「鬼平犯科帳」をたどる道(二)


人足寄場 〜佃島
長谷川平蔵が無宿者の授産場として幕府に建言し、幕府により佃島北どなりの石川島の中六千余坪の地へもうけられたのが「人足寄場」。
初めて「鬼平犯科帳」を読んだ頃、「むかしの女」に出て来たこの人足寄場のあり方に漠然とした憧れを抱いていた。
罪を犯した者を罰するだけではなく、更生させる、その考え方を私の場合、現在よりもこの本によって知ったようなものである。
それを実際に長谷川平蔵という人物が行ったというのだ。

いつか佃島へ、人足寄場へ行ってみたいとずっと思っていた。
今はもうないのだから寄場「跡」なのだが、私の中では人足寄場もずっとあった。
それほど印象が強烈だったのだろう。

さて佃島。
Wikipediaによると「1590年(天正18年)8月1日、徳川家康が関東下降の際、摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、1645年(正保2年)に元々あった名前のない砂州に百間四方の土砂を埋め立てて拡張し、築島し永住することとなり、この島を故郷にちなんで佃嶋と命名した。」とのこと。
古地図を見ても「船松町(今の聖路加ガーデンあたり)から「渡し場(渡シバ)」があって、ちんまりした四角い島があって、北が石川嶋、南が佃嶋となっている。

月島駅で降りて歩き始めたが、道路に沿って流れる川の深くまで小船が係留されている風景が楽しい。
川の中に立札があったので覗き込んでみると、「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が埋設されておりますので、立ち入ったり掘り起こしたりしないでください 佃住吉講」と書いてある。

何のことだろう、と首をかしげながら写真を撮っていたら、通りかかったおじいさんがご親切にも解説してくださった。
後で図書館でも調べてみたが佃住吉講とは住吉神社のお祭りで、揃衣の若衆が獅子頭の鼻先めがけ殺到する獅子頭宮出しや隅田川を渡御する船渡御祭、江戸三大囃子のひとつである佃ばやしにのって、高さ20メートルにも及ぶ六基の大幟のもと八角神輿が繰り出すなど、勇壮なものなのだそうだ。

で、その時使う大幟の柱や抱木(だき)は、空気に触れて木が腐ってしまわないように、川底に埋めて保存されているのだそうだ。
ちなみに「大幟」とは「のぼり」のことで、相撲の巡業のニュースなどでよく見る力士の名前が書かれた物のような縦長の旗(と言っていいのか?)、「抱木」はこの幟を支える柱(と言っていいのか?)のような物らしい。
これは一度お祭りを見に来て実物を確認したい。

池波小説をたどると、隅田川に沿って歩くことが多い。
実は私、この隅田川沿い歩きが大好きで(笑)、住吉神社、リバーシティ21のあたりを何度も何度も行ったり来たりした。
ベンチに座ると動きたくなくなるようないい天気だったこともあり、時にはぼーっと川面にきらめく日差しや波を眺めたり、ともう帰りたくなるくらい長居した。
だいたい私は落ち着きのない方で、家にいるとひとつのことに集中することがなかなかできない。
パソコンするならテレビをつけて、音楽聴くなら本読みながら書き物しながら、というようにとにかく落ち着きがないので、こうしてぼんやりする機会はほんと貴重、思う存分楽しんだ。

佃大橋の向こうには建設中のスカイツリーが見える。
スカイツリー、最初はあまり関心がなかったが、このようにどこに行ってもスカイツリーが見えてくると、なんだか可愛く思えてくる。
秋葉原駅近くの総武線の窓からスカイツリー、池袋の六ツ又陸橋交差点近くの堀之内橋からもスカイツリー、都電荒川線の王子駅のホームからもスカイツリー。
いつかスカイツリーを超えるシンボルが作られる時に、スカイツリーも今の東京タワーのような風格を身につけているだろうか。

さて、1790年に長谷川平蔵により作られた人足寄場は明治以降石川造船所の敷地となり、1970年に工場は閉鎖となり、「リバーシティ21」になった。
つまり、「リバーシティ21」に行けば、石川島人足寄場に行ったことになるわけで、地図を見ながらうろうろした私の2時間は一体何だったんだと苦笑したり(笑)。
途中で石川島灯台のモニュメントを見つけたが、下が公衆トイレだったのには笑ってしまった。
いえちゃんと別の建物になっているのだが、いかにも灯台型トイレに見えてしまうのである、これはちょっとおかしい。

この後住吉神社に寄ったが、時期が時期だけに(1月末)合格祈願の受験生で溢れていて、その賑やかさに圧倒され、のんびり散策したり写真を撮ったりするどころの騒ぎではなく、遠くから(5メートルくらい離れた所から、笑)参拝だけして出て来てしまった。
後で出久根達郎著「佃島ふたり書房」を読んで、住吉神社こそ佃島の要、もっとちゃんと見ておくべきだったと反省、いつかもう一度行ってみたい。
せっかく見つけた「石川島資料館」も水曜日と土曜日のみの開館ということで入れなかったし。

最後に月島図書館に寄ったが、ここでおもしろい資料を見つけた。
人足寄場は長谷川平蔵が建言したことによりなったと言われているが、「人足寄場史」によると、人足寄場を考え付いたのは松平越中守定信で、これを任せるには誰がいいかと人に尋ねたところ、「長谷川平蔵がいいでしょう」と答えられ、さらに平蔵も「やってみましょう」と答えたとある。

「定信の無宿収容施設開設提案に対して、長谷川平蔵はまずそれを引受ける意思のあることを、恐らくは口頭で開陳した。
数日後平蔵は開設されるべき『無宿養育所』の実施要項につき詳細な意見書、いわば第一上申書を提出する。

             〜(中略)〜

第二上申書に接した定信は、平蔵に対して無宿養育所開設の任を与える決意を固めた。
翌寛政二(1790年)年正月晦日、平蔵は定信より登城を命ぜられ、先日平蔵より上申した養育所の設立を下命するという内意を受け、2月19日正式の公命を受けた。」

ここを読んだ時、なぜか後姿の京極備前守と相対する中村吉右衛門さんのテレビドラマのシーンが頭に浮かんだ。
「やってくれるか」問う京極備前守。
「おもしろい、やりましょう。」ぽんと膝を叩く吉右衛門版鬼平、そんな場面あったっけ?
他に「佃島の今昔」なども読んでみたが、平蔵から当時の罪人の扱いについて人足寄場設立の礎となるような建言があったのは確かなようである。

