのは難しそうだ。 (上記の本でも何丁目くらいまでしか書かれていない。) そこで取り寄せたのが成美堂出版「江戸散歩・東京散歩―切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図で歩く100の町と道 」。 「当時の」ガイドブックと言おうか、江戸時代に存在したお店の紹介本で、たとえば日本橋エリアを開くと貿易問屋の長崎屋とか三越の前身である越後屋などがどこにあってどんなお店だったのかが一目瞭然。 池波氏がたくさんの資料を駆使して作り上げた「鬼平犯科帳」の世界がこれ一冊でも網羅できるとは思っていないが、1つか2つくらいは小説と資料が一致するお店があったらいいなあと楽しみにしているところである。 (2008年4月29日の日記)
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9月16日 法恩寺 〜平蔵の初恋 |
鬼平こと長谷川平蔵の青春の思い出に満ちた場所として有名な本所界隈にある法恩寺、私はJR総武線錦糸町駅北口からが行きやすい。 上京以来、かなりの数の寺社を巡り歩いたつもりだが、これまで訪れた中で一番頂いた由来書が立派だったのが今回の法恩寺。 二つ折りにしたA3サイズの厚手の光沢のある豪華版で、カラー写真が満載、「池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の登場人物である鬼平や左馬之助は法恩寺の大屋根を見ながら高杉道場へ通ったということです。」と誇らしげな記述が微笑ましい。 「大屋根」とあったので、かなり大きなお寺を期待して行ったのだが、震災・戦災によって焼失したため、再建されたのが現代の姿とのことで意外と小さい。 (日本武道館をイメージして行った私が悪い、笑)。 法恩寺は太田道灌が長禄2年(1458年)に江戸城を築くに当たり、城内鎮護の祈願所として鬼門である丑寅の方角に建立されたのがおこりとのこと。 道灌ゆかりの記念碑や稲荷神社もあって楽しいが、一方で納骨堂である「妙元廟」など真新しい物が大きくて、鬼平のイメージとそぐわないのが残念だった。 この法恩寺を出て大横川親水公園を南下すれば、旧平蔵邸に設定された入江丁や公園の南端に移された時の鐘などを見ることができる・・・、のだがこの日は迷った、とにかく迷った。 1人で知らない土地へ行く時は迷うのがお約束の私だが、それにしてもひどい迷い方をしたのは古地図とパソコンからプリントした地図の方角が90度違っていたからで、浅草から両国のあたりをうろうろ歩き回ったが、おかげで予定外?だった春慶寺など見つけることもできたし、ついでに大黒屋で天丼食べたり梅園に寄ってあんみつを食べたりお土産に舟和のあんこ玉買ったりと楽しめた。 (大黒屋の天丼はタレが濃くて大好き、池波氏お勧めの中清はちょっと物足りない気がする・・・。) 帰りに夫を呼び出して両国でちゃんこ鍋でも、と思ったけれど、何故か不在(笑)でとぼとぼ帰った。 今回おもしろかったのが三ツ目通りと四ツ目通り。 なんでそんな名前が?と思ったら大横川親水公園で日向ぼっこをしていたおじいさんが「碁に関係ある」ことを教えてくれた。 碁に関係あると言われても、何がどう関係あるのか今度行ったら調べてみたい。 さて、青春時代を本所で過ごした長谷川平蔵、「本所・桜屋敷」で当時の淡い恋の思い出が過ぎた年月の残酷さ、初恋の相手と思いもかけない形で再会する。 初読したのは中学生の頃。 きっと改心したおふさと左馬之助が結ばれてハッピーエンドになるだろう、などと夢見ていた少女漫画や少年少女世界の文学全集に埋もれていた女子中学生を打ちのめしたのが、この「本所・桜屋敷」だった。 実は「唖の十蔵」はあまり印象に残っておらず、次に読んだ時まで第1話が「本所・桜屋敷」だとばかり思っていた。 それほど平蔵、左馬之助とおふさの再会が衝撃的だったのだろう。 同時に小説の中に始めて「現実の理不尽さ」を見出したのではなかったろうか。 テレビでも鬼平シリーズを何作か見たが、中でもこの「本所・桜屋敷」のおふさ役萬田久子さんは本当に綺麗だった。 原作のおふさ以上に哀しい美しさを漂わせていたように思う。 本来ならば美しくあってはならないのだろうが・・・。 ★今日の写真。 大屋根と言うほど大きい気はしません。→「こちら」。 (2008年9月16日の日記) |
