犬夜叉考察 21
1巻を読み返すー5
アニメはあまりあれこれ考えることなく観ていたが、原作を読み始めてすぐ「日暮神社」って言葉に引っかかった。
日暮里にあるのかなあと思い、なんとなく探しに出かけた。
もちろんなかった(笑)。

「日暮」は名詞だからそのまま「ひぐらし」と読むが、普通は「日暮らし」と書く。
「朝から日が暮れるまで」、総じて「一日中」を意味する。
「日暮里」は「一日中いても飽きないほど美しい里」を語源とする。
同様の理由で日光東照宮、京都西本願寺などには「日暮門」がある。

ちなみにセミのヒグラシは一日中煩く鳴くから「日暮(蜩)」」かと思っていたが、そうではなく朝と夕暮れ鳴くのが命名の理由らしい。
話がそれたが、それでも高橋留美子作品の特徴など何も知らなかったから、とりあえず日暮神社の名前ではなくてもモデルとなった神社があるのではないかとあちこち歩き回った。
そのうちにいくつかのファンサイトさんにもお邪魔するようになり、「うる星やつら」や「めぞん一刻」の関連で練馬区かな?なんて探しにも出かけた。
やっぱり日暮神社はなかったが、石段があって神社が高台にあってという「日暮神社型」の神社が結構多いのに驚いた。

特に市谷亀岡八幡宮は石段の上、鳥居の下から見下ろす総武線や中央線、そして広がる町並みの風景がなんとなく「犬夜叉」の日暮神社に似ていてすっかり気に入り、何度も訪れたものだった。

そんなこんなしているうちに、何がきっかけだったか静岡県伊東市にある鰻屋さんのホームページに日暮神社の言葉を見つけた。
鰻屋さんの近所の観光名所を紹介しているレポートのひとつに日暮神社が写真付きで掲載されていたのだが、今探してみても見つからない。
残念ながら削除されてしまったのかな?

かつて遠く伊東の地に流された若き日の頼朝が、八重姫との許されぬ逢瀬のために日暮らし夜になるのを待ち続けたと言われる伝説の森が「日暮の森」。
それを由来とした神社が日暮神社として伊東市に存在していたのだ、これには驚いた。

私はどちらかと言えば頼朝よりも義経が好きで、頼朝の流浪時代のことなどあまり関心がなかったのだけど、これは行かねばなるまいと思った(「犬夜叉考察 8」参照)。
あの頃私も若かった、いえ燃えていた(笑)。

日本史に詳しい高橋先生が頼朝が好きで、この伊東の日暮神社をモデルにして設定したのに違いないと勝手に思った。
伊東の日暮神社はきっと「犬夜叉」に出てくるように、石段があって高台の上にあるのだろう。
井戸はないかもしれないが、大きな御神木もきっとあるに違いない、そう信じて新幹線に飛び乗った。

残念ながら伊東の日暮神社は「犬夜叉」のそれとは似ても似つかぬものだったが、各所に残る頼朝ゆかりの場所は興味深かったし、日暮の森や日暮神社の古い写真など貴重な資料を見つけ、詳しい方にお話を聞く機会もあった。
何より嬉しかったのは、日暮神社のそばに「音無神社」があったこと。
八重姫との語らいに川のせせらぎが煩くて邪魔と一喝したところが川が静まり、それを機に音無川となり、音無神社が建てられた。

高橋先生はこの「日暮神社」と「音無神社」から日暮かごめと日暮神社、そして音無響子を作り上げたに違いないと私は固く信じている。
ちなみに妹たちがたまたま旅行した白神山地にも「日暮神社」があり、写真を撮って来てくれたことあがる(「犬夜叉考察 18」参照)。
こちらは「一日中いても見飽きないほど美しい」から取った名前らしい、日暮橋や日暮池もあったとか、行ってみたい。                                          
(2008年11月18日の日記)
1巻を読み返すー6
1巻でとっても気になるのがかごめが何度聞いても忘れてしまう神社や井戸や御神木の由来。
大きな伏線と思えたものの、結局何の説明もなく最終回を迎えてしまった。
「かごめの霊力が封印されていた」ことを結びつければなんとなく納得してしまうが、ではこの由来は一体どんな内容だったのだろう。

まず日暮神社に関する情報をおさらいしてみると(「犬夜叉考察2」参照)、本殿の屋根の千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が注目される。
千木は本殿の屋根にVの字型に突き出している2本の棒で、鰹木は屋根に5,6本並んでいる丸太のこと。

千木の先端を地面に対して水平に切ってあるとその神社は女神を祭り、そうでなければ拝みを祀るとなる。
そして鰹木の数が奇数であれば男神、偶数であれば女神となる。
これを日暮神社に照らし合わせてみると、千木は地面に対して水平ではないので男神を祀っていることになる。
ところが鰹木は6本で女神、あれっ?

