犬夜叉考察 23
りんね5巻のおばけ杉
コミック版「境界のRINNE」は通して読むのが楽しみなだけで、それほど待ちわびるって感じはないが、今回ばかりは違った。
なにしろ悪霊に取り憑かれたヨーヨー少年ヨータのエピソード「おばけ杉」がどうなってるか、興味津々だったから。

「おばけ杉」は前後編のほのぼのストーリーだが、表記に「おばけ杉」と「お化け杉」の2つのバージョンが出てくる。
簡単に言うと、桜と翼が思い出話をしている時は「おばけ杉」だが、りんねが興味を持った瞬間から「お化け杉」と表示され、この後は桜と翼の台詞の中でも「お化け杉」に変わる。
ところが後編に入り、ヨータに取り憑いていた悪霊が退治されると、りんねも桜も「おばけ杉」に戻るのである。

これはとっても微妙だけどおもしろい設定。
後編がなければ単なる誤植で済ませられるのだけど、無理やり理由をつけることができないわけでもない。
つまり、おばけ杉に対して懐かしい思い出しかない桜と翼は小学生当時のまま「おばけ杉」と言っているけれど、話を聞いてたりんねがその杉に何らかの霊の気配を感じ、「お化け杉」と言い始める。

それに同業者の翼と、りんねと心が通じ合っている桜が無意識のうちに感応して、「お化け杉」に変わる。
悪霊がいなくなった杉に対しては、りんねも含むところがないから、素直に「おばけ杉」と言う、なんてね(笑)。
でも元々「お化け」だの「おばけ」だの気づいているのは、読んでる読者だけで、会話してるりんね達には、文字の見えない話言葉でしかあり得ないわけだから、まあかなり苦しいこじつけではある。

案の定「境界のRINNE」5巻では、あっさり「おばけ杉」に統一されてた。
まあ編集部の方でも気づいてたけど、修正する暇なくて、「いいや、このまま押し切っちゃえ、コミックで直しとこ」みたいなあたふたぶりが見え隠れするようなおもしろさ。
5巻の中ではタコさんウインナー編と同じくらい楽しませてもらった。

サンデー24号の表紙の煽りの部分ですでに「おばけ杉」になってるので、気づいてたんだろな、やっぱり。
(2010年9月17日の日記)
「ミラクル・ファミリー」と「うる星やつら」
柏葉幸子さんの名前は、映画「千と千尋の神隠し」に影響を与えた「霧のむこうのふしぎな町」を書いた作家ということで知った。
実際に読んでみたら、1人の少女が異世界で働くという基本的な部分以外、それほど共通したものは感じられなかったが、むしろ独立した一作品としておもしろく読んだ。
最近自分でもファンタジーづいているなあと思うのだが、柏葉作品は「霧のむこうのー」にしてもその他の作品にしても、それほど日常と離れていない、けれど日常じゃない世界、その微妙な狭間が、これまで読んだ明らかに異世界なファンタジーとは一線を画していて、不思議な魅力を感じた。

何度か読むうちに、映画で宮崎監督が訴えたかったものは、前記したような表面的な部分ばかりでなく、人との関わりなどもう少し深いものがあるなと思ったけれど、本には映画で時折感じられたいかにも教訓ですといった描写はなく、もっとさりげなく表現されていたことにも好感を持った。

この後もう2,3冊読んで、次に手にしたのが「ミラクル・ファミリー」だった。
これまで読んだ柏葉作品よりも、さらに日本的でいかにも現代的で、そして日常の中に小さな異世界がある、そしてその境界線がにじんで見える独特の雰囲気を持った作品。
テーマは「お父さん」で、9つの短編が収められているが、その1話目が「たぬき親父」。
驚いたことに、この中に「うる星やつら」が取り上げられていた。

「おれ」の部屋に入ってきた「親父」がマンガを読んで泣き始めるところから話は始まる。
以下本編より引用。

          ☆          ☆          ☆

「なにを見てるんだ?」
ぎこちなくかがみこむと、オヤジはやっときがついたようすで、てれくさそうにマンガをさしだした。
なんと、おれのオヤジは、『うる星やつら』を見てないたというわけだ。

「泣くほどおもしろいのか?」
おれはあきれてしまった。
そりゃあ、最後はおれだってジンときた。
でも、こんなドタバタしたマンガで泣けるもんだろうか。よほど、あきれ顔でオヤジを見ていたらしい。
オヤジは、「おまえは、知らないんだものなあ」と、おれにいう。
そして、またマンガをひらく。
どんなところで泣いているかと見れば、人間の女の子に恋をしたきつねが、人間に化けて町へやってくるというあたりだ。
おれはいすからおりて、オヤジのとなりにすわりこんでいた。
「なにを知らないんだ?」

おれには、この漫画と親父の涙がどうしてもつながらない。

          ☆          ☆          ☆

しのぶに助けられた子狐がしのぶを好きになって人間に化けて会いに行くって話、確かに狐は可愛かったし、心にじんと来る話だった。
でも私も泣くほど感動した記憶はない。
この後「おれ」と「親父」の間にどんな会話が交わされるかは、読む時のお楽しみにしてもらって(だってほんとにいい話なんだもの)、この本自体の素晴らしさもともかくとして、ここで「うる星やつら」が取り上げられてこんな風に使われていたことがとても嬉しかった。

そういえばジャーナリストの「不肖・宮嶋」こと宮嶋茂樹氏もどの本でだったか尊敬する人物3人の中に「諸星あたる」をあげていた。
「うる星やつら」の影響力って本当にすごいなあと、こういった発見をするたびに思う。
(2010年9月26日の日記)
星は千の顔
コンビニで思いっきり目立ってた派手な表紙に派手な色、読み始めて高橋先生楽しすぎて壊れちゃったんじゃないかと思った。
読んでる私も壊れちゃった、楽しすぎて。
話がどうとかじゃなくて、いきなり鯖人がまたまたホストでゲスト出演(しかも役名哀川だし本名翔だし)。
ヒロイン星野カナ(役名京極!ひかり)は桔梗に化けるしシスターアンジェラに化けるしほしのあきにも化けるしセーラー服着るし鞭持つし猫耳なるしメイドだし。

キャッツアイか怪盗キッドかって場面もあるし、テレビ局は「満天」だし宙太(勝平さん演じてたねえ)にラリアットかましてるしバニーガールやってるし。
翔の交際相手は巨乳アイドル「地々絵布子(Fカップなのね・・・)」だし。
私が気づかないだけで、マネージャーの「朔田」とかプロデューサーの「寒月」にもなんか意味があるんじゃないかと思ってしまった。

こっちのインパクトが強すぎて、初読した時は、ストーリーが全然頭に残らなかった。
が、とりあえずあらすじ追ってみると、失恋の挙句寒月を殺したと勘違いしてしまったグラビアアイドル兼女優のヒロイン星野カナは、ドラマの最終回のロケをすっぽかし、死に場所を求めて千葉県の海辺にあるペンション銀河荘にやって来る。

