その他の世界をたどる道(四)


3月7日 年末年始の高岩寺
高岩寺の名前でわからなくても、「巣鴨のとげぬき地蔵」と言えば思い当たる人も多いのではないだろうか。
そう、政治や芸能界の問題が起きると、「必ずおばあちゃんがマイクを向けられる」街、それが「おばあちゃんの原宿」こと巣鴨地蔵通り商店街。
この言葉もあまりに馴染み過ぎて、今更「おばあちゃんの原宿」などと言われることも少なくなったが、確かに巣鴨に溢れるおばあちゃん達はあきれるほど元気である。

歩くのも買い物もスローペースが普通なので、レジであせってるおばあちゃんもいないし、混み合ってても互いに避けないからぶつかるけれど、ゆっくりだから被害もない。
「あらごめんなさいねえ。」とお互い笑って通り過ぎる。
試食が多いのも特徴で、出された椅子で試食をお替りしながらお茶を飲み、世間話に興じるおばあちゃんも多い。
その中に埋もれていると、なぜか不思議に居心地いい。

私の中途半端な人生の中でも、否応なしにいろんな経験をさせられた。
でもこの巣鴨を闊歩するおばあちゃんの中には、私など及びもつかないような人生を送った人も多いだろう。
人生長く生きれば生きるほど、様々なハプニングが起きるだろう。
一見のどかなおばあちゃん達には、それらの経験を乗り越えて来たたくましさが満ち満ちている。

人生の大先輩。
いつかは私もおばあちゃんと呼ばれる年齢になった時に、こんなたくましさにあふれた女性になれるだろうか。
のんびりした巣鴨のそぞろ歩きが、いつの間にか人生の勉強の時間になっていることに気づく。

そしてその巣鴨の中心地が高岩寺。
広い境内ではないが、いつも人がわんさか、清めの煙が目に沁みるほど、そして洗い観音の前には長蛇の列。
並ぶのは得意でないが、この時ばかりは並みいるおばあちゃん達の間に挟まって、となしく順番を待つことにしている。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都豊島区巣鴨3-35-2

(2017年3月7日の日記)
4月18日 真性寺
とげぬき地蔵こと高岩寺と並んで有名な巣鴨のお寺が真性寺。
地蔵通り商店街の入口にあり、江戸六地蔵尊のひとつ。
お寺の傍に巨大なお地蔵さんが鎮座しているので見かけた方も多いのではないだろうか。

地蔵通り商店街の公式サイトによると、真性寺の地蔵尊は、深川に住んでいた地蔵坊正元が願主となって、宝永3年(1706年)造立の願を発してから14年間の間に、 地蔵尊菩薩像6体を造立された中の一体で、4番目に作られた唐銅製の座像だという。
眞性寺の地蔵尊が完成したのは正徳4年9月(1714年)。

この年にはピンと来なかったが、Wikipediaを見たら、江島生島事件が起きていた。
江戸中期のあたりか、なるほど。
ちなみに他の5体のうち、江東区富岡にあった永代寺のお地蔵さんは消滅してしまったが、他の4体は現存するとのこと。
たぶん浅草東禅寺にある地蔵尊は見たことがあると思う。
たさ、その時は江戸六地蔵尊のことを知らなくて、大きなお地蔵さんだなあくらいにしか思わなかったのだろう、あまり印象にない。
いつか5体回ってみたいものだ。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都豊島区巣鴨3-21-21

(2017年4月18日の日記)
4月25日 高輪神社
高輪といえば港区。
この日は泉岳寺と芝大神宮、氷川神社とまとめて回ったのだったか、かなりの急ぎ足だったのであまり記憶にないのが恥ずかしい。
高輪神社で一番記憶にあるのは、可愛い狛犬。
つぶれた顔で愛嬌あるのが可愛かった。

その創建年代は不詳ながら、明応年間(1492年〜1501年)の創建と伝えられ、高輪一円の総鎮守社であるという。
鵜来森(高輪3丁目付近)鎮座の八幡社を明治10年合祀した。
弘化2年(1845年)正月24日の大火に焼失し、石門・鳥居等を残し、社殿・社宝・古文書等ことごとく失い、約20年後、 土蔵造の本殿を再建し、明治15年(1882年)には幣・拝殿を建立した。
調べてみて思ったのだが、古く有名な神社のわりに意外と情報が少ない。
ビル街の中にあり、社殿が新しくて綺麗な事もあり、私好みの閑散とした雰囲気はないが、こうした社殿にしながら 鳥居や狛犬が古いまま大切に使われているのには好感が持てた。
また、日曜日にもかかわらず、背広姿のサラリーマンの参拝が多いのも驚かされた。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都港区高輪2-14-18

(2017年4月25日の日記)
5月10日 浄閑寺
歴史と文学の会編「江戸東京魔界紀行」を読んでいたら、「江戸の奇所」の項に「浄閑寺−遊女たちの投げ込み寺」とあった。
1655年(明暦元年)創建されたが、明暦の大火の後、遊郭が日本橋から浅草日本堤に移されて後、亡くなった遊女がここに葬られ たことから「投げ込み寺」と呼ばれるようになったという。
浄閑寺を訪れたのは2年前か。
何の由来も知らず、たまたま通りかかっただけだったが、門前の「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と書かれた立て札にまず重苦 しい雰囲気を感じた。