鬼平旧邸と本因坊 |
長谷川平蔵が青春時代を過ごした地をを探し、両国から錦糸町に向かって歩いていて見つけた「三ツ目通り」の標識をおもしろいと思った。 三ツ目通りを京葉道路方向にまっすぐ歩くと堅川にかかる「さんのはし」と書かれた橋に出る。 これが「本所桜屋敷」に出てくる「三ツ目橋」のことで、平蔵の旧邸があった場所である。 若き日の平蔵はここから三ツ目通りを通り、法恩寺の大屋根を見ながら高杉道場に通った。 さて三ツ目通りである。 ネットで調べてみたら、かつて本因坊がここに住んでいたことにちなんで一ツ目通りから五ツ目通りと名づけられたのが定説となっているようだ。 根拠となる資料が欲しいなと思い、調べてみた。 参考にしたのは岸井 良衛 著「江戸・町づくし稿」と「墨田区史」。 隅田川近辺は元禄より新開発した土地で、埋め立てにより「江戸」を広げていったのだそうだ。 そういえば両国の江戸東京博物館のそばに昔海だった名残を見たことがあるような気がする。 三ツ目橋がかかっていた竪川は万治2年(1659年)に掘割されたもので、「本所桜屋敷」にも少しだけ触れられている。 掘割とは排水や土を盛り上げるために作られた運河のような川、という意味でいいのだろうか。 江戸城から見て縦が竪川となり、江戸城から見て1つ目の橋が一ツ目橋、2つ目が二ツ目橋、3つ目の橋が三ツ目橋と呼ばれたとある。 本因坊が家康に呼ばれて江戸に来たのは慶長8年(1603年)。 詳しい資料を見つけることができなかったが、本因坊が江戸に来て約50年後竪川近辺が開拓され、本因坊が「移った」ことになるのだろうか。 これだけでは三ツ目通りが本因坊にちなんで(囲碁用語にちなんで)つけられたのか、江戸城からの順番にちなんでつけられたのかわからない。 なにしろ私は囲碁に関しては全く知識も興味もなくて、内田康夫著「本因坊殺人事件」でほんのわずか知っただけなので、恥ずかしいことだがそれまで本因坊とは個人名だと思っていた・・・。 この三ツ目通りと本因坊の関係についてはもう少し調べてみたい。 (両国公園のそばに屋敷跡があるそうだが、今回は見つけることができなかった。) 個人的には本因坊が住むのなら囲碁用語を地名にしようとした方が粋な気がするのだが(笑)。 この秋葉原から浅草橋、両国、錦糸町、亀戸にかけての総武線に沿った通りは、史跡も多く、歩いていてとても楽しい場所だ。 特に江戸東京博物館は何度行っても飽きることがない。 平蔵旧邸のそばには時の鐘があり、博物館にも展示されている。 こんな大きな鐘が毎日鳴っていたらさぞうるさかっただろうと始めて見た時は思わず笑ってしまった。 (2009年4月11日の日記) |
三沢仙右衛門宅 〜東福寺 |
長谷川平蔵の実母お園の実家。 いつも「巣鴨の」とあったので最寄り駅は巣鴨かと思っていたら、むしろ大塚駅の方が近いようだ。 昔は現在の大塚駅周辺も大きく巣鴨村となっており、よって仙右衛門宅も巣鴨と当てられたらしい。 古地図で見ると、仙右衛門宅の近くには「東福寺」というお寺が見える。 今回の目標はここにした。 「大塚行くなら都電に乗ろう!」というわけで、テレビの下町特集番組には必ず出てくる都電荒川線に乗ることに。 少し遠回りになるけれど、まず王子駅に行って都電に乗った、ちょっとドキドキ。 ところが都電の混んでるのにまずびっくり。 