行方不明のカナに大騒ぎのテレビ局側と、人気タレントを迎え、大騒ぎの銀河荘。
「ツイッター」がハッピーエンドの鍵となるけど、それすら昭和の匂いを感じさせ、何?このモモレンジャーみたいなノリとカナの女優としてのプロ根性?にくすくす笑いが止まらず(コンビニで)、でも隣りでやっぱり「スピリッツ」読んでるお兄さんも笑っていたのでそれで良しとしよう。

いやなんか、ストーリーなんてもうどうでもいいや(いや、大事だけどさ、良くできてるけどさ)、カナのシャクレで家に帰って存分に笑ったし。
結局ドラマの最終回をきっちり?撮り上げて、恋の方はうやむやになったカナだけど、カナにも素敵な彼を用意して欲しかった気もする。
読み切りだけど、続編描いて欲しいなあ。
黒髪の堅実な青年登場で(黒髪だけど寒月はダメ)。
普通に翔でもいいと思うんだけどね、カナの相手としては(笑)。

高橋先生からは「久々のスピリッツ、楽しんで描きました(「めぞん一刻以来17年ぶりとか)」とのコメントが。
そして表紙に負けず劣らずのインパクトが裏表紙、BOSSの宣伝トミー・リー・ジョーンズのアップ。
並べて見れば、赤と黒、男と女の対比の迫力が、強烈に迫ってきます。
まるで狙ったみたいです。
(2010年10月4日の日記)
タタリモッケとたたりもっけ
アニメで「犬夜叉」と出会った頃、物語のおもしろさやキャラの魅力もさることながら、次々に登場する新手の妖怪に夢中になった。
オリジナルでありながら、たとえば飛天は雷神、満天は雷獣といった具合に、その造形に確かな日本のもののけ民話や伝承の影を見ることができ、その原型探しに必死になったものだった。
その中で最も印象が強く、けれども最も出所がわからなかった妖怪が「タタリモッケ」だった。

タタリモッケは「犬夜叉」において、幼子の魂から生じた妖怪。
子供の魂が成仏するまで見守るが、悪霊になりかけた真由は地獄に連れて行こうとする。
黄色い風船みたいな姿で魂鎮めの笛を吹き、地獄行きのカウントダウンに合わせて目を少しずつ見開いて行く。
愛嬌がありながら真由を連れ去ろうとする所業は恐ろしく、アニメで聞いたその笛の旋律は美しく、けれどタタリモッケ自体は悪ではない。
犬夜叉もタタリモッケと戦おうとせず、むしろかごめの無謀を止める側に回るという珍しい形で展開したエピソードだった。

このタタリモッケ、普通に変換すれば「祟り勿怪(もっけ=もののけ)」といういかにも実在そうな妖怪(実在そうな、と書くのも変だが)になるが、検索しても見当たらない。
当時よく参考にさせて頂いたデータベースをあさってみても出てこない。
というより「タタリモッケ」で検索すれば、全て「犬夜叉」感想につながってしまう時期だったこともあり、タタリモッケは完全に高橋先生の創作だと決めつけてしまった。

その後出た「高橋留美子原画全集 アニメ犬夜叉の世界」の用語辞典に「タタリモッケは青森県に伝えられる怪異のことで、モッケとは方言で赤ん坊のことを指している」とあったのに驚いた。
ではその「怪異」とは何か?その時もそこでつまづいた。

タタリモッケに関してはなんとなくそこで終わっていたのだが、先日「水木しげるの妖怪伝大画集」を見ていたら、ちゃんと掲載されていたのだ「たたりもっけ」が。
月夜の森の中、大きな目のフクロウのような「妖怪」がいて、魂のようなものがフクロウ妖怪に吸い寄せられているような絵だった。
これがタタリモッケの本体か、フクロウのような妖怪だから「犬夜叉」でも目が大きく時によってはまん丸くなり、フクロウの鳴き声のような音を響かせていたのか。
ところがこれまた大きな勘違い。

画集の説明によると「(たたりもっけとは)死んだ赤ん坊の口から出た魂のようなもの。
宿るところを求めて野山をさまよった末、梟の中に入る。」とあった。

つまり水木氏の解釈では、たたりもっけは怪異でも妖怪でもなく、いわゆる「子供の魂」そのものなんだ。
その魂に関わる梟の部分が、「犬夜叉」ではタタリモッケという妖怪の造形に生かされているというわけだ、これはおもしろい。

その後、もう一度「タタリモッケ」で検索かけたら、今度は伝承の方の「たたりもっけ」に関する資料が次々に出てきた。
さすがに「犬夜叉」絡みのタタリモッケの人気も根強かったが(笑)。
その中で気になったのがWikipedia。

水木氏解釈のたたりもっけ(死んだ子供の魂)ももちろんあったが、地域によっては殺された人間が加害者に祟る、それこそ「祟る勿怪」バージョンのたたりもっけもいるのだ。
そうなると、水木流たたりもっけは「魂」だけど、「祟り勿怪」は怪異から生じる妖怪と言えるかもしれない。
もしくは赤子の魂を吸い取る梟そのものがたたりもっけとして扱われることもあったかもしれない。
「犬夜叉」版タタリモッケがこれらの怪異のエッセンスを実にうまく使って、しかも愛らしく恐ろしい、さらに感動的な物語に仕上げていることは驚くばかり。

ただ不思議なのは、このたたりりもっけが何故青森県なのか、ということである。
飢饉や戦災で幼い子供が死ぬことが多かったのは、痛ましいことだが青森県ばかりではないだろう。
にもかかわらず「たたりもっけ」が発祥するのは青森県とされている根拠は何か。
他の地域には名前が違う、同様の妖怪なり怪異なりが存在すると考えることもできるし、「もっけ(物の怪の意味も持つ)」がたまたま青森県で赤ん坊を意味する方言だったことから「赤子の魂」版のたたりもっけが青森限定で生じたのかもしれない。

逆に「祟り勿怪」版はそれこそ日本全国津々浦々に名を変え姿を変えて存在するに十分だ。
ただイメージとしては、同じ怪異でも物の怪より幽霊の領分かな?っていう気もする。
もののけ、妖怪はあまり個人的にどうのこうのと存在するわけではないような、そんな気がするからなのだけど。

タタリモッケに関しては一段落したけど、この「生前の恨み晴らします」型もののけ、というより怪異についてはもう少し調べてみたいと思う。
久しぶりに「犬夜叉考察日記」に「犬夜叉」のこと書いた、楽しかった(笑)。
もっともっと「犬夜叉」に関するテーマが欲しいなあ・・・。
(2011年2月20日の日記)
隣家の悩み
なんて表紙が可愛い「ビックコミックオリジナル」。
しかも巻頭カラーで登場「隣家の悩み」。
ところで私、この作品を「りんけのなやみ」と読んでいたけど、変換しても出てこない。
「りんか」と打ったら「隣家」と出て来た、「りんけ」じゃ間違いだったのか?