図書館に居座り過ぎて、帰りのもんじゃを食べて佃煮屋さんに寄る予定はキャンセル、大急ぎで帰ったが、近いうちにもう一度来てみたい。
★今日の写真。
佃島の風景
(2011年4月5日の日記)
船宿・鶴や 〜深川不動尊
「暗剣白梅香」は「鬼平犯科帳」の中でも特に好きな話。
最後に利右衛門が金子半四郎を奇襲して、さすがの長谷川平蔵も驚く展開となるあたりは、何度も何度も読み返す。
そして利右衛門が江戸を離れた後、宿を受け継ぐのが小房の粂八。
平蔵は、いずれ利右衛門が戻って来たら船宿を返すつもりだったらしいが、結局利右衛門が江戸に戻ることはなく、最後まで小房の粂八が宿の亭主となっていた。

その鶴やがあったのは、深川・石島町(現在の江東区扇橋1丁目)なのだが、この時道を間違えて、だいぶ離れた門前仲町の方へ行ってしまった。
門前仲町と言えば深川不動尊である、富岡八幡宮である。
「そっか・・・鶴やはこの辺にあったんだ・・・。」などときょろきょろしながら歩き回ったのだから勘違いも甚だしい。
まあせっかく行ったのだから、今回は深川不動尊を紹介したい。

地元の人に叱られそうだが、私の中では深川不動尊と富岡八幡宮のイメージが反対で、八幡宮の方が不動尊に、不動尊が八幡宮に思える。
語感と建物のイメージで、そっちが合うような気がするのはなぜだろう。
それはともかく久々に深川不動尊に向かって度肝を抜かれた、「何?これ・・・」
本堂のそばに新しくできた建物(新本堂だった)が梵字(不動明王御真言)がちりばめられているといえば聞こえはいいが、四角い近未来的な建物でまるで博物館。

中も広々としていて、やはり博物館のイメージは拭えなかったが、見るべきものはたくさんあり、楽しかった。
4階!宝蔵大日堂(エレベーターで昇るのだ)の見事な天井画「大日如来蓮池図」、一部屋で四国霊場巡りが制覇できます「四国八十八ヶ所巡拝所」、踏んで願うべし「阿字橋」、なんだか可愛い(可愛いと言っては失礼か?)「十二支守り本尊」等々、参拝して回るというよりは、やっぱり博物館巡りをしているような・・・。
しかもトイレのおしゃれで綺麗な事!なんて全然関係ないところで感動してしまった。
なんだかあまりに立派過ぎて、深川にいる気がしない・・・。

四国巡拝所始め、お賽銭箱もあまりに多くて、これ全部にお賽銭入れなきゃご利益ないの?なんておどおどしてしま うくらいだったが、本堂の大きな金色のカエルがあ〜んと大口開けてる「お賽銭ガエル」にだけたっぷり?お賽銭を入 れてしっかりお祈りしてきた。
今はもう、個人や家族の幸福を願うばかりの時期じゃない。
自分に何ができるのか、何をするべきか、何かできないか、日常生活を送る上でも常に意識せざるを得ない事態だか ら、少しでもできることしたい、私の祈りが届いて欲しい。

帰りは有名な「伊勢屋」でお昼を食べた、 深川丼。
浅利が身が厚くてもちもちしていてとってもおいしい。
でもどうも深川丼と言うには上品過ぎて、鶏肉の代わりに浅利を使った親子丼みたい。
池波氏や宮部さん言うところの「ざっかけない」深川めし、深川丼も食べたいな。

★東京都江東区富岡1−17−13
(2011年8月4日の日記)
厩橋地蔵尊 〜居酒屋・豆岩
先日所用で田原町に寄った帰り、ふと「豆岩ってこのあたりだったよな。」と思いついた。
「浅草・御厩河岸」の舞台はそのタイトル通り、場所が厩橋界隈と非常にわかりやすく設定されている。
田原町駅に入ろうとした足をのばして、そのまま厩橋へと向かう。
そんなに遠くないと思っていたが、歩き始めたら結構な距離で、少しずつ暗くなりつつある風景の中、急ぎ足で厩橋に向かった。

今厩橋があるところは、以前は舟渡しで、俗に「御厩の渡し」と呼ばれていたと書いてある。
その駒形2丁目側の交番の向かいに厩橋付近の地図と、かつてここが「厩の渡し」であったことを示す立札がある。
その地図に表示されている「浅草御蔵跡碑」というのが前から気になっていたのだ。
この付近にはかつて幕府御米蔵があり、その北端に渡し場があり、そこに面した一角に豆岩があった(とされる)。

この「浅草御蔵跡碑」を見てみたいとずっと思っていたのだが、地図の見方が悪かったのか、なかなか見つけることができなかったのだ。
厩橋を越えて蔵前橋のすぐそばにやっと石碑を見つけ、まずは満足。
なんということはない物なのだが、なんとなく豆岩を覗いた気分になる。
ここで独身男性なら浅草でそれっぽい居酒屋さんを見つけてまずは一杯となるところだろうが、私は夕飯を作らなければならないので、なぜか碑に手を合わせて(笑)、そのまま帰ることにした。

せっかくなので浅草まで歩いて浅草から帰ろうと、川沿いに歩いて行って、小さなお地蔵様を発見した。
それが厩橋地蔵尊。
真っ赤な幟に埋め尽くされて、たくさんの菊の花に埋もれて見えないほど小さなお地蔵様。
しゃがんで覗き込まないと見えないほど小さくて、とにかく可愛い。

なのになんかぼこぼこしていてどうしてだろうと思って帰ってから調べてみたら、なんと高速道路の工事の際に掘り出されたものだそう!
こちら」に書かれてある地蔵尊誕生までの由来があまりにほのぼのしていて、なんとなく「浅草・御厩河岸」にぴったりのお地蔵さまだなあと嬉しくなった。

ところでこの「浅草・御厩河岸」に登場する岩五郎、「鬼平犯科帳」1巻の中でも忘れ得ぬ印象を残す人物である。
岸井左馬之助に「いまの暮しの基盤になっていることに、そむいちゃあいけない」と言われた岩五郎。
本当ならば、すぐに佐嶋に報告しなければいけないところ、深入りしそうになって半分そむいた。
けれど最後に佐嶋に報告して筋を通した。

