第5話 言霊の念珠

―さらに数十年が過ぎた。

年寄りの朝は早い。
しかし、桔梗の死からちょうど50年目を迎えたその朝、さらに早く楓を目覚めさせ たのは、妙な 胸騒ぎだった。
「よっこらしょ。」
いてもたってもいられず、我ながらあきれるほど年寄りじみた声を上げて、楓はそろ そろと起き 上がった。

土間に降り、水がめに柄杓を突っ込んで水を掬う。
その直前、鏡のように平らだった水の表面に映った自分の顔に息を呑む。
てっぷりと肥えた顔にたるんだあご、手入れもしないその皮膚は、体質なのかそれほ ど染みはできていないものの、深いしわがくっきりと刻まれている。

髪は白く、片方の目は、刀の鍔で作った眼帯で覆われ、残った目も細く、皮肉 めいた雰囲気を漂わせている。
異性を愛することによって花開く、女の情感を味わうことのなかったその表情は、ど こか頑なだ。
夜が明けやらぬ暗がりの中ですら明瞭な己の老いに、楓は小さくため息をついた。

薬草摘みの合間をぬって桔梗の祠に参り、祈りをささげる。
50年もたった今では桔梗の記憶を留める者も少ないが、親から子へ、子から孫へ 伝えられてきた桔梗への想いが失せることはない。
祈る楓のそばで、親に、あるいは祖父母に連れられた子供たちが小さな手を合わせ る。
時折子供たちが、摘んできた野の花や水を、桔梗の祠に供えているのを楓は知ってい る。

村の人々の暖かさが嬉しく、同時にこれほど慕われていた姉の非業の死があまり に惜しい。
目じりからにじみ出た涙を拭うと、楓は顔を上げた。
村人たちを先に帰し、ひとり桔梗のそばに残る。

桔梗はここに眠っているが、死んだのはここではない。
祠を背に振り返ると、高台から見下ろす少し離れた森。
後に「日暮の森」と呼ばれることになるこの森には、かつて楓たちが住んでいた。
桔梗の庇護の下、片寄せあって静かに暮らしてきた楓たち。

犬夜叉と桔梗が互いに傷つけ合って桔梗が死んだあの日、その地を禁域として封印したのが、 桔梗の後 を継いだ楓の、巫女としての初めての仕事だった。
そしてその森に犬夜叉が眠っている。
死んだのではない、本当に眠っているのだ。
その森を取り巻く瘴気は、おそらく桔梗の怨念。

この年になっても楓にはわからない。
慕い合っていたように見えた。
それがどうしてあんな結果になったのか。

そしてもうひとつ。
楓は今度は祠の先、ずっと遠くに残っているはずの洞穴に目を凝らした。
あの洞穴にもまた、眠っている者がいる。
全身に火傷を負い、這うことすらままならなかった「鬼蜘蛛」と名のった男。

桔梗の死から数日後に楓が訪れた時、洞穴は焼け落ちており、鬼蜘蛛の姿はなかっ た。
明かりの火が燃えたのだろうかとも思ったが、楓は自分を責めずに済んだ。
ろうそくひとつでここまで人一人、骨も残さず焼けるはずがないと知っていたから。
誰かがここに来て火をつけ、鬼蜘蛛を焼き殺したのか、それも大きな謎だった。

しかしそれも遠い昔のこと。
もう何年も思い出すことすらなかったような気がする。
それにしてもどうしてこんなに胸騒ぎがするのか、楓はかすかな予感に怯えた。
何かが大きく変わろうとしている・・・。

いや、そんなはずはない。
大きく首を振る。
桔梗の命日を迎え、神経が波立っているだけだ。
今日が過ぎれば、明日からまた平凡な日常生活が始まるだろう。

自分を納得させようと努めながら、楓の目は祠の扉に注がれた。
桔梗の遺骨は土の中に埋められているが、この祠の中には、ある物が納められてい る。
桔梗の形見の念珠、桔梗が手ずから作ったものだ。
「たしか・・・、言霊の念珠と・・・。」

楓はそっと扉を開き、念珠を取り出した。
犬夜叉の襲撃で村が燃えた日、辛うじて燃え残った物の中に、それはあった。
幼い頃、ろうそくのそばで、桔梗が小さな水晶や勾玉を集めて作っているのを見たこ とがある。
小さくゆれる灯りが、桔梗の横顔に深い陰影を彩っていく。
髪を下ろした桔梗の神秘的な美しさには、妹の楓でさえ息を呑んだ。

「お姉さま、何のためにそんな物を作っているのですか?」
楓の問いに、桔梗はなんと答えただろう。
「邪(よこしま)ではない者が、罪を犯さず済むように。」
そう答えたのではなかったか。

「魂の通じ合う者が決められた言霊を放つことによって、邪ではない者の暴走を止 める。」
そうすれば・・・、桔梗は続けた。
「私もいらぬ殺生をせずにすむ。」
それだけだろうか、楓は思った。

「誰に渡すのですか?」
犬夜叉に?と暗に疑問をぶつけたつもりだが、「さあな。」とはぐらかされた。
「私にも使えますか?」
次にそう問うと、「いや。」と桔梗には珍しく悪戯めいた笑みを浮かべる。

珍しく饒舌だった桔梗との会話がまるできのうのことのように鮮明に蘇る。
楓は言霊の念珠を握り締め、目を閉じた。
「もしやこれが必要になるかも知れぬ・・・。」
なぜそう思ったのかは自分でもわからない。

持っていても楓には使えぬ物。
渡す相手への想いを込めて、一玉一玉つなげていく。
大事そうに、愛しそうに指を動かす桔梗に楓は再び問うた。
「お姉さまはどんな言霊をお使いになるのですか?」
「そうだな、『静まれ』とでも言ってみるか、それとも・・・」

その後の記憶はない。
忘れたのではない、桔梗は言わなかった。
どんな言霊にするつもりだったのか、その言葉を胸に秘めたまま、念珠も使われるこ となく桔梗は逝ってしまった。
楓は念珠を懐にそっとしまうと踵を返した。

そして今度は一人、犬夜叉のそばに佇む楓がいた。
穏やかに眠る犬夜叉を見上げる。
「犬夜叉」
楓はひっそりと呟いた。

「わしはもうすぐお姉さまの元へ行く。
お前を知る者ももう少ない。
わしが死に、いつかこの村も寂れて消えていくだろうよ。
そうなったら犬夜叉、おまえはどうなる?」

もちろん答えはない。
桔梗が何を意図して犬夜叉を殺さず封印しただけに留めたのか。
ただ好いていたから殺せなかっただけなのか。
「わからぬ、わしには何もわからぬ・・・。」

楓は肩を落とした。
急に老け込んだような足取りで村に戻っていく。
しかし楓は知らない、数百年の時を過ぎたちょうどこの瞬間この場所で、何かが起 こっていることを。
桔梗の死によって大きく変わった楓の運命は、50年の時を経て再び大きな変化を遂 げようとしていた。


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