さすがに山手線の通勤ラッシュのように身動きならないほどぎっしり詰まってるわけではないが、テレビで見るのんびりひなびた感じとは程遠い。 「予想と違ってずいぶん混んでるね。」なんて話していたら、目の前に座っていたおばあちゃんが、「普段は空いてるんだけどね。」と突然話しかけてきたのに2度びっくり。 ああこのフレンドリーさが都電の特徴? 土日、さらに私たちが今乗ってる早稲田行きは池袋に向かう人がかなり乗るのだそうだ。 確かにお年寄りばかりじゃなく、おしゃれな若い女性などもちらほら。 他にも赤ちゃんをベビーカーに乗せた若いお母さんに一生懸命話しかけているおばあちゃんもいたりして、とにかくお年寄りの会話が多い。 線路ぎりぎりに立ち並ぶ家や、踏み切りで待ってる人たちを眺めながらのんびり乗ってるうちに大塚到着。 そして当然のように迷った。 いっそ今回は迷えるだけ迷ってみようということで、大体の位置を確認しただけだったので、そう簡単に着くわけないとは思っていたが、結局大塚駅から巣鴨駅まで歩き、また大塚駅まで戻ってくることに(笑)。 でも雑駁な駅前を抜けると静かな住宅地、怪しいホテルの並ぶ場所、予約の必要そうな小料理屋さん街などいろんな場所を通った。 そしてお約束の巣鴨地蔵通り商店街(ここには何度か来たことある)。 とにかく大通りからひとつ小路に入るととてつもなく入り組んでて、入ったのと同じ通りに出てきてしまったり、坂を上って降りて、また上ったり。 こうして小路を抜けたり入ったりしているうちに、なんとなく「巣鴨村」の雰囲気を感じたように思ったのは気のせいか。 おしゃれな地域ではないし、だからといって寂れた雰囲気でもない。 特別緑が多いわけでもない。 けれどどこかここに昔大きな畑があって、大百姓の三沢家があった、という一文がすんなり納得できそうな、昔の雰囲気がある。 そうやって迷い歩いているうちに、巣鴨小学校の隣りに見つけた、東福寺。 秋の眩しい陽射しの中、少し汗ばむほどに歩き回った私たちには、そこはとても心地よい場所だった。 永禄5年(1562年)に良賢という人物によって作られたというが、最初は小石川にあったらしい。 外では工事の音や、車両の行きかう喧騒などが聞こえるのだが決して広くない境内はしんと静まり返って、時折吹き抜ける風が気持ちいい。 コンクリートの上を軽い音を立てながら舞い飛ぶ枯葉が楽しくて、ノートにはさもうと1枚拾い上げたけど、肉厚の硬い葉で、すぐにぱりりと砕けてしまった、残念。 辺りを見回すと、境内や墓地で遊ぶ子供たちへの注意書きが貼ってある。 お寺にしてみたら大変なことかもしれないけれど、ここで遊ぶ子供がいるんだ、って思うと心がほころんだ。 人気のない境内でふと視線を感じて振り返ると、背中が黒でおなかが白い猫が柱の陰からこっちを見ていた。 携帯で写真は撮れたけど小さすぎ、デジカメで撮ろうと身動きしたところで逃げられてしまった。 ここに茣蓙しいて座りたいね。 座布団も置いてお茶でも飲みたいね、縁側で日向ぼっこするおじいちゃんとおばあちゃんみたいに。 そんなことしてたら防犯カメラににらまれるかもしれないけど(笑)。 今このお寺の周りが一面の畑で、茅葺屋根の大きな百姓家があっても全然おかしくない、いえ門をくぐればそんな風景が広がっているかも。 そんなことを思わせてくれるお寺だった。 ★「東福寺」 東京都豊島区南大塚1-26-10 ? 03-3941-3374 ★今日の写真。 「心地よい風が吹いていました」。 (2009年10月23日の日記) |
岸井左馬之助の寄宿先 〜春慶寺 |
