京極堂と仲間達(三)

7月1日漫画「狂骨の夢」
★軽くネタバレ含みます?

志水アキ版「狂骨の夢」を読んで、もう一度原作を読んで、志水さんの漫画は、それ単体でももちろんおもしろいけど、 原作の最適な解説本であり、入門書でもあると改めて思った。

この「狂骨の夢」、主要人物の数は「邪魅の雫」などに比べてずっと少ないし、「絡新婦の理」よりもヒロインの複雑さ という意味ではわかりやすいかもしれない。
でも「邪魅の雫」はそれまでのシリーズをちゃんと読んで、誰が誰かを把握しておけば、そんなに難しいものではない。
(その全員把握こそが難しいとも言えるけど)。

「絡新婦の理」は、冒頭部分がある意味ヒントになっていて、わかり始めるとその後は早い。
(わかった後で冒頭部分を再読すると、またその見事さに唸る事にはなるけど)。
「狂骨の夢」は一見単純でいて、それでいて複雑。
最後のどんでん返しは、原作既読の私でも漫画で改めて唸った。
志水さんは凄い、本当に凄い。

元々小説の漫画化は読まない(というより知らない)方だが、小野不由美著「悪霊(ゴーストハント)」シリーズとこの京極堂 シリーズだけは揃えている。
内容や解釈ももちろんだが、どちらも絵がまた合っていると思う。
表紙の京極堂のカバーを開くと、くすっと笑えるキャラがいたりとサービスもまた楽しい。
ついでに志水さんはツイッターも楽しい。
志水さんの描いた伊佐間さんも好き。
(2015年7月1日の日記)
6月10日漫画「魍魎の匣」
「姑獲鳥の夏」と「魍魎の匣」以来、映画もアニメもとんとご無沙汰だが、志水アキさんの漫画だけがさらに「狂骨の夢」 「絡新婦の理」「百器徒然袋」と順調に出続けている。

「魍魎の匣」、恰幅の良かった京極堂と色黒の榎木津、何よりストーリーが破たんしていた映画、作りは素晴らしかったがキャラが麗し過ぎた アニメ版に比べ、漫画はとにかく凄かった。
志水さんに関してはゲーム「戦国BASARA2」の第弐衣装デザインを担当した人として知ってたけど、漫画はもちろん絵柄すら知らない状態で 読み始めた。

ちなみにBASARAの衣装、特に風魔小太郎に漆黒の羽をまとわせた衣装は歴代の中でも評価が高い。
他武将の衣装も2は突出して良かった気がする。
それだけに興味はあったが、結局通販で全5冊まとめ買いして一気読み。

まず京極堂が見目麗しくないことに感動した。
いえ普通にかっこいいのだが、甘くないかっこ良さというか、「芥川龍之介の幽霊」をちょっとだけ健康的にした雰囲気がまさにそのもの。
木場は下駄だし、青木はこけしだし!
それでいて榎木津の破滅的?破壊的?な美しさや、敦子の凛々しい愛らしさなどはまさに原作のイメージ通り。

小説をアニメや実写で映像化した場合、イメージがぴったり合うことは滅多にないのだが、ゲストキャラ含め、志水版はまさに原作そのもののイメージだった。
それでいて加菜子や頼子は美しくも残酷に描き、特に頼子の死に様などは原作以上の衝撃度だった。
頼子の目に映る母の姿など、その醜さがたがいにとって哀れでならなかった。

素晴らしかったのは絵だけではない。
あの難解な原作をこれだけコンパクトにまとめながら、原作のわかりやすい解説本となっている。
これって志水さん以外の誰が出来ようか。

無駄な取り込みもなく、必要な部分を削ってもいず、原作挫折の人にもお勧め。
表紙カバーを取ると、京極堂と同じポーズをとる別キャラが隠れているのも楽しい(2巻から)。
小説のコミカライズとしていなだ詩穂さんの「ゴーストハント」と双璧だな、西の横綱東の横綱。
京極ファンはもちろんのこと、挫折した方(あなたですよ、こえむさん!)にも是非読んで欲しい。

漫画を読んでから原作読み返すと、難解だった原作が、とても読みやすい小説に思えてくるはず。
それだけ原作のツボを押さえているという事だろう。
(2015年6月10日の日記)
1月17日虚実妖怪百物語
★「虚実妖怪百物語」に関してネタバレあります。