日暮神社あ祀っているのは男神と女神、犬夜叉とかごめと桔梗と翠子と、なんてことになるのかな?
まあ桔梗の時代より以前からある神社なので、翠子が作り、桔梗を祀り、そして、と流れて現代に至ってもおかしくはないだろう。
前に書いた理由で私は翠子もまたこの地で生まれて骨喰いの井戸も作ったと思っているので。

さて由来。
桔梗の時代には名前のなかった神社が「日暮神社」となった由来。
たとえば
「風光明媚なこの地を鷹狩りで訪れた時の将軍家○公が、景色のあまりの美しさに『日暮いても飽きないほど美しい』と言われたことから日暮神社と呼ばれるようになりました。」みたいな由来だと、かごめが覚えていても何の問題もない(笑)。

では逆に
「魑魅魍魎が跋扈する戦国時代に四魂の玉を滅するために常世の国から骨喰いの井戸を通って訪れた巫女が、その生涯を過ごした場所です。」だと確かにかごめが記憶してしまっては謎も何もないだろうが、逆に由来を知っている家族にしてみれば、もう先々のことまで見えてしまうことになる。
後になってかごめも楓から「骨喰いの井戸は妖怪の捨て場で、死骸は消える」といった由来を聞いて覚えているので、神社に関する由来の記憶の封印は、実はかごめが戦国時代に行った時点で解けていたと思えるのだが。

作者にしてみれば、由来を語った時点で思いっきりのネタバレになりかねないので、最後までその内容を打ち出すわけにはいかなかったろうが、思わせぶりな伏線もどきの勇み足、と思えないこともない。
いっそ意味深な描写だけで、かごめが由来がどうのこうのは触れない方がすっきりしたかも。

ただこの日暮神社が四魂の玉と深い関わりを持っているのだから、四魂の玉が生まれたのもこの地とした方が、最後まとめやすかったのではないだろうか。
四魂の玉が生まれたのは退治屋の里、そこには翠子の木乃伊(死骸)もあるが、だからといってその地が影響を受けたようには思えない。
退治屋の里が奈落の標的になったのは、「そこで四魂の玉が生まれたから」ではない。
退治屋の存在が、これからの奈落にとって邪魔だったから。

ならば日暮神社の地で四魂の玉が生まれた方が、その重要性がさらに強まったと思う。
それをしなかったのは・・・、やはりそれだとかなり早い時点で四魂の玉に関する謎が明かされざるを得なかったから、なのだろう。
先の読めない連載の難しさなのかなとも思う。
もしも最初から完成された状態で発売された作品なら、おそらく四魂の玉は日暮神社の地で生まれ、その由来も

「遠い昔よりこの地を守っていた巫女が妖怪との戦いで最後の力を振り絞って四魂の玉を生み出しました。
その玉は・・・(と四魂の玉が良くも悪くもなるとか、様々な人間の間を巡りめぐったとかそんなことを延々書き並べ)、それぞれの時代に生まれた霊力の高い巫女によって守られてきましたが」と続き、上記の「戦国時代に四魂の玉を滅するために常世の国から骨喰いの井戸を通って訪れた巫女が―」につながってもおかしくないかも。

それにしたところでかごめや家族にはかごめの運命が最初の時点でわかってしまっていたわけで、やはりそうではないのだろう。
って最近考察より「犬夜叉」を分解し始めたような気がする。
タイトルを「犬夜叉分解日記など」に変える必要あるのかも・・・。
(2008年11月28日の日記)
1巻を読み返すー7
★上橋菜穂子著「狐笛のかなた」の内容に触れています。

「犬夜叉」の影響で?ファンタジーもすっかり和風なものに惹かれる今日この頃、上橋物も「狐笛―」が今は一番好きだ。
久しぶりに読み返して、今まで感じたことのなかった新鮮さを感じた自分に驚いた。

この物語も人と人ではない者の恋物語。
小夜が結ばれる相手は、この世と神の世の「あわい(狭間のような意味)」に住む霊狐の野火。
霊狐といっても、呪者の「使い魔」として汚らわしい仕事を任される救いのない生き物。
けれど二人は出会い、愛し合う。

描写の美しさ、物語のおもしろさももちろんだが、最後の最後に小夜はただ一度限りの、ある力を使う。
そして小夜は霊狐の世界に住む者となって野火と共に生きるのである。

「犬夜叉」では結果的に犬夜叉は半妖のまま生きることになったが、たとえば犬夜叉が四魂の玉を使って人間になることはあっても、かごめや桔梗が半妖になって、つまり犬夜叉の側で生きるという選択肢は一度も出なかった。
「狐笛―」の場合は意識して霊狐になったのではなく、力を使ったら結果的にそうなったわけで、「犬夜叉」とは大きく違う。
けれど「犬夜叉」が限りなく人間の側、人間の立場からのみ描かれた物語であったことを考えると、「狐笛―」の人間と、そうではない者と、両者の立場から描かれた二つの世界は限りなく自由で大きなものに感じた。

「犬夜叉」でももちろん妖怪(人ではない者)は出てくるし、その心理も克明に描写される。
けれど「犬夜叉」に出てくる妖怪は、一挙ひとまとめに粉砕される雑魚妖怪か、鋼牙や殺生丸のような、姿形や能力が違うだけで、限りなく人間に近い「擬似人間型」妖怪か、後は犬夜叉と鬼蜘蛛がなりたかった(けれどなれなかった)完全無欠の妖怪か、その3種類しかない。
逆髪の結羅や雷獣兄弟飛天満天なども、「すごい力を持った人間の悪党」になぞらえてもいいくらい人間に近かった。

その中で作者は人間側の立場を崩すことなく、いわゆる「人間の 人間による 人間のための」戦国御伽物怪草子を創り上げた。
その世界に8年間どっぷり浸かって来て、もちろん不満はないけれど、だからこそ「狐笛―」のような作品を新鮮に感じるのかもしれない。