最初から佐嶋に報告してたら、岩五郎はそのまま居酒屋を続けていることができただろうか。
姿を消した岩五郎一家はその後平穏な日常生活を送れただろうか。
半分そむいたから逃げざるを得なかったけど、最後に筋を通したから、これまで通り生き抜けると信じたい。
(2011年10月23日の日記)
御用聞き・文治郎宅 〜大安楽寺
長谷川平蔵に心酔し、時々平蔵のために働いてくれる「鉄砲町の親分」と呼ばれる文治郎は現在の日本橋に住んでいるとされている。
日本橋はあまり行く場所ではないが、これを機にぜひ行ってみたかったのが小伝馬町の牢屋敷跡。
宮部みゆき著「平成お徒歩日記」を読むまでもなく、小伝馬町の牢屋敷を出された囚人が小塚原か鈴ヶ森へと連れて行かれ、となる道筋は時代小説ファンならお馴染みの場面だろう。
このうち小塚原は行ったことがあるが、鈴ヶ森と小伝馬町はまだない。
そこで今回は小伝馬町に行ってみることにした。

小塚原が雰囲気的に怖かったこともあり、朝からちょっとドキドキしていたのだが、下調べしてみると現在この地は大安楽寺というお寺になっているとのこと。
かつた牢屋敷があった場所だけに、気味悪がってだれも住む人がおらず、後に 明治財界の大物、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進してお寺を立てたのだという。
名字から「大」と「安」をそれぞれ一字ずつ取って大安楽寺。

だからと言って当時のおどろおどろしい雰囲気が残っているとも思わなかったが、実際に行ってみて、これほどあっさりさっぱりしたお寺だとは思わなかった。
まず道路に面していて、境内が狭いので、お寺と道路の距離が2,3メートルほどしかない。
だからお寺の雰囲気を味わう空間がないに等しいのである。

確かに「江戸伝馬町処刑場跡」と血文字のような赤い字で書かれた石碑や「延命地蔵」と呼ばれる地蔵尊など当時を偲ばせる物はあるのだが、たとえば小塚原の不気味さや鬱蒼とした木々の中に埋もれるように(たとえば雑司ケ谷の鬼子母神)ひっそりと建っているとか、そんな雰囲気を期待していくと拍子抜けしてしまう。
休日のことであり、前の十思公園では子供たちが走り回っている。
さらに「江戸三十三札所」のポスターが貼ってあるなど、なんとものどかな場所だ。

写真を撮っていると、初老の男性が参拝に来た。
邪魔にならないように公園をぶらぶらしていて、男性が出ていくのを見て戻ってくると、賽銭箱の上に折りたたまれた和紙の手紙のような物が置いてある。
もしかして忘れ物?男性に渡そうと近づいてちらっと見てしまったのだが、それは男性がお寺に奉納した震災からの復興祈願を記した手紙だった。
和紙に筆で記された長い長い手紙。

見てしまった申し訳なさと、遠くから見ていて感じた祈りをささげる男性の真摯な後ろ姿に気持ちの引き締まる思いがする。
その手紙はちょうど掃除に出てきた女性が持ち帰ったので一安心。

お寺のある場所だけが刑場跡ではなく、小伝馬町交差点や十思公園に渡り、かなり広いのだがゆっくり見回る時間はなく、そのまま帰宅。
残る一つは鈴ヶ森。
そこに行く時は、「平成お徒歩日記」の宮部さんを見習って、小伝馬町から出発してみたい。

★今日の写真。
大安楽寺」。

★東京都中央区日本橋小伝馬町3−5
(2012年2月13日の日記)
軍鶏なべ屋・五鉄 〜要津寺
「鬼平犯科帳」にはいろいろな食べ物屋が登場するが、一番なじみがあるのは、やはり 軍鶏なべ屋の「五鉄」だと思う。
ドラマで密偵たちや平蔵がくつろいだ表情で鍋をつついていると、見ているこちらまで嬉しくなってくる。
五鉄は架空の店だが、場所は「二ツ目橋の角地で南側は竪川」とわかりやすく設定されている。
さっそく行ってみた。

両国で降り、駅前のインフォーメーションマップを見ていると、突然「日本橋に行きたいのですが、どう行ったらいいでしょうか。」と隣りにいた人に聞かれた。
地図を見ている人に道を聞くとは酔狂な、と一瞬思ったが、例えば「両国の〇〇に行きたいのですが。」と聞かれたら「ごめんなさい、わかりません。」としか答えようがない。
でも大きく両国から日本橋に行く方法なら答えることができるのである、自分でも驚いた。
方向音痴の私だが、時代小説の舞台をたどって東京の街をうろうろしているうちに、感覚的な部分で土地関係を覚え始めているみたいだ、これは嬉しい。

張り切って二ツ目橋(現在の二之橋)に向かった。
そしたら二之橋のたもとに、軍鶏なべ屋「五鉄」と書かれた高札があった。
これは歴史的名所や時代小説に登場する場所などを教えてくれるもので、両国の場合は高札の形をしており、50種類あるという。
一里塚みたいに桜が2本ばかり花を咲かせ始めた植込みがある。
その後には風情のあるお茶屋さん。
このお店を五鉄になぞらえるのは容易だ。

写真を撮っていたら、植込みを仕切った煉瓦に座っていた男性が、「そっちにもあるよ。」と橋のたもとにある高札を指さして教えてくれた。
なるほど今度は「二之橋」だ。
以前この橋の名前の由来を本因坊が住んでいたから三つ目通りができたみたいな通説をおもしろがって、資料を必死で探したことがある。
でもこうして見ると、やはり隅田川に近い方から一つ目、二つ目とつけていったという、いたってまともな説に落ち着くようだ。
私としてはちょっと残念だが(笑)。

ところで五鉄のモデルは緑1丁目の「かど屋」という鳥料理の店だと何かで読んだことがある。
池波氏のエッセイもかなり読んでいるつもりだが、かど屋の名前は見た記憶がない。
どの本に掲載されていたのだろうか。

さて、五鉄の場所を確認したところで、今度は要津寺に向かう。
五鉄の近くのお寺や神社を地図で探したら、「慶安年間に下総関宿藩の初代牧野成貞が、父成儀を開基として僧東鉄が本郷に創建(と書いてあるがわかりにくい)」した要津寺を見つけたのだ。
天気も良く、桜も満開にはまだ早いが、なかなかいい気分で辿り着いた要津寺。