明暦の大火の他に安政の大地震、関東大震災や東京大空襲などで亡くなった遊女も多く、新吉原総霊塔で祀られている。
浄閑寺を愛した永井荷風の詩碑もあったが、私が一番心惹かれたのは、女性が手向けたのであろう、マニキュアや口紅や髪留め。
中には100円ショップで買えるお手軽なヘアクリップもあったが、ほとんどが赤い物で、それらが置いてある部分はモノクロに染め上 げられた墓地の中で一際目立っていた。
私も化粧ポーチを探ってみたが、入っていたのはブラウン系の唇の色に近い口紅だった。
こんな地味なの喜んではもらえないだろうなあとあきらめた。

遊女を愛し、浄閑寺に葬って欲しいと願った荷風は今雑司ヶ谷霊園に眠っている。
代りに立てられたのが詩碑だが、その建立に一役買った人々の中に江戸風俗研究家の「宮尾しげを」の名前を見つけたのは嬉し かった。
最近調べていることの中に、よく見る名前である。
あともう一つの立て札に「音無川と日本堤」と題されたものがあり、これも嬉しかった。

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★東京都荒川区南千住2-1-12

(2017年5月10日の日記)
5月17日 愛染院
四谷三丁目付近は様々なお寺があるが、愛染院は長谷川平蔵の菩提寺戒行寺か、服部半蔵のお墓がある西念寺に行った時に、ふと目についたお寺だったように記憶している。
(訪れたのが2年前なので定かではない。)
お寺には珍しい煉瓦でできた塀と、目に映った庭の美しさにしばらく見とれた。
私の印象だと、神社の境内は自然な感じ、お寺の境内は整えられた感じだが、愛染院の庭は「きちんと」整えられた庭で、むしろ愛らしささえ覚えるほどだった。

あたりをきょろきょろ見回ししながら入って行くと、事務所にいた男性と目が合ったのでさっそく訪問。
愛染院の由来のようなことを聞いてみたら、笑いながら「うちには何にもないんですよ。」と一言。
「えっ?」と思わず聞き返した私に、「普通は土を掘ったら仏像が出てきたり、川から流れてきたりするらしいですが、うちは『人』が作りました。」とのこと。
なんともさばけた雰囲気の中で会話が続いて、これもまた珍しい。

「せっかくいらしたのですから、梵鐘と高松喜六と塙保己一のお墓でも見て行って下さい。」の言葉に送られて、事務所を出る。
梵鐘は戦時中接収されたが、百字真言が刻まれた貴重な鐘であるために、戦後返されたそうだ。
一瞬横溝正史著「獄門島」を思い出してしまった。

高松喜六は江戸浅草阿部川町の名主で、元禄11年(1698年)新しい宿場開設を幕府に願い出て、内藤氏屋敷前に内藤新宿を開き、今の新宿の基を築いた人物。
塙保己一(はなわほきいち)江戸時代の国学者。

帰ってから切絵図の「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四谷絵図」を見たら、ちょうど戒行寺、愛染院、西念寺がほぼ一直線上に並んでいて楽しかった。
どんどん塗りつぶされていく切絵図はささやかな私の宝である。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都新宿区若葉2-8-3

(2017年5月17日の日記)
5月日 一行院
一行院は文京区白山、白山通りにあるお寺のひとつ。
京都の知恩院、東京の増上寺を御本山とする浄土宗のお寺だそうだ。
最近やっと2年前(2015年)に訪れた場所の更新まで追いついてきているが、一行院は境内の美しさ、というより楽しさで印象が強い。
綺麗に手入れされた庭は一行院の自慢らしく、ホームページでも四季折々の花々の情報を掲載しているが、私がお邪魔したのは3月末。
あいにくの曇り空の下、桜が綺麗な花を咲かせていた。

でも一行院を訪れた人の目に真っ先に映るのは、あちこちにある可愛い置き物ではないだろうか。
下記ブログにも載せたが、トトロ!や丸く刈った芝生の中で仲良くおしゃべりをしている?二匹のカエルなど、しゃがんでずっと見ていたいような なごめる風景が素晴らしいのだ。

この日はどなたにもお目にかかることはできなかったが、御住職はどんな方なのだろう、ご家族はどんな方なのだろうと想像しながら 庭を眺めているだけで楽しかった。

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★東京都文京区千石1-14-11

(2017年5月日の日記)
5月30日 吉良邸跡
赤穂浪士の物語は元々あまり興味がなかったが、絶対悪と思われていた吉良上野介の検証が進められたことに関する何かの記事を読んで興味が出て来た。
池波物の「忠臣蔵」も再読してみると、それまで気づかなかった吉良や大石の人間味といったものが感じられるようになったし、何よりも宮部みゆき著「震える岩― 霊験お初捕物控」や「平成お徒歩日記」を読めば、忠臣蔵の登場人物がぐっと身近に思えて来る。
(宮部さんの時代物の魅力はまさにここにある)。

それ以来、両国界隈に行けば必ず吉良邸(本所松坂町公園)に寄ることにしている。
もうかなり前のことだけど、訪れた日がたまたま義士祭の日だったことがあるが、残念ながら写真はどこかに埋もれてしまった。
京葉道路から少し入った閑静な住宅街の中にあるが、独特のなまこ壁があるのですぐわかる。
「本所」と呼ばれる地だけに、あたりには他に堀部安兵衛道場跡、勝海舟生誕の地など史跡も多い。
ただ地図を見て近い気がして足を延ばすと思った以上に遠いことがわかり、へろへろになって帰って来るのもお約束だが(笑)。