「犬夜叉」において犬夜叉や鬼蜘蛛がなりたいと願う「妖怪」は単に「人の心を持たない者、力も心も強い者、優しさや哀しみに惑わされない者」だった。
それはに別に妖怪になる必要はないし、ある意味鋼牙や殺生丸、邪見や冥加や刀々斎にも失礼だ(笑)。
結局そういった面での「犬夜叉」は、犬夜叉は途中まで、奈落にとっては最後の最後まで大いなる勘違いの過程を描いた物語だったとも言える。

高橋先生は最初に「犬夜叉」を決めた時、「妖怪」はどのように設定されるつもりだったのだろうか。
敵としてのみ存在するはずだったのが、奈落の扱いで妖怪の解釈が広がっていったのか、最初から半妖と人間、妖怪を心理的な部分で分けてその違いを描き分けることを念頭に置いたのか。
当然後者だと思うのだが、「人と(単に退治されるだけではない)妖怪の関係」に絞って読んでいくと、わからなくなってくる。
(2008年12月1日の日記)
鳴釜・犬夜叉・陰陽師
★京極夏彦著「百器徒然袋 雨」及び夢枕獏著「陰陽師―付喪神ノ巻」に部分的に触れていますがネタバレではありません。

どんどん広がる「犬夜叉」リンク、無理矢理広げる「犬夜叉」リンク、というわけで今回は大好きな京極夏彦、夢枕獏両氏の作品から。

映画「紅蓮の蓬莱島」が公開された時、パンフレットでも紹介されていた「浦島太郎の伝説(浦島子伝説)」より蓬莱伝説や「桃太郎」より吉備津彦命伝説にとても興味を持った。
あまり参考となる資料を見つけることができず、結局瀧音 能行・三舟 隆之著「丹後半島歴史紀行(浦島太郎伝説探訪)」を参考にしたが(犬夜叉考察15参照)、その中で「鳴動の釜」や四闘神のネーミングの元となった「温羅」に関する記述を京極夏彦著「百器徒然袋 雨」に見ることができる。

「百器徒然袋 雨」には3つの中編が収められているが、「鳴釜」で京極堂こと中禅寺秋彦が法の及ばぬ悪事を犯した男を懲らしめるためにある政治家を口八丁で丸め込む。

「何故釜は鳴るのか。そして何故吉凶を知らせるのか。
『備中吉備津宮縁起』に拠れば、主神である吉備津彦に敗れた吉備津冠者こそ御釜殿の釜を鳴らす神霊なのだと説明しています。
一方で『備中吉備津宮御釜殿等由緒記』では敗北したのは百済の王子である温羅と云う名の鬼神だとされます」
「鬼神が―鳴らすのか?」

「そうです。一般にはこの温羅の方が有名ですね。桃太郎伝説に比定する向きもある。

征伐された温羅は晒し首になっても吠え続け、御釜殿の下八尺に埋めてもその声は止まなかったと云う。
阿蘇目と云う女に竈の火を入れさせると漸く鎮まり、衆生の請願成就のため釜を鳴らすと誓約したのだと云います。―(以下略)―」

篠村は眼を丸くしていた。勿論僕も少少驚いている。
勿論、怪しげな祈祷師の饒舌に―である。

京極さんお得意の薀蓄話からこの物語がどう展開していくかは読んでいただいてのお楽しみ、だがもののけ好きには欠かせないのが京極夏彦小説だろう。

次は「陰陽師」から。
以前アニメで弥勒オリジナルの台詞で「色即是空」が出た。
どのエピソードだったか今思い出せないけど、その意味がうまくつかめなかった。
もちろん検索すればいろいろ解説があるのだけど、直訳はわかってもその意味する心というか、その部分がわからなかった。

「陰陽師―付喪神ノ巻」の中の「迷神」には安倍晴明と源博雅の会話を通してわかりやすく説明してくれている。

「おまえが、あの桜の花びらが落つるのを見て、美しいと想ったり、心を動かされたりしたら、それはおまえの心の中(うち)に、美という呪が生じたということなのだ」
「むむう」

「だからよ、博雅、仏の教えに言う空(くう)というのは、まさにこのことなのだよ」
「なんだって?」

「仏の教えによればだな、この世に在るもの全ては、その本然に空なるものを持っているらしい」
「色即是空というあれか」

「あるものがそこに在るということは、そのものと、それを眺める人の心があって初めて生ずることなのだよ」
「―」

「桜がそこに咲いているだけでは、だめなのだよ。それを源博雅が見て、はじめて美というものが生ずるのさ。
しかし、源博雅がそこにいるだけではだめなのだ。
桜があり、源博雅という人間がいて、その博雅が桜を見て心を動かされた時、初めてそこに美というものが生まれてくるのだ」
「―」

「つまりは、まあ、この世のあらゆるものは、呪という心の働きによって、存在しているということだな」

こちらも清明の饒舌に翻弄される博雅の合いの手がおもしろいのだが、この後の博雅の一言が、また博雅らしくてたまらない。
「清明よ、おまえ、いつも桜を見ながらそんなややこしいことを考えているのか」