地下鉄半蔵門線押上駅そばにある春慶寺だが、今回はJR錦糸町駅から四ツ目通り歩いてみた。 なんか見覚えある風景だと思ったら、駅そばオリナスまで「Xファイル 真実を求めて」見に来たんだ。 上映映画館が少なかったので、ここまで見に来たんだっけ。 懐かしく思い出しながら押上駅に突き当たって左折する。 この近辺は長谷川平蔵の旧邸があり、法恩寺があり、業平橋があり、ちょっと足を伸ばせば言問橋や本所吾妻橋があり、歩いていてとても楽しい。 普段は錦糸町までJR総武線で行くが、そうすると隅田川を電車で渡ってしまうのがつまらない。 川は橋を歩いて渡りたい、風に吹かれながら、景色を眺めながら。 そんなことを考えながら歩いて10分あまり、いつしか住所表示が江東区から墨田区に変わっていた。 本所吾妻橋商店街に入って間もなく、左側に春慶寺が見えてきた。 たくさんの提灯が目印だが、建物自体はお寺というより普通のビル。 工事中で近くまで寄ることはできなかったが、有名な「岸井左馬之助寄宿の寺」と書かれた碑(岸井左馬之助役を演じた江守徹氏揮毫)もちゃんとある。 それだけでわくわくしながらお寺の中に、というよりビルの中に入る。 真っ先に目に付いたのが入って右側に積まれたたくさんの果物。 なんだこれは、売り物?って思いながらしげしげ眺めていたら、なんとそれは参拝客のお供え物。 どうやら一定期間がたつとおろしてきて、ご自由にお持ち帰りくださいと置いてあるのらしい。 さすがに新鮮な、というえあけにはいかないから、りんごをレンジでおいしく食べる方法など書いた紙が貼ってあったりして笑ってしまった。 こののどかさというかほのぼの感で、たちまち春慶寺が大好きになってしまった。 上京して後、けっこういろんなお寺や神社を回ったけれど、こんなサービス?をしている寺は初めて。 いかにも下町らしい暖かさを感じる。 山と積まれた果物を眺めながらにやにやしていたら、突然奥の方から掃除機の音がして、「ご参拝ですか?」と声をかけられた。 振り向くとお掃除中の可愛い女性。 「いえ、ここが鬼平ゆかりのお寺と聞いて・・・。」と言いかけると、「ああ残念ですね。住職や奥様ならとても詳しいんですけど、私は全然知らなくて。」とにっこり。 春慶寺の好感度急上昇中ですっかり嬉しくなってしまった。 さてこの春慶寺、由来書によると元和元年(1615年)浅草森田町(現柳橋一丁目)に真如院日理上人によって創建された。 その後、寛文七年(1667年)本所押上村に移転、現在に至る。 百済の聖明王が霊夢を見て自ら模刻した普賢菩薩像が日本に伝えられ、聖徳太子の手に渡った後」、寛保二年(1742年)に春慶寺に祀られ、以後「押上の普賢さま」と称されるようになった。 でも私にとっては何よりも鬼平ゆかりの場所だ。 由来書や昔の地図(飾ってあった)を見ていると、先ほどの女性が「よかったらどうぞ」と渡してくれたのが「鬼平に想いを馳せて『江戸の味わい食べ歩き』ガイドブック」だった。 無料なのに中身は充実、いきなり中村吉右衛門氏のインタビュー(カラー)、さらにすみだエリアと浅草エリアの江戸を感じさせるお店の紹介、これも前ページカラーで力の入れぶりが伝わってくる。 そして鬼平ゆかりの地を巡るマップもカラー。 ただし取り上げられているすべてのお店が鬼平(池波)ゆかりというわけではないところがおもしろい。 「長命寺 桜もち」「駒形どぜう」「大黒屋天麩羅」などおなじみのお店も見えるが、便乗しているちゃっかり組も多数。 そんなところを突っ込みながら回るのも楽しいかもしれない。 結局参拝せずに出てしまったが、ふと鶴屋南北のお墓参りもするつもりだったのを思い出した。 春慶寺は「四谷怪談」の鶴屋南北のお墓があることでも有名。 掃除中で忙しそうな女性の手を煩わすのもなあと思ったら、何のことはない、南北の墓は玄関の向かって左、浅草通りに面してどんと鎮座していた。 駅から歩いて来た時、真っ先に見たたくさんの提灯、その下にある石碑が南北のお墓だったのだ。 これまたなんともいえずおもしろい。 自分のお葬式をプロデュースしたと言われる南北、この町の移り変わりをここにどっかり腰をすえて見守っているのだろう。 さらに春慶寺から出てふと見上げた空にどどんと立ちふさがるのは・・・2012年(平成24年)開業予定のスカイツリー! 