京極夏彦著「虚実(うそまこと)妖怪百物語」の「序」「破」「急」と「書楼弔堂 炎昼」はずっとずっと「積ん読」状態だった。
たった4冊で積ん読状態、その意味は推して知るべし、あの厚さ。
それに京極本は難しい。
一気に読んでも理解できないけど、一気に読まないと内容忘れてまた最初から読み返す羽目になる。
そんなこんなで積ん読だった京極本、この冬休みに一気に読んだ。

ところがよりによって最初に2冊目「破」を読んでしまった。
しかも読み終わるまで気づかなかった。
冒頭「帝都物語」の加藤保憲が登場する(すぐに気づく)。
これは期待できるぞ、とわくわくしながら読み始めた。

ただこの本、おもしろいのだが読むのに非常に疲れる。
たとえば誰かが何かをする、会話する。
その一分に「馬鹿だから」「馬鹿なのである」を中心に説明文が多い。
テンポ良く、リズミカルに続くので最初はいいのだが、正直多すぎると思う。

京極さんの京極堂シリーズが私は好きなのだが、あのシリーズにも「遊ばれる」キャラは登場する。
たとえば鳥口守彦、本島俊夫。
シリーズ内でみんなに遊ばれるのがおもしろくて声出して笑ったことも数知れず。
でも「虚実妖怪百物語」はほぼ全ての登場人物、登場妖怪までが遊ばれる、というかいじられる。

途中で「帝都物語」を引っ張り出して久々に読んだが、その引き締まった文体が心地良かった。
このいじりがある意味物語の大きな伏線でもあるのだが、おそらく「序」から読んでいたら、途中で読むのをやめていたかもしれない。
私に遊び心がなさ過ぎるのかもしれないが。

でも一転「急」に入ってからは、もう一息に読んでしまった。
申し訳ない、ストーリーそのものよりも犬夜叉が出る、殺生丸が出る、とらが出る、ニャンコ先生が出る、貞子まで出る、そのハチャメチャが良かった。
映画化して欲しいけど版権の都合で無理だろうなあ。
「帝都物語」で加藤保憲を演じた嶋田久作さんが出る、志水アキさんが出る、宮部みゆきさんも出る。

「漫画家だと、あの犬が夜叉なやつらの大御所さんだとか、潮やら虎(とら)やらのあのお方とか」には声出して笑った。
さらに野沢雅子さん、八奈見乗児さんといったいかにもな声優さんも出る。
水沫さんが落ちれば破裂を「ドカーンですね」と言う。
これに対して帰国子女である水沫は高橋留美子もアニメ中心だったようだから、ちゅどーんとはあまり言わないと説明?が入る。

犬夜叉に反応しない戦闘機のパイロットは「めぞん一刻」あたりで離脱したとかもう爆笑。
こののんきな中の緊迫感、高揚感。
巨大貞子の登場場面は絶対斗和子(うしおととら)を意識してるよね。

そして物語最後の大爆発の後の気抜け状態をまとめて下さったのは水木しげるさん。
「急」は全く疲れを感じることなく一気に読み切ったけど、3冊まとめて感想書くなら「おもしろかった」だけど、心のどこかに「ここまで長く、くどくする必要が あったのだろうか」という疑問は残る。
この本は生真面目に読んじゃいけない本だが、そのあたり、私には難しい。
キャラのいじりは、私には京極堂シリーズあたりがちょうどいい。
(2018年1月17日の日記)
1月23日書楼弔堂 炎昼
★「書楼弔堂 炎昼」に関して軽くネタバレあります。

「虚実妖怪百物語」の狂乱の後に読んだ「書楼弔堂 炎昼」は驚くばかりの静けさに満ちていた。
「虚実妖怪百物語」と「書楼弔堂」を読んだ後は、また京極堂シリーズが恋しくなった。

それはともかく、「書楼弔堂 破暁」を読んだ時は、内容よりもどんな仕組みなのか、手探りしながら読んだように思う。
「書楼弔堂 炎昼」はその仕組みをわかっていたからすんなり入り込めた。
語り手である塔子が女性であることも、難解な会話に入り込みにくい普通の女性であることも読みやすい一因だと思う。
中でも「探書拾 変節」に登場するのが女性、いえ少女で一番馴染みやすい人物であったことが気に入った。
反面「無常」は登場人物の「心」と「史実」の深さが涙でぐちゃぐちゃになってしまったようで、批判という意味でなく読み辛かった。

書楼弔堂の主が、中善寺秋彦、「虚実妖怪百物語」の京極夏彦と重なり、最後に作者としての京極さんが繰り返し繰り返し語る 言葉につながる。
この人は作品を変えて、語り部を変えて、一生同じ言葉を連ねていくのだろうか。