桜があるだけでは駄目、人がいるだけでも駄目。
桜を見て人が美しいと想うことによって初めて「美」というものが生まれる。
なんて素敵な言葉だろう。

ただそれをさらに深めようとした時に、「だから何?」と思ってしまう自分が情けない。
この世に存在する何もかもが他によって初めて意味を与えられる、だからそれは何?
こういった仏教用語を言葉で、頭で理解しようとすると、終わりのない迷路にはまり込む。
そして弥勒がどんな時にどんな意味でこの言葉を使ったのか、思い出せない自分が一番情けない。

もちろんこの夢枕さんも「反魂の術」「蓬莱伝説」「付喪神」他「犬夜叉」や京極物につながる言葉や世界を駆使する作家の一人である。
(2008年12月9日の日記)
1巻を読み返すー8
「犬夜叉」の始まりと共に登場するのが百足上臈、そして屍舞烏。
百足上臈はかごめを戦国時代にいざない、屍舞烏はかごめに四魂の玉を打ち砕かせる。
どちらも重要な役割を担っての登場だったが、いかんせん魅力がない。
こんな妖怪ばかりだったら、とてもじゃないが「犬夜叉」はここまで長く続かなかっただろう。

けれど実は彼らこそ犬夜叉や奈落がなりたかった妖怪の姿なんじゃないかと思うようになった。
いえビジュアル的にじゃなく(笑)。
百足上臈や屍舞烏だって斬り付けられれば痛いだろうし、四魂の玉を使って強くなりたいとは願う。
けれど彼らの精神構造はそこまでである。

悩んだり悲しんだり、そんな限りなく「人間的な」感情とは一番遠い所にいる存在。
小手調べでいかにも妖怪な妖怪を出した作者は、次に逆髪の結羅や雷獣兄弟飛天満天を登場させる。
結羅は可愛かったし、飛天はかっこ良くて人気があり、今で言うなら飛結派?みたいなファンも多かったように記憶している(アニメしか知らないけど)。
けれどそれはあくまでも表面的なかわいらしさやかっこ良さに惹かれただけで、共感したり気持ちを重ねたり、そんな存在ではなかったろう。

飛天や結羅が恋する間もなく終わってしまったせいもあるが、それ以上にやはり彼らの「妖怪性」が根底にあると思う。
たとえば結羅が飛天に恋して、その飛天はかごめが好きだった、みたいな展開だったらどうだろう。
かごめに嫉妬して自己嫌悪に陥る結羅なんて想像できるだろうか。
邪魔者は消せとばかりにかごめを襲い、悩みも苦しみもなかったと思う。

ビジュアル面に心を砕くようになって妖怪の魅力も増したが、やがて妖怪も妖怪なりに心を持ち始める。
「心」の問題もより強く打ち出されるようになり、半妖奈落が登場する。
こうして読み返してみると、物語が進む中で、妖怪と人間が少しずつ融合されていくことに気づく。
見た目や力が妖怪なだけで、内面的にはほとんど人間と言ってもおかしくない存在。

よって敵キャラ脇キャラにも共感できるようになり、物語も深みを増した。
逆に作者の視線が限りなく人間側から見たものになってしまうという副作用も出た。
気づかれた方もいらしたけど、実はこの視線もまた私の「小さな不満」のひとつだった。

ところで私はアニメ「犬夜叉」に出会うまで、こういった趣味の世界と言えばいいのか、そういうものとは無縁だった。
好きな作品(映画や小説や漫画や)はあっても感想を日記に書いたり友達と話す程度で、パソコンもメールや必要があっての検索くらいだった。
それが「犬夜叉」のおかげでファンサイトの存在を知り、家にいながらにしてたくさんの感想を読めるようになったが、原作初期の感想はあまり見当たらない。
「犬夜叉」が始まった頃はまだパソコン上でのファンサイトが一般的でない時期だったのだろうか。

それまでは印刷されたいわゆる「同人誌」が中心の時代だったのかな?
調べようのないことだけど、原作初期からアニメ開始までの間が同人誌からネットのファンサイトへの過渡期だったのだろうか。
アニメが出た頃はすでにたくさんのファンサイトがあって、回りきれないほどだったけど、今では閉鎖されたサイトさんも多い。
連載の終わりも寂しかったけれど、いつの間にか閉鎖されたサイトさんを見つけてしまった時もとても寂しい。

同人誌のように手元に残ることもなく、あっさりと管理人さんの想い全てが消えてしまうことが一番寂しい。
(2008年12月23日の日記)
2008年の終わりに
今年も残すところわずかとなってしまいました。
私にとって、というより当サイトにとって今年一番大きな出来事はやはり「犬夜叉」連載終了でしょう。
いつか終わるものとわかってはいても、実際「最終話」の文字を見た時は大きなショックを受けたし、しばらく腑抜けになりました。
本当は12年も続いてくれたことを喜ぶべきなのかもしれないのだけれど。

未だに「犬夜叉」という作品にしがみついて感想だの考察だのしてるけど、間違いなく私の中でも「犬夜叉」は完結しています。
書く必要のないことを未だに書いてる自分が何なのかよくわかりません。
未練、なのかもしれません。
来年はどうなるのか、それもわからないけどその寂しさを一時的にしろ吹き飛ばしてくれたのが「高橋留美子展」でした。

何日通ったんだっけ。
特に最終話の生原稿(鉛筆描きの部分)を見たくて、そして原画やグッズに群がるファンの熱気を感じたくて通いました。
すごかったのは「うる星やつら」連載当時の読者の薀蓄やら思い出話やら。
すました雰囲気の銀座松屋の中で、この中だけが一種別世界で本当に楽しかったです。