さてこの吉良邸だが、「本所松坂町公園」だが、公園を意識して探すとちょっと驚く。
とても狭くて遊具もないし、遊ぶような場所ではない。
「史跡公園」と名づけるか、普通に「吉良邸跡」でいいような気がする。
本来は屋敷ももっと広大で、現在は86分の1しか残っていないそうだ。
でも中には首洗いの井戸や稲荷社、吉良上野介の像などがあり、この空間に入ると、どこか切なく感じてしまう。

四谷怪談のお岩さんもそうだが、歴史の中でいつしかその実像とかけ離れた(悪いイメージの)人物像ができあがってしまうのは、不幸なことだとつくづく思う。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都墨田区両国三丁目13番9号

(2017年5月30日の日記)
6月6日 麻布六本木界隈の坂〜鳥居坂他
東京には坂が多い。
歩くだけではあまり意識しないことも多いが、麻布六本木界隈を歩いていると、本当にたくさんの坂がある事に気づく。
特に大通りから横道にそれる坂や石段があると上ってみたくてたまらなくなる(笑)。
東京の坂や橋を扱った本はたくさん出ているので、こういった本を手掛かりに、東京中の坂や橋を歩いてみたいと 思っているのだが、思うだけでなかなか時間が取れないのが歯がゆい。

今回取り上げた坂は、六本木ヒルズに行く時うろうろしてると見つける坂。
この界隈は大通り、六本木通りになるのかな?はお洒落で賑やかな通りだけど、一歩横道にそれれば閑静な高級住宅街、 各国の大使館が多く、いろんな国の言葉が飛び交う空間。
時として外国に迷い込んだような気になる事すらある。

鳥居坂は鳥居家の所有であったことからつけられたそうだ。
「鬼平犯科帳」の「おしゃべり源八」では木村忠吾の叔父中山茂兵衛が鳥居坂に住んでいるという設定になっている。

暗闇坂はWikipediaによると、昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が茂り、狭い坂道に覆いかぶさっていたために命名された。
暗く見通しの悪い急な坂道のためか、妖怪、幽霊が出没するなどといった伝説が生み出された。
実際に追い剥ぎなどが現われる物騒なところであった。

他にも文京区で見かけたことがあるが、なんとなく暗闇坂とか幽霊坂といった名前には惹かれてしまう(笑)。
実際に行くと、綺麗に整備された普通の坂でがっかりすることになるのだが。
逆に放置された状態で残っていたらかえって危険だろうし。
暗闇坂は「剣客商売」の「暗殺者」に登場する。

一本松坂は「鬼平犯科帳」にそのままずばり「麻布一本松」のタイトルで登場する。
今私は壬生篤著「池波正太郎を江戸地図で歩く」を見ながら書いているのだが、この本が実におもしろい。
池波小説に出て来る地名をただ紹介するのではなく、実際に地図でたどってみるというのは、私には難しいので とても参考になる。
「麻布一本松」に出て来る「長善寺」に関する記述もおもしろかった。
小説では長善寺だが、長傳寺の間違いではないかというところ。

そして大黒坂。
坂の中腹北側に大黒天をまつる大法寺があったために呼んだ坂名とのこと。
私の記憶では、これらの坂の中で一番庶民的な坂に思えたのだがどうだったろう。

この時は(もう3年前になる)この4つしか歩かなかったが、他にも鼠坂、狸坂、仙台坂などまだまだ坂は多い。
最近は急ぎ足でヒルズに直行することが多いが、時間を見つけてまたのんびり坂めぐりをしていきたい。

ところでこの本を書いた壬生氏、ちょっと気になってプロフィールを調べてみたら、雑誌「荷風!」の編集長だった方なのか。
あの表紙と共に復活しないかなあ・・・。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都港区麻布六本木界隈

(2017年6月6日の日記)
6月日日本橋
子どもだった私が一番先に覚えた「東京の橋」の名前は日本橋だったと思う。
なぜかはわからないが、その後池波小説などで日本橋の名前を何度も見かけたし、池波さんのエッセイで日本橋の上に 高速を架けたことをひどく怒ってらしたことも覚えている。
やはり江戸の象徴、東京の象徴といっていい場所だったのか。

上京して行ってみた日本橋は、確かに上部の高速は邪魔だったが、「日本橋」という街の雰囲気そのものが私にとっては 心地よかった。
たとえば銀座は敷居が高くて、通っただけで疲れる場所だったし、渋谷はあまりの雑踏に居心地が悪かった。
同じ雑踏でも新宿や池袋は何とも思わなかったのだが。

今ではあまり意識せずにどこにでも出かけるようになったが、それでもやはり日本橋の居心地の良さは格別だと思う。
浅草や他の下町とは違って、日本人としての心を落ち着ける雰囲気がある。
値段も高いし(笑)、買い物することはほとんどないのだが、街をぶらぶら歩くだけでも楽しい。
そしてその日本橋の象徴が「日本橋」。

初代は1603年(慶長8年)に架けられ、以後19回も架け替えて現在の橋になったという。
(現在の橋は1911年=明治44年に架けられたものだとか)。
江戸時代に幕府が日本橋を五街道の起点と定めたことは有名だが、いつか時間ができたら、日本橋から5つの街道を 歩けるところまで歩いてみたいと思っている。

不思議なのが、所用で日本橋に来る日はいつも雨なこと。
青空に映える日本橋、なんてほとんど見たことがない。
余談だが両国の江戸東京博物館に江戸時代の日本橋が再現されており、実際に渡ったり写真を撮ることもできる。
江戸東京博物館も私のお気に入りのひとつ。
何度行っても飽きない場所である。


ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

(2017年6月20日の日記)
8月8日芥川龍之介生育の地
子供の頃の方が本のジャンルを問わず、大人向けも子供向けも手あたり次第読んだと思う。
最近は読みたい本は何度も読むが、なかなか新しい作家、読んだことのないシリーズに手が出ない。
でも子供の頃の読書が私に何らかの影響を与えただろうか、と振り返ってみると心もとない。
こうして感想やら考察やら書くのは好きになったし、文をこねくり回して文章を工夫するのは好きだ。

ストーリーも大体覚えているし、頭の中に「この本を読んだ」という記憶(記録)も残っている。
でも読書によって得られる(はずの)成長や内面の深化などを感じたことは、一度もない。
日本文学も子供の頃読んだけど、芥川が一番おもしろかった。
夏目漱石は「吾輩は猫である」がおもしろかった。

大人になって「こころ」やドストエフスキーの「罪と罰」を漫画絡みで!読み返したが、子供の頃と 感想はほとんど変わらなかった。
難しさが少し薄れたかな?という程度。
他作品にしても、子供の頃は絶対悪と決めつけていた「不倫」をその是非はともかく、その心持ちは 理解できるようになった。
その程度かな?変わったのは。

私には読書によって得られる「豊かな感性」が全く備わっていないのだろうか。
読むだけじゃ駄目、そこから何かを得ようとしなくては。
そんな努力をしながら読めば、読書は途端につまらないものになる。
普通に読めば、ただストーリーを覚えるだけのものになる。

読書は好きだし、図書館や本屋さんも大好きだ。
でも本に対する私の気持ちは意外に複雑なものがある。

先日朝日新聞に「読書を押し付けるのはやめて」といった内容の投書が載った。
それに答える本好きの方々の投稿も読んだが、自然に読書が好きな人たちがうらやましかった。
絵や勉強、スポーツといった得手不得手とはまた違った次元の話なので余計複雑である。

両国はよく行くので、この「芥川龍之介生育の地」の表示もよく見る。
でもなぜかずっと芥川はここで生まれたのだとずっと思っていた。
頭の中では生まれたのは京橋、と認識していたのにである。
今回この記事を書くにあたって「生誕」の地ではなく「生育」の地であることに初めて気がついた。
私やっぱり、かなりいい加減な人だ(笑)。

★東京都墨田区両国3-22

(2017年8月8日の日記)
12月5日 源覚寺のほおずき市
前回紹介した伝通院の朝顔市と同じ日に行ったのが源覚寺のほおずき市。
散々迷った末、今年は結局ほおずきの鉢を買った。
ほおずきの色が好き。

源覚寺というより「こんにゃくえんま」の方が通りがいいだろうか。
私は源覚寺はいつもほおずき市の時期に行くのでとても混んでいて、肝心のこんにゃくえんまを見るのを忘れる(笑)。
なぜこんなおもしろい閻魔様がいるかというと、

宝暦年間(1751年-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、 「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。
その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたという。
以来この閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めている。
現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。
また毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われる。(Wikipediaより)

とある。
おばあさんが供えたのが、たまたま大好物だったこんにゃくだったのか。
もし豆腐だったら豆腐閻魔、納豆だったら納豆閻魔になっていたのか、なんてちょっと不謹慎だが考えてみるのもおもしろい。

ほおずきは江戸時代に薬草として扱われ、煎じて飲んでいたという。
そのほおずきが売られる市が立つのは7月25日と26日。
そういえば池波氏もエッセイの中で戦後の廃墟の中で浅草寺の四万六千日の市が立ち、感動したことを書かれていた。
ちなみに浅草寺は四万六千日の市関連で7月9日と10日と決まっている。

浅草寺のほおずき市はお店も多く、豪華で華やか、いかにも歴史を感じさせるが、源覚寺のほおずき市はもっとこじんまりしている。
でもこのこじんまりした感じがまた魅力的で、来年からは浅草寺と源覚寺、両方回るようにしたい、のだがこういう曜日ではなく、日にちで決まる行事は、 うまく土日にあたらないと行きにくいのが辛いところだ。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都文京区小石川2−23−14

(2017年12月5日の日記)
12月9日 尾久八幡神社と尾久駅
尾久八幡神社、都電に乗っていると宮ノ前駅近くで見えて来る。
いつも気になっていたのだが、宮ノ前駅で降りる機会がなく、初めて訪れたのは去年のこと。
しかもその日に限ってどんよりした曇り空で、今にも降りそうな雰囲気。
例大祭の準備にもぶつかって、境内には人がわやわや。

ゆっくり参拝は出来なかったが、広々としていて緑の濃い気持ちのいい神社ではあった。
ところで今回のメインはこれではなくて、尾久の方に聞いてみたいことがあったので、境内をのんびり散策している おじいさんに話しかけてみた。
私がずっと気になっていたのは「尾久」の読み方。
神社の名前を含め、「おぐ」が一般的かと思われるが、東北本線の尾久駅は「おく」と読む。
ちなみに尾久は荒川区だが、尾久駅は北区にある。

漠然と北区と荒川区の違いを現した?ものかと思っていたのだがそうではないらしい。
お話を聞いたおじいさんがとても博識な方で、本来は「おぐ」と読むのが正しいとの事。
東北本線の駅(北区昭和町)は、元の豊島郡の奥、江戸の奥にあったので「おく」と付けたのではないかということだった。
「じゃあ駅名も『奥』にすれば良かったのでは?」と聞くと、「でもこの場所は尾久ですからねえ、 洒落たつもりなんじゃないですか?」と笑われてしまった。