一読しての感想は、なんてあっさりなんてさっぱり。
普通におもしろいけど「高橋留美子」じゃなかったら、立ち読みして終了だったかも。
「高橋留美子劇場」と言えば、日常のちょっとした出来事で笑わせてくれる、ほのぼのさせてくれる、じわんとさせてくれるのがお約束だけど、今回に限って言えば、それこそ「気楽に読める」漫画だった、それだけだった。

前回「星は千の顔」はストーリーもインパクトあったけど、キャラの魅力も印象強かった。
今回一番インパクトはぷっくり可愛い奥さんか(笑)。
なんて嬉しい、なんて可愛い。
あと年上好きな美人妻って設定がいい、年上にもほどがあるけど。
日本全国ぷっくり女性と恋をしている年配おじさんに元気をくれる、今回の「隣家の悩み」はそんな作品。

まあたまにはこんな気楽に読める作品もいいかもしれない。
ただ、玄関先で普通に喋ってる写真を浮気の証拠にされちゃあたまらない。
そんなところがちょっぴりホラー。
美しいって罪なのね(笑)。

「高橋留美子劇場」は今夏単行本化決定!
3巻まで出ているけど、まだ単行本化されてない作品は、読んでないのもあるので、これも楽しみ。
そういえばアニメはどうなったのかな?
「高橋留美子劇場」は短期集中で、ある意味「境界のRINNE」より作りやすいと思うけど。
(2011年3月5日の日記)
夢幻の白夜を考察する−1
先日、といってもだいぶ前のことになってしまったが、夢幻の白夜に関するメールを頂いた。
メールを下さったAさんの 夢幻の白夜に対する熱い想いを読んでいて思ったのは、Aさんには申し訳ないことに、 夢幻の白夜は私の中であまり印象に残らないキャラだったこと。
特に最終決戦においては、私の意識はほとんど奈落に集中していたし。

一番印象強かったことと言えば、高橋留美子展で上映された「黒い鉄砕牙」に(当時はアニメ完結編が出ることは発表されていない)、唯一の新キャラ(死神鬼とか鏡の妖は出てくるけど台詞がない)として無幻の白夜が登場したことだろうか。
「アニメで 夢幻の白夜を見ることができるとは!」とひどく興奮したことを覚えている。
他に 夢幻の白夜と言えば、物語も終盤になってから登場した→神楽や神無の代わりに奈落の手足となって動く存在として必要だ、くらいだったろうか。

今回考察するにあたって、もう一度原作を読み返してみたのだが、まず 夢幻の白夜が意外に早く登場していることに驚いた。
56巻558話まで続いた「犬夜叉」だが、 夢幻の白夜は40巻396話「毒蛟」で早くも登場しているのだ(エピソード単位で出てない時もある)。
しかもその時神無はちゃんと生きていた。
もちろん何度も読んで、ストーリーは把握していたはずなので、私の中で勝手に「最後だけ出た、神無も死んでから雑用係として出た」とイメージを作り上げていたのだった。
そんな白夜を改めて考察するのって、もしかしてとてもおもしろいかもと思い、早速40巻から読み始めた。

まずは「 夢幻の白夜」という名前、これは彼を表すのにうってつけな、秀逸なネーミングだと思う。
「夢幻」は夢、そして幻。
きわめてあいまいではかないイメージを持つ。
そして「白夜」。
昼のようで昼ではない、夜であっても闇はない、これもまた非常にあいまいな世界だ。

読み返して、私は 夢幻の白夜はこの名前に尽きると思った。
夢幻の白夜、けっこう残虐なことも平気でしているのだが、彼には「悪役」の雰囲気が感じられない。
奈落の命令でしているからではない。

最初蛇骨に似てるなって思ったが、蛇骨の場合、悪は悪と認識していて、その上で悪を楽しむ、自分の残虐性をわきまえているキャラだと思った。
だから飄々としていても、蛇骨は間違いなく悪役だった。
けれど 夢幻の白夜のイメージは・・・、なんていうのかな、「人懐っこい」というのが再読しての印象だった。

直接仕事!をしている時以外は傍観者に徹している場合が多いが、殺生丸と仲良く?会話しながら犬夜叉たちの戦闘を見物している場面が印象に残る。
殺生丸も本気になれば、 夢幻の白夜を殺すことなど造作もないことだろうに、奈落ほどの憎しみは持っていないようだし。
Aさんは 夢幻の白夜役の真殿光昭さんの「無幻の白夜は寂しがり屋」とのコメントを紹介してくれたし(「アニメージュ」2010年4月号掲載)、Wikipediaには「奈落とは共同体で奈落が手傷を負うと白夜も同じダメージを受ける。その為分身達の中で唯一最期まで奈落に忠実だった。」とある。

奈落と同じダメージ云々も確かにそうだろうが、私はむしろ、 夢幻の白夜というキャラは「執着」のないキャラだと思った。
生への執着、自由への執着、他者への執着(恋愛含む)がこれまで様々なキャラを形作っていた。
桔梗への恋心という執着があったからこそ鬼蜘蛛は奈落に生まれ変わり、自由への執着があったからこそ神楽は奈落を裏切り、殺された。
そういう、それぞれのキャラを個性づける「あく」のようなものが 夢幻の白夜には全く感じられない。

奈落を嫌いでもないし、犬夜叉を憎んでもいない。
殺されようとしている琥珀や神無を哀れんでいるようには見えないし、殺すにためらいはないし、殺しても苦しむまい。
だからといって殺したいかといえばそうでもなく、楽しんでもいない。
奈落や殺生丸、犬夜叉、誰に殺されたとしても恨みはしないだろう。

恋が生まれ、悲しみが生まれ、恨みが生まれ、妄執が生まれるための基本的な心の湿り、そんな部分が 夢幻の白夜には全く感じられない。
だから犬夜叉や殺生丸にも平気で接するし、奈落に忠実に見えたのだろう。
奈落を裏切らないのは、忠実だからではなく、奈落を裏切るだけの他への執着がないからではないか、そう思った。
たとえ奈落と体に受けるダメージの部分で一心同体だったとしても。

神楽も奈落に心臓を握られていたが、奈落を裏切る心を抑えることはできなかった。
たとえその結果が死に向かうとわかってはいても。
「あく」「心の湿り」と私は表現したけれど、「犬夜叉」の世界ではそれを「人の心」と表現している。

〜この項続く〜
(2011年5月9日の日記)
夢幻の白夜を考察する−2
以前「人の心 妖怪の心」「奈落の生きる意味」(「 犬夜叉考察18」 参照)で考察したけれど、初期の犬夜叉も奈落も、桔梗に対する想いを「人の心の弱さゆえ」と解釈している。

初期犬夜叉は「妖怪になれば、心も強くなれるのか? 桔梗のことも忘れて・・・」と思い、奈落は「覚えておけ 奈落。きさまは私を殺せない。
きさまが人間の心を残す限り・・・ 半妖である限り。」と桔梗に言われて「そうだ、だからこそ・・・ わしは妖怪になろうとしている。」と心に思うのである。
殺生丸を見るまでもなく、1話ごとに出て来て退治される、むしろ動物に近い雑魚妖怪はともかく、純粋な妖怪だとて苦しむ者は苦しむし、他への執着はある。
にもかかわらず、「犬夜叉」では他への執着は全て「人の心」のせいにされる。

人も妖怪も関係ない、「心」を全て捨てなければ犬夜叉も奈落も桔梗を忘れることはできない。
完全な妖怪の血に心を奪われた犬夜叉や、四魂の玉に心を奪われた奈落にならない限り無理なのである。
でもその状態の奈落や犬夜叉は、奈落と犬夜叉がなりたかった理想の妖怪像ではない。
他に支配されて、己を失っただけである。
ある意味夢幻の白夜こそかつての犬夜叉や奈落がなりたかった究極のキャラなのではないかと私は思う。