現在仙台市で開催中ですね。
仙台は無理ですが、新潟はできたら見に行きたいなあと思ってます。
以前犬夜叉バス見に新潟に行きましたが、高橋先生の実家のあたりなどゆっくり歩いてみたいです。
時間が取れたらいいなあ。

「犬夜叉」以外では何といっても小野不由美著「丕緒の鳥」が出たことです。
「十二国記」シリーズ6年半ぶりの新作ということでしたが、私が「十二国記」に出会った時は、もう全部出揃っていたので、私としては5年ぶりくらいになるのかな?
短いけれど心に残る珠玉の作品でした。
欲を言えばもっとおなじみのキャラたちにも出て欲しかった。

もっともっと「十二国記」を書いて欲しいです。

ゲームも今年は当たり年でした(笑)。
去年12月に出た「戦国BASARA2英雄外伝(HEROES)」、ダンテが渋い「デビル・メイ・クライ4」、そしてまさか続編が出るとは夢にも思わなかった「無双OROCHI 魔王再臨」。
残念ながら「真・三国無双5」は期待はずれでしたが・・・。

オフでは上橋菜穂子、内田康夫両氏のサイン会に参加できたことが嬉しかったです。
サインや写真ももちろんですが、実際に作品を生み出す作家の話が聞けて、自分の感想を直接伝えることができる。
こんな幸せなことってありませんよね。
いろいろ大変なこともあったけど、思い返してみればいい年だったんじゃないかと思います。
皆さんにとってはどんな年でしたか?

来年はまずは高橋先生の新作が出て欲しいです。
当サイトもどんな風に変化していくかわかりませんが、来年もどうかよろしくお願いします。
(2008年12月28日の日記)
姑獲鳥と無女、鬼子母神
★京極夏彦著「姑獲鳥の夏」に部分的に触れていますがネタバレではありません。

無女編(殺生丸初登場編)を読んだ時、似たイメージで頭に浮かんだのは鬼子母神だったが、その後京極夏彦著「姑獲鳥の夏」を読んで、むしろ姑獲鳥に似てるんだ、と思った。

語り手関口巽は、京極堂こと中禅寺秋彦宅で座卓の上に置かれた「百鬼夜行」に気づく。
そこには赤ん坊を抱いた女の絵が描かれてあった。

          ☆          ☆          ☆

女は、片手を頬に当てて、もう片方の手でそれ程大事そうにでもなく赤ん坊を抱えている。これからこちらに渡そうとでもしているようである。
女の表情は暗い。しかし辛い、悲しい、恨めしいといったものでもない。
困った、という顔つきである。
恨めしい顔つきだったら、相当に怖い。しかし困っているようなので怖いというより、
忌まわしかった。
絵には「姑獲鳥」と記してあった。

          ―(中略)―

「うぶめというのは確かお産で亡くなった人の幽霊だったね」
「いや、幽霊とは違うよ。これは<お産で死んだ女の無念>という概念を形にしたものだ。」
          ☆          ☆          ☆

無女は子を失った母の無念、姑獲鳥はお産で亡くなった女性の無念であり、綿密に言えば異なるが、激情的な「神」鬼子母神よりは姑獲鳥の方が「無念」そのやるせなさという意味で無女に近いと思う。

ところがこの後、鬼子母神もまた「姑獲鳥の夏」に登場する。
以前も書いたが、鬼子母神は人の子を攫っては喰らってしまう神。
子を奪われた親の無念を知らしめるために、釈迦は鬼子母神の子を一人隠してしまう。
狂ったように子を捜し求める鬼子母神はそこで初めて子を奪われた母の苦しみを知り、以後は子を守る神として祀られるようになった。

その鬼子母神がある雑司が谷の産院が「姑獲鳥の夏」の舞台。
池袋から歩いていける距離と最近知って、京極日和と私が名づけた降らず晴れずの陰鬱な曇りの午後、池袋に買い物のついでに足を伸ばした。
いかにも賑やかな池袋駅前を抜けると一転セピア色、というより茶色いいかにも下町な雰囲気の商店街が見えてくる。
雑司が谷散歩地図や手描きのマップ、和風な小物があちこちに置かれてあってやはり鬼子母神のある入谷と似た感じ。

そして鬼子母神は鬱蒼と茂るケヤキ並木や見事なイチョウの大木の奥にひっそりとあった。
あくまで明るく新しい入谷の鬼子母神に比べ、まあ暗く古い鬼子母神なのだが、私はこちらの方が断然好きだ。
そして見上げると鳥肌が立つほどの石榴の絵馬が薄暗い鬼子母神堂の中に「みっしりと」かけられている。
他の神社に比べて鮮やかな石榴の赤が暗い堂の中に浮き上がっている図はむしろ不気味でこの時も怖気づいた(笑)。

そんな日をあえて選んだ私が悪いのだが・・・。
そのせいか鬼子母神周りの商店街も入谷に比べて静かなひなびた印象を受ける。
このままどこまでも歩いて行くと壊れかけた産院があるのだろうか。
今にも折れてしまいそうな細い首の、屍体のような青白い顔の、この世の者ではないような、久遠寺涼子が佇んでいるだろうか。