ちなみにここは昔貝塚があって「貝塚駅」の候補も出たそうだが、語感が今ひとつなのと、やはり尾久の名前が根づいていたと いうことで「尾久(おく)駅」になったのだろうということだった。

帰ってからWikipediaを見てみたら、駅名を考える時に「おぐ」は「おく」の訛りと勘違いしたらしいと書かれていた。
まあ諸説ある中の一説らしいが、おかしな気もする。
たぶん地元に行って「おぐ駅はどちらですか?」と聞いても、ほとんどの人が「こっちですよ。」と「おく駅」の場所を迷わず教えてくれるだろう。
それくらいある意味些細な、でも考え出すとおもしろくて止まらないテーマではある。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都荒川区西尾久3-7-3

(2017年12月9日の日記)
12月25日 巣鴨大鳥神社の酉の市
酉の市と言えば浅草鷲神社に通っていたが、最近は巣鴨の大鳥神社に行くようになった。
(住所は千石だが、巣鴨大鳥神社と呼ばれている。)
実は今このレポートを書いていて初めて気づいたのが、浅草は鷲、巣鴨は大鳥で字が違ってた。
(巣鴨も鷲とばかり思っていた。)
大鷲神社というのもあるらしい。

「おおとり」で検索しただけで「大鳥、鳳、鷲、鴻、鵬」と出て来るが、Wikipediaで調べたら、

・鷲、大鳥、大鷲
「鷲神社 - 日本各地にある神社の名。」

・鴻
「ヒシクイ - カモ目カモ科マガン属に分類される鳥類。
コウノトリ - コウノトリ目コウノトリ科に分類される鳥類。」

・鳳
「鳳凰 - 中国の伝説上の鳥の雄の方。」

・鵬
「鵬 - 中国の伝説上の鳥。」

とある。

おもしろいのが全国の大鳥神社および大鳥信仰の総本社とされる大阪府の大鳥大社での大鳥は「白鳥」とされていること。
白鳥だったのか。

ちなみに「伏竜鳳雛(「三國志」の諸葛亮とホウ統)」で有名な「鳳」は「山海経」にも出て来る伝説の鳥。
様々な鳥の部分が混じった五色の姿。
やはり私が好きな「三國志」の曹操は「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」の言葉も印象的。
「燕雀」はすずめなどの小さな鳥、鴻鵠は「大鳥」のこと。
こうして調べていると、漢字の楽しさ美しさがしみじみと感じられる。

それはともかく寒い秋の一日、巣鴨の地蔵通り商店街を抜けて春日の方に向かい、大鳥神社に詣でる人たちの間に混じると、 今年ももうすぐ終わるという実感が湧いて来る。
ちょっと寂しい。
それでも沿道の屋台や熊手の市にはつい笑顔。

ここの楽しみは奥で売っている甘酒。
寒ければ寒いほどとろりとした甘さとショウガのツンとした香りがしみて来て、体も心もあったまる。
来年もいい年になりますように。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都文京区千石2丁目25−15

(2017年12月25日の日記)
1月9日 簸川神社
「簸川」と書いて「ひかわ」と読む。
氷川神社の末社で字が違うだけらしい。
小石川植物園のそばで見つけた気持ちのいい神社。
実は私、小石川後楽園と小石川植物園をごっちゃにしていて、今回たまたま植物園の存在に気付いたのだが(笑)。
元々は簸川神社も小石川植物園の中にあったのだが、承応年間(1652年〜1655年)に現在の場所に移ったという。

神社は高い石段の上にあり、見上げても抜けるような秋の青空しか見えない。
私はこの石段の上にある神社が大好きで、石段を上るうちに少しずつ建物が見えて来るのがたまらなく嬉しい。
でも最初はピンクっぽい建物が見えて来てギョッとしたのだが、これは本殿ではなく後方にあるマンション?だった、一安心。

ちなみにこの石段は50段で「合格階段」と呼ばれているらしい。
受験シーズンは合格祈願の学生さんでにぎわうのだろうか、文京区だし。

でもこの神社で一番印象に残るのはたくましい狛犬。
触れてみたら、陽射しを浴びてかすかな温もりが感じられた。
愛嬌のある表情と共にすっかりお気に入り。
1円玉や5円玉がはさんであるのも可愛い。

手水舎が、手を近づけると自動で水が出てきたり、妙に近代的なところもあったが、全体的にのんびりした雰囲気。
夏になったらまた来てみようと思う。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都文京区千石2丁目25−15

(2018年1月9日の日記)
1月14日 田端散策(一)
北区田端と言えば、京浜東北線と山手線の乗り換えでしょっちゅう駅には降りるが、駅の外にはまず出ることのない街。
そのせいか、乗り換えのたびになんとなく申し訳ない気持ちになる。
駅すぐそばの田端文士村記念館には1度お邪魔しているが、芥川龍之介、菊池寛といった、いわゆる純文学作家の作品は、 むしろ子供の頃の方がよく読んでいたと思う。

そして子供の頃の読書は私の身になっていたかと言えば甚だ怪しく、ストーリーを覚えて程度、ではなかったろうか。
読書が私の人生に大きな影響を与えることはなかった。
むしろ「読んだ」という心の記録が、大人になってからの娯楽以外の読書をむしろ妨げたとさえ思っている。

それはともかく、ある秋の空いた一日、田端文士村記念館を拠点に、田端を散策してみることにした。
記念館で受付の方に地図付きのしおりを頂く。

とても丁寧に、回りやすいコースなども教えてもらった。 現存しない建物も多く、表示板が残るだけの場所も多いので、一度に全部回ろうとせず、のんびり歩いて見つけた物からチェック した方がいいでしょうとの事。
谷根千と違って普通の住宅街の多いので、あまり観光気分でうろうろしない方がいいのかな?