塔子のその後が描かれていないのが気になる。
いきなり目覚めて女性のために立ち上がったりはしないだろうが、連載は続いているとの事。
塔子は再び登場するのだろうか。
それとも新たな語り手が登場するのだろうか。

「塔子」という名前に何か意味が(史実の人物?)と思ったがそうでもないらしい。
登場する人物が、1人を除き、実際にこの場でこんな会話をして去っていったと思わせる物語。
これからもずっとずっと続いて欲しい。
(2018年1月23日の日記)
1月24日妖怪の理 妖怪の檻
まだ私の知らない「京極小説」があったか、と書店で手に取ったのは何年前のことだったか。
これは私がこれまで読んだことのなかった大真面目な京極さんの論文だった。
遊びのない京極作品が読みたいとずっと願い続けていたが、いざ大真面目に書かれると、難しすぎてついて行けない。
これは京極堂こと中善寺秋彦なら一気に語ってくれるだろうけど、活字で読むとかなり厳しい。

そこでふと思いついた。
私はアニメの「魍魎の匣」が好きで何度も見たし、京極堂を演じた平田広明さんの大ファンでもある。
京極堂に読んでもらえばいいんだ。
私だけではないと思うが、好きな人(俳優でも声優でも、もっとリアルに好きな人でも)の聞いたことのない台詞を脳内で再現するのは 実はそれほど難しくはない。

私が難しい本を読む時、一番理解しやすいのは文章をパソコンで写し取ること。
次に声に出して読むこと。
でもこの量だと、目の負担や時間を考えても、とてもやっていられない。
そこで平田さんに頭の中で読んでもらうことにした。
これで何とか少し理解できるようになったが、前半部分は完全にお手上げだった。

おもしろく感じ始めたのは231ページの「妖怪のなりたちについて」に入ってから。
前半がそもそも「妖怪とは」といった定義や歴史を語るなら、ここからは水木しげる作品を中心に「妖怪」そのものを語る。
だからイメージしやすいし、知ってる妖怪の世界に入って来るし、京極作品で登場人物が語る知識も重なって来る。
それでも「完全復刻 妖怪馬鹿(こっちは遊びっぱなし?)」と両方手元に置いて、かわるがわる読み進めるという、私としては かなり変則的な方法に走ってしまった。
京極さんもこの2作品の中間の遊び心で書いてはもらえないものか・・・。

最後に京極さんの講演録が掲載されているが、これは非常にわかりやすかった。
私も一度だけ京極さんのトークライブで御本人のお話を聞いたことがあるが、どんな難しい内容でもわかりやすく噛み砕いて(かなりふざけながら) 話して下さるので、聞いていて飽きないしおもしろいしわかりやすい。

「妖怪の理 妖怪の檻」は何度も何度も繰り返して読まなければ、いえ繰り返し読んでも、根本的に知識不足では理解できそうにない。
「妖怪馬鹿」は「京極夏彦氏犬夜叉を(ちょっとだけ)語る」で感想を 書いているが、書いたのが9年前か、懐かしい。
でも「妖怪馬鹿」は気楽に読めておもしろいので、こちらも何度か読んでいる。
(2018年1月24日の日記)
5月28日絶景本棚
以前も書いたような気がしますが、最近は読書というより調書がメインです。
小説を読むより、資料を読んで調べる方が楽しい。
もちろんだからといって全く読書しなくなったわけではないのですが・・・。
そんな私の読書熱に久々に火をつけてくれたのがこの「絶景本棚」でした。

「櫻井有吉アブナイ夜会」で又吉直樹さんが京極夏彦さんのお宅を訪問してて、その時の京極さんの本の量とその整理っぷりに 圧倒されましたが、その京極さん始めとした書痴の方々の書棚を見せてくれる本です。
第1章の「百花繚乱編(京極さん含む)に説明が少ないのが不満ですが、本の雑誌の連載で、最初はスペースが少なかったのでしょうか。
個人的には京極さんほど完璧に整理されていると、むしろ恐れ多くて触れる事さえできないのではないかって気がします(笑)。

でも見ているうちに、本棚や本の整理の仕方よりも、本そのものに興味が向いて来ました。
けっこう漫画もあるのねとか。
永嶋俊一郎さんのハヤカワポケミスシリーズと「ゾンビ映画大マガジン」なんかが揃ってる本棚に親しみが湧きました。
あと小野不由美さんの「ゴーストハント」リライト版の装丁を手掛けた祖父江慎さん、シャーロキアンの北原尚彦さんの本棚が気になりました。
私は北原さんのシャーロキアンっぷりが好きなんですよね。
加藤文さんは、錚々たる本の中に宮部みゆきさんの「心とろかすような」が入っているのにほっこりしました。