鬼子母神自身はともかく無女や姑獲鳥や久遠寺の娘のような儚く、寂しく、辛く、そして哀れな魂が佇むにはあまりにふさわしい場所だった。
高橋先生が無女を生み出すにあたって、鬼子母神を参考にしたとは当時も思わなかったが、もしかしたら「姑獲鳥の夏」は読まれていたかもしれないな、とふと思った。
ちなみに「姑獲鳥の夏」が出版(1994年)されてから3年後に「犬夜叉」に無女が登場する(1997年)。

って今から12年前、そんな昔になるのか。
その頃私はといえば、もちろん「犬夜叉」の存在など知らず、昼は仕事に明け暮れ、夜は12時前にうちに帰ったことがないような・・・。

帰りに細いわき道に入って歩いていたら、薄暗く翳ったあるお宅の庭に石榴がなっているのを見つけた。
薄暗がりの中でその鮮やかさがなぜかおぞましく、ずいぶん「姑獲鳥の夏」に感化されている自分を感じた。
もっとも後日、眩しいばかりの陽射しの中再訪した雑司が谷鬼子母神は陰気でもなんでもなく、石榴の絵札もただ可愛いだけだった。

★ちょっとピンボケ「鬼子母神」と怖気づいてしまった「石榴」。
(2009年1月14日の日記)
「季刊エス」より高橋先生インタビュー
高橋先生の「犬夜叉」完結記念インタビューが掲載されている「季刊エス」を買って来ました。
なんとなく読み物系の雑誌だろうと(小説新潮みたいなサイズの)を想像して何軒かの本屋さんをうろうろしたものの見つからず。
なんと「入るのがちょっと恥ずかしい」お店の「手に取るのがちょっと恥ずかしい」コーナーに「買うのがちょっと恥ずかしい」表紙をどどーんと見せて置いてありました。
しかもでかい、値段が高い(1,200円)。

ぱらっとめくればイラストだらけ、ってこれなに?
いわゆる「漫画・イラスト・アニメ・ゲーム(ストーリー&キャラクター)表現の総合雑誌」だそうです。
なんというか、高橋先生のインタビューが激しく浮いてました。
なぜこの雑誌にインタビューが掲載されたのか激しく謎です。

さて本題。
インタビューと言っても筆記の25問25答であっさり少なめ。
特集ページの表紙は意外や意外、カラーで犬夜叉、殺生丸、鋼牙、桔梗、奈落、鬼蜘蛛、神楽&神無の揃い踏み。
こういう時って犬夜叉一行が普通なのでとっても新鮮で嬉しいです、特に鋼牙!

インタビュー以外の各キャラの紹介に紙面を大きく使っていて、たとえば犬夜叉だと原作の名場面、迷場面から16カット、プロフィール、能力、そして「揺れる気持ち」と題して恋に関する記事が掲載されています。
かごめを抱きしめる場面、「かごめにそばにいてほしい・・・」と告白する場面、桔梗を抱きしめる場面、鋼牙と喧嘩などなど。
このカットの選択があまりに王道で、うん、私だったらもうちょっと別のカット選ぶかなって感じです。
わりと前半部分のカットに集中してるし。

ただしこれぞお宝なのが30ページから31ページにかけての「ネーム公開」。
「高橋留美子展」でも紹介されていた最終話「明日」の下書き原稿ですね。
1枚は表紙の犬夜叉一行が鳥たちを見ている場面(高橋留美子展でも飾ってあったもの)。
もう1枚が高校を卒業したかごめが回想する場面。

そして最後に犬夜叉一行、殺生丸一行、奈落ファミリー+蛮骨が揃ったカラー。
妖怪紹介では懐かしの九十九の蝦蟇や地念児、桃果人なども登場します。

さて、ここからインタビューに入ります。
特に印象的だったのが結末はどの段階で決まったかの質問に対し、

「一番の課題はヒロインのかごめを最終的に過去と現代どちらに行かせるかという事で、アニメが終わった2004年ごろからずっと迷っていました。」とのこと。
結局最終話のネームを描き出す時点で決めたのだとか。
どちらを選んでも「別れ」は避けられないけれど、かごめの幸せと読後感を意識したようです。

高橋先生が特に思い入れの深いエピソードは、

・18巻のかごめが犬夜叉への想いに気づくところ。
・11巻の弥勒の風穴が裂ける話。
・七人隊の一連の話
・神楽や桔梗の死も寂しかったけど思い入れはある。
・そして最終話。
とのことでした。

思い入れのあるキャラは桔梗、弥勒、殺生丸、そして蛇骨で、その理由も説明してます。
全作品の中では「うる星やつら」の竜之介、らんまの良牙が好きとか、鋼牙は?