ところが、ところがである。
寺務所も墓地も母屋もどこもかしこも鍵がかかっていて取りつく島がない感じ。
寺務所はともかくお墓にまで、こんなことは初めてである。
お墓詣りに来た人はどうするのだろう。
その日たまたまだったのかもしれないが、なんとなく寂しい気がしてそそくさと帰って来てしまった。
後になって松尾芭蕉の有名な句「古池や 蛙飛び込む 水の音」の碑を見てくるつもりだったのを思い出した。

★今日の写真。
五鉄の高札」。

★東京都墨田区両国4-1-12(五鉄のある高札のそばのお茶屋さん、中田屋茶輔の住所です。)
(2012年4月26日の日記)
盗賊・海老坂の与兵衛の隠れ家 〜目黒不動尊
浅草から約一里半。
目黒不動堂の北面、下目黒村の百姓地の一角で、こんもりとした雑木林の中にある物持ちの隠居所のような家へ、 彦蔵は岩五郎を案内したのである。

          ☆           ☆           ☆          

長谷川平蔵がよく訪れ、小説内でも出番の多い目黒不動尊、私も大好きな場所だ。
賑やかな駅前を離れ、目黒不動尊に続く道を歩いて行くと、だんだん緑濃く、見える風景も鄙びて来る。
そして辿り着いた風景は、山あり滝ありであきれるほど広い。
いえ私の田舎ならば、もっともっと広い緑の空間がいくらでもあるのだが、日頃こじんまりした神社やお寺を見慣れて いるせいか、せせこましさが日常の目には、目黒不動尊自体がひとつの村に見える。

そして思わず「ただいま」って言葉が口を突いて出そうな懐かしさがある。
都心の寺社とは違って、くつろいでいるのはほとんどがお年寄りでその数もあきれるほど多い。
急な石段をえっちらおっちら杖をついて登るおばあさん。
途中で座り込んで汗を拭きながらお先にどうぞと譲ってくれた。

天気が良ければ毎日お参りに来るのだという。
「お不動さん」と口にできるその自慢と親しみと、私などが簡単に同じ言葉を言ってみても同様の雰囲気は出せまい、 おそらくもっと遠慮がちになるだろう。
ここにもまた、江戸の風景が残っていた。

目黒不動、東京五大不動のひとつだという。
そのうち1つは薬研堀かな?と思っていたら目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動だそうだ。
目黒と目白しか知らなかったのでこれは驚いた、いつか制覇したい。

目黒不動は808年(大同3年)円仁(慈覚大師)が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したとい う。
「慈覚大師」の名前はぼんやりと知っていたが、何故知っているのかは思い出せない。
遣唐使か不動尊がらみで調べた時に、名前だけ出て来た程度なのだろう、情けない・・・。

でもこの目黒不動は不遜な言い方を許してもらえば、緑と宗教のテーマパーク。
登ったり下りたり、あちこちの建物を見ながら歩き回っていると、半日くらいはあっさりかかる。
宗教の、と言っても宗教感がのしかかって来るのではなく、ここが霊場であることがすんなり納得できる空気の清々し さがあるのだ、たとえどんな猛暑日でも。
残念ながら、うちから来やすい場所ではないので、これまで数回しか訪れたことがない。
近くにドラマ鬼平に出て来るような昔ながらの安い旅館があれば、数日滞在してお不動さんに通ってみたい、そんな ことを思わせる場所である。

この近くに隠れ家を構えたということだけでも海老坂の与兵衛、魅力的な人物と思えたが、実際に岩五郎が「半分」佐 嶋与力を裏切ってしまうほどの人柄だった。
まだ1巻、「鬼平犯科帳」の深さを知らなかったから、ここはハッピーエンドで大団円を想像していたのが見事裏切ら れた記憶がある。
どう思ったのかな?
岩五郎は佐嶋に与兵衛のことを告げ、平蔵が与兵衛に会って互いの人柄に触れて仲直り、そんな結末を予想してた のかも。

当然のことながら「鬼平犯科帳」あそんな薄っぺらな小説ではなかった。
人の心の温かさを描くにしても、その背景は時に残酷で時に悲惨。
先の見えない岩五郎の逃亡の果てにあるものは読者の想像に委ねられた。

不動尊付近には、おもしろい蛸薬師さんがあり、老夫婦が仲良くコロッケをあげているお肉屋さんがあり、「暑くなりま したので秋までしばらくお休みします」と貼り紙してあるおやき屋さんもある。
(もうすぐおやき売り始めるかな?)
なんかお休みするにしても味のある貼り紙がいい。
ただなんとなくもう開かないんじゃないかな?と思わせる不安感もある。
なんだかんだで気になるお店。

帰りにちょっとトイレを借りたくなって、ちょうど目についた昆虫博物館に入った。
ここでえっ?と思った人は目黒通。
そう、昆虫博物館ではなく寄生虫博物館!入場無料!
いきなりホルマリン漬けの回虫がぁ!でもトイレは借りたい!(ただだし)。

ほとんど薄目を開けての館内移動のけしからん客だったが、展示品はともかく、綺麗に整備された館内や、バリアフリ ーも強化されたその姿勢は(寄生虫が平気な方は)一度訪れる価値のある博物館と思えた。
入館無料だが、運営のための寄付はお願いしているので、トイレも借りたし奮発して入れて来た。
確かに興味深い博物館ではあった。
場所によっては私でも普通に見れる展示品もあったし。
ある意味おすすめである。

★大好きな「目黒不動尊」。
ブログ」に他の写真 も紹介しています。
★ 東京都目黒区下目黒3丁目20−26
(2012年8月19日の日記)
船宿・加賀や〜小網神社
池波氏がお気に入りのひとつに選んでいる「大川の隠居」。
友五郎と平蔵の舟の上でののんびりした会話と、その後のどんでん返しは何度読んでも爽快感溢れるおもしろさを堪能できる。

友五郎がいる船宿加賀やは日本橋北・思案橋たもとにあったとされる。
現在の日本橋小網町である。
思案橋は川が埋め立てられたため残っていないが、小網町1丁目と2丁目を結ぶ橋で、長さ9間2尺、近くに遊廓もあり劇場もあるということで、橋の途中で、どちらへ行くかを思案したため、橋名がついたといわれている。
その思案橋のあった小網町にあるのが小網神社。