それから本棚紹介ではなく、「家に本棚がない曖昧な理由」というエッセイを書いているのが小山力也さん。
この方、ずっと気になっていました。
私が大好きな声優さんの一人、小山力也さんと同姓同名なのです(笑)。
もしかして小山さんの副業?なんて思ってた時期もありましたが、「古本屋ツーリスト」という立派な肩書がある別人です。

小山さんが書いている
「本は新しい世界を開き、新しい知識を授けてくれたり、経験できないスリルや感情を味あわせてくれたりと、大変に素晴らしいものである。
だが、それは読んでいる時だけのご褒美で、読了してしまえば本はただの紙と文字の集積体に戻ってしまうのだ。」
という部分を非常に新鮮に感じました。

京極さんなどは、本を書く上での資料はともかくとしてどちらのタイプなのでしょう。
水木さんの本は何度も繰り返し読むだろうが、その他の本は・・・。
京極さんの反論自論もしくは同調を聞いてみたいものです。

私はそれこそ京極さんや池波さん、小野さん、宮部さん、高橋留美子さんなど何人かの作家、漫画家の作品は繰り返し読むので買いますが、それ以外は むしろ小山さんの感覚に近いかも、と今気づきました。
おもしろくなかったから買わないのではなく、買わないのが基本というのかな?
まあお金がなくて、図書館で読める本は買わないというのが正直なところかもしれません(笑)。

ところで私も本棚の1つを写真に撮ってみました。
恥ずかしいけれど、整理したりせず、そのまんまの漫画用本棚です。
漫画用なのにいろいろ混じってますが、「犬夜叉」など貸してる本があって、その空いた部分に最近読んだ本や使った資料をとりあえず突っ込んでるからなのです。
センスのかけらもないですね(笑)。
(2018年5月28日の日記)
8月1日「今昔百鬼拾遺 鬼」
三社横断「三京祭り」の1作目、という情報は知らなくて、ただ京極堂シリーズ最新作が出た!と喜びだけで読みました。
もう3ヶ月くらいたつのかな?
で、感想を書いてみようと思って愕然、すっかり忘れているのです。
Amazonの内容紹介で

          ☆           ☆           ☆          

「先祖代代、片倉の女は殺される定めだとか。しかも斬り殺されるんだという話でした」 昭和29年3月、駒沢野球場周辺で発生した連続通り魔・「昭和の辻斬り事件」。 七人目の被害者・片倉ハル子は自らの死を予見するような発言をしていた。 ハル子の友人・呉美由紀から相談を受けた「稀譚月報」記者・中禅寺敦子は、怪異と見える事件に不審を覚え解明に乗り出す。           ☆           ☆           ☆          

と書いてあるのを読んで思い出したくらいです。
なんて失礼な私!
京極さんにも申し訳ないです。
でもこれには理由があるのです。

本作に登場するのは中善寺敦子と呉美由紀。
そう、京極堂の妹と「絡新婦の理」の登場人物の1人です。
敦子は利発で純粋で常識人で私が大好きな女の子。
美由紀もクリスティ著「鳩の中の猫」に出て来るジュリア・アップジョンを思い出した聡明で爽やか系の女の子。

これでおもしろくないわけがないのだけれど、いえ確かにおもしろいのだけど、ああり京極堂シリーズには個性的な登場人物や、京極堂のひたすら長い 蘊蓄がないとね。
この期待値が高いとどうしても本作を薄く、軽く感じてしまうのだと思います。
3作とも敦子が主人公のようですが、これを3つの事件をまとめて1つの物語にして、いつものメンバーでぐいぐい解いていくという荒業も京極さんなら できると思うんだけどなあ。

「京極夏彦」作じゃなかったら100%楽しめる内容なだけに自分の無駄に高い期待値に邪魔された感じでした、残念です。
(2019年8月1日の日記)
1月16日「鵺の碑」
★軽くネタバレ含みます?