結局は方向音痴のせいで地図も役に立たず、行ったり来たり、まさにうろうろだったのだが、一番先に見つけたのが芥川龍之介旧居跡。
大正3年(1914年)から昭和2年(1927年)までの約13年間、田端1-20(当時の田畑453番地)に住んでおり、表示板がある。
芥川は当時の作家の中でも比較的読みやすい(おもしろい)作家。
読んでいなくてもストーリーを知っている作品も多かった。

記念館でちょうど「芥川龍之介の結婚と生活」という展示も開催中で、エキセントリックなイメージばかりが強かった芥川の恋文などに 彼の新しい一面を見たように思った。

次に通りかかったのが芥川旧居跡のそばにある与楽寺坂。
名前の由来は当然与楽寺から。
田端駅から6分で来れるはずなのに、迷い歩いてこの時点で40分経過、我ながらあきれる話。

そして与楽寺。
最近興味を持っている六阿弥陀のひとつで、ここにはどうしても来たかった。

「ある時代の夜、盗賊が当与楽寺に入ろうとしたところ、寺から多数の僧が現れ、盗賊と対決、遂には盗賊を追い出した。
どこからそんな僧が現れたのか不思議がっていたが、その翌朝与楽寺の本尊の地蔵菩薩の足に泥がついているのが発見された。
それから人々は、この地蔵菩薩が僧に変身して盗賊を追い出したのだと信じるようになり、賊除地蔵としてなお一層の信仰を得るようになったと言われている。

Wikipediaにこうあるが、「賊除地蔵」のネーミングもいい。
綺麗すぎるほど綺麗に手入れされたお寺で、よそよそしさを感じるほどだったが、最近改修されたらしい。
もう少し時が経てば落ち着くだろうか。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都北区田端周辺

(2018年1月14日の日記)
1月27日 田端散策(二)
田端文士村記念館を出て芥川龍之介旧居跡、与楽寺と回ってさらにうろうろしていたら、東覚寺が見えてきた。
お寺について知らなくても、真っ赤な紙をべたべた貼った赤紙仁王像が目立つからすぐわかる。
ここは後で見るとして、先に隣りの田端八幡神社。
仲良く並んでいるのは、東覚寺が明治維新までは田端八幡神社の別当寺だったから。

田端には上田端八幡神社もあるのだが、ここは下田端八幡神社とは言わず、ただの田端八幡神社。
文士村記念館で頂いた地図には「田端上八幡神社」とあるが、「上田端八幡神社」の方が正しいようだ。
ちなみに上田端八幡神社の別当寺はこれから行く予定の大龍寺。
そういえば子規寺として有名な大龍寺は行ったことがあった (「その他の世界をたどる道(三)」参照)。

それこそ文士村記念館に行った時に回ったのだったが、今の今まで忘れていたのが情けない。
田端八幡神社は、源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたとされているが、 この日は残念ながら工事中?でシートがかかっており、本殿を見られないのが残念だった。
もうひとつ、帰ってから気づいたのだが一の鳥居の下には昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていた 石橋が埋め込まれていたらしい。
工事が終わった頃、また行きたい。

地図が全然役に立たず(役に立てることができず)、そのまま東覚寺に寄るのも忘れて次に出たのがポプラ坂。
田端八幡神社からポプラ坂までいろんな物を見逃していたのがもったいない。
ポプラ坂は、ポプラ倶楽部由来の坂で、明治41年(1908年)頃、洋画家の小杉放庵が作ったテニスコートで、、田端に住む洋画家の社交場となったもの。
陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいた。
大正2年(1913年)、田端に越してきた芥川龍之介は、その1ヵ月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いていると説明にあった。

ここで見つけたのが可愛い猫。
近寄っても逃げることなくくつろいでいたが、何枚か写真を撮ってなでさせてくれるかなあとしゃがんだところ、ゆっくりと去って行った。
おどかしてごめんね。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都北区田端周辺

(2018年1月27日の日記)
2月2日 田端散策(三)
今回の田端散策で一番気に入ったのが田端日枝神社。
日枝神社というととても立派なイメージがあるが、ここの日枝神社はちょっと変わった雰囲気で良い。
鳥居は普通の鳥居の上に三角形の破風が乗った山王鳥居。
山王信仰と関わりが深いらしい。
山王信仰とは最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、 既に比叡山の守護神としてご鎮座していた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰と日吉大社の公式 ホームページにあった。

その他に風化した狛犬、落ち葉が散りばめられた石段、石段を上ると正面に拝殿、脇に本殿。
気をつけて見ないと本殿に気づかないかも、というほど小さな祠。
そしてここでも猫、人を怖がらないん猫。
こんな街中じゃなく、どこか山の奥にひっそりあるのが似つかわしいほど素朴な感じ。

東覚寺の赤紙仁王の派手な色彩の影に隠れて、こんな素敵な神社があったとは、と嬉しい発見だった。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都北区田端周辺