小説には架空の場所が多く、設定された場所におあつらえ向きにお寺や神社があるとは限らないのだけれど、ここはばっちり小網町の小網神社。
今はきちんと整備されているけれど、確かに川沿いを歩いていると船宿があった時代を容易に想像できる。
今回初めて知ったのだけれど、この川は隅田川ではなく、日本橋川と言うらしい。
千代田区の神田駅のそば、山手線の下を通って日本橋、江戸橋の下を流れ、中央区の隅田川大橋のあたりで隅田川に合流する。

なんとなく全て隅田川で片づけていた自分が恥ずかしい・・・。
本を読んでいても間違えて覚えていることってけっこうあるようだ、思い込み。

さて、人形町で降りて商店街を冷やかしながら川に向かって歩いて行くと、素朴で可愛い(失礼!)小網神社が姿を現す。
特別な出来事も出会いもなく、おもしろい話を聞けたこともないのだが、なぜか小網神社がとても好きで、人形町に行けば必ず寄る。
落ち着いた色合いの神社に木にぶら下げられている繭玉のおみくじ、飾られているすすきみみずく。
欲しかったがススキの時期(秋)にならないと作られないらしい、残念。

日本橋七福神や東京下町八社福参りなど楽しいイベントもたくさんあるようなので、一度参加してみたい。
もう少し年取って時間がたっぷりできてから、かな?

★「ブログ」でも写真を紹介しています。。
★〒103-0013 東京都 中央区 日本橋小網町16−23
(2013年5月16日の日記)
六間堀
八丁堀に薬研堀。
言葉としては知っていたが、それが「堀」を指すことを知ったのは「鬼平犯科帳」を読んでからだった。
五間堀に六間堀。
これも言葉としては知っていたが、「間」が「幅」を指していることを知ったのも「鬼平犯科帳」を読んだ時だった。

それまでは全ての地名が単なる「言葉」で、ただ知るだけ、覚えるだけ。
何を意味してその言葉になったか、なんて考えたこともなかったから。
この「意味を考える」ことを勉強に生かせば、さぞ成績も上がったろうが、残念ながら勉強そのものに興味がなかったので、成績はあまり良くなかった(笑)。
興味を持てばとことんやるが、興味がなければ絶対やらないの典型的なタイプで、勉強は後者に入ってたし・・・情けない。

それはともかく六間堀。
盗賊市兵衛が泣かせる「討ち入り市兵衛」や、ちょっと笑える「盗賊婚礼」など出番の多い六間堀だが、一間は約1.8メートル。
現在の森下駅を中心に、五間堀と六間堀が綺麗なYの字を作っていた。
これらの堀はもう埋められてしまっているが、実は細い小路になって面影が残っている。

俯瞰の写真や地図で見ると、おもしろいほどくっきり見えるのだが、地図を縮小したら見づらくなってしまったため、なぞってみた。
ちなみにYの左に伸びるのが六間堀で、右に伸びてるのが五間堀だそうだ。
駅のマークは森下駅で、そのそばにある小さな丸が六間堀公園。


公園に立っただけでも、両側にずっと伸びてる六間堀跡がとてもよくわかる。
埋め立てた上に家をどんどん作っていったが、通路がないと困るので、間を少し残した結果、このような形になったものか。

普段は地図を見てわかったもりになっても、実際にその地に行くと何が何だかわからない、が普通なのだが、今回は ものの見事に地図と自分の立ち位置が一致してかつてない気持ち良さを味わうことができた(笑)。

森下駅で降りただけでもすぐわかるので、何かの用事で森下に行ったら是非お試しあれ。
この日は梅雨の真っただ中で、雨に濡れた紫陽花がとても綺麗だった。

★「ブログ」でも写真を紹介しています。
(2013年8月2日の日記)
万年橋
都営新宿線森下駅で降りて、隅田川沿いに歩くと、そのまま火付盗賊改方の見廻りコースとなる。
そのコースには六間堀、芭蕉記念館、深川不動尊、富岡八幡宮、そして万年橋がある。
がんばって門前仲町の駅まで歩いたことはないが、先日、六間堀から万年橋に寄ってみた。

区内で最も古くに架けられた橋であるとの説明書きが書かれたプレートがあるが、目の前に広がる風景は例によって味気ないコンクリートと車の往来。
他の橋と区別がつくのは「萬年橋」と書かれた名前だけ。
しかも六間堀で降っていた雨が止んだとはいえ、空はどんより曇り、蒸し暑くてかえって鬱陶しい。
ここをほこりよけの手ぬぐいを髪へかけたおまさが早足で渡る風景を想像するのは難しい。

けれどベンツに乗った梶芽衣子さんが颯爽と運転している光景は容易に想像できる。
ベンツ持ってるかなんて知らないし、梶さんが運転できるかも知らないけど(笑)。
でも隅田川だけはこの喧騒も、我関せずといった風情で淡々と流れ続ける。

さて、深川界隈は六間堀、芭蕉記念館、深川不動尊、富岡八幡宮、そして万年橋と紹介してきたが、これまでは点、ポイントだったのが、 今回やっと線につながった。
市中見廻り深川コースの完成である。
一度森下駅から門前仲町まで全部見ながら一気に歩きたいが、これがなかなかできない(笑)。

歩いているうちに気がつけば2時間3時間はよくあるが、最初から長距離コースを目標に定めちゃうと、大体途中で挫折する、情けない。
こんな私だと、江戸時代を生き抜けないな・・・。

★「ブログ」でも写真を紹介しています。
(2013年9月10日の日記)
料理屋・万七〜京橋
今回は銀座界隈でいくつか回りたいなあと思ったのはまだ暑い9月のこと。
なぜ銀座界隈かと言うと、ちょうど松屋銀座で「ベニシアと仲間たち展」の無料チケットを持っていたから。
なぜ無料チケット持っていたかというと、その前に行った、同じく松屋銀座の「池波正太郎展」でくれたから。
「ベニシア」が何かもわからず、「ベゴニア」から連想して、お花の展示だろうと思うなどものすごく失礼な私だった。

実際はイギリスの貴族社会に生まれながら、家を飛び出してインドを放浪、やがて来日して京都大原の築100年の古民家に 暮らすようになった女性。
ハーブやガーデニングの知識と、日本ならではの季節感を融合した素晴らしい庭を作っていて、それが今回展示されていたのだ。
何にびっくりしたと言って、デパートの中にその家(一部分)と庭を再現する、再現できることに驚いた。