何に驚いたと言って「京極堂と仲間達」に感想を書くのが3年半ぶりくらいであることに驚きました。
最後の感想が2019年8月1日ですから、令和元年ですよ。
ブログにはこちゃこちゃ書いてるんですが、こっちは本当に久しぶり。
17年に比べたら束の間とも言えますか。

さて、待ちに待った「鵺の碑」です。
お馴染みの皆さんも久しぶり、特に関口。
それぞれが別の場所で語り合い、その中に思いがけない言葉が出て来て、それぞれが絡み合い、少しずつ 物語が進んで行く。

長い長い助走と伏線があって、最後に京極堂の憑き物落とし、そのカタルシスを待ちわびて。
「まだ?えっ、まだ?」
そっか、この本は厚い、半分読んでもまだまだ序の口。
3分の2読んでもまだまだ先は長い。
そして・・・、あれ?終わった?というのが初読感想です。

京極堂の見せ場がない、クライマックスがないまま終わった、そう感じたのです。
もちろん物語はきちんと完結しています。
なのになぜ?と思いました。
「事件」がないのです。

いえ、ないわけではないのですが、たとえば姑獲鳥の、たとえば魍魎の、たとえば鉄鼠の、あれほどのインパクトの強い 大事件が起こらない。
もしかして私、猟奇的殺人事件を求めてる?そんな自分にドキッとしました。
でも違う。

猟奇的じゃなくていい、でもインパクトの強い出来事がなければ京極堂の憑きもの落としが映えないというか。
なんとなく助走のまま終わったような、物足りなさを感じてしまいました。
それが「鵺」と言われればそれまでなのですが。

それとキーワードとなるある言葉が、あまりにも現代的に感じてしまいました。
(本当はこの時代に出てもおかしくない言葉です。)

ただ、ある人物の名前がなんとなく覚えがあって、ネットで調べてびっくりしました。
京極堂が登場する百鬼夜行シリーズ内で、登場人物が掛け持ちするのは普通にあるので、さすがにそこはわきまえています。
でもまさか、別シリーズの登場人物がリンクするなんて・・・。
それを知って再読すると、作品の印象が大きく変わっていきます。

作者は、事件を追うのではなく、会話の絡みを、その複雑さとおもしろさを読み取って欲しかったのでしょうか。
私は「京極夏彦」という作家にまだまだ追いついていないなあと思いました。

ただ一つだけ大きな不満が。
これだけは声を大にして言いたいです。
中禅寺敦子が出ていないのです。
もちろん「他の作品」絡みで出て来ないのはわかりますが、やっぱり敦子は京極堂シリーズの清涼剤。
出て欲しかったです。

「ダ・ヴィンチ」2023年10月号の宮部さんとの対談では
「(中略)
 ただ今回、中禅寺の妹(中禅寺敦子)は、別の事件に関わっているから出てきません。
『今昔百鬼拾遺 鬼』には中禅寺たちが日光に行っているというセリフがあって、『鵼』には『鬼』の犯人が捕まったという記述が出てきます。
どちらも同じ昭和29年2月なんですよね。
事件自体は何の関係もないんですけど。
やっぱり無駄だなあ(笑)。」
と話されてますが、いえ、無駄でも出て欲しかったです。

代わりに?登場した女性キャラは、どうでしょうねえ。
今後も出そうな雰囲気ですが。

逆にとても嬉しかったのが奈美木セツの再登場。
彼女が出た時、アニメ「怪 〜ayakashi〜」「モノノ怪」に登場する加世(かよ)を思い出しました。
簡単に説明すると、最初に「怪 〜ayakashi〜」で「四谷怪談」、「天守物語」、「化猫」の3つのアニメが作られました。
その中の「化猫」が評判良かったので、「化猫」の主人公薬売りを主役に据えて作った続編が「モノノ怪」です。

加世は「化猫」に登場し、化猫の巻き起こす復讐劇に巻き込まれてひどい目にあいます。
化猫の恨みの対象ではなく、薬売りの助けもあって助かりますが、一生トラウマになりそうな凄惨な事件でした。
にもかかわらず、「モノノ怪」の「海坊主」に何の影響もなく元気に登場し、再び事件に巻き込まれます。
いや、普通はないだろうと思うくらい何事もなかったように登場するのですが、私、この子好きです。
セツや加世を羨ましいと思ってしまう私です。

宮部さんは、「鵺の碑」だけ読んでもいいと話されてますが、やはり百鬼夜行シリーズ含め、他のシリーズももう一度読み込んでから 「鵺の碑」再読した方がずっとおもしろくなると感じます。
ストーリーを追うのではなく、過程を読み込む楽しみ、ですね。

そうそう、前述の「モノノ怪」にも「鵺」という作品があります。
もちろん話は全然違いますが、「鵺」の解釈はいろいろあるなあと思った次第です。
後日、京極夏彦×宮部みゆき対談の感想も書いてみたいと思います。
(2024年1月16日の日記)

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