(2018年2月2日の日記)
2月20日 西郷隆盛像
大河ドラマ「西郷どん」が始まった。
私はまだ直虎を見終わっていないというか、まだ直虎が子供なので、見るのがいつになるかわからないが、 楽しみにしている。
元々大した知識はないけれど、戦国時代が一番好き、次に江戸時代が好きな私は幕末期は弱い。
申し訳ないが、興味もなかったので幕末関連の本もほとんど読むことがなかった。

もちろん池波さんの「西郷隆盛」や「人斬り半次郎」は読んだので、その人となりはなんとなくわかる。
ただ池波小説に登場する人物は、善人も悪人も大物も小物も魅力的過ぎて、では本当にこの人物はここまで魅力的だったか?
と他の歴史小説や資料を読んでがっかりすることも多い。

いい意味で「盛る」のも池波小説の特徴と私は思っているので、冷静に語られる小説や資料には「こっちの方が違うだろう」と 思ってしまうのである。

いくらなんでもそれはまずいかと反省し、なんとなく池波さん以外の本やドラマなど触り始めたけど、「西郷どん」は期待できる教材になりそう。
とりあえず上野公園の西郷さんによろしくお願いしますと挨拶するために上野公園に向かった。
のではなく、上野に行ったついでに寄った、本当に申し訳ない(笑)。

上野駅の不忍出口を出て京成上野駅横の石段を登ればすぐ、だけどこれがけっこうしんどい。
高低差のある上野ゆえ、遠回りでも公園口から行った方が楽なのにすぐ忘れる。
でもがんばって登った先には恰幅のいい優しい笑顔の西郷さんが待っててくれる。
なぜ浴衣なのか、この寒いのに。

ちゃんと「西郷どん」を見て勉強しますからね、と挨拶してきた。
ところがそこへやってきたカップル。
男性が西郷どん好きらしく、何度も写真を撮っていたが、彼女の方は「早くシャンシャン見に行こうよ。」
男性は引きずられるように連れていかれた(笑)。

ところで今回「西郷どん」のエンディング「大河紀行」を歌っているのはサラ・オレイン。
私が大好きなアーティストの1人。
と言っても彼女を知ったのはNHK Eテレ「おとなの基礎英語」にて。
日本語が上手な愛らしい女性だなあと思いながら見ていたのだが、歌手としても天才的な才能を持つ。

努力の人でもあるんだろうけど、わずかも見せない気さくさも好き。
彼女の歌声、是非聞いて欲しい。

★東京都台東区上野公園

(2018年2月20日の日記)
2月24日 清水観音堂
西郷さんに別れを告げて、さらに進むと清水観音堂が見えて来る。
寛永寺を創建した天海僧正が建立した。
京都清水寺を模したとされる舞台から見下ろす桜はいかにも綺麗だが、この日は残念ながら曇り空。
浮世絵「清水観音堂の月の松」も有名だが、実際に月の松が復元されていたことは知らなかった。
何度も来ているのに・・・。

昭和24年(1949年)に復元されたのらしい。
正面に立つと不忍池の弁天堂が見える。
でも浮世絵に比べてなんか不自然な気もする。
この天気と寒さなので、行きかう人の姿も少ない。
のではなく、皆さんパンダのシャンシャンを見に動物園にまっしぐらなのだった(笑)。

私達も見たいけど、この人だかりだしね。
でもどうせ見るなら小さくて可愛いうちに見たいよね、などと話しながら歩いていると、隣りを歩いていた年配のご夫婦からも 同じ会話が聞こえて来てお互いに笑ってしまった。

天海僧正と言えば、明智光秀と同一人物説が一時ずいぶん話題になったが、今はどうなっているのだろう。
内田康夫氏が「日光殺人事件」「地の日 天の海」で書かれていて、サイン会の時に是非続きを、とお願いしたら笑って頷いてくださったが、 体調の問題でほぼ引退(休筆宣言された)のため、続編が書かれることはないだろう。

光秀=天海説を信じるわけではないが、そういった事柄を読んだり考えたり語り合ったりする楽しさはある。
さすがに自分で調べて書くことは出来そうにないが・・・。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都台東区上野公園

(2018年2月24日の日記)
2月28日 外国人が見た幕末日本
2018年(平成30年)01月16日(火) 10:00 から2018年03月31日(土)まで千代田区立日比谷図書文化館で開催されている 「特別研究室企画展示 外国人が見た幕末日本 ―オイレンブルク遠征隊を中心に―」を見て来ました。
何に驚いたと言って、申請すれば「撮影可」であることに一番驚きました。
しかも目の前に貴重本がずらりと並び、それらの本も手に取って見ることもできるし、写真を撮ることもできるのです。

展示室の外に飾ってある地図も写真を撮りたい時は、なんと「取材」の腕章を渡されて、なんだか取材に来た記者になった気分でした(笑)。
これは外にいるスタッフさんに、「この人は写真撮影を許可した人ですよ。」って知らせるための腕章なんだと思います。
でもこれだけ貴重な資料を撮影できる展示って初めてなので、とても興奮しました。
気がついたら50枚近く写真撮ってました。

さて、これがどんな企画かというと、幕末、日本を訪れた外国の人々が日本を描いた絵(本の挿絵)を紹介したものです。
有名なのは写真家のフェリーチェ・ベアトや、トロイアの発掘をしたハインリヒ・シュリーマンなど。
あのシュリーマンがに来日していたことを知った時は本当に驚きました。