また気になる次回作に関してはストックなしで考え中だそう・・・。
他にも舞台が日本である理由、登場キャラが「ちょっと変わっている」理由、少年漫画、そして漫画を描くことに対する想い、使用している画材などについて語られています。
全体的に「読ませる」より「見せる」方に力が入ってインタビューがおまけになっちゃってる気がなきにしもあらずですが、それでも一読の価値はあり。
書店に行ったら「アニメージュ」とか「声優グランプリ」そんなのが並んでるコーナーを探しましょう(笑)。
(2009年1月16日の日記)
京極夏彦氏「犬夜叉」を(ちょっとだけ)語る
と言っても1999年(平成11年)のこと。
平成11年に作家の京極夏彦氏を始めとした妖怪界の巨匠、大御所、御大が集まって妖怪について大いに語ったそうだ。
それが2001年(平成13年)に「妖怪馬鹿」という書名で刊行されたそうだ。
その復刻版が「完全復刻・妖怪馬鹿 (新潮文庫)」の書名で2008年(平成20年)刊行、私が書店で手に取ることと相成った。

京極作品は好きだがこれまで「京極堂」シリーズと「巷説百物語」シリーズしか読んでなかった。
最近他作品もあれこれ読み始めた中の1冊だが難しいけど読んでて楽しい、もののけ好きにはたまらない1冊となっている。
その中で京極氏が「犬夜叉」についてちょっとだけ触れているのだ、これは嬉しい発見だった。

1999年と言えばサンデー(原作)だと神無初登場の小春編のあたりまで。
アニメはまだやっていなかったので京極氏は原作を読んでいたことになる。
と思ったら京極氏は

「『犬夜叉』はテレビ化しましたね。
高橋(留美子)さんの造形する妖怪はいいですよ。
面白い形の妖怪が出てくる。」

とのたまうている。 2000年=翌年10月16日に放映開始したアニメ「犬夜叉」のことを1999年の対談で京極氏が語っているのだ、とっても不思議(笑)。
う〜ん、新潮社さんに聞いてみたいぞ。

それはともかく「面白い形の妖怪」、犬夜叉や鋼牙、殺生丸のことではあるまい。
百足上臈か屍舞烏か無女か邪見か、いずれにしろ人間型の妖怪ではあるまい。
「うしおととら」とか「地獄先生ぬ〜べ〜」とか他の妖怪登場作品と一緒にさらりと流されてしまったのが悔しくてたまらない。

その高橋先生は去年の7月に読売新聞に掲載された「高橋留美子展〜 It's a Rumic World〜 高橋留美子さんインタビュー」で

「あと作家で好きなのは、京極夏彦さんですね」とラブコールを送っている。
いつかお二人のもののけ対談を是非やって欲しい!

ところで同書でこんな会話も出て来ている。

多田克己氏
「平安時代には妖怪という言葉は使わなかった、ですね。」

京極氏
「平安時代には怨霊もいたし、鬼もいました。
あるいは物の怪みたいな概念が出はじめている。
だけど、それ=妖怪かといえば、それは『妖怪の素』にすぎないじゃないですか。」

「犬夜叉」では平安時代の犬夜叉に関してはあまり詳しく触れていないが、当時犬夜叉は「半妖」ではなく「物の怪の息子」と呼ばれていたのかもしれないななどと考えるのもまた楽しい。
もちろんこの本で京極氏たちが語っている「この世界の妖怪」と犬夜叉たち「犬夜叉世界の妖怪」とはそもそもの概念が違うことは承知の上だけど。

さて、「犬夜叉」とは関係ないがもうひとつ面白い話題があった。
京極氏が携帯電話を「携帯」と短縮して呼ぶことをひどく怒っている。
なんでも短縮して呼びたがる昨今の風潮を怒っているのかと思ったらそうではなく、「携電」ならいいのだと(笑)。
「携帯」は電話のことでもなんでもなく「携帯すること=持ち歩くこと」であって電話の意味が消えていると。

「言葉」に拘る京極氏らしい発言でそうだなあ、さすがだなあと感心しつつも涙が出るほど笑ってしまった。
さらにこの本には京極氏の描く様々な漫画のパロディ?が掲載されていてそのうまさにもびっくり。
つくづく器用な方なんだなあと思った。
特に金田一少年まで豆腐小僧のコスプレ?で登場、失礼ながら本家よりうまいのでは?などと思ってしまった。

最初に「もののけ好きにはたまらない1冊」と書いたが、特にもののけ好きじゃなくても楽しめる本だと思う。
これほど妖怪にのめり込み、追求し、調べて語り、「京極堂」の登場人物がそのまま出てきて語っているようなそのおもしろさ、その語り口。
本当におもしろかった。
(2009年2月13日の日記)
コミック最終56巻と「犬夜叉とかごめ」
最初に今週のサンデー(2009年12号)に久しぶりに「犬夜叉」がカラーで登場した。
と言っても書き下ろしでもなんでもなく、今日発売のコミック56巻と「犬夜叉とかごめ」の宣伝に過ぎないのだけど、なんだかじんわり懐かしかった。

まずは56巻だけど感想は「最後の感想」で書き尽くしたように思う。
確かに解けない謎や小さな不満は残っているけれど、最終話の圧倒的な感動の前には書くだけ野暮というものだろう。
って実際書いてみてつくづく思った。

ただ表紙の幸せそうに空を見上げている犬夜叉とセーラー服姿のかごめと、裏表紙の犬夜叉と巫女装束のかごめの後姿の対比が嬉しく切なくて、ここでもじんわりしてしまった。
この2枚のカットだけで、「犬夜叉」の始まりから終わりまでが見事に表現された。
正直言って本「犬夜叉とかごめ」よりこの2枚のカットが2人の恋の軌跡の全てを表していると思う。

同時に飛び立つ白い鳩の群れに、「レッドクリフPartI」を思い出して、そういえば高橋先生も「三国志」ファンだったなと(笑)。
(以前サンデーで赤壁の戦いについて語っていた。)
ジョン・ウー映画の象徴とも言える白い鳩がここでもパタパタ、なんだか嬉しい。

さて問題は「犬夜叉とかごめ」。
「大長編戦国お伽草子完結記念!!」で「2人の名場面が詰まった恋の傑作選!!」とか。
京極夏彦レンガ本もかなわぬぶ厚さで900円!