出版物も多く、映画やテレビにも出演している有名な方だった。
確かに貴族社会を捨てて、これほどまでに日本を愛してくれるその生き様を想像するだけで胸がときめいてくる。
ハーブで作った石鹸やジャムやリキュールなどの食べ物や雑貨、クリスマス用にあつらえたテーブル、様々な小物を手作りするためのミシンなどを 見ていると、どこか懐かしいような甘酸っぱいような不思議な気持ちになってくる。
でも一番嬉しかったのが、子供の頃愛読した本として飾られていた「赤毛のアン」「名探偵ホームズ」「ロビンソン漂流記」を見つけたことだった。

さて最初にベニシア展を見てから、銀座を歩き回ったのだが、そのまま足を延ばして京橋日本橋界隈もかなり見ることができた。
銀座京橋日本橋は狭い地域に史跡が多く、のぞいて楽しいお店も多いので歩くのが楽しい。
(でも買い物することはまずない、値段的に・・・。)

今回紹介するのは京橋。
今は記念碑が残っているだけだが、この橋にちなんで地名がつけられたほど愛された橋だったという。
この辺にり葱と生姜をあしらった「兎汁」を名物にした料理屋・万七がある。

このお店は京橋南の北紺屋町にあるとされ、「鬼平犯科帳」と「藤枝梅安」と両方に出て来る珍しい店。
ただ私が参考にしている人文社の資料だと、鬼平版は現在の京橋3丁目だが、梅安版は八重洲2丁目になっている。
地図では同じ場所になっているし、京橋3丁目と八重洲2丁目は隣り合った場所だし、その辺にあったということでいいのだろうか(笑)。

板橋があったから板橋、日本橋があったから日本橋。
橋にちなんだ地名は多いが、京橋はやはり残っていないのが残念。
ちなみに私が今回行った京橋記念碑は、1922年(大正11年)に架け替えられた京橋の親柱で、もう1ヶ所1875年(明治8年)に架け替えられた 京橋の親柱が残っているようである。
今度見に行きたい。

ちなみに鬼平版の万七は長谷川平蔵お気に入りの店で、「用心棒」や「霜夜」などいくつかの話に登場する。

★東京都中央区京橋3−5

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(2013年12月12日の日記)
高田馬場
「西早稲田」と書けば学生の街、若者の町というイメージが強いが、同じ地域を「高田馬場」と書けば、時代物好きには 見ごたえのあるスポットがたくさんある場所になる。
穴八幡宮に水稲荷神社、甘泉園公園、そしてそのものずばりの高田馬場。
堀部安兵衛の決闘でも名高い高田馬場だが、私はずっとJR高田馬場駅=高田馬場だと思っていた。

でも何年か前に池袋西武から出た時、目の前が明治通り、右手に進めば新宿という地点に立った。
明治通りってどこに行っても見かけるなあと思って、そうだ、新宿まで歩いてみよう!となぜか思い立った。
池袋の繁華街から緩やかなカーブに沿って坂を下り、少しずつ下町情緒あふれる雰囲気に変わっていくとそこは雑司ケ谷。
さらに歩いて見つけたのが「高田馬場跡」の看板。

ぶらぶらしていて十字路で信号待ちしていたら、向こう側に見えたのだが、駅とはだいぶ?離れている。
後に穴八幡宮で少し話を伺ったが、流鏑馬像のある穴八幡宮より、むしろ水稲荷神社の方が近しいらしい。

Wikipediaによると。1936年(寛永13年)、徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営されたという。
この時は雑司ケ谷の鬼子母神に寄ったり、高田馬場近辺でご飯を食べたりしたが、まっすぐ歩けば池袋から新宿まで40分くらいだろうか。
思ったより近かった。

今回は「鬼平犯科帳」10巻「追跡」で、長谷川平蔵が下氏九兵衛と出会うところを読んで目的を高田馬場に決めたが、他にも前記の名所を 見たかったので、都電を使って甘泉園公園から回った。
後で雑司ケ谷鬼子母神にも寄ったが、このコースものどかでなかなか良かった。

★東京都東京都新宿区西早稲田3丁目

(2014年3月24日の日記)
王子稲荷神社〜料理屋・乳熊屋
東京都北区の王子界隈は大好きな場所だ。
私は北区中央図書館が好きで、時々行くのだが、最寄りの駅がどこも遠く、歩いて行くのは大変だ。
去年都電沿線スタンプラリーが開催され、開催中にたまたま図書館に行ったら、スタンプラリーに参加中のお年寄りのグループが、「駅からこんなに遠いんじゃ沿線詐欺だよね。」と 文句を言っていたのに吹き出しそうになった。

確かに都電の王子駅から歩けば10分?15分?はかかるだろう。
幸いそばにいた別のグループの人が、「王子駅から100円バスが出てますよ。」と教えてくれてたけど。

でも私は王子駅から歩くのが好きだ。
北口を出て音無親水公園を抜け、ついでに王子神社に参拝してもいい。
同じ道を帰れば扇屋さんでおいしい玉子焼きをお土産に買うこともできる。

あるいは中央口から飛鳥山公園に上り、エスカルゴならぬアスカルゴ(かたつむりみたいな可愛いエレベーター?)を見ながら散策するのもいい。
ここは春のお花見、5月の浅見光彦ミステリーウォーク、10月の萬斎さんも出演する飛鳥山薪能などでよく来る場所だ。
そして100円バスのルートにそって権現坂を上れば右手に王子稲荷への道が見える。
そばには葛餅で有名な石鍋久寿餅店もあり、その日の気分でどのコースで図書館に行くかを決める。

さて、「鬼平犯科帳」記念すべき第1巻「唖の十蔵」に出て来る料理屋・乳熊屋は、王子稲荷の裏参道にある。
王子稲荷は正門から石段を上った高台にあるが、平日は境内に幼稚園があるため、閉鎖されている。
それで向かって左側の「王子稲荷の坂」を上って行くのだが、この坂が裏参道なのだろうか?