今回紹介されているオイレンブルク遠征隊は、1859年、プロイセン(ドイツ北東部の王国)が日本、清、シャムとの修好通商条約締結のために派遣された、 オイレンブルク伯爵を全権使節とする遠征隊です。
遠征隊は1860年に日本に到着し、1862年に帰国しました。

私などは、オイレンブルク遠征隊が政治的に何をしたかよりも、日本の自然や文化をどのように楽しんだかということばかり興味があって、 料理屋で厨房を覗いて叱られたり、美しい自然を満喫したり、といったその旅行記を楽しんでいます。
さらに当時の池上本門寺や亀戸天神、王子や富士山などの観光名所、日本の家屋や街道といったスケッチ(挿絵)が素晴らしく、それらが 今回展示されているのです。

でも展示そのものよりも、ドイツ語で書かれた本の挿絵の方に強烈に惹かれました。
どうして日本の風景や文化が、かくも多くの外国人に愛されたのか、実はとても不思議に思っています。
食事は口に合ったのでしょうか。
日本を無邪気に楽しむ外国人の姿は、当時の日本人の目にはどのように映ったのでしょうか。
そんなことをつらつあと考えながら見て来ました。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都千代田区日比谷公園1番4号

(2018年2月28日の日記)
3月7日王子稲荷神社の初午 2018年
王子稲荷神社の初午に行って来ました。
こちらの初午は初めてですが、関八州の狐が集まる稲荷神社の総社なので、一度は行かねばと思っていました。

初午という言葉はよく聞きますが、なぜ「初午」の日が特別なのか。
711年(和銅4年)、京都の伏見稲荷大社に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が、初午の日に伊奈利山に降臨されたのだそうです。
宇迦之御魂神は食を司る神です。

王子稲荷神社では毎年凧市が開催されます。
「凧は風を切る」の縁起をかついだもので、「火伏凧」と呼ばれています。
私はてっきりどこの稲荷神社でも凧市を行うものと思っていました。

ところが先日、江戸深川資料館で聞いたのですが、深川では「地口行灯」と言って、当時の駄洒落や、語呂合わせなどを行灯に絵と共に描き、 表通りから長屋の路地裏まで町中に飾る習慣があったそうです。
「忠臣蔵」から「ちょうちんぶら」、「嘘から出た真」から「うすから出た男」など、とぼけた絵と共に見てると笑いがこみ上げてきます。
でもこんな習慣、王子では聞いたことがありません。
深川のガイドさんも、火伏凧のことはご存知ありませんでした。

各地でいろんな習慣があるのかもしれませんね。
調べてみたらおもしろいかも。
私も王子稲荷神社で火伏凧を買いました。
凧の屋台も出ていて、いろんな絵柄、いろんな形の凧を安く売っているんですが、初めてなのでそこは王子稲荷の公式で(笑)。
資料室が解放されるので国認定重要美術品の「額面著色鬼女図」、谷文晁の龍図も観ることができましたが、残念ながら写真が 上手に撮れませんでした・・・。

他にも、信州長野の善光寺が大好きな私としては、「信州おやき」も欠かせません。
お昼を食べてから出かけたので、今回はおやきしか買いませんでしたが、屋台の食べ歩きも参詣の醍醐味です。
あとお土産に稲荷神社には欠かせないお稲荷さんと、これまた有名な石鍋商店の久寿餅を買って帰りました。
王子稲荷に来たら、これもまた欠かせませんね。
相変わらずの長蛇の列でした。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都北区岸町1丁目12-26

(2018年3月7日の日記)
2月日 佃島再訪
久しぶりに佃島に行って来た。
徳川家康と共に江戸にやって来た漁師達がここに住んで、地名を「佃島」とした歴史のおもしろさ。
あの長谷川平蔵に縁のある石川島の人足寄場(跡)。
さらに以前行った時は東日本大震災の1ヶ月後であったこと、佃大橋からまだ建設中だったスカイツリーが見えたことなどを思い出す。
もう7年になるのか・・・。

でも7年ぶりに私を迎えてくれた佃島の風景は、以前とほとんど変わらない。
住吉神社の赤い鳥居、人足寄場跡の灯台のモニュメント、老舗の佃煮屋さん、川に浮かぶ小舟。
今日も空は高く、青く気持ちがいい。
高くそびえ立つリバーシティ21は見ないふり(笑)。

ここに来ると不思議な懐かしさを感じるのはなぜだろう。
私は山育ちだが、水辺に来た時の方が懐かしさを感じる気がする。
川や海の水の流れをぼーっと見ていると飽きることがない。

今回は「天安」さんで佃煮を買った。
公式サイトに「『天安』の商号誕生は天保八年(1837年)に創業致し初代が「安吉」と申し、天保年間の天と 『安吉』の安をとり『天安』と商号を命名致しました。」と書いてある。
今回は「江戸風味( 削り節・白ごま・細切り昆布のふりかけ)」「葉唐辛子」、あと「わかさぎ」だったか、を買った。
普段は佃煮、漬物の類はほとんど買うことがない。
まあ贅沢品、の範疇かな?

でもこうして出かけた時にその地の名品を買うのは楽しい。
甘辛い味付けは、ご飯にとてもよくなじんでおいしかった。
そして今回も月島でもんじゃを食べる時間がなかった、残念。

ひとりごと」 にも写真を載せてあります。

★東京都中央区佃1-3-14(天安)



(2018年3月10日の日記)

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