では何故夢幻の白夜は執着のないキャラになり得たか。
ここでまた「犬夜叉」における「人の心」が登場する。
夢幻の白夜を生み出して後、奈落は白霊山に赴き、捨てたはずの「人の心(奈落曰く負の心)」を取り戻す。
つまり、夢幻の白夜が生まれた時期、奈落の中には「人の心」がなかったことになる。

だからこそ「他に執着することのない=奈落を裏切る必要がない=犬夜叉たちを憎む必要も憎まれる必要もない」無幻の白夜というキャラが生まれたという設定ではないだろうか。
その白でもなく黒でもない、だからと言って輝いてもいないしくすんでもいない、飄々とした物腰や、人懐っこさなど表面の部分を除いてしまえば、限りなくあいまいではかなくて捉えどころのない、その内面が見えてくる。
それは夢であり、幻であり、闇のない朧な夜である。
夢幻の白夜の立ち位置はそこにあるのではないだろうか。

では奈落や夢幻の白夜がそのまま生き続けていたら、いつか夢幻の白夜は奈落を裏切っていただろうか、それはないと思う。
奈落に忠実に作られていたから、ではなく奈落が嫌いじゃなかったから、そして奈落を裏切ってまで得たいもの、執着が生まれなかっただろうから。
また、最後の時の割り切ったあっけないとさえ思える台詞も、以前は神無の死など見ていて、いつかこうなることを覚悟していたのかと思っていたが、むしろ生への執着がなかったからと思うようになった。

だからAさんは夢幻の白夜の最後に、彼は救われないキャラだったのかと書いていたが、私は救われないとか不幸とかそういった感覚は元より持たない、そういった感情を超越したところにいたキャラだと、飄々と生きて、飄々と死に逝く、本人としては楽しい生き様だったのではないかと思う。
夢幻の白夜はどんな人生を送っていたとしても、それ以上でもそれ以下でもあり得ない、夢の世界で幻のように生きていたんじゃないかとも思う。
犬夜叉や奈落の葛藤と比べて、それはあまりにあいまいで、でもある意味うらやましい。

私が夢幻の白夜で強く意識したのはこの性格的な部分だったが、夢幻の白夜の造形に関しては難しい。
たとえば夢幻の白夜の着物には炎が描かれているように見えるが、そのイメージだとお不動さんこと不動明王。
「犬夜叉」は仏教など民間含め信仰関係をかなり取り入れているので、考えられないことではないが、全く類似点はなく、神楽の風や羽、神無の無と鏡のように、ただのイメージだろう。
ただ夢幻の白夜は炎を操るが、あまり炎というイメージはない。
蓮と幻、かな?私の印象だと。

蓮は仏教における重要な植物で芥川龍之介「蜘蛛の糸」を髣髴させる。
蜘蛛の糸をお釈迦様が蓮の間から垂らす部分は、白霊山で奈落が救い上げた「人の心」が蜘蛛となって奈落の手に乗るシーンを思い出す。
時々使う瓢箪は「西遊記」だし(懐かしの桃果人も思い出して笑いそうで困った)、折鶴は、雲や羽や動物以外で空飛ぶ乗り物としてうってつけだったのではないかと思う。
刀身のない刀は、すみません、ダースベイダー、ライトセーバーという言葉が頭に浮かびました。

冗談はさておき、実質的に「斬らない刀」「吸い込む刀」のイメージだったのではないかと思う。
弥勒の風穴同様、吸い込み口兼入れ物であって、冥道残月破を吸い込み、その世界を見えない刀身に留め置く、かごめを吸い込み、冥道の中に留め置く。
刀であって刀でない、便宜上刀の形をしているが、極端な話瓢箪でも扇でも何でも良かったのではないか。
かごめを瓢箪で吸い込んだりしたら、絵的にあまりにアレだし、「刀身のない刀」という謎を持たせるという意味では、これもベストなアイテムだったのではないかと・・・。

夢幻の白夜、最初に書いた通り、これまであまり印象にないキャラだったが、彼に焦点を絞って読み返してみたら、限りなく興味深い少年に見えてきた。
また、久しぶりに(冷静に)「犬夜叉」を読み返して、当時とはまた違った感想や解釈が出て来たのもおもしろかった。

相変わらずくどく、長く、わかりづらい考察となってしまいましたが(しかもたぶん間違えてる)、40巻から読み始めてまた1巻に戻ったり、とても楽しい時間を過ごすことができました。
素敵なテーマを下さったAさん、ありがとうございました。
(2011年5月10日の日記)
「境界のRINNE」と「ゴーストハント」
今一番好きな漫画と言えば「境界のRINNE」と「ゴーストハント」。
コミック揃えて夢中になって読んでいるにもかかわらず、つい最近までこの2作品が同じテーマを扱っていることに気づかなかった(笑)。
あまりに雰囲気が違いすぎるせいだろうか。
そのテーマとはいわゆる「悪霊払い」。
まあこの一言で括ってしまうには両作品とも事件の幅があり過ぎるが、まずは作品の説明から始めてみたい。

「境界のRINNE」は高橋留美子先生の「犬夜叉」に続く「少年サンデー」掲載作品で、現在も連載中(間もなく100話に到達予定)。
主人公は六道りんねという名前の高校生。
どちらかというと、この世に未練を残して成仏できずにいる霊を助ける展開が多い。

他に真宮桜、十文字翼、鳳などの特殊能力を持つ仲間がいる。
基本的に通っている学校内かその近辺で事件が起こり、社会での認知度は低い(はず)。
「鎮魂コメディー」と称されているように、たとえ悪霊が出て来てもほとんどギャグで終わってしまう。

一方「ゴーストハント」は「十二国記」の小野不由美先生の原作「悪霊」シリーズをいなだ詩穂先生が漫画化したもの。
私が原作を知ったのは「十二国記」を読んでからだが、原作は1989年から1992年まで7冊が刊行された。
ちなみに1989年は昭和から平成に変わった記念すべき年。
原作は諸々の事情から絶版状態になっており、入手困難なため、再販が待たれていた。
後に「ゴーストハント」のタイトルで漫画化、アニメ化され、2010年(平成22年)より、大幅に修正された原作リライト版が刊行開始した。

こちらの主人公は渋谷一也(通称ナル)、やはり10代の少年だが、イギリスの心霊現象研究協会(SPR)に所属している優秀な超心理学者であり、自身も強力なPK(念力)を持つ超能力者。
素性を隠して渋谷に臨時の日本支部を開き、依頼を受けるとゴーストハントを行う。
協力者には僧侶、巫女、霊媒師などその道のプロが顔を揃え、協力して悪霊払いや浄化を行う。
その範囲は日本全国にまたがり、規模も大きい。

ヒロイン谷山麻衣を中心に日常では笑えるやり取りも多いが、凄味のあるホラー作家の作品だけに、ほとんどの霊が凶悪、強力でシリアスな展開が多い。
時に超能力が絡む事件もあるが、払う方も命がけで描写も相当怖い。
私の妹がうちに泊まってた間、寝る前に「ゴーストハント」を読んでいたが、「最後にりんねを1冊読まないと、怖くて眠れない。」と言ったほど(笑)。
どちらの作品も作者の持ち味を生かしていておもしろいのだが、ギャグとシリアスの差が激しいだけに同テーマと気づかなかったのか・・・。