王子稲荷は落語「王子の狐」や大晦日のイベント「狐の行列」でも有名で、訪れる人も多いそうだ。
王子神社と共に、北区では一番好きな神社なので、何度も来ている。

本殿からさらにたくさんの赤い小さな鳥居を抜け、小さな階段を上ると狐の穴(跡)があり、絶対無理だろと思うくらい小さくて狭い穴がある、可愛い。
ここはかなり急なので、雨の日などはぬかるんで滑り、かなり危ない。
拝殿は、参拝者がいなければ、中に入って「谷文晁筆の板絵著色の龍図」などの天井画をまじかに見ることができる。
初めてここに来た時、江戸時代の王子の風景を描いた浮世絵の絵葉書きを売っているのに感動した。
博物館より充実していて、来るたびに買って揃えていくのが楽しかった。

ところで先日帰りに石鍋久寿餅店に寄ったら、王子界隈の見どころを教えてくれる、お店の前に飾ってあるイラストマップが変わっていた。
「陰陽屋へようこそ」という本がドラマ化され、王子稲荷を訪れる人が一気に増えたらしい。
それでドラマに出て来る場所をイラストでマップにした物も作ったのだそうだ。
私も欲しかったが、残念売り切れだった。
★東京都北区岸町1丁目12−26

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(2014年4月8日の日記)
菓子舗・まつむら〜芝大神宮
芝・神明前の菓子舗「まつむら」で売り出している「うさぎ饅頭」そっくりなことから「兎忠さん」と呼ばれている若き同心木村忠吾。
この大人しい同心が何とも危なっかしくて、出て来るたびにハラハラさせられるのだが、テレビでも「うさぎ!」と呼びかけて笑顔を見せる中村吉右衛門さんとのやり取りが微笑ましかった。
芝・神明とは芝大神宮のこと、早速行って来た。
先に2ヶ所回ってから港区に出て大門駅で降りたので、せっかくだから増上寺にも寄って行こうということで、大門をくぐる。

私はこの大門が大好きで、門の下を自動車が通り抜ける光景はいつまで見ていても飽きることがない(笑)。
道路をまたいでいるような大きな門だが、そこから先は参道となる。
増上寺に参拝し、お昼を食べてから芝大神宮へ向かう。
芝大神宮は初めてだが、ここも一目見て惚れ込んでしまった。

何というのかな?
都会の喧騒の中にあって静かなたたずまい、背後にのっぽビルや東京タワーが見えるのに清楚なたたずまい。
何より緑の多さ。
広くはないが、きちんと手入れされていてとても雰囲気がある。

石段を上ろうとして、ふと「東京十社めぐり」の看板に気がついた。
東京十社は明治天皇が明治元年11月8日、准勅祭神社として幣帛を捧げられ、東京の鎮護と万民の平安を祈願された十の社のこと。
でも東京だけではなく、起こってしまった災害の鎮魂と復興を祈り、同時に未来に向けて二度とこのような悲惨なことが起きないように、祈る機会にしたい。
個人でできることは小さいけれど、少なくとも何かできることはないかと常に意識し続けることは大切だと思う。

参拝を済ませた後、境内を見ていたら、きなり狛犬と目が合った。
なんだかとっても楽しそう。
見ているだけで幸せな気持ちになれる、可愛いね、狛犬くん。
桜もほころびかけて、とても綺麗な場所だった。
石段の上から狛犬くんと一緒に街を見下ろす。
この下に「まつむら」があったんだなあと想像するのは容易だ。
もうひとつ気になったのは「生姜塚」。
渋い雰囲気の芝大神宮で、石碑に刻まれた「生姜塚」の金色の文字が目立つ目立つ(笑)。

Wikipeiaによると、この辺りは昔生姜の産地で、取れた生姜を神前に供え、その生姜が風邪を防ぐと評判になった。
それ以来例大祭の時に生姜を授与するようになり、生姜がお馴染みの社になったのだそうだ。
御利益ありそうで、お守りと一緒に生姜湯買って来たが、とろりと甘くてとてもおいしかった。

★東京都港区芝大門1−12−7

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(2014年6月6日の日記)
上野うさぎや〜うさぎ饅頭
前回、菓子舗・まつむらで売られているうさぎ饅頭に似ていることから「兎忠さん」と呼ばれている木村忠吾に関して芝大神宮を紹介したが、もちろん「まつむら」は架空のお店。
ところが池波さんにゆかりがあり、「うさぎ饅頭」を作っているお店がある。
それが上野「うさぎや」。
「散歩のとき何か食べたくなって」に、池波さんが少年の頃から務めていた株式仲買店の主人が、月に二度ほどは池波さんを呼んで、買ってくるように頼んだ 思い出が綴られている。

実は私、このうさぎやさんにはほろ苦い思い出がある。
これもまた上京したばかりの頃、大張り切りで「江戸散策」しながら、そんな自分に酔ってた頃、と書くべきだろう、恥ずかしいけど。
たまたまうさぎやさんを見つけて飛び込んだ。
池波さんが好んだどら焼きを買い、「お店の写真を撮ってもいいですか?」と頼んだ私。

今のようにお店やカフェ、レストランで写真を撮ってブログにアップするのが普通な時代じゃない。
怪訝な顔した女性に「どうしてですか?」と聞かれて、「散歩のときー」を差し出して、「この本に載ってるんです、うさぎやさん!」と声を張り上げた。
するとお店の奥から別の女性が出て来て、「写真なんてそんなガイドブックに頼らないで、いい物おいしい物は自分で探さなきゃ駄目ですよ。」と注意された。
年配の常連さんらしき人たちでいっぱいの落ち着いた店内で浮き上がっていた私の態度が目に余ったのだろうと思うと、今でも顔から火が出る思いがするが、その時はショックだった。

ガイドブックじゃないのに、池波さんが好きなだけなのに、としょぼんとお店を出て、それ以来何となく行きにくくなったのである。
でも今思えば、写真はともかくガイドブック云々は必ずしも私に言う必要などなかった言葉。
なのに私に大事な事を教えてくれた。
歯切れのいい口調でぽんぽん飛び出す言葉は厳しかったけど、笑顔は優しく、私のこれからを案じてくれたのかもしれない。

今回久々にお店に行ったら、この女性が奥で他の店員さんと談笑していた。
私の視線に気づいて軽く会釈される。
もちろん私のことなど覚えていないだろうが、「あの節はありがとうございました。」と感謝の気持ちをこめて頭を下げた。
もっちりしたうさぎ饅頭も、柔らかいどら焼きも、くどくない甘さでおいしかった。

ただうさぎやさんで、池波さんゆかりの店を意識してうさぎ饅頭を売り出したのかどうかは、ホームページにも何も書いていないのでわからない。
初代がうさぎ年だったので「うさぎや」にしたらしいので、その関係でうさぎ饅頭を作っているだけかもしれないし。
以前デパ地下の「花園饅頭」でも見かけた記憶があるので、お月見の季節菓子、あるいは縁起物で他の店でも作っているのかも。