申し訳ないがあまり関心がなかったのでここにあることに気づかなかったのだ。 そっか、これかあ・・・、ここかあ・・・。 それにしても押上駅からずっとこっちに向かって歩いてきたのに全然気づかなかったなあ。 視界に入ってたんだけど、一生懸命春慶寺を探し回っていたから意識しなかったんだろうなあ。 もしかしたら気合を入れたパンフレットもスカイツリー効果なのかもしれない。 開業する時はきっと盛り上がるだろうけど、今ののどかさ、静かで、だけど豊かな下町風情を失わないで欲しいと思った。 この後がんばって浅草、上野まで歩く。 風が冷たく寒いやら汗をかいて暑いやら、風邪をひきそうになったが、なんとかしのいだ。 春慶寺はまた来てみたい。 そうそう、すぐそばにあった「腕っこきの煎餅屋 みりん堂」ってお店も楽しそうなので次に来た時寄ってみたい。 ★東京都墨田区業平2丁目14-9 ?03-3621-1338 ★今日の写真。 「春慶寺玄関」。 「春慶寺から見上げるスカイツリー(建設中)」。
(2010年3月18日の日記) |
表御番医師・井上立泉邸 〜浜離宮恩賜庭園 |
表御番医師・井上立泉邸があったのは現在の東新橋2丁目あたり、となると行くべき所は浜離宮恩賜庭園。 池波氏には東京の懐かしい風景を絵と文章で綴った「東京の情景」という本があるが、その中で「浜離宮の舟入り」という絵が印象に残っている。 ちょうど虎の門に行く日でもあったことだし、ついでに浜離宮にも行ってみようと思い立った。 この「ついで」が徳川家の逆鱗に触れたのか、この日はこの梅雨一番の豪雨日。 濡れてもいいようにサンダルにするか、泥の中でも歩けるようにローヒールのパンプスにするか、さんざん悩んだ末にパンプスを選んだが、虎の門から浜離宮にたどり着くまでに靴の中まで水がたまってびしょびしょ、意外に遠い。 しかも浜離宮は目の前にあるのに、入り口を見つけることができず、周りをうろうろ。 これも徳川様の怒りか、それにしても一昔前に流行った「地図を読めない女」ってほんと私のことだよなあと思いながらもやっと到着。 観光バスが3台ほど停まっていたが、雨の中を歩くよりバスの中で休んでた方がいいと言いたげな乗客が中にズラリ、本を読んだり眠ったり。 せっかく来たのにねえ。 逆に「この雨の中物好きな」と言いたげな視線を浴びつつ中に入る。 最初こそバスの乗客の姿がちらほらあったが、途中からはもう貸切状態。 水たまりだらけというより水たまりばかりでよける場所がなく、おろしたてのパンプスもすでに泥だらけ。 もうやけくそで泥道をずぶずぶ歩いて行ったが、こんな時でなければ味わえない爽快感も感じた。 ぐっしょり濡れた濃い緑、でも1本1本緑が違う、湿った空気が重く、微妙な陰影やのしかかってくるような茂みや艶めく紫陽花や。 木はそれだけで美しい、緑もそれだけで美しい、自然はただそこにあるだけで美しい。 世界的に有名な観光地に行かなくても、木々の1本1本に目を留めれば、そこには自然の美しさが、色がある。 柄にもなく、そんなことを感じるほど重みのある風景だった。 途中お茶屋さんで一休み。 傘も役に立たず、ずぶ濡れだったが、お店の方がタオルを出してくれるやら、畳に座らなくていいようにイスとテーブルのセットを出してくれるやらとめんどうみてくれてありがとう。 お抹茶を飲みながらぼーっと外を見ている私を退屈してると思ったのか話し相手にまでなってくれた(笑)。 そこで「舟入り」について聞いてみると、地図にも「舟入り」という場所はないが、たぶん水門のことだろうとのこと。 他にも潮入の池の水位の調節を水門を使ってする話などしてくれた。 濡れた靴を履くのは気持ち悪かったけど、雨が小降りになるのを待って茶屋を出る。 いっそ傘を差さずに歩いた方が自然に溶け合う感じで気持ちがいいんじゃないかと思ったが、この後電車に乗って帰ることを考えればそれも無理。 今度は東京湾に沿って歩き始める。 