ところでこの2つには、他にもおもしろい対比が見られる。
ひとつは「お金持ちと貧乏」。
りんねは基本的に貧乏、学校のクラブ棟に勝手に住み、制服を買うお金もないと、中学校時代のジャージを着用。
薔薇の造花を作る内職にいそしむなど、その清貧は「エロイカより愛をこめて」のジェイムズ君といい勝負、いやさすがにそこまでひどくはないか。

かたやナルは国際的な研究機関の超高価機材をビシバシ使い、調査のためならお金に糸目はつけない。
百円単位が基準のりんねが聞いたら卒倒しそうな使いっぷり。

だがこの2作品の一番大きな違いは主人公の正体。
霊の規模でも活動の規模でもお金の規模でもナルにかなわなかったりんねがここで、まさかの大逆転。
ナルは、つまり渋谷一也は、日本人ではなかった。
本名はオリヴァー・デイヴィス、アメリカ生まれのイギリス国籍で、前述のとおり有名な研究者で超能力者、まありんねに比べれば常識人である。

りんねは実は人ではない。
死神の祖母と人間の祖父を持つ、半神半人なのである。
あっ、ハーフなのは父親鯖人(さばと)か、母親が死神か人間かは不明。
理由があって変な字が当てられてるけど、「サバト」は「魔女」、「六道りんね」は「迷いのある者が輪廻する6つの世界」を表す仏教用語で、この辺は凝っている。
死神だけに、その仕事は寿命が来た者をあの世に送る、未練ある者を成仏させる、悪霊になった者を浄化するなど、「死神道具」を使って行うのだ。

だから格において、りんねの方がナルより上なはずなのだが、そうは見えないんだよなあ(笑)。
何かの事件で2人が鉢合わせ、傲岸不遜なナルに、りんねがどう出るかちゃっかり乗っかるか見てみたい気がする。
桜と麻衣は気が合いそうだし、鳳と妖艶美女(でも気が強い)の松崎綾子は大喧嘩になりそうだし、りんねの契約黒猫(僕)の六文などはみんなに可愛がられそう。
ついでに戦国時代から弥勒にも来てもらって法力使わせたら、世界最強の「ゴーストハント」チームができそうな気がする。

ほんと、こんなに似た設定(りんねが死神なことをのぞいて)な「境界のRINNE」と「ゴーストハント」なのに、その類似点に気づかなかったのは、やはり両作品の対極的な個性のせいだろう。
おもしろい物はとことんおもしろく、怖い物はとことん怖く、その描き分けのセンスはさすが大御所、とうなされるばかり。
蛇足だが、高橋先生も「人魚」シリーズではとことんシリアスな怖さを描き切っているし、小野先生も「十二国記」ではふわりと優しい世界を描写している。
出会って良かった2作品、一緒に読めてほんとに良かった2作品、皆さんもよかったら是非手に取ってみてください、おもしろいですよ!
 (2010年5月28日の日記) 
運命の鳥
表題作「運命の鳥」を含む「ごく普通の人々の日常に詰まった6編の人生劇場」が掲載された短編集。
最初から読み始めてすぐ、「順番が違う・・・。」と感じた。

掲載順は                  発表順だと
・「ポジティブ・クッキング」          ・「ポジティブ・クッキング」(2006年)
  ・「年甲斐もなく」                ・「事件の現場」(2007年)
           ・「運命の鳥」                 ・「しあわせリスト」(2008年)
・「しあわせリスト」              ・「運命の鳥」(2009年)
・「隣家の悩み」                ・「年甲斐もなく」(2010年)
・「事件の現場」                ・「隣家の悩み」(2011年)

となっている。
最後の「事件の現場」などは、もしかしたら読んでなかったかもしれないと思うほど印象が薄いが、なるほど4年前の作品なら読んでないこともあり得る。
発表順と、まとめた時の掲載順が違うのは、珍しいことではないかもしれないが、最近京極夏彦著「魍魎の匣」をまた読んでるので気になった。
「魍魎の匣」で作家の関口巽がそれまで出した短編を単行本化することになり、その掲載順に悩む。
編集者は普通に発表順に並べるのだが、関口としてはそれでは具合が悪いのだ。

でもなぜ嫌なのか、自分でもわからずにいるのだが、そこへ京極堂こと中禅寺秋彦がアドバイスする。
関口の作品は、実は本人の体験を基にした私小説で、しかし事実を作品として昇華させる能力が高いために、気づかれにくい(本人にもよくわかっていない)。
そこで京極堂は、作品の発表された順番ではなく、元になった事件の起きた順に書き並べたリストを用意するのである。
本筋には関係ないが、「魍魎の匣」の中でも好きな部分なので、印象が強い。
ならば「運命の鳥」はなぜこの掲載順になったのだろう。

★「ポジティブ・クッキング」
家庭にこもって家事や介護に明け暮れていた妻が、ある日突然料理に目覚め、家を「ほったらかしにして」料理教室やテレビ出演に張り切り出す。
これまで世話してくれて当然と思っていた夫や義父は、取り残されたような気持になり、はりきり妻に振り回されつつも、なんとかして日常を取り戻そうとする。

妻があけっぴろげに明るくて、夫や義父がとぼけているので、殺伐とした印象にならず、大笑いしながら読めちゃう作品。
でも妻の気持ちもまたよくわかる。
別に家族に自分の大切さを知らしめたいなんて下心もなく、でもちょっと寂しかったんだって言いたげな妻の笑顔が嬉しい。

★「年甲斐もなく」 
ギャグはギャグでも意外にダーク。
恋愛だろうがなんだろうが、老人が若い女性に貢ぐ姿に変わりはなく、「それでいいのか?」気分がいっぱい。
最後に「実はこうだった」とほろりとさせてはくれるが、大人の立場で読むと現実こんなもんじゃないだろうって思う。
やっぱり貢ぐのは孫だけにしといた方が無難です(笑)。

★「運命の鳥」
この話が一番好き。
マスターが出会う誰よりも、マスター自身がいい。
マスターは自分の周りは見えないようだけど、マスターに鳥が群がっていた時期はあったのだろうか。
五木ひろみの幸せな姿を見たマスターの周りから、見えない鳥の群れが一気に飛び立ったような気がする。

★「しあわせリスト」
ストーリーよりも登場人物の名字が気になって仕方がない(笑)。
字は違うけど大トロさん、フカヒレさん、和牛さん、イベリコ(豚のとんかつはおいしい)さんに蟹江さん。
りんねが卒倒しそうな名字の面々の絵に描いたような?幸せ家族で、でも今回の被害者。
中谷さんは何故か普通、主役の並木さんも普通だけど、微妙なのが下田さん。

実はこの名前の差が事件解決の大きなヒントとなる。
後味は決して良くはなく、それでいて「何であれ普通が一番!」と凡人の醍醐味、平凡な幸せをかみしめることとなる。

★「隣家の悩み」
つい最近読んだばかりの最新作。
まんまる奥さんで笑いを取るけど、話自体は可もなく不可もなく。
サラリーマンの悲哀を描く、そのネタのおもしろさがるーみっく。