毎日新聞社から出ている「鬼平を歩く」では本郷にある有名な老舗「壺屋総本店」が製作していた。
このうさぎ饅頭も可愛くておいしそうなので、お店で売り出せばいいのになあといつも思う。
この本は宣伝も多いが、小説に出て来る料理やお菓子などを実際に作ってカラー写真で見せてくれるのが楽しい。
(作り方はほとんど載っていない)

★東京都台東区上野1ー10ー10

★「ひとりごと」で写真を紹介しています。

(2014年6月22日の日記)
戒行寺〜長谷川平蔵の菩提寺
鬼平こと長谷川平蔵の菩提寺である戒行寺は地下鉄丸の内線四ツ谷駅と四谷三丁目駅を結ぶ新宿通りの中間地点を入った所にある。
この界隈には寺社仏閣が多い。
仕掛人・藤枝梅安シリーズ「梅安初時雨」で、松平伊織の三男・新次郎が牛堀九万之助道場の後継者が、小杉十五郎に決まったことで十五郎暗殺を企てる、 その旗本・松平伊織の屋敷が設定されたあたりの須賀神社、服部半蔵のお墓がある西念寺もこの近く。
少し歩くとお岩さんの田宮稲荷神社も見えてくる。

初めて戒行寺を訪れた時、私は大きな勘違いをしていて、平蔵のお墓があるのだとばかり思っていた。
ところが入ってすぐ右手に「長谷川平蔵供養碑」はあるものの、お墓は現存しないのだそうだ。
長谷川家は三代で終わってしまったため、そのお墓も継ぐ者がなく、残っていないとのこと。


代わりに、と言っては何だが平蔵のお墓詣りに来る人々の想いに応える形で平成6年(平蔵200回忌)に供養碑を建立したのだそうだ。
今年は桜の季節にお邪魔したが、綺麗に手入れされた供養碑、何組かお参りする人たちの姿にすたれることのない鬼平人気を感じた。
戒行寺、本当に綺麗な場所である。
帰りに西念寺にも寄って半蔵のお墓にもお参りしたが、こちらはまた枝垂桜が綺麗だった。

★東京都新宿区須賀町9

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(2014年10月10日の日記)
12月2日 出合茶屋・月むら〜上野東照宮のぼたん園
「出合茶屋」を私はずっと「出会茶屋」だとばかり思っていたが(本を読んでも頭の中で変換してた?、)「出合茶屋」が正解だった。
「出合う」と言うと、対象が物や動物や出来事で、人と人が会うのだから「出会茶屋」だろうと無意識に思っていた。
でも調べてみたら、「出会う」は偶然会う意味合いで、「出合う」は打ち合わせて会うといった意味がちゃんとあるのだった。
なるほどそれなら「出合」が正しい。

「月むら」は上野の不忍池のほとりにあるとされているが、前回も不忍池の出合茶屋だったので、今回は不忍池を見に行った時に ちょうど上野東照宮でぼたん園が見どころを迎えていたので、そちらを紹介したい。

上野東照宮は藤堂高虎と天海僧正が徳川家康を祀るために、藤堂家の屋敷地であった上野に造営した神社。
上野公園の中にあり、緑が多くて散策するにも(参拝するにも)気持ちのいい場所。
残念ながらこの日は雨だったが、それだけに訪れる人も少なく、ぼたんの花も雨に映えてとても得した気分。

バラや藤の花に比べ、これまでぼたんは積極的に見に行こうと思ったことはないが、このぼたん園は花ももちろん綺麗だが、 どこか江戸の雰囲気を感じさせる見せ方で素晴らしかった。
私が行ったのは4月だが、冬も冬ぼたんが綺麗に咲くらしい。
見に行きたい。
ところで「月むら」、出合茶屋だけに「月むら」が登場する話に出て来るのは鯉肝のお里、網虫のお吉など妖艶な悪女系。
ぼたんとはちょっと雰囲気違うかな?

★東京都台東区上野公園9−88

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(2014年11月14日の日記)
1月31日 茶店・笹や〜弥勒寺橋跡
もう何年前のことになるか、軍鶏なべ屋五鉄が設定されている場所を見に行った時、たまたま「弥勒寺橋跡」の表示を見つけた。
あっ、笹やがあった所だ、と思って写真を撮ったが、その時は時間がなく、弥勒寺を見ることなく終わった。
弥勒寺は「寒月六間堀」で平蔵が老いた市口瀬兵衛を見つけ、その敵討ちを手伝ったり、弥勒寺そのものが盗賊に狙われたりと 出番も多い。

Wikipediaによると、1610年(慶長15年)宥鑁が徳川家康から江戸の鷹匠町に寺地を下賜されて建立した寺で、当初弥勒菩薩を本尊としたことから寺号を弥勒寺と号したが、 8代の清長のときに徳川光圀から薬師如来を寄進されたことからこれを本尊としたという。

ただ、前述したように、弥勒寺自体は元は小石川鷹匠町に建立された。
それが1689年(元禄2年)に本所に移ったため、元々あった橋が「弥勒寺橋」と名付けられたらしい。
その弥勒寺橋も1936年(昭和30年)に五間堀が埋め立てられたため、廃橋となった。
鬼平犯科帳をたどる道(二)」の「六間堀」に現在でも見れる五間堀、六間堀跡を 見ることができる地図を載せてある。

          ☆           ☆           ☆          

現在の森下駅を中心に、五間堀と六間堀が綺麗なYの字を作っていた。
これらの堀はもう埋められてしまっているが、実は細い小路になって面影が残っている。

俯瞰の写真や地図で見ると、おもしろいほどくっきり見えるのだが、地図を縮小したら見づらくなってしまったため、なぞってみた。
ちなみにYの左に伸びるのが六間堀で、右に伸びてるのが五間堀だそうだ。
駅のマークは森下駅で、そのそばにある小さな丸が六間堀公園。

          ☆           ☆           ☆          

ところで「鬼平犯科帳」7巻には茶店の笹やが2つ出て来る。
「隠居金七百両」の雑司ケ谷鬼子母神の笹やと、今回取り上げたお熊さんの笹や。
何となくおもしろい。

★東京都墨田区立川1-4-13(弥勒寺の住所)

(2015年1月16日の日記)

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