東京湾といっても地図にあるからわかるものの、堤防のようにコンクリートで固めた「海岸」に緑に濁った水がどんより溜まり、生臭い匂いが強烈な風景はどこかの港の風景だ。 水上バス発着場から左折して今度は築地川を見ながら歩く。 浜離宮は本当に広くてゆっくり歩けば何時間もかかるが、今日はさすがに濡れた服や靴が気持ち悪く、3時間ほどで切り上げた。 水門のそばに立って、池波氏がここに立っている情景を思い浮かべようとするが、そういった想像力には全く乏しく、ただ雨が水面にぶつかって作り上げる模様は見ていて飽きることがなかった。 ★東京都中央区浜離宮庭園1−1 TEL:03-3541-0200 ★今日の写真。 「木の下で雨宿りしながら」。 「浜離宮恩賜庭園の水門」。
(2010年7月13日の日記) |
高杉銀平道場 〜再び法恩寺 |
長谷川平蔵が青春時代に剣の修行に励んだ高杉銀平道場は当然のことながら法恩寺の近く。 法恩寺は依然訪れたことがあるので、今回は法恩寺の塔頭である別の寺院に行ってみることにした。 なるほど、法恩寺の参道に沿ってお寺が並んでいるなあなどと歩き、なんとなく法恩寺まで来たところで、なんと法恩寺の御総代にお会いしてしまった。 ソフト帽を素敵にかぶったおしゃれな方で、笑顔がとても優しいけれど、ちょうど街を散策している池波氏ってこんな感じだったんじゃないかなあと思わせる。 たまたまお時間があるということで、法恩寺の境内やお墓のあれこれを案内していただいた。 長禄2年(1458年)に太田道灌により建立されたという法恩寺。 由来書を見ればわかることでも、実際にお寺にゆかりのある方に丁寧に説明されると緊張しつつもわかりやすく、とても有難い。 中でも鐘楼三重塔(経石塔)は今年大改修されたばかりとのこと。 和歌山の那智の白滝の河原の石を使用した犬走りや、塔のてっぺんと文字に貼る金箔が、わずかの風でも駄目なので富山県の高岡から職人を頼み、あの酷暑の中、囲いを作ってやってもらったら囲いの中が45度にも上がって大変だった話など、由来書には載っていない裏話をたくさん聞けたのがおもしろかった。 ちょうど10月24日に落慶法要があり、「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」を歌った木村弓さんの平和祈念コンサートも行われるとのことだったが、見に行きたかったなあ・・・。 また、本堂左手の妙元廟の上に立っている日蓮聖人像について、普通は遠くを見ているものだが、法恩寺の日蓮聖人像は日本で唯一下の方を見ている像であり、人々を見守っているのだと感じることができるなど、これまで知らなかった知識を得ることもできた。 法恩寺の総代であるということは、本当に誇らしいことだろうと思う。 その誇りに満ち満ちていながら、ふらりと法恩寺を訪れた散歩人をこんなに丁寧に案内してくださる。 嬉しいなあ、素敵な出会いだったなあととても感激してしまった。 鬼平に関して聞いてみると、休日などは観光バスで乗り付けて集団で訪れる人も多いとか。 本殿の後ろにそびえ立つ、前回来た時は影も形もなかったスカイツリーも、また誇らしく、愛情を持った目で見上げる御総代の横顔が今回一番印象的だった。 「鬼平犯科帳」の中で法恩寺の大屋根を見ながら高杉道場に通った長谷川平蔵や岸井左馬之助、現代ならさしずめ「法恩寺の大屋根やスカイツリーを見ながら高杉道場へ通った」と否応なしに書き換えられてしまうだろう。 それほど存在感のあるスカイツリー。 地元の方の誇らしさと、訪れる者の一抹の寂しさと、そんなもの全てがこれからの法恩寺を形作っていくのだろう。 スカイツリーが完成した頃、また来てみたいと思った。 ★東京都墨田区太平1丁目26−16 TEL:03-3622−8267 ★今日の写真。 「スカイツリーと法恩寺」。 「今年大改修が行われた鐘楼三重塔」。
(2010年11月8日の日記) |