★「事件の現場」
2番目に古い発表作の「事件の現場」を最後に持って来たのが不思議。
家庭が崩壊しそうになって、危ういところで踏みとどまって。
6編の中で一番現実的で身に沁みる話だけれど、やっぱりそんなに明るくない。

私だったら「運命の鳥」で最後を締めるかな、でもそれだとありきたりなのかな。
  普通に出版順でもいいような気がする6編の掲載順、何か意味があるのだろうか。
最後に一つ不思議だったこと、ナメコの味噌汁に大根おろし、味噌汁に大根おろし、ナメコだから大根おろし?不思議だ・・・。
(2011年7月24日の日記)
やましい出来事
「春の吉例スペシャル読切!
人生の嵐を迎え撃つ!?巻頭カラー!!」

仰々しい煽りに似合わぬやましい「オヤジ」のやましい「記憶」。
特にどうという話でもなく、特にどうという人もおらず、中年の悲哀だけが淡々と語られる。
なのにしみじみおもしろいんだ。

たとえば「犬夜叉」や「境界のRINNE」とどっちが好き?と聞かれたら、迷わず犬夜叉とりんね。
でもどっちが身につまされる?って聞かれたら、やっぱりこっち。
いえ特にやましい記憶はないのだけれど(笑)。

「高橋留美子劇場」のおもしろさがわかるのは、ある程度の年を重ねた大人かな?って個人的に思っているのだけれど、どうなのかな?
それにしても昔付き合っていた(一応プラトニック)キャバクラ嬢がすっかり落ち着いて、息子の恋人として家に来る。
一つ間違えば泥沼離婚劇の始まりになるところ、あまりに枯れ果てた小堺(オヤジ)と、なんだか高橋先生に雰囲気似てるぞ、な彩花の気持ちのすれ違い。
すれ違いと言ってもうろうろおろおろしているのは小堺の方だけで、ばれそうになった時の彩花のフォローの見事なことと言ったら、もう笑うしかない。

男ってこうなのかな?、女ってこうなのかな?
やましさに口を噤むのが男であり、後ろめたさもなく、明け透けなのが女だ、そうなのかな?
男は話を聞かず、女は地図が読めない、うん、それはそうだ。
男は度胸なのかな?女は愛嬌なのかな?
男は理屈で女は直感で行動するのかな?うんそれもそれっぽい。
少なくともうちはそうだ。

基本的に「高橋留美子劇場」は男と女を描く。
犬夜叉やりんねが基本少年主人公なのに対し、大人の男と女を描く。
だから眩しくない、読んでて恥ずかしかったり哀れだったり、時には汚かったりする(笑える程度に)。
それが身近でリアルで惹かれるのかも。

年に一度のペースもいい。
これからも高橋先生には「高橋留美子劇場」を描いてほしい。
対照的な「男」と「女」。
綺麗じゃない、眩しくない、リアルで身近な「男」と「女」。

でもやっぱり私は犬夜叉やりんねの方が好きだなあ。
私自身の中身がまだ子供なのかも。

ところでドラマの方だけど、私としては最近の作品の方がなじんでいるので、やはり「運命の鳥」か「ポジティブクッキング」がいいなあ。
「やましい出来事」の方がドラマ映えしそうだけど、必要以上にドタバタギャグにしそうな怖さがある。
ドタバタだったら「星は千の顔」がいいけど、「高橋留美子劇場」じゃないから無理か(笑)。
「星はー」はコミック化どうなるんだろ。
(2012年3月8日の日記)
「高橋留美子×畠中恵 相思相愛対談」感想
いっちばん (新潮文庫) 」参照

          ☆           ☆           ☆          

畠中恵「しゃばけ」シリーズは舞台は江戸、主役は妖(あやかし)の血を引き、妖の姿を見ることができ、妖に囲まれて生活している大店長崎屋の若だんな。
ひ弱な体質ですぐ寝込み、病に関しては大ベテランだが、心優しく頭も良い。
妖達の力を借りて、江戸の街に起こる様々な事件を解決して行く。

と言ってもミステリーでも捕り物帳でもなく、ジャンルで言うならファンタジー。
若だんな一太郎や彼を取り巻く人間達の成長物語でもあるので、私流にジャンルをつけるなら、ミステリー風味の和風もののけコージーファンタジーとでもしたいところ。
とにかくおもしろい、とにかくおいしそう、とにかく心温まる、そんなエピソードばかりで、私としては珍しく、新刊出ると必ず買うシリーズの一つ(基本図書館で借りれる本は買わない主義)。
「いっちばん」はそのしゃばけシリーズ第7弾である。

ところが新刊買いが裏目に出て、平成22年12月に出た文庫版に、文庫化記念の 「高橋留美子×畠中恵 相思相愛対談」が掲載されていることは全然知らなかった。
先日メル友Eさんに教えてもらい、慌てて買った次第。

「高橋留美子先生の大ファンなので、お会いしてみたいんです・・・・・・」
そう告白しただけで対談が実現するのだからうらやましい。
漫画と小説というジャンルの違いこそあれど、作品を生み出す職業であることに変わりはないので、評論家との対談とは違った具体的な制作過程などが話題になっててとても興味深かった。
私がこれまで読んだ限りでは、畑違いの人との対談だと、高橋先生もどちらかというと観念的な話題が多かったように思っていたので。

さらに畠中先生がもうワクワクドキドキで、ファン対談のような趣になっているので(当然か)、内容が高橋先生の方に比重がかかっているように思えておもしろい。
高橋先生も畠中先生を立てて、話題を振っているのだけれど(笑)。

実際高橋先生もしゃばけシリーズのファンで(お兄さんに勧められたのだそう)、全巻揃えているとか。
「時代小説の中には、江戸の空気が描けていなくて、読んでいて『これはいくらなんでも江戸じゃないだろう』とつっこみたくなるものも時たまある」と手厳しい指摘をした上で、「江戸の風のようなものが自然に感じられる」しゃばけを絶賛。
中でも屏風のぞきが好きらしい。
それから「震々(ぶるぶる)」というお化けを引き合いに出して、これは「自分でぶるぶる震えているだけ、という妖怪で、このように日本には別に人を脅そうとするわけではなく、のんきな奴らが多い」と考察。

理由としては日本に人食い動物があまりいなかったから。
「熊はともかく、オオカミ、虎に襲われたりということが、外国に比べると少ない」から「日本の妖怪たちは、本当に怖い西洋の鬼のようにならずに、中途半端な愛すべき存在になったんじゃないかな」と。
これに対して畠中先は「国がぐるっと海に囲まれて、常に侵略の脅威にさらされているという感じが薄いのかも」と語る。
ここは是非京極夏彦先生に乱入してもらって、宗教やら民族伝承やらについて3人で激論を交わして欲しかった(笑)。

この後お互いの作品の書き方に話が移って、高橋先生がキャラが自分の思い通りに動いてくれない苦労や、綿密な打ち合わせについて語り、逆に畠中先生はあまり打ち合わせをしなくなったと語る。
私などは「えっ?それで大丈夫なの?」と驚いたが、そこは漫画家と小説家の違いらしいとあっさり。
もちろん性格の違いや、週連載ならではの必要性はあるだろうけど。