不思議なのは犬夜叉とかごめの出会いの部分がなく、最後も最終話の部分がないこと。
第67話「ふたつの時」に始まり第494話「ふたつの世界」で終わる、その間からのダイジェスト版となっていると。
「ふたつの時」はかごめが殺生丸のために負傷し(そんな時期もあったね)、これ以上かごめを巻き込みたくないと犬夜叉がかごめを現代に返してしまう。
かごめは骨喰いの井戸から戦国時代に戻れない、そのエピソード。
今後(おそらく)見ることはないだろうブルマー姿の高橋キャラ(かごめ)やこれも懐かしい北条くんの魅力満載のエピソード。

そして「ふたつの世界」はもちろん

「この時私はまだ、ふたつの世界のどちらかを選ぶ日が来るとは思っていなかった。」

のインパクトの大きかった台詞で終わる現代物のサイドストーリー。

前半部分あらすじは別書きにしてあるので、「ふたつ」をキーワードに選んでみたかとも思ったが、それにしてもこれ以上厚くすると本が分解してしまうため、やむなく前半部分を断ち切ったかとか、後半部分は最終巻を買って読んでねの商売上手かとか、いろいろ考えてしまう(笑)。
もちろん「出会った場所」や「心の闇」、ちょっぴり恐怖な「梓山」など恋に関するターニングポイントはきっちり網羅してあるし、鋼牙との、桔梗との、そして奈落との絡みもきちんと押さえてあるので、連載終了の虚脱感もある程度薄れたこの時期、懐かしく読み返すにはいいだろう。

実際鋼牙のおかげで出てこれた極楽鳥とか、やってることはえげつなかったが、キャラとしての印象自体はまことに薄い花皇とか、アニメ「黒い鉄砕牙」で声を披露した夢幻の白夜などが出てくるのも楽しい。
それでもなお、何故この本をわざわざ出す必要があったんだろうと思う。

この本で「犬夜叉」に入ろうと思った人には前述の通り前半部分と最終部分がないので中途半端だろう。
私自身は全てのキャラと全てのエピソード(たとえ余計な枝道回り道に思えたものであっても)が揃ってこその「犬夜叉」だと思う。
だからこの本買ったけど、おそらくもう読み返すことはないだろう。
犬夜叉とかごめに思い入れの強い読者が、2人の恋の軌跡を真摯に辿るための本、とでも位置づけようか。

話はそれるが、先日アニメの「あの世との境に異様な門番」を見直した。
特別なストーリーでもないのに、とても綺麗に丁寧に作られていて好きなエピソード。

本編に入る前に冒頭現代の日暮神社の御神木のそばに立つかごめの回想シーンが入る。
ブヨを探して骨喰いの井戸のある祠に入るかごめ、突然現れた百足上臈に連れ去られるかごめ、そして戦国時代で犬夜叉に出会うかごめ、蘇った犬夜叉が百足上臈瞬殺など。
そこへ迎えに来た犬夜叉と共にかごめは井戸に飛び込む。

「犬夜叉」が完結した後で見るとこのシーンがしみじみ良くて、この回想部分を録画したDVDを犬夜叉とかごめの結婚式にプレゼントして流して欲しいと思ったくらい。
「あたしと犬夜叉の想い出 出会いから今日まで」とかなんとかタイトルくっつけて。
まあこれもまた今回紹介した本に通じるが、そこでふと「何故最終回でかごめは戦国時代『だけ』で生きることになったのか」と思った。

たとえば映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はSFの厳しいルールに縛られた映画だった。
けれど「犬夜叉」はタイムパラドックスや現代におけるかごめ不在や、肉づきの面、タタリモッケ編などの社会における影響は全く無視。
かごめが戦国時代にタイムスリップし、四魂のかけらを砕いたことで、殺生丸や邪見、神楽や奈落や七人隊、その他登場するゲスト妖怪に殺された人々の子孫が現代で消えていたら大変なことになるだろうし。
「犬夜叉」はタイムパラドックスなどのSFのルールに縛られない自由度の高い作品だった。

それに高橋先生は「炎トリッパー」でSFのルールに乗っ取ったストーリを描き、主人公の少女に戦国時代を選ばせている。
私も原作が終わるまでは、いえ終わってからもしばらくはかごめはどちらかの世界を選ぶ「べき」と思っていたが、これらのことを踏まえると、かごめはSFの枷に縛られる必要はなかったのではないかと思うようになった。
奈落を倒して、四魂の玉が消滅してもなお、現代と戦国時代を自由に行き来し、現代でもうまく生活をこなし、戦国時代では犬夜叉と幸せに暮らす。

「炎トリッパー」を描いた後の「犬夜叉」だから、案外それもありだったのではないかと思う。
高橋先生が最後の最後までかごめの結末を決め切れなかったのは、案外そんなところに原因があったりして。
そして結局かごめが戦国時代を選び、現代に決別する結果となったのは、ひとえに高橋先生の良識の賜物だったのだろう。
そしてかごめが現代を選ぶよりも、ふたつの時代を行き来するよりも、一番感動的な結末となったのだと思う。
(2009年2月18日の日記)

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