畠中先生は息詰まると東京駅周辺の大型書店を回って資料探しをするとのこと。
高橋先生はここは何も言わなかったけど、以前サンデーではスランプの時は「寝る」と回答していた。

話はそれから執筆時間へ。
高橋先生は完全に夜型で、その細かなスケジュールにはかなり驚かされた。
漫画は夜の方が描きやすいとのこと。
反対に畠中先生は常識的な生活サイクル。

「めぞん一刻」と「うる星やつら」の同時連載当時、互いの作品が息抜きになっていたというのは前から何度か語られているけれど、月に110枚くらい描いて、さらに「人魚」シリーズなども描いてたというのは、描いてたこと自体よりも、ストーリーを思いつく頭の方に愕然とさせられる。
メディア化に関しては、どちらもあまり口出しをしない方がいいと意見が一致。
「犬夜叉」アニメに関しては、高橋先生の本音を聞いてみたい気がするが、いくらお任せとは言っても制作側の苦労は知ってるわけだから、解釈や描写に違和感を感じるとこはあっても反感と言ったようなものは浮かばないんだろうな、とも思う。

最後は互いに師事した都筑道夫先生と小池一夫先生について。
「ラストシーンで主人公に印象的な笑顔をさせるといいよ」と習ったけれど、当時は意味なくキャラをニコッとさせていた。
でも「めぞん一刻」でラストで自然とヒロインがニコッと笑っていた、その時教えの意味に気付いたとの高橋先生のコメントが印象的。

今度は高橋先生が好きな作家として挙げていた京極夏彦先生との対談を是非実現させて欲しい。
京極先生も「犬夜叉」に関心を持っていたので、難しいことではないと思うのだが・・・。
(2012年3月25日の日記)
ドラマ「高橋留美子劇場〜赤い花束」
★原作
・高橋留美子傑作集「赤い花束」より「赤い花束」
・高橋留美子傑作集「Pの悲劇」より「鉢の中」
・高橋留美子傑作集「専務の犬」より「迷走家族F(ファイヤー)」

          ☆           ☆           ☆          

「めぞん一刻」や「らんま1/2」と「高橋留美子劇場」の差は、シリーズを通しての主役となる人物がいるかいないかだろう。
私は小説以上に漫画の実写化に抵抗がある方だが、それは漫画ではすでに顔が描かれており、時にはアニメになって声まで聞いているから、実写で全く違う顔違う声で出て来られると、演技がどうこう以前にあまり見たくなくなる。
しかし「高橋留美子劇場」の場合は、目立ったシリーズキャラはおらず、さらに登場するのは平々凡々とした人物が多く、描かれるのも実際に起こり得るようなリアルな世界である。
極端に言えば、演じるのは誰でもいい感じ。
(だからと言って今回小日向文世さんが演じた役を木村拓哉さんや福山雅治さんが演じたりしたらおかしなことにはなるが。)

さて、今回の「赤い花束」、おもしろかった。
特に表題作の「赤い花束」、笑った泣けたおもしろかった。
小日向さんの顔の演技が素晴らしすぎる。
喋っている時より、表情だけで演じている時が素晴らしかった。
最初から最後までおかしな恰好のままなのだけど、最初は笑えたその恰好がだんだん物悲しく、おなかの落書きが吉本一の人生の悲哀をそのまま表しているような気持ちになってくる。

公式サイト」の高橋先生のメッセージにあったが、原田美枝子さんは以前「犬夜叉」の映画「鏡の中の夢幻城」に神久夜役で出演済み。
落ち着いた物腰で素敵だった。
スタッフブログ」で撮影に入る前から、「笑いが止まらなくなったらごめんなさい」と何度も言っていたが、見えないはずの小日向さんの姿に爆笑したとのことで写真もついていた。
これが楽しくて、冷たい妻を演じている原田さんを見ながら、ついにやにやしてしまう。

小日向さんは最初上半身裸の宴会芸姿の霊ということで断ろうと思ったが、奥様が高橋先生のファンで、「是非やって欲しい」と頼まれ、出演を決意したとか。
小日向さんの奥様、本当にありがとう。

「高橋留美子」の実写化なんだけど、必要以上に「高橋留美子」を押し出すことなく、ただ演じる役者さんに(俳優さんじゃなく役者さんってイメージ)に「高橋留美子」の匂いがある。
そこがいい。
見ていると、それが「高橋留美子劇場」であることをつい忘れてしまうんだけど、終わってみればやはりそれは「高橋留美子」の世界だった。

山田まりやさんは華やかなモデルのイメージしかなくて、浮くんじゃないかと心配していたのだが、しっかり「高橋留美子」の匂いがした、昭和の匂い。
素朴で派手じゃなくて、いい意味で裏切られた。
ちょっと残念なのが学生服の少年少女はどう見ても平成だよなあ、昭和じゃない(笑)。
これは演じる人がどうこうじゃなく、仕方のない部分。

赤いバラをキーアイテムに、3つの原作をうまくまとめていたけど、そこはやはりぶつ切れ感が否めなかった。
特に「赤い花束」は通してじっくり見たかった。
3つの話がつながっているのはいい着眼点だと思うので、オムニバス形式にしたらどうだったろう。
次回はやっぱり「君がいるだけで」が楽しみ。
綿引勝彦さん、スタッフブログの着ぐるみ姿が可愛すぎる。
このタイトルで米米CLUBが聴きたくなってくる。
(2012年7月14日の日記)
ドラマ「高橋留美子劇場〜運命の鳥」
★原作
・高橋留美子傑作集「運命の鳥」より「運命の鳥」
・高橋留美子傑作集「専務の犬」より「専務の犬」
・高橋留美子傑作集「専務の犬」より「君がいるだけで」

          ☆           ☆           ☆          

第2章「運命の鳥」は原作「運命の鳥」の設定を変えたせいか、第1章「赤い花束」よりもバランス良い作品に仕上がったように思えた。
(「赤い花束」は原作「赤い花束」がメインで他2作がおまけといった感じだった。)

第1章の主役は小日向文世さんだったが、今回の主役は文句なしに綿引勝彦さんだろう。
怖い笑顔に漂う哀愁、不器用で頑固な姿勢が煙たがられる存在だが、迷惑な人間を一喝する場面にはある種のカタルシスがある。
「私の代わりにあなたが怒って下さった、だからあなたの分まで、私が頭を下げた。」
ただひたすら頭を下げる、なんとかやり過ごす、そんな無難な人々を代表して出る店長さんに台詞には、笑いを越えた切なさがある。
こういう小市民的な葛藤を笑いと共に描くと右に出る者はいない(と私が信じる)高橋留美子の世界を、今回も壊すことなくうまく作っていたと思うが、「専務の犬」は勝手な上司に振り回される様があまりにリアルで、こちらは笑いを越えて煮えくり返った(笑)。
でもカンナとのツーショットを定期入れ?に入れてる惣一に対する突っ込みはなしなのね。
時間がなかったのかな?

1章2章通しての主役と言えるのが、村上淳さん演じる鳥居秀司。
原作の枯れた中年男性のマスターが味があって好きだったのでちょっと残念。
でも原作を切り離して見れば、間違ってはいないか。
お店の名前が「鳥の巣」ってのは最初からかなり笑える(原作と同じ)。
お店の内装もマスターが若返った分おしゃれになっていた。

ただCGの赤い鳥に気合が入り過ぎて、画面から浮いてるのがちょっとなあ・・・。
じゃあどうすれば?と聞かれれば困るけど、CGをかなり意識させられる使い方だった。

「赤い花束」感想で書いたように、シリーズの「顔」のない作品だけに見る側にも抵抗がなく、「高橋留美子」の世界を壊さずに作ろうという「ファン」の心意気みたいなものが感じられたのには好感が持てた。
なんていうのかな、どぎつく笑わせようとしないところが良かった。
原作派の自分を自覚しているので、見る前に原作を読み返ししなかったのもドラマを楽しむ上で良かったと思う(笑)。
今後も「高橋留美子劇場」ドラマ化して欲しい。
「犬夜叉」や「境界のRINNE」は実写化されても見ないだろうけど。

全体的に好きなベスト3は「赤い花束」「君がいるだけで」「専務の犬」。
「運命の鳥」は設定を持ってきただけで、ストーリーがあってないようなものだったし、「鉢の中」はもうちょっと突っ込んでほしかったなあ。
ただストーリーをなぞっただけにしか見えないのが惜しい。

そしてやっぱり気になるのは、3つの話をごちゃまぜにしたことと、放映の順番。
端折り過ぎなのは芸達者な役者さんの演技で原作を思い出し笑いできたけど、原作を知らない人の感想が気になるところ。
鳥居秀司が全体の主役兼狂言回しのような役どころとなっているので、どうしても「赤い花束」→「運命の鳥」になってしまうわけだが、どう見ても「運命の鳥」→「赤い花束」だろう。
どちらかと言えばドタバタ喜劇な「専務の犬」や「君がいるだけで」で笑わせてしんみり泣かせて、最後の締めは「赤い花束」だろう。
惜しいなあ、本当に惜しい。

脚本のオカモト國ヒコさんのメッセージにも何も書いてないので、何故このような形になったのかはわからないが、鳥居秀司を主役に据えることによって、最初に「赤い花束(原作)」を見る羽目になったのはもったいなかった。 それでも第1章と第2章、ちょっと彩度を落とした赤(薔薇と鳥)をテーマカラーにして、あえてベテランの役者さんを揃えて、原作者への愛と敬意を感じさせてくれたドラマということで、私の中ではトータルでアマゾン流に★4つにしておきたい。
(2012年7月22日の日記)
萩尾望都×高橋留美子対談!
なぜタイトルに「!」までつけたかというと、高橋先生のはしゃぎっぷりが半端じゃないから(笑)。
これまで私が読んだ対談だと、相手がファン、あるいは対等の立場で比較的落ち着いて話してる印象が強かったから、萩尾先生の仕事場にお邪魔して大喜びな高橋先生が微笑ましかった。
それにしても「月刊フラワーズ」550円、高いなあ・・・。
月刊だからか、確かに厚みもあるけど、基本少女漫画を読まない私にはかなりきつい。
それだけに対談にももっとボリュームが欲しかったというのが正直なところ。
掲載された以外にも深夜まで続いた「ディープな話」、もっと掲載して欲しかったです。

さて、高橋先生は画業35周年を迎え、1月18日から「犬夜叉」ワイド版の刊行が開始するが、第2弾として記念本「るーみっくわーるど35」が春〜初夏に発売予定!
「境界のRINNE」15巻は1月18日頃発売予定!
表紙がりんねと架印、鳳にれんげでりんねの顔がおもしろい。
その他大型企画も多数進行中とのことなので、しばらく目が離せなくなりそうです。
ちなみにフラワーズの広告では、正装した乱馬が大きな薔薇の花束片手に立ってるイラストがついてます。

対談のきっかけはかねてから萩尾先生のファンだったという高橋先生が萩尾先生の「なのはな」にサインが欲しいとお願いし、ならば会いましょうと萩尾先生からアトリエへのお誘いがあったこと。
もうこの辺で高橋先生の舞い上がりっぷりが想像できます(笑)。
お化粧にも気合入ってるし、直前に美容院に行きました〜みたいな感じです。

萩尾作品は実は絵が苦手で(繊細な絵がもともと苦手)読んだことないのですが、こうして掲載されているカットを見ても、私にはう〜んという感じ。
でも華やかで技術的にも素晴らしいものであることは素人目にもよくわかるし、ストーリーにも深いメッセージが込められ、もはや芸術の域にまで高められているといった評価や記事はあちこちで読んだ。
(春の紫綬褒章受章時)

「なのはな」はアマゾンによると「3・11の大震災と、それに続く原発事故。
かつてない事態に直面した作者は、ザワザワとした気持ちを抱えながら、フクシマの少女を主人公にした話題作」とのこと。
これだけではよくわからないが、対談によれば、放射能を除染する研究がいろいろされている中で、植物を植える方法を試しているグループがあると知ったのがきっかけとあり、なんとなく話の内容が見えてくる。
私もひまわりだったが、そういった研究に関するニュース映像は見た。

震災に関してもう少し語って欲しかったが、残念ながら話が飛んで、子供の頃の思い出話へ。
高橋先生は1957年生まれ、萩尾先生は1949年生まれで意外に年が離れていて、萩尾先生が手塚治虫「ブラックジャック」とご自分の「百億の昼と千億の夜」が同じ本に掲載されてうれしかったことを話し、高橋先生は楳図かずお先生のアシスタントをした時のことに触れる。
知ってる人ならば、このあたりで世代の差?が把握できるだろうが、私の場合は現在以外は全ていっしょくたなので、よくわからなかった。

次にアトリエの見学で、高橋先生が質問攻め。
ファンとして、同じ漫画家として冥利に尽きるだろうな。
私もやってみたい、高橋先生の仕事場訪問。
そしたら高橋先生は鷹揚に相手してくださるのだろうか(笑)。

話が動物の話に移って、高橋先生の「チワワはなんであんなにブルってるんだろうと考える」でりんね第1話を思い出した人は多いはず。
それから高橋先生はメキシコ行ってピラミッドにひたすら登るのが好きだとか、これは初耳。
どちらかというと高橋先生が萩尾先生から話を引っ張り出そうとし、萩尾先生がそれに答えを返す感じですが、後半やっと「境界のRINNE」の話に。
萩尾先生は鯖人が好きだそうです(笑)。

こうして読んでると、私ってつくづく凡人だと思う。
りんねに限らずだけど、クセのある脇役よりも普通にかっこいい、誰もが気に入るメジャーキャラにばかり気を取られる傾向にある気がする。
浅いなあ、私。
浅い浅い、どこまでも浅い。

というわけで漫画家の仕事に関する部分などはしょってしまいましたが、カラーページ1枚を含む5ページ、かなり読みごたえがあります。
ファン道まっしぐらな高橋先生を読みたい方は是非買ってみて下さい。
少女漫画雑誌って多いですね、探すの大変でした・・・。
(2012年12